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戦国時代の九州の勢力は、肥前(佐賀)の龍造寺、豊後(大分)の大友、薩摩(鹿児島)の島津と、大きく分かれ、みつどもえの対立抗争をしており、筑後を制する者は九州を制すると言われ郷土は常に攻防の戦場となった。どの勢力かの配下に入らねば生存が難しい時代で、蒲池一属は大友の配下のあり、郷土では豊後の守護大名大友氏の配下であった。栁川に本城を構えた蒲池氏が勢力を増したことは、当、ホームページ「栁川・蒲地物語」で紹介したが、永正元年(1504)筑後守護の18代当主大友親治は、本家柳川の15代目の蒲池鑑久の領地(下蒲池)1万2千町(12万石)と、山下の山中(立花町北山)に城を築き、本家の鑑久弟の蒲池親広を大名分として分家させ(上蒲池)8千町(8万石)に勢力を分散させられていた。以上、上蒲池と称して矢部川岸上の山下城を本拠として南筑後東部を支配し、瀬高地方は、その支配下にに置かれた。また松延城の樺島式部と本郷城(砦)の壇大炊介は蒲池分家の宮園村の宮園城主の今村舎人と共に瀬高の三豪族と言われ、代々山下城の上蒲池に仕えた在郷領主であった。
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【筑後騒乱の時代】 |
天正6年(1578)10月、薩摩(鹿児島県)の島津軍勢と豊後国大友氏21代当主の大友宗麟(義鎮)勢は日向(宮崎県)の領土争いで日向の耳川で戦い、大友軍は島津軍に大敗を喫すると南筑後における大友氏の勢力は急速に衰え、代わりに肥前の龍造寺氏と薩摩の島津氏の影響が強くなり、山下城(現・立花町)の上蒲池氏とその配下の瀬高の小豪族は大友・龍造寺・島津氏の覇権(支配権)争いに翻弄される。
天正7年(1579)松延村を中心として勢力をもった樺島式部小輔は山下城主(2代目)の蒲池鑑広の要請で、肥前の龍造寺氏に備えるために松延城を築城した。本郷村を中心とした勢力を有した壇大炊介は板橋氏と同様に広田八幡宮の宮司、広田氏の一族で本郷城(砦)として、松延城と共に山下城主(3代目)蒲池鎮運配下の蒲池11ヶ城に属していた。
天正9年(1581)5月に栁川城の蒲池本家当主の蒲池鎮並が佐嘉(佐賀)で龍造寺隆信に謀殺され滅びて、息子の龍造寺家晴や、家臣の鍋島直茂の手に渡った。佐嘉の龍造寺軍による戦火は上蒲池(山下城)におよび、天正10年には本郷からの援軍の壇大炊介は山下城で戦死しました。蒲池鎮運は降伏し、しばらくは龍造寺氏に従っていたが、天正12年(1584)3月に龍造寺隆信が島原の沖田畷で島津・有馬連合軍に敗北し討ち死した後は、豊前の大友義統は筑後の龍造寺勢力征伐を企て筑後国の大半を奪回しようと家臣の立花宗茂の養父である戸次道雪と、実父の高橋招運は多くの城を攻め落とし、9月には筑後諸城を降伏、攻落させた。山下城にも攻め、城主蒲池鎮運を従わせ、次いで松延城、大木城も従わせた。樺島式部(益運)と壇大炊介が松延城と本郷城に拠り龍造寺勢と対峙して活躍したのはこの時期である。 |
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天正13年(1585)に筑前の戸次道雪と高橋招運が加わった大友勢は久留米の高良山に陣を構えた。4月、隆信の嫡子龍造寺政家は後を継ぎ筑後川を越え大友勢と戦ったが負け去った。蒲池11ヶ城の筑後勢は本郷・瀬高・海津・田尻と打ちまわって9月には龍造寺家晴と田尻鑑種と戦い鷹尾城と4支城を攻め落とす。しかし龍造寺勢が陣をはる柳川城攻めの最中に道雪は高良山の陣中にて、病となり9月11日に死亡した。道雪は「我が死んだならば、屍に甲冑を着せ、高良山の好己の岳に、柳川の方に向けて埋めよ。これに背けば、我が魂魄は必ず祟りをなすであろう」と遺言したという。(常山紀談より)しかし立花軍は道雪の亡骸を伴って帰還したという。
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【島津氏の侵攻と豊臣秀吉の九州征伐】 |
天正14年(1586)、肥後・日向を制圧した薩摩の島津義久は北九州平定の為に2万の軍勢を筑後に侵攻し6月には山下城の蒲池鎮運は城を開き島津勢の傘下に入り、樺島式部や故・壇大炊助の嫡男の壇参河(のちの久右衛門)や次男の壇津右衛門(重清)の兄弟ら一族郎党は他の筑後の諸将と島津軍に加わり、多くの犠牲者を出して筑紫広門の勝尾城や高橋招運の岩屋城を攻め落とし、立花宗茂(当時は統虎)の立花城を包囲した。しかし豊臣秀吉の派遣による毛利勢の援軍が立花山に攻めてきたので、島津勢は九州制覇を諦め薩摩に退却、蒲池鎮運も配下の将兵は山下城に引籠った。天正15年(1587)3月秀吉は12万の大軍を率いて九州に入り、九州征伐の途中、陣取った高良山吉見岳には、各地の諸将が競って参陣を申し出た。立花茂宗の取り成しで蒲池鎮運は秀吉の元に参陣して罪を許される。4月に島津氏が降伏し九州平定は終わった。秀吉の新領地配当で蒲池鎮運は領地を没収され、立花家の与力として3000石に削減され、海津城(現・高田町)に移さたとある。(城名は検証を要する)代わって筑紫広門が上妻郡1万8千石を領有し山下城を居城とし、北川内村の小川半右衛門定宗と上広川荘の稲員式部丞を大庄屋に任ずとある。(稿本八女史)
蒲池鎮運は文禄の役にて文禄元年(1592)に朝鮮の釜山にて病死する。享年31歳。墓は高田町上楠田の帝釈寺にある。
上蒲池家配下の松延城の樺島式部と本郷城(砦)の壇参河らは在地領主の身分を失い、落ちぶれ領地から逃避した。 |

山下城3代城主・蒲池鎮運の墓
(高田町・帝釈寺) |
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【立花宗茂の栁川入城】 |
天正15年(1587)に秀吉の九州国割りにより筑前立花山の立花宗茂は7月に南筑後13万2200石の大名として栁川城に入った。宗茂は、領内の支城は没収し筑前以来の有力家臣を城番とし、その他は廃城とした。よって樺島式部(益運)は松延城を出て、立花家臣の立花三郎右衛門が城番として入り、壇参河の本郷城(砦)は破棄された。そして宗茂は領内の民政を円滑に行う為に、地元の事情に精通した地侍を庄屋職に起用した。本郷村の壇参河(改め久右衛門)・松延村の樺島式部(益運)らにも,農事の事を任せ、郡郷村里の事を司り耕作を励まし年貢諸納を詳にした。これらの旧在地領主は、城と土地を没収されたが、知行として旧領地の庄屋職と庄屋給を与えられ、壇久右衛門の弟の壇津右門(重清)も大目付役を任せられ、宗茂に大いに恩義を感じ忠義心を抱いたであろう。このように他藩と同じく、庄屋、大庄屋には武士か、その土地の豪農、あるいは家柄の良い百姓が任命された。宗茂は入府以来、肥後国人一揆の鎮圧に出兵したり、二度にわたる秀吉の朝鮮出兵で文禄の役では碧蹄館の戦いで、壇久右衛門と壇津右門の兄弟は小野和泉の与力となり、お供した。明の名将李如松の大軍を破り大勝利を得たが弟の壇津右門は戦死し、息子の久左衛門(信一)が家督を継いだ。兄の壇久右衛門は帰国後に本郷村に地方3丁余りを拝領した。 慌しい領内の治世は留守居役により「太閤検地」(秀吉が日本全土で行なった検地(田畑(山林は除く)の測量及び収穫量調査)は順調に行われ、格村の庄屋と取りまとめ役の大庄屋により年貢の収納も順調に進み、天正15年(1587)から慶長5年(1600)の関ヶ原の役まで領内4郡201ヶ村は宗茂の税の軽減に努めたおかげで良く治められたという。
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【関ヶ原の戦いの敗北による肥後蟄居】 |
慶長3年(1598)に秀吉が没し、石田三成と徳川家康による覇権争いにより慶長5年(1600)9月に関ヶ原の戦いが起き、宗茂は西軍に味方して毛利元康・毛利秀包・筑紫広門らと共に9月12日より15000の軍勢で京極高次の籠る近江大津城を攻め落とした。しかし9月15日には天下分け目の関ヶ原の決戦で惨敗する。西軍の敗報を聞いた宗茂は大阪城へ戻り籠城を説徳したが聞き入れなく、人質になっていた実母の宋雲院を連れて船により栁川に帰った。まもなく西軍側だった佐賀の鍋島直茂・勝茂親子が徳川側に寝返りして筑後川を渡り10月20日に蒲池城番の小野和泉と三瀦江上で戦った(八院合戦)。宗茂は籠城を決め、宗茂の正室である誾千代は故あって宮永の館に別居していていたが紫縅の鎧に身を包み待りの女性や老臣達200人で有明海から来る敵に備えて陣を張っていた。北からは東軍の豊前の黒田如水が久留米城の小早川秀包を平定したあと、5000人の兵で南下して水田天満宮に布陣し、東軍だった肥後の加藤清正も本隊を南関に置き、1000人の軽卒を引連れ瀬高に布陣し栁川城は包囲された。清正は慶長2年(1597)の朝鮮出兵で蔚山城で明軍に包囲され絶対絶滅の危機を果敢に来襲した宗茂によって救出され九死に一生を得ており、清正は宗茂とは大友人であった。宗茂の身を案じた清正は栁川城外の久末村(三橋町)にあった立花家臣の小田部新介(夫人は宗茂の妹で於千代)の屋敷で宗茂と会談して降伏を勧め説得し黒田如水の協力により開城を承諾した。慶長5年(1600)11月3日、宗茂34歳であった。栁川城は暫定的に加藤清正が譲り受け、家臣の加藤美作が城番となった。美作は南関城番も兼任していた。この時立花の家臣300名は肥後に拘束居候し、宗茂と由布・十時・矢島ら22名の家臣は肥後玉名郡高瀬の清源寺に蟄居し清正から1000人扶持があてがわれた。 |
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【椛島庄屋と壇大庄屋による肥後蟄居中の誾千代姫と宗茂への量米仕送り】 |
宗茂の正室の誾千代は実母の宝樹院と共に、玉名郡赤腹村(長洲町)の庄屋市蔵屋敷に住むことになつた。旧領婦人の引越しの中、松延村庄屋、樺島式部の嫡男彦左衛門(益義)と本郷組大庄屋、壇久右衛門の嫡男七郎兵衛は誾千代と実母の宝樹院と共に赤腹村まで約8里ある三池街道を下った。樺島彦左衛門と壇七郎兵衛は幾度か残りの家具を荷車で運び、誾千代親子の様子を親に報告したとみられる。その後、隠密に薩摩街道(南関道)の国境を越えて定期的に米や味噌などの食糧や日用品が誾千代に送られ、高瀬の宗茂の元にも糧米が送られたとみられる。南関の加藤美作が栁川城番を兼ねていた慶長5年(1600)11月から慶長6年(1601)3月までは荷の取締りは緩やかで無難に行けたであろう。宗茂の高瀬蟄居中に立花家から密かに樺島・壇家に礼状と褒美として遠州(遠江)国隆(刀の銘)の脇差が送られている。
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礼状① |

礼状② |
「かばしまとの、だんとのよりいんしん(音信)しほ(塩)六ひゆう(俵)うけとり上げ候、たびたびの事にておよろこびなされて、こかう(女性の名)てまえよりれいぎ(礼儀)申せとの事、幾久敷めでたく かしこ 返々申し上げ参らせ候、ここもと御番所きびしく候に付きて、まいつきには送り難く候、日をさでめぬゆへにこころへあるべく候 めでたくかしこ 九月八日 立花内 こかうより 池田新三郎殿」 |
「壇、樺島、度々の音信これまで届け候、上より心喜びなされ、褒美として遠州(遠江)国隆(刀の銘)の小脇差 上様より進上候方へ下されて、幾久敷祝ひ参らせ候、親方へもよろこびの文進じ度く品々もそえ奉りて申入候 目出度 かしこ 壇殿、樺島とのへもめいめいに文つかわされ候、その方へ御届け下され候 めでたく かしこ 九月十六日 立花内 こかうより 池田新三郎殿」 |
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書状は立花家の「かこう」と言う女性から「池田新三郎」宛てた形式をとり、池田新三郎とは壇・樺島両家に信任があり、双方の仲介をとる立場にある人物とみられる。塩とあるが禁止品の糧米と公然と書けない為であろう。②の書状から赤腹村の誾千代姫だけでなく、高瀬蟄居中の宗茂の元にも糧米を運んでいたことが解かる。宗茂は両家に感謝の念を持ち、褒美として脇差を届けている。現在、吉井の壇家からみやま市教育委員会に預託され、歴史史料館で閲覧できる。 |
慶長7年(1602)4月、宗茂は加藤清正の許しをもらい20余名の家臣をつれ、京に向かっている。、 |
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【田中吉政の栁川入城】
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慶長6年(1601)10月、三河国岡崎城主、10万石の田中吉政は関ヶ原の合戦で西軍の石田光成を生捕った功績で、家康から筑後国32万7千石を賜り栁川城に入城し、各要害には城番を置いたが、松延城には、松野主馬が着任し、治水工事や堤防工事などに才を発揮し、灌漑用の小川を整備し農作物の増収を図った。松延を流れる「主馬殿川」は領民が旧主に感謝して名付けたものであろう。藩主の田中は無断で穀物を隣国に出すのを禁止した触書を出し、国境の警備が厳しくなり状況が一変する。
一方、宗茂は慶長7年(1602)4月、加藤清正の許しをもらい20余名の家臣をつれ、京に向かっている。 . |
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【壇忠重(七郎兵衛)の従兄弟、信一(久左衛門)による秘密の兵糧俵の仕立て】 |
本郷の壇七郎兵衛の従弟の久左衛門(信一)も、柳川城を明渡し、肥後に引越す宗茂と誾千代姫にお供して引越しの手伝いをした。壇家(分家)は宗茂や誾千代の肥後での生活の心配をし、米は食料としてだけでなく、通貨でもあったので、当時、藩外持出し禁止の米を芳司村の廣田宮社内の寶蔵において、極秘で妻、妹ならびに親族11人で連判を致し、塩俵に見せかけた米入り俵、842俵を作り肥後に運送する。しかし国境番所で発覚し、藩主田中吉政の怒りをかい、拜領の御書14通を引揚げられ慶長7年7月10日に正文寺において死罪となる。家内と連判した親類合わせて11人が同様に死罪となる。そのとき久左衛門の1歳になる子供(美津次)は密かに折地村(現・筑後市折地)の下川伴之丞の家に隠し、養育された。そして成人して速一(元民)と称し、京都で8年間、医術を学び折地村で医者を開業している。 |
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壇家(大庄屋)と分家の天正時代から慶長7年の家計図 |

量米を仕立てた壇家(従弟ら)親族の処刑者名 |
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【壇家と樺島家の処刑】 |
慶長7年(1602)7月、樺島彦左衛門(益義)と壇七郎兵衛(忠重)の誾千代への糧米を乗せた荷車はついに国境の北関(山川町)で警備役人に捕えられてしまった。事の重大さは栁川の田中吉政に知らされ怒りをかった。そして「糧米を国外へ持出した罪」で7月11日に面の坂刑場(山川町清水)で樺島彦左衛門と壇七郎兵衛は処刑された。平地の「面の坂刑場跡」はその後「ハタモン場」と呼ばれるようになる。庄屋職の樺島式部(益運)は息子が処刑された時刻に松延の自宅で切腹致した。享年70歳。全領民が旧主君を慕うことを禁じられ樺島家・壇家は庄屋禄を没収され断絶された。非業の死を逐げた樺島式部(戒名・三室幻世居士)と彦左衛門(戒名・心月幻安居士)の霊は松延の霊松山大祥寺の境内に眠っている。慶長10年(1794)には追号として式部に清幹院殿の戒名を彦左衛門は良霓院の位の高い戒名を頂いている。椛島家墓地のある大祥寺は元禄14年(1701)大竹の二尊寺の依頼により、鷹尾村の大祥寺(1324年頃の創建)を松延村へ移転したと立花家の記録にある。中間不詳であるが、明和8年(1771)久留米梅林寺の和尚が再興して開山祖となり聖観音菩薩の坐像が本尊として祭祀されている 。臨済宗妙心寺派。いわゆる二尊寺の末寺であり、墓守の寺である。境内には寛政3年(1791)建立の法華塔、閻魔堂、大師堂がある。樺島家、壇家の主な墓がある。 |

旧薩摩街道の坂 |

処刑場と面の坂が合流する付近 |
樺島家由緒書(文政6年(1823)
慶長7年(1602)7月11日に樺島彦左衛門は野町面ノ坂で
処刑され、親の式部は居宅で切腹した事が記されている。 |
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大祥寺(霊松山) 瀬高町松田 |

三室幻世居士・樺島式部の墓 |
心月幻安居士・樺島彦左衛門の墓 |
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面の坂の処刑は誾千代母娘にも知らされ月に一度の筑後からの音信と糧米の搬送は途絶えた。誾千代は病の為に衰弱し処刑された慶長7年の10月17日に実母の宝樹院と一人の侍女に見守れながら亡くなった。この時、瀬高来迎寺の僧誠誉が腹赤村に呼ばれて引導を執り行った。戒名「光照院殿泉誉良清大姉霊儀」の「ぼた餅の形の墓に刻まれている。一方、宗茂は京都滞在中に三左衛門の手紙で正室誾千代の死を知る。宗茂は慶長8年の秋に江戸に出て、本田忠勝(平八郎)の世話で高田宝祥院を宿舎とした。慶長9年には徳川家康に呼ばれ5000石の禄で御書院番頭(将軍直属の親衛隊)に任ぜられる。翌年の4月に秀忠が将軍職を継ぐ。慶長10年に宗茂は家康と秀忠の信頼を得て奥州棚倉(福島県東白川郡棚倉町)に1万石を拝領する。筑後では慶長14年2月18日に田中吉政が参勤の途中伏見で客死し、4男の忠政が筑後国の藩主となる。宗茂は慶長15年44歳の時に赤館と上総山の2万石を加増され3万石の大名となった。家康は慶長19年11月に大坂冬の陣、翌年元和元年(1615)5月に大坂夏の陣を仕掛け豊臣家を滅ぼした。この戦いに、宗茂は常陸筑波郡5000石の実弟の直次と共に500人の手勢で将軍秀忠の直属の軍として加わり戦功をあげた。
慶長20年(1615)6月幕府は大名の戦力を低下させる為に「一国一城令」を発し居城以外のすべての城の破却を命じた。また藩内の城砦は不要のじだいとなり、本郷城(砦)や松延城も元和元年(1615)に取り壊された。松延城跡は松田の北部にあり天満宮の西方に位置し本丸跡の一部は現在、周りが、かなり削られた小高い丘陵地となり、竹が生茂り周りの濠も埋められ形ばかりの小溝と水田とまり、わずかながら昔の面影を残している。今も本丸を中心として、東二の丸、西二の丸、北三の丸、南三の丸、城内、近臺寺・掛畑(北屋敷)・今屋敷などの小字名が現存している。北西部を流れる外濠の一部を先述べたごとく、主馬殿川と言ったり(松田地区)、城川と言ったり(藤尾地区)、あるいは南部を流れる今屋敷に接する一部を馬入れ川と呼んでいるが、今なお往時の面影を忍ぶことができる。 |
明治15年頃の測量地図(小字の知名で松延城の様子が解かる)
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田中吉政の病死のあと、4男の忠政が筑後国の藩主となったが、大坂夏の陣出遅参して、家康より閉門を申しつかった。そして元和元年(1615)8月に江戸で死亡した。兄弟も死亡していたので、田中家は取り潰しとなった。
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【立花宗茂の栁川再入城】 |
田中吉政に面の坂で磔刑になった樺島益義の子供の益仁(幼名専千代)は、当時3歳であった。母に養育されて成長した。元和6年(1620)、立花宗茂は奥州棚倉から栁川に再城する為に豊前国小倉に到着した。その情報を聞いた18歳になった樺島益仁(市左衛門)、重貞(藤兵衛)ら80人余は小倉に出迎えに行き、御目通りして栁川城までお供をした。翌年、宗茂は壇・樺島の子供を栁川城に呼び、肥後に糧米を届けた恩義と忠誠心を賞し、褒美として檀家と樺島家を上班の永代庄屋職を復活させた。そして士分の待遇を与え、苗字帯刀を許し、郡役の直属としました。樺島益仁には松延村の庄屋職と松延村に10石を拝領され、壇重貞は本郷組の大庄屋役を賜る。
元和10年(1625)以降は壇・樺島の2氏のごときは幼少でも庄屋職の特権を付与される。
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松延樺島家系略図 (初代から五代まで) |
浄祐ー浄盛ー浄秀ー浄泉ー道祐-宗清ー益運1602年斬首ー益義1602年磔ー益仁1660年没-益忠1685年没ー 益正楠田組大庄屋へ
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上蒲池の家臣樺島式部は支城の松延城主であったが、秀吉の九州征伐で領地を没収され、大友の家臣で立花城を構えていた立花宗茂(統虎)が戦功により、柳川領主に任せられた。そこで立花の家臣立花三郎衛門をして松延城の城番となし、浪人となった樺島式部(益運)は宗茂により松延村の村長と庄屋職に任命された。のちに子息の彦左衛門(益義)が家督を継ぐ。慶長5年(1600)関が原の戦いの後に立花宗茂より田中吉政に領主が変わった。椛島庄屋と壇大庄屋は、宗茂の旧恩を忘れず厳重な国境の警戒の中を、毎月米を送り続けてたが、捕まり処刑されている。処刑された彦左衛門(益義)の子息は幼きに付き、いろんな家に匿われ、田中氏の難を免した。
宗茂が柳川に再城すると、子息は再び椛島家を興し彦左衛門親の名を引継ぎ、3代目となり松延村の庄屋職と10石を拝領した。(益仁)は妻に瀬高上庄の鋳物師の平井惣兵衛の娘を迎えている。益仁は万治3年(1660)12月19日に病気で亡くなり大祥寺に葬る。61歳。法名、幻性桃雲院。妻は延宝4年(1676)2月19日に死亡。法名蔭涼院。
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四代目を嫡男の益忠(三郎兵衛・宗祐)が家督と松延村の庄屋職を継いでいだ。妻に北広田村同苗四郎兵衛の姉を迎えている。貞享2年(1685)12月28日に益忠は55歳で亡くなる。法名天庵泰霊院。益忠の長女は小川組大庄屋の鍋島助右衛門に嫁いでいる。
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五代目は長男(長三郎)が早世したので次男の 益正(次郎左衛門)が松延樺島の家督相続する。妻は田形兼松の娘である。その後に益正は元禄3年(1690)に楠田組大庄屋役を賜る事になる。
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【楠田組大庄屋】 |
兄 益正(楠田組初代)-益永ー益親ー益晴ー益恕ー益陳-益徳ー益與ー益脩ー岬-精ーー順一郎(東京)
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弟益吉(松延・樺島家)-益俊ー益貞(宮永組大庄屋)ー益武(宮永組大庄屋)ー |
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(楠田組大庄屋初代)
松延樺島家五代目に益正(次郎左衛門)がなるが、元禄3年(1690)に英山公(
3代藩主鑑虎)より楠田組大庄屋役を賜り、高田町上楠田村に居宅を構えた。翌年には楠田村の肥後境に及ぶ大谷山を拝領した。その為に弟の益吉(権八)が松延の六代目樺島家の家督と松延村庄屋職を引継いでいる。
.(楠田組大庄屋2代) .
寛永5年(1628)に楠田組の大庄屋役益正(次郎左衛門)は嫡男がいない為に、弟の樺島松延家六代目の益吉の長女と結婚した鍋田定右衛門(小川組大庄屋)の子供の 益永(三郎兵衛・五郎七・次郎右衛門・嘉作)を夫婦養子として迎え、宝永5年(1628)に益正は病身となり隠居し。4代藩主立花鑑任の許しを受け跡継ぎとし、楠田組大庄屋2代目を 益永が引継いでいる。正徳6年(1716)4月に病死。大竹村の二尊寺で葬儀が行われた。61歳であった。法名釋宗甫信士。
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享保の改革で町人百姓から武家に対する金穀の訴訟は一切取り上げざる旨の幕令があり、たまたま大坂の茨木屋安右衛は栁川藩に多額の貸金があったが、この幕令により訴訟の権利を失い、よって一策をひねり出し大庄屋らに、その証文に署名させ、享保5年(1720)に大坂奉行に提訴し、享保9年(1724)には江戸奉行所に提出され審議された。栁川藩では御会所の役人の大渕八郎右衛門と大庄屋の身分を書院番並として江戸に、向わせて対決して、訴訟は却下となった。以来大庄屋は藩吏(藩の役人)となった。楠田組大庄屋2代目の益永も江戸の奉行所向かい対応した事が家系図に記載されている。 |
【二尊寺の梵鐘】
享保2年(1717)に樺島家から瀬高上庄の鋳物師平井惣兵衛に製作依頼して菩提寺である大竹村の二尊寺に寄進された梵鐘(戦時中に供出)の銘文に樺島益正・益永・益家 樺島益吉・益利・益成の名が刻んであった。貞享2年(1685)、樺島益正は松延村の樺島家五代目になったが、5年後の元禄3年(1690)に楠田組(高田町)の大庄屋役を賜り勤め、のちに隠居して享保元年(1716)に世を去った。
弟の樺島益吉は松延樺島家六代目家督と松延村庄屋を相続し、正徳4年(1714)12月8日に58歳で世を去り、嫡男の益俊が松延樺島家七代目を継ぐ。益俊の妻は益正の娘であったが26歳で死亡。後妻に栁川外町の荒木七郎兵衛の姉を迎えている。益俊の妹は瀬高上庄の中村太郎兵衛に嫁いでいる。
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また松延の益吉の娘が楠田組、益正の養子の益永(金子吉左衛門)と結婚して楠田組2代目大庄屋職を継いでいる。二尊寺に樺島家が寄進した梵鐘は亡くなった楠田組大庄屋だった樺島益正と松延樺島家六代目で、松延村庄屋と村長だった樺島益吉の供養の為に、両人の子供や親族が梵鐘を寄進したと見られる。この梵鐘銘から松延を引継いだ樺島益吉の嫡男は家系図では益俊とあるが梵鐘の益利が正しいではないだろうか。梵鐘の益家や益成の名は略系では見あたらないが両家の家族であろうが不明である。
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樺島家代々の墓がある大祥寺は元禄14年(1701)大竹村の二尊寺の依頼により、鷹尾村の大祥寺(1324年頃の創建)を松延村へ移転した。(立花家文書より)、二尊寺の末寺(墓守寺)としたであろう。
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(楠田組大庄屋3代)
楠田組大庄屋2代益永は元文年間(1736~1741)に隠居して嫡男の益親に譲り、寛延2年(1749)正月に病死。享年70歳。法名恭安了雲居士。.楠田組大庄屋3代目は益親が跡を継ぎ、明和2年(1765)に亡くなっている。
(楠田組大庄屋4・5代)
4代目が益晴であるが4人の息子がいたが、安永8年(1779)に益晴の長女が従兄の益恕(喜五郎・又五郎・半蔵)と結婚して家督相続と5代目楠田組大庄屋役を継ついでいる。益晴は大庄屋役を勤め、寛政2年(1790)に死亡している。
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(楠田組大庄屋6代)
寛政7年(1795)には楠田組6代目は嫡男の益陳(三郎・喜久治・次助)が受継ぐ大庄屋役を勤め、文化13年(1816)に世を去る。
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(楠田組大庄屋7代)
楠田組7代目は嫡男の益徳(半蔵・彌十郎・嘉作))が受け継いでいるが、妻に十代壇喜右衛門信の娘を迎えて壇家と縁戚関係になっている。益徳は大庄屋役を勤め、嘉永元年(1848)に世を去る。
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(楠田組大庄屋8代)
嘉永元年(1848)楠田組8代目は嫡男の益與(岩熊・新三郎)がなる大庄屋役を勤め、。安政4年(1858)に世を去る。
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(楠田組大庄屋9代)
安政4年(1854)4月、9代目は弟の益脩(五郎・謙吉郎)が楠田組大庄屋となり、改正により11石8斗8升家禄となり、勤めて幕末を迎えている。益脩は明治時代になり黒崎開戸長や二川村助役となっている。また三池銀行の株主でもあった。明治24年(1891)7月に病死。法名良雲院謙道羲沖居士。
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その嫡男は岬は明治8年に上楠田で生まれ明治34年に東京帝国大学卒業後、農商務省で農林技手となるが、郷里に戻り大正8年に三池郡会議長となり後年二川村長となり大正13年8月に50歳で病死されている。
またその嫡男が精一氏で樺島家の家系図を制作されている。その嫡男は順一郎氏で東京中野区在住。中興の祖、式部(益運)から数えて十八代目になる。
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楠田組に属する村は、東濃施・中濃施・西濃施・北新開・南新開・亀尻・谷川・上飯江・中飯江・下飯江・飯田・浦・原・田尻・岩津・古賀・今福・上楠田・下楠田・江浦・江浦町・黒崎開の22ヶ村(現在の高田町)である。
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昭和50年頃の楠田組(樺島大庄屋)の建物
東側には垂見組大庄屋を勤めた分家の屋敷がある。 |
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【楠田組大庄屋の屋敷の間取り】
大庄屋は郷方諸般の事務を支配し、常に組内の庄屋の出入りがあり、また藩の重役代官の集合があって、大庄屋屋敷の間取りは家相を考慮して、玄関は東向きにして、右側に男部屋があって受付や警備をする。玄関6畳の次に8畳の間と大広間12畳があり寄合の会議の場で正面に皇太神宮を祭祀し会議評定をする。正面の庭には築山泉水があって風流な味わいを添えている。南側の次間は11畳と上間の9畳にて廊下側に便所と浴室があり、客間として使用されたであろう。玄関より右に入ると北側は家族室で、ほかに女中部屋がある。風呂場、漬物室、味噌部屋があって広大な建物であった。図面にはないが屋敷の南方に2室の離れに、それぞれ9畳敷で床の間の御休所があり厳重に出入りを禁止された。また別棟に牢舎があって、罪人を監禁していた。
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垂見組大庄屋系図 |
ー益晴ー益玄(益晴の3男)ー益長ー兄益幸(2代垂水組大庄屋)ー弟熊蔵(3代垂水組大庄屋)(明治維新)ー七郎ー末治ー益雄ー啓之 |
楠田組4代の益晴の嫡男の益玄は姉が婿養子の益恕と子結婚して楠田組を引継いで為に相続しなかったが、嘉永元年(1848)5月に益玄の嫡男益長(五兵衛・猪太郎・新九郎))が垂見組大庄屋役を賜り、塩塚村に引越して、松延樺島十代目・竹井組大庄屋の益興の3男の養子の上原宗右衛門(樺島宜明)の垂見組大庄屋と柳川本町組支配池末氏の一族の池末直右衛門の垂見組大庄屋の跡を引継いでいるが、翌年の正月6日に病死。法名靏齡院。垂見組は益長の嫡男の益幸(幾太郎・平佑・又七)が2代垂見組大庄屋役引継ぎ、文久3年(1863)4月にその跡を6番目の弟の熊蔵が3代垂見組大庄屋役を継いで幕末まで3代垂見組の大庄屋役を勤めている。)
垂見組に属する村は、南徳益・北徳益・野田・四十町・上塩塚・南野・作出・皿垣・江島・明官開・南野開・皿垣開・中島・島堀切・鷹尾・古河・西津留・江崎・弐町新開・下棚町・中棚町・上棚町・白鳥・上垂見・下垂見である。
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楠田組大庄屋系図と六代目以降の松延樺島家(竹井組大庄屋)系略図
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兄 益正(楠田組初代)-益永ー益親ー益晴ー益恕ー
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弟益吉(松延・樺島家)-益俊ー益貞(宮永組大庄屋)ー益武(宮永組大庄屋)ー 益興-益信(田隈組へ)ー益親ー益敬ー 作造ー益隆ー益生-稔
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上図の名の下の年号は没年を示す。 |
【松延樺島家の宮永組・竹井組・田隈組大庄屋系図】 |
(竹井組大庄屋系図(十代目から))
ー 益興(松延樺島家十代目・竹井組大庄屋)ー兄益信ー益生ー益明ー隆助ー与三郎ー多賀助ー昌男(養子)
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弟益行ー兄益美ー弟益朗-涛来ー益三-益弘ー晴夫
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量平(蒲池組大庄屋)ー益ヱー謙三ー正剛(下庄)
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益友
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健+
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(上庄・樺島家系図)
長男彦次
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益行ー3男理一-次男辰二郎ー悠-不二夫(上庄)ー兄辰彦(秦野市)
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弟伸治
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寄進梵鐘で前述べの通り、松延樺島家六代目は益吉で正徳4年(1714)12月8日に58歳で世を去り、嫡男の益俊が松延樺島家七代目を継ぐ。妻は楠田組大庄屋益正の娘である。妹は瀬高上庄の中村太郎兵衛に嫁いでいる。
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(宮永組大庄屋) .
松延樺島家八代目が益貞(七五郎彦左衛門・嘉兵衛)である。母は楠田組大庄屋益正の娘である。宝暦7年(1757)に宮永大庄屋役を賜る。益貞は明和3年(1766)12月15日に宮永で逝去する。享年58歳。法名、謙光院覚心了観。
宮永組大庄屋2代目は嫡男の益武(伊左衛門・彦左衛門)(享保16年6月15日生まれ)が継ぎ、10年勤めたが安永5年(1776)11月10日退役し、天明8年(1788)5月に吉井に住まう。益武の3女は田隈組大庄屋の益信に嫁いでいる。次男の益昌は壇姓になり息子の益考の娘(圓)は上原宜武(養子に行った益興の3男の嫡男)に嫁いでいる。寛政12年(1800)6月4日に逝去。宮永組大庄屋役は2代で終わっている。
宮永組に所属する村は、東蒲船津・西蒲船津・正行・下百町・高畑・新町・藤吉・今古賀・江曲・築籠・猟町・新田・下宮永・上宮永・安良開・弥四郎・吉富・鬼童・端地・正段島・矢留・東開・西開の23か村で現在の栁川と三橋の各一部にあたる。(宮永の地名の由来は,平安末期に当地を拓いた宇都宮一族宮永氏にちなむ)
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【十代目益興からの樺島家の繁栄】
(竹井組大庄屋)
明和4年(1764)益武の妹(万津)は瀬高上庄の金子忠兵衛の次男の吉左衛門(寛保3年(1743)生れ)と婿養子結婚し、婿は 益興(吉太郎)と名乗り、松延樺島家10代目家督を相続し松延に住む。安永9年(1780)に益興は竹井組大庄屋役を賜る。樺島家の松延村は竹井組の管轄になるが、当初から竹井村に有力な竹井組大庄屋役がいたと見られるが以前の人物は不詳である。大庄屋役が発足しておよそ190年後に掴んだ竹井組大庄屋役である。益興は竹井組大庄屋役を益行に引継がさせ、隠居しした。享和3年(1830)5月15日に61歳で亡くなっている。妻(万津)は文化9年(1812)4月18日に亡くな。.
(樺島竹井組大庄屋2代)
益興の4男の 益行が松延庄屋と松延村長を引継ぎ勤めていたが、寛政5年(1793)に松延村庄屋と村長を退き、竹井組大庄屋役を引継いでいる。
2代目竹井組大庄屋は4男の益行が相続。妻に九折(山川町)の覚成寺の娘を妻にしている。益行は天保15年(1844)逝去。享年69歳であった。
(樺島竹井組大庄屋3代)
竹井組大庄屋の益行が亡くなると、嫡男の 益美(吉左衛門・良左衛門)が3代目竹井組大庄屋を引継ぎ、さらに弟の 益朗(七郎・吉左衛門)が竹井組大庄屋役を幕末まで勤め慶応元年(1865)に他界している。
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に住居を構えられている。亡くなられた跡は、益三~益弘~晴夫と続いている。
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竹井組の村は25ヶ村があり、即ち(大木村・松延村・北広田・藤尾村・堤村・朝日村・草場村・大塚村女山・本吉村・河原内村蒲池山・南広田(現・西清水)・在力村(現・東清水)・中尾村・野町村・立山村・原町村・佐野村・中原村・小萩村・三峰村・北関村・真弓村・飯尾村・竹井村・飯江村(茶字は現在の山川町)であった。
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(蒲池組大庄屋)
3代竹井組の益美の次男で4代竹井組大庄屋の 益朗の甥の量平が蒲池組の大庄屋職も賜っている。明治15年9月8日病死。法名松雲院節心玄操居士。
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蒲池組の村は(山門郡の枝光村・南矢加部村・三瀦郡の旗保村・網干村・津村・小保町・南大野島・九反村・北大野島・吉原村・久々原村・西濱武村・南濱武村・古賀村・田脇村・南間村・七ッ家村・紅粉屋村・北間村・新田村・南一木村・北一木村・東蒲池村・西蒲池村・西蒲池本で旧柳河町北部と大川市になる。
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(田隈組大庄屋)
益信ー益生ー益明ー隆助ー与三郎(明治維新)ー多賀助ー昌夫ー |
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益興の、子供は7人いたが長男の益信(嘉平次)は松延樺島家9代目益武の娘(久野子)と、いとこ同士の結婚したのち、寛政5年(1793)に田隈組大庄屋役を賜り三池郡橘村(現・大牟田市)に屋敷を構えた。よって4番目弟の 益行が松延庄屋と松延村長を引継ぎ勤め、のちに竹井組大庄屋役を継いでいる。
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樺島田隈組2代は益生(熊松・清蔵)が跡を継いだ。3代は益信の3男の益明(三郎)が引継いでいる。4代は隆助が引継ぐ。5代は与三郎が幕末まで田隈組大庄屋役を勤めて、明治時代では郡書記となり、のちに県議会議員として活躍されている。子息の多賀助氏は京都南部にあった巨椋池の干拓事業に貢献されている。(後述べ人物伝紹介)
田隈組の村町は(三池町・高泉・平野・大間・宮部・久福木・小船津・田崎・手鎌・草木・田隈・四箇・上内・坂井・下内・倉永・甘木・元・原内山・尾尻・豊永・豊持・岡松・池田・伏部・深倉・隈・怒縄田・亀崎・深浦・横洲・大牟田の32か村で、現在の大牟田市の一部にあたる。庄屋は14名いました。
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【上原家と鈴木家との関係】 .
益興の3男の宜明(熊次郎・良右衛門・宗右衛門)(1773~1826)は安永2年(1773)に三池郡四箇村(山川町南隣、現・大牟田市)の上原良右衛門義房の養子となり、文政6年(1823)に上原宗右衛門として垂見組大庄屋役を賜る。文政9年(1826)5月14日に死亡。垂水組大庄屋は池末直右衛門から楠田樺島家系の樺島益長に引継がれ相続されて幕末まで勤めている。上原家の家督は宜武~宜家と引継がれ、末裔は東京・久が原に在住。
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鈴木吉左衛門は肥前唐津藩の家臣であったが、浪人の身なったが、大富となり、栁川藩に御用金を進上した。その後、お家は落ちぶれたが、瀬高上庄に屋敷を拝領している。益興の5男の與五郎は鈴木吉左衛門の養子として鈴木家を中興している。のちに與五郎が寛政12年(1800)に本源院の養子となった為に、6男の益之が鈴木家の養子となる。そして檀益昌(益武の2男の樺島益晶)の娘(久萬)を妻にしている。妻の弟の益考の娘(圓)は上原宜明の息子(宜武)に嫁いでいる。益之は父吉左衛門が天保9年(1838)12月に藩に進上金を差上げた事に寄り、栁川藩の御書院番として仕えた。しかし天保11年(1840)3月14日に死去する。娘多喜に上原宜明の次男の益元が養子となり、天保11年(1840)に家督の御書院番を勤め、安政5年(1858)5月に本番を任命される。万延2年(1861)に瀬高川に羽根(水流調整土居)を築き藩に進上し進上金も差上げ、永代十人扶持を拝領する。病気の為に嫡男の益等に家督を譲り三池郡四箇村湯谷に移住する。嫡男の益等は文久2年(1862)4月18日に家督を継ぎ、5月10日より大広間番を勤める。弟の宜家は三池郡四箇村湯谷の上原宜武の養子となり一男を授かる。明治11年(1878)4月に病気にて退き、嫡男の益謙に家督を引継がせる。その後は益広が相続しいている。現在四箇村湯谷の墓地は高速道路建設により二尊寺の山門の東側に移されている。
鈴木吉左衛門ー樺島益興(金子忠左衛門の次男)
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上原宜明(益興の3男)―上原宜武ー上原宜家ー上原真吉郎ー章
鈴木与五郎(益興の5男與五郎)鈴木家中興(さらに本源院の養子になり弟益之に譲る)
鈴木与五郎(益興の6男益之)ー多喜ー益元ー益等(質朴)ー益謙 |
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田隈組と竹井組の大庄屋両家を「南樺島家」と「北樺島家」と呼ばれた。
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田隈組大庄屋の益信が文政9年(1826)に亡くなると、長男の益親(斗一)が柳川藩の普請奉行に大出世していた為に、十二代松延樺島家家督のみを益親(斗一)が相続して松延に住んだ。次男の益生(清蔵)が2代目田隈組大庄屋役を引継いでいる。益親(斗一)は退役後、安政6年(1859)5月19日に病により他界、享年77歳。
3代目田隈組大庄屋役は益生の弟益明(三郎)が引継ぎ、4代目田隈組大庄屋役は嫡男の隆助が引継ぎ、5代目田隈組大庄屋役は養子の与三郎が幕末まで引継ぎで勤めている。与三郎氏は大牟田市橘に住いがあり、大庄屋のあとは、郡書記を勤め、のちに県会議員であった。また三池銀行の株主でもあった。よって竹井組大庄屋役を四代に渡り、田隈組大庄屋役は5代に渡り勤めて明治維新を迎えている。多賀助一昌男と続くが、現在は2人娘さんが結婚され家系が切れている。
【上庄・樺島家の家系】
竹井組2代目大庄屋役の 益行の3男の理一(貞蔵)は明治2年(1869)に亡くなっている。理一の次男の辰二郎(大正3年(1914)没後の末裔は━悠(昭和6年(1931)没)━不二夫━辰考で瀬高町上庄の瀬高郷土史会員の樺島不二夫氏の系図である。当家の不二夫氏と嫡男辰考氏で大竹・二尊寺の入口門柱を寄進されている。辰考は神奈川県秦野市在住。
【松延椛島家十二代(斗一)からと吉井壇家系図】
松延樺島家11代益信-益親(斗一)ー兄益敬ー兄益照ー益隆―益生-稔(藤沢市在住)
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弟益謙 弟元次郎(益照の弟)―壇幹一(元瀬高町町長)ー壇信行(瀬高町吉井在住) |
【吉井の壇家の家系と松延樺島家】 .
益親(斗一)の長男、益敬(元次郎・覚左衛門)が松延樺島家十三代目を相続し、弟の益謙(俗名亀之助・のち喜藤太)は古閑冶人の養子となるが、のちに壇専右衛門の養子となり家督相続する。しかし長男の顧十郎が文化9年11月に早死にし、跡継ぎが絶えた。よって、兄益敬の次男の元次郎を養子にして壇専右衛門の家督を相続させた。明治になり檀元次郎は松延に隣接する吉井に引越して住んだとみられる。
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松延樺島家十四代の益照(作造)は明治20年(1887)3月に没し、十五代は益隆(光太郎)(明治10年2月11日生まれ)で、明治34年4月18日に緑村農会長に選任。明治36年9月30日には山門郡会議員に当選。同41年1月1日に町村合併で自然消滅。同37年4月10日に郡農会員に選任。同年4月22日に緑村会議員に当選。同41年元旦に町村合併で自然消滅。同40年3月6日瀬高町会議員に当選。同年10月30日に山門郡会議員に当選。しかし、明治末期に農地を手放す事になり、9人の子供を育てる為に、親戚の吉井の壇幹一氏宅に先祖の位牌・古文書などを預けて離郷され、大阪府北河内郡守口町春日町に引越す。昭和19年7月28日に68歳で永眠されている。
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益隆の嫡男益生は明治34年11月17日に瀬高町で生まれる。親と大阪に引越したのち、大正15年12月に在学中の京都帝國大学で高等試験司法科試験に合格、昭和2年3月に卒業し、大阪地方判事などを歴任。のちに台湾総督府の裁判所判事などを歴任し、昭和17年7月に台南弁護士会入会。敗戦直前に台南から日本に引揚げた。4隻の引揚げ船の3隻は米軍の襲撃を受けて撃沈。運良く日本に引揚げ、昭和21年5月に大阪弁護士会に入会されで活躍されている。昭和42年4月2日に67歳で永眠。
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益生の長男の樺島稔氏(藤沢市在住)が松延樺島家を継いでいられる。郷里の松延の掛畑にあった屋敷は現在一部、九州新幹線の敷地となり昔の面影は残っていない。次男の益芳氏は谷村家の養子となり谷村陽介の名で京阪の歌舞伎舞踊の師匠で数多くの公演を行い活躍されている。 .
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樺島家は、松延城の初代城主樺島式部小輔であり、その家系から、栁川藩普請奉行をやり、黒崎開の外側にある永治開の干拓事業に貢献した樺島家十二代目の樺島益親(斗一)や史学者の樺島涛来や瀬高町長として町に貢献した壇幹一など、多くの人材が輩出している。
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樺島斗一(益親)(1783-1859) |
松延樺島家の12代目の益親は、通称名を樺島斗一といい、字は子周、芹渓と号した。天明3年(1783)南樺島家の嫡男として、松延村に生まれた。その先祖は、松延城初代城主の樺島式部少輔である。幼少より、心身剛健、篤実にして、文武衆芸に志した。早くから、藩の命により、子弟の教育に当たったが、敬意・尊敬する者が多く、生徒は、遠近より多く集まったという。その後、藩主より抜擢されて、郡役となり、藩の主要業務の一つであった干拓事業を主宰した。また税法を定めたり、社寺仏閣の管理をするなど、すべてに成果を挙げ、ますます政治、文学、あるいは、事業の分野にも、辣腕を発揮していった。 |
三池郡高田町黒崎開の外側にある藩営干拓の大事業の永治開干拓は文政7年(1824)に起工したが、難工事で失敗の連続で資金は底をついた。栁川藩は財政が悪化していた為に、文政10年(1827)に、天草の豪商松坂屋・石本平兵衛に追加資金を調達してもらった。普請奉行の樺島斗一(益親)は石本平兵衛の組織が持つ高度な技術を修得し、現場泊り込みの指揮、監督の功績により30町歩を完成することができた。斗一が44歳の時の一大事業であった。堤防延長は2.1キロメートル、開田面積は、62平方メートルの大規模な干拓地である。この干拓地は堤防がL字型、短尺の形をいていることから「短尺開」とか、功労者の名をとって、「斗一開」とも呼んでいる。現在は、永治村という、百戸を数える部落として、繁栄している。この新開地の中央に常盤神社があり、境内には、永治開百周年の記念碑が、大正12年10月に建設され、樺島斗一の手になる永治開築造について、碑文が刻んである。
文政11年(1828)の大風大波には、決壊する事はなかったが、明治7年(1874)8月20日の大風高潮には堤防が決壊し、47人の死者をだした。それ以来、毎年8月19日には、常盤神社境内の観音堂で、施餓鬼を行い、被災者の霊を弔い、この干拓地の恩人である樺島斗一の労をしのび、近頃まで、その末裔である吉井の壇家に祀られた祖霊に村の代表が、酒、肴を供えて参拝していた。この永治開の干拓事業は普請奉行の樺島斗一の生涯の一大事業であった。(2007年12月15日号の広報みやま市の永治開の説明で「楠田組大庄屋樺島斗一が中心となり開発した・・・は市担当者の勉強不足による間違いである。)
斗一は、初め、牧園茅山に師事したが、柳川藩を退官したのちに、日田(大分県)の私塾「咸宜園」の広瀬淡窓の門に入り詩を学んだ。詩学大いに進み、広瀬旭荘の「宜園百家詩初編」の後を継いで晩年の嘉永6年(1853)に「宜園百家詩二編」の編纂、刊行した。その後淡窓の弟の隷園は、されに「宜園百家詩三編」を編集、注釈しているが、その巻首に、樺島芹渓の詩を収め、その人なりと、卓越した略歴を注記し、絶大なる賞賛をしている。今も日田市立淡窓図書館でそれを閲覧することができる。安政6年(1859)5月19日に病により他界、享年77歳であった。松田の大祥寺の墓には門弟である壇秋芳の撰による、その生涯を賞賛した謝恩の碑文が刻まれている。
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樺島芹渓先生像(吉井壇家所蔵) |
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芳洲樺島涛来(1851~1941) |
父は、益朗(弥次郎)といい、幕末期における最後の竹井組大庄屋役を勤めた。その長男として、嘉永4年(1851)に松延村に生まれた。その妻は、はじめ小笠原信濃守長次に仕え、寛文2年(1662)より江戸詰めになった立花藩の家臣、岩永氏の出である。弟の三近氏は福島の真浄寺の養子となり、藤吉姓を名乗り「歌会始め」に招かれたこともあり、また旧栁川高等女学校に長年勤務された方である。幼少より、吉井の壇秋芳の鶴鳴堂(青莪堂)に学んだ。壇家は、樺島家とは親戚関係にあり、謹厳実直な、漢学者としての秋芳の感化を受け、明治維新を迎えた。そして明治11年(1878)には、すでに28歳の若さで、筑後国第三調所の副戸長となっている。その後、松田校や立花小学校の校長などを歴任しました。熊本県庁にも勤務され、その頃の作品が残っているという。大正3年(1914)頃より、立花家の要請により、その家中となり、終身立花家の書籍などの整理に携わることとなった。そして当時の栁川の外小路(現在の新外町)に居住した。涛来は大江村の「幸若舞」に強い関心をよせていた。かって、明治44年(1911)陸軍特別大演習のため、明治天皇、福岡県行幸の際、栁川「白縫会」を代表して、福岡県知事の承諾を得、大演習後、「幸若舞絵巻物・台本」献上を計画した。しかし明治天皇崩御のため、大正3年(1914)に曽我子爵を通じ、大正天皇に献上された。その後、樺島涛来は、立花家の膨大な文書の整理作業に専念し、近代の郷土に関する不朽の史料集「旧柳河藩誌」」35編および「柳河藩史」第6編を集大成した。これは栁川古文書館に保管されていたが、昭和45年(1700)に半田氏と城後氏により、上下編に分けて解説出版された。昭和7年(1932)81歳の時に霊松山大祥寺の「開山の塔」を墓石として、境内無縁物供養の為の納骨堂を建立された。その中には、開祖雲瑞和尚の手になる「一字一石」の法華経を収めた。また同時に橿樺島家之墓も建立された。樺島家には「もちの木」の大木があったので橿樺島家と表現されたようだと永田和尚が語られた。昭和17年(1942)8月3日永眠、91歳の天寿を全うされた。
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樺島多賀助 |
巨椋池は京都盆地中央の池で宇治川・桂川・木津川が流入していた。古代中世には水上交通の要所と沿岸に港が発達した。平安時代では宇治の地は、貴族の別荘地となる。時の権力者、藤原道長の別荘地は平等院。彼らは船で巨椋池を渡ってきて、詩歌、管弦、遊女遊びに明け暮れた。宇治を詠んだ歌は多いが、小倉百人一首にも、二首が出ている。しかし豊臣秀吉が北岸・指月の山に桃山城を築き、宇治川を築堤して城の下まで北流した為に湖は川と切り離され死滅湖となった。さらに明治の淀川改良工事で河川と分離された独立湖沼となった。このことで河川の水量調整機能が失われ,また水質も悪化していた。
樺島多賀助は東京帝大濃科を卒業して、干拓県の千葉に任官し、大正2年に京都府に来任するや、早くも巨椋池干拓に着目し、着任直ちに池本甚四郎氏(後に隠居して甚兵衛)を訪ねて干拓の抱負を相語った。次いで干拓実行を主張して、つぶさに研究を重ねていた。次いで他県へ転出したが、大正8年に開墾助成法が発布されていたが、ようやく干拓国営予算が成立し、昭和7年10月に特に旧縁をもって斉藤知事、池本府会議長らの招きに応じ、府新設の耕地課長として再任し、本事業よりすれば、あたかも錦衣帰郷の感があった。昭和8年から始まった干拓工事は国・京都府・地元の三者の事業として行われた。以来事業の完成に尽くされ昭和16年11月本事業が完工した。竣工式には農林大臣や京都のきれいどころも参加して盛大に行われた。樺島多賀助は竣工式が終えるのを待って退官し、郷里の大牟田市に帰って自適の生活を楽しんだ。巨椋池は母なる大地となり、戦時中から戦後の食糧不足には人々の飢えを救った。京都府宇治市槇島町一ノ坪(巨椋池土地改良区事務所内)には干拓工事の完成を記念して碑が建立されている。 |
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壇幹一(1895~1967) |
壇幹一氏は樺島斗一(益親)の孫のあたる、元次郎の次男として明治29年に生を受けた。親の元次郎氏は次男であり、檀家に養子にいった為に壇姓を名のっている。長兄などが幼くして次々と病死したため、檀家の跡取りとして、頑健を旨に自由奔放に育てられ、伝習館、福岡師範学校と進み、文武両道に優れ、スポーツに熱中の余り股関節脱臼を無理し、下肢に障害を残した。学業半ばにして病気のために帰郷、病いえて家業に精励、農産物の品質改良に努めるなど、地域の属望を担う存在となり、34歳で町議会議員に選ばれ、昭和13年からは県会議員の転進、昭和30年までの17年間、県議会で重きをなした。また昭和21年に戦後の公選町長となり第1回目の昭和26年まで、さらに昭和34年から同42年までの間、通算13年間、瀬高町長としての町の躍進と発展のために、一身を捧げ燃え尽きた人生であった。主な業績は、昭和21年瀬高中学校建設。同年、矢部川改修工事。昭和26年山門保険所改築。昭和34~42年町内各小学校の改築。昭和36年清水山に青年の家建設。昭和37~42年瀬高町上水道完備。昭和39年清水三重塔復元などがあり、いずれも戦後の復興期の貧しい町財政の中での実績である。さらに昭和10年、氏の長男信行氏の幟記念として大江小学校講堂を寄贈された。昭和36年に地方自治功労者として藍綬褒章、昭和41年11月に勲四等瑞宝章を授与されている。昭和42年に、通算13年に及ぶ瀬高町長を惜しみながら勇退して程なく、急逝。町は壇氏の生前におけるその功績に報いるため、かって前例がなかった町葬を盛大、厳粛にとり行っている。享年71歳であった。
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【本郷組壇大庄屋家系図】 |
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【宇佐姓壇家系】
古代史は謎が多いのを前提に述べると、廣田八幡宮文書や宇佐姓壇家系などには、兎狭(宇佐)国造(クニノミヤツコ)兎狭津彦の後裔、兎狭津速麻呂あり。神功皇后に仕え奉って、三韓を海上に攻め戦う。時に、津速麻呂の武功により、皇后は感謝し筑紫廣田県二百七十町の封戸(律令制度で規定された食封として支給される戸)を授与され、津速麻呂はこれを領地とした。
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この津速麻呂9代の後裔を兎狭速彦丸と云う。この速彦丸は3人の男子がある。長子を速胤と言い、次男を彦信、三男を速俱と言う。この兄弟3人は宇佐の宮に参籠して、七日七夜これを祈る。ここに天照大神は託宣し「我が心の廣田は筑紫の下妻よ。」と宣う。神亀元(724)年11月19日、豊洲宇佐の宮より速胤神主は御神躰を頂戴奉り、遷宮に際し長男の速胤は神主として、次男の彦信は勅使役として御神体の跡詰を、三男の速具は先祓いの神として守護し奉りました。その時に宇佐より17人の武士が相添えられ神興を守護して来る。その子孫は皆、農夫となり芳司村に住み、神事の節は神興の守護を奉ずる。
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筑後国下妻郡廣田庄本后(郷)邑8村)の仮宮(現・聖母宮)に安置し奉り、その後、芳司(文広)なる塩忍井川(矢部川)の中瀬の上に西向きの宮殿を構え奉る。その時、速胤神主を神司(姓は宇佐、氏は廣田)との神託)あり故に廣田の別当と言える、弟達は神興置奉所の土壇を築き、板橋を掛渡し、その上に沢瀉と柏の葉を壇の上に敷く。神興を奉じた時に、次男彦信は宮の壇を築いたことから、氏を壇とし、三男速具は板橋を架けたことから、氏を板橋とした。
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勅使役の彦信(姓は宇佐、氏は壇)は宮柱の武士となる。彦信の22代末裔信公や息子の速房(大炊介)は戦国時代では本郷城(砦)構える土豪となり、上蒲池城の支城となる。さらに立花藩政時代では領内の民生を円滑に執り行う為に、地元の事情に精通した旧在地領主として大庄屋職を与えられている。
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速俱(姓は宇佐、氏は板橋)を鎮西の市の司となし給う。速俱の22代末裔の助種(隼人正)は芳司の定期市の守護神として市恵比須を勧請する。(お宮に近い芳司の、笑酒石碑があり、高さ243cm、幅84cm、厚さ23cmの安山岩製で、碑面には男女の酒宴の図と「筑後国下妻郡広田庄 本郷村芳司町 笑酒、大永五年(1525)八月吉日、施主 板橋助種」と刻まれている。
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久右衛門の朝鮮征伐、小野和泉に御供 |

宇佐姓壇氏略系② |

宇佐姓壇氏略系① |
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壇七郎兵衛見出しの「宇佐姓壇氏畧系」によると、先祖は昔、豊前国より当国に参り、①壇大炊介迄、代々本郷村に住居いたし壇大炊介は天正時代では山下城の蒲池鎮運の配下となり、居住の本郷村に砦を築き肥前の龍造寺隆信の軍勢の侵攻に構えてていた。天正12年(1584)3月に肥前軍の侵攻は山下城におよび、壇大炊介は3月24日に山下城において肥前軍と戦い討死してしまった。嫡男の参河は落ちぶれて暫らく長田村に住んだが、(天正15年(1587)南筑後の大名として栁川城に入った)大圓院様(立花宗茂の法号「大圓院殿松隠宗茂大居士」から宗茂の事)天正18年(1590)に召出された、②壇参河は久右衛門(忠久)と改名いたしました。嫡子の ③七郎兵衛(忠重)と共にに本郷組大庄屋御役を仰せ付かった。
家系図蘭には、「大炊助の長男の久右衛門(忠久)は天正18年(1590)に大庄屋職を与えられ、二男の津右衛門(重清)は御国中大目付役となる。のちに二人は文禄元年(1592)の朝鮮征伐に召出され、小野和泉殿の与力となり、お供した。二男の津右衛門はその地で戦死した。長男の久右衛門は帰国後に本郷村に地方3丁余りを拝領した。忠久と嫡子の忠重(七郎兵衛)の親子は宗茂に御奉公し大庄屋御役も相勤めた。しかし、久右衛門は慶長5年(1600)に病死し、長男七郎兵衛が家督を継いだ。
宗茂は関ヶ原の戦いで近江国の大津城を攻め勝利したが西軍は関ヶ原で敗北した為に帰国した。 父の遺跡を相続した壇七郎兵衛(忠重)は松延村庄屋の樺島彦左衛門(益義)と申し合せて、80人余を召連れて豊前までお迎えに行き、筑後の片野瀬の辺りまでご案内し、栁川にお供いたした。その後、栁川城明渡しにては百姓を引連れ高畑から蒲船津(現・三橋町)に押寄せ籠城に備えた。しかし肥後藩主の加藤清正の計らいで、開城して肥後に移ることになり、松延の樺島彦左衛門(益義)と申しあわせて荷物等を運びました。両人は毎月怠けず、寸志を仕送りし、御書(礼状)を頂いた。光照院様(誾千代姫の法号・光照院殿泉誉良清大姉)肥後(高瀬赤腹村)に引越しの荷物も夜に運びました。その後、月々には寸志(量米)を仕送り致しました。御書(礼状)と御短刀を拝領いたし御局よりも数度、御禮(御礼)の書状を頂いた。慶長7年(1602)7月に藩主田中吉政の警備に捕えられ不届きにより7月11日に本郷村でで処刑される。旦那寺は同村の九品寺です。法名操松院忠岩浄湲。
④重貞(藤兵衛)幼名(久太郎)は元和7年(1621)に立花宗茂公が栁川の再城し親跡大庄屋役を賜う。本郷村に久留米御領の領地が入り込み、将監様に願い出て御上使4人が再見して栁川領分となる。慶安2年(1649)に隠居を願いで、寛文9年(1669)1月13日に病死した。
⑤清繁(藤三郎・幼名小五郎)は別峯院(2代藩主・立花忠茂)より慶安2年(1649)の親の重貞の隠居により、本郷組大庄屋役を授かる。子供は4人息子で長男は太兵衛、次男は久左衛門である。貞享3年(1686)7月20日に病死した。
⑥史料はないが長男の太兵衛が親の遺跡を相続して貞享3年(1686)に本郷組大庄屋役を授かったと推測され宝永6年(1709)11月に亡くなったであろう。
⑦忠貞(藤三郎)は霊明院様(4代藩主・立花鑑任)の御代、宝永6年(1709)11月に大庄屋役を賜る。享保元年(1716)に隠居し、剃髪して壽齊の名を拝領する。参勤交代にお供したが、江戸の屋舗(屋敷)が類焼に付き長州下関から引き返して帰国した。霊明院様が逝去された節は御花畠で御尊骸拝禮しました。
途中、壇大庄屋の家系史料未発見
信成(七郎兵衛)は壇七左衛門の嫡子である。陽徳院様(8代藩主・立花鑑寿)の御代文化5年(1808)9月16日に家督を相続し大庄屋見習いを仰せ付けられ文化10年(1813)に本役を賜る。嘉永3年(1850)に実貞に・・・・・嘉永6年(1853)9月19日に病死。
信良(幼名・啓太郎、喜太郎)は・・・・天保5年(1834)に大庄屋見習いを勤め、嘉永6年(1853)に本役を賜る。万延元年(1860)12月1日に病死する。
信春(幼名彦次郎)は今村嘉十郎の長女の知代と明治2年(1869)2月に結婚する。
文久元年(1861)3月2日に遺跡相続ならびに大庄屋役を作成・・・とあるが途中記載されていない年代があり、検証を要する。
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壇大庄屋の本郷組(は上庄・中山・木元・吉開・新・五十町・上久末・下久末・東百町・西百町・上沖田・下沖田・(以上山門郡12村)本郷・芳司・吉岡・禅院・山中・小田・南長田・下長田・上坂田・下坂田の村(以上下妻郡10村計22村)
上妻・山門郡の猟師を支配する在郷家臣山筒頭が置かれ,矢部の五条家の世襲であった。 |
)
壇大庄屋家系図
(彦信22代の後裔)
①三河守(信公)ー ②壇大炊介(戦死)ー③(久右衛門(初代本郷大庄屋)ー④忠重(七郎兵衛)ー⑤重貞(藤兵衛)ー⑥清繁(藤三郎)-⑦太兵衛ー⑧忠貞(藤三郎)ー 途中不明 信成(七郎兵衛)-信良(喜太郎)ー信春(彦次郎)
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九品寺の西側(裏)の通りにある岩神水路記念碑のある壇大庄屋の屋敷跡 |

壇大庄屋の裏の西には沖ノ端川が流れている |
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大庄屋表
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慶長5年(1600)以前 |
1600年代 |
文化 |
文政 |
天保 |
文久3年(1863)以後 |
竹井組 |
不明 |
不明 |
樺島(益之) |
8年・5年・安政3年
樺島吉左衛門(益行) |
樺島良左衛門(益美) |
樺島弥次郎(益朗) |
楠田組 |
ー |
樺島 |
樺島(益陳) |
9年・11年
樺島半蔵(益徳) |
天保
樺島半蔵(益徳) |
樺島謙吉郎(益脩) |
垂見組 |
ー |
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12年
大町栄三郎 |
5年
大町与次右衛門 |
9年
上原宗右衛門
12年
池末直右衛門 |
樺島熊蔵 |
田隈組 |
ー |
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樺島(益信) |
6年・8年
樺島清蔵(益生) |
樺島(益明)
樺島隆助 |
樺島与三郎 |
本郷組 |
壇 七郎兵衛 |
壇 |
壇 |
壇 |
壇 七郎兵衛 |
壇 彦次郎 |
小川組 |
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・貞享2年(1685)
鍋田助右衛門
妻は椛島益忠の娘 |
8年
吉沢宗右衛門 |
7年
吉沢政次郎 |
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今村嘉一郎
元治元年
今村嘉十郎 |
谷川組 |
ー |
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7年・10年
上野伝兵衛 |
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上野豊三郎 |
宮永組 |
ー |
樺島 |
13年
下川茂左衛門 |
9年・5年
下川平太郎 |
12年
下川茂左衛門 |
下川茂左衛門 |
蒲池組 |
津村三郎左衛門 |
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8年
富重庄五郎 |
2年
富重太郎助
天保7年
富重佳助 |
樺島量平 |
貞享2年(1685)には小川組は上下両組あり、文化7年(1810)の蒲池組は山門郡と三瀦郡に分かれて両組あり、本郷組は山門郡と下妻郡に分かれて両組のこともある。文化14年(1817)以降は9組を原則となったと思われる。 (福岡県史・第三巻中冊参照) |
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栁川藩の政庁にあたる会所は、城の東側の布橋にありました。会所には、家老の間・中老の間があり、ほかに勘定役所・物成役所がありました。会所には勘定役5人、郡役5人、物成役7人が置かれこれらを会所三役と言いました。郡役は各組を1人が受け持ち郷・組の行政、その年の年貢を決める免相検見を職務とした。代官役は9人で、1組に1人が配置され村政の監督を担当し中老の下で勤めました。上役の代官は大庄屋に命じて庄屋を指導しました。楠田組の庄屋は12名がいて村長みたいに村の行事をしたり、年貢の取立て等をしました。それで、代官や庄屋の人柄は庶民にとっては生活上の大問題だった。。江戸後期には代官の検見などの役目が中老に移管されたので、大庄屋が年貢の賦課を行っていました。会所の玄関から南東方向に離れて郡役所があり、大庄屋と庄屋の詰め所があり、大庄屋等は毎月一と六の日に出勤しました。大庄屋は組下の庄屋、名主を統轄し、その責任を負う。祭りの踊りの催しを藩に届けず、処罰され罰金を科された事例がある。ほかに法令の伝達、年貢、夫役の割付け、村々の訴訟の調整にあたった。地租収入の停滞があれば、直接の責任は代官にあったが、間接的に責任を負った。大庄屋宅には大書手がいて、事務にあたっていました。大庄屋の役宅には囲籾などの非常備えを保管する土蔵を置きました。公儀からの制札、藩からの触れなどの揚げ高札場を兼ねていた。またキリシタン排除の為の宗門改めや犯罪者の取調べも役人が来て大庄屋宅でおこなわれた。大庄屋の俸給は70俵で半分は蔵米から支給され、残り半分は百姓から直接納められた。下の組織に各村町の庄屋・長百姓(組頭)・百姓代の村役人が町中では別当役も配置された。庄屋は村の総代で、土地売買書入の場合は証文に裏書しそれを証明した。
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江戸後期の組織図(宮永組はのちに出来た組)小野組は小川組の間違い |

幕末の各組の大庄屋名 |
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参考文献
本村精二著、田中吉政と「面の坂」の処刑 ・ 大江小学校の歩みと郷土(創立百年記念誌) ・ 大和町史(上巻)・ 福岡県史 ・三池郡誌 ・立花町史(上巻)
樺島文書・由緒書、樺島家・系図、 鈴木家家系図、 壇文書・累系扣、宇佐姓壇氏略系 (両家のご協力に感謝します)
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