庄福BICサイト
                        H28・12・1制作     H28・12・10更新

  江戸時代の大名は参勤交代の制度のもと、一年おきに江戸と自領を行き来しなければならず(.)江戸を離れる場合でも正室と世継ぎは江戸に常住しなければならなかった。その為に大名は国元と江戸での二重生活を強いられ、江戸城を囲んで置かれた300藩といわれる諸侯の広大な江戸屋敷があった(.)藩主が江戸で暮らしている期間は藩政の機能が江戸でも必要となり、大勢の藩士が江戸の屋敷の敷地内の長屋に住むことになり(.)上屋敷、下屋敷、さらに中屋敷をもっていた。江戸城に最も近い屋敷を上屋敷と呼び、大名やその家族が暮らし(.)幕府の要人を招く迎賓館の役割や種々の政治折衝や各界との交際、情報の交換・収集などをおこなって藩の運営の糧とし、それと共に新しい文化の吸収に努めたといわれております(.)各藩には旅費だけでなく江戸の滞在費の巨額の財政的負担を掛けると共に人質をも取る形となり(.)諸藩の軍事力を低下させる役割があった(.)立花藩でも、江戸屋敷の維持費や参勤交代の費用を調達する為に国元の御用商人達に巨額の上納金を要求した古文書が残されている(.) 栁川の立花藩邸は東京の上野周辺に下屋敷、上屋敷、中屋敷があった(.).江戸住いの殿様の家族や家臣達は江戸の学者や文化人から教養や文化を修得し、お国の栁川に江戸の文化をもたらしました(.)


     吉原遊郭      台東区千束4丁目一帯
   嘉永6年(1853)戸松昌訓著の浅草の切絵図には入谷の郊外に(.)田圃と水路の囲まれた「立花左近将監」と書かれた立花藩の下屋敷が描かれている(.)すぐ北側には新吉原遊郭があった。浅草の金龍山浅草寺の観音堂の裏側から日本堤と呼ばれた土手道を進み左手の吉原大門から入る幕府公認の堀で囲まれた遊郭である(.)もともと吉原遊郭は元和3年(1617)、幕府の許可を得て庄司甚右衛門が江戸市中に散在していた遊女屋を日本橋葺屋町(ふきやちょう)の東隣(現 日本橋人形町周辺)に集めたことに始まる。この地には(よし)が生い茂っており、そこから「葦原」、転じて「吉原」と命名された。しかし次第に吉原が江戸の中心地になってしまい(.)江戸の大半を焼き尽した明暦の大火もあって、明暦3年(1656)6月(.)浅草寺裏の田圃の広がる日本堤の土手の南側へ移転させられた。以後、日本橋葺屋町付近にあった頃の吉原を「元吉原」、移転後の吉原を「新吉原」という(.)日本堤の土手は吉原土手と呼ばれ、遊びに通う江戸っ子たちで賑わった(.)敷地面積は2万坪あまり。京町1,2丁目・揚町・角町・江戸1,2丁目の街並があり、遊女が逃げない為にドブ(おはぐろどぶ)で囲まれていた(.)最盛期で数千人の遊女がいたとされる。

 江戸には稲荷が多かったが(.)吉原の遊郭の中にも四隅にお稲荷さんが祀られていた。大門くぐって左に「明石」(.)時計回りに「九郎助(黒助)」、「開運」、「榎本」稲荷があり、入り口見返り柳の反対側に玄徳(よしとく)稲荷が有った(.)明治8年に五稲荷社を合わせて、吉原神社が出来ている。遊女達には貧困の家から売られてきた(.)15歳程の少女たちの悲惨な境遇もあったが、吉原遊廓は新しい文化の発信地でもあった(.)安い女郎はたくさんいましたが、基本的には遊郭なので、遊ぶにはそれなりの教養と財産が必要でした。上位の花魁(おいらん)(大夫)は教養が必要とされ、花魁(おいらん)候補の女性は幼少の頃から禿(かむろ)として徹底的に古典や書道、茶道、和歌、(こと)、三味線、囲碁などの教養、芸事を仕込まれ莫大な金がかかった。修行が終わった花魁は一般庶民には手が出せなく(.)大名や旗本、豪商をもてなしました。常連客が吉原を訪れると、まずは揚屋(あげや)に上がって馴染みの花魁を指名し、店は、花魁のいる妓楼(ぎろう)へその旨を知らせる使いを出し、客はお酒を飲んで芸者や太鼓持ちの芸を楽しみながら、花魁の到着を待ちます。呼び出された花魁は(.)着飾って揚屋まで練り歩き、自分の妓楼に客を連れて戻ります。花魁のこの行き帰りの様を旅に見立てて、「道中」と呼ぶようになりました(.) 人気の花魁は『遊女評判記』などの文学作品に採り上げられたり、浮世絵に描かれることもあった(.)また舞台や落語や小説の題材にもなり、さまざまな女性の(まげ)や、衣装などが、吉原遊廓から新しいファッションとして始まっている(.)

 参勤交代する事で江戸に単身赴任する各藩の家臣はかなりの数に上り、この結果、江戸の人口の約半数が武士が占めると共に遊郭が繁栄することとなった。ところで、各藩の江戸詰めの藩士達は吉原でどんな遊び方をしたか気になりますが(.)俸禄の少ない下級武士は遊び金を用立てるのに必死でした。江戸末期の史料では藩主や厳格な重役が国元に下ると(.)普段の不自由な生活から解放され遊郭は憧れの場所となる。数百人もいたとされる柳川藩士でも業者からの賄賂(わいろ)(もら)う者、強要する者、勤務中でも茶屋で酒を浴びたり(.)屋敷内に勤番部屋に茶屋女を連れ込む有様で相当に乱れており「入谷の化け物屋敷」とまで呼ばれる有様であった。もちろん吉原通いの常連も多くいたとみられる。弘化(こうか)3年(1846)に柳川藩から16軒の吉原茶屋に、柳川藩士が来客した日時、藩士の名、相手をした女性の名、代金を報告させている(.)これも、12代藩主鑑寛(あきとも)御三卿(ごさんきょう)(徳川氏のの一族から分立した大名家)の田安斉匤(たやすなりまさ)の娘純姫との婚儀の話が進んでいた時期で、将軍に連なる純姫との婚儀を破談させない為に、柳川藩の評判を良くし、風紀の乱れを直す為と考えられる(.)
吉原遊郭は吉原大火、震災、東京大空襲で3度全焼し多くの犠牲者を出したが(.)不死鳥のごとく素早く立直って営業していた。しかし昭和33年(1958)に赤線が廃止され(.)売春防止法)一斉に廃業し、娯楽の殿堂と豪華な吉原文化は消え去った(.)旧吉原の町(現・千束4丁目)の構造は、入口の吉原大門からカーブした道や、吉原の道なりは(.)今でも江戸時代の土地計画のまま、千束4丁目として残っている(.)店舗は、バーやスナック、ソープランドや料亭などの飲食店に転向するも(.)今は旅館・アパート・マンションとなり町の様子も一転した。現在は毎年4月の二週にあたる土曜日に小松橋通りの「一葉桜まつり」で「江戸吉原おいらん道中」が開催されている(.)先頭は男衆の金棒引きと、続いて吉原の芸者衆が可憐(かれん)に男装した「手古舞」たちの金棒引きが「名入れ提灯」をかざして金棒を突き鳴らして通る(.)続いて大夫の名入れの大きな箱提灯を持つ男衆に続き、煙草盆と煙管を持った遊女見習いの少女、「禿(かむろ)」の二人に続いて、伊達兵庫の髪形と衣装等合わせると30kgにも及ぶ重量のものを身につけた花魁(おいらん)が男衆の肩を支えに外八文字の足どりで三枚歯下駄の歩き方を披露します。次に「振袖新造」と呼ばれる次期、花魁候補が列をなします(.)
 
吉原の張見世、女性や子供まで・見せ物の語源かも


新吉原の花魁道中の賑い 
 
明治期1897年の新吉原の3階建の遊郭(関東大震災で壊滅)
 
朱色で囲んだ部分は寺で特に上野から浅草間の浅草通り周辺は当時、寺でうめ尽くされ新寺町通りとも呼ばれた
.
 
江戸期の吉原
 一番奥に吉原神社が創建されている
吉原神社
      立花藩下屋敷  台東区入谷2丁目19と千束2丁目
  立花藩の下屋敷は入谷の郊外の浅草田圃に囲まれ、裏の吉原遊郭の賑いとは違い、さびしい所でありました(.)下屋敷は火災などで罹災(りさい)した場合の避難地という側面もありますが(.)藩主の別荘地としての機能も果たしていたので比較的広く(.)菜園などを設けて江戸在住の藩士の食糧を賄っていたとみられる。立花藩の下屋敷は9800坪7合の敷地に南に門があり周囲は水路で囲まれていました(.)また江戸大名屋敷は通常、町人が立ち入ることはできなかったが、立花藩下屋敷は屋敷内の太郎稲荷を公開し参詣を許可していました(.)

 文化3年(1806)3月4日
の四つ半(午前11時)頃に芝牛町(現・高輪2丁目)から出火した「文化の大火」では、幕府から浅草御蔵の番を仰せ付けられていた為に藩主の鑑壽(あきひさ)(8代藩主)は、名代として継嗣(けいし)鑑賢と家臣達を派遣したが、上屋敷にまで火が迫り、桃林院と正室を上野の山にある感応寺に避難したあと(.)火事羽織を着て屋敷を見張っていたが、火が燃え移り、自分も感応寺に避難した。翌5日に身内達と下屋敷へ入っている(.)6日には上屋敷・中屋敷詰めの家臣達に避難の慰労をねぎらって酒が振る舞まわれた。鑑壽と正室は庭を巡ったり、猟をしたり(.)俳諧を楽しんで下屋敷の生活を楽しんだ。のちに父の鑑通の正室の清子の実家である福岡藩黒田家からは火事見舞いとして畳表200枚が贈られている(.)倹約と見舞上納金で多額の再建費用を調達し翌年に上屋敷は再建している(.)

 明治3年に松が谷3丁目付近に近くにあった東光院の『光』と燈明寺の『明』のつくりを取って光月町が誕生し、明治5年には、新堀川の上流にある立花氏邸跡を合併した。それ以来、立花氏邸跡地は光月町と呼ばれた。住居表示が改正され下屋敷の光月町は台東区入谷二丁目と千束二丁目に掛かり分断されたが(.)現在も千束と入谷の光月町会として継続され町内には双方の光月町会の掲示板が設置されている(.)吉原田圃の全景を広津柳浪の「今戸心中」の文面に見ることができる。「忍ヶ岡と太郎稲荷の森の梢には朝陽が際立ッて映ッている(.)入谷はなお半分 靄に包まれ、吉原田甫は一面の霜である」と書かれ。さらに永井荷風が解説した、昭和初めの「里の今昔」には「太郎稲荷(.)はむかし柳河藩主立花氏の下屋敷にあって、文化のころから流行りはじめた。屋敷の取払われた後(.)社殿とその周囲の森とが浅草光月町に残っていたが、わたくしが初めて尋ねて見た頃には(.)その社殿さえわずかに形ばかりの小祠になっていた」とある。全くその通りで、現在もありますが、小祠となり、周りの森は下町の密集街と変化している(.)

      .
      下屋敷の太郎稲荷 台東区入谷二丁目19番1号(旧光月町)
 下屋敷にも、立花家の鎮守(ちんじゅ)として祀られていた。明治維新後は名付けた町名から「光月町太郎稲荷」とも言われた。この太郎稲荷については堂々たる江戸の一頁を飾っている。「徳川実紀」の享和3年(1803)2月の条に「浅草田圃なる立花左近将監(さこんのしょうげん) 鑑壽(あきひさ)(8代藩主)が別墅(べっしょ)の鎮守稲荷の社(世の人は太郎という)利生(りしょう)あらたなりとて江戸並びに近在の老若男女が参拝群衆すること(おびただ)しい、明けの年も、いよいよ賑わい、参詣(さんけい)(ヤカラ)は道に連なり毎日、人の山を築く。二とせ(2年)ばかりにして、衰廃(すいはい)せしとぞ」とある。享和年間に麻疹(ハシカ)の流行があり流行病を治す神として人々の信仰を集め、明治元年に衰退をみせるまでは、麻疹と同じく参詣も何回も流行(はや)(すた)れを繰り返した。江戸最大に流行した時期は賽銭は月に百両にものぼり、あまりの人手に喧嘩(けんか)口論まで起こる程賑わった。柳川藩では屋敷内の太郎稲荷の参詣を許可して「太郎稲荷参詣」の門札を配布し、収益を(はか)っていた。この繁盛に便乗して門札の偽造者や稲荷の御守札を売り出した横着者(おうちゃくもの)も出てきた。

 かかる繁盛は流行歌・落語・演劇でも太郎さんを脚色して人気を(はく)している。享和4年(1804)には太郎さんの御利益を授かったとして大門通り亀井町の甚兵衛・七吉兵衛から神輿(みこし)二脚の奉納の願いがあり、その他御祈願成就と言って奉納寄進者(きしんしゃ)が相次いだという。江戸の地誌「増訂武江年表Ⅱ」の慶応3年(1867)9月の項には「浅草田圃(たんぼ)立花侯下屋敷鎮守、太郎稲荷へ参詣群集する事始まれり、(中略)此の辺新堀と唱えし溝の両側へ、茶店、食舗等立てつらね、桜の稚木(わかさ)()へ並ぶ事一町(109m)程なり、石の鳥居、石灯籠、桃灯(とうか)、幟幕等、(おびただ)しく奉納し,日々参詣して新符を乞受け、霊験を仰ぐ人多かりしが、翌年4月の頃よりして次第に絶えり。」
明治元年(1868)の項に「去年より(にわ)かに諸人群をなして、春は(こと)(にぎわ)ひけるが、世上忽屑(くずな)によりてか、四月の頃よりして謁祠の輩次第に減じければ、いまだ造作なかばなりし商店も、皆空しく廃家となれり」と廃れてしまった太郎稲荷を記載している(.)

 かって流行の舞台となった太郎稲荷は明治11年に同地の武田道夫に向こう5年間の管理が委託されます。明治22年には下屋敷が売却されたが、信徒の要望で据置かれた。その後の関東大震災後の区画整理などで、たびたび社殿は場所を変えるが、昭和期に入ると二社あった太郎稲荷は北側の一社のみになった(.)

 明治期の小説家樋口一葉(ひぐちいちよう)(1872~1896)は下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉一丁目)で貧困な生活の中、荒物と駄菓子を売る雑貨店を開いたが、この頃の経験を題材にし吉原遊廓という場所で展開される、小説「たけくらべ(.)に主人公が太郎稲荷神社に商売繁盛の願掛(がんか)けに行く場面があります。竜泉三丁目18-4には台東区立「一葉記念館」がある(.)
現在、太郎稲荷は「太郎稲荷敬神会」で信仰され、社殿には定期的な旅行会の写真が掲示されている(.)
 
 浅草田圃太郎稲荷 小林清親の浮世絵版画(明治10年)  
光月町・太郎稲荷
 
 
 
かっぱ橋通り商店街北方面の旧光月町、
この先、左が入谷2丁目右が千束町3丁目
 
下町を感じる入谷2丁目(旧光月町)
 
太郎稲荷
 
     広徳寺 (臨済宗大徳寺派)    台東区東上野4-5-6(台東区役所一帯にあった)
   立花家の江戸の菩提寺である広徳寺の由来は天正18年(1590)徳川家康によって小田原にあって焼失した広徳寺を神田昌平橋の内に再建した、寛永12年(1635)下谷へ移転し加賀前田氏をはじめ、九州の立花氏、織田氏など多くの大名が檀家とする大寺院となった(.)江戸時代はとくに諸藩主・旗本等の帰依をうけ、それらの香華所として、また同時に宿院としての塔頭(たっちゅう)が15院もできており、江戸の俚諺に「恐れ入谷の鬼子母神(眞源寺・下谷1丁目12−16)」に続き「びっくり下谷の広徳寺」と言われるほど、江戸屈指の名刹となり(.)幕府から毎年御蔵米50俵を給付されていた。境内の西側に広徳寺塔頭の檀徳院・宋雲院・円照院が東側には徳雲院があった(.)明治維新後衰退(.)大正12年(1923)の関東大震災で広徳寺などが焼失(.)その2年後の区画整理で、練馬区桜台6丁目20−19に約10000坪の土地を購入し徐々に移転(.)昭和53年に移転を完了しました。立花家の墓も練馬に移転し遺骨は栁川に送られ菩提寺で供養された(.)現在、その敷地は台東区役所・上野警察所・消防署などの敷地となり、浅草通りに面して徳雲院と(.)その後ろに宗茂が創建た塔頭院の宋雲院がある(.)
広徳寺にある墓・左が宋雲院殿  右が宗茂公 
 

広徳寺境内には塔頭院の15の建物が建っている
 

台東区役所東の広徳児童遊園にある広徳寺遺跡の碑


練馬区桜台に引越した広徳寺
    宋雲院(臨済宗)広徳寺の塔頭      台東区東上野4-1-12
   立花宗茂の実の父の高橋招雲天正14年(1586)7月27日に薩摩軍の攻撃を受け将士と共に岩屋城に戦死したが、母の宋雲院殿は薩摩勢に捕えられ肥後の国北関に幽閉されたが、秀吉が薩摩を攻めるに及んで無事帰還した(.)その後、徳川時代に至り、立花家江戸藩邸において逝去した(.)宗茂は菩提寺である下谷の広徳寺の境内に実母菩提のため香華所として広徳寺参道の西側に宋雲院を建てた(.)震災後の区画整理によって境内が上野警察署敷地となったので本坊の旧堂を引いて本堂とし、庫裡と門とを新築(.)復興して現在の地に移転した。しかし昭和20年(1945)の強制疎開によって諸堂宇一切破却の厄にあった(.)先住・禅登和尚は昭和34年に本堂を完成、42年には庫裡および書院を完成させた。山門入って右の庭には立花家13代の立花鑑寛(あきとも)の長男、鑑良のことを書いた石碑がある。鑑良は幼名を主太郎といい、安政4年(1857)柳川で生まれた。維新により立花鑑寛鑑良親子は華族という地位になった。立花家と交流があり当時、静岡に在住していた勝海舟(かつかいしゅう)の助力で鑑良は静岡に遊学できたと言われる。明治5年12月に静岡遊学中に熱病に罹り、翌年1月に亡くなった。その訃報に勝海舟も死を惜しんだという(.)享年17歳であった。大変優秀な方だったので行跡が書き残されて、宋雲院の庭に設置されている(.)また宋雲院の本尊様が知恵の虚空蔵様で、丑寅(うしとら)歳の守り本尊であるので丑と寅年生れの人が参詣に訪れる(.)
         .
 

宋雲院
 

本堂・仏扉に祇園守紋がある

宋雲院殿
 
立花鑑良の供養碑
 
      下谷神社(下谷稲荷)   台東区東上野3−29−8
    東京ではいちばん古い稲荷神社で、天平2年(730)の創建から1200年以上の歴史があります。穀物神である「大年神(おとしのかみ)」と12代景行(けいこう)天皇の皇子「日本武尊(やまとたけるのみと)」の二神を祀り、由緒は狭田(はけた)稲置(いなぎ)が建てたとも、伏見稲荷大社から勧請されたとも言われます。造営からおよそ700年後、寛永4年(1627)には寛永寺建立のため、別当寺正法院とともに下谷屏風坂下(したやびょうぶざかした)に移転。しかし、土地が狭かったようで、延宝8年(1680)に再び遷座、広徳寺前にあった天眼寺の抱地(かかえち)と土地を取り替えます。あたりが「下谷稲荷町」と呼ばれたのはこの頃です。参道の大鳥居にかかる扁額(へんがく))は、明治・大正期に活躍した海軍軍人「東郷平八郎(とうごうへいはちろう)」の書とされます。神社からほど近い浅草通りは、あたりにお寺が多いためか(.)仏具問屋が立ち並び「浅草仏壇通り」として知られます。また、最寄り駅の駅名「稲荷町」(.)この界隈の旧名「北稲荷町」「南稲荷町」は、下谷神社がかつて「下谷稲荷社」と呼ばれたことに由来する(.)そして、現在地に移転するきっかけは大正12年(1923)の関東大震災。震災で社殿を失ったあと(.)土地区域整理により今の土地に遷座、昭和6年(1931)からはじまった新社殿の工事は(.)昭和9年(1934)に竣工し、その後は幸運にも戦火をまぬがれました。下谷神社は「寄席発祥の地」としてもよく知られます山生亭花楽(さんしょうていからく)が大衆を招き境内で披露したところ、大変好評で江戸中に広がりました(.)
 
 
 
嘉永2年(1849)の江戸切絵図

      立花藩上屋敷
  上屋敷は下谷御徒町で、JR御徒町(おかちまち)東口から5分ほどの場所で現在の台東区東上野一丁目一番から二十八番までの十二番から十九番を除いた部分が相当している(.)一丁目の3分の2を有している。かなり広い地所であったようだ(.)この地は、姫が池と呼ばれた池沼の中心で、たびたび出水に見舞われ、徳川家康天正18年(1590)に江戸に入府してから埋め立てが進み(.)寛永の頃(1624~46)には立花邸および下級武士屋敷になった。南側には旗本屋敷や天和2年(1682年)12月の江戸の大火(.)駒込大円寺から出火の八百屋お七の振り袖火事)で焼失して引越してきた出羽国久保田(秋田藩)の佐竹右京太夫の江戸上屋敷が建ち東側に三味線堀があった(.)元禄年間(1688~1703)になると、下谷辻番屋敷および大番屋敷が立花邸の北側に造られ、俗に西町と呼ばれた。また立花邸の東には華蔵院(げんぞういん)酒井大学の上屋敷があった。藩主は江戸にいる場合は決められた、年始・八朔(はっさく)・五節句・月次(つきなみ)などの式日に江戸城に登城しなければならなかった(.)また在府、留守府にかかわらず幕府に季節ごとの献上品を献上しなければならなかった。上屋敷の周辺は、、『不忍池』より流出する流れが昭和の初頭までありました(.)『不忍池』より上野広小路の「三橋」の下を流れる「忍川」は、東方向へ流れ、一度(かぎ)の手に曲がりますが、ほぼ東へ流れ、武家屋敷地の中を流れて(.)今の台東区東上野一丁目辺りにあった筑後〈現・福岡県〉柳川藩立花家の上屋敷を囲んでいた堀につながっていました。その先は、南隣(現・台東区台東三・四丁目(.)の大名屋敷(出羽〈現・秋田県〉久保田藩佐竹家)の堀にもつながり、そこから今の台東区小島一・二丁目にあった「三味線堀」につながっていました(.)そこから先は「鳥越川」といわれ、東へ流れて、途中で浅草の方から流れて来た「新堀川」と合流して、隅田川に流れ出ていました(.)「忍川」は大正初期頃から埋め立てられ暗渠となったと言われておりましたが、台東区営地下駐車場工事の際、「忍川」両岸の石垣が掘り起こされました(.)当時の新聞記事(平成17年4月4日)によりますと、かなり立派な石垣だったようです()  嘉永4年(1851)の江戸切絵図「東都下谷絵図」では上屋敷の西側に御徒町(おかちまち)の通りがあり短冊形の住居が建ち並んでいる(.)町名の由来は、将軍の外出(御成(おなり))に徒歩でお供する下級幕臣の御徒(おかち)たちが住んでいたことによる。今でもJRの駅名となっている(.)上屋敷の北側にある広徳寺は立花藩の菩提寺であった(.)
 
安政3年(1856)の江戸図(池が描いてある)
 
佐竹氏の上屋敷は維新後草原となり・「佐竹商店街」として継承されている
佐竹家秘伝の薬が現在の知られている「龍角散」です。
       .
    「立花家記」によると、上屋敷の総面積は、1万3132坪2合(約4万3335平方メートル)であった(.)元禄10年(1697)から正徳5年(1715)の間に書かれた屋敷図が栁川古文書館に残っており、その構造を見ることが出来る(.)屋敷地は、ほぼ長方形で東西方向に長く、周囲に堀がありさらに塀や長屋で囲まれている。「表御門」は南側のやや西寄りにある(.)また「裏御門」が西側中程にあり、南側東よりには「猿楽門」東側にも「東御門」がある。通常は「表御門」と「裏御門」が使用されたであろう(.)「表御門」を入りると表御殿の「式台」「御玄関(.)「御使者間」がある。表御殿は中庭を中心に建物が取り囲むような構造になっている。中庭の西側には「御書院」「御広間」(.)小座敷」があり塀で囲まれた中嶋を伴った大きな池のある庭園を共有しています(.)東側には藩主の私的な空間で「御時計間」「御鏡間」「御客間」「表御居間」さらに御廊下があり「上御銅子間」「御湯殿」の前から長い廊下で「奥番所」のある(.)藩主正室の住む奥御殿」に繋がっている。藩主はここを通って「御居間」と「御寝間」に行けた。奥には二本の廊下を挟んで「長局(ながつぼね)」と呼ばれる正室に仕える奥女中たちの住いがある。元に戻って御湯殿から廊下を東に進むと藩主の住い空間である(.)奥居間」さらに「御寝間」があり縁側からは池のある庭園が眺められる(.)御寝間の奥に「御持仏」の小部屋が備わっている。北側には「裏玄関」から入る「御進物役所」「坊主役所」があり、さらに北側の大部分を占める(.)上御料理ノ間」「御膳立ノ間」などの「御台所」がある。上屋敷西北隅の二階長屋は足軽・扶持人といった身分の家臣の宿所です。その東側のL字型の二階長屋は(.)御木屋役所」や大工・木屋夫・左官などの宿所からなり、その近くには別棟の「大工木屋」があります。付近には100人者の宿所も描かれている(.)「裏御門」の近くには「家中風呂屋」がある。また家老・奉行の執務室兼宿所は建物こそ繋がっていたが塀で囲まれ独立した構造になっている(.)表御殿と奥御殿の東には土居で囲まれた馬場が南北に延びており、脇には藩主が見物する「御馬見所」がある(.)上屋敷の中で眼を見張るのは東側に「如意亭」という庭園があった(.)「如意亭図」が残されており、滝は勢いよく落ち、池の水も流れ殊の外涼しく池の周りには松や柳が植えられており(.)桜やツツジ、カキツバタもあったようだ。夏は歴代の藩主たちは納涼の場として、いたく気に入ったようだ。上屋敷には井戸が11ヵ所あり(.)その内5ヵ所が掘り抜き井戸で、清浄な水を得ることが出来たようで、この井戸によって、上屋敷の飲み水などは(まかな)われたようだ。
.

二階建侍長屋の窓
 
塀の忍び返し
 
 立花藩上屋敷配置図
   
二階建侍長屋(神田橋内長屋参照)
 
上屋敷想像図
 明治2年(1869)に、立花邸の北側に隣接する下谷辻番屋敷と大番屋敷が下谷西町(したやにしまち)と称して起立した。明治5年(1872)には、立花邸と合わせて町域を拡大した。明治44年(1911)、下谷の二文字を略し西町(にしまち)となっている。昭和22年(1947)下谷区(したやく)と浅草区が合併して台東区が誕生した。昭和39年(1964)住居表示制度により現在の東上野に地名変更がなされたとみられる(.)

  明治17年(1884)の陸軍測量図(下図)で、旧上屋敷の配置が解る。文化3年(1806)3月の「文化の大火」で類焼し再建された規模が少し小さくなった上屋敷の建物であると推測される(.)池の東にあった屋敷は北側に変更され裏玄関が表玄関に変更されている。これは上屋敷の再建築を優先し(.)時間のかかる、焼け落ちた旧上屋敷の解体・整地を後延ばしにいたであろう。藩士長屋も北側に整然と並んでいる(.)文久2年(1862)8月、江戸幕府は大名の妻子の帰国を許し、出府も3年に一度(100日)でよいとしました。参勤交代の緩和とされていますが(.)実質的な廃止となり広大な屋敷や藩士の住居も縮小されたとみられる。この地図の三分の二を占める東の上屋敷の敷地には「馬場」や「如意亭」の庭園も無くなり小規模の借家などの建物が点在している(.)立花家は明治元年(1868)の後は東側の家屋を使い借家経営し、また不必要な土地は売却している。

 大正12年(1923)の大震災で被害を受け(.)区画整理により旧上屋敷の敷地には多くの路地が作られ西側の敷地に道路に沿って屋敷が建てられたと見られる。昭和6年(1931)の地図の赤字で書かれた立花邸で確認される(.)昭和20年(1945)の終戦まで屋敷は所有されていたが、その後に売却されている(.)今は太郎稲荷だけが場所を移されとは言え昔の面影を残している(.) 
 
明治17年・東京府武蔵国下谷区上野公園地及車坂町近陸軍測量図・部分立花邸町
 
昭和6年東京市全図(立花邸の部分図)
 
      【高村光雲の息子、高村光太郎(こうたろう)・生誕の地(.)
 仏師・彫刻家の高村光雲嘉永5年(1852)に江戸下谷で兼吉の子として生まれている(.)文久3年(1863)から仏師の高村東雲の弟子となる。後に東雲の姉・エツの養子となり、高村姓となる(.)明治初期に立花上屋敷跡にある借家(当時の住居表示・東京市下谷区西町3番地)を高村光雲わかとの結婚をきっかけに借りたとみられる(.)明治16年(1883)光太郎(本名 みつたろう)が生まれる。光雲は、「中央公論」に、この頃の住いの周りの情景を出筆している。「『不忍池』より流れる忍ぶ川がすごく清らかだった(.)三橋の下をくぐり御徒町に出、稲荷町と西町の境となり、南側にある旧佐竹氏の上屋敷跡である佐竹っ原を貫通して(.)その隣の三味線堀に注ぎこんでいたのだつた。光雲の書くところによると水が大変きれいで、光雲はその川の前に、張りぼての大仏さまを作ったという(.) それも明治時代の夢で、私たちの大正期になると、自宅傍の川は「西町の大ドブ」と称せられるように水が汚染し(.)注ぎこむ三味線堀にしてからが墨汁のような水のたまりで、いつも もやっているのが汚穢船(オアイブネ・糞尿船)であった(.)この堀から掘割が隅田川まで続いているので、この辺一帯の糞尿をここで船に積んで隅田川に漕ぎ出し、川を下り(.)海に出てぶちまけたらしい。」とある。光雲明治22年に東京美術学校に勤務し彫刻科教授や帝室技芸員に任命される(.)明治26年に住友家が別子銅山(愛媛県)の開坑200年を記念して依頼した皇居前広場の「楠公像」の制作において頭部を担当した(.)明治30年には上野公園の「西郷隆盛像」を制作している。シカゴ万博に「老猿」やパリ万博に「山霊訶護」を出品している(.)大正15年に退職し名誉教授となってる(.)
   .
 光雲の長男である高村光太郎は5~6歳の頃から、父、光雲にもらった小刀で彫刻のまねごとを始め、15歳の時(.)父が教壇に立つ東京美術学校(上野の東京芸術大学美術学部の前身)の予備の課程に進みました。翌年には本科へ進み、彫刻の道を目指しました(.)明治38年(1905)、22歳の時ににロダンの彫刻『考える人』の写真を見て衝撃を受け(.)翌年に欧米へ留学しニューヨーク美術学校の特待生になる。24歳でロンドン、翌年はパリに移り住み見聞を広め(.)欧州の自由で近代的な精神を身につけて帰国、芸術家としてエリートコースを進むほか、思春期には同人誌に詩や短歌を発表する。明治44年(1911)(.)28歳の時に雑誌『青鞜』創刊号(平塚雷鳥創刊)の表紙絵を描いた3つ年下の女流洋画家・長沼智恵子と出会う。大正3年(1914)に詩集『道程』を出版(.)同年、長沼智恵子と結婚しています。光太郎は「私はこの世で智恵子にめぐり会った為、彼女の純愛によって清浄にされ(.)以前の退廃生活から救い出される事が出来た」と語っている(.)この頃、ブロンズ塑像「裸婦裸像」・「手」・木彫「(なまず)」を制作。しかし智恵子は肺結核にかかり昭和13年(1938)に死別(.)その後の昭和16年(1941)に詩集『智恵子抄』出版した。この詩集は、いろんな方面で創作の素材となり、映画、テレビドラマ(.)ラジオドラマ、小説、戯曲、能、オペラ、歌謡などが生まれた。昭和17年(1942)に『道程』で第1回帝国芸術院賞を受賞する(.)十和田開発の功労者のための顕彰碑である十和田湖畔の「裸婦群像」(乙女の像)を昭和28年(1953)に制作している(.)昭和31年(1956)4月、中野区の自宅アトリエにて肺結核のために73歳で死去しました(.)
高村光太郎・自画像
    西町太郎稲荷神社  (東京都台東区東上野1-23-2(旧・下谷徒町)・昭和通り、ホテルライフツリー脇を入り、1~2本目信号の右(南)裏通り)・
  [西町太郎稲荷神社は、筑後国柳川藩立花左近将監の母堂みほ姫の守り本尊として、立花藩の上屋敷に建立されました(.)町は、江戸時代の万治年間、九州筑後柳川藩11万9600石の太守立花左近将監が江戸の上屋敷として設けた跡地で(.)太郎稲荷は立花左近将監の母堂みほ姫の守り本尊として同邸内に祀られた。東稲荷と西稲荷があったことが屋敷図から確認できる(.)明治維新後上屋敷は東京控邸として使用された。旧上屋敷は関東大震災で被災し、その後に社殿を東京事務所役宅に移した。諸々の祈願事を叶え給い(.)特に商売繁昌に御利益あらたかな処から明治大正時代を通じて広くその名が知られ(.)多くの善男善女に厚く信仰されてきた(.)昭和5年に下谷西町(現東京都台東区東上野一丁目)の区画整理にあたり(.)太郎稲荷は移転することになったが、西町南部会は町内の繁栄の一策として立花家に請願して同邸宅内の現在地に社殿が建立された(.)当時の西町南部会は現在も町内有志集って由緒ある当祠の維持運営に務め、豆まきや初午祭などが盛大に行われております(.)

東上野一丁目の商業地域(上屋敷跡)
   
西町太郎稲荷

立花家17代・立花宗鑑氏の奉納
 
    立花藩中屋敷    
 中屋敷は上屋敷から近く、東南方向に歩いて6分程にある浅草鳥越にあった。現在の台東区小島及び三筋の一部になっている(.)上屋敷ほど広くはないが江戸古地図には大きな池が描かれている。そして下屋敷は台東区入谷二丁目と千束二丁目に掛かって(.)正徳2年(1712)の幕府提出の届書では2415坪8合(約7972平方メートル)の敷地があった(.)近くの堀の名から「三味線堀中屋敷」と呼称されていた。この屋敷図が1点だけ残っているが、建物の全部か一部か詳細は不明である。この図面には小部屋が13室(.)大部屋が1室、さらに東に奥女中たちの宿舎とみられる4室と便所がある(.)また国元から参勤交代で大勢の家臣を引連れて来た時など上屋敷に収容できない藩士を宿泊させる役目もあったと想像する(.)寛永7年(1630)に鳥越川を掘り広げて造られ、その形状から三味線堀と呼ばれていた(.)一説に(.)浅草猿屋町(現在の浅草橋3丁目あたり)の小島屋という人物が、この土砂で沼地を埋め立て、それが小島町となったという。不忍池から忍川を流れた水が(.)立花藩の上屋敷を南に進み秋田藩主、佐竹右京太夫上屋敷の東脇の三味線堀を経由して、鳥越川から隅田川へと通じていた(.)堀には船着場があり、下肥・木材・野菜・砂利などを輸送する船が隅田川方面から往来していた(.)立花藩中屋敷の西に延びる道は三味線堀の船着場に通じ、国元から輸送されてくる物資を陸揚げして中屋敷の蔵にに貯蔵する役目もあったとみられる(.)江戸・明治時代を通して、三味線堀は物資の集散所として機能していたが、明治末期から大正時代にかけて(.)市街地の整備や陸上交通の発達にともない次第に埋め立てられていき、その姿を消したる。近くには幕府の天文屋敷測候所や浅草御蔵もありました(.)中屋敷のある場所の鳥越の地名は南の近所にある鳥越神社によるものです(.) 
 
 
嘉永2年(1849)の江戸切絵図(中屋敷部分図)

安政3年(1856)の江戸図(立花藩中屋敷部分図)
 
明治41年頃の三味線堀

左衛門橋通りの中屋敷跡(三筋1-10) 
 
交差点あたりに池があった
 
 
      鳥越神社   台東区鳥越2-4-1 
  白雉2年(651)の創建。日本武尊、天児屋根命、徳川家康を合祀している(.)社伝によると、日本武尊が、東国平定の道すがら、当時白鳥村といった、この地に滞在したが、その威徳を偲び(.)村民が白鳥明神として奉祀したことを起源とする。のちの永承年間(1046-52)奥州の安部貞任(あべのさだとう)らの乱(前九年の役)鎮定のため、この地を通った源頼義義家父子は、大川(隅田川)を白鳥の渡るのをみてそこが浅瀬であることを知って渡ることができ(.)軍が無事に川を渡る事ができ、それを白鳥大明神の御加護と感謝しました(.)そこで白鳥大明神に「鳥越」の社号を贈り鳥越大明神と名づけた。以後、神社名には鳥越の名を用いるようになり(.)この辺りは鳥越の里と呼ばれるようになった。)そこで白鳥大明神に「鳥越」の社号を贈り「鳥越神社」と改称しました(.)これにより、地名も「鳥越」になったそうです(.)天児屋根命は、武蔵の国司になった藤原氏がその祖神として祀ったものとされる(.)また、徳川家康を祀っていた松平神社(現、蔵前4-16附近)は、関東大震災で焼失したため(.)大正14年に当社に合祀された。例大祭は、毎年6月9日前後の日曜(.)千貫神輿といわれる大神輿の渡御する「鳥越の夜祭」は盛大に賑わう(.)
 
     天文屋敷測量所  浅草橋3丁目21・22・23・24の全域及び19・25・26番地の一部
   
 江戸時代後期に、幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として、天文台がおかれていた。天文台は、司天台、浅草天文台などと呼ばれ、天明2年(1782)(.)牛込藁店(現、新宿袋町)から移転、新築された。正式の名を「頒暦所御用屋敷」という。その名の通り(.)本来は暦を作る役所「天文方」の施設であり、正確な暦を作るために観測を行うところであった。その規模は(.)「司天台の記」という史料によると、周囲約93.6m、高さ約9.3mの築山の上に、約5.5m四方の天文台が築かれ(.)43段の石段があった。幕末に活躍した浮世絵師、葛飾北斎の「富嶽百景」の内、「鳥越の不二」には、背景に富士山を(.)手前に天体の位置を測定する器具「渾天儀」を据えた浅草天文台が描かれている(.)

手前の屋根の上に蛎殻がおいてあります。板葺き屋根の防火のために蛎殻を屋根に並べることが推奨されていたようでその名残りでしょう(.)
明暦3年(1657)の明暦の大火は、江戸城の天守が燃えたが、湯島方面へ延びた炎は、湯島天神社、神田明神社などを焼いた。火は東方向にも拡大し、霊巌寺に逃げ込んだ9600人余の生命を奪った。浅草でも浅草門が閉ざされ多くの犠牲者をだした。火はさらに浅草御蔵も焼いて江戸市中の6割が焼失、死者は10万人を越えた。この反省により両国橋が架けられた。
 
     浅草御蔵     台東区蔵前
  浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地すなわち天領から年貢米や買上米などを収納、保管した倉庫である。大坂、京都二条の御蔵とあわせて三御蔵といわれ、特に重要なものであった(.)浅草御蔵は、また浅草御米蔵ともいい、ここの米は、主として旗本、御家人の給米用に供され(.)勘定奉行の支配下に置かれていた。蔵前の商人達は莫大(ばくだい)な利益を出していました。そして浅草寺の周りには、そんな大富豪が多く豪遊する場として、見世物(みせもの)小屋や芝居小屋などが軒を連ね、少し離れた吉原には多くの遊郭が立ち並び、この一帯は江戸の一大歓楽街として発展しました(.)
 浅草御蔵は元和6年(1620)浅草鳥越神社の丘を切り崩し、隅田川西岸の奥州街道沿い(.)現在の柳橋2丁目、蔵前1・2丁目にかけての地域を埋め立てて造営した(.)年貢米などを収める蔵の石材を遠く肥後(熊本)から運搬しました。蔵前2丁目2−11にある楫取(かじとり)稲荷神社は、遠路はるばる運ぶ舟を守っていました。それ以前にあった北の丸(.)代官町、矢の蔵などの米蔵は、享保(1716-1736)頃までに浅草御蔵に吸収された(.)江戸時代中期から幕末まで、浅草御蔵の前側を「御蔵前」といい(.)米蔵を取り扱う米問屋や札差(ふださし)の店が立ち並んでいた。旗本・御家人たち蔵米取は(.)御蔵役所から米の支給の呼出しがあるまで、浅草御蔵の前で茶や団子を売っていた水茶屋や(.)いつも米を売り払っている米問屋の店先などで休んでいた(.)蔵米の受け取りや換金といった作業の代理をこれらの店が行うようになったのが札差の起源である(.)元来、蔵米取は、俸禄米支給日に自ら浅草のお蔵に出頭し、蔵米を受取り、米問屋に売却したものであるが(.)それらの面倒な手続きを札差が代行してくれたのである。そのため、札差から借金をする必要がない者も(.)蔵米の受取りと売却だけを依頼することが多かった。彼らは蔵米支給日が近づくと、得意先の旗本・御家人の屋敷をまわって(.)それぞれ手形を預かっておき、御蔵から米が渡されると、食用の米を除いて残りの米を当日の米相場で現金化し(.)手数料を差引いて、現金と米を各屋敷に届けてやるのである。(台東区教育委員会説明文参照)文化3年(1806)3月4日の芝牛町(現・高輪2丁目)から出火した(.)文化の大火」では栁川・立花藩は幕府から浅草御蔵の番を仰せ付けられていた為に藩主の鑑壽(あきひさ)(8代藩主)は、名代として継嗣(けいし)鑑賢と家臣達を派遣している(.)
 現在も使われている「蔵前」という町名が生まれたのは、昭和9年のことである(.)ここの場所にあった蔵前国技館は戦後昭和29年9月に完成し(.)現両国国技館完成までの昭和59年9月場所まで東京場所が開催されていました(.)

浅草御蔵跡
 
隅田川長流図絵の浅草御蔵

.
        「江戸切絵図」国立国会図書館よりダウンロード 

  参考文献 江戸屋敷300藩いまむかし(実業之日本社(.)  図説立花家記(柳川市)   江戸大古地図(宝島)  上野・浅草歴史散歩(台東区)  台東区史(台東区)   江戸切絵図散歩(新潮文庫)   
   
         庄福BICサイト     ご感想、御意見、情報提供に協力ください。 Email:shofuku21@yahoo.co.jp