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柳河町西部の寺院 ☞古地図に見る柳河町の歴史(東部編) |
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日切地蔵(柳川藩処刑場跡) 三橋町柳川字差入(旧・佐賀線柳河駅そば) |
藩政時代の柳川藩の処刑場であった。処刑された人の冥福を祈るための供養碑が多く建てられ、なかでも享保12年(1727)に柳川・西魚町の良清寺(浄土宗)第9世の頓譽円空による日切地蔵や享和3年(1803)に柳川・西魚町の台照院(日蓮宗)の玄収院日純による宝塔が知られている。宝塔の両面には、罪を犯し救われない人達がいても、1度法華経を聞けば悟りが開け成仏出来るとし、法華経の功徳を説き大乗妙典(法華経)を書写し奉納しています。すべての人々の成仏を信じ、藩主の武運と日本国の安全、五穀豊穣、悪霊の退散などの願いが書かれている。なお、処刑された人々の首は、東方、久留米街道沿いにある地蔵堂の所で晒されたと言う。(三橋町教育委員会案内板より) |

日切地蔵 |

ヒゲ題目の南無妙法蓮華経の宝塔 |
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【本船津町】 |
この町は外町と同様、新船津町と共に、柳川城郭内の外、捨曲輪内にある町屋である。明證図会に「本船津町 井手橋外東西の通り 前の川は汐入りにて諸国の船ここに集まる」とある。船津町は回船の津(船着場)の町で、前方は荷揚げの浜だったから片側だけの家並みであった。船津は上流の明王院隅河港や、対岸の材木町・蟹町の忙しさに触発されて開港された。対岸の材木町が主として藩内や近隣諸藩と御城下との生鮮食料品を初め日用雑貨を扱ったのに対し、船津町は米や線香・蝋・菜種油などの藩内物産を長崎・博多・大阪などに移出し、相手先から藩内に生産されない必需品や船載物などの珍品を移入した。以前は枝光村であったが官道肥州街道が通り、拓けて枝光村から分離して柳河町に加わった。享保年間以来明治3年まで船津町と言ったが、明治4年から本船津町となった。対岸の材木町と同じく恵美須神社を祀ってある。昭和の車時代の到来で船津港に小舟1隻も見えない。。明治17年、30戸・177人。昭和60年、31世帯・118人。
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恵美須社 本船津町 |
柳川藩志には祭神、少年遅尊、例祭は9月2日。村誌に小社、社地東西4間、南北3間、面積12坪とある。大門橋の改築に従い本尊は日吉神社に預けられています。橋の完成後に、石組みを元のように組直し、新たな神殿を造り御神体を日吉神社より遷宮される予定です。
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【新船津町】 |
明證図会に「新船津町 西東の通り両側町なり 西の行詰に門あり北へまがり番所あり 小保通り肥前への道なり 番所の西に柳川井樋といふあり 往古は本船津と新船津の境にあり 今問屋の居宅なりしといふ」とある。享保絵図には「釘貫より枝光口の御番所迄三十五間五尺七寸」釘貫(くぎぬき)とは木戸のこと。番所まで約70m。絵には西の行詰に肥前道から木戸の門がある。鍋島絵図のマタレ口門ですぐそばに番所があった。通りには二つの、かねん手通りを作り、木戸を通ってもすぐに船津町が見通せぬようになっていた。江戸中期には経済活動も活発になり、材木町や本船津の浜だけでは荷を捌けぬようになり、船津町が拡がり新船津町ができた。井樋も邪魔となり埋立られ、新船津の西に移動された。枝光口と新船津の二重の井樋で水量調節していた。享保・寛政絵図に新船津町、明治元年には出来船津町、明治6年に新船津町となった。明治17年、30戸・177人。昭和60年、31世帯・118人(約60人減)。
旧沖端川は矢ケ城橋の上手から西流して枝光村の方へ流れていた。枝光の柳川井樋並石で約120度曲って汐川の江篭となり沖端川に流入する。船津の沖端川も条里制堀に当たるが、秀吉の九州入り前の天正9年~12年頃、鍋島直茂、在城時の柳川城絵図によれば、妙院江篭・信玄土居は条理制横堀の位置にあり汐入りであった。妙院隅で沖端川に直角の横土居で仕切って川北村に繋げ、埋樋を設けて上手に淡水を保持した。のちに仕切りを高畑村の(今の脇参道)の方に移したので磯鳥並石堰まで汐入りとなった。 . |
玉泉寺 真宗大谷派 新船津町27 |
本光寺の隠居地として、枝光村にあり。その後、明治4年に僧蒲地鳳峰が今の地に開祖、創建する。明治7年8月の暴風で大破した為に、僧蒲地智秀が中興する。村誌に面積42坪とある。
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【保加町】・(出橋門) 旧・外町 |
明證図会に「外町 井手の橋の外南北の通り駅舎なり北詰に番所あり中程東の横町を伯楽小路といふ」とある。井手橋門は通称出橋門と呼ばれ柳川城の総郭北口の大手門になり、二層入母屋造りの楼門でした。北側の門内の溜まりには布告法令などが掲示される高札(制札)場が設置されていた。沖端川に架かる出の橋を渡った宿場町の「外町」は城の総郭の外になるという意味の町名です。現在の保加町です。北方面の久留米に延びる柳川街道は藩主田中吉政の時代に造られた道で、別名を田中往還とも呼ばれた。井手橋門から外町口までの街道筋には、旅人の為の「問屋場」の施設がありました。問屋場とは宿場を通行する大名や役人に人足や馬の提供、荷物の積替えなどの引き継ぎ事務を行っていたところです。街道の宿駅間は3里を基準に設けられ、馬子も駅馬も往復6里が適当で馬は乗換えねばならなかった。河岸に馬立(溜・発着所)があり、飼育は横丁の伯楽小路で行っており、柳川駅は53匹の常備が義務であった。旅館は堀回しの警備厳重な矢ケ部町にあった。旅客の安全が第一責任だったので、出橋門内、瀬高門内にもあった。西方面の肥前(佐賀)に延びる街道は肥前から柳川~三池~岩本番所を通り、肥後(熊本)に行けることから肥後街道と呼ばれた。沖端川の川沿いには船着場があり荷役や物資の運送・取引で賑わって、この辺りを「本船津」「新船津」と港を意味する町名で呼ばれた。城下町柳河町の北の外れの太田川沿いの柳川街道に「外町口番所」が同じく肥後街道には「枝光番所」が設けられ旅人の検問が行われた。明治17年、67戸・382人。昭和60年、56世帯、221人。 |
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旧・出の橋
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平成28年・出の橋は掛替工事中 |

保加町 |
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天満神社 外町 |
菅原道真公を主祭神とする神社。当社の由来は不明の為に調査予定中。ご存知の方はお知らせください。 |
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【材木町・田町】 |
出橋の勢屯りの枡形から急に狭い道になって、上町裏通り(明尊寺通り)からが井出の橋内河岸の通りの材木町で、川に沿って西に210m余、一筋街に材木問屋が並び材木の積み揚げが行われた町です。今は1軒もない。古老のよると、日田の木材は筏に組んで筑後川を下し、引潮で1度有明海に出し、潮待ちして沖端川を遡上して個人所有別の浜に揚げた。矢部村の材木は矢部川を下し沖端川を下り、浜で揚げたという。浜には仲仕小屋があり、味噌醤油などの積込に従った。その他の扱い品目には、芋・薪・木炭・鰯の掟・粕(しめかす)・大豆の〆粕などがあった。材木町は明治17年、32戸・167人。昭和60年、28世帯・80人。
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西側の田町は川岸には藩の米蔵である「田町御蔵」が7棟あり、この蔵から船で大阪に運んでいました。今は、御蔵跡は水田となっている。沖ノ端の堤防は、もっと北寄りに在ったが、昭和7、8年頃の河川改修で川幅が広くなり、現在の場所に移った。今、葭野になっている川敷(川床)あたりを御蔵浜と言う。改修前の旧堤防上には松並木があった。田町の穀蔵は瀬高、中島の穀蔵と共に長崎・大坂へ輸出する米が多かったので、船の便利がある地が選ばれた。穀蔵には蔵役二人と蔵役の事務を監督する目付が一人いた。長崎の浦五島海岸にも柳川御蔵があった。 川の土手には松並木があり、正段島に続いていた。田町の土手下には西琳寺があり、現在まで継承されて寺があります。柳河に接する田町は一時柳河市街に編入したが、再び鬼童村に編入となっていた。 |
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明尊寺・法輪山 真宗本願寺派 材木町1 |
寺伝によると田中吉政公の家老の石崎若狭は慶長5年(1600)に関ヶ原合戦で戦死したとされる。田中吉政公の没落後も石崎若狭の家族は、矢島家とは縁故あって、この地に留まる。柳川に再封された立花宗茂公は石崎若狭の子を剃髪させと石崎円誓と称させ、寺院を建立してあげて法輪山・明尊寺とする。入仏のの際には宗茂も入寺直々に茶器を配慮したと言う。その時には、寺地を蟹町に浜手まで拝領し、仏供料として白米5石7斗5升を扶助された。しかし寛永8年(1632)10月13日に石崎円誓は当寺から分かれて常盤町にある亡き父の下屋敷だった地を寄付して頂き、西覚寺を開山している。円誓は寛永11年(1634)3月に本山より寺号を受ける。正徳年間(1711)~1716)に7世の住持、了意は法中と争論を起こし、4代藩主の鑑任より出寺を申し付けられる。のちに許されたが、庫裏の再建を申し付けられ国中在廻りを許可された。享保年間(1716~1736)の火災の際に過半を焼失した。その時も国中在廻りを許可され再建されている。さらに外町口で芝居の興行も許可された。安永3年(1774)に11世の義然は表門が蟹町横丁筋南向きにあり、裏門が材木町筋北向きにあり、通り抜けに便利な為に本堂前を諸人が往来していた為に、寺社役に願い出して門が東向きに付け替えたらしい。寛政年間(1789~1801)には、外町火事によって堂・庫裏が焼失ししたが、門徒の布施によって再建した。墓所には沖端の西福寺から高椋家の墓所移っている。天草の豪商・石本平兵衛の四男の柳川支店長である石本寛吾が身受けした当代随一の美人と言われた京都島原の花魁の花扇は柳川の瀬高町(現・京町)で亡くなり、当寺に埋葬されたと言う。豪商・高椋新太郎は石本平兵衛に見出されて豪商になり石本家(松坂屋)の跡を引継いで銀会所創設、維新後は三瀦県庁為替方。醤油の醸造業を営み、また第九十六国立銀行設立、初代頭取となっている。 明尊寺の寺地1反9畝、村誌に寺地19間1尺8寸、面積264坪とある。
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【蟹町】 旧・蟹町、裏町 |

明證図会 |
往古はここの辺まで海で蟹が多くいたので蟹町と呼ばれ、城下での最初の街通りであった。舟運時代の交通体系である。対岸の船津は蟹町の賑いに刺激された抬頭であった。明證図会に「蟹町 南北の通り東の横丁上町へ続く 西の通りを妙経寺道りと云う 麹屋町桂林寺へ行道なり。町の境に石橋あり」とあり、材木町から続く南北の通りで南は西魚屋町である。町は魚の水揚場で、船頭や仲仕などで雑踏し、魚町の問屋が値を決めていたであろう。また主として日常生活用品や呉服問屋が商っていた町でもある。毎年7月9日には「帷子市」が、他国からも売り買いに来て集って、夜が明けるまで、大いに賑わった。帷子とは御殿女中が夏期に着用した裏地なしの着物のことです。柳河での最初の中心的繁華街であったが、次第に東側の上町・中町・辻町の通りに移って行った。鍋島絵図には妙経寺道に、魚町・八百屋町と記入してある。当時はこの道が魚と野菜を商い、のちに城下の拡大に伴い今の西魚屋町と八百屋町に移ったと思われる。蟹町には、筑前立花城から柳川入国に際し、お供して来た石工集団の長たる江口氏は藩主から安能の姓を拝領し、ここに住み、また藩主や御家中への、お出入の左官たる木下氏(現・古賀性)も住んでいた。享保絵図「カニ町ウラ町」。明治元年、蟹町浦町。明治4年蟹町裏町。裏町は材木町に隣接し、道の南は表通りの上・中・辻町と平行して、八百屋町・宗元町(今は片原町)へと続いていた。明治6年に蟹町・裏町を合併して蟹町となった。明治17年、56戸・295人。(人口に中心街の面影が見える)昭和60年、51世帯・175人。
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恵比須像 |
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玉樹院・崇安寺・龍岳山 浄土宗 蟹町 (田中藩主ゆかりの寺と立花忠茂の正室・玉樹院と立花宗茂の継室長泉院眠る) |
慶長2年(1597)に田中吉政の家老の宮川佐渡が筑後善導寺26代の田誉弁跡和尚を招いて建立した。始めは善導寺の隠居地であった。吉政が筑後を領するときに之に帰依する。慶長7年(1602)3月に宮川佐渡が死去し葬り、当寺の建立に尽力した為に、戒名の心誉崇安大禅定門から崇安寺と称する。慶長11年(1606)に吉政の5男の久留米城番、田中吉信が小姓を手討ちにしようとして、逆に斬られて19歳で死去した(誤って自分の膝を傷つけ撫養生で破傷風になり死亡した説もある)。当寺に葬る。戒名の陽寿院殿龍岳動雲大禅定門から当寺の山号を龍岳山とする。その乳母はこれを悼み墓側に庵を設け尼となり冥福を修む。吉信の墓は三井郡北野町陣屋跡の西方寺にもあり、いずれか一方は追福の墓とみられる。城島城番の家老の宮川讃岐が死亡して当寺に葬る。戒名は宝樹院念了宗護。讃岐没後は宮川十丸が城島城番となる。柳川城主の田中吉政の病死の跡を継いだ四男の田中忠政は父と同じくキリスト教に大きな興味を示して信者を手厚く保護し、家臣の一人がキリシタンを殺害したのを知って激怒しその家臣を即座に処刑したほどであった。元和元年(1615)大阪役の際、財政難にて用銀なく、人数を出すことが出来ず大阪落城後に徳川家康に謝罪せんとするも、その遅参を責められ、ついに筑後の領国を没収され、隠居させられ、元和6年(1621)8月7日に江戸にて、亡くなり神田吉祥寺に葬られた。嗣子(跡取り)なく断絶となり改易された。幕府の禁教令の中でキリスト教を保護したのは珍しく、その件が幕府の不興を買って改易に結びついたとの指摘もある。当寺は追福を修める為に位牌を安置する。
寛永7年(1630)に2代藩主立花忠茂公の正室に玉樹院(永井氏の娘)を娶りましたが4年後に玉樹院を亡くし、4代、乗誉和尚の引導により当寺に葬られた。よって寺を玉樹院と改める。(忠茂は正保3年(1646)仙台藩、2代目伊達忠宗の娘鍋子姫「仙台奥様」を継室にされている。)玉樹院が亡くなってからのちに宗茂公の3番目の正室の長泉院(公家の葉室頼宣の娘)は玉樹院を大変、可愛がっていた縁で寛文10年(1670)に亡くなった時、当寺に葬られています。享保12年(1727)1月の大火事の時に類焼して本堂のみ残り宝物など皆、焼失する。享保17年(1732)には方丈上の廊下、表門など再建する。寺地6反18歩が寄付された。また長泉院から施餓鬼料白米1俵と金一封が寄付される。維新後に皆な没収される。寺内には田中吉信、宮川讃岐、立花忠茂の正室の玉樹院、立花宗茂の3番目の正室の長泉院の墓がある。境内には観音堂・天満宮・一光稲荷大明神がある。 . |
本堂 |

立花忠茂公の正室玉樹院の位牌 |

宗茂公の3番目の側室の長泉院の位牌 |
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本殿 |
観音堂 |

天満宮 |
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妙経寺・法性山 顕本法華宗 蟹町45 |
慶長11年(1606)に吉政の5男の久留米城番、田中吉信が死亡し、乳母はこれを悼み崇安寺の墓側に庵を設け尼となり冥福を修め、法華宗に帰依する。慶長12年に妙経尼安住院権大僧都日就をおいて開山となす。乳母が死亡した後に、この地に葬り寺号を妙経寺とする。玉樹院の敷地を分割して寺地2反2畝27歩を得る。隣の玉樹院はこの替地を田中公より拝領し、久留米に1寺を設け、妙経寺も、その傍に1寺を建てたという。村誌に寺地東西21間、南北38間、面積441坪とある。昭和36年(1961)に県道、橋本蓮-辻町線の新設道路が寺の西側を通り敷地が削られている。
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【糀屋町】 |
明證図会には「麹屋町 南北の通り橋際に鉄砲師往す 角場あり 北へ行き詰材木町なり」と「麹屋町」を使っている。町は藩主の命で糀(を製造したことにより起こった。麹、日本語化して「こうじ」酒・醤油・味噌の醸造に用いる。糀(国字)は米と花(こうじかび)の会意字。藩政時代、農事に専念させる為に、農村に小売店を許可しなかったので、田舎の触売(ふれうり行商)で補わせ、許可品目を定めた。糀・塩・油・綿・鰯・鯵・女冠者・うば貝・シジミの九品目になる。塩売りはフリーパスであった。(久留米市史)。柳川も同じであったろう。塩や糀は自家用の漬物や味噌・醤油作り、その他の必需品であった。明治17年、60戸・353人。昭和60年、121世帯・413人。
町を貫く川筋の道は、西へ米蔵たる田町へ続く。町の通りの東に桂林寺があったが、観音堂1つ残してすべて消滅した。この町の西北の地、田町の西琳寺の門前に堀を隔てて藩の牢屋があった。その牢屋に人がたやすく近づけぬように、禅門塀が廻らせてあった。
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糀屋町の酒屋 |
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桂林寺・金剛山 廃寺 糀屋町 |
元和年間に徳永柏庵が建立。始めは曹洞宗で延宝年間に天叟寺2代潜厳和尚がが矢ヶ部の宗伝寺を今の地に移し、臨済宗妙心寺派に改め天叟寺の末寺となる。旧藩時代では大野島村大日開9反余の葭野の寄付あり。村誌に寺地東西36間、南北18間、面積380坪とある。寺内に十時恰、十時無事老の墓があった。この寺は次第に衰退し天叟寺の持寺となり、同寺は次第に衰微して、天叟寺の持ち寺となり、明治44年には小宇を崩し観音堂のみが存在した今は糀屋町公民館向って左側に桂林堂が在る。
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宗茂公ゆかりの西琳寺・白指山 真宗大谷派 筑紫町117(糀屋町の西隣) |
僧、順正は尾張春日部郡(現・愛知県)の生まれで、先祖からの武士であり長刀の術の達人で故あって僧となる。尾張の西琳寺に住い、24ヶ所の巡礼の旅の途中に長雨の為に奥州棚倉(現・福島県東白川郡棚倉町)に滞留する。ある日、立花宗茂公を訪ね、意気投合してする。宗茂公は棚倉に寺を移すことを進め、順正は承諾する。宗茂公は白指山の山号を書き与え証拠とする。順正は尾張に帰り転寺の準備中に、宗茂公は柳川に再封された為に柳川に来ることになる。元和7年(1621)に外小路に一寺を創建して順正を開山とする。その後、片原町に移築する。元禄年間に英山公が御花畠に隠居家を新築されたが、川向うの西琳寺から朝夕読経の声や鐘の音が聞こえるので、田町の米蔵を西に移した跡地に移らせる。西琳寺の東側には藩の牢屋が在った。西琳寺17代智猛は槍創馬術が得意で家中の武士と打交り勝負を競う。横山覚範、筒井浄明と言う威勢のある者がいたという。明和5年(1768)より蔵米10俵ずつ永代拝領する。宝物には島原の陣に用いた陣太鼓などがある。 |
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【常盤町】(西覚寺小路・鉄砲小路・弓小路) |
柳河明證圖會に「脇通町(出の橋から東への土居の道) 東西の通り松並木の土手下なり 町人以外にも武士や足軽・扶持人たちが住んでいた鷹匠小路(寛政絵図には高上小路とある)・弓小路・鉄砲小路は土手下南にあり。組屋(ママ)舗なり 西覚寺土手下南にあり 西覚寺小路という。」とある。武家の屋敷が10軒ほど、他は足軽の屋敷、御大工が数軒混在していた。沖端・鋤崎土居の防衛態勢である。弓小路の宗氏は、特に宗茂公より「御大工を命ず」と拝領免許の大工さんである。有事には潮川土居・鋤崎土居の防衛に就くべき態勢の小路であった。この四小路は同じ長さの掘割で、各組を均分に屋敷割したのは田中吉政築城の時であろう。明治6年、鷹匠小路が鷹匠町に、他の小路は合併して常盤町と称した。鷹匠町も明治11年に常盤町に合併した。 |
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西覚寺・石崎山 真宗大谷派 常盤町93?1 |
寛永8年(1632)10月13日に石崎円誓が開祖する。円誓は材木町の明善寺の住職であったが、本山より別の寺号を頂き、田中吉政の老臣、石崎若狭の下屋敷を寄付して頂き西覚寺を開山する。石崎若狭とは親族の間柄である。西覚寺の山号石崎山はこの石崎若狭守にちなんだものとのこと。この所在地を西覚寺小路と称す。
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【鷹匠町】 (鷹匠小路) |
鷹匠なる技術者達(武士)が殿の鷹狩の側近として仕えていた屋敷のあった町です。旧柳川藩の「諸絵図箱」には宝暦9年((1759)の描かれた、狩りをやる場所の瀬高町、本郷・上長田・上坂田・有富・大江・下小川の各村の鳥のねぐら・巣のある藪を示す御塒付絵図が残されています。鷹匠小路は明治6年に鷹匠町となり後に常盤町に合併しています。
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文殊院・中央山・覚王寺・蓮華院 廃寺 常盤町9付近 |
本院は三宝院の直末であった。開祖は豊後鵜木領主の斉藤播磨鎮実の子孫の斉藤内記である。大友氏が没落後に浪人となったが、宗茂公の柳川御再城を聞き、仕官したが希望者多く願い叶わず蒲船津に住む。後に諦めて剃髪して、文殊院休実法印と号する。元和9年に鋤崎の地、1反を賜り1院を建立する。寛永14年に休実は息子の実内と忠茂公に従い、島原の役の出陣し、十時三弥組に加わる。陣屋祈祷加持役を勤め、以後も続ける。また藩主の陣具、陣袈裟は代々、当院より献上する。息子の実内は蓮華院と称した。寺院は鳳来寺の跡にあったが、宝永年間に金剛院の転退につき、稲荷社兼帯にて同所に引移る。享保7年2月20日に鷹匠小路の天満宮社地の2町を賜り移転する。6代の蓮華院は一派の蝕頭を勤める。享保18年3月2日の大火で本尊の大日堂が類焼し、小道具小路に移る。院地は6畝。白米40俵を拝領し、後に32俵となる。本院の本尊の大日像は明暦3年、忠茂公の夫人の法雲院殿の守仏であり仙台伊達家の家宝仏を忠茂公の子孫の疱瘡安全祈祷として当院に預け1宇を建立された。寺内には天満宮・庚申堂・弁天堂・稲荷社があったが維新後に廃寺となり今はない。
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【上町】(旧・脇通町・別当町・上町) 豪商、塩問屋「佐谷」があった町 |
城下の外町から柳河市街・内城の御家中の本小路を南北に縦貫する城下中軸の幹線道の北部にある町です。南に中町・辻町と続く。通りの北には井手橋門(通称・出の橋門という)があり、番所がありました。出の橋の名は「妙院隅井手」によるか、対岸2ヶ所の「井手」によるかであろう。鍋島絵図には井手橋門とあり、寛政絵図には出橋御門と書いてある。柳河明證圖會には「井手の橋 西は肥前、北は久留米なり 此門内の勢屯に制札場あり 是より東は土手下通りなり」とある。制札(禁止事項布告)高札(掟・条目の掲示板)は人民に告げる立札のこと。出の橋門内の枡型は「島原の乱」に出兵の時、動員兵士の編成をしたので、特に今ここを「勢屯(せいだまり」と言う。戦国時代には蒲池氏はしばしば佐嘉の龍造寺隆信の侵攻を受けたが、それで柳川城は北面を主たる大手としたので、ここは最要衝の地であった。また江戸参勤交代の往路の出口でもあった。
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【人物伝 佐谷義兵衛】
柳川藩志によると上町は船津に近いので塩船が着けば、問屋の佐谷義兵衛が藩の改役立会いの上、問屋独自の代価を決め荷揚げした。塩販売の独占権を持っていた豪商の佐谷義兵衛の壮大な店が上町の大部分を占めていたという。義兵衛が塩問屋の株を授けられたのは寛政5年(1794)4月に外町から出火して、上町、辻町、中町その他の横丁が焼失し、飛火が家中に及んだ。出の橋御門も焼失した為に、佐谷義兵衛が再建新営して藩庁(役場)に寄付し、その賞として藩から授けられている。
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上町の商店街 |

別当町と鷹匠小路境を流れる堀割 |
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江月院・大門山 (子安観音) 廃寺 上町 |
下総国(現・千葉県の一部)小倉の一月寺に属していた。普化宗 金先派。九州筋同派の蝕頭であった。元来は三池郡大間村(現・大牟田市三池の一部)にあり、初めは却月院と号する。天和3年(1683)に藩主鑑虎の命令により、城下の脇道町(現・上町)に移り江月院と改める。大牟田市三池の却月院跡には小堂と地蔵堂があり残された石塔や地蔵像が残されて祀られている。寛政2年の絵図によれば、沖端川に面する松並木の土手下の脇道町通りから南に道が延び、その左手に観音堂があり、突き当りに四方を堀でめぐららされた江月院がある。本尊は観世音菩薩で行基の作であったという。中興開山は無限和尚とする。宝暦年中より御蔵米30俵を拝領する。旧藩時代では威勢甚だ強盛なり。江月院は治外法権を認められた寺で、罪人も寺の門に入れば捕えること叶わず、定められた期間仏道の修行をすると罪は消え許された。ただし殺人犯だけは敵討ちの出願をすれば、寺入り後も断われなかった。藩の家老や目付役などが、民情視察の為に尺八を奏で虚無僧の姿の普化宗僧に化けて監視していたこともあったという。寺の宗制は厳格で主君に罪を犯した者は容赦なく院内で処罰をしていたという。普化宗は明治4年(1871)に明治政府により禁宗となり江月院は3年後に廃寺となり空き地となる。ただし江月院の北隣にあった江月院の旧地の横に観音堂を建て、元・沖端川岸にあった観音堂の観世音菩薩を移し、堂の前に「金先派 江月院跡」と刻んだ石碑を建てたという。本当の江月院跡は南側の堀割で囲まれている草むらである。昭和35年(1960)に江月院跡の周囲の掘割が埋まっていたのをきれいに堀り上げ橋をかけ、江月院顕彰祭(献笛祭)が日本一の尺八の師匠の神如道大先生をはじめ、福岡の一月寺や熊本。延岡・長崎など九州各県の、もとの普化宗末寺のたくさんの尺八の同行に参詣してもらい盛大な尺八供養を挙行し、翌年も献笛祭が柳川小学校講堂で、行われた。その後も佐賀方面から尺八修行の為に、深編笠の虚無僧姿で江月院跡を訪れ碑前で尺八を吹奏した後、托鉢に各家庭をまわっていたが、今は殆んど見当たらぬ。昔は「虚無僧を無下に断ると、逆笛を吹かれて家が絶える」と恐れられた。虚無僧は布施を受けると、その多少にかかわらず御礼として、更に一曲吹いて立去ったものである。廃寺後の江月院の秘仏や大般若経は鍛冶屋町の天叟寺に移され、その後、大般若経は報恩寺に保存さてたと言う。観音堂には昭和30年に江月院南側の掘割から出土した中国明代の香炉が奉納された。
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【別当町】
本通りから東の横丁を別当町と呼び、東へ入る入り口左側二軒目に、もと別当池末氏の子孫の家が在る。町名は別当の家のある町を意味する。先祖は池末右馬允宗可で蒲池家の支族であって、蒲池氏が滅びた後、浪人となり、町家に住む。立花宗茂公が再城の後、坂巻・冨安と共に町別当を勤め、帯刀を許されている。行止まりに観音寺あり、これより鷹匠小路に続く。鷹匠小路とは町人以外の武士や足軽・扶持人たちが住んでいたところです。西の横丁は蟹町です。町内には稲荷社大神宮社がある。明治6年に脇通町(松並木土手下)と別当町(上町東入横町)を合併して上町とした。明治17年、74戸・426人。昭和60年、60世帯、233人。100年の間で人口が半減している。舟運時代は蟹町・魚屋町・八百屋町の筋が主要街であったが、乗合馬車~軌道時代に入ると上町通りが栄え、西鉄電車時代になると、京町通りに移り、昭和後期からは電車駅付近が繁華街となった。しかし旧き川には水多きの喩えで、出橋辻町通り・京町通りには伝統んじょ風格が保持されている。
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観音堂 上町(別当町) |
別当町の行止まりに観音寺(お堂)がある。ここの道は桝形で、別称かぎ形という。道を90度に折り、さらにまた折り警備上の道路普請の方法で、奥の武家などの住まいがある鷹匠小路・弓小路・鉄砲小路に人馬の突進を防ぐためであろう。観音堂はちょうど、別当町を見守る位置にあり観音の縁日には賑わった。 |
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【中町】 豪商の「紅粉屋」があった町 |
辻門と井出橋門(出橋門)の中間にあり、中町と呼ばれました。東側には鳥居が建てられ、参道の先に霊應山天王院音楽寺があった。柳河明証図会には「音楽寺のうらの流れを柳川と言ふと言えども、證とすべき事なし 古来柳川村といふは東は明王院の角より南は水門までを境とし 西南は鍛冶屋町、西北は土居町禅門堀(現・糀屋町と筑紫町の境の堀)を境とす」とある。この水路の名称が「やながわ」という地名の起源とも言われが、その証拠はないという。古来、柳川村は明王院隅(宮地嶽神社付近)、から城下町をほぼ東西に流れる水路は城下町以前に遡る古くからの流れであったという。音楽寺は明治の神仏分離令により、廃寺となり、同所に祭られていた祇園社が残され、現在の中町八剣神社となっている。この町に西の筑後川の湿地「紅粉屋開」(大川市大字紅粉屋)を干拓するなど財力をもった豪商「紅粉屋」があった。紅粉屋七郎左衛門柳河藩貨幣方だった。外町には宿駅の馬立場があったが旅籠がまったくなく、中町に旅宿が多かったのは、出の橋番所の門限の事情で、旅人は城郭内に泊まる必要が生じる場合が多かったからである。代官などが宿泊した「松屋旅館」(九州歴史資料館に古文書あり)また祇園社の北を流れる柳川の川添には3階の部屋がある料亭「宰府屋」(創業不明)が営業していた。江戸の頃の柳川は筑後地区の中心都市でありお接待が多くて太宰府から腕の良い料理人をたびたび招いていたが余りに回数が多いので柳川に住み込んだという。現在、椿町の宰府屋旅館が営業している。明治17年、45戸・227人。昭和60年、47世帯・164人。 .

旧・料亭「宰府屋」 |

「宰府屋本店)の料理箱 |

宰府屋横を流れる柳川 |

ハリウッド美容専門学校跡の王の宮
豪商・「紅屋」店舗跡でもある。 |
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音楽寺・霊応山・天王院 真言宗 廃寺 |
享保11年(1726)に建立。開山は長久寺の6代快弁権大僧都法印で長久寺の末寺であった。祇園社境内にあり、もと中町祇園宮の別当である。明治維新後の地租改正用の地図には参道115坪寺地450坪記載あり、中町通りに面して、鳥居があり、そこから東に参道が延び、寺地は堀がめぐらされていて島のようになっている。山門をくぐると、正面に豊前坊、並んで南側に天満宮・観音・祇園宮が相殿になった建物があった。さらに境内の南には能舞台が、北には音楽寺のお堂があったとみられる。宝暦9年(1759)以降能楽奉納五穀豊穣祈願を祈念して、毎年8月25日に囃子の興行が催された。享保16年(1731)4月に豊前坊御供え米3石3斗が寄付された。明治元年(1868)3月の神仏分離令により、祇園宮より分離され音楽寺は廃寺となり祇園社が残され八剣神社となる。 |
八剣神社(祇園社) 中町 |
祭神は素戔嗚尊で往時は高住社または祇園宮とも称した。かつては三潴郡蒲池村三嶋宮にあったのを、長久寺6代住職の快弁法印の願いにより、享保12年(1727)5月30日に現在地に遷宮し、音楽寺が別当寺となる。旧暦2月25日には筑後国柳川藩主の列席の下で能楽奉納五穀豊穣祈願が行われた。文政の頃に豹の見世物があり、それが余程珍しかったと見えて様子を西原一甫は随筆に残し、玉淵が文政11年(1828)に描いた写生の「豹図」の一幅が立花家資料館に残っている。下の明證圖會の祇園社・音楽寺の挿絵は鳥居脇の水汲み場の様子が描かれており、近所の人の生活に密着した石畳の洗い場で、かっては水が豊に流れ水郷柳川の象徴といえる清流であった。この柳川の市街地を流れる柳川の本流は、奈良時代時代か平安時代の初め頃の掘られた条里制の掘割で祇園社の北側を東から西方の鍛冶屋町へ通じている。 |
稲荷社 八剣神社の北境内 |
文化5年(1808)に、火災をなくす為に、太郎稲荷の分霊を招き入れる。例祭は2月・8月の初の午の日。辻町の西側にあったものを遷宮したものである。
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「やながわ」の起源とも言われる明證圖會の境内鳥居脇の水汲み場の挿し絵には |

鳥居の参道や祇園社音楽寺の水路を「栁川」と書かれている |

八剣神社(祇園社) |

八剣神社脇の太郎稲荷 |

文化13年の天神講中・寄進の燈籠
天満宮があった頃のなごり |
八剣神社拝殿 |

鳥居横のヱビスさん |

神社裏の柳川小学校・右奥の屋根は西方寺 |

松尾芭蕉の句碑・桜塚 |
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【中町のヱビス】 中町・八剣神社鳥居北脇 |
中町のヱビスは西宮永の分社である。社内には釣り竿や、鯛をもたないヱビスと聖徳太子が祀ってある。太子は市の神である。「34代推古天皇九年(601)の3月に、聖徳太子は市売買の仕方をお始めになるのに、蛭子に誓いを立て、商売鎮護の神とされる。後世になって、愛比寿を福の神とあがむるのは、これから始まる。年代記。また、西の宮に鎮座のことは、神社の記録の古くからの言い伝えであろう」とある。この恵比寿の宮のうちに聖徳太子を合祀するのは、そんな訳があるからでしょう。
また、このヱビスは次のような伝承話がある。昔、老夫婦が細々生活していた処、ある日、1日の米をお願いしたところ、鼻の穴から米粒がばらっと出てきた。よって毎日お願いしていたそうな、ところが、欲が出て鼻の穴を大きくしたら、まったく出なくなったという。
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【八百屋町】 |
辻町の四辻から西に入る横丁である。享保以来今日まで一貫して町名に変化がない。東西の通りの八百屋町を南北に貫く道は裏町に通ずる宗元町である。裏町の北部は蟹町であり、宗元町の一部は八百屋町に包含されたようである。この町の西は魚町で、野菜と不可分の関係で町が続いている。以前はこの町には、八百屋が数件あったと言うが、今は全く無い。町の西に連なる魚町が売れ残りの魚を蒲鉾として加工販売するようになると、その増量剤として豆腐を求めた。その豆腐の製造を大豆をも商った八百屋町の八百屋が受け持った時代が時代があった。町内には寺社はないが、個人で稲荷社が奉祀されている。江戸末期には高椋新太郎の商家が建ち並んでいた。 |

八百屋町周辺は高椋新太郎の商家であった |
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【西魚屋町】 |
北の蟹町浜に水揚げされた魚は、魚街のの問屋で捌かれた(問屋制)。元禄時代、安東省庵のの沖端夕映への詩「魚鰕閙ス」(魚とえびは魚類の総称)魚が水揚げされると人々で雑踏すると詠んだ。閙は市場の騒がしさを言う。水揚げをする蟹町の河岸の次に、魚町を置く形式は他の城下町と同じである。西魚屋町は柳河町における魚の供給地であった。江戸末期には八百屋町周辺は高椋新太郎の商家が多くあった。大正・昭和期になって、昔の名残りで、魚屋町に7軒の蒲鉾製造の店があった。辻町に魚市場が」創設されたのは明治16年で、大和町中島や佐賀方面から運んで来たという。沖端魚市場は明治43年設置であった。蟹町・魚屋町の通りは寺町でもあった。柳川城下の寺院配置は、西の魚屋町は主として藩主夫人の寺、東の細工町は庶民の寺、北中央は田中氏の寺、南は藩主の寺である。享保絵図 魚屋町・寺町。寛政絵図 西魚屋町。明治元年、西魚屋町 寺町。明治6年、2町合併して西町とした。明治11年、西魚屋町。明治16年、61戸・363人。昭和60年、48世帯・166人。 |

恵比須さんの祠のある路地 |
18m新設道路・聖寿寺、報恩寺、良清寺を望む |
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報恩寺・観音山 曹洞宗 西魚屋町50 |
開祖は、久留米の千光寺の8代住職の縦寅曇逸和尚である。三潴郡蛭池村にあった同名の寺を、慶長9年(1604)に田中忠政が今の地の移す。寺内に寛文3年9月建立の聚福庵があったが今はない。寺の本尊は田中吉政の守り本尊の11面観音である。境内に観音堂があり勢至観音を安置する。墓所には名和家の墓・十時平助、渡辺幸次、西原釣彦や横地玄蕃助の墓もここにある。西原釣彦は、国学者で、曽我裕準の外祖父に当たる。横地玄蕃助は尊王攘夷主義者で大牟田の倉永に「龍山書院」という塾を開いた。横地玄蕃助を中心とする「正義派」は、開国通商論者であった立花壱岐たちのグル-プ「活眼派」と激しく対立し、この対立が柳川城炎上の引き金になる。また柳川が生んだ桃水和尚の塔(供養塔)がある。昭和33年納骨堂・地蔵堂・観音堂新築。庫裡大正8年、同屋敷と同離れ昭和45年に新築。昭和52年本堂・客殿改築。同55年楼門改築。観音堂・庫裡昭和39年改築、什物 出山の釈迦(狩野元信画)。大曼陀羅二幅(尾形光琳絵)。
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台照院・正受寺・日真山 法華宗(日蓮宗) 内膳家の祖・立花宗繁(政俊)の菩提寺 西魚屋町53ー1 |
建久8年(1197)に天台宗の僧、教海が創建する。天正2年(1574)に火災で焼失し廃寺になった為に、慶長10年(1605)に法華宗の日恕上人が寺を再建した。当初は法華寺と呼んでいたが、寛永5年(1628)に宗茂公の家老の小野鎮幸(和泉)の位牌を当庵に安置する。同年、小野の孫のあたる継嗣(あとつぎ)の若狭茂高を当寺に葬る。院号の正受寺日真にちなんで日真山・正受寺と改称する。その後、2代藩主忠茂公の兄で立花御両家の一つである立花内膳家初代の立花政俊(宗繁)は島原の乱に出陣する前に当寺の妙見大菩薩に祈願したおかげで敵の本営である原城攻めにおいては一番乗りの功を立てたので藩主忠茂は上内1000石の領地を与えたとある。立花宗繁は天和3年(1683)に死去した為に、本堂を建立し、宗繁の院号が「台照院殿渓雄宗繁日源大居士」であったことから寺号を台照院と改称して現在に至っております。本堂の東北にある妙見堂は、加藤清正と立花宗茂を合祀しております。観音堂は、昭和初期に新築。台照院本堂前の瀬高町(京町)の豪商の迎半左衛門と迎定次郎願主「一字一石塔」の供養塔は天正15年(1587)に肥後国人一揆の首謀者である隈部親永一党を預かる立花宗茂が、秀吉の処刑命令に対し隈部一族の面目を保つため、放し討ちを行い見事全員を討ち取った時、城内の黒門橋にあった供養塔を、安政2年(1855)に瀬高町(京町)の豪商の迎半左衛門と迎定次郎の2氏で西町の日蓮宗の台照院の本堂前に移設したと伝承されている。そのほか、迎家の迎正信は目の病が完治し三十番神の仏像30体を台照院に寄進している。また境内には立花壱岐の実弟であります立花駿河親徳の墓もここにあります。
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観音堂(左)と妙見堂(右) |
妙見大菩薩 |

本堂と迎家寄進の一字一石塔(中央石塔) |

立花宗繁の墓 |
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本殿 |
立花宗繁の位牌 |

迎家奉納の三十番神 |

全部の台座には迎正信とある |
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洋風な燭台 |

忠茂の正室鍋子姫(仙台奥さん)所有の仏壇(伝承) |

立花宗繁の鎧(伝承) |

立花宗繁の兜 |
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聖寿寺・瑞雲山・寒山寺 黄檗宗 西魚屋町52 |
往古は三池郡田尻村(現・高田町田尻)に曹洞宗の寒山寺であった。寛文9年に黄檗宗に改宗し鉄文和尚を開山とする。明和5年の秋に今の地に移り聖寿寺と改め、福厳寺の住職の楊宗を中興の開山とする。聖寿寺の額は楊宗の書である。寺内に観音堂があり3代藩主の鑑虎(英山)公の子供の勝千代の墓が同所にあり。旧藩時代では旅僧が福厳寺に訪れるには、先ず本寺の観音堂の止宿し、本寺より、これを福厳寺に申し入れ、同和尚は本寺に出張して、一応取調の上、和尚が付添い、辻門の警護者に通告し許可を得て、城内の福厳寺に入ることが出来た。よって本寺に旅僧の宿泊料として毎年、米4俵を賜与されたという。寺内に観音堂が在る。観音堂・庫裡は昭和39年に改築されている。
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宗茂公の正室闇千代の菩提寺・良清寺・寂性山 浄土宗 西魚屋町49 |
立花宗茂の正室であった闇千代(道雪の娘))は慶長7年(1602)10月17日に肥後玉名郡腹赤村(現・熊本県長洲町腹赤)の庄屋市蔵の家で病死され今も墓が残っている。引導は瀬高上庄、正覚山聖衆院来迎寺第2代曼蓮社誠誉上人である。のちに元和7年(1621)に宗茂公が再封され柳川城主となり、闇千代姫の追福を修る為に菩提寺を建立して、瀬高上庄の来迎寺の第4世住職であった円蓮社応誉上人を招いて開祖とした。闇千代の院号、光照院殿泉誉良清大禅定尼から良清寺と名付けられた。住職の応誉上人は戦国時代の柳川城主の蒲池鑑盛(宗雪)の3男蒲池統安の次男である。また熊本県玉名郡長洲町には江戸時代に建立された、形状から「ぼた餅様」と呼ばれている闇千代姫の供養等がある。元禄14年(1701)に3代藩主鑑虎公により100回忌の大法要が17日間、営まれ、お墓直しをなし「御霊屋」が設けられ、さらに本尊仏を安置し、楼門などを建立され、20石を加増される。
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享保10年(1725)に2代藩主忠茂の5男、貞晟(立花弾正家初代)「寂性院殿深譽幽廣湛大居士」追善のため、寂性山と改号する。立花家墓所(御霊屋)には貞晟(寂性院)の娘であり、5代藩主の貞淑の正室松子「珂月院殿殿浄譽遊岸光澄大姉」も合祀されている。宝暦13年(1763)に7代藩主鑑通公は毎年30俵を寄付される。後には土地を止め、蔵米170俵を寄付される。維新まで代々の藩主の恒例となる。
立花壱岐の同志でありました池辺藤左衛門の墓もここにあります。池辺藤左衛門は熊本の大思想家横井小楠に学び、立花壱岐を助けて藩政改革を進め、のちに明治新政府の中で今でいえば大蔵省の事務次官になった人です。越前福井藩出身の由利公正らとともに明治新政府の中で貨幣政策などを担当しました。
良清寺は享保12年(1727)正月晦日に火災があり類焼して宝物など焼失している。ただ闇千代姫の画像と5代藩主貞俶公御筆の紺紙金泥の阿弥陀経1軸がある。明治42年(1909)に本堂が改築された。寺内の主な墓は光照院、寂性院、寂智院、珂月院、涼智院(以上立花家)幡保善次、安武厳丸、明治政府の参与職を勤めた池辺節松などの墓がある。 |
誾千代姫 |

山門 |

本堂 |

長洲町腹赤の誾千代の墓(ぼたもちさん) |
誾千代姫の供養墓(久留米善導寺) |

中央が誾千代の墓(良清寺)
左は、5代藩主 貞俶の室、珂月院の墓
右は、珂月院の父、立花弾正貞晟(3代藩主忠茂の子)の墓 |
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【鍛冶屋町】 |
鍋島絵図に現在の位置にカチヤ町とあるので戦国時代の蒲池氏支配以来の町であろう。天正9年に蒲池氏滅亡後、肥前軍が6年間居城していたが、秀吉の九州入りにて立花宗茂公と交替した。絵図は鍋島直茂が3ヵ年、在城時の制作であろう。旧柳河藩志には「宗茂公(大阪にて)下坂兼先に禄二百石を与えて柳川に召し連れ、天叟寺門前に居らしむ。よって、この所に鍛冶屋職人を集め鍛冶屋町と称す」とある。宗茂公開城後、田中筑後守吉政より同禄高を給される。元和7年、宗茂公の再城より禄一百石を給す」と。兼先の子は立花忠茂より一字を賜り、忠親と称した。この下坂の家系から忠親・重勝・の息子や末裔には守親、茂親、親信(茂親の弟)、兼崎、茂勝、兼信らが代々お抱え刀剣鍛冶を継ぐ。ほかに、田中筑後守忠に100石づつ禄高を給されて召抱えられた青池三右衛門・伊吹甚右衛門や政鬼塚吉国や昌直、井上新海、篠原安国の刀鍛冶がいた。また、江戸時代後期の安政の頃より、京都に出て修行した武藤久廣が、鍛錬精巧切れ味が優れていると、柳川藩立花家よりお抱え刀工となり、信濃守を授けられ武藤信濃守久廣の銘を打つ名刀を残している。その子孫は、下百町(三橋町、柳川駅そば)にあった武藤鍛冶屋(廃業)や武藤信濃守久広の遠祖とし、孫の小宮四郎國光から小宮の姓を継いだ大牟田市倉永の㈱四郎國光(小宮)がある。
享保絵図(1716~35 8代吉宗将軍時代)元町の旧市街本流北岸に、鉄砲屋・打場と記入している。鉄砲製造場と試射場は、東のトントコ町(出来町)にもあった。鍛(タンタントントン)と打つ、治はじゅつと水で冷すこと。農具・日用鉄器具などの製造は勿論、鉄砲・刀剣類の藩の武器を作る重要なる職人町であった。 |
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高橋招雲の菩提寺天叟寺・定慧山 妙心寺派 鍛冶屋町23 |
高橋招雲は名を鎮種 九州の名家大友一族で立花宗茂(柳川城初代)、立花直次(三池藩主初代)の実父である。戦国末期、九州では豊後大友、肥前龍造寺、薩摩島津三氏が領地争いで戦っていた。天正14年(1586)、高橋紹運は島津氏が大友氏を滅ぼし九州平定を目論み、5万の大軍を率いて、紹運が籠もる岩屋城に侵攻して同年7月27日、ついに岩屋城は陥落し紹運以下700余名の将兵は壮烈な最期をとげる。紹運、享年39歳であった。遺体は岩屋城の二の丸跡に葬られた。老臣の藤内は出家して正順と号して岩屋城に近い太宰府に菩提寺・西正寺開基した。
江戸初期の寛永年間(1624~1644)に2代藩主忠茂公が柳河に祖父の紹運(宗茂の実父)の菩提寺・天叟寺を創設。高橋招雲の霊牌を安置し寺領に柳川藩より50石を寄付し、久留米の少林寺の俊嶺宗逸を招じて住職とし、今の寺号の定慧山に改める(始めは桂林寺と号する)。これを中興開山とする。紹運と、この時の戦没者の位牌が天叟寺に置かれており、毎年5月27日、紹運の供養と共に法要が営まれている。紹運の法号を「天叟寺殿性海紹運大居士」という。三池(大牟田市今山2599)にも、三池藩初代の立花種次が祖父の供養の為に建てた紹運寺がある。「安寧寺殿天叟紹運大居士 天正十四年丙戌年七月念七日 高橋前興兵衛源朝臣鎭種」と書かれた墓がある。
岩屋城の攻防で紹運の夫人(大友の家臣・斎藤 鎮実の妹)は薩摩勢に捕えられ肥後の南関に幽閉されたが、秀吉が薩摩を攻めるに及んで無事帰還した。その後徳川時代に至り、宗茂の江戸藩邸において逝去(法名・宋雲院殿花岳紹春大姉)。宗茂は実母を下谷の広徳寺の立花家の墓所域内に埋葬し、菩提のために広徳寺内の一院(塔頭)として香華所の宋雲院を創建した。時代は過ぎ行き、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で広徳寺は焼失し、震災2年後に区画整理で立花家の墓所も練馬に移されたが、宗茂の実母の宋雲院殿の遺骨は大正14年(1925)12月23日当寺(天叟寺)に運ばれ紹運の墓に合葬、300年を経て夫妻同穴の縁を完うすることができた。また宋雲院にあった立花家の一部の墓は栁川・福厳寺に改葬されている。村誌に寺地東西37間、南北38間1尺8寸、面積1,197坪とある。 山門脇には「高橋紹運公並びに岩屋城戦歿者400年祭碑文」が建っている。寺には柳川藩の御用窯である蒲池焼のコレクションが所蔵されている。
天叟寺
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天叟寺殿(高橋招雲)・夫人の宋雲院殿の墓
銘は安東問庵による |
高橋紹運公肖像画 |

東京・広徳寺にある墓石
左 宋雲院殿 右 宗茂公 |

天叟寺にある宋雲院殿の位牌 |

宋雲院殿肖像画(東京・宋雲院所蔵) |
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田中吉政公ゆかりの光樹寺・三川山 浄土宗 鍛冶屋町20 |
往時は三河国幡頭郡西尾にあり。見蓮社英誉上人を開山とする。田中吉政公が岡崎在城の時に、その菩提寺であった。吉政公が筑後に封じられ柳川城主となる。慶長7年(1602)8月に、その寺の僧、尊誉を柳川に招き寺を移させ、本尊の阿弥陀如来立像を奉持し、寺田与左衛門、北島孫兵衛、安心院善左衛門の3人を伴い、この地に寺を創建し尊誉を開山とする。三川山・光樹寺という。この如来像は行基の作といわれ、吉政の念持仏であった。高さ94.3cmで1本の木で刻んだ像である。吉政公が頭痛の時もこの如来に祈り良く治ったという。第5代説誉の時に恵心僧都の作の阿弥陀三尊を久留米より奉納し、これを本尊とし、三河から持ってきた阿弥陀如来立像を内仏とする。元禄年間に本堂を再建する。享保12年1月の大火事で類焼したが2年を経て再建する。寺地は以前3反2畝あったが享保年間の焼失後、6畝を東隣の良清寺に編入される。村誌に寺地東西20間3尺6寸、南北19間1尺2寸、面積486坪とある。三河から同行した北島ほか2氏は今なお檀家として続いている。寺宝は25菩薩来迎仏の絵像、涅槃図、英誉上人(開山)像、雨宝童子図、銅鍛製の鏧子などがある。 |
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【元町】 (鬼童口) |
藩政時代には防衛上、辻町→片原・八百屋町→西魚屋町→鍛冶屋町→鬼童口→鬼童原と柳河市街から鬼童原(筑紫)へ行く唯一の出口であった。元町の元は首の意で出口の首根っ子を押える土地の意である。享保絵図に浄楽寺・長久寺、寛政絵図には浄心院と浄楽庵があるが浄楽寺(庵)は鍛冶屋町の通りから入るので鍛冶屋町のの所在とされたであろう。鍛冶屋町から西に入った通りの記載に鬼童町とあり奥右に浄心院があり鬼童原に行く為の小橋が架かっている。国道からコンビニ東脇を入ると御城三の丸に在った長久寺の御墓所が残っている。現在の所有者は長久寺の御子孫である萩尾(明治期に還俗された苗字)さん(三池在住)の持ち物です。明治元年までは鬼童口で鬼童村・田町・鬼童口は併立していた。鬼童口218石。明治6年、鬼童口は元町と改称。明治8年、町村改正で、鬼童村・端地村・正段島村は合併して筑紫村と称し、田町・元町は筑紫町と称した。よって明治16年頃の柳河町の測量地図には記載されていない。明治22年に柳河町に元町と改名して編入した。同年の測量地図には元町が記載されている。昭和25年、柳川・早津江線開通で辻町から折れ曲がってきた道筋が直線となり、元町周辺は商業・住宅地として開けて行った。
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西光寺 真宗大谷派 元町26 |
日野家の末裔で肥後玉名郡城主の大津山河内守の舎弟を信濃守という。信濃守も同郡のある城主であったが、秀吉の九州征伐後に両家とも没落した。信濃守の嫡男は出家して、淨真と名のる。真勝寺の配下となり元和2年3月に本山より、西光寺の号を賜り出来町に創建する。のちに今の地に移り再建する。
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常楽庵 廃庵 元町(鍛冶屋町) |
黄檗宗であったが何時しか廃庵となる。西町の聚福庵が寛文3年9月に建立とある。表口14間半、入口20間とあるが、これまた何時の頃か廃庵となる。寛政絵図には浄楽庵とある。
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城内にあった長久寺の墓・御仏・位牌 元町(フアミリーマート奥) |
ここは長久寺の下屋敷があった場所で現在、お堂があるが、城内の坊主小路(柳川城北東部)にあった長久寺(真言宗)の11世上人の位牌や木札などが安置され、背後の境内には長久寺の歴代の上人の墓が並んでいる。長久寺は明治2年(1869)廃寺となぅているが、聚福庵の跡地に移されたと見られる。 |
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浄心院 浄土宗 廃庵 元町(旧・鬼童町) |
寛延年中に良清寺の8代寂誉和尚が開山する。寺院帳に初めは浄心院殿の御霊屋(梅光庵)があり、享保12年(1772)正月の火災で焼失する。よって当寺に御霊屋を移された。寛延元年(1748)に良清寺より良清寺の末寺の山下村の林久寺の寺号を引き移したが後に浄心院と改号する。寺地2反24歩で、ほかに御茶湯料の田5反歩寄付ありという。大正期には御霊屋もなく寺地も狭く小庵があった。同寺の梵鐘は明治11年の鋳造であったが、現在は墓地のみ残る。
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【八百屋町】 |
享保以来町名は不変である。辻町の四辻から西に入る横丁である。東西の通りの八百屋町を貫く南北の道は裏町に通じる宗元町であった。裏町の北部は蟹町であり、宗元町の一部は八百屋町に包含されたようである。この町の西は魚町で、野菜と不可分の関係で町が続いている。古老によると明治時代、家数の少ない中に4軒の八百屋があったと言う。町の西に連なる魚町が売れ残りの魚を蒲鉾として加工販売するようになると、その増量剤として豆腐を求めた。その豆腐の製造を八百屋町の大豆を扱っていた八百屋が受けていた。今は八百屋も豆腐屋も全く無い。明治17年、23戸・122人。昭和60年、20世帯・67人。 |
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【人物伝・高椋新太郎】 |
八百屋町の魚問屋を営み豪商となった高椋新太郎(文化14年(1817)~明治14年(1881))は幕末の藩の財政改革の為に立花壱岐の命を受けて大阪の鴻ノ池や加島屋などの大富豪から1万両という大金をかりようと大阪の料亭で接待しますが、高椋から支援を受けていた当時大関の雲龍は恩返しに弟子とともに乗り込み、宴たけなわのころ、襖がパ-ッと開けられますと、雲龍らはそろい踏みを披露したのです。鴻ノ池や加島屋は、それに度胆を抜かれてお金を融通してもらい柳川藩を救いました。明治5年(1872)5月、柳河藩札引換えに不満の数100人が支庁(本町)で騒ぎ夕刻に瀬高町一丁目(今の京町)にあった元銀会所主任の富豪高椋新太郎居宅(八百屋町)橋本儀助宅(細工町)などに押し入り家財を強奪された事件が起きている。
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【片原町】 |
明證圖會に「片原町 辻門外東西のとおり南は川にして片側の道なり」とある。徳川の時代になり、藩主立花宗茂が城を明渡し肥後の高瀬に移った頃、枝光村の坂巻次郎右衛門は一緒に壇と樺島両人がひそかに糧米などを肥後の高瀬に届ける手伝いをやった。この事が田中吉政の耳に入って壇と樺島両人は死刑となる。浪人のために死を免れた坂巻は宗茂が再び柳川城主になった時に、感謝され片原町の地を賜ったとある。宗元町の町名は、町年寄の坂巻氏の名を宗元と言ったので、その名を町名にしたのが起源である。北に入った横丁は宗元町で辻町・中町・上町の通りと平行して八百屋町・蟹町の通りである。瑞松院門前の横町北は西魚屋町に通じ、西に折れる道は一本となり鍛冶屋町・鬼童口へと続いていた。今は昭和25年に辻町より鬼童原まで貫通し、筑紫通りが往還となった。明治6年、片原町宗元町を合併して片原町と称した。明治17年、19戸・103人。昭和60年、41世帯・137人。 |
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宗茂公の継室の墓所・瑞松院光臺山本覚寺 浄土宗 片原町15-1(八幡屋敷) |
柳川城主・蒲地鎮並が龍造寺隆信に滅ぼされ龍造寺家晴が柳川城を守る。天正12年(1584)頃に柳川城を管理していた家臣の鍋島直茂は娘「たか姫」を亡くし、下妻郡古嶋村(現在の筑後市)の常今寺の住職紅誉上人を招いて、成仏得脱する。そして墓のある本小路に寺を建て、上人を開祖としてたか姫の院号である光台院本覚妙隆大姉にちなんで光台山本覚寺と名付けられた。天正15年(1587)に豊臣秀吉より13万2200石の領主として柳川城に封じれれた立花宗茂は寺を本小路から片原町23軒の氏神、八幡社のある場所に移された。
宗茂が柳川に再封され継室の八千姫(矢島勘兵衛秀行の娘の八千子)は諸大名の妻子と同様に幕府の人質として江戸屋敷で経済的なやり繰りや将軍への献上品の手配、それに千熊(のちの忠茂)の養育に努めた。元和8年(1622)の暮れに千熊は元服したが八千姫は体調を崩し、寛永元年(1624)に江戸下谷邸で亡くなる。その遺髪が当寺に葬られ、その院号の瑞松院殿英誉春峰光森大信女にちなんで瑞松院と改められた。その後、宗茂公により方丈庫裏(住持の居室と客殿・厨房)を建立。3代藩主鑑虎公により鐘楼と釣鐘が建立される。また徳川家康の位牌をこの寺に安置された。当寺は瑞松院殿八千姫の実家である矢島家の菩提寺でもある。矢島家は藩主の若君を養子に迎え藩の重鎮であった。また立花帯刀家3代立花茂高の娘、玉蘭(女流歌人)が矢島家の矢島釆女に嫁いでおり、死後の墓もあったが、県道新設の用地買収で、今は無い。 |

宗茂公の継室・瑞松院殿八千姫の墓
右・自然石の墓は父親の墓 |
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立花壱岐の実兄の八島行昌(采女)もここに眠っている。藩志には寺内重なる墓は、瑞松院、真光院、譲徳院、清光院、尚堅院、涼體院(以上立花家)鍋島肥前守などがあり、また徳利盃を刻んだ、柴田勝春の墓があった。父の柴田勝家は織田信長の最古参の重臣で信長の妹のお市が正室であった。天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と戦ったが敗北し、お市と共に自害し、秀吉が織田信長の正統な継承者となってる。息子((勝家の甥で養子)の柴田勝春も共に戦ったが敗北後、九州に落ち立花家に出仕した。慶長5年(1600)の関ヶ原の後、同年10月の江上八院の戦いで鍋島軍に突き入り花々しく戦死する。宗茂公が柳川に再封されると、末裔は立花家に仕えた。5代藩主貞俶公の後添いとして6代藩主貞則公、7代藩主鑑通公を産んだ、涼體院(由井子)は、柴田勝春の子孫の柴田喜右衛門の娘とされている。境内には瑞松院の33回忌に立花・矢嶋の両家により建立された法篋印塔がある。昭和36年(1961)に県道、橋本蓮-辻町線の新設道路が貫通による墓地の大改装の為に、矢島家の昔の墓の面影が消えたが表門の傍に初代の重成・2代の重知の供養塔が建設された。観音堂は今はない。本堂明治19年改築。庫裡江戸末期改築。閻魔堂の祭りは古くから旧暦の1月と7月の16日は閻魔の斎日といい、この日は地獄の釜の蓋が開き、地獄の亡者がその責め苦から逃れる日と言われている。「柳河新報」の明治44年8月15日や大正6年2月10日の新聞記事によると、栁川では当寺と沖端の専念寺で閻魔祭りが全日執行され、押せ々の人混みで混雑するほど賑い盛大に行われいた。親は「嘘をつくと舌を抜かれるよ!悪い子は地獄の修行が待っているよ!」と地獄絵図を見せていきます。一昔前は泣く子供が大勢いましたが最近では少なくなっています。閻魔堂は老朽化の為に昭和29年に改築されている。鐘楼堂は昭和12年改築。納骨堂は昭和30年改築されている。八幡神社昭和45年改築。寺宝として片手観音菩薩坐像・宗茂書・刀剣一振(村正銘)、地獄図二幅。
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昭和初期の開業した店頭の写真 |

昭和28年の昭和堂書店と共学(昭和24年)となった伝習館高校の女子学生達
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柳河町片原町の書店の老舗「宮崎昭和堂」書店。伝習館中学と堀割りを隔てて北側隣接しており、書籍販売のかたわら運動具・物理器械の扱い、また出版事業にも携わり、学識者や学生に重宝された。地域に関する出版も手がけていた。戦後も営業されていたが現在は廃業され駐車場となっている。
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柳河明証図会の挿絵、辻町・片原町・辻橋 |

戦後、辻町から西に延びる新道開設と共に開業した栁川国際劇場
昭和30年代初期の火災のあと洋画館として再生、スバル座ととなる |
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. 【辻町】. |
辻とは道の十字路ではなく、四方八方から人が集まる所をいう。辻町は東に延びる道は瀬高町~細工町~新町の「瀬高門」に、北方面には中町~上町の「井手橋門(出橋門)」に連なる主街道が通る。この主街道に町家の大店(おおたな)が点々とあった。明證圖會に「南北の通り 東の横丁切革屋町 西の横丁は八百屋なり」とある。辻町は本来、城内の本小路の続きで、辻本町と呼ばれた事がある。瀬高町に曲る辻に木戸門があり、細工町の辻と同様に 「右 出橋通り 左瀬高門通り」と刻まれていた。現在、辻町の四つ角に元和6年(1620)に立花宗茂が再封頃に設置されたと思われる石の道しるべが残されています。舟運時代、城下の中心をなす商家の通りは蟹町・魚屋町・八百屋町・辻町入込・切革屋町の通りであった。辻町の東の横丁をジロリと言う。ジロリには小町娘がいたと言う口承もあるが、茶屋(遊女屋)もあり、いわば歓楽街だったろう。藩主も駕籠を止めさせ窓からじろりと見て通ったと言う。西の横丁には八百屋・西魚屋・鍛冶屋の町並があり、寺院が集中していて、寺町を形成しており、現在でも寺の多い地区で名残りを留めている。昭和25年(1950)に辻町の交差点から西側に道が直線に伸びました。中世は本町1丁目、柳川藩志は柳川本町札ノ辻、享保・寛政両絵図は本町辻、明治元年は札ノ辻本町、明治6年は辻町。今日に至る。明治17年、48戸・240人。昭和60年、31世帯・123人。

辻町 |

辻町交差点の道しるべ |
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☞古地図に見る柳河町の歴史(東部編) |