みやま市山川町は、福岡県の南端部に位置し、人口は昭和30年には10,802人だったが、現在は4,900人位(平成24年)で年々減少している(, )東西3.1km・南8.5km、面積26.38k㎡で、東方一帯は山峰を隔てて八女郡立花町及び熊本県玉名郡和水町(なごみまち)、西はみやま市高田町及び大牟田市四箇(しけ)、北はみやま市瀬高町、南は熊本県玉名郡南関町と接している。地勢は、北西から標高50mまでの平坦部、50m〜100mまでの丘陵台地、100m以上の山間部からなり(, )東部が山間地で西へなだらかに傾斜し4月は秘境“平家谷”に咲き誇る「平家五大山桜」、5月初旬は3cm程の白い5花弁のみかんの花の景観に優れている(, )標高405mの御牧山はみやま市で最高峰で東に彦山を眺め、東南遠くに煙はく阿蘇の山姿に接し、北方に背振(せぶり)山脈に対し有明海を隔て紫雲のかなたに雲仙岳を望む360度のパノラマ展望台として人気がある。気象状況は内陸性気候と有明海気候で細分され(,)平均気温16℃〜17℃、年間平均降1700mm〜1800mmで温暖適湿な気候である(.)山川町のみかん栽培は明治30年頃から始まっているが、大正14年に新品種「宮川早生(わせ)」の育成に成功し、昭和の初期まで一時みかん園の造成が進んだが、太平洋戦争と共に衰微していた。昭和34年からみかん農業が盛んになり一時ミカン園は760ha余にも及んだ(,)しかし、現在では生産調整や後継者不足で果樹園地は約600ha位に減少したが、新品種「北原早生」発見の明るい話題もある。9月下旬から12月初旬の山を黄色の斑点(はんてん)で飾る収穫期には「みかん狩り」に訪れる人も多い。平坦部は米麦作に適した農村地帯であるが後継者が育たない現状である(, )交通状態は、国道443号が町の西部を縦断しているが、交通量が多く事故防止の為にさらに西の台地にバイパスが建設されている。瀬高駅 ~真弓橋(まゆみばし)間は、みやま市福祉バスが運航されJR・瀬高駅まで4kmである。また、九州自動車道が国道に添って縦貫し、みやま栁川インターは河原内(かわはらうち)の北にあり中央部(立山(たちやま))にパーキングエリアが設置され(, )熊本・福岡空港(産交バス)及び大牟田荒尾・福岡空港(西鉄バス)を結ぶバス停があり、福岡・熊本それぞれ約1時間で結ばれる(.)

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 山川町は、古くは邪馬台国ゆかりの地とされ、古代遺跡が数多くあり、研究課題豊富な所です。また平安末期の壇ノ浦の戦い後に平家の残党が源氏の追討軍を要川(かなめがわ)(飯江川)にて迎え討った伝説。南北朝時代では懐良(かねなが)親王征西(せいせい)将軍として九州に派遣され、家臣の真弓廣有が松風の関に布陣し真弓(まゆみ)に住んだ伝承、そして中原(なかばる)には萬里小路藤房(藤原藤房)の伝承が残されているのも、肥後国とを結ぶ重要な街道があったゆえであろう(, )
 豊臣・徳川時代
には、柳川(筑後)藩に属しており( ,)参勤交代の街道筋(薩摩街道)として原町には道中大名の休憩所や馬役所が設けられ、宿場町として栄えました。また御牧山に柳川藩主立花鑑虎(あきとら)公が牧場を創設し( ,,)軍馬農馬の育成所となった。当町一帯の山野(佐野山・蒲池山)は柳川藩の御用林として御山方が支配した。「旧柳川藩志」によれば、樹木の下葉(さら)えは所属の村落が受け持ち、下葉は無償で下げ渡したが、伐採(ばっさい)・山出しなどの人夫は、公役として庄屋を通じ、村から徴発したという。山林を背後に控えた当町は、上妻郡(こうずまぐん)山地の谷川組と並んで山筒組の生活基盤であった。竹井組山筒隊は40人からなり(, )平時には農耕・狩猟に従事し、非常の際には、そのまま鉄砲隊に編成され国境警備として活躍する。これを統率していたのは矢部(八女郡矢部村)在住の五条氏であった( )また、山川に柳川藩主家立花家の菩提寺の黄檗宗(おうばくしゅう)福厳寺(ふくごんじ)の末寺や立花家が創建してあげた祇園守紋を掲げた神社が多いのは(, )国境の警備と情報伝達を兼ねた、村民の藩に対する忠義心を狙ったものと思える。藩政時代では山川町の領域は竹井組(たけいぐみ)に属していた。当時の政治の組織としては藩内の村々を9組に分け、各々の組の政治を行い、大庄屋の支配下にあった(.)
 
藩政末期
、当時の山川町が含まれた竹井組の村は25ヶ村があり、即ち(大木村・松延村・北広田・藤尾村(ふじのおむら)・堤村・朝日村・草場村(くさばむら)・大塚村女山・本吉村・河原内村蒲池山南広田(現・西清水)在力村(現・東清水)中尾村野町村立山村(たちやまむら)原町村佐野村中原村小萩村三峰村北関村(きたのせきむら)真弓村飯尾村(いいのおむら)竹井村(たけのいむら)飯江村(はえむら)であった。
 明治4年7月
に藩を廃して柳河県となり、柳川城内を布政所(ふせいしょ)とした( )さらに明治4年11月に筑後一円の10郡を合わせて三潴県と改められ、次は明治9年8月に福岡県に合併され(, )町村合併では中原村+佐野村=甲田村(こうだむら)・小萩村+三峰村=重冨村(しげとみむら)・野町+中尾村=尾野村(おのむら)・在力村+南広田=清水村(しみずむら)・南海津+北海津村=海津村(かいつむら)である( )
 
明治18年(1885)旧薩摩街道(現・国道443号)は軍隊の熊本までの輸送道路として道幅を拡張(かくちょう)し直線化の整備建設され、現在街道の面影を残すのは道筋から外れた清水の面ノ坂と要川公園と松風の関跡付近のみとなった(.) 

明治21年3月
の町村合併で尾野村・立山村・原町→富原村(とみはらむら)
(役場は尾野村野町)、清水村・河原内村・大広園村・松田村→緑村(みどりむら)(役場は松田村小島)、甲田村・重冨村・北関村・真弓村→万里小路村(まてのこうじむら)(役場は重冨村物見塚)、竹飯村・海津村・→竹海村(ちっかいむら)(役場は竹飯村中村)となる。明治40年1月1日、万里小路村、富原村、竹海村及び緑村(その内河原内村と清水村野のみ)(松田村と大広園村は瀬高町に編入)が合併し山川村を設置した(.)

大正10年(1921)
東肥鉄道が矢部川駅朝日(仮)~本吉(もとよし) 野町駅 ちくご原町駅北関(きたのせき)外目(ほかめ)南関(なんかん)の13.6kmを営業開始。矢部川駅とは現在のJR瀬高駅で、清水小学校付近に本吉駅、山川の野町駅は庄山博氏宅付近にあり(.)筑後原町駅は沖謙二氏宅付近に設置された。当時唯一の交通機関として利用されたが利用客が増えず、昭和13年に廃止された( )3年後に国鉄バス山鹿線(鹿児島本線豊肥本線を結ぶ鉄道連絡線)が運行された(, )
 
昭和34年4月10日
、山門郡山川村と三池郡高田町との境界変更に伴い、竹飯、飯尾、海津が高田町へ分村した(, )昭和44年4月に町制を実施し、平成19年(2007)に高田町・瀬高町・山川町が合併してみやま市が誕生しました(, )

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 明治の初期、三潴県の時代に製作された、江戸時代の姿を残す「山門郡の測量図」を元に山川町の大字ごとに伝承された歴史を収集・研究して編集いたしました。
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 ①古地図に見る河原内の歴史 ②古地図に見る清水村の歴史   ③古地図に見る尾野の歴史 ④古地図に見る立山の歴史   ⑤古地図に見る原町村の歴史
⑥古地図に見る甲田の歴史   ⑦古地図に見る重冨の歴史  ⑧古地図に見る北関の歴史  ⑨古地図に見る真弓の歴史 地域をクイック 
古地図に見る海津の歴史  古地図に見る竹井の歴史 古地図に見る飯江の歴史    
 
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