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内堀を挟んで重臣たちの屋敷があった三の丸と外堀に囲まれた武家屋敷群ある範囲を「御家中」と呼ばれていた。御家中とは一般には大名や家臣団を意味するが、柳川で家臣団の集住する地域を指して使われた。御家中は1Km正方の外堀に囲まれた外郭の北側には柳川城の正門である「辻門」があり、南の三の丸の入口「黒門」まで約1Kmの本小路が通じていた。現在の市役所の敷地は立花家の親戚・立花帯刀家の広大な屋敷や武道鍛練場がありました。帯刀家2代茂高の次男の貞俶は第4代藩主・鑑任の死により、その末期養子となり、23歳で柳川藩5代藩主となっています。本小路の中間点には「高門」があり高門橋が架かっていた。高門は享保18年(1733)に焼失して再建されなかったとある。高門橋を渡った東には森に囲まれた広い旧宅地があった。ここは、小野和泉(鎮幸)の屋敷で4千坪もあった。小野和泉は立花宗茂の功臣で子孫は代々大組組頭兼家老を世襲した。享保6年(1721)に小野春信が平野山(大牟田市)に炭坑を開き、経済的に裕福であり、藩財政に寄与することも大であった。現在は整地され、その一隅に住いがある。 |

戦前の高門橋からの眺め |
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先の布橋で西に折れると「黒門」です。武家屋敷群の単位は「小路」と呼ばれ、地名として本小路のほか北の位置には柳小路・北柳小路・日吉神社を挟んで裏坂本小路・坂本小路・・薬師小路があり東に大屋小路・袋小路・高御門・高御門三軒小路があり、南には奥州小路・宮永小路・布橋・会所前三軒小路・黒御門の地名があり、三の丸に三の丸の東には御厩が南三の丸の奥に茂庵小路、西三の丸の奥に於姫小路・豊後橋・竹御門の地名が、北三の丸の奥に坊主小路がある。また北三の丸と西三の丸の境は門の名をとって弥平門の名で呼ばれることもあった。西の外堀に沿って外小路があり。江戸後期には、外堀を挟んで西側に接する鬼童小路・江戸小路も「御家中」に組みこまれたようです。これらの小路の名称は町名として現在も残っています。外堀の西、沖端との境界には警備する「木戸御門」があり、往古に扉が竹製で造られていた事から通称「竹御門」と呼ばれた。「福岡県史資料」第二輯によると明治11年(1878)当時の戸数・人口は宮永町50戸・247人、奥州町36戸・190人、袋町21戸・128人、本町68戸・337人、一新町7戸・36人であった。 |

↑明治12年頃の測量地図(柳川市外三ヶ町土木組合資料)折り目・色彩大幅修正・加筆
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明治10年頃の新外町の地図 |
江戸期の小路名 |
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【新外町】(外小路と呼ばれていた。城の西方・南端には御花がある)) |
外小路は内城の西部を占め、南北1000m余、西の沖端川から侵攻する敵を撃つ前進基地の捨曲輪であった。よって城壁もなく、堀幅も外堀(川下りコース)の半分の7間(12,6m)であった。外小路と内城と合わさって方10町(約99173、6m2の柳川城が形成される。寛政6年の御家中屋敷図では屋敷は武家39軒、足軽は総外堀端に30軒配置され東の鋤崎土居と同様の配置であった。明治6年(1873)に外小路は新外町と改称された。上図左の明治10年頃の新外町の地図は明治12年の「土木取調」関連の地図と推測されるが、竹御門が記載もれしており、少し上部の橋は明治維新後に新設された鬼童橋であろうか。現在は柳川城址の前(本城町)の道が拡張・延長された県道767号本町新田大川線が通じ、鬼童橋の南を第2柳城橋が架かっている。明治11年当時の戸数は95戸・582人であったが昭和60年では177世帯・567人で世帯数が増加したと見える(福岡県史資料)。
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オノ・ヨーコさんの祖父・小野英二郎屋敷跡 |
この屋敷跡は江戸時代・寛政の絵図に小野平次の名前で記載(最上部タイトル左部に追表示)されていて、幕末には小野平三郎が奥頭分で百石を拝領し、その後継の小野作十郎(英二郎の父)が柳川藩の御能方(お抱え能楽師や藩の式能の采配、道具の管理をする役職)を務めていたことが柳川分限帳の記されている。オノ・ヨーコ(ビートルズのジョン・レノン夫人)さんの祖父の小野英二郎(元治元年(1864)~昭和2年(1927)は柳川藩士の末裔として、この屋敷で誕生し、中学伝習館を経て第4代日本興行銀行総裁を務めた銀行家です。その3男が東京銀行常務の小野英輔で、英輔の長女が世界で一番有名な日本女性と言われるオノ・ヨーコさん。次女が現在パリを拠点に現代彫刻家として活躍する小野節子(元・世界銀行本部長)さんである。このほか小野家からは、元国連大使の加藤俊一氏、その子息の外交評論家・加藤英明氏、小野有五・北海道大学教授など多彩な著名人を輩出している。(現地案内板参照)現在、祖父の屋敷跡は「御花」の北方角にあり、玄関の式台をあがると、真直ぐに畳の廊下があって奥に繋がり、右に次の間座敷があった。家は平成始め頃に解体され、屋敷の門構のみが残されている。敷地内の樹木は白鷺の巣となっている。柳川市が購入したニュースがあったが、歴史を考慮して武家屋敷を再現したら訪れる人を感動させるであろう。
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国文学者・藤村作先生顕彰碑 |
藤村作は明治8年(1875)に現柳川市坂本町に生まれ、城内小学校、中学伝習館、熊本の第五高等学校と進学しました。第五高等学校では当時夏目漱石などの立派な先生が多く、また国文学研究が注目されていたため、作はその道を志します。明治34年(1901)に東京帝国大学文学科卒業。七高造士館や広島高等師範学校の各教授を歴任し、明治43年(1910)東京帝国大学助教授、大正11年1922)に教授となる。 近世文学の研究に専念し、また関東大震災による資料焼失を機に、私的研究からひろく国文学界全体の発展のため尽力。作は、近世文学を研究対象とした第一人者となりました。雑誌『国語と国文学』を創刊。『上方文学と江戸文学』、『近世国文学序説』、『常道を行くもの むらさき』、『国語問題と英語科問題』など多数の著作を刊行し、『日本文学大辞典』全4巻も編纂した。井原西鶴の研究者としても優れた業績を残し、『本居宣長』や『訳註西鶴全集』の著作もある。昭和9年(1934)第9代東洋大学学長を4年勤める。昭和14年(1939)に定年退職して、日中戦争のさなか中国に渡り北京師範学院と北京女子師範学院の名誉教授の職に就きます。戦後、国語教育学会、日本文学協会を創設し会長に就任した。 また、多くの学校の校歌の作詞も手掛けた。昭和28年(1953)に自宅で病死。享年78歳。娘に「チューリップ」や「こいのぼり」の唱歌を作った作詞家の近藤宮子がいる。
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藤村作先生顕彰碑 |
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NHK「八重の桜」にも登場した新島襄の同士・海老名弾正 |
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柳川川下りコースの一角に「海老名弾正先生顕彰碑」がある。海老名喜三郎(のちの弾正)は、幕末の安政3年(1856)に海老名休也の長男として、柳川城下外小路(十時邸の北方)で生まれる。15歳で熊本洋学校に入学し、ジェーンズの感化をうけてキリスト教徒となる。その集団が後に「熊本バンド」と呼ばれるようになる。のちに卒業生や元在校生約40人が同校教員のジェーンズの紹介で、大挙して京都同志社に転校。明治12年に同校の第一回卒業生15名は全員熊本バンドのメンバ-であった。海老名は卒業後、新島の故郷、群馬県安中で伝道活動に従事し、安中教会を創立する。明治15年(1882)に横井小楠の長女みや子と結婚する。明治17年に前橋教会、明治19年に東京本郷教会を創立する。その後、熊本に戻り、熊本英学校、熊本女学校を創立する。明治23年に日本伝道会社長、晩年の大正9年には母校の同志社大学第8代総長になる。就任の辞で4つの基本原則を提示した。①人格教育、②デモクラシーノ高調、③国際主義、④男女共学昭和12年に80歳で亡くなる。
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海老名弾正先生顕彰碑 |

大正天皇行啓の折の写真(大正13年(1924)
左から海老名弾正の妻、宮子、松田道、新島八重、海老名総長、M.F.デントン |
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旧武家屋敷「十時邸」 外新町57 |
十時邸(とときてい)は旧戸島家住宅(鬼童町49)と並び柳川地方の藩政時代からの武家屋敷です。川下りの中堀に面した十時邸は昔と変わりないが、ただ次の門の裏の板張り(廊下)が今はなく、玄関と風呂場が一部変更された程度である。家の特徴は他の武家屋敷と同じく床下を低くして、床下で刀を使えぬように工夫されている。倹約を基本とされ壁は中塗りにとどめ、上塗りは許さなかった。したがって奥まった部屋は上塗りをしてあり、二階は表通りから見えない所にある。座敷と次の間の欄間は竹を割った素朴なものが飾りとなっている。一般に庭先が広いのは武術の稽古場としてつかったからである。垣根は、生垣が主で大屋でないかぎり土塀や板塀はない。ここは寛政年間の絵図では友清角兵衛の屋敷で、後に戸次の屋敷となり、その後に十時の屋敷になった家で、中堅の侍屋敷である。個人所有の住宅であり一般公開はされていません。 ただ、柳川雛祭り「さげもんめぐり」期間中などだけ期間限定で公開されるようです。 |
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旧柳川藩主立花家の別邸・お花 |
城の西方には外堀に沿って南北に外小路があり南端には旧柳川藩主立花家の別邸の「御花」がある。「柳河明証図会」によると、花畠とあり、2代藩主忠茂が遊息所を営み、柳川藩の儒学者安東省庵が「集景亭」と号したとある。元禄10年(1697)に、3代藩主、立花鑑虎は普請方の田尻惣助に命じて城の西方の外小路に総面積約7,000坪の集景亭という別邸を構えたとある。鑑虎(英山)の死後は会所となっが、享保16年(1731)、会所は黒門外の布橋に移転している。5代藩主立花貞俶は元文3年(1738)、二の丸御殿(座敷)が手狭になり、貞俶が花見や相撲見物に使っていた三の丸の茂庵小路御茶屋でも手狭となったので、広い敷地のある鑑虎の別荘地であった集景亭に二の丸御殿を移築され、藩主子女や女中が二の丸より引越し、御花畠と呼ばれた。藩主の国元での居住は本丸御殿で休息を御花畠としていたが、嘉永3年以降は藩主の国元での住まいとしている。現在の建物は明治42年(1909)から43年に、14代の立花寛治の時代に新築された建物です。西洋館は明治43年に立花家の迎賓館として建てられました。明治6年(1873)町村改定において町人町の柳河町外町(現在の表記は保加町)と混同を避けるために新外町に改められた。
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御花・松濤園 |
(早馬神社)
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城内から藤兵衛門を出た外小路に早馬神社があった。祭神は蕃山祇神で往古から石を標として神位としていた。柳河明證圖會によると例祭は2月初午の日で、往時は住吉坂本小路の山王例祭には御幸の式ありてその時に流鏑馬も行われていたが、いつしか廃れたが、弓矢を捧げて神事がおこなわれた。外小路の鎮守として崇敬されてきた。明治44年に日吉神社に合祀された。 |
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【坂本町】 (城・北三の丸の北側にあり、坂本小路並と薬師小路と裏坂本小路であった) |
柳川城の鬼門を守る長久寺と内堀を隔てた山王さん日吉宮との関係は、平安京の鬼門の北東に位置する比叡山延暦寺(現・滋賀県大津市下坂本)とその東麓、湖畔の山王総本宮・日吉大社(大津市坂本)の関係と同じで、坂本小路の起名はこれに由来する。明治以前は神仏混交の山王権現社と柳河山神護寺最勝院とが坂本小路の西正面の同境内にあった。最勝院の支院である東光山薬王寺(通称薬師寺)も近くにあった。
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日吉神社山王さん |
山王権現社の創建は正応3年(1290)、社村(彌四郎)の農長が近江国坂本に鎮座する山王大権現(現在の日吉大社)の分霊を迎えこの地に祀り村内の鎮守としたことに始まる。彌四郎村(現・柳川市弥四郎町)は、この社の南方城外にあり、以前は現在の弥四郎町まで続いていたであろう。この宮は文亀・永正(1501~20)中、蒲池治久により蒲池城の支城である柳川城を築城した時に鬼門の守護神とされた。蒲池氏滅亡の後は柳川城主の立花宗茂~田中吉政~立花藩代々の城主らに厚く信仰され、また郷土の総氏神として藩民挙って信仰された宮です。元禄9年(1696)立花鑑虎は。心願成就のため、再建されたのが現在の建物である。神護寺最勝院は往時、山王宮の別当であり、万治年中(1658~1661)に天台宗に転じて武州東叡山の末寺となる。三大師堂は宝永4年(1707)に4代藩主、立花鑑任の建立で、その大師の尊像は、法弟子、九条師輔十男阿遮黎慈忍の作である。ほかに坂本小路には天満宮や薬師寺があった。薬師寺は最勝院の支院にして薬師仏が安置され、寺の扁額は黄檗宗の鉄文の書であった。薬師寺は往時は田んぼのなかにあったが、開けて侍の屋敷に変化した。その寺の境内には天文6年(1538)2月に久我対馬守大蔵朝臣久貞の建てた碑があったと言う。慶應年間まで薬師寺はあったが今は薬師小路の名が残っている。明治維新後の廃仏希釈により神護寺最勝院は廃寺となり仏具は出来町の長命寺に送られた。神仏分離により山王権現社は日吉神社に改名された。維新後三の丸の梅岳社が合祀され、また明治44年の冬に旧御家中内の小社、数神が合祀された。(下図は柳河明證圖會)。
拝殿前右手の大型水鉢は元禄8年(1695)、赤穂浪士討入りの6年前の寄進で、丸一紋章は方形にすれば日吉の日となる。同じく、堂々たる藩主献燈は笠上の宝珠に藩主定紋の陽刻と竿石裏面に道雪公に神号が官許された天明四年(1784)季穐(晩秋)が陰刻があるだけで正面に献燈などの字は全くない。藩内では御新宮(坂本町日吉神社→三の丸→三柱神社脇参道)・上庄祇園宮・渡瀬祇園宮の三社だけである。天明四年は御新宮創建の年で、祭神は戸次道雪である。 |
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日吉神社 |

日吉神社拝殿(長久寺の梅岳霊社の扁額(左上)もある) |

柳川城から遷宮した太郎稲荷 |
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長谷健の文学碑 柳城公園 |
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長谷健は、明治37年柳川市下宮永に生まれ、昭和5年上京。教員をしながら創作活動を続け、昭和14年に小説「あさくさの子供」で第9回芥川賞を受賞しました。終戦近くから郷里へ疎開した長谷は、火野葦平・劉寒吉ら地元福岡の作家たちと交友を深めながら執筆を続けます。また、柳川文化クラブの会長を務め、北原白秋の「帰去来」詩碑建立にも尽力しました。昭和24年、再び上京した長谷は、児童文学を中心に執筆活動を行います。『からたちの花』『邪宗門』は北原白秋をモデルとして執筆したものですが、昭和32年この完結編『帰去来』を執筆中、交通事故で死亡しました。文学碑は豆腐好きの故人を偲んで、工芸家豊田勝秋氏の設計により四角な豆腐型の碑が昭和33年に建立された。碑面の題字は火野葦平の書で、碑裏面の撰文は劉寒吉によるののです。 |
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木村緑平の句碑 柳城公園 |
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木村緑平は、明治21年に柳川市西浜武に生まれ、長崎医専時代に荻原井泉水に師事して、俳諧に地位を得た自由律の俳人です。句碑は全国から集まった浄財をもとに昭和43年に建立され、表面には雀の句が多いことから「雀生まれてゐる花の下をはく」、裏面には種田山頭火と親しく緑平氏は山頭火がまだ売れていないときに、生活を支えていました。山頭火を訪ねたときの句「草の花ほんに月がよか」と柳川弁で詠った句が刻まれている。二人は当初、俳誌『層雲)』の同人であり、手紙のやりとりこそあったものの、全く面識はなかった。しかし、大牟田の三井三池鉱業所病院に勤務時代のある日、無銭飲食をして捕まった山頭火の身元引受人に、緑平がなったことをきっかけに、二人の親交は始まった。破滅型の人間である山頭火を心から受け入れてくれたやさしい緑平を、山頭火は親しみを込めて「南無緑平老如来(なむりょくへいろうにょらい)」」と呼んだ。
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うなぎ供養碑
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柳城公園には昭和42年に柳川うなぎ料理組合や漁協などが建てた「うなぎ供養碑」がある。表面に劉寒吉の「筑後路の旅を思へば水の里や、柳川うなぎのことに恋しき」と自筆の短歌が刻まれている。 |
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宮川早生温州顕彰碑 宮川温州みかんの発祥地 |
日吉神社の北側の裏坂本小路に原木第2代樹を移植し宮川早生温州顕彰碑が建てられている。現在、早生温州みかんの一種として広く普及している「宮川早生」の原木の発祥地で、明治43年(1910)頃に宮川謙吉邸にて一枝に早熟で美麗な大果が結実しているのを発見し、大正5年(1916)、中山村の立花家農事試験場主催の品評会に出品した。大正14年(1925)に農学博士田中長三郎が宮川早生と命名して学会に発表しました。山川村(現みやま市山川町)の田中亀蔵氏と石井佐吉氏は率先して、この種の苗木育成と高接に努めました。昭和11年に福岡県は原木を天然記念物に指定し、その保存につとめたが、昭和23年に枯死し、現在原木第2代を移植してある。宮川早生は味の「まろやかさ」が特徴の温州みかんで、育てやすく収量性が良いなど優れた特徴を持つため、古くから全国的に広く栽培されています。 |
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【本町】 旧名・本小路(明治6年まで、ほかにいくつかの小路であった) |
本小路は辻門より南行し、布橋枡形で鉤の手に曲って西行し、黒門の外枡形で三の丸の縦堀に沿って何行し、三軒小路(福厳寺の裏手)に至る、1000m余の道であった。その道筋には黒門前通り布橋筋、高門筋、帯刀橋筋、会所前、三軒小路、御木屋側三軒小路の小名があった。柳河明證図会「辻門、城内に入るの咽喉にして昼夜往来絶ゆるひまなし。此所の番所にてあらためて旅人を入ることを許さず」と。
外堀の北には柳川城下の正門である「辻門」があり、城内(御家中)に入る通行人は厳重な検問を受けました。高札場を設け、布告法令などが掲示された辻門前の「札の辻」は柳川藩内の道路の起点とされ、北方面の出橋(井手橋)を渡ると、外町(今の保加町)の宿場町からは肥後街道や柳川街道(田中街道とも呼ばれた)が延び、また東方面の瀬高町(現・京町)から南(細工町)に曲り、東に曲った新町の「瀬高門」からは三池街道(肥後街道)や瀬高街道が延びていました。柳河明證圖會には、「城内へ入るの咽喉(重要)にして昼夜往来絶ゆるひまなし。此所の番所にてあらためて旅人を入るを許さず。」とある。辻門の左右に多聞櫓(銃眼を備えた長塀)をわたして、両端に櫓を設けて、内城防衛の第一線とした。塀内に牢屋敷ががあった。家臣の有罪者を収監したであろう。城下の田町牢は藩民用であった。辻門は明治5年に競売で大川市の淨福寺の山門として1階に変更して移築されています。伝習館高校北側の掘割脇の遊歩道には辻門跡の石標があります。また明治維新後は北三の丸の長久寺内にあった洋学校を本町黒門側の由布安芸宅に転校させ、十時嵩を校長として遠藤敬之を招いて英語教師とし宮本・堀を算数教師とし、中野・安藤を漢文教師とした。明治6年に伝習館の西方の建物で英学校とした。明治17年、60戸・322人。昭和60年、256世帯・858人。 |

辻門跡の石標 |
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辻門付近
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柳河明證圖會(辻町内外) |
大川市の淨福寺に移築されている辻御門 |
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藩校・伝習館 現・伝習館高等学校 |
伝習館は300年以上前の安東省菴の家塾に始まる。柳川の藩学の草創者、安束省奄(朱子学)の曽孫安東間庵の邸内に聖堂と共に設けた 講堂を基として、文政7年(1824)、11代藩主立花鑑賢によって藩校として創設された。教授に任じられた安東節安は指揮監督も命ぜられ藩校のために貢献しています。日本には三体しかないと言われる由緒ある孔子像が伝習館にある。水戸学の基礎を築いたと言われる儒学者朱舜水は万治2年(1659)に明再興運動に失敗し亡命し、長崎で困窮した日々を送っていたが、万治3年(1660)柳川が生んだ儒学者安東省菴に援助され、流寓生活を送る。寛文5年(1665)7月に、朱舜水は徳川光圀公に招聘され、柳川を旅立つ時に援助を受けたお礼に省菴に三体の孔子像を贈った。その内の一体が現在、伝習館高校に保存されている。光圀は、朱舜水を先生として仰ぎ,藩政や学問思想に大きな影響を受けました。安積澹泊らも育て,修史にも貢献しました。朱舜水は天和2年4月17日に83歳江戸で永眠した。明治初期に藩学解体し、柳河師範学校など変遷し、明治27年(1894)に福岡県立・中学伝習館設立。明治33年(1900)には福岡県立・柳河高等女学校設立。昭和24年(1949)に旧制中学伝習館と柳河高等女学校統合され福岡県立伝習館高等学校発足している。
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昭和初期の中学伝習館の講堂 |
昭和10年代末の矢部川(瀬高駅)行の乗合バスに乗る柳河高等女学校の生徒
現在の市役所付近で藁葺屋根の家もある、生徒の服装も戦時的様相が見える |
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【柳町】 旧・本柳小路・北柳小路 |
江戸時代に著された地誌「太宰管内志」には、「柳の多き処にて負わせたるべし」と、ある。柳川は柳の土地であると言われる。本来は「やなを架けて鮎を獲る川」より起った梁川を柳川と改めたほど柳が多かったのであろう。薪用に植えたとも考えられる。やはり堀岸の柳の木により本柳小路・北柳小路と起名された考えられる。明治6年(1873)に本柳小路は合併して柳町に改正され、北柳小路は楊柳町に改正されました。明治15年9月18日に柳町と楊柳町を合併して柳町と改称しました。明治17年、39戸・229人。昭和60年、94世帯・295人。
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【一新町】 旧・大屋小路 |
文禄元年(1592)、蒲池村の本光寺をのちの大屋小路の地に移し,蒲池鎮漣の甥凉好を開祖とする真勝寺は、もと真教寺と称し,御井郡仁王丸にあったが、同年立花宗茂の命により、のちの当地に移し、さらに藩主田中吉政の死後,菩提所として現在地(新町)に移したとある。角川日本地名大辞典によると「立花宗茂再封後,家臣大屋十左衛門が家・屋敷を拝領してその中央に居住していたことにちなみ大屋小路と呼ばれた。明治6年(1873)に一新町と改名したとある。3反3畝余の屋敷は、この小路では格別に広い。以来屋敷替えはなく昭和60年の364年後での大屋氏の屋敷であった。現在は相続で法務局や他人の住居などに分割され、隅に小規模となり居宅とアパートを所有されている。明治17年に6戸、34人。昭和60年34世帯、103人。
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【袋町】 旧・袋小路 |
曲輪全体が出入口が一つだけでの袋状になった行き止まりの町からの起名です。寛政年間には吉弘喜兵衛や三池角左衛門の屋敷がありました。柳川藩内の歴史の手引き書として、役立っている「旧柳川藩志」の著者の渡辺村男の家があった所です。村男は郷土史研究家で「柳川史話」の著者、岡茂政と柳河史談会を開設し、活発な活動を行いました。渡辺家の祖先幸直は豊臣秀吉に仕えていたが、立花宗茂が、再封で柳川に入城した時に、召出されて家臣となり、元和6年(1620)に袋町に屋敷を拝領して代々、袋小路に住みました。ほかに三池角左衛門の先祖は中世には筑後三潴郡を本拠とした有力国人で、豊臣秀吉の九州平定の、のちに立花宗茂の与力として付けられ、その後に立花家の家臣として袋小路に屋敷を構え存続し、明治維新後も柳河県や三潴県の官吏として勤務した。明治14年と明治25年の2回、県会議員選挙に当選し明治32年に65才で亡くなっている。今の袋町は橋(御城橋)が架けられて、南長柄町から新町に通じ、袋の底が抜けた格好である。明治17年、19戸・118人。昭和60年、59世帯・168人。
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【奥州町】 旧・奥州小路 |
元和6年に宗茂公は奥州棚倉3万石から柳川10万9647石に再興され、奥州棚倉より来る家臣106人、旧臣の帰柳川に戻る者60人、新たに召抱えた者50人、肥後の加藤清正に預けた者100人、その他無足の侍・扶持人などに支給およそ10万石と屋敷を配与した(柳川藩誌)。奥州(現・福島県)よりお供して来た106人に割与えられたことから元和7年に奥州小路の創設となった。寛政6年の御家中屋敷図の奥州小路の阿部(安部)姓は福島県や東北に多い姓であるので、棚倉から随行してきた家臣であろう。柳川には住んでいないが、平成25年(2013)に『等伯』で直木賞を受賞した歴史小説作家 安部龍太郎氏(八女市黒木町出身)の先祖も瀬高に屋敷を与えられた後に黒木村に山筒隊を命じられ、国境警備として黒木で農業・猟師などを営みながら住み込でいる。明治17年、24戸・138人。昭和60年、97世帯・323人。
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梅岳山福厳寺 臨済宗黄檗宗 |
福厳寺は天正15年に立花宗茂が柳川城に封じられと、父の道雪の墓がある筑前立花山の麓にあった曹洞宗立花山梅岳寺を柳川に移された。慶長年間に田中吉政が領した時に壊され家臣の邸宅になる。宗茂は奥州棚倉(現・福島県棚倉町付近)から再入城し、城内の中核部に寺を再興して藩主代々の菩提寺とした。寛文9年(1669)、立花家4代鑑虎の時、臨済宗黄檗派に転じ寺名を梅岳山福厳寺と改めました。開山には、海津(高田町)出身の高僧で、当時宇治の黄檗山万福寺に居り、木庵禅師の法弟であった鉄文が迎えられた。鉄文やその弟子を開山とし領内のいたる所で黄檗宗寺院が開かれました。鑑虎は黄檗宗に深い帰依(その教えに心から従うこと)があったようで藩内(現在のみやま市山川町や大牟田)に黄檗宗の寺を建立している。 |

福厳寺 |
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【茂庵町】 旧・茂庵小路 |
安武方清は父母が離縁した後、母が戸次道雪の継室として再嫁したため養子なり、のちに箱崎宮座主麟清の養子となり座主職を襲うことになる。方清はのちに還俗して自身の組織する箱崎党は道雪や宗茂に従い活躍するが、関ヶ原の戦いの後、立花宗茂が改易されると、その翌年に出家して茂庵と称した。元和7年(1621)、宗茂公柳川御再城のとき茂庵は柳川に随行して200石を賜る。茂庵の嫡子である東蔵人豪清も300石を賜り城南に住み、これを茂庵小路と称した。子孫は柳川藩士として仕えている。また敷地には藩主が花見や相撲見物に使っていた御茶屋がありました。元文3年(1738)には二の丸座敷と同じく御花畠に移りました。明治17年、5戸・42人。昭和40年、16世帯、51人。
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【城南町】 旧・御厩 |
柳川城と城を取り囲む三の丸があった所です。厳しい検問の黒門から三の丸に入ると「御厩」(馬屋)小路がありました。藩主の身辺および城の警固に当たる者の場所です。元禄16年(1703)に三の丸欄干橋完成の記録があるが黒門橋であろうか。明治6年(1873)に城南町に改称されました。
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【宮永町】 旧・宮永小路 |
藩政じだいでは多くの武家屋敷が建ち並ぶ界隈でした。宮永小路の起名は立花宗茂の正室であった光照院、通称誾千代は、別名「宮永殿」とも称されます。これは、誾千代が宗茂の柳川入城後、城下宮永に居館を設けて住んだことによります。実際の居館址は堀を隔てた南の上宮永町の馬場小路で、現在公民館が建っています。明治17年、29戸・227人。昭和60年、130世帯・439人。
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【本城町】 旧・本丸・二の丸・三の丸 |
本城(本丸・二の丸)と三の丸の大部分で形成され、町の東脇に城南町、茂庵町、西脇に城隅町を抱えた恰好である。於姫小路の十時下総家から南隣の立花権佐家に養子行った柳川藩最後の家老・立花壱岐の屋敷の東側には、埋(うずみ)門があり、掘を隔てて実兄の矢島采女の屋敷がありました。矢島采女の屋敷は、1町2反6畝8歩と、これまた広大で、その門はやはり冠木門でした。その隣接した東側の屋敷は、同じく立花壱岐の実弟、立花親徳の屋敷で、7反5畝27歩の広さでした。この立花家は、柳川城の南三の丸に当たったため、三の丸立花家とも呼ばれました。明治17年24戸・209人。昭和60年305世帯・1089人。100年で5倍の人口増。
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【城隅町】 旧・於姫小路 |
於姫小路の起名は藩主の息女の邸宅があったので名付けられたという。お花畠楼接の地である。寛政年間には8反2畝2歩の広大な十時下照(立花壱岐の生家)の屋敷や道路隔てた南隣には1町1反3畝7歩という広大な屋敷の立花権佐(立花壱岐の養子先)やがあり、屋敷の西側には狭い道路があり、道路を隔てた西側に中堅藩士の侍屋敷が立ち並んでいました。その道路を西に折れ、50メ-トル-ほど歩くと、堀の上に三の丸の外に出る「豊後橋」という名の石橋が架けられていました。明治6年に本城の西南隅に位置するので城隅町と改称した。御姫町の名は馴染まなかったのであろう。明治17年、9戸・69人。昭和60年、39世帯・120人。
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【鬼童町】 旧・鬼童小路・江戸小路 |
柳川城の西側外堀の西岸沿い、すなわち外堀の外側に沿った鬼童小路に侍屋敷が並んでいる。鬼童小路に接する江戸小路は江戸後期には御家中に含まれていました。参勤交代を行わずに江戸に定住していた藩士が柳川に戻った住まいとして鬼童小路の裏、旧端地村に江戸末期に設けられた侍町が、江戸小路です。鬼童小路には柳川藩4代藩主立花鑑任の頃元禄~享保年間(1696~1721)まで、三池藩立花氏の屋敷があった。寛政2年(1790)の「柳川城下御絵図」では外堀の外側に沿った通りに侍屋敷が並んでいる。鬼童の起名は不明。明治6年(1873)に鬼童小路・江戸小路が合併して鬼童町となる。下図は当時の測量地図で新しく鬼童橋が架けられている。橋の南側の地図下部には赤文字で「筑紫村分埋樋」とあり城の外堀の水を桶管を道路に埋めて筑紫村の田んぼに引込める工事を行ったであろう。明治11年当時の戸数は52戸・356人。明治17年、40戸、258人。昭和60年、74世帯・272人。
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引用・参考・使用文献 西原一甫、著「柳河明證圖會」文政8~10年(1825~27)・ 立花三楽、著「柳河城の概要」 井上勇、著「柳川市内町名由来」・ 明治12年頃の測量地図・柳川市外三ヶ町土木組合所蔵
柳川市史・地図のなかの柳川・ 樺島濤来、編註「旧柳河藩誌」・ 岡茂政著・柳川史話・ 伝習館蔵・柳川城絵図・ 画家富次郎(南汀)の挿絵・ 伝習館所蔵の挿絵 新柳川明証図会・柳川市史
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