庄福BICサイト 【禁無断転載】   ふるさとの里山 山中   福岡県みやま市瀬高町(せたかまち)大字広瀬(ひろせ) 山中(やまなか)
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 山中(やまなか)の山間部には縄文(じょうもん)時代の横穴住宅の洞窟(どうくつ)などがあり、山には早くから人が住んでいたようです。現在の広瀬から小田方面には矢部川の流れが網の目のように広がり、ほとんどが川原の様相で家や道も無く、山際(やまきわ)矢部村からの山中若宮宮(わかみやぐう)−藤の森古墳−禅院(ぜんいん)−小田を通る重要な道があり、人は微高地や山に住んでいたと思われる(.)戦国時代には豊後(大分)大友勢の下筑後攻めにも( )国境の矢部村の方から下って禅院村に大軍が滞在している。山中村の成立は、江戸初期の藩主田中吉政(よしまさ)により堤防工事が始まり、立花藩政時代の元禄8年(1695)田尻惣助(たじりそうすけ)が普請役で地元農民の夫役(ふえき)により大規模な千間土居と長田土居の工事により矢部川の流れが定まり、河原が開墾(かいこん)されて人が住み耕作するようになった。江戸前期の頃でしょう。山中にあった最古の墓地(ぼち)の年号からも一致します。堤防の工事により川の流れが定まり旧河川を開墾された土地が「河原(ごうら)」や「川原(かわはら)」などの名残の地名で、山中・小田・唐尾・中島の方まで数多くあり、たいていの土地は1m位地下の層には昔の河原の砂利(じゃり)や砂が数メートルにわたって層をなしています。宝永(ほうえい)6年(1709)に普請役の惣助の二男、田尻惣馬(たじりそうま)により土居に楠木や笹を植込まれ川岸に水刎(みずはね)が築造され補強された。さらに享保(きょうほ)2年(1716)には広瀬堰と水路が完成しました。堰止められた水は、本田川の樋門(ひもん)と畑田川の樋門が並列して設置された。本田川の丹花堰(たんがせき)の漏れ水から取水する返済川の3本の水路が旧東山地区全域と旧瀬高地区東部の灌漑用水となる。文禄(ぶんろく)4(1596)全国行脚をしていた日源上人(にちげんしょうにん)が、溝口(現・筑後市)の福王寺で紙すきを始め、材料のコウゾウの木を山の中で採取した地域から、山中の地名が()けられた説もあります。当時、山と狭い田畑だけで生活するのは困難で、元和(げんな)7年(1621)宗茂が柳川藩に再封され、久留米藩と柳川藩に分藩され、溝口村(筑後市)紙漉(かみす)きが唐尾・山中伝播(でんぱ)され、紙漉(かみすき)きの発展と共に戸数も増えてきて村の生活を大いに潤しと思われる( ) 山中村明治12年下妻郡(しもつま)から山門郡に編入され、明治22年に合併して水上村広瀬村山中に、明治40年には東山村(とうざんむら)に、昭和31年には瀬高町に編入されています。大字名の広瀬にはみやま市で最北東端の山中(やまなか)集落と西方の禅院(ぜんいん)集落があります(.)
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   【地名のはなし】 
   切り通し(きっどし)(俗称地名)
 山中集落は土地が高いので矢部川から直接に水を引けないので、東隣の山下村を流れる白木川から山の麓をを通し山壁は板の井樋(いび)を架設して矢部川の上を通水してていた。しかし井樋は洪水のたびに流されるので、安政(あんせい)6年(1859)正月小田村沖平六(沖家9代目)が資金を出し普請役頭の成清平七が指揮して両方から山をくり抜き水道トンネルを突貫(とっかん)工事で5月に完成した。高低の測量は、夜に提灯を並べて遠くから眺めて調整する方法がとられた。白木川に和田堰(わだせき)が設けられ、切り通しで山中村に流れるようになりました。地元ではこの水道トンネルを「きっどし」と呼び、水の出る周辺を井樋ノ尻(いびのしり)の地名(班名)が付けられていた( )長さは250m位あり現在も若宮神社の地下を通り利用されている(.)近く県道拡張の為に山は削られ歩道脇に水溝が造られ若宮神社は南側に移築されている(.)
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  八割(はちわり)(小字名)      
 瀬高町では最東部に当たる所で、矢部川堤防沿いの地帯で、山地も迫っています。瀬高地方では、物が切れる、割れることに、接頭語を付けてハチキレル、ハチワレと言います。つまり堤防の決壊(けっかい)したことをハチワレと言ってその言葉をそのまま地名にしたのでしょう( )ここにあった石地蔵仏は昭和47年に河川整備事業で若宮神社に移設されている(.)
八割付近をテツキとも呼びます。藩政時代、立花の大名らの巡視団は矢部辺春(へばる)白木(しらき)方面を訪れ、八割付近で小休止したそうです。八割の山谷から湧き出る泉の岸辺で、手をついて水を心ゆくまで飲んでいたそうです(.)それから「テツキ」の地名が起こったそうです。このことは山中の人が教えてくれたものですが伝説か、事実か判然としません(.)
       【郷土の人物伝・淵上郁太郎(ふちがみいくたろう)
  八割の堤防近くには、幕末の維新の志士・淵上郁太郎の供養碑がある。筑後国八女郡水田村の寺侍・馬医者 淵上祐吉(ゆうきち)の次男、郁太郎は肥後国(熊本)鳩野宗包(はとのそうほう)に外科術を学び、天草で開業( )安政3年(1856)、弟の謙三(けんぞう)と江戸に出て大橋訥庵(おおはしとつあん)に学び、諸藩の志士と国事を談じる 。文久元年(1861)帰国して両親の介護をしながら医者を開業。文久元年(1861)には藩校明善堂(めいぜんどう)(明善高校の前身)の教官に命ぜられる( )文久2年(1862)に久留米藩を脱藩して尊王攘夷(そんのうじょうい)の思想をもち長州へ赴くが、藩の役人に捕らえられ久留米で幽閉(ゆうへい)される。放免された後、久留米藩の志士真木和泉(まきいずみ)の命を受け、その弟、外記長州へ。上京して池田屋事件や(はまぐり)御門の変に参加したが敗れ、身をもって逃れ長州藩に潜匿(せんとく)した。薩長(さつちょう)を融和させ第二次長州征討(ちょうしゅうせいとう)を阻止しようとしたが、倒幕派(とうばくは)の怒りを買い、大坂で商人に扮して潜伏して薩長和解、征長解兵に尽力中に慶応元年(1865)4月幕府に捕らえられた(.) 
11月に突然釈放されて久留米藩に戻るが幕府のスパイと疑われ三池加納村に隠れ住んでいた(.)ついで下妻郡山中村潜居中(せんきょちゅう)慶応3年(1866)2月18日、ここの堤防で暗殺され首は大宰府に送られ(しかばね)は現場に埋めらた。明治維新(めいじいしん)を迎えるのを見届けずに・・・・・・。桜田門外の変以来、大勢の命が散ってゆき同年10月14日に大政奉還(たいせいほうかん)され12月9日、明治政府が誕生した。淵上の遺族は許可を得て明治43年8月になり(しかばね)を収め郷里の水田村に葬り、暗殺現場には供養塔が建てられた(.)

八割にある淵上郁太郎の供養碑
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  小山口(おせんぐち)(小字名)
 山の登り口の意でしょうか。山中の山では紙漉きの材料のコウゾウの木を採取した地域です。柳河藩では領主林について、柴や蔭葉は、肥料や薪用に利用できたが、竹や木の伐採は本郷組大庄屋の壇家(だんけ)を通して藩の許可を受け、伐採品は藩の所有でした。( )昭和22年の農地開放までは山の7〜8割は柳川の元の藩主立花家の所有でした(.)
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  谷口(小字名)       
 山の堤谷の入り口のの地名です。現在は高速道路建設用の土砂搬出の為に、山裾を為に削られてグラウンドなどの平地になり、堤谷の溜池の水路は集落の西の水田側に変更され灌漑用水に利用されています(.)
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  屋敷・浦田(小字名)
山中の集落名です。さらに北小路(きたしゅうじ)中小路(なかしゅうじ)など区割り名があった。天満神社のある地域の地名です。昭和46年の高速道路建設用の土砂搬出の為に谷口と同様に山裾を削られて平地になり広場になっています(.)
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  広瀬(ひろせ)小字名)(大字名)
 古語字典によると、瀬とは川や海などの水が浅く歩けるような所、または川や海の流れとあります( )広瀬は舟渡し場のある広い川瀬から起名され、この地区の大字名でもある。矢部川の堤防には柳川城と藩領の矢部村を結ぶ矢部往還(やべおうかん)が通り、南側に小字の広瀬の名があり行き交う旅人や舟客相手の商店が建ち並んでいました(.)今も道ばたに残る恵比寿さんの祠は当時の繁盛を物語ってる。下の明治初期の古地図では現在の「県道湯辺田(ゆべた)瀬高線」はありません。大正13年からの道路整備事業で建設されたとみられる(.) 


掲載( )の測量古地図は明治15年頃に道路・水路などの土木工事利用するために製作されたと見られ、まだ江戸末期の姿がそのまま反映されています( ) 

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 川端(小字名)          
広瀬堰の上流側の広い河原の広瀬の渡し場の河原の地名です( )ここの川は浅瀬の為に小型の柳川藩の商舟や護岸用石材の運搬用の石舟などが立花町の曲松(よごまつ)で行き来していました。堰き止められた広瀬堰の2個所には舟が通る幅だけ切り通しとなっていた( )曲松から上流は荷物を肩に(かつ)いだり、あるいは背負って運びました( )川端には渡し場までの道があり、渡し舟は対岸の溝口(筑後市)に往来していました。( )ここの広瀬堰(ひろせせき)で取入れた水は、唐尾(からお)集落を灌漑(かんがい)し壇ノ池を経由して長田(ながた)集落にいたる。もう1つは、広瀬用水路に入ります。広瀬用水路は、山中のもう一つの堰、丹花堰(たんがせき)でさらに分水し瀬高町東部山麓をめぐり、女山(ぞやま)北方の横尾堰で分水されて、瀬高町本吉・山門・小川・大江を南西に縦貫(じゅうかん)してみやま市役所裏の一っ堂(ひとつどう)分水堰で終わる約9kmの用水路であ( )
広瀬水門傍の堤防には、取水口を守る水神さんがあり、 堤防には享保(きょうほ)2年(1716)創設の広瀬井堰の昭和42年に改修した記念碑が建っている( )広瀬堰は昭和28年の大水害で決壊(けっかい)流出し、昭和30年にコンクリート堰に復旧している( )昭和47年には広瀬堰改築に伴う矢部川河川整備事業がされ(.)河川敷の民家は引越しされ観音堂は若宮宮境内に移設され、幹の直径4m位、畳8畳分くらいの大きい一本(くすのき)は失われた( )

広瀬堰

水神さんと記念碑(左)
  丹花(たんが)(小字名) 
広瀬堰の取水口と水路のある土地で取水口には水神さんが祀ってあった。丹花は字典によりますと、赤い花で、美人のくちびるの例えとあります。ここの土は赤く鉄分の砂鉄が採取されたかもしれませが、(.)似た呼び名の「タンゲ」は少し小高い土地の意味があるそうです。つまり川面から見れば少し高い地形から起こった地名でしよう(.)
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  下川原(しもごうら)(小字名)三砂(みさご)(小字名)
現在の広瀬水路の南側は住宅が建ち並んでいるが、堤防を築く以前の時代では、水の流れが網の目に流れ、砂利に覆われて人が住む所ではなかった当時を語る地名です。元禄時代に堤防が構築され開墾された所です(.)
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  浦田(小字名)        
山中の集落の西側の地名です。浦とは湾曲して陸地に入り込んだ所の意だが、古代はこの地にも矢部川が入り込み流れていたのでしょう。矢部川の開拓によりできた所です(.)
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  地蔵本(じぞうほん)・上地蔵本・下地蔵本(小字名)         
広瀬堰からの取水口の本田川の南側の水田の地域です( )地蔵さんを祀ってあったからの起名でしょうか。現地状況から山裾を取り崩して河原を埋立てた水田と推測する(.)
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 堤谷(小字名)
 堤谷溜池がある周辺の地名です。道を上がった川野宅の近くに地蔵石像がある。昔の竹林の山街道に建立されたと想定する( )蓮の台座には「発願主 相模国天下和順同尼・大乗妙天日本○国」の経典文(きょうてんぶん)の刻印が見える。相模国(さがみこく)とは神奈川県にあたり、東隣の山下城の関東武士に関わる尼さんがお経筒(きょうづつ)を納めた供養塔を建てたものと推察できる。現在ここの場所に寺院か(あん)があった記録はないが存在していたであろう( )
    若宮神社
 山下(立花町)の水天宮との村境に鎮座している若宮宮(わかみやぐう)は、戦乱の時代は山下城も近く、戦いに出る武士達の勝利祈願の宮であった( )また柳川城下から矢部方面への矢部往還の中間点で休憩するには風光明媚(ふうこうめいび)で絶好のお宮で近隣一帯の参拝者を集めていました( )真下の矢部川の深い淵には「えぼし岩」と呼ばれた大石があり、江戸中期の絵地(.)にも書かれている。戦国時代が過ぎ平穏な江戸時代に変ると一般庶民に親しまれ(.)新たな参拝や交流の場になり神社の天井に、忠臣蔵の物語・四十七士が活躍する模様(もよう)が奉納されたり、見事な俳諧(俳句)を書した額(みやま市指定文化財)も奉納されている(.)額は天保15年(1844)のもので、地元山中周辺の集落、上庄、下庄の俳人70余句が見事な筆跡で書かれている(.)額は船板を利用して造られた木製額である。縦47cm横230cm、黒書で70余句と俳号が書かれている(みやま市歴史資料館に展示中)(.)ほかにも沢山の色んな絵馬が奉納されてきた。近年では五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈った後、こうした絵馬などを見上げながら、持ち寄った御馳走(ごちそう)を囲んで、くつろぐ田植え直後の「お宮ごもり」が行われてきました(.)境内の観音堂と地蔵堂は昭和48年の広瀬堰周辺の河川整備事業により川端と八割から移築されている。若宮神社横の県道湯辺田(ゆべた)・瀬高線が拡張整備にともない平成23年9月に南側に移転され( )同年10月8日に新築の若宮神社で竣工式典が行われた(.)
     
旧若宮神社本殿   旧若宮神社境内  観音堂
 
   汐井の神
 山中の汐井の神は山下との村境のえぼし岩の上に小さな祠に崇められてる。矢部川による御利益に感謝し洪水に成らぬようにお願いしてきた神様であったろう(.) 氏神様の天満宮の祭では前日夜に大牟田黒崎の海まで海水を(おけ)に酌み祭日の早朝に「汐井汲み」が行われ、汲んできた海水( )一番最初に、この汐井の神様に(ささげ)げる習慣があるそうです(.)  
   天満神社   
 山中部落の氏神であり祭神は学問の神様菅原道真(すがはらみちざね)である。天満宮の祭りは9月25日です。祭りの2日前に神殿に奉げる汐井(しおい)を汲むための容器を真竹で作られる。祭り前日の夜10時頃から区長ら役員は大牟田の黒崎にある玉垂神社(たまたれじんじゃ)でお()もりをし、午前0時を過ぎたら海岸(有明海)に行き、汐井汲みの神事を行います。竹筒に汲んだ汐井は25日未明に山中に帰着後(.)矢部川のえぼし岩にある汐井神社、若宮神社、天満神社の順に奉げ役員全員でお参りをされる。午前9時から神主を迎え祭典が行われる(.)昭和46〜47年にかけて天満神社横の山土が、九州高速道路建設の為に搬出されたので(.)かなりの広さが平地となり、グランドゴルフ場や公園の広場が造られている( )1月の第1日曜には山中集落の小学生が集まりホンゲンギョが行われている。竹のやぐらを組み(わら)や正月の飾りを入れ込み火を入れパンパンはじける竹の音で盛大に行われている。火が落ち着くと餅を焼き皆で食べあう伝統行事が今も続いています(.)
   観音堂
 お観音さんは、かつて西方(川端)と呼ばれた土手添いの地にありました。現在の地(若宮神社の隣)に移されたのは昭和47年(1972)頃、広瀬堰周辺の河川整備事業による立ち退きによるものです(.)平成23年の秋には道路拡張工事の為に若宮神社の境内にあった地蔵堂と共に集落の中央部に移転した(.)
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    金毘羅神社
 北に突き出た山の山頂付近にあります(.)昭和13年(1938)頃、山中古墳群が発掘され、ここにあった横穴古墳から様々な刀剣や土器類が出土された事からこの地を崇め、金毘羅神社を祭ったと伝えられています(.)祭神は、讃岐(さぬき)総本山同様、大物主神(おおものぬしのかみ)と崇徳(すとく)天皇が祀られていると考えられます(.)
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本ページ A古地図にみる禅院の歴史  B古地図に見る唐尾の歴史 C古地図に見る小田の歴史   D古地図に見る長田の歴史
E古地図に見る坂田の歴史   F古地図に見る大草の歴史  G古地図に見る本吉の歴史 H古地図に見る山門の歴史  表題・東山村の歴史
 
.引用文献・故田中照男著「郷土のむかし」故鶴記一著「地名の話」・瀬高町誌・ 筑後郷土史研究会淵上兄弟資料・郷土史家末次寿一郎氏の聞取り調査
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