庄福BICサイト 【禁無断転載】 H・28・5・4 作成 H・28・6・20更新 |
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当初、藩の財政は農民による年貢米で賄っていました。武士の給料は米で貰っても米だけでは生活できないので余分な米を売って着物や野菜・日用品を買います。従って米を買いとる人や着物・魚・野菜を売る人や鍋釜などを作る人が必要となります。そこで、城下町には商人や道具などを作る職人が集まってきました。幕府が定めた金貨などの金属貨幣のほかに、約250藩が領内の通貨不足を解消する為、あるいは財政赤字の補填や借金の返済資金にする為、幕府貨幣と交換できる紙幣として、縦長の藩札を発行を許可した。柳川藩では3代藩主の立花鑑虎の寛文・延宝(1661~1681)の頃に立花孫左衛門は武家たちに、御蔵米渡し(現物支給)に際して手形(交換紙幣)を発行した。手形で譲与売買できるようにし便利になった。孫左衛門は大鶴の姓であったが、この功により立花の称号を許されている。
元禄元年(1688)頃に戸次数馬が「札遣役」となり正貨(金貨)と交換できる札を発行している。のちの藩札と同様で柳川藩札の始まりと言われている。江戸時代中期頃には、商人が扱う商品の量や種類が増えた。このため、商業の仕組みが発達し、貨幣が全国的に流通するようになった。商品の量や種類がふえ、複雑化していったので、商人も分業化するようになり、問屋や仲買や小売商の区別ができた。問屋どうしの中でも分業は進み、さらに分業化が商品の種類ごとに進み、藩が専売特権を認めた「株」を授けた米問屋や、塩問屋、油(菜種油)問屋・茶問屋・紙問屋などに、専業化していった。造り酒屋も酒株が授けられ酒問屋仲間ができ、藩の規制の元、酒が造られた。富豪商人や在宅役人や富豪農民のなかには副業に積極的な金融・土地収集により大地主になる者もいました。藩の年貢米・専売品の流通に関与したり両替を扱う御用商人の中には苗字帯刀が許され、扶持米(給与)が与えられるなど、武士に準じた身分的・経済的特権を与えられる者もいた。でも、藩札発行では貧困な藩では信用がなく、裏書人(保証人)なったり、参勤交代のたびに上納金を要求された古文書を沢山見かけます。ここでは、藩の財政を支えた柳川藩札と藩札の裏書き人、あるいは私札に登場する御用商人らを取り上げます。
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紅粉屋・後藤七郎左衛門 栁河町中町 |
紅粉屋(後藤)は藩内最高の富豪であった。後藤七郎左衛門は博多の商人で立花宗茂が立花城城主であった以来の問屋である。天正16年(1588)に立花宗茂公が立花城城から柳川に入城の時に一緒に来て紅粉屋(化粧品店)を開業したとみられる。後藤は上納金改役を仰せ付けられ藩納入の金員はすべて紅粉屋の印を必要とし、そこで紅粉屋はその金額に応じて手数料を受取っていた。今の銀行のような仕事をしていました。宗茂は関ヶ原の戦いで豊臣軍として戦ったが敗北し浪々の身となり、のちに徳川に仕え、奥州棚倉の領主となる。紅粉屋は奥州棚倉にいろいろな物を届ける。これが藩主の田中吉政に知れ商売を止めされていた。宗茂再城の元和7年(1621)2月12日に紅粉屋に御泊りになられた。紅粉屋の後藤七郎左衛門の妻は、すばやく宗茂公に御祝辞を呈し、熨斗(進物)献上した。以来代々の藩主の入城の節は、小道具町にある御客屋(御使者・迎賓館に当る)に、お迎えし三宝(神饌を載せる台) に熨斗(進物)を差し上げることが決まりとなった。この儀式が明治維新まで行われたという。元和9年(1623)紅粉屋は、安南、カンボジアに出かけ帰りに暴風にあい難船しようとしたので京信国脇差を沈めたが、波はおさまらず、家宝の太鼓を海中に投じたので無事帰ることができた。よって当家には家宝として太鼓が伝わっている。寛永14年(1637)島原出陣に際しては鉄砲玉5千斤・ヤリ等の他12両を献上している。立花朝右衛門(年代不詳)御銀急用について銀千二百十貫余を差し出したので褒美として五人扶持を拝領した。(天保五年後藤弥三右衛門記録)歴代藩主の御書も数多くあったが、明治以降に無くなっている。紅粉屋は代々、「上納金改方」を命じられ、いかなる上納金も紅粉屋に持参して、その封金を持参すれば、一切運上役所にて領収された。その際、紅粉屋は一件に付、何匁何分とか、何百両に対しては、幾貫何百文の手数料を徴収していた。紅粉屋はその金員を紙袋に入れ、紅粉屋の印を押し金額を大書きし、納入者に与えた。役所にては紅粉屋の印さえあれば、たとえ瓦でも千両と書いてあれば千両として領収される程に信頼され、藩内に通用したという。また藩内最高の富豪であった。元和8年(1622)に紅粉屋は有明海海岸堤工事を行い、33町の干拓地(紅粉屋開)を造成している。現在、有明海に近い筑後川沿いにある広大な土地の大川市紅粉屋は当時干拓された場所です。また、高田町江浦にもある紅粉屋開)も後藤氏関係とみられる。
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商人町(模型)
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紅粉屋間取り図 |
千両箱(展示模型) |
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島田六兵衛 . 栁河町西町(西魚屋町) |
島田六兵衛の家は、宗茂公が領していた陸奥棚倉(福島県)の魚商であった。宗茂公が柳川に再城される時に、柳川に来ないかとの仰せがあり、直ちに仕度をして、島田駅(宿)にて宗茂公に追いつき、お供して柳川に来た。よって島田の姓をもらって代々明治維新まで魚問屋の元締めである「魚問屋役」を仰せ付かった。ほかの魚屋販売業者は柳川に来れば、まず島田氏の店に置き、直接売ることはできなかった。勝手に売った場合は、魚類は没収され、柳川にて販売することを禁じられた。文化11年の(1814)発行の米札一升がある。女優の新珠三千代の母の里である。現在、当主は筑紫野に引越しされている。
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江口吉右衛門 栁河町 |
博多の豪商 伊藤小左衛門は黒田藩の御用商人として藩を支えていた。長崎の出店などで非常に豪壮で、長崎の邸宅の天井にギヤマン(ガラス)をはり金魚を泳がせていたという。小左衛門は、寛文2年(1662)から、寛文6年(1666)の間に7回の密貿易(朝鮮への武器の輸出)を行っていた事により寛文7年(1667)に捕われた。その時、柳川の豪商の江口吉右衛門も朝鮮に武具を密貿易したことが発覚し、柳川藩は足軽の伊本九右衛門・宮島茂を長崎に遣わし江口を捕えて死刑に処している。この事件で捕らえられた人数は270名余りにのぼり西国一帯を股にかけた大密貿易団だったという。
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佐谷儀兵衛 栁河町上町 |
柳川藩志によると塩問屋は以前の功により、上町の佐谷義兵衛に命ぜれれていた。船津に近いので塩船が着けば、佐谷義兵衛は藩の改役立会いの上、問屋独自の代価を決め、その5分を現金にて運上役所に徴収されていた。塩の俵は4升5合入、5升入、7升入、3斗入の4種類で、代価の立値も問屋の掌中にあり、種々都合がよく利益を上げたという。塩販売の独占権を持っていた豪商の佐谷義兵衛の壮大な店が上町の大部分を占めていたという。佐谷義兵衛が塩問屋の株を授けられたのは、寛政5年(1794)4月に外町から出火して、上町、辻町、中町その他の横丁が焼失し、飛火が家中に及んだ。出の橋御門も焼失した為に、佐谷義兵衛が再建新営して藩庁(役場)に寄付し、その賞として藩から授けられている。後年その株を徳兵衛なる者が引受けた。営業する為の株は売買の中「塩問屋」株が最も高くて、正金千両以上を出さないと譲り受けできなかった。
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甲木藤右ヱ門 |
甲木氏の祖は蒲地鎮久といい、柳川の領主蒲地鎮並の長兄で、その子の鎮友という人がいる。鎮友は藤右ヱ門(法名宗徳)と言い、天正9年(1581)の柳川落城の際に乳母に抱かれて肥後に落延び、のちに柳川に帰り、立花宗茂の命で甲木を継ぐようになった。藤右ヱ門の家は代々問屋をして海外貿易に従事していたであろう。立花忠茂(宗茂の養子)から藤右ヱ門に宛てた書状に南蛮菓子二包み、胡桝一袋、丁子(香辛料として使用)一斤、唐墨一挺、豹革一枚、砂糖漬の菓子一箱等々献上品の数々の礼状が保存されている。甲木家は江戸初期に栄えた問屋であったが、享保12年(1727)正月晦日の蟹町の火事の為に一時没落し、安永元年(1772)に柳川から現在の瀬高町小田の地に移り住むようになった。小田への移住はこの火事から45年後で、商売も思うように、行かなかったのであろう。(昭和18年12月柳川市本船津町甲木興一郎氏調査)当家の古文書に「山門郡一木村之内 手前開之高 三十三石六升七合 寛永四年(1627)十二月十一日御書付」があるが、これが甲木開で3ヘクタール余の小さな干拓地で南本土居のすぐ外の甲木開とみられる。また大和町古開の北にある甲木開や同町の皿垣開の南にある甲木開も甲木家が干拓した土地であり末裔の甲木鎮衛氏によると、先祖が開いた土地で、同所の神社の祭礼には甲木部落から御酒御供が毎年届けられたと言う。
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【柳川藩札発行】
江戸中期には柳川藩では藩の財源を図り酒造業を推奨したとみられる。元禄15年(1702)5月に山上九左衛門が勘定所に報告、更に高畠友右衛門が幕府筋に報告した記録には、柳川藩内の酒造米、4053石、酒屋115軒とあり、藩の生産石高は5000石ほどで、1軒あたりにすると、42石ほどで親樽2本に入る位の少量で、家族で造り店頭で販売する規模の酒屋であったろう。翌年元禄16年には櫨運上制を定め木蝋の製造を促進し、田畑や道筋には、木蝋の原料となる櫨(ハゼ)の木が多く植えられた。船に依る各地との交易が盛んになり、産物や商品を取扱う問屋、そしてこれを売り捌く商店が出没し、貨幣の流通も増えてきた。
宝永元年(1704)7月20日に新銀札が通用となり、宮川市郎左衛門を「札遣い元締役」とし、三池茂兵衛正利を「札役所目付役」とした。藩の財政は貧しく、金を富豪に借りて正金の引換えなど対応した。しかし幕府による藩札への対応は二転三転している。翌年宝永2年に幕府は諸藩が競って紙幣を乱発した為に札遣停止される、宮川武固を「札取仕舞役」として、その跡始末をさせた。しかし翌年宝永3年には再び札遣を始めたようである。翌年宝永4年(1707)7月25日には幕府発行の貨幣の流通が滞るとしてすべての銀札通用が停止されてた。10月には立花自楽が江戸から帰って「金銀札遣用掛」となった。10月22日に幕府は諸藩の藩札使用を禁じた。立花自楽は「札仕舞役」であったろう。
【米価の低落による藩の金貨不足】 .
享保2年(1717)8月、藩の財政は逼迫につき、会所から取替え銀は堅く停止の令が出された。藩は極秘に胴金(準備金)を他用に使用したと思われる。享保4年(1719)藩は参勤交代の金不足につき有力商人に上納金を命じ、不納の者を罰した。享保7年(1722)幕府は参勤交代の在府年限を半年に短縮する代わりに、万石以上の大名に1万石に付き100石の上納米を課して米価の引き上げを狙ったが効果なし。享保15年(1730)、享保の改革で米の価格が大幅に下落し、さらに藩の金貨が不足する。結局は豪商に頼るしかなかった。幕府は諸藩の財政を救済する目的で領国の石高が20万石以上であれば通用期間25年、20万石以下であれば通用期間15年などの条件付きで藩札の発行が再解禁された。享保17年(1732)夏、西日本で梅雨の長雨と冷夏により例年の3割弱の収穫となり藩内の飢民(飢えている人々)は4万5千人に達する享保の飢餓が起きる。幕府は幕府米1万5千8百石を貸与した。享保19年(1734)11月に家老の矢嶋菜女は内証方の困難を幕府に申し立てている。この混乱のもと吉宗の改革は途中で終わってしまいまい、しかも、その低落状態は、豊作の続いた文化・文政期(1804~1829)まで続きました。
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延享2年(1745)12月23日に柳川藩は幕府に銀札発行を了承してもらい、藩札数種を製して15ヵ年の有効期を以て発行し、財政経済の救済策とした。藩札には貨幣ではなく物品との兌換(引き換えること)を明示した預り手形(現在の商品券に相当)形式のものもあり、この種のものでは米札が多かった。また商家や豪農などが発行した私札もあります。藩札は、和紙に木版刷りが基本であったが、手書き墨書の札も少なくない。
寛延元年(1748)は豊作となる。
宝暦3年(1753)3月18日、上庄吉郎右衛門は物成および郡役所に献金し賞されている。幕府は各藩からの大坂送りの米が大量になると、米の価格が下がるので、高1万石につき籾1000俵の割合で藩内の蔵に貯蔵するよう諸大名に「囲い米令」が出された。本来、酒造用の米の使用は贅沢なこととして幕府は抑制していたが、藩のは物成役は有余る蔵の米を酒造家に買取らせ無制限に酒造りを推励し、さらに新規免許を認めて消費拡大に努めた。山川町清水の徳永家に伝わる文書によると、酒造りを行っていた時代に、藩の物成役は製造できる蔵の能力以上の大量の白米の払下げを命じ金貨の調達をしている。この頃に柳川藩の酒造家が増えたとみられる。ただし不作の年では、食糧に廻され酒造りを禁じられ、不安定な経営を虐げられている。この年の米価は米1石に付き45匁。50年前の元禄16年(1703)の1石に付き92匁の半値である。
宝暦3年(1753)に銀札で弐文目と壱文目を発行している。引換者名(裏書人)に甚八・小田村新兵衛の銀札が見つかっている。
天明7年(1787)に柳川米札「壱斗」を発行、引換所は御米役である。
寛政元年(1789)に幕府は、米価調節を目的として高1万石につき50石ずつの囲米を翌年より5年間続けるよう令し、同時に旗本に対しても囲米を奨励している。 . |
宝暦3年(1753)「弐文目」銀札 |
宝暦3年「弐文目」銀札の裏面 |
天明7年(1787)「米壱斗」米札 |

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寛政3年(1791)「弐斗5升」の米札を柳川御米役所札が発行。
寛政4年(1792)3月15日に柳川御米役所は「五升・壱斗」の米札を発行。墨書。表に「御物成之内可相渡候」とある。
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寛政4年「米五升」の米札
御米役所(発行所) |
「米五升」の米札 裏面
外町 九右衛門(引換所)
148×55(サイズ) |
寛政4年「米壱斗」の米札
御米役所(発行所) |
寛政4年「米壱斗」の米札 裏面 |
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文化4年(1807)5月柳川両替所は米札「米五升・弐升を発行した。表に御物成之内上納之米と記載されている。
【柳川藩の六四銭藩札とは】 .
西日本では、「銀○匁」でもなく、「銭○文」でもなく、「銭○匁」という単位で取引する(銭匁勘定)習慣がありました。 金1両=銀60~65匁 銀1匁=銭80~120文と相場は毎日変動する為に藩によって銀札1匁に付き10~100文の違った値を付けました。柳川藩では銀1匁=銭64文とし「六四銭五匁預り」は、銀1匁=銭64文ですから、銭拾匁は640文 銭5匁は銭320文になります。一見銀貨単位の呼称ですが、実態は銭貨での取引です。これは西日本の商人は「銀」で勘定することが多かった。一方、庶民は「銭」を使うことが多かった為と思われます。柳川の郷土史研究家・故武松豊氏の論文では、徳永正治氏所有の文書の記載「代六四七拾貫五百目壱両に付き弐百三拾五匁かえ」の文章を見出し、金貨1両が64銭札では235匁であるならば、銀硬貨1匁で購入できる物品を64銭札で買う場合3.62匁を必要とする。(金1両=64匁として)235÷64=約3.615匁を必要とする。単純な計算ではあるが、江戸期の商人は相場変動により計算していたのである。阿部文書などの交換割合でも交換割合は、ほぼ一定している。この比較的価値が安定した64銭の名の紙幣で、その点が変動幅の大きい、次の天保時代の主流である米札との違いであろう。(コインの散歩道、柳川藩の藩札・武松豊著、参照)
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同年の文化4年、柳川両替所より銭札の64銭藩札「壱拾匁・5匁・弐匁五分、1匁(144×40)、五分(141×36)、二分五厘」の6種類の銭札を発行した。
銭64文を銀1匁と仮定してこれを発行し、裏書人47名の御用商人に換両替の義務を負わせ、その額は富力に比例させた。御用商人の筆頭は柳川中町の紅粉屋五郎兵衛で、金銀改役も勤めた。見つかった銭札の裏には藩の御用商人の江口勘右衛門・西嶋利平次・田中藤三郎・志岐平左衛門・吉原正左衛門・永江七郎兵衛・原田伊兵衛・田嶋利左衛門・四ケ村勝右衛門・両替所沖端矢野藤太・家永九右衛門・富安長右衛門(京町)・諸藤弥平次(酒屋・片原町)・堤源次(酒屋・新船津)・堤九左衛門・大坪權内(庄屋・江浦)・田中重右衛門・福島惣兵衛・高柳村伊平次・田中康三郎・松尾卯平太・中村次郎右衛門・安(阿)部善蔵(酒屋・下庄)・石橋文蔵(瓦製造・下庄)・石橋藤七・板橋伊右衛門(庄屋・芳司村)・浅山平五郎(酒屋・本郷)・中嶋次七・河野順内・伊原次郎吉(上庄)・森喜兵衛(問屋・上庄)・久富勘右衛門(酒屋・上庄)・伊原次郎吉(別当、庄屋・上庄)・石井治平・田中正左衛門・(他にあり)総人数47人を裏書きさせて藩札を発行した。赤字の人物は所在や経歴が判明し紹介する特定御用商人や大地主です。 |
文化6年(1809)両替所は文化4年の藩札の64銭藩札「銭壱拾匁、五匁、弐匁五分、弐分五厘」などの6種の銭札に「巳甲改別段」、「巳(文化6年)五月改」を加印して追加発行した。
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文化4年(1807)両替所「六四銭拾匁」銭札
154×49(サイズ) |
文化4年(1807)両替所「六四銭五匁」銭札
151×45「サイズ) |
文化6年は
文化4年の版木で追加発行 |
文化6年(1809)両替所発行の
「六四銭拾匁」銭札の裏面 |
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【偽造札防止策・透かしの採用】
文化・文政年間は米札が主流として発行されている。文化・文政時代の藩札製造で偽造防止の為に透かしを入れた。透かしは紙をす漉く過程で、部分的に紙の繊維が薄くなるように工夫することで、紙幣に文字や絵柄を透かして出す技術だ。
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文化7年札のスカシ |

文政4年札のスカシ |

文政9年札のスカシ |
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【米札の発行】
文化7年から米札が御物成役所から発行され、しだいに64銭紙幣が影を消していく。
文化7年(1810)御物成役所は「壱斗・5升弐升・壱升・五合」の米札を発行.。発行の「米5升」の米札(薄茶藩札)の表に「上納米之内可相渡候」とあり、裏に「五月廿三日」「両替所下庄本田又兵衛」の記載がある。ほかに「米弐升」の藩札に大坪權内(江浦)の名がある。
文化11年(1814)柳川元締は手書きの「弐升・壱升・五合」の米札を発行。通用期間は2年で3月限りであった。裏書人に西町の島田六左衛門の名がある。 |
文化7年(1810)の御物成役所
「米壱升」藩札 |
文化7年(1810)の御物成役所
「米五升」藩札 151×45(サイズ |
文化7年の「米五升」藩札(左)の裏面
両替所下庄・本田又兵衛の裏書 |
文化11年・元締発行の「米壱升」
裏書き・西町の島田六左衛門 |
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文政3年(1820)8月、柳川藩は大坂加島屋から金二万両、また茨屋ほかから三万五千両を借用して、一時の急を救い、領内の産物、米・麦・辛子(菜種)を大廻し、これを売却した。
文政4年(1821)5月柳川元締は「弐升・五合」の米札発行。通用2年で文政6年3月限りとした。裏書人に諸藤弥平次(酒屋・片原町)・浅山平五郎(辻町)・広田七衛門(細工町)・習小屋次兵衛・田中常右衛門・高橋村治三郎・源之助・中村伊兵・松尾喜兵治・中端江町茂兵衛・新吉・勘右衛門・中島清助・矢野万歳・新町七兵衛・細工町多吉・材木町庄之助・松尾町平次・辻町茂助・坂木東町忠吉・原町弥兵衛・船津町伊兵衛・細工町彦次などの裏書人が見つかっている。
文政5年(1822)2月2日、柳川元締から発行され「一升」の米札で文政7年3月限りの期限付きで、裏書人に矢野万歳の名が見つかっている。
文政7年(1824)同所の「五升」の米札で文政9年3月限りの期限付きで、裏書人に中島清助の名が見つかっている。
文政9年(1826)2月11日同所発行の「米壱斗・壱升・五合」があり裏書人に松尾喜平次の名がある。同年、3月7日発行は「米壱斗」は文政11年3月限りで裏書人に本田新兵衛、渡り所は沖端徳三郎。本田新兵衛は瀬高下庄の人であろう。同年、3月14日発行の「米五合」札で見つかった札裏に兼松町喜兵衛、渡所○○○○○とある。兼松町は八女郡立花町兼松である。
文政10年(1827)にも同所から「弐升・壱升・五合」の米札で見つかった札の裏書人に永江七郎兵衛門の名がある。
文政11年(1828)11月、田町御蔵(柳川市田町に沖端川の左岸、柳川出橋下流堤防上に7棟の米倉庫があった)の田町会所から「弐斗・五合」の藩自体発行の米札がある。
文政13年(1830)5月、米会所発行の「弐斗・壱斗・五升・弐升・壱升・五合(150×40サイズ)」の米札がある。 同年、両替所から「弐斗・壱斗・弐升・壱升」の米札がある。
文政年間は米札が主流として発行されている。五升札は銭200文に相当させたという。
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文政13年(1830)「米五合」の藩札 |
文政13年「米五合」の裏面 |
高椋新太郎・魚問屋の私札
年代不明 |
文政?年「米五合」の藩札 |
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【天保時代の米銀札について】
天保時代には完全に米札が主流にとなった。米札には弐斗札は銀10匁、壱升札は銀5匁、弐升札は銀1匁として使用される。しかし、藩外から物を輸入する場合、幕府発行の通貨でないと通用しないので、両替商などで両替をする必要があったが、現在と同じく為替相場が毎日変動するのと似た状態がみられ正銀との間には大きな差があった。
天保3年(1832)柳川札役所から、「銀拾匁・五匁・壱匁・五分」の銀札を発行。保証品として米のほか生蝋を提供し大坂で改印して為替手形の様式を取り、領内の不信用を大坂引請の形式で補充し、大坂に対しては領内の重要産物である米と生蝋の販売を広めようという信用持続の策に出たのである。しかしこの札を産物方一手の支配に委ねたために弊害が続出した為に、十時摂津惟恵や吉弘儀左衛門、戸次親道が産物方の運用に対して苦言を書いた古文書が残されている。また各藩は藩札の信用を落とす偽造に手を焼いたようだ。柳川藩はサンスクリット文字を札に刷り込み、文字知識がないと偽造できないようにしていました。サンスクリットは古代インド・アーリア語に属する言語で、古代インドでは宗教、文学、哲学にとどまらず、数学、天文学、医学、建築学などの分野の文献もサンスクリット語で書かれています。仏教やジャイナ教でもサンスクリット語と俗語が併用されていた。日本では、近代以前から梵語としても知られて、今日でも墓の卒塔婆に見ることが出来ます。なお弁財天の背後の図柄に「ヤナカハ」の隠れ文字が一字ずつ配されている。また裏面上段は太上神仙霊符十二文字の一字で「複」を図案化してある。現在、柳川商工会から発売されている「プレミアム柳川藩札」はこの天保3年の藩札を模してあります。

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弁財天 ○はヤナカハの隠れ文字
オンス ラ スベアティソハカ
On Su-ra Sva-tye Svsha |
三面六臂の大黒天
オン マカキヤラヤ ソハカ
Omu maka-ra-ya svaha |
毘沙門天
オン ベイ シランスンダヤ ソハカ
Om Vai-sra-va-ya Svaka |
天保4年(1833)、藩は天草の豪商の石本平兵衛から急場凌ぎに干拓地を保証(担保)として3500両を借用せねばならない程、財政が悪化していた。
天保5年(1834)大坂蔵役所が発行した手書きの「三分(163×50 2 2479)・弐分」の銀札がある。両替所は細工町の田中惣右衛門と瀬高町(現・京町)の富安長左衛門である。ところが、これは大坂の鴻池庄兵衛(鴻庄)から借用した金の為に発行されたもので、鴻庄で引換える際は大坂蔵屋敷で改める事との但し書きがある。(為替の形式)
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天保3年(1832)の「銀拾匁」の銀札 |
「銀拾匁」の銀札の裏面 |
天保3年(1832)の「銀五匁」の銀札
銀五匁の右に米1斗代とある
185×52(サイズ) |
「銀五匁」の銀札の裏面 |
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天保3年の「銀壱匁」の銀札 |
「銀壱匁」の銀札の裏面 |
天保5年の「銀3分」の銀札 |
「銀3分」の銀札の裏面 |
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松尾屋(伊助) 長崎・恵美須町 |
一番の交易港が長崎です。柳川藩からは酒や櫨蝋(はぜろう)、瓦、和紙、傘(かさ)、菜種油、菜種(カラシ)、茶、などが、これらの仲介商人に売られ金貨を稼いだ。なかでも松尾屋との取引の古文書が多く存在し柳川出身の商人で信用されていた。帰り船には長崎の唐綿や瀬戸内海沿岸の棉と塩、薩摩の黒砂糖、島原の海産物・石灰肥料、天草の石材・干魚(ほしさかな)を移入していた。 |
竹井屋 長崎 |
上野屋 長崎 |
堀屋 長崎 |
平戸屋 長崎 |
三嶋屋 長崎 |
高砂屋(吉兵衛) 長州赤間関(下関) |
日本海と瀬戸内海を関門海峡がつなぎ、下関は西廻り航路最大の中継交易港でした。下関は一大物資の集散地でした。ここから九州各地や四国に船が出ました。また、大坂と長崎をつなぐ航路も下関が中継しました。薩摩の黒糖、長崎からの舶来物が大坂に運ばれ、北国の海産物が長崎から中国に輸出されました。高砂屋も金宝丸を社有していました。 |
丸屋(安太郎) 日田・豆田町 |
日田は江戸時代に天領であったため、代官や掛屋(御用商人)らによって江戸や上方、長崎の文化がもたらされ、天領という比較的自由な空気の中で独特の商人文化を築き上げた町です。日田を経済的に支え「日田金」は江戸中期以降、西国郡代の保護を受けた「掛屋」と呼ばれる商人により発展した商業貸付資本のことで、天領内外の商人、庄屋、九州の諸大名などに対して、年1割2分~1割8分の高利で貸し付けられ、その原資には、助合穀銀(たすけあいこく・農民相互扶助を目的として飢饉等に備えた貯蓄資金)や年貢銀、御用金等の公金が充てられました。また山から伐り出した特産の日田杉は、筏に組んで筑後川を下り、河口の大川・榎津まで運ばれ船や船箪笥・指物(箱物)が造られ明治になり家具製造が盛んになりました。豆田町にあった柳川人の丸屋は柳川との交易で栄えた商家です。 |
網屋(三代次) 大川・若津 |
宝暦元年(1751)、久留米藩は筑後川の河口に新しい港、若津港をつくりました。若津港は米や蝋、菜種油、茶、久留米絣などの積み出し港として、筑後最大の港になっていきました。網屋は筑後川河口の交易商人と思われ、柳川藩の商人との交易もありました。 |
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諸藤弥平次 栁河町片原町 |
諸藤弥平次は上久末(現・三橋町)の出身で、若い頃に筑後川下流の大善寺の西黒田で船乗りをしていた。その後、船主となって問屋を始め、のちに片天保年間、柳河町片原町で問屋(酒造業)あるいは問屋を営んでいた富豪である。諸藤は藩の家老や権力家に、下女下男まで必ずお土産を差し上げ、その家の夫人や子供には、菓子箱の下に金銀を敷き贈るなどとして信用を得て、藩政の枢機に参加し、大阪船積廻し、物品販売上にて利益をあげていたという。藩札64銭の裏書人になっている。諸藤弥平次は藩令を受け決壊した本郷の矢部川堤防工事を行った。屈曲した所で川底深く、水流強く堰き止めるのが困難であったが一計を案じ酒桶数十個に石を入れて川底に沈め遂に難工事を成功した。今に至るまで、この付近を弥平次開(三本松)と称されている。五十町などに建立した地蔵尊、上久末天満宮の鳥居がある。墓は上久末の共同墓地に立派な墓(屋根付、胴体円筒)がある。
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相浦專内 栁河町中町 |
相浦專内は柳川市中町衣料品の大商店だった相浦醇氏の祖で、代々衣料品を取り扱った問屋である。文化3年(1806)、相浦專内は福厳寺の御用御買入米のほか、前年度からの受払に大変な働きをしたことで、翌年に藩より褒美として上下(裃)を頂いた。御用聞をお仰せ付けられ、新たに5人扶持を賜った。5人扶持とは15石、実収13石で米40俵の年収となる。文化、文政の時代の藩札の裏書人となっている。子孫の相浦醇氏は中町で衣料品店を営んで創業200年祭りを催し、当家の古文書が展示された。古文書には文化6年(1809)7月に物成役(会計方)の、十時杢助ほか5名の名義で40貫の借用証文があり、その引当てに秋に米2000俵が渡される約束となっている。また11月にも金500両の借用証文があり、その引当てに米700石を翌年10月に渡される約束になっている。文化7年(1810)8月にも40貫の借用書がある。年代は不明だが、10月の御用方免職状があり、上納金を納めなかった為に、田地、家屋を召上げられ、町方支配を止められ、名字帯刀、下駄ばきを差止めろ御とがめを受けている。しかし
精を出して物事を行ったのか
、当年の10月14日の御用方再任状には、相浦專内、中村次郎右衛門、富安長右衛門、諸藤弥平次、永江九左衛門の5人が再度御用聞に仰せ付けられ5人扶持を頂いている。專内は嘉永6年(1853)5月17日に没している。
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富安長右衛門 栁河町瀬高町(京町) |
富安家は蒲地鎮連(旧柳川城主・天正9年5月27日没)の子孫で蒲地家の一族である。瀬高町2丁目(現・京町)に店を構えて両替商を営む豪商で、天保5年(1834)大坂蔵役所が発行した手書きの「三分(163×50 2 2479)・弐分」の銀札がある。両替所は細工町の田中惣右衛門と瀬高町(現・京町)の富安長左衛門である。旧・北原病院(京町通り信号)の角に広い屋敷と向かい側に蔵があった。(右の地図は城下町図 瀬高町・細工町・出来町付近 柳立4224よる)文化4年の銭札の裏書人となっている。
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迎定次郎 栁河町瀬高町(京町) |
天正9年(1581)、柳川城主の蒲池鎮漣は肥前(佐賀)の須古城に向かう途中、肥前の龍造寺隆信軍に殺され、下蒲地家は滅び、龍造寺家晴が佐嘉から柳河城に居城したが、それに伴い迎家の先祖は佐嘉から柳河に移り住んだと言い伝えられている。いつ頃から商人として活躍したかは不詳であるが、過去帳による家系図では元禄年間頃には1代目(仮定)迎半左衛門( ?~享保元年・1716)が商売をやっていたと推測される。2代目半左衛門( ?~1720)3代目半左衛門( ?~1747)4代目半左衛門(1751~178?)と続き、同名を名乗っているところから藩から任命された御用商人であったと、推測される。いずれも本光寺に葬られている。5代目は迎治右衛門( ?~寛政2年・1790)で西方寺に葬られている。6代目迎松衛門(1760~1822)から西町(西魚屋町)の日蓮宗・台照院の信徒に変更している。7代目迎定治郎(正信)は安政2年(1855)に迎半左衛門と迎定次郎の2氏の名で台照院の本堂前に大きな一字一石塔の供養塔を建てている。(一説には天正15年(1587)に肥後国人一揆の首謀者である隈部親永一党を放し討ちを行い見事全員を討ち取った時の城内・黒門橋の供養塔を台照院に移設したという。)半左衛門とは先祖から藩から賜った名である。また本堂内の右座には迎正信が目の病が完治した御礼に寄進した三十番神の仏像30体がある。当時かなり繁盛した豪商で、嘉永5年(1852)の柳川藩の「永代扶持拝領者名」の記録では藩に米700石を寄進した新船津町の森繁和吉の10人扶持に次ぎ、米600石と金100両を寄進して9人扶持を賜っている。(扶持とは藩からの俸禄・給料)8代目迎治三郎(1856~1916)で幕末から明治の混乱の中活躍している。迎家には西方寺、本光寺、台照院と長い年月に渡り先祖を葬った菩提寺がある。迎定次郎の屋敷は富安長右衛門の店の道を隔てた西隣(現・亀屋、佐賀銀行柳川支店)の場所に古舗であり、向え側には隠居屋敷があった。迎家は古文書などから、立花藩の御用商人として両替商・薬・材木の商を営んでいたとされている。元治元年(1864)に田町御蔵から今摺米三百俵を11月25日限り引取で買入れた米切手で、その内の180俵を藤市、儀右衛門、今村治左衛門、木下庄右衛門の4氏に分売し、残り12俵を売り払ったと見られる裏書きの銀会所発行の米切手がある。明治5年(1872)の旧柳河町の酒造家の免許税(5分税)によると、迎半次郎は一番高額の37円6銭3厘を納めており豪商ぶりが解る。店舗の東側の並びには酒蔵が並んでいたという。維新後は佐賀出身の大隈 重信と交友があり、筆不精の重信の直筆の手紙が残されている。曾孫の定次郎は柳川商工会儀所専務であった。佐賀県には今も迎姓が多い。 |

迎商店、自宅があった京町の場所 |

台照院の本堂左の一字一石塔の供養塔 |

本堂拝殿右側の三十番神の仏像30体 |
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石本平兵衛 天草 支店・栁河町瀬高町(京町) |
石本平兵衛は、天明7年(1787)、天草御領村(現・五和町)の旧家石本家(松坂屋)の長男として生まれ、幼少より神童の誉れ高く、少年時代は、長崎に出て、語学・経済・貿易等の学問を修めた。その才覚は ますます磨かれて卓抜 11代将軍徳川家斉の時世に豪商松坂屋として、世に出た。後に海外貿易業界の雄となり、三井・住友・鴻池等の財閥と比肩されるに至った。天保5年(1834)2月24日、幕府は平兵衛(48歳)の卓越した財政手腕を認めて「幕府勘定所御用達」を命じ、大名なみの待遇を与えている。従来 石本家は 九州各藩の財政顧問的地位にあり、年貢米 その他産物の専売権を保有 もって巨大な経済力を形成し 全国大名への貸付金は常に百万両を超えたという。
石本平兵衛による難民救済の実績は 枚挙にいとまはないが 特に 寛政年間から続いた天草地方の大飢饉は、文化・天保の時代にも及び 農民の困窮は その極に達した。この窮状をみた平兵衛は文化2年(1805)被災地に対し 籾200石 丁銭3千貫を贈り 次いで文化8年より天保5年までの22年間に、天草を始め 長崎 宇佐 江戸等の各地に贈った義捐救済米は 実に1万1千石以上 丁銭1万8千貫余(現在換算金約22億円)を贈るなど、巨額の私財を投じて 救世済民に精魂を傾けている。 |
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柳川藩の干拓事業においても、文政7年(1824)永治干拓(現・みやま市高田町)(斗一開または短手開)は難工事で失敗の連続だったが、文政10年に、石本平兵衛の資金力と技術力で工事を. 請け負った。平兵衛の組織が持つ高度な技術と、監督の普請奉行樺島斗一(益親)により30町歩を完成した。それらの工事費を借与えている。天保元年4月、柳川藩に7万4千830両の緊急融資をした功により知行100石を賜う。柳川市京町(旧・瀬高町)にあった「マルショク」の地は石本の柳川支店であった。天保2年、平兵衛の四男の寛吾は18歳で、この支店長になっている。18歳だが、性格が明るく人当たりがよく柳川の人々に人気があった。天保3年、柳川藩は物産方を設置し、国産品の統制を実施されるのに付き平兵衛は「蔵元」を命じられる。天保4年(1833)着工の大和町住吉開の干拓にも関与し、黒崎新開65町余りを担保に住吉開の工事費3千500両を追加融資をおこなっている。柳川藩は石本平兵衛から急場凌ぎに干拓地を保証(担保)として借用せねばならない程、財政が悪化していました。また平兵衛は藩の御用聞(御用商人)として天保10年までに新船津の森繁和吉。下庄の池田又左衛門。細工町の永江七郎兵衛などの御用聞のなかで、筆頭格に相応しい蔵米販売の実績を残しました。
天保5年(1834)に柳川支店長の四男の寛吾は江戸に行った帰り、京都島原で遊び、当代随一の美人と言われた花魁の花扇を身受けして柳川の支店(屋敷)に住んだ。寛吾が京都から連れてきた花扇が町中の評判となり、その絵姿までもが藩内で売られ、若い藩士たちは、用も無いのに柳川支店を訪れ、わざわざ上がりこんで花扇の姿を見て帰るのがブームになっていた。柳川支店の裏の塀から家の中を覗く若者も多かったと言う。このような風潮に眉をひそめる者もいたが、相手が幕府勘定所御用達に昇進した天下の石本家であり、それを取り締ろうという者もいなく、親の平兵衛もまた、結局黙認していた。
しかし、文化・文政期においては物の流れが拡大し景気が良かったが、天保期では天災地変で景気が落ち込み、松坂屋は天保10年頃になると柳川の豪商永江七郎兵衛、武松甚吉、糀屋町の武松吉兵衛、沖端の利(理)右衛門(北原白秋の曾祖父では)、佐賀藩内の早津江の豪商、井出善兵衛、若津の嶋屋利兵衛、同地の先後屋伊作から大金を借りている。井出家と嶋屋は廻船業も行っており、先後屋と武松吉兵衛は主として米穀商人で4人は資金を出し合って石本に融資し、、代償として彼の口座を通して、御蔵米の払い下げを受けていた。 |

天草・五和町の石本家の立派な御領石の石垣
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天保13年(1842)4月、高島秋帆事件に連座、石本平兵衛と長男の勝之丞は無実の罪に問われ、7月、竹で編んだ唐丸駕籠に首に綱をかけ両手を縛られ、40日掛けての江戸送りとなり、衰弱し牢獄に監禁され病となる。勝之丞は10月8日に病死。平兵衛は酷い尋問の末天保14年(1843)3月28日、牢獄で57歳の生涯を閉じた。天保15年(1844)3月15日、二人の遺骨は柳川に到着し、四男の寛吾が出迎え、父と兄の遺骨を見るなり号泣した。柳川藩の役人たちが連日弔問に訪れた。3月26日天草から妻の和歌や親族一同が船で訪れ、夜に遺骨と共に天草に帰り、葬儀の席で平兵衛の遺言が読まれ、「松坂屋石本家」は商売を中止、清算に移り親族や従業員に分配することになった。遺骨は芳證寺に埋葬された。10年後にはペルーの黒船が来航するのである。四男の寛吾は柳川支店を分家相続されたが、弘化3年(1846)1月に33歳で死去している。後年、花扇は柳川の、この屋敷で亡くなり、柳河材木町の明尊寺に墓を設け葬られた。柳川支店の屋敷は高椋新太郎が受け継ぎ銀会所を創設し支配人となり、後に自分の屋敷とした。
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永江七郎兵衛 現・柳川市南浜武 |
古文書によると永江氏の先祖は永禄3年(1560)の築城の江浦城主の永江勘解由左衛門である。文化7年(1801)、父親の永江九左衛門は柳川藩の御用聞5人のうちの一人であった。文政11年(1827)発行の「銀壱匁」の銀札の裏書人に永江七郎兵衛があり、現・柳川市南浜武、十四町開の地頭であった。天草の豪商石本平兵衛が幕府の処分を受け、柳川地方の商家からも、しばし金を借りたが、天保14年(1843)、獄中で病死した後に連鎖的に豪商の永江七郎兵衛も倒産している。
明治24年(1892)に高田町江浦町に末裔の永江氏が薫蘭酒造「薫蘭」を創業している。
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井出善兵衛 肥前早津江(現・佐賀市川副町早津江) |
佐賀藩の井出善兵衛は親戚の弥富元右衛門と共同事業で筑後川の河口近くの肥前早津江で「かね善」の屋号で酒造業、両替業を営む県下屈指の富豪でした。佐賀藩の天保の改革で農地を失った上に「相対借銀猶予令」により痛手を受け、その難局を乗り切る為に柳川藩に接近し、以前から海運業者だった彼は、天草の魚の干物などを柳川藩内に持込んで販売したり、藩の蔵米の払い下げを受けて、大坂の堂島で換金し、その金で帰りの船で瀬戸内海沿岸の原綿を仕入れて柳川藩内で販売するなど、佐賀・柳河両藩の御用商人となり活躍しました。安政3年(1856)に藩の財政に寄与したことで柳川藩の家老の立花壱岐から「かね善」は、それぞれ三人扶持の追加増を受けています。
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【御用商人の藩札の胴金の上納について】
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嘉永3年(1850)藩は、産物方一手の支配に委ねていた、札役所を廃止して銀会所を設立され、藩札が一本に統一され、藩民は非常に利便になった。藩札発行の役所は、特定御用商人に対して、胴金の上納を命じている。命を受けた商人は同役所に金貨の納付を行い、ほぼ1カ月後に1両=68匁で計算した藩札(銀札)の交付を受けたが、藩札交付の折には1カ月当たり1%の利息が付加された。兌換紙幣である銀札は、その所有者が幕府発行の硬貨と引換えを9要求した場合、銀会所はこれに応じなければならない。その為の準備金が胴金である。現実には藩から許可を受けて、藩外から物品購入の場合のみに許可されたようだ。他藩との取引には、原則として「両・分・朱」の幕府発行の通貨を使用する事になっていた。しかし維新前には肥前札・久留米札・三池札・肥後札などが罷り通っている。
嘉永5年(1852)に瀬高・下庄の石橋文蔵・阿部善兵衛・星隈慶次郎・久冨徳蔵・牛島竹次郎は5人合わせて1000両の金を藩に調達している
安政4年(1857)柳川藩銀会所札発行の「五匁・三匁・一匁・五分・三分・壱分」の銀札発行。胴金納付が停止している。裏書人に諸藤弥平次などが、見つかっている。 |

立花壱岐(明治元年)
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【立花壱岐による安政の改革】
藩は江戸藩邸の保持に月に千両を要する上に、参勤交代費用数千両と金貨は幾らでも必要としていました。最後の藩主である12代立花鑑寛は安政3年(1854)より、家老の立花壱岐を登用し安政の改革を断行した。鑑寛は財政再建と軍備増強を主軸とした藩政改革を行ない産業奨励の為に物産会所を設置、さらに藩札を大量に発行して御用商人に渡し、この藩札で産物を買い付けさせた上で長崎に送って販売し、金貨を稼ぎ藩(銀会所)にその金貨を上納させる制度をとった。写真は明治元年長崎にて撮影。すでに総髪である。 |
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万延元年(1860)、財政改革の為に柳川銀会所から前期と後期の2度に渡り発行された「二十匁・拾匁・五匁・三匁・一匁・五分・三分・壱分」の銀札は、家老の立花壱岐は準備金(胴金)の備えなく発行した。銀会所から指定商人に銀札が交付され、その商人は3カ月以内に月1%の利息を付けて金貨を納付しなければならなかった。また藩は私札を発行する権限を有力商人にも与えました。請け負った商人はそれらの札で傘下の集荷人に渡して特産品の白蝋・お茶・和紙・カラシ(菜種)などを集荷し、長崎の松尾屋伊助の仲介で薩摩藩が、それらの商品を大量に購入してくれた特需の為に金貨が獲得され有力商人の手に入り銀会所に納付された。薩摩藩は特産品である砂糖を長崎・大坂にて換金し、その金でおもに、土佐藩からは、茶・樟脳・生糸を宇和島からは干藻を柳川からは茶・白蝋を購入し、長崎に集荷、上海で売り、軍艦を購入している。兌換紙幣である紙幣は、いつでも金貨と交換できる筈だが現実には一部を除き交換できなかった。とすれば物を媒体として、紙が金貨に化け、藩の財政に寄与した事になる。これがインフレとなり、以前の嘉永・安政の時代でも藩士の家計は常時赤字で、古文書の記録では藩士、町野安馬(350石)の場合、嘉永6年は2804匁赤字、嘉永7年は970匁赤字、安政2年では1133匁の赤字であった。この赤字は御用商人から当座貸しとなる。しかし立花壱岐の藩改革で物価高騰し米の値段が先行して高騰し石高で報酬をもらう藩士にとって追い風となり、安政3年(1856)で1俵20匁が慶応2年(1866)では150匁となり10年で7,5倍に急騰。前記の町野安馬の記録では慶応元年は1265匁の黒字、慶応2年では1265匁の黒字化となっている。他の物価より米の値段が先行した影響で藩士の家計はプラスとなり、借金も価値の下がった貨幣で返済出来た。貸し付けた業者は大損をしている。しかし藩士にとって、明治維新後の廃藩による失業が迫っていた。
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高椋新太郎 文化14年(1817)~明治14年(1881)9月12日 栁河町瀬高町(京町) |
高椋新太郎は20歳で父の許可をうけ、豪家から30両を借り受け、八百屋町に魚問屋を開き、商才に優れ藩内で評判となった。当時の「魚百五十目也預かり」の魚問屋の私札を発行している。その才能を買われ、天保7年(1836)、天草の幕府御用達の松坂屋の石本平兵衛が藩主に会う時に高椋新太郎は随伴して藩主に見出され、大いに経済財政の手腕を発揮し、石本平兵衛失脚後は新太郎が藩命を受けて日田、天草、長崎などに往来して、柳川藩の藩財政の建て直しを委ねられるようになり各地の豪商を訪ねて金策に努めた。家老の立花壱岐の命を受け、新太郎は大阪の鴻ノ池や加島屋の大富豪から1万両という大金を借りようと、料亭で彼らを接待した。その際に、相撲界入りに当たって世話になった義理を果たすべく一肌脱ぎ、巨額融資の白星に貢献したのが伝説の柳川藩お抱えの第10代横綱・雲龍だった。当時大関だった雲龍は弟子と共に料亭に乗り込み、待機していた。そして宴たけなわのころ、ふすまがパーツと開けられると、雲龍らは揃い踏みを披露した。鴻ノ池や加賀屋は、それに度胆を抜かれて大金を融資したという伝説が残っている。新太郎の奇策とふるさとを想う雲龍の勇気が柳河藩の窮地を救ったと言われており、その功績により新太郎は年行司格として帯刀が許され商族から士族に列せられ12人扶持を頂いた。明治になり三瀦県庁為替方。醤油の醸造業を営み、また第九十六国立銀行設立、初代頭取となる。明治14年(1881)9月12日に亡くなり西方寺に墓を建て葬られている。 |

八百屋町周辺は高椋新太郎の商家であった |

藩の金策に貢献した横綱・雲龍久吉 |

西方寺の高椋新太郎の墓 |
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【新太郎さん騒動】
郷土史家の武松豊氏の解説によると、「明治4年(1871)7月14日、廃藩置県によって柳川藩は柳河県となったが、通貨は藩札を用いていた。明治政府は藩札を何銭何厘となして通用させた。のちに藩札の表面に何銭何厘大蔵省印の朱印を捺して通用させる事にし、柳川藩札にも新貨加印したところが相場の都合によって少々下落して引き換えたので、一般民衆は不満を募らせ明治5年5月8日、役所に町内の群衆が集まり請願を行い、9日にも強請におよんだ。容易ならない雰囲気となり夕方5時過ぎに、役人は願いを聞き入れざるをえなかった。群衆は一応退散したが、とうとう暴徒化して町屋「蔦屋」に押し入り、少し店方の品物を荒らした。日没後は近浦方へ押し入り家屋を破壊し、6尺桶17~18本を輪切りなどを行った。続いて細工町の酒屋の橋本儀助宅に行き、少々乱暴を働いたが、近浦方に比べれば損害は軽少であった。それから高椋新太郎宅に乱入し、家屋、器械はいうに及ばず衣類などまで、ことごとく破却した。酢・醤油の本瓶40~50本を打ち破り、遂には金庫も押し破り、公私のお金多額を取っていった。暴動のなかには「武松甚吉宅へも押しかけろ」との声もあったが、幸いなことに、襲撃は免れた。(中老・吉田孫一郎日記参照)明治5年の新酒の製造高は275石程度であるから、そのすべてが暴徒の手によって流失したと言っていい。現在の額にすれば、5000万円相当が土にしみ込んだことになり、被害の大きさが推測できる。
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田中惣右衛門 栁河町細工町 |
田中惣右衛門は細工町から新町に曲る角の屋敷で、俗に「角の惣よむ」さんと言われた名門である。江戸時代文政の頃発刊された柳河藩士西原一甫によって書かれた柳川明証図会(名所図絵)に細工町の田中家の全容が描かれている。広い敷地に豪壮な建物は当時の豪商の家として参考になる。田中家は両替商を営んだ豪商です。文化4年(1807)発行の藩札の裏書人にもなった田中重右衛門は惣右衛門の先代である。天保5年正月柳河役所から発行された為替手形の引替所として大坂鴻池庄兵衛殿・柳河両替所細工町田中惣右衛門・瀬高町冨安長左衛門の名がある。裏面に「此の手形鴻庄にて引換の節は大坂蔵屋舗において一応、改め請可巾候」とある。文化2年8月の「永代売渡し宅地」(吉田家文C3-1)に北大野島開地の売主として名があり、干拓事業あるいは土地収集も、していたと見られる。また瀬高町(京町)冨安長左衛門も両替商だったことが判明する。 |

柳川明証図会の部分図 |
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武松甚吉 栁河町外町 |
武松家は天保年間初め頃に分家し城下の外町に店を構え綿・紙・茶・菜種・白蝋・米を手広く扱う豪商だった。幕末には柳川藩の御用商人を勤めた。武松甚吉は専売・藩札発行をおこなう札座役所(札役所)・銀会所への胴金上納を行ったり、藩士給米手形の預託を受けたりしている。明治4年(1871)に新政府は、これまでの酒造株(鑑札)制度を廃止し、太政官布達「清酒濁酒醤油鑑札収与並収税方法規則」を発布し、営業税さえ納めれば、自由に酒造業を営むことができるようになる。武松甚吉も地主酒造家として起業した。子供の虎太郎、さらに孫の茂久太郎に引継がれている。虎太郎は明治8年(1875)暮以降に業務開始された郵便為替制度で柳川郵便局の為替掛屋を制度が終わる、明治17年(1884)まで勤めている。末裔の税理士を営む武松豊氏は柳川史談会において江戸期における経済学を研究されている。
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大福帳(経営帳簿) |
文久・弘化時代の帳簿類 |
三瀦県宛ての商人扶持廃止反対の陳情書 |
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吉原正左衛門 現・大川市小保町 |
吉原家は柳河藩小保町の別当職を代々務め、後には蒲池組の大庄屋となりました。吉原正左衛門は文化4年(1807)発行の裏書き人になっている。文化9年(1812)10月18日に伊能忠敬らの宿舎として利用されている。吉原家の建物は平成3~4年にかけ当初技法を用いて半解体修理で保存修理工事を行い、古図をもとに復元されている。天保年間(1830~1844)に幕府から遣わされた巡検使の宿泊のために御成門の新造や納戸回りの改造を行っています。主屋の建立は式台玄関の蟇股に文政8年(1825)の墨書が残っており、当主吉原三郎左衛門三運により建築されたと考えられ、藩の公用に利用されました。主屋の北側に土蔵(2棟)が現存している。吉原家24代当主吉原正左衛門が明治12年(1888)に前の土蔵を建築し、ついで14年後の明治35年(1902)に25代当主吉原正三が奥」の土蔵を建築したことが棟札からわかりました。いずれも小保町棟梁、黒田多吉によるものです。 |

旧吉原家住宅 |
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北原嘉左衛門 沖端 |
近藤伊之助 沖端 |
酒造家。嘉永5年の永代扶持拝領者の記録には、藩にそれぞれ米400石を寄進し5人扶持を賜っている。 |
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大坪權内 現・高田町江浦 |
大坪權内の祖先は豊後大友の家臣、小田大和守(玖珠城主)で、筑前の地にて戦死している。2代目の鑑久は柳川藩に仕えて江浦に住んでいる。3代目は大坪市左衛門と言い江浦の庄屋をしていた。寛永6年(1629)10月27日没。法名は正善。本人の生前の発願によって祖父追福のため正保元年(1644)9月堂宇を創建し二尊寺中興の祖、乾明和尚を請うて仁業寺を開山した。江浦町の淀姫神社の大鳥居(高さ3.5m)は貞享5年(1688)、大坪八郎右衛門久幸、嫡子八兵衛久信、社人、二宮興三右衛門久勝により献立されているが、その後災害により崩壊のためか、寛政4年(1792)に、大坪権内久成により再修復され、その時の石工には徳蔵という人を使っている。4代目の八郎衛門久盛も庄屋を引継ぎ江浦の小田開と八郎右衛門開を干拓している。寛文7年(1667)11月4日没。6代目の大坪權内厚種と言い武藤家から養子。7代目の大坪權内久昭は文化4年の藩札裏書人で庄屋職を引継いでいる。没したのは文化9年(1812)である。大坪家は庄屋職の傍ら土地収集により大地主になったとみられる。以後6代を経て現在に至っている。。
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大坪權内 (報恩寺・百州の筆) |
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藩政時代では農民の納付した物成(年貢)の米を、藩の御蔵の浜から船で大阪中ノ島常安町の「柳川藩蔵屋敷」に収められ藩米を売却された。その時に発行された有価証券を米切手(蔵米札)と言った。蔵屋敷には派遣された役人が販売・金融業務を担当していたが、その地元の有力や豪商(古切手に大坂の鴻池などがある)を掛屋と定め産物を販売し、金貨などに交換する勘定に当たらせていた。また柳川藩内の御用商人にも販売し、長崎交易などにより金貨を入手させ、その金で江戸藩邸の費用や参勤交代その他の費用に使っていまいた。当事、江戸では「金」が流通通貨だったのに対して、大坂では「銀」が流通していました。通常の受け取りは「金」でした。当時の両替商での交換比率は「金一両が銀60匁」でした。今でも領収書の金額に「金○○円也」と書くのはこの名残りです。
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文久3年(1863)、銀会所から「米450俵」の手書きの米切手が発行されている。買受人に森恵吉(瀬高上庄の酒造家)とある。(下記説明)
元治元年(1863)、銀会所から「今摺米300俵」の酒切手が発行されている。買受人に迎定次郎とある。
慶応年間(1865~1867)に家老の立花壱岐から600両の資金調達の要請で、高椋新太郎は220両、武松甚吉は160両、迎家・中島家がそれぞれ110両の合計600両の調達をしている。
慶応元年(1865)、銀会所から「酒7梃・酒粕3000斤」。慶応2年(1866)、「酒50梃」。慶応3年、「酒50梃」の酒切手が発行され、買受人は森恵吉である。
明治元年(1868)、銀会所から「酒110梃」の酒切手が発行され、買受人は石橋文蔵(瀬高町下庄)である。
明治元年(1868)、銀会所から「油14梃」の油札が発行され、買受人は川原三次郎(瀬高町下庄)である。
明治2年(1869)、銀会所から手書きの「壱五匁・拾匁・五匁」の銀札が発行された。
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銀札拾匁 |
銀札五匁 |
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久富勘右衛門 瀬高上庄 |
久富勘右衛門は瀬高町上庄本町の人で、宝暦の頃(1751~)からの酒造家である。祖の久富勘右衛門は上庄本町の人で旧道(参勤交代道路)に面した屋敷で村石酒造のあった所であった。上庄正覚寺過去帳によると文政9年(1826)6月22日に没している。天保7年(1836)酒造組合規定書には久富堪右ヱ門、浜武勘右ヱ門の名がある。瀬高橋の少し下流の堤防から20m位離れた所に平安時代の嘉応年間(1169~1170)左大臣徳大寺左大臣の館があり、そこの「庄の池」に白亀がすんでいた伝承があった。ゆえに久富酒屋の久富興二郎氏は自家醸造の清酒の銘柄を白亀とした。庄の池の敷地の横に住吉宮を祀るも、ここが庄園時代に年貢米の積出港であったことを物語るものである。天保7年の酒造組合規定書に久富勘右衛門の名がみえる。当時の覚書に同業者の森氏に宛てた覚書に弐百七拾3匁(紅粉屋包)の紅粉屋の文言がある。大正5年、庄ノ池は矢部川改修工事のため埋め立てられ、住吉宮は祇園宮の境内の遷宮している。 |
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(解読文)
覚
一、金拾円
代壹〆七百四拾目
内
壹〆四百目
貮百七拾三匁 紅粉屋包
九拾目
外に拾七匁
〆如高(覚)
正月廿三日 堪右ヱ門
森御氏様 |
天保7年の規定書・彩色(追記)の所在地と酒屋名は思考されたもので確定されたものではありません。 |
紅粉屋包とは藩御用金取締所、紅粉屋後藤氏封印のものです。 |
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森喜兵衛 瀬高上庄 |
森家は藩の御用聞の米問屋であった。藩の米倉であるお倉の浜(上庄西新町)の番人、管理人の役目でもあり、大地主でもある森家は藩に資金の融通をし、酒造りの免許を得て酒造業を創める、江戸末期には藩内の酒屋の元締め的立場になった酒屋である。幕末には柳川藩に相当額の融資を行ない藩の財源を援助している豪商であった。明治に入り新通貨制定に伴う藩札の引換え時点で損害を被ったであろう。酒蔵は明治(年数不明)になり閉じている。幕末の天保7年(1836)の規定書や文化4年(1807)の森喜兵ヱ裏書きの藩札が森正道氏宅に残されている。襖の下張りからも酒屋当時の古文書が見つかっている。 慶応元年(1865)銀会所(柳川藩発行)の藩札の保証人となっている。明治21年(1888)に酒屋であった森豊蔵氏宅に郵便局が移転し郵便業務を請負う。当時は名誉職であった為小学校学務委員を兼任していた。明治33年頃も大地主で瀬高でトップクラスの富豪家であった。森喜兵ヱは文化4年(1807)発行の藩札の裏書人でもある。 |
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売り手の酒造家・森喜兵ヱに、仕入れ主の太田屋儀三郎が船頭の重左ヱ門に3通の酒の売掛け代金を相渡した売仕切書(右)と森喜兵ヱに平戸屋新右ヱ門が酒の売払い代金を明神丸長左ヱ門に相渡した売仕切書で長崎方面への酒の取り引きが分かる書面(左)である。 |
蔵米札(米切手)・米450俵・蔵払い下げ買い 森恵吉(喜兵衛の長子)
慶応元年(1865)8月発行・銀会所発行(柳川藩) |
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酒粕切手・酒粕参千斤・蔵払い下げ買い 森恵吉(喜兵衛の長子)
元治2年(1865)2月12日発行・銀会所発行(柳川藩) |
菜種切手(銀会所)・菜種500俵・蔵払い下げ
文久3年(1863)9月発行・銀会所発行(柳川藩) |
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森幸太郎が役所に宛てた口上書 |
油屋から森恵吉・森利勝に宛てた端書之覚 |
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伊原次郎吉 瀬高上庄 |
伊原次郎吉は上庄の別当(瀬高駅駅主)および同町の庄屋で、別当は文化元年(1804)に別当役となり、文政6年(1822)まで20年間、庄屋職は文化6年(1810)庄屋となり15年間勤めている。次郎吉の祖父は次郎吉と言って別当、庄屋職を勤め、それまで4代を重ねている。文化7年8月に御染地を拝領している。それは御郡代様ならびに御手代三池御領へ年々お越しの節に御休み儀につき心配した御褒美として拝領したものである。(本郷村大庄屋日記参照)文化4年(1807)5月柳川両替所から米札が発行された裏書人に名がある。
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阿部善蔵 瀬高下庄新町 |
阿部酒造(甘露)の先祖は宝暦元年(1751)には金栗村から下庄新町の東端に移住し酒造りをすでに営んでおり瀬高での酒造業では先駆的な存在であった。屋号の亀屋は下庄新町で酒造を始める以前は金栗で酒や味噌・米などの容器の甕の製造を、あるいは沢山の甕(かめ)による酒造をしていた時のなごりで使用したと言われる。かめ屋発祥の金栗部落には先祖の供養塔や天正元年(1573)に没した阿部家先祖・源之十の墓があり、近年まで代々番頭が管理・お参りしていた。「阿部性永代永家図帳」によると初代は享保8年(1723)に亡くなった太郎兵衛(? ~1723)で、2代目は阿部治左衛門(利左ヱ門)(1760~1849)、3代目善兵衛亀永(1703~1782)、4代目利平次亀久(1732~1782)、5代目善蔵(利平次)(1755~1817)で文化14年(1817)没している。6代目利左衛門(治左衛門)(1777~1809)、7代目善蔵(儀三郎)(1787~1819)であるが、6代目と7代目は兄弟で、いずれも30代前半に亡くなり、6代と7代の妹である寿恵(1801~1852)を妻にしていた善兵衛亀延(1794~)が養子となり文政初年(1818~1820頃)に8代目となる。その代に激動の時代を乗り切り明治維新を迎えている。他の文書から9代目多賀、10代目卯三郎(亀信)(1843~ )、11代目が辰次郎、12代目弥徳、13代目正七郎、14代目辰弥15代善徳と続いている。阿部家の菩提寺であった八幡町の安養寺が文政5年(1822)に廃寺状態で借庵となった為であろうか、天保12年(1841)に吉井の満福寺に移っている。弘化3年(1846)には阿部善兵衛は世話人代表として安養寺の御堂再建の寄付金を広範囲(現在のみやま市領域)の寺や住民から集めている。宝暦元年(1751)からの大福帳・造酒帳・金銀汯控帳などが、杉の木箱2杯に保存されており江戸中・末期の瀬高の酒屋の様子を知るのに重要な古文書である。(柳川の県古文書館所蔵中)15代も続いた旧家である阿部酒屋の当初の古い帳面を見ると「大印酒」となっているので当時、「甘露」の銘柄も出来ていなかったと」見られる。本格的に屋号を亀屋と称して地主的土地収集を行った時期は明らかでないが、5代目善蔵の頃に積極的な金融・土地収集の古文書から確認される。また酒造と一緒に木蝋や地元産物も談議所の浜から船積みして出していたことが帳面で確認できる。弘化年間(1844~1847)の古文書には廻船「亀吉丸」を所有して交易をしていた事も解る。阿部家は石橋家と同様に藩の要請による不時の金の調達に応えている。文化4年(1804)発行の柳川藩札の裏書人に阿部善蔵がある。文政5年(1822)2月17日、上庄瀬口の大工新太郎の家より出火した火事は本町、大小路、土居町、横町に燃え移る大火事となり、下庄に飛び火して上町、中町、田代、談議所、新町、市場を燃え尽くした。阿部家では酒残らず燃え、米蔵も皆焼失した残った本家蔵7か所を改造し急場を凌ぐ。住まいは3間半、9間の蔵に3月より5月半ばまで仮住まいする。天保4年(1833)10月8日の晩、市場の塩屋嘉吉の家が火元の火事が発生。火事見舞いに蔵米銀を差しあげる。嘉永元年(1848)10月に1万両の大金を仲間たち(本方挌御用聞の石橋・星隈・久冨・牛島とみられる)と藩に上納した。 |
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天正元年没の阿部家初祖・源之十の墓 |
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大福帳・造酒帳・
金銀汯控帳などの古文書 |
昭和時代、出荷を待つ甘露の酒瓶 |
阿部酒屋(かめ屋)発祥の地・金栗の阿部家先祖供養塔 |
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石橋文蔵 瀬高下庄談義所 |
石橋家に伝わる古文書によると石橋彌八郎は永禄12年(1569)8月13日豊後国玖珠郡筧村吉弘館で生まれた。天正年間(1580~)筑前三笠郡岩屋城主の高橋招雲に仕え、50町歩を領し銅百貫文を賜り、土木権介(権官)に任じられ粘土を煉り、山間で瓦を焼くことを業とした。後年、肥後国阿蘇郡で瓦工業の家に客食し、製瓦の法を実地に研究すること数年、技術を体得して去り諸国を歴遊した。たまたま長州下関にて柳河藩の老臣の十時摂津に面会し、それが機縁となって立花家に迎えられた。元和8年(1622)に老臣は石橋彌八郎と計画し瓦製造に着手した。まず場所を瀬高下庄談義所に設け、この場所を瓦田・河原田と呼んだ。石橋家はその道に従事すること13代、子孫相次いで他業に転ずることが、できなかった。そのかわりに藩内で他藩製の瓦を用いた家があれば、これを剥ぎ取る権利を与えられた。(高田町誌参照)
初代石橋彌八郎は、さらに瓦職人の離厭)と出会いがある。離厭は浅草生まれで名古屋・江戸・大阪と修業を重ね、柳川城の天守の御用を務め藩主の田中吉政から、お褒めの言葉があったことなどが縁で柳川に住み着き、間もなく立花宗茂の代になり、石橋瓦と出会いが生じて瀬高に定住した。彼の技術導入により石橋の離厭瓦として名声を博し栄えてゆく。離厭の子孫は代々石橋源蔵を名のり、後で本家石橋家と縁戚関係が生じている。談議所宝聚寺前の石橋金生さんが離厭の子孫であり新宅と呼ばれた。新宅の「離厭瓦御免地覚書日記」には石橋本家は藩の御用掛となる。瓦焼きは談議所の石橋家が専売免許の権を持ち、藩内の城や寺院の屋根j瓦ならびに島原や長崎にも船で輸送していた。上庄の御倉浜に対して民間の物資の積出入港は矢部川畔の談議所浜が利用された。天草、島原、長崎方面に瓦のほか、酒。種油、米などを手持ちの舟で輸送し、帰り荷には、あちらの石灰、白灰、石材、砥石、ツケアミ、浅草イリコなどの海産物、河内ミカン、薪などを積んできて、談議所の浜は4、5隻の舟が帆を休めており荷役人夫、車力、馬車の行き交いで賑わっていた。これらの品を売りさばく商店が中町、田代、新町、市場(元町)の街道筋に建ち並んでいました。石橋家は代々藩の御用聞を勤め、藩内で瓦を焼くには石橋家の許可が必要で、代りに、藩は瓦を市価より安く藩に納めさせたり、上納金を献上させた。本家・石橋家の家系は、すべては明らかでないが、残された古文書から江戸後期から明治・大正期にわたる家督は傅左衛門、文蔵、元蔵、一蔵と続いており、瓦製造のほか金融活動や土地集積も行い、徴収した余米を利用して酒造業を開業している。文政5年(1822)の瀬高両庄の大火事の被災者や町内の貧困者の為に救米を施している。藩より「新方御用聞」また「本方挌御用聞」に任じられ、藩の要請による不時の金の調達に応えている。嘉永6年(1853)のペリー来航による警備再編で会津藩から柳河藩が引継ぎ、新造された品川台場の警衛に回るまで、7年間担当しました。この時、中老中から御普請役の要請で石橋文蔵は100両を献上。嘉永7年(1854)に褒美として上下(裃)と永代壱人扶持(主君から家臣に給与した俸禄)を拝領している。また安政3年(1856)には江戸表震災(安政の大地震)の際に藩に100両進上し、永代5人扶持を拝領している。下写真②③④は藩の要請の調達金の古文書で下庄組として石橋文蔵・阿部善兵衛・星隈慶次郎・久冨徳蔵・牛島竹次郎が金を出し合い、藩の御物成役や銀会所に1000両や1500両の調達金を用立ている。「旧柳河藩江調達金引合覚」は、阿部・星隈・久富・牛島らと共に藩に調達を行った様子が解る。星隈慶次郎は談議所の浜の多くの所有地を持ち和紙の交易の特権をもっていた商人と推測される。明治維新後は紙問屋を営んでいる。下写真①は藩札裏書・酒110挺・石橋文蔵 弘化元年(1844)発行・銀会所(柳川藩)と記載あり、藩札の裏書きも引き受けている。万延元年(1860)に中老中より江戸表御殿(本丸御殿)の火災後の再建費用として、1000両の調達金を要請され献金する。褒美として御羽織を拝領する。さらに3000両を調達及び囲米を上納。褒美として9人扶持を拝領し、ならびに絹類着服免許を賜る。当時は農民や商人の服装にも藩により制限されていました。さらに柳川藩主の参勤交代の時には600両や800両の金を調達している。柳川の福厳寺祀堂の修理に際して瓦を進上している。いずれも褒美として御上下(裃)を拝領する。瓦焼きは明治以降は弟子たちが独立し引継がれ製造された。しかし明治維新により、町人扶持も廃止され藩での特権もなくなり、藩札の裏書による被害も受けた。明治16年(1883)の古文書「大阪・長崎の仕切畄」には筑後米や肥後米を売捌いているが、江戸期でも大阪まで交易していたとみられる。石橋家には船旅に使用した鼈甲の組立携帯枕や明治時代の家族写真が残されている。
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①酒慶応4年(1868)2月の酒酒110梃の
買取切手・石橋文蔵 |
③左から本方挌御用聞の石橋文蔵・阿部善兵衛・星隈慶次郎・久冨徳蔵・牛島竹次郎
(姓と名前の頭略)と見られる。5人合わせて1000両の金を藩に調達している |
②嘉永5年(1852)の調達金引合記 |
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④調達金・覚 |
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萬覚帳 |
永代売切家屋敷事・文政7年 |
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大阪、長崎への仕切畄(筑後米や肥後米が輸出されている・明治18年(1885) |
明治21年(1888)の品仕入帳とハゼ買入帳 |
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石橋家古文書・一部分(柳川古文書館寄託) |
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池田彦太郎 下庄・上町 |
天保7年(1836)酒造組合規定書に池田彦左衛門の名がある。代々酒造業を営む。池田又左衛門は天保10年までに新船津の森繁和吉。細工町の永江七郎兵衛などの御用聞の仲間と蔵米販売の実績を残しました。江戸末期の嘉永5年(1852)の永代扶持拝領者名の記録に、池田彦太郎は藩に700石の寄進米を差し上げ褒美に8人扶持を授かっている。当年では阿部酒造の370石寄進・4人扶持拝領を抜いて上位の記録であった。残念なことに当家には歴代の古文書が残っていないとの返事であった。 |
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星隈慶次郎 下庄・談義所 |
談義所の浜の周辺の土地を所有し、藩の特産物の交易に関わり財をなした商家です。柳川藩は百田紙・明治以降は紙問屋を営んみ、後に栄町の劇場前で文房具店を営んでいる。 |
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牛島竹次郎(米宗) 下庄・中町 |
牛島家は談義所から地元物産を長崎・京浜地方に売り、帰り荷は京浜より呉服を仕入れて店売りを始めた呉服問屋として栄えた商家とみられる。瀬高橋から八幡神社方面左側(旧・薩摩街道角)にあった。昭和年代まで呉服商を営まれていた。 |
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久富徳蔵 下庄・田代 |
田代は江戸期において白蝋の生産地でした。武田蝋屋や小規模の蝋屋などで製造された生蝋(黄色)は、さらに下庄田代の晒業者(さらしぎょうしゃ)に委託し、カンナで削られ天日に晒しを繰り返して再精製した上質の白蝋(はくろう)も作られた。これらの白蝋は柳川藩の統制下でお蔵の浜(上庄)から帆掛舟で長崎や大坂などに運ばれ、ロウソクや髪結いの鬢付(びんつ)け油の原料になっていました。幕末には大量の櫨蝋を薩摩藩が買い占め、上海のヨーロッパ人に密貿易して、軍艦輸入や軍備の資金を稼ぎました。久富家も藩の御用商人として白蝋の生産や長崎・下関との交易に関わったと推測する。大正・昭和初期では草履の製造を営んでいられた。最後の当主は久富勲商店であった。保育園の敷地に売却されている。
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川原三次郎 下庄新町 |
明和2年(1765)に柳河藩士戸次求馬によって著された「南筑明覧」によると当時の特産物は瀬高たねがらし(アブラナの一種で種を粉にひいて調味料に使ったり、菜種油をしぼる。絞り粕は肥料となる。右の油切手は明治元年(1868)に柳川藩の銀会所から「油14梃」発行されたもので、買取人は川原三次郎(瀬高町下庄)である。さらに売りさばいた先は不明です。梃とは酒・醤油などの樽を数えたり、また墨・駕籠・銃りを数えるのにも用いる。菜種油14樽を藩の要請で買い取ったとみられる。樽は1斗入りとみられる。同年に談義所の石橋文蔵宛てのの「酒110梃」の酒札が銀会所から発行されている。昭和年代まで下庄に武田油屋(中町)、井出油屋(新町)が存在していたが、川原三次郎は新町で交易による総合商社的な商いで油も扱っていてたと思われる。明治から昭和時代では、綿屋、および呉服屋を営んでいた。建物は壊されたが現在の新町公民館の場所である。 |

慶応4年(1868)2月の油の買取切手 |
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本田又兵衛 瀬高下庄中町 |
本田又兵衛は中町で酒造業と両替商を営んでいた御用商人でした。文化7年(1810)、御成役所発行の「米5升」の米札(薄茶藩札)の裏に「五月廿三日」「両替所下庄本田又兵衛」の印刷がある。また文政9年(1826)2月11日柳川元締め発行の「米壱斗・壱升・五合」があり裏書人に本田新兵衛の名がある。しかし明治時代に酒蔵の酒に菌が混入し、1年分の収入を失い破産し廃業している。現在、矢部川に面した中町の旧敷地には酒蔵の一部や燃料の槇小屋が、屋敷跡には離れ茶室と庭園跡が確認できる。 |
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板橋伊右衛門 下妻郡芳司(現・瀬高町文広) |
板橋伊右衛門は先祖から村の庄屋を相勤めており、その系図は不明である。安永3年(1774)芳司村庄屋御役を仰せ付けられ、寛政5年(1793)に同村御役御免。天明7年(1787)上坂田村庄屋兼役を仰せ付かり、寛政7年(1795)吉岡村庄屋兼役を仰せ付られ、翌年に御役御免となる。文化2年(1805)下長田村庄屋兼役を仰せ付られ、文化3年(1806)9月に名字帯刀を許された。(本郷村大庄屋日記参照)文化4年(1807)5月柳川両替所から米札が発行された裏書人に名がある。文化11年に御役御免となる。文政6年(1823)9月12日の御役所への書出しに名がある。
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浅山平太郎 現・瀬高町本郷 |
天保7年(1836)の規定書(上表示)や文化4年(1807)藩札裏書人の浅山平太郎、文政4年(1821)藩札裏書人の浅山平五郎は共に瀬高町本郷の酒造家でもあり、御用商人の一族であった。平太郎の屋敷は行基橋の上流側の瀬戸島に六段歩(1800坪)あった。現在5・6の民家となっている。それから南にある一画が平五郎の屋敷跡である。この屋敷の南西部にくずれかけた土塀の一部が残っている。各藩が財政改革で苦心していた安政5年(1858)3月12日に熊本藩の横井小楠が福井藩に招かれ、旅の途中に寄り、藩の「肥後学派」(小楠学派)のものたちによる盛大な送別会が開催された。ここには柳川藩から壱岐の実兄である十時雪斎(摂津)・池辺藤左衛門・十時兵馬ら数十名が集っている。浅山家の子孫はこの地に現存しない為(筑紫野市在住)当時の様子を伺えないが、橋のたもとにある恵比須宮は豪商であった浅山一族が商売繁盛を当時から祈願したものではなかろうか。星隈酒屋(星隈国太郎)の「創業80周年・優秀盃受領・金婚賀莚に際して」(昭和8年4月16日)には、創業の際に安政2年(1853)10月2日に本郷浅山の蔵、道具を買い入れ・・・5日より蔵解きに、かかり10日夜中の大雨の中、蔵道具を本郷川原に出して、又14日に残りの道具、親桶一同を川を流して談議所に運び、15日基礎固め、11月4日に蔵を談議所(借地)に移築仕上げている。この資料から浅山酒屋は安政2年(1853)には、すでに酒造業を廃業していたと思われる。
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中嶋幸左衛門 立花町山下 |
池末善右衛門(肥後屋) 立花町山下 |
旧柳川藩志によると天和元年(1681)に商家数10軒を上妻郡山下び移し、一新市街を設け、堀孫助を町の支配役とするとある。こうして兼松町と共にこの地域の物産の集散地として発展し、中嶋家や池末家も物産問屋として活躍したであろう。 |
惣七 立花町国見 |
天保15年(1844)11月に甚四郎の船に白蝋37箱(2,775斤)を積み長崎に移出していることが古文書で解る。その外に弘化2年(1845)正月から5月にかけて、1万1500斤が移出され、冥加銀(租税)287匁5分を納めている。長崎からは薩摩の砂糖を同村の佐兵衛と共同で1,750斤を移入し代金78両6合を支払っている。この頃の古文書では蝋・茣蓙・茶・和紙を移出し、砂糖(薩摩産)・魚の干物を移入していることが解かっている。
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徳永弥左衛門 (勢田丸) 立花町国見 |
調査中 |
芥屋 立花町兼松 |
江戸時代では農民は労役、年貢、小作料支払に苦しみ、相次ぐ災害により穀類不足に悩んだ。「谷川組御用日記」には万延元年(1860)には食糧としての米が不足し百姓難渋のため、谷川組内の村々が合計700俵の粮米拝借の願いを、慶応2年(1866)には528俵、慶応3年4月にも800俵の拝借願いが柳川藩に出され、返済には1割の利息が課せられています。さらに富商といわれた商家でも粮米の安売りをして救済している。万延2年(1861)2月、兼松村の芥屋の高橋善助は米100俵を2分引き(20%引き)で10日より23日まで安売りを行っている。
大正6年に編纂された「稿本八女郡史」によると代々商いを営む「芥屋」の店主高橋治平の息子善助は17歳にて海外貿易を志したが父の反対にあい、知人から若干の資金を得て下関にて地元の木蝋・お茶・百田紙など販売して利益をあげる。遂に父に認められ資本を貸してもらい大阪・長崎・鹿児島・四国の豪商と商いを行い芥屋は益々繁盛した。さらに英仏に開港されていた琉球(現・沖縄)に秘かに出向き海外貿易を試さんと活動している。しかし高橋善助は慶応3年(1867)に46才で病に倒れ亡くなり芥屋も廃業となっている。 向え側の商家「松屋」の松延家も文政5年(1822)には商いをしていました。
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松屋 立花町兼松 |
松延家はこの兼松のほぼ中央に位置し、柳川藩の御用商人として、松屋を屋号とし、3代にわたり松延荘次の名を賜った家柄である。多くの古文書(資料館保管)から文政5年(1822)から、4代にわたり大正4年(1915)まで93年間、商いを営んでいることが確認できます。「大福萬帳」は、一部欠落しているが、ほぼ年代ごとに明治22年まである。山間部の特産品を仕入れた文政7年(1824)の「買入日記帳」、天保年間(年不詳)と安政4年(1857)・安政5年・万延2年(1861)・文久4年(1864)・元治2年(1865)・慶応2年(1866)・慶応3年・慶応4年・明治時代(20冊)の「買入帳」と・明治時代の買入日記帳(15冊)が残されている。紙の原料である生楮・松茸・櫨実・茶・百田紙など多品目の商いを行っていることが解る。曲松(よごまつ)の浜で矢部川を舟で下って瀬高や柳川あるいは瀬高で大船に積替えて長崎の商人に納めていました。国の重要文化財(建物)に指定されて、当時の商家の面影を残しています。
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初代・松延荘次(83才没)
荘左衛門の第3子 |
2代・松延荘次(61才没)
幼名米二 |
3代 ・松延荘二(62才没)
次男で旧名・夘八 |
4代・松延庄次郎(68才没)
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その他、兼松には国盛助右衛門と大竹茂八郎の商家があった。(調査中) |
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【銀行の設立】
明治4年(1871)、廃藩置県により三潴県を設置、三潴県庁を榎津に庁舎を設置するも、翌年に久留米に移転。明治新政府は当初、通貨制度を整備するまでのゆとりがなかったため、銀会所は安政・万延の銀札に大蔵省の朱印を捺した、3銭7厘(三匁)・1銭2厘(1匁)7厘(五分)・3厘(参分)の銀札を発行している。 しかし、この年、新政府は貨幣制度の統一を目指して、「新貨条例」を制定しました。金貨を貨幣の基本とし、単位も「両」から「円」にあらため10進法を採用することにした。
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明治5年(1872)、明治新政府は藩札および政府紙幣の整理と為替会社に代る金融機関の必要性から国立銀行条例を設立した。資本金を5万以上とし、紙幣の発行を許可する代わりに紙幣の兌換義務を負わせた。国立銀行と言うが、団体によって設立した私立銀行で、柳川では明治12年(1879)1月4日に第九十六国立銀行が瀬高町(現・京町)の野田屋を借受けて設立された。頭取に立花8代帯刀家の立花弘樹氏、取締役・小野隆基・高鯨新太郎・十時一郎・大村務で支配人は高鯨新太郎が兼務した。株主総数は86名で平民は待鳥竹次郎と下川源太郎の2名のみで典型的に士族銀行色の強い銀行であった。立花寛治氏(元藩主)が149株、小野隆基氏が110株、高鯨金次郎氏が70株、立花弘樹氏が56株が上位を示していた。明治18年に同町1丁目に土地を買収し、店舗の新築をした。明治30年(1897)4月に資本金16万円の株式会社柳河銀行として発足する。後に福岡十七銀行、現在の福岡銀行との合併で、柳河銀行本店の跡は福岡銀行柳川支店が置かれた。下の壱円貨幣は全国の国立銀行に第○○国立銀行と発行銀行を印刷して発券された。
明治9年(1876)-、三潴県が廃止され、福岡県となる。
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