庄福BICサイト      H・20・6・20編成開始  H25・11・25更新   H25・12・15更新 H・26・04・7更新       【禁無断転載】  福岡県柳川市

 第1章
   柳川城は「柳川三年、肥後(ひご)三月、肥前(ひぜん)、久留米は朝茶の子」と言われ、柳川城を攻め落とすには3年かかるが、肥後(熊本城)は3ヶ月、肥前(ひぜん)(佐賀城)・久留米城は朝飯前さ、という意味だ( )それほど柳川城は二方を海で(かこ)まれ、二方は周りに幾重にも堀割を廻らした天然の要塞(ようさい)をもつ堅城であった(.)また城に敵が攻めて来ると柳川城の外堀の水門を閉じ、川番人が矢部川の(せき)を高くして水の多くを柳川に流れ込む沖端川(おきのはたかわ)に流し、城の外堀の外回りを洪水にして敵攻(てきせ)めを防ぎました。古地図・挿絵・古文書を元に(,)柳川城下の情景を探索してみました(.)

 
 
  ①柳川城の創建
 柳川城は戦国時代に柳川を治めていた蒲池治久(かまちはるひせ)文亀年間(1501~04)、あるいは天文年間(1532~1555)に治久の孫である蒲池鑑盛(あきもり)によって蒲池城柳川市西蒲池の支城として築いたとされている。鑑盛(あきもり)は、大友(おおとも)義鎮(よししげ)宗麟(そうりん)のもとで勢力を増し、領地540町を所有し、筑後上下の城持24人の旗頭(はたかしら)となる。永禄2年(1559)に蒲池城の手狭を感じ、柳川城の改築拡張を行い本城とする(.)しかし耳川の合戦で大友氏が島津氏に大敗すると()筑後の領主たちも動揺し、これに乗じ肥前の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が筑後に勢力を伸ばす。この時に蒲池鑑盛の跡を継いだ息子の蒲池鎮並(かまちしげなみ)大友氏を離れて龍造寺氏に仕え戦乱を生き延びてきたが、離反(りはん)の疑いをかけられ天正8年(1580)鎮並龍造寺軍に城を包囲されたが( )300日間攻防(こうぼう)に耐え、落城しなかった( )龍造寺隆信鎮並と和議を結んだが(.)翌年の天正9年に佐賀に招き出された鎮並は、待ち()せていた龍造寺の軍勢に殺害され、同時に柳川城も攻め落されて柳川の蒲池氏下蒲池氏)滅亡(めつぼう)し、城は龍造寺氏に奪われ、家臣の鍋島信昌(なべしまのぶまさ)が柳川城に入った(.)龍造寺氏に奪われた柳川城は天正12年(1584)龍造寺隆信沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)で戦死した為、鍋島信昌が当主・龍造寺政家を補佐する為に(.)柳川城から佐賀城へ移り柳川城へは龍造寺家晴(いえはる)が南関から入った。大友氏は筑後での勢力を回復しようと、重臣の戸次道雪(べっきどうせつ)高橋招運らに家晴の守る柳川城を()めさせるが堅固(けんご)な城のために、攻略を挫折(ざせつ)し退き返している(.) 

  ②立花宗茂・柳川城主となる
 天正15年(1587)豊臣秀吉(とよとみひでよし)の九州平定に際して( )その功により、立花宗茂(たちばなむねしげ)が筑後柳川(山門・三潴・下妻・三池の4郡)13万2千200石を賜り、養父道雪(どうせつ)が攻めあぐねた柳川城の城主となるしかし、朝鮮に出兵した文禄・慶長の役(ぶんろくけいちょうのえき)により、宗茂は朝鮮から天守閣・広間・書院・二ノ丸欄干橋(らんかんばし)の改修や建造を指示していた。恐らくは文禄5年頃から(.)天守閣の建造を含めた、柳川城の本格的な改修が開始されたと思われる(.)
三柱神社に移設された二ノ丸欄干橋の擬宝珠には慶長(けいちょう)4年(1599)(めい)の陰刻が残っている(.)慶長3年(1598)秀吉が病死したのちも西軍につき徳川方の大津城攻略(こうりょく)に参加したが関が原の戦いで西軍が敗北し、徳川家康(とくがわいえやす)の勢力となり( )わずか13年間にして領地没収(ぼっしゅう)・城明渡となり、戦友の加藤清正(きよまさ)に説得され慶長5年(1600)に城を明渡すことになる。これにより宗茂の柳川城改修は頓挫(とんざ)しました。城は清正の家臣の加藤美作(みまさく)が城番となる。浪人となった宗茂は上京し、のちに家康に奥州棚倉に5千石を(たまわ)

 
柳川藩主立花邸 御花 展示品
     田中吉政による天守閣・外堀の構築
 慶長6年(1601)三河10万石の岡崎藩主の田中吉政(たなかよしまさ)(1548~1609年)は関ヶ原の戦で石田三成(いしだみつなり)を捕らえ、その功績により、岡崎10万石から筑後・柳川32万5千石に加増され藩主として入国し、柳川城を筑後藩の本城とした。吉政は築城学に精通し、積極的な城郭整備に着手する。城池を新しく掘り(.)これ迄の城に接してその西側に本丸を築き、石垣を高く積み重ねて壮大な五層の八つ棟造りの天守閣(てんしゅかく)を建て、沖ノ端川があまりに接近していて要害(ようがい)を欠くとして西方に掘りかえました。もとの川を古川と いっています(.)市街地の掘割は、遠い昔、約1260年前、奈良時代に施行された条里制(耕地整理)の掘割を改変したものであり(.)網の目のような掘割に満々と水をたたえる水郷になり、城の城郭が翼を広げた鶴を連想させたので舞鶴城(まいづるじょう)とも呼ばれ、名実ともに難攻不落の水城、名城柳川城と(たたえ)えられるようになったのは吉政の時からです(.)さらに久留米、福島城の修造(.)柳川久留米街道(田中道)、柳川・福島・黒木(くろき)を結ぶ黒木街道(矢部街道)の新設など多くの業績を残した。また久留米の篠山城を修築し、梅林寺より瀬ノ下まで新 川を掘らせ、福島城も本丸・二丸を新たに築き、三井郡赤司城(あかじ)・山門郡鷹尾城・上妻郡黒木城・三潴郡榎津城(えのきづ)・山門郡松延城、三池郡江ノ浦城を支城としましたが、その他の城砦は取り除いて開田しました(.)しかし慶長14年(1609)2月18日江戸参勤のとき、京都伏見の旅亭において卒去しました(.)享年62歳。京都黒谷金戒光寺に葬られた。2代目に4男忠政(ただまさ)が藩主となり、藤吉村に吉政の墓が建てられ、墓石の真上に大伽藍を設け、大屋小路にあった吉政の菩提寺真教寺をここに移し真勝寺と改めた()父の慶長本土居の築造に引継ぎ柳川の開拓事業において成果を出しました。しかし忠政元和(げんな)6(1620)年8月7日に卒去し、世継ぎの子供がいない理由で家が断絶し城を明渡した。僅(わず)19年間の田中藩でしたが(.)


堀端の弥兵衛門公園の田中吉政像  
 
田中吉政像


田中時代の筑後の城
  ④立花藩の城下
 立花宗茂は大阪の陣では徳川秀忠(ひでたか)の参謀を務め手柄を立て、元和6年(1620)奥州棚倉より旧領地に再封され、筑後柳川12万石の城主となる(.)その時に防衛を配慮して、それまで瀬高町通り東方にあった瀬高門を南方へ移し、遠回りとしている(.)また立花宗茂および歴代藩主によって外郭曲輪も改良、整備されました。『柳川城沿革』によると(.)「瀬高御門北の際から北の角まで424間(763メートル)、鋤崎東(すきざきひがし)の角から井出橋門東の際まで353間(635メートル)、外郭曲輪土居(がいかくぐるわどい)の総合計7163間(12893メートル)、即ち3里11町23間とす」とあります。幕末の13代藩主の立花鑑寛(あきとも)まで立花藩の城下町として246年間続きました(.)

   ⑤柳川城炎上
 明治5年(1872)1月18日原因不明(廃藩の混乱を鎮める計画的放火ともある)の火災によって柳川城は失われた(.)海老名弾正の書翰要約「火事は午後9時頃知りました。(弾正宅は外小路西北隅)城の北側より出火(.)出火点は殿守の附御櫓へんか?)堀側南・西・北は人の山・・・上階は全く火焔に包まれ、終に猛火の真中に傾きつつ倒れ落ちた(.)そのせつな一同泣き叫びました」とある。また森を焦がした炎上は、武家屋敷の柱に縦罅(たてひび)を走らせた(外小路十時邸)、遠く中山の白壁を紅に染めた(立花茂久氏母堂の話による)藩民は「既に一時代が終わった」ことを体感したことであろう(.)武家屋敷では家を解体して、家中を離れ、離れた場所に移築して住む武家もいた(.)明治12年の測量地図では、武家屋敷が無くなり田んぼの表記が多い。柳川藩の記録も焼失し、新県庁に書類の引渡しを好まず放火したとも言われる(.)明治6年(1873)の町村制の実施により16あった小路名と本城址・三の丸東西北(かく)が町名に改正され、城址などは本城町となった。城の石垣は明治7年(1874)の大風により海岸堤防が決壊(けっかい)した為、新開の地に運ばれ、その補強に転用(てんよう)され失う。まもなく明治8年(1875)12月に城址は陸軍省(のちの大蔵省)から競売で民間に払い下げられ、柳河の木下庄吉氏の私有地となり、城濠には(はす)が植えられ、蓮根畑となり、二の丸は畑に、本丸址は牧場となり避病院が建てられ牛が2、3匹うろつき、荒涼たる廃墟(はいきょ)となり萱が欝蒼と茂り、狐や(ふくろう)の鳴き声が聞こえ、荒城の悲哀(ひあい)を物語るものがあったという。欄干の青銅製の擬宝珠(ぎぼし)明治45年(1912)に三柱神社三橋町高畑の神橋に移設され現在2個が現存する(.)
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歴代柳川城主
就任時期 実父・嫡出関係
蒲池氏14代目   蒲池治久 (はるひさ) 1501~1503年(文亀年間)~   下蒲池(柳川城)5代。柳川城の築造に着手し蒲池城の支城とした
蒲池氏15代目 蒲池 鑑久 (あきひさ) 1532~1555年(天文年間) ~  下蒲池(柳川城)6代
蒲池氏16代目   蒲池 鑑盛 (あきもり) 1559年(永禄2年)~  柳川城を改築拡張を行ない、蒲池氏の本城とした
蒲池氏17代目  蒲池 鎮漣 (しげなみ) 1578年(天正6年)~   鎮並とも書く。佐嘉城に歓待を受け龍造寺の部隊に騙し討ちされ、下蒲池は滅亡する
龍造寺氏の家臣   鍋島信茂 (なおしげ) 1581年(天正9年) ~  別名、信昌・信生などあり。龍造寺の家臣。肥前佐賀藩の藩祖
 龍造寺氏の家臣 龍造寺家晴(いえはる)  1584年(天正12年)~  父は龍造寺鑑兼。龍造寺四家のひとつ諫早家の始祖
立花藩初代  立花宗茂 (むねしげ) 1587年(天正15年)~   豊臣秀吉より筑後柳川13万石を賜り城主となる
田中・筑後藩主   田中吉政 (よしまさ) 1601年(慶長6年)~ 徳川家康から岡崎10万石から筑後・筑後藩32万5千石に加増されて城主となる
 〃 2代目  田中忠政 (ただまさ)  1609年(慶長14年)~  父の吉政の卒去により藩主となる。
立花藩再封
立花宗茂 (むねしげ)
1620年(元和6年)~ 徳川家康により奥州棚倉より旧領地の筑後柳川12万石に再封され、城主となる
2代
立花忠茂 (ただしげ)
1639年(寛永16年)~ 高橋鎮種の次男(立花宗茂の実弟)立花直次の四男
3代
立花鑑虎 (あきとら)
1664年(寛文4年)~ 立花忠茂の四男
4代
立花鑑任 (あきたか)
1696年(元禄9年)~ 立花鑑虎の二男
5代
立花貞俶 (さだよし)
1721年(享保6年)~ 帯刀家二代立花茂高の次男・立花貞晟(さだあきら)の養子となっていた
6代
立花貞則 (さだのり)
1744年(延享元年)~ 立花貞俶の二男。暴漢のために死去
7代
立花鑑通 (あきなお)
1746年(延享3年)~ 立花貞俶の三男。老齢を理由に隠居して五男の鑑寿に家督を譲り、翌年に69歳で死去
8代
立花鑑寿 (あきひさ)
1797年(寛政9年)~ 立花鑑通の五男
9代
立花鑑賢 (あきかた)
1820年(文政3年)~ 立花鑑通の四男立花鑑一(あきがず)の長男
10代
立花鑑広 (あきひろ)
1830年(天保元年)~ 立花鑑賢の長男
11代
立花鑑備 (あきのぶ)
1833年(天保4年)~ 立花鑑賢の二男
12代
立花鑑寛 (あきとも)
1846年(弘化3年)~明治4年(1871) 一門立花寿俶の子最後の藩主。明治2年(1869)には版籍奉還を行なって知藩事となる。廃藩置県により明治4年(1871)に柳川を去り東京に移住する

    
⑥柳川城址保存運動
 大正6年に山門郡が8,000円で買戻し、柳川城保存会が発足して城址保存と宗茂公の銅像や競馬場建設の案があったが実現しなかった(.)大正11年(1922)に城址が山門郡から城内村に15,000円で売り渡された。大正期末から石垣の礎石(そせき)発掘が3年間を要して行われ、発掘した石材は約60万(かん)(22万5千kg)、最大のものは200貫(750kg)もあり、公園4周の固め、公会堂、庭石、石碑などに使用された。水田化する計画案が明らかになり(.)北原白秋の城址保存案で公園化し運動場・動植物園・公会堂・美術館建設案が持ちあがりる。昭和3年(1928)に御典事業とし城址は柳城公園となり、翌年に公会堂が建設され北側に鋼鉄製の警鐘台(けいしょうだい)(火の見櫓)が建設された。城濠が埋立てられ、5町9反2畝の水田に開墾(かいこん)される。この水田の半分は維新当時から城内村に居住している旧藩士の希望者に、半分は城内村在住の耕地面積3反以下の農家に自作用農地として払い下げられた(.)城趾の一部に新たに造られた築山(へそくり山)を残して(.)昭和22年(1947)城内村が柳城中学校用地の一部として提供し、太郎稲荷神社は翌年に坂本町の日吉神社境内に遷され、昭和26年に公会堂は撤去された。現在は本丸と周りの内堀が柳城(りゅうじょう)中学校( )二の丸と周りの内堀が柳川高校の校地となり、天守跡の高台が市指定史跡となっています。水郷(すいごう)柳川」の名のとおり柳川城周辺に縦横に張り巡らされた中堀、外(.)水門などが残されており、どんこ舟に乗る川下り観光は、当時の城下町の雰囲気を味わうことができます(.)
 
 
 唯一残っている柳川城の写真
柳川城跡東北隅より撮影(大正13年) 
   
開墾整備された畑の農作業風景  城濠を埋立造成した水田・公会堂が見える 

   【本丸】
 本丸の周囲は石垣の上に築地塀を築き、南東の隅に二層の「巽櫓(たつみやぐら)」、北東の隅に望楼付きの三層の「艮櫓(うしとらやぐら)」、北西の隅にも、同じ三層の「乾櫓(いめいやぐら)」の方角を意味する名の櫓があり、南面と西面の中間には、単層の「中櫓」を設けて防備を固めていた(.)
110m四方の本丸敷地の南西寄りに(.)高さ8mの石垣に囲まれた15×19mの天守台に築かれた五層五階の「天守閣」は36mの高さを誇っていた。棟飾(むねかざり)(しゃち)
の眼は黄金に輝き、屋根千鳥破風(ちどりはふう)唐破風(からはふう)を組合わせた八棟(やつむね)造りで、最上階は四隅に戸袋のついた腰窓様式の望楼(ぼうろう)で筑後国や有明海の遠方には雲仙岳を望めたであろう。また柳川城の城郭が翼を広げた鶴を連想させたので「舞鶴城」とも呼ばれた(.)本丸の中央には1階建坪741坪の京の桃山風(ももやまふう)をとり入れた内外装で贅沢(ぜいたく)を尽くした部屋数40室余りの接待を目的とした「本丸御殿」があった。本丸と二の丸の境は多聞櫓(たもんやぐら)で仕切られ、中央には切妻造り、単層八脚の警備用の「本丸御門(ほんまるごぼん)」があった
        (天満宮(.)
 天守の出入り口となる「付櫓(つけやぐら)」は外から見えにくい北側に配置され(.)本丸の北側には天満神社があり、本丸の南側には幅、千貫ともほめたる神木の「千貫松」があったという。安永年間(1772~1781)に枯れて()ちたとある。天満神社は田中吉政公が天守閣を築くにあたり、城の鎮護神(ちんごかみ)として小祠を建て祭る。立花宗茂公が入城のちに北の丸の常福寺の146坪の敷地に移された。明治44年になり天満神社坂本町の日吉神社に合祀(ごうし)された(.)

          (太郎稲荷・繁盛記) 
 柳川城の中ノ島にあった立花家守護神の稲荷社は柳川ばかりでなく江戸の下屋敷(現・入谷2丁目19-2)にも、立花家の鎮守(ちんじゅ)として祀られていた。この太郎稲荷については堂々たる江戸の一頁を飾っている。「徳川実紀」の享和3年(1803)2月の条に「浅草田圃なる立花左近将監鑑壽(あきひさ)(8代藩主)が別墅(べっしょ)の鎮守稲荷の社(世の人は太郎という)利生(りしょう)あらたなりとて江戸並びに近在の老若男女が参拝群衆すること(おびただ)しい、明けの年も、いよいよ賑わい、参詣(さんけい)(ヤカラ)は道に連なり毎日、人の山を築く。二とせ(2年)ばかりにして、衰廃(すいはい)せしとぞ」とある。享和年間に麻疹(ハシカ)の流行があり流行病を治す神として人々の信仰を集め、明治元年に衰退をみせるまでは、麻疹と同じく参詣も何回も流行(はや)(すた)れを繰り返した。江戸最大に流行した時期は賽銭は月に百両にものぼり、あまりの人手に喧嘩(けんか)口論まで起こる程賑わった。柳川藩では屋敷内の太郎稲荷の参詣を許可して「太郎稲荷参詣」の門札を配布し、収益を(はか)っていた。この繁盛に便乗して門札の偽造者や稲荷の御守札を売り出した横着者(おうちゃくもの)も出てきた。かかる繁盛は流行歌・落語・演劇でも太郎さんを脚色して人気を(はく)している。享和4年(1804)には太郎さんの御利益を授かったとして大門通り亀井町の甚兵衛・七吉兵衛から神輿(みこし)二脚の奉納の願いがあり、その他御祈願成就と言って奉納寄進者(きしんしゃ)が相次いだという。江戸の地誌「増訂武江年表Ⅱ」の慶応3年(1867)9月の項には「浅草田圃(たんぼ)立花侯下屋敷鎮守、太郎稲荷へ参詣群集する事始まれり、(中略)此の辺新堀と唱えし溝の両側へ、茶店、食舗等立てつらね、桜の稚木(わかさ)()へ並ぶ事一町(109m)程なり、石の鳥居、石灯籠、桃灯(とうか)、幟幕等、(おびただ)しく奉納し,日々参詣して新符を乞受け、霊験を仰ぐ人多かりしが、翌年4月の頃よりして次第に絶えり。」明治元年(1868)の項に「去年より(にわ)かに諸人群をなして、春は(こと)(にぎわ)ひけるが、世上忽屑(くずな)によりてか、四月の頃よりして謁祠の輩次第に減じければ、いまだ造作なかばなりし商店も、皆空しく廃家となれり」と廃れてしまった太郎稲荷を記載している。樋口一葉(ひぐちいちよう)の「たけくらべ」に主人公が太郎稲荷神社に商売繁盛の願掛(がんか)けに行く場面があります。一方、郷土の柳川での太郎稲荷の御利益は藩政期に疱瘡(ほうそう)に効くと信仰されていた。明治維新後、民有地となると信者が太郎稲荷を二の丸址に移し(.)明治25年頃まではその祭日には仕掛(しかけ)花火などがあって高畑の祭礼に劣らぬ人出があったという。現在、太郎稲荷は日吉神社に遷座されている(.) (柳川史話参照(.)
 落語の題目「ぞろぞろ」の内容は吉原田んぼの真ん中にある太郎稲荷。以前は繁盛していたが今は参詣人も無く(さび)れ、お堂は傾き、「正一位太郎稲荷大明神」の幟も古ぼけて破れかけている。太郎稲荷の前にある一軒の茶店にも客がなく、荒物、(あめ)や菓子を売って生活していた。この茶店の老夫婦は太郎稲荷を信心し守っていた。ある日、夕立の雨宿りで大勢の人が茶店に()け込んできた。お茶に(.)売れずに長く残っていて角が丸くなったハッカのお菓子などを食べながら雨が上がるのを待っている。やっと降り止んで一人の客が店を出て行ったがすぐ戻ってきた道がぬかるんで(あぶ)なくて歩けないと言い、わらじを一足買って行き、あとの客も買っていって全部売れてしまった。これも太郎稲荷のご利益だろうと、茶店の老夫婦は有難る(.)そこへ知り合いの源さんが駆け込んで来る。今の夕立は大音寺の前で雨宿りをしていて(.)これから坂本の方へ行くと言い、わらじを一足売ってくれと言う。さっき全部売れてしまってもう品切れだと断ると、(げん)さんは天井から一足ぶら下がっていると言う。茶店の爺さん見ると確かに一足だけぶる下がっている。おかしな事があると、わらじを引っ張るとあとからぞろぞろっとまた一足わらじが現れた(.)一足売れて引っ張りとまたぞろぞろっと一足出てくる。さあ、こうなると評判の立つのは早い。茶店のわらじを一目見ようと見物人が押しかけ、みやげにわらじを買って行ったりで茶店も大繁盛(.)これが太郎稲荷のご利益というのでこちらにも参詣人が押し寄せ、お堂も立派になっとというお笑いの一席です(.)
  「柳川明証図会」や「耽奇漫録(たんきまんろく)」を著作した柳川藩士の西原一甫(いっぽ)梭江(さこう))は、江戸で麻疹(はしか)が流行した享保年間は江戸留守居であった。古書画・珍物奇物の品評会(耽奇会)の文政8年(1825)2月の耽奇漫録(②書面)の記録で「浅草田圃下屋敷の参詣の群衆は(.)享和3年(1743)6月末よりの事にてありし。藪の内に(きつね)2匹いて、子を育てても、何処に行くこともなく、古くから行方知らずや盗難などに()った人が、その狐に願掛けをしてきたという。しかし太郎稲荷が有名になったのは、当時流行していた麻疹(はしか)が時間経過して治ったのを太郎稲荷の御利益と勘違いしたのが原因である。その太郎稲荷参詣で授かった印鑑(お札)は数万におよび、常識では考えられないほどである(.)よって取り集めたたる反古(ほご)(不要となった紙)2巻と朱印をこの度の一品に充てるなり。」と一甫は冷静に分析している(.)立花家紀には疱瘡の御利益のほか、盲人が目が見えるようになったとか「腰ぬけ」が立てるようになったという尾ひれが付いていたと記載されている(.)(吉田秀樹様,古文書提供掲載(.)
 
小林清親・浮世絵版画

耽奇漫録 に紹介された太郎稲荷のお札・印鑑
 
②耽奇漫録 太郎稲荷参詣の記事
麻疹流行の御利益文字あり)

御城公園に復興された太郎稲荷と昭和5年の洗水盤設置

 
昭和23年に日吉神社境内に遷された太郎稲荷大明神
 
 柳河明證圖會(本丸・周囲の櫓・内堀の中島)
柳川城本丸平面図拡大 ←クイック

寛政3年4月改御城御絵図の複写図 
 
 
寛政3年(1791)御城御絵図 伝習館蔵を縮模写 
   
本丸東北隅と西北隅の櫓((うしとら)櫓・(いぬい)櫓)   二丸から本丸に通ずる本丸御門   本丸南東隅の櫓(巽櫓)
 
   【二の丸】
 100m四方の二の丸敷地には城主の「屋形(やかた)(住居)」や庁舎でもある「会所」があった。二の丸周囲は芝生の土居(土塁)の上に石垣と築地壁を巡らし、東側石垣沿いに2棟の多門櫓(長櫓)があって(.)南東隅の「二の丸櫓(単層)」に連なり二の丸南側土居中央に城への出入り口である「二の丸御門(ごもん)」があった二層入母屋造りの楼門で、二階の太鼓櫓からは昼夜の時報や緊急時の総登城の太鼓が鳴らされ、「太鼓門(たいこもん)」とも呼ばれた。下図の二の丸内堀の東にある三の丸東には橋が架かった内堀の「取水口」や穀物を集積する「長庫(長倉)」が描かれている(.)二の丸には藩主の子女や女中達が住まう、二の丸座敷(藩主の国元における日常生活の場)がありました(.)手狭になったので元文3年(1738)に集景亭のある別荘地に移築され、「御花畠」と呼ばれた。その後の二の丸は営繕用の施設として利用されたという(上部図)(.)
   

      寛政3年御城絵図の謄写(伝習館蔵)
柳河明證圖會(二の丸・欄干橋)   

     欄干橋(らんかんばし)   
 三の丸から城への、ただ一箇所の登城口である「二の丸御門」への欄干橋(らんかんばし)は幅約5.1m、長さ約22.5mあり、絵図に描かれている欄干の14個の擬宝珠(ぎぼし)慶長4年(1599)にみやま市瀬高町上庄の鋳物師、平井惣兵衛(ひらいそうべい)が鋳造したものです。柳河明證圖會に「二の丸より三の丸へ架かる橋なり。からめ手擬宝珠左右一四ことごとく(めい)あり九州筑後国山門郡柳川城の橋なり。慶長四己亥年(つちのとい)八月吉日。作者瀬高上庄の住 平井惣兵ヱ尉平生定衛 小工一三人 重八九斤」とある(.)
欄干橋手前には幹周り一丈四尺「鬼松」「蛇松(じゃまつ)」の一対の松があり、厳しい様相の古木であったので鬼,蛇のおそろしい名が付けられたとある(.)「蛇松は天明年間(1781~89)に落雷で幹を裂かれ枯れてその後植えつきたり」とある(.)
現在、欄干橋は無いが(.)橋脚の石材は柳川城の内堀の四隅を示す石碑として利用され、欄干の青銅製の擬宝珠(ぎぼし)明治45年(1912)に三柱神社三橋町高畑の神橋に移設されていたが、戦時中に軍需用に供出され(.)4個だけ残り昭和57年(1982)10月に欄干橋の架け替えで使用されている(.)

戦前の三柱神社の欄干擬宝珠

     内堀
 南北およそ200m、東西およそ340mの四角形の堀が本丸・二の丸を囲み( )幅は40~50mで、西側は特に広く82m(45間6尺)あり(.)その中ほど本丸寄りに樹木の生茂った本丸目隠しか( )思われる中島があった。堀の給水門は外堀の北隅の明王院水門、東の新町水門から(.)排水門は南西隅の木戸御門から東沖端川の引込みの二丁井桶が設けられている(.)内堀の周囲は(.)と北と西側が道路で、南側が城の表通りである幅約10m三の丸往還(おうかん)には東端に「黒門」があり(.)西は藩主の住いである「御花(おはな)」に通じている( )東側は穀物の集積場である「長庫( )(長倉)の前には幅約23mの広場があった(.)

「柳河旧城図」中野春翠
柳川城石垣(右側は柳川高校) 柳川城西側内堀跡 柳川城本丸跡
 
 
    【三の丸】
 三の丸(今の本城町)は全周を広い中堀と防塁に囲まれ、重臣たちの屋敷があった。お城の三の丸から外に出るための正式の門は、東側の長屋門である「黒門(くろもん)」があり、黒門脇と南東隅には、それぞれ二層入母屋造りの(やぐら)を構えて警備していた(.)黒門は、今では残っておりませんが、二層の櫓門で、防火のため門扉に鉄筋が張られ、やぐら全体が黒く塗りつぶされたところから(.)黒門と名づけられました。黒門の外には黒門橋があり、これは土を突き固めた土橋でした(.)
 三の丸北西の中堀の坂本小路との境界には門番役の名を付けた「弥兵衛門(やへえもんばし)」があり、門外には「弥兵衛門橋」が架かっていた(.)さらに同じく北側の中堀の柳小路外小路の境界には「藤兵衛門(とうべえもん)」があり門外には「藤兵衛門橋」が架かっていた(.)内堀に面した城の南側が「三の丸」、西側が「西三の丸」で重臣の屋敷が建ち並んでおり、二の丸欄干橋の正面付近には「
御厩(おんまや)」が設けられていた。地名として三の丸の東には御厩(おんまや)が南三の丸の奥に茂庵小路、西三の丸の奥に於姫(おひめ)小路、北三の丸の奥に坊主(ぼうず)小路があった(.)

   (黒門と豊後橋)
 お城の三の丸から外に出るための正式の門は、東側の長屋門である「黒門(くろもん)」があり、黒門脇と南東隅には、それぞれ二層入母屋造りの(やぐら)を構えて警備していた(.)黒門は、今では残っておりませんが、二層の櫓門(やぐらもん)で、防火のため門扉に鉄筋が張られ、やぐら全体が黒く塗りつぶされたところから、黒門と名づけられました(.)黒門の外には黒門橋があり、これは土を突き固めた土橋でした(.)三の丸から「御花」や外小路に出るために堀の上に「豊後橋」という名の石橋が架けられていました。豊後橋という名は、西原一甫の「柳川明証図会」によると、この豊後橋を新しく架けた時の御家老の月番が、阿部豊後候であったので付けた名と 言 い伝えられている(.)
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     長久寺 三神山大乗院    廃寺
 長久寺は寛永14年(1637)に藩主立花宗茂の建立で真言宗嵯峨大覚寺派の末派であった。本尊は不動明王なり。開山は戸次(べっき)兵部大輔宗通の長子、快鑊法印で肥後高瀬の法就寺の和尚快鑑法印の弟子であった(.)長久寺はもともとは、黒門の外(黒門前南方)福厳寺裏手にあったが、火災にあい、正保2年(1645)に三の丸に再建された。寺地7反6畝23歩、寺領、小田村に30石が元禄14年(1701)に寄付される()また柳川城の太郎稲荷を御守する社司職を稲荷山観音寺金剛院(現・京町)から寛永15年(1638)から引継ぎ、明治4年(1871)8月まで勤めていました。明治2年に廃寺となる(.)
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 長久寺の境内には八幡宮寛永14年1637の建立)・愛宕権現(あたごごんげん)が祀られていたが、天明2年(1782)立花忠茂(ただしげ)公の産神神田明神が勧請(かんじょう))され、社殿が新営され八幡・愛宕の2社も合祀され三神山と呼ばれた。享保年中貞俶(さだよし)公の産神である熊野神社が併祀された。明治10年に神上げをされ、すべて廃社となす(.)
     
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(三柱神社の起源)
 天明3年(1783)
戸次道雪公に「梅岳霊神」の神号が贈られ、長久寺本堂の東に御新宮(梅岳社)に祀られた(.)寛政3年(1791)の御城御絵図(伝習館蔵)には御新宮とある。文政3年(1820)に故人の立花宗茂に「松陰霊神」が、道雪の娘にして宗茂の妻の立花誾千代(たちばなぎんちよ)に「瑞玉霊神」の神号が京都神道管領ト部良長より贈神されたので、9代藩主、立花鑑賢(たちばなあきかた)によって日吉神社の近くにあった唯一宮にそれぞれ祀られた。さらに三霊神を三柱明神として奉することを請願し、文政5年(1822)2月に神宣を賜る(.)これを祝い三の丸で三柱神社流鏑馬が奉納される(.)文政6年(1823)正月25日唯一宮から松陰霊神と瑞玉霊神が長久寺の梅岳宮に遷宮合祀され三柱明神とし、三柱神社が誕生した(.)それまであった梅岳宮に合祀するのでは一藩の宗廟としては規模が小さいので、幕府には神社拡張名目で請願し、高畑(元・三橋町)に新たに用地を定め(,)文政8年(1825)地鎮祭を行い、翌年2月11日に新宮の三柱神社が落成し(.)8月16日の遷宮式には藩主は装束にて参詣し、武士や足軽や扶持人・町人達は神幸の行列を見物することが許された(.)
 長久寺境内の梅岳社は高畑の三柱神社に遷宮した後も、廃寺となり還俗した萩野政樹氏により祭礼が行われた(.)亡くなった明治18年以後は日吉神社に梅岳社の扁額を移したとみられる。今も日吉神社の拝殿には「梅岳霊社」の扁額が架けられている(.)
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     常福寺 松梅山安養院   廃寺
  寛政2年(1790)御城御絵図によると、北三の丸には真言宗、仁和寺(にんなじ)の末寺、常福寺があった。立花宗茂が陸奥棚倉に在城の時、淨津寺の宥栄和尚と仲良くなり、元和7年(1621)宥栄宗茂に従い柳川に来て、始め長久寺に住む(.)寛永9年(1632)8月に三の丸の西の万福寺址に移り常福寺を創建する。然るに淨津寺は棚倉城の北にあったことから三の丸の北に移る(.)境内には天満宮があり、元は田中吉政公が天守閣を築くにあたり、鎮護神(ちんごかみ)として天守閣の北側にあったが宗茂により常福寺の境内に移された(.) (旧柳川藩志参照)
   
明治12年頃の本町ほか11ヶ町測量地図原図(柳川市外三ヶ町土木組合資料)

 内堀を挟んで重臣たちの屋敷があった三の丸と外堀に囲まれた武家屋敷群ある範囲を「御家中(ごかちゅう)」と呼ばれていた。御家中とは一般には大名や家臣団を意味するが(.)柳川で家臣団の集住する地域を指して使われた。御家中は1Km正方の外堀に囲まれた外郭北側には柳川城の正門である「辻門(つじもん)」があり、南の三の丸の入口「黒門(くろもん)」まで約1Km本小路が通じていた(.)現在の市役所の敷地は立花家の親戚(.)立花帯刀家の広大な屋敷や武道鍛練場がありました。帯刀家2代茂高の次男の貞俶(さだよし)は第4代藩主・鑑任(あきたか)の死により、その末期養子となり、23歳で柳川藩5代藩主となっています。本小路の中間点には「高門(たかもん)があり高門橋が架かっていた( )高門は享保18年(1733)に焼失して再建されなかったとある(.)高門橋を渡った東には森に囲まれた広い旧宅地があった。ここは、小野和泉(鎮幸)の屋敷で4千坪もあった(.)小野和泉は立花宗茂の功臣で子孫は代々大組組頭兼家老を世襲した。享保6年(1721)小野春信が平野山(大牟田市)に炭坑を開き(.)経済的に裕福であり、藩財政に寄与することも大であった。現在は整地され、その一隅に住いがある(.)
戦前の高門橋からの眺め
  先の布橋で西に折れると「黒門」です(.)武家屋敷群の単位は「小路(しゅうじ)」と呼ばれ、地名として本小路のほか北の位置には柳小路北柳小路・日吉神社を挟んで坂本小路坂本小路(.)薬師小路があり東に大屋小路袋小路・高御門高御門三軒小路があり、南には奥州(おうしゅう)小路宮永小路布橋会所前三軒小路黒御門の地名があり、三の丸に三の丸の東には御厩(おんまや)が南三の丸の奥に茂庵小路、西三の丸の奥に於姫(おひめ)小路豊後橋竹御門の地名が、北三の丸の奥に坊主(ぼうず)小路がある。また北三の丸と西三の丸の境は門の名をとって弥平門(やへいもん)の名で呼ばれることもあった。西の外堀に沿って外小路があり。江戸後期には、外堀を挟んで西側に接する鬼童(おんどう)小路江戸小路も「御家中」に組みこまれたようです)これらの小路の名称は町名として現在も残っています(.)外堀の西、沖端(おきのはた)との境界には警備する「木戸御門」があり( )往古に扉が竹製で造られていた事から通称「竹御門(たけごもん)」と呼ばれた。「福岡県史資料」第二(しゅう)によると明治11年(1878)当時の戸数・人口は宮永町50戸・247人、奥州(おうしゅう)町36戸・190人、袋町21戸・128人、本町68戸・337人、一新町7戸・36人であった(.) 

  明治12年頃の測量地図(柳川市外三ヶ町土木組合資料)折り目・色彩大幅修正・加筆
   
明治10年頃の新外町の地図  江戸期の小路名 
     新外町(しんほかまち)(外小路と呼ばれていた。城の西方・南端には御花がある))
 外小路は内城の西部を占め、南北1000m余、西の沖端川から侵攻する敵を撃つ前進基地の捨曲輪(すてくるわ)であった。よって城壁もなく、堀幅も外堀(川下りコース)の半分の7間(12,6m)であった。外小路と内城と合わさって方10町(約99173、6m2の柳川城が形成される。寛政6年の御家中屋敷図では屋敷は武家39軒、足軽は総外堀端に30軒配置され東の鋤崎土居と同様の配置であった。明治6年(1873)に外小路は新外町と改称された(.)上図左の明治10年頃の新外町の地図は明治12年の「土木取調」関連の地図と推測されるが、竹御門が記載もれしており、少し上部の橋は明治維新後に新設された鬼童橋であろうか(.)現在は柳川城址の前(本城町)の道が拡張・延長された県道767号本町新田大川線が通じ、鬼童橋の南を第2柳城橋が架かっている(.)明治11年当時の戸数は95戸・582人であったが昭和60年では177世帯・567人で世帯数が増加したと見える(福岡県史資料)(.)
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   オノ・ヨーコさんの祖父・小野英二郎屋敷跡
  この屋敷跡は江戸時代・寛政の絵図に小野平次の名前で記載(最上部タイトル左部に追表示)されていて、幕末には小野平三郎が奥頭分で百石を拝領し、その後継の小野作十郎(英二郎の父)が柳川藩の御能方(お抱え能楽師や藩の式能の采配(.)道具の管理をする役職)を務めていたことが柳川分限帳の記されている(.)オノ・ヨーコ(ビートルズのジョン・レノン夫人)さんの祖父の小野英二郎(元治元年(1864)~昭和2年(1927)は柳川藩士の末裔として(.)この屋敷で誕生し、中学伝習館を経て第4代日本興行銀行総裁を務めた銀行家です。その3男が東京銀行常務の小野英輔(.)英輔の長女が世界で一番有名な日本女性と言われるオノ・ヨーコさん。次女が現在パリを拠点に現代彫刻家として活躍する小野節子(.)元・世界銀行本部長)さんである。このほか小野家からは、元国連大使の加藤俊一氏、その子息の外交評論家・加藤英明(.)小野有五・北海道大学教授など多彩な著名人を輩出している。(現地案内板参照)現在、祖父の屋敷跡は「御花」の北方角にあり(.)玄関の式台をあがると、真直ぐに畳の廊下があって奥に繋がり、右に次の間座敷があった(.)家は平成始め頃に解体され、屋敷の門構のみが残されている。敷地内の樹木は白鷺の巣となっている(.)柳川市が購入したニュースがあったが、歴史を考慮して武家屋敷を再現したら訪れる人を感動させるであろう(.)

表門
 
門構の裏
 
敷地内の白鷺の巣のある樹木
   国文学者・藤村作先生顕彰碑
 藤村作は明治8年(1875)に現柳川市坂本町に生まれ、城内小学校、中学伝習館、熊本の第五高等学校と進学しました。第五高等学校では当時夏目漱石などの立派な先生が多く(.)また国文学研究が注目されていたため、作はその道を志します(.)明治34年(1901)に東京帝国大学文学科卒業。七高造士館や広島高等師範学校の各教授を歴任し、明治43年(1910)東京帝国大学助教授(.)大正11年1922)に教授となる。 近世文学の研究に専念し、また関東大震災による資料焼失を機に(,)私的研究からひろく国文学界全体の発展のため尽力。作は、近世文学を研究対象とした第一人者となりました。雑誌『国語と国文学』を創刊(.)『上方文学と江戸文学』、『近世国文学序説』、『常道を行くもの むらさき』、『国語問題と英語科問題』など多数の著作を刊行し、『日本文学大辞典』全4巻も編纂した(.)井原西鶴の研究者としても優れた業績を残し、『本居宣長』や『訳註西鶴全集』の著作もある(.)昭和9年(1934)第9代東洋大学学長を4年勤める。昭和14年(1939)に定年退職して(.)日中戦争のさなか中国に渡り北京師範学院と北京女子師範学院の名誉教授の職に就きます(.)戦後、国語教育学会、日本文学協会を創設し会長に就任した。 また、多くの学校の校歌の作詞も手掛けた(.)昭和28年(1953)に自宅で病死。享年78歳。娘に「チューリップ」や「こいのぼり」の唱歌を作った作詞家の近藤宮子がいる(.)

藤村作先生顕彰碑
      NHK「八重の桜」にも登場した新島襄の同士・海老名弾正
  柳川川下りコースの一角に「海老名弾正先生顕彰碑」がある。海老名喜三郎(のちの弾正(だんじょう))は、幕末の安政3年(1856)海老名休也の長男として、柳川城下外小路(十時邸の北方)で生まれる(.)15歳で熊本洋学校に入学し、ジェーンズの感化をうけてキリスト教徒となる。その集団が後に「熊本バンド」と呼ばれるようになる(.)のちに卒業生や元在校生約40人が同校教員のジェーンズの紹介で、大挙して京都同志社に転校。明治12年に同校の第一回卒業生15名は全員熊本バンドのメンバ-であった(.)海老名は卒業後、新島の故郷、群馬県安中で伝道活動に従事し、安中教会を創立する(.)明治15年(1882)横井小楠(よこいしょうなん)の長女みや子と結婚する。明治17年に前橋教会、明治19年に東京本郷教会を創立する。その後、熊本に戻り、熊本英学校(.)熊本女学校を創立する。明治23年に日本伝道会社長、晩年の大正9年には母校の同志社大学第8代総長になる(.)就任の辞で4つの基本原則を提示した(.)①人格教育、②デモクラシーノ高調、③国際主義、④男女共学昭和12年に80歳で亡くなる(.) 

海老名弾正先生顕彰碑
 
  大正天皇行啓の折の写真(大正13年(1924)

 左から海老名弾正の妻、宮子、松田道、新島八重、海老名総長、M.F.デントン
     旧武家屋敷「十時邸」   外新町57
 十時邸(とときてい)は旧戸島家住宅(鬼童町49)と並び柳川地方の藩政時代からの武家屋敷です。川下りの中堀に面した十時邸は昔と変わりないが、ただ次の門の裏の板張り(廊下)が今はなく(.)玄関と風呂場が一部変更された程度である。家の特徴は他の武家屋敷と同じく床下を低くして、床下で刀を使えぬように工夫されている。倹約(けんやく)を基本とされ壁は中塗りにとどめ、上塗りは許さなかった。したがって奥まった部屋は上塗りをしてあり、二階は表通りから見えない所にある(.)座敷と次の間の欄間は竹を割った素朴なものが飾りとなっている。一般に庭先が広いのは武術の稽古場としてつかったからである(.)垣根は、生垣が主で大屋でないかぎり土塀や板塀はない。ここは寛政年間の絵図では友清角兵衛の屋敷で、後に戸次の屋敷となり(.)その後に十時の屋敷になった家で、中堅の侍屋敷である。個人所有の住宅であり一般公開はされていません(.) ただ、柳川雛祭り「さげもんめぐり」期間中などだけ期間限定で公開されるようです(.) 
  玄関   
   旧柳川藩主立花家の別邸・お花
 城の西方には外堀に沿って南北に外小路があり南端には旧柳川藩主立花家の別邸の「御花(おはな)」がある。「柳河明証図会」によると、花畠とあり、2代藩主忠茂が遊息所を営み、柳川藩の儒学者安東省庵が「集景亭」と号したとある(.)元禄10年(1697)に、3代藩主、立花鑑虎(あきとら)普請方の田尻惣助(そうすけ)に命じて城の西方の外小路に総面積約7,000坪の集景亭(しゅうけいてい)という別邸を構えたとある。鑑虎英山)の死後は会所となっが、享保16年(1731)、会所は黒門外の布橋に移転している。5代藩主立花貞俶(さだよし)元文3年(1738)、二の丸御殿(座敷)が手狭になり、貞俶が花見や相撲見物に使っていた三の丸の茂庵小路(もあんこうじ)御茶屋でも手狭となったので、広い敷地のある鑑虎の別荘地であった集景亭二の丸御殿を移築され(.)藩主子女や女中が二の丸より引越し、御花畠と呼ばれた。藩主の国元での居住は本丸御殿で休息を御花畠(おはなばたけ)としていたが、嘉永3年以降は藩主の国元での住まいとしている。現在の建物は明治42年(1909)から43年に、14代の立花寛治(ともはる)の時代に新築された建物です。西洋館は明治43年に立花家の迎賓館(げいひんかん)として建てられました。明治6年(1873)町村改定において町人町の柳河町外町(現在の表記は保加町)と混同を避けるために新外町に改められた。(.) 
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御花・松濤園
     (早馬神社)
 城内から藤兵衛門を出た外小路に早馬神社があった。祭神は蕃山祇神で往古から石を標として神位としていた。柳河明證圖會によると例祭は2月初午(はつうま)の日で、往時は住吉坂本小路の山王例祭には御幸の式ありてその時に流鏑馬(やぐさめ)も行われていたが、いつしか(すた)れたが、弓矢を捧げて神事がおこなわれた。外小路の鎮守として崇敬されてきた。明治44年に日吉神社に合祀された(.) 

 
弥兵衛門跡 弥兵衛門傍の中堀  
     【坂本町(さかもとまち)】 (城・北三の丸の北側にあり、坂本小路並と薬師小路と裏坂本小路であった)
  柳川城の鬼門を守る長久寺と内堀を隔てた山王さん日吉宮との関係は、平安京の鬼門の北東に位置する比叡山延暦寺(現・滋賀県大津市下坂本)とその東麓、湖畔の山王総本宮・日吉大社大津市坂本)の関係と同じで、坂本小路の起名はこれに由来する。明治以前は神仏混交山王権現社(さんのうごんげんしゃ)と柳河山神護寺最勝院とが坂本小路の西正面の同境内にあった。最勝院の支院である東光山薬王寺(通称薬師寺)も近くにあった(.)
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     日吉神社山王さん
  山王権現社の創建は正応3年(1290)、社村(彌四郎)の農長が近江国(おうみこく)坂本に鎮座する山王大権現(現在の日吉大社)の分霊を迎えこの地に祀り村内の鎮守としたことに始まる。彌四郎村(現・柳川市弥四郎町)は、この社の南方城外にあり、以前は現在の弥四郎町まで続いていたであろう。この宮は文亀(ぶんぎ)・永正(1501~20)中、蒲池治久(かまちはるひさ)により蒲池城の支城である柳川城を築城した時に鬼門(きもん)の守護神とされた。蒲池氏滅亡の後は柳川城主の立花宗茂田中吉政立花藩代々の城主らに厚く信仰され( )また郷土の総氏神として藩民(こぞ)って信仰された宮です。元禄9年(1696)立花鑑虎(たちばなあきとら)は。心願成就のため、再建されたのが現在の建物である。神護寺最勝院は往時、山王宮の別当であり、万治(まんじ)年中(1658~1661)に天台宗に転じて武州東叡山(とうえいざん)の末寺となる。三大師堂は宝永4年(1707)に4代藩主、立花鑑任(あきたか)の建立で、その大師の尊像は、法弟子、九条師輔十男阿遮黎慈忍の作である。ほかに坂本小路には天満宮や薬師寺(やくしじ)があった。薬師寺は最勝院の支院にして薬師仏が安置され、寺の扁額は黄檗宗の鉄文の書であった。薬師寺は往時は田んぼのなかにあったが、開けて(さむらい)の屋敷に変化した。その寺の境内には天文6年(1538)2月久我対馬守大蔵朝臣久貞の建てた碑があったと言う(.)慶應年間まで薬師寺はあったが今は薬師小路の名が残っている(.)明治維新後の廃仏希釈により神護寺最勝院は廃寺となり仏具は出来町の長命寺に送られた。神仏分離により山王権現社は日吉(ひよし)神社に改名された。維新後三の丸の梅岳社が合祀され、また明治44年の冬に旧御家中内の小社、数神が合祀された。(下図は柳河明證圖會)(.)
 拝殿前右手の大型水鉢は元禄8年(1695)、赤穂浪士討入りの6年前の寄進で、丸一紋章は方形にすれば日吉の日となる(.)同じく、堂々たる藩主献燈は笠上の宝珠に藩主定紋の陽刻と竿石裏面に道雪公に神号が官許された天明四年(1784)季穐(.)晩秋)が陰刻があるだけで正面に献燈などの字は全くない藩内では御新宮(おしんみやさん)(坂本町日吉神社→三の丸→三柱神社脇参道)・上庄祇園宮・渡瀬祇園宮の三社だけである。天明四年は御新宮創建の年で、祭神は戸次道雪である(.)


日吉神社


日吉神社拝殿(長久寺の梅岳霊社の扁額(左上)もある)

柳川城から遷宮した太郎稲荷
    長谷健の文学碑   柳城公園
    長谷健は、明治37年柳川市下宮永に生まれ、昭和5年上京。教員をしながら創作活動を続け、昭和14年に小説「あさくさの子供」で第9回芥川賞を受賞しました(.)終戦近くから郷里へ疎開した長谷は、火野葦平・劉寒吉(りゆうかんきち)ら地元福岡の作家たちと交友を深めながら執筆を続けます(.)また、柳川文化クラブの会長を務め、北原白秋の「帰去来」詩碑建立にも尽力しました(.)昭和24年、再び上京した長谷は、児童文学を中心に執筆活動を行います。『からたちの花』『邪宗門(.)は北原白秋をモデルとして執筆したものですが、昭和32年この完結編『帰去来』を執筆中、交通事故で死亡しました(.)文学碑は豆腐好きの故人を偲んで(.)工芸家豊田勝秋氏の設計により四角な豆腐型の碑が昭和33年に建立された。碑面の題字は火野葦平(ひのあしへい)の書で、碑裏面の撰文は劉寒吉によるののです(.)
    木村緑平の句碑     柳城公園
     木村緑平は、明治21年に柳川市西浜武に生まれ、長崎医専時代に荻原井泉水に師事して、俳諧に地位を得た自由律の俳人です。句碑は全国から集まった浄財をもとに昭和43年に建立され(.)表面には雀の句が多いことから「雀生まれてゐる花の下をはく」(.)裏面には種田山頭火(さんとうか)と親しく緑平氏は山頭火がまだ売れていないときに(.)生活を支えていました。山頭火を訪ねたときの句「草の花ほんに月がよか」と柳川弁で詠った句が刻まれている(.)二人は当初、俳誌『層雲(そううん))』の同人であり、手紙のやりとりこそあったものの、全く面識はなかった。しかし(.)大牟田の三井三池鉱業所病院に勤務時代のある日、無銭飲食をして捕まった山頭火の身元引受人に(.)緑平がなったことをきっかけに、二人の親交は始まった(.)破滅型の人間である山頭火を心から受け入れてくれたやさしい緑平を(.)山頭火は親しみを込めて「南無緑平老如来(なむりょくへいろうにょらい)」」と呼んだ(.) 

 
うなぎ供養碑

 
  柳城公園には昭和42年に柳川うなぎ料理組合や漁協などが建てた「うなぎ供養碑」がある。表面に劉寒吉(りゅうかんきち)の「筑後路の旅を思へば水の里や、柳川うなぎのことに恋しき」と自筆の短歌が刻まれている(.)  
     宮川早生温州(うんしゅう)顕彰碑   宮川温州みかんの発祥地
日吉神社の北側の裏坂本小路に原木第2代樹を移植し宮川早生温州顕彰碑が建てられている。現在、早生温州(わせうんしゅう)みかんの一種として広く普及している「宮川早生」の原木の発祥地(はっしょうち)で、明治43年(1910)頃に宮川謙吉邸にて一枝に早熟で美麗な大果が結実しているのを発見し(.)大正5年(1916)、中山村の立花家農事試験場主催(しゅさい)の品評会に出品した。大正14年(1925)に農学博士田中長三郎が宮川早生と命名して学会に発表しました(.)山川村(現みやま市山川町)の田中亀蔵氏と石井佐吉氏は率先して、この種の苗木育成と高接に努めました(.)昭和11年に福岡県は原木を天然記念物に指定し、その保存につとめたが、昭和23年に枯死し、現在原木第2代を移植してある。宮川早生(わせ)は味の「まろやかさ」が特徴の温州みかんで(.)育てやすく収量性が良いなど優れた特徴を持つため、古くから全国的に広く栽培されています(.)    
    【本町(ほんまち)】 旧名・本小路(明治6年まで、ほかにいくつかの小路であった)
 本小路は辻門より南行し、布橋枡形で鉤の手に曲って西行し、黒門の外枡形で三の丸の縦堀に沿って何行し、三軒小路(福厳寺の裏手)に至る、1000m余の道であった。その道筋には黒門前通り布橋筋高門筋帯刀橋筋(たてわきばしすじ)会所前三軒小路御木屋側三軒小路の小名があった。柳河明證図会「辻門、城内に入るの咽喉にして昼夜往来絶ゆるひまなし。此所の番所にてあらためて旅人を入ることを許さず」と。(.)
 外堀の北には柳川城下の正門である「辻門」があり( )城内(御家中)に入る通行人は厳重な検問を受けました(.)高札場を設け、布告法令などが掲示された辻門前の「札の辻」は柳川藩内の道路の起点とされ(.)北方面の出橋(井手橋)を渡ると、外町(今の保加町)の宿場町からは肥後街道柳川街道(田中街道とも呼ばれた)が延び(.)また東方面の瀬高町(現・京町)から南(細工町)に曲り、東に曲った新町の「瀬高門」からは三池街道肥後街道)や瀬高街道が延びていました(.)柳河明證圖會には(.)城内へ入るの咽喉(重要)にして昼夜往来絶ゆるひまなし。此所の番所にてあらためて旅人を入るを許さず。」とある(.)辻門の左右に多聞櫓(たもんやぐら)(銃眼を備えた長塀)をわたして、両端に櫓を設けて(.)内城防衛の第一線とした。塀内に牢屋敷ががあった。家臣の有罪者を収監したであろう。城下の田町牢は藩民用であった(.)辻門は明治5年に競売で大川市の淨福寺の山門として1階に変更して移築されています伝習館高校北側の掘割脇の遊歩道には辻門跡の石標があります(.)また明治維新後は北三の丸の長久寺内にあった洋学校を本町黒門側の由布(ゆふ)安芸宅に転校させ、十時嵩を校長として遠藤敬之を招いて英語教師とし宮本・堀を算数教師とし、中野・安藤を漢文教師とした(.)明治6年に伝習館の西方の建物で英学校とした(.)明治17年、60戸・322人。昭和60年、256世帯・858人。

辻門跡の石標

 
辻門付近

 
 柳河明證圖會(辻町内外) 大川市の淨福寺に移築されている辻御門 
 
       藩校・伝習館    現・伝習館高等学校
 伝習館は300年以上前の安東省菴の家塾に始まる。柳川の藩学の草創者、安束省奄(朱子学)の曽孫安東間庵の邸内に聖堂と共に設けた 講堂を基として、文政7年(1824)、11代藩主立花鑑賢(あきかた)によって藩校として創設された。教授に任じられた安東節安は指揮監督も命ぜられ藩校のために貢献しています(.)日本には三体しかないと言われる由緒ある孔子像が伝習館にある。水戸学の基礎を築いたと言われる儒学者朱舜水(しゅしゅんすい)万治2年(1659)(めい)再興運動に失敗し亡命し、長崎で困窮(こんきゅう)した日々を送っていたが、万治3年(1660)柳川が生んだ儒学者安東省菴に援助され、流寓(りゅうぐう)生活を送る。寛文5年(1665)7月に、朱舜水徳川光圀(みつくに)公に招聘(しょうへい)され、柳川を旅立つ時に援助を受けたお礼に省菴に三体の孔子像を贈った。その内の一体が現在、伝習館高校に保存されている(.)光圀は、朱舜水を先生として仰ぎ,藩政や学問思想に大きな影響を受けました。安積澹泊(あさかたんぱく)らも育て,修史にも貢献しました。朱舜水天和(てんな)2年4月17日に83歳江戸で永眠した(.)明治初期に藩学解体し、柳河師範学校など変遷し、明治27年(1894)に福岡県立・中学伝習館設立(.)明治33年(1900)には福岡県立・柳河高等女学校設立。昭和24年(1949)に旧制中学伝習館と柳河高等女学校統合され福岡県立伝習館高等学校発足している(.)
昭和初期の中学伝習館の講堂  昭和10年代末の矢部川(瀬高駅)行の乗合バスに乗る柳河高等女学校の生徒
現在の市役所付近で藁葺屋根の家もある、生徒の服装も戦時的様相が見える 
 
       柳町(やなぎまち)   旧・本柳小路・北柳小路
 江戸時代に著された地誌「太宰管内志」には、「柳の多き処にて負わせたるべし」と、ある。柳川は柳の土地であると言われる。本来は「やなを架けて鮎を獲る川」より起った梁川を柳川と改めたほど柳が多かったのであろう。薪用に植えたとも考えられる(.)やはり堀岸の柳の木により本柳小路・北柳小路と起名された考えられる(.)明治6年(1873)に本柳小路は合併して柳町に改正され、北柳小路は楊柳町(ようりゅうまち)に改正されました。明治15年9月18日に柳町と楊柳町を合併して柳町と改称しました(.)明治17年、39戸・229人。昭和60年、94世帯・295人(.)
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       一新町(いっしんまち)   旧・大屋小路
 文禄元年(1592)、蒲池村の本光寺をのちの大屋小路の地に移し,蒲池鎮漣(かまちしげなみ)(おい)凉好を開祖とする真勝寺は、もと真教寺と称し,御井郡仁王丸にあったが、同年立花宗茂の命により、のちの当地に移し(.)さらに藩主田中吉政の死後,菩提所として現在地(新町)に移したとある。角川日本地名大辞典によると「立花宗茂再封後,家臣大屋十左衛門が家・屋敷を拝領してその中央に居住していたことにちなみ大屋小路と呼ばれた。明治6年(1873)に一新町と改名したとある(.)3反3畝余の屋敷は、この小路では格別に広い。以来屋敷替えはなく昭和60年の364年後での大屋氏の屋敷であった(.)現在は相続で法務局や他人の住居などに分割され、隅に小規模となり居宅とアパートを所有されている。明治17年に6戸、34人。昭和60年34世帯、103人(.)
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       袋町(ふくろまち)   旧・袋小路
  曲輪全体が出入口が一つだけでの袋状になった行き止まりの町からの起名です。寛政年間には吉弘喜兵衛や三池角左衛門の屋敷がありました(.)柳川藩内の歴史の手引き書として、役立っている「旧柳川藩志」の著者渡辺村男の家があった所です。村男は郷土史研究家で「柳川史話」の著者、岡茂政(おかしげまさ)と柳河史談会を開設し、活発な活動を行いました。渡辺家の祖先幸直豊臣秀吉に仕えていたが、立花宗茂が、再封で柳川に入城した時に、召出されて家臣となり、元和(げんな)6年(1620)に袋町に屋敷を拝領して代々、袋小路に住みました(.)ほかに三池角左衛門の先祖は中世には筑後三潴郡を本拠とした有力国人(こくじん)で、豊臣秀吉の九州平定の、のちに立花宗茂の与力として付けられ、その後に立花家の家臣として袋小路に屋敷を構え存続し、明治維新後も柳河県や三潴県の官吏(かんり)として勤務した。明治14年明治25年の2回、県会議員選挙に当選し明治32年に65才で亡くなっている(.)今の袋町は橋(御城橋)が架けられて、南長柄町から新町に通じ、袋の底が抜けた格好である(.)明治17年、19戸・118人。昭和60年、59世帯・168人(.)
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      【奥州町(おうしゅうまち)】   旧・奥州小路
 元和(げんな)6年宗茂公は奥州棚倉3万石から柳川10万9647石に再興され、奥州棚倉より来る家臣106人、旧臣の帰柳川に戻る者60人、新たに召抱えた者50人、肥後の加藤清正に預けた者100人、その他無足の侍・扶持人などに支給およそ10万石と屋敷を配与した(柳川藩誌)(.)奥州(現・福島県)よりお供して来た106人に割与えられたことから元和7年に奥州小路の創設となった(.)寛政6年の御家中屋敷図の奥州小路の阿部(安部)姓は福島県や東北に多い姓であるので、棚倉から随行してきた家臣であろう(.)柳川には住んでいないが、平成25年(2013)に『等伯(とうはく)』で直木賞を受賞した歴史小説作家 安部龍太郎氏(八女市黒木町出身)の先祖も瀬高に屋敷を与えられた後に黒木村に山筒隊を命じられ(.)国境警備として黒木で農業・猟師などを営みながら住み込でいる明治17年、24戸・138人。昭和60年、97世帯・323人(.)
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    梅岳山福厳寺(ふくごんじ)   臨済宗黄檗宗
  福厳寺天正15年立花宗茂が柳川城に封じられと、父の道雪の墓がある筑前立花山の麓にあった曹洞宗立花山梅岳寺を柳川に移された。慶長年間に田中吉政が領した時に壊され家臣の邸宅になる。宗茂奥州棚倉(おうしゅうたなくら)(現・福島県棚倉町付近)から再入城し、城内の中核部に寺を再興して藩主代々の菩提寺(ぼだいじ)とした。寛文9年(1669)、立花家4代鑑虎(あきとら)の時、臨済宗黄檗派(おうばくは)に転じ寺名を梅岳山福厳寺と改めました(.)開山には、海津(高田町)出身の高僧で、当時宇治の黄檗山万福寺に居り、木庵禅師の法弟であった鉄文(てつぶん)が迎えられた。鉄文やその弟子を開山とし領内のいたる所で黄檗宗寺院が開かれました(.)鑑虎は黄檗宗に深い帰依(きえ)(その教えに心から従うこと)があったようで藩内(現在のみやま市山川町や大牟田)に黄檗宗の寺を建立している(.)

福厳寺
       茂庵町(もあんまち)  旧・茂庵小路
 安武方清(やすたけかたきよ)は父母が離縁した後、母が戸次道雪の継室として再嫁したため養子なり、のちに箱崎宮座主麟清の養子となり座主職を襲うことになる。方清はのちに還俗(げんぞく)して自身の組織する箱崎党は道雪や宗茂に従い活躍するが、関ヶ原の戦いの後、立花宗茂が改易されると(.)その翌年に出家して茂庵(もあん)と称した。元和(げんな)7年(1621)宗茂公柳川御再城のとき茂庵は柳川に随行して200石を賜る(.)茂庵の嫡子である東蔵人豪清も300石を賜り城南に住み、これを茂庵小路と称した。子孫は柳川藩士として仕えている。また敷地には藩主が花見や相撲見物に使っていた御茶屋がありました。元文(げんぶん)3年(1738)には二の丸座敷と同じく御花畠に移りました(.)明治17年、5戸・42人。昭和40年、16世帯、51人(.)
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       城南町(じょうなんまち)   旧・御厩(おんまや)小路
  柳川城と城を取り囲む三の丸があった所です。厳しい検問の黒門から三の丸に入ると「御厩(おんまや)」(馬屋)小路がありました。藩主の身辺および城の警固(けいご)に当たる者の場所です。元禄16年(1703)に三の丸欄干橋完成の記録があるが黒門橋であろうか(.)明治6年(1873)に城南町に改称されました(.)
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       宮永町(みやながまち)     旧・宮永小路
 藩政じだいでは多くの武家屋敷が建ち並ぶ界隈でした。宮永小路の起名は立花宗茂の正室であった光照院、通称誾千代(ぎんちよ)は、別名「宮永殿」とも称されます。これは、誾千代が宗茂の柳川入城後、城下宮永に居館を設けて住んだことによります(.)実際の居館址は堀を隔てた南の上宮永町の馬場小路で、現在公民館が建っています(.)明治17年、29戸・227人。昭和60年、130世帯・439人(.)
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      【本城町(ほんじょうまち)】   旧・本丸・二の丸・三の丸
 本城(本丸・二の丸)と三の丸の大部分で形成され、町の東脇に城南町、茂庵町(もあんまち)、西脇に城隅町を抱えた恰好である。於姫小路の十時下総家から南隣の立花権佐家に養子行った柳川藩最後の家老・立花壱岐(たちばないき)の屋敷の東側には、埋(うずみ)門があり、掘を隔てて実兄の矢島采女の屋敷がありました。矢島采女の屋敷は、1町2反6畝8歩と、これまた広大で、その門はやはり冠木門(かぶきもん)でした。その隣接した東側の屋敷は、同じく立花壱岐の実弟、立花親徳の屋敷で、7反5畝27歩の広さでした。この立花家は、柳川城の南三の丸に当たったため、三の丸立花家とも呼ばれました(.)明治17年24戸・209人。昭和60年305世帯・1089人。100年で5倍の人口増(.)
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       城隅町(じょうぐうまち)】   旧・於姫(おひめ)小路
 於姫(おひめ)小路の起名は藩主の息女の邸宅があったので名付けられたという。お花畠楼接の地である。寛政年間には8反2畝2歩の広大な十時下照立花壱岐の生家)の屋敷や道路隔てた南隣には1町1反3畝7歩という広大な屋敷の立花権佐(.)立花壱岐の養子先)やがあり、屋敷の西側には狭い道路があり、道路を隔てた西側に中堅藩士の侍屋敷が立ち並んでいました(.)その道路を西に折れ、50メ-トル-ほど歩くと、堀の上に三の丸の外に出る「豊後橋(ぶんごはし)」という名の石橋が架けられていました(.)明治6年に本城の西南隅に位置するので城隅町と改称した。御姫町の名は馴染まなかったのであろう。明治17年、9戸・69人。昭和60年、39世帯・120人(.)
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       鬼童町(おんどうまち)】    旧・鬼童小路・江戸小路
  柳川城の西側外堀の西岸沿い、すなわち外堀の外側に沿った鬼童小路に侍屋敷が並んでいる。鬼童小路に接する江戸小路は江戸後期には御家中に含まれていました。参勤交代を行わずに江戸に定住していた藩士が柳川に戻った住まいとして鬼童小路の裏、旧端地村(はたちむら)に江戸末期に設けられた侍町が、江戸小路です(.)鬼童小路には柳川藩4代藩主立花鑑任(あきたか)の頃元禄~享保年間(1696~1721)まで、三池藩立花氏の屋敷があった。寛政2年(1790)の「柳川城下御絵図」では外堀の外側に沿った通りに侍屋敷が並んでいる。鬼童(おんどう)の起名は不明(.)明治6年(1873)に鬼童小路・江戸小路が合併して鬼童町となる。下図は当時の測量地図で新しく鬼童橋が架けられている(.)橋の南側の地図下部には赤文字で「筑紫村分埋樋」とあり城の外堀の水を桶管を道路に埋めて筑紫村の田んぼに引込める工事を行ったであろう(.)明治11年当時の戸数は52戸・356人。明治17年、40戸、258人。昭和60年、74世帯・272人(.)
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引用・参考・使用文献 西原一甫、著「柳河明證圖會」文政8~10年(1825~27)・ 立花三楽、著「柳河城の概要」 井上勇、著「柳川市内町名由来」・ 明治12年頃の測量地図柳川市外三ヶ町土木組合所蔵 

 柳川市史・地図のなかの柳川・  樺島濤来、編註「旧柳河藩誌」・   岡茂政著・柳川史話・ 伝習館蔵・柳川城絵図・  画家富次郎(南汀)の挿絵・  伝習館所蔵の挿絵(さしえ) 新柳川明証図会・柳川市史

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