【地名の話し】 |
唐尾(からお)(小字名)(行政名) |
唐尾とは矢部川河川敷の砂利混じりの干上がった原野を開拓して出来た集落でしょう。もうひとつカラ(唐)は中国または朝鮮(韓)半島の意もあり、津は港の意で、佐賀県の唐津など貿易港や寄航地に多い地名ですがここでは関係なさそうですね。 |
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勝田(小字名) |
唐尾集落の南側の小さい水田です。朝鮮語でカツ(カツミ)は湿地の意であるから川畔や沼地の開拓水田の意です。
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上野開・中野開・下野開(小字名) |
いずれも矢部川に沿った堤防内の広大な河原の地名です。元禄8年(1695)の堤防工事以降治水工事をはじめ干拓工事によりできた土地で、開は開拓の意である。干拓工事後は水田として利用されたが近年堤防が拡張され河川敷となっている。
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日出(小字名) |
唐尾集落の東側からと宝満神社までの水田の地名で、よく乾燥する微高地に付けた地名です。日がよく当たるなどの気象的地名ではありません。
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宮(小字名) |
宝満神社のある社領で東の堤防水門橋まで水田を含めた土地です。
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河原(かわはら)・上河原(かみがわら)(小字名) |
広瀬堰からの本田川の水路の北側の水田の地名です。河原の呼び方はゴラ、ゴウラ、コウラ、コラなどというのです。これらの意味は河岸の石のゴロゴロしている所に付けた名です。古代はここにも矢部川が流れ込んでいた事を表しています。
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東藤八・西藤八(にしとうはち)・甚五郎(じんごろう)(小字名) |
南築橋の西側矢部川の堤防沿いに東藤八があり、さらに西に西藤八と甚五郎の地名がある。藤八と甚五郎は人名で、これらの人が資金を出したか、干拓工事に貢献した人の名でしょう。また下流に続く長田の北藤八・中藤八の地名も同じです。干拓後は水田として利用されていたが現在は堤防が拡張され河川敷になっている。
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唐尾浦田(小字名) |
唐尾集落の北方、南築橋の手前の西側の水田です。浦とは湾曲して陸地に入り込んだ所の意だから、矢部川河岸の開拓水田でしょう。
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中島(小字名)(行政名) |
矢部川の氾濫時は島の形態になる土地からの起名でしょう。やはり矢部川河岸の開拓地に移り住んだ集落名です。
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黒瀬 |
瀬は川や海などの水が浅く歩けるような所、川や海の流れのことを示す。矢部川河岸の開拓水田でしょう。
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シヨケ(志興計)田(しょうけだ)小字名) |
矢部川すぐ南側にある、なかなか凝った地名です。瀬高地方で竹で編んだのざるのことをショウケと呼びます。志興計はショウケの呼び名に漢字を宛がったもので、ショウケのように保水の悪い砂地の水田に付けた地名だと思います。矢部川の氾濫で土砂が埋まっていた所でしょう。
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塔の元または鳥居元(小字名) |
塔の元の南方の平田の南島ストア傍に「塔の元橋」があります。今なお土地の人は「トリモト」と呼び伝えている所です。元は建仁寺の「鳥居元」または「塔の元」と言い伝わったもので、ここに建仁寺の鳥居があったのでしょう。建仁寺まで1500mもあり、寺の規模の大きさを物語っている。
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昔の唐尾の景観を想像させる【唐尾の池とホーゼ】の民話
大昔、唐尾付近に大きな池があって年中清水がいっぱいみなぎっていた。周囲を歩くと時間がかかるので人々は舟で渡っていました。ある時、神様が御供人を連れて池の辺りにまで来られた。里人は急いで舟を準備して神様をお渡ししようとした。舟が湖の中ほどに差し掛かったとき嵐になり、湖面が揺れ転覆しそうになる。神様は南方の清水山に向かって手を合わせると、大揺れしていた舟が、水面に吸い付くように穏やかになり、舟は嵐の中をものともせずに滑り出し、間もなく唐尾の船着場に着いた。神様はお礼に籾俵3俵を舟に置いて姿を消したという。よくよく調べて見ると舟底にほうぜ(川蜷=カワニナ科の巻貝)がびっしり吸い付いて舟を守っていた。あの嵐の中でも転覆を免れたのは、ほうぜの重量のせいだったのだ。お礼の種籾を元に稲作りを始めたところ、たちまち村人達は裕福になったという。それ以来、川といわず田んぼといわず、生息するほうぜを、村の者はけっして食べなかったので初夏にはホタルが舞い飛ぶ里になったとさ。 ホーゼはホタルの幼虫の餌になるので5月末から唐尾から舟小屋周辺で天然記念物のゲンジボタルが発生して飛び交います
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八坂神社 |
社伝によれば、立花藩主時代の安永4年(1775)6月10日、領主の命により筑後国柳川領上妻郡山下町の八坂神社から分霊、唐尾の地に勧請された。これに伴い同年の6月10日、領主が小田.平田.唐尾.中島の4地域に対し、神事、風流、子供踊りをするよう命じたのが始まりです。山下の場合はそれよりずっと以前、長崎からとの伝聞がある。御神体は素盛鳴命が中心で大己貴命少彦名命の御三体を安置され、社地は河村九右衛門から寄贈された。その後、領主の忌日と重なった為に6月13日に変更された。風流奉納行列は、神輿祠掌、奉楽と続き、その後に小田.平田.唐尾.中島集落の順に、鐘、太鼓、高張傘、鉾などの行列が続き、各集落を巡行して、最後に神殿前で演奏し終了する。(現在は御輿はない)寛政6年(1794)、子供踊りを中止したところ、文化11年(1814)5月、流行病が発生したため、再び従来の子供踊りを再開したが、明治5年以後は踊りをやめ、風流のみを奉納している。藩政時代は、家老.寺社奉行等が出張していたが、明治時代から代役が務めたという格式の高い風流である。明治の初めに唐尾八坂神社の祇園祭に、唐尾の人々が余興として1ヶ月前から稽古して唐尾座主催の芝居が上演された。明治4年の上演が大変評判になり常設舞台が2ヶ所でき明治28年(1895)頃には全盛期を迎えた唐尾座の歴史がある。下に続く↓ |
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八坂神社正面鳥居 |
祇園祭 |
本殿 |
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【唐尾座の芝居】
唐尾八坂神社の祇園祭に、余興として唐尾座主催の芝居が上演された。その俳優は、主として唐尾の人々が祇園祭に、1ヶ月前から稽古して当日上演していた。(5月1日小屋入り、6月1日奉納)たまたま明治4年(1871)に上演したものが大変出来映えが良かったので、近隣の町村でも評判でした。そんなことから、その年、熊本県長洲町からの招きで興行したのが唐尾座の旗揚げになったようです。その時の地域別の一座の人々は、唐尾7人、山下2人、山中2人、八女郡兼松1人、野町1人、本吉1人の合計14人でした。その後、次第に盛んになり、明治28年(1895)頃には全盛期を迎えた。専門の衣装方、かつら方をやとい、唐尾座の名声は、熊本や佐賀方面にも聞こえるようになる。ひいきの女性客の金銭的援助が座の経営を大きく支え、踊って、もうけて、銀行を建てたという嘘のような話も聞かれたと伝わっています。全盛期の役者として、「嵐徳三郎、中村三吉、浅尾鬼工丸、市川虎平、市村家吉、中村成子、中村巴若、坂東定市、いちかわ恵三造、浅尾玉車、市川花柳(団十郎)、中村米三郎」などがいました。唐尾座は、夏.秋の祭りや他村の祭りをめあてに稽古に励んでいました。本拠地唐尾には、上下に常設舞台が設けられていました。役者の嫁さんは、夫から踊りを習って踊ったそうです。尾上多三郎は、お寺で修行したことのある人で、学問があり、やせ形で裃が似合ったとのことです。
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坂東薪笑は、大阪の人で、唐尾の女性を嫁にしたといいます。踊りが上手で唐尾全域に踊りをはやらせたといいます。松本団松と芸名が墓石に彫られている人もあったそうです。役者は化粧するおしろいの鉛毒のため早死にした人が多かったそうです。このように栄えた唐尾座も、大正12年(1923)9月の関東大震災の不景気で大きな打撃を受け、また、映画の発達等もあって、その後復興することができませんでした。唐尾座の出し物は、創作や踊りだけのものでなく、主なものとしては、「自来世」.「肥後駒下駄」.「太閤記」.「隅田川続俤」.「先代萩」があり、市川九団次の当たり芸は、「播隋院長兵衛」であったとのことです。後期には、浄瑠璃芝居の中間に浪花節入りのものも上演されたと言われています。(大江考祥書・ふるさとの昔ばなし瀬高の民話と伝説・挿絵、河野覚) |
宝満神社 唐尾、日出
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祭神は玉依姫命、住吉明神、春日明神の3柱を祀ってある。唐尾・平田・中島の集落の氏神さんである。山伏の修験道太宰府の宝満山の竃門神社の分霊を祀る神社である。宝満山は山伏の山岳仏教の竃門山寺などの修験道場であった由来からか参道東には観音仏を祀る木造の仏舎がある。ここ唐尾にも宝満山の山伏が訪れ加持祈祷のほか各地の文化・芸能などを伝えていたであろう。文化13年(1816)11月,藩主である柳川8代藩主立花鑑寿が神社の造営をしたと棟札が残っている。9月15日に「よど祭り」が行われている。11月23日は新嘗祭(にいなめさい)がある。新嘗祭(にいなめさい)とは天皇が五穀の新穀を天神地祇に勧め、また、自らもこれを食して、その年の収穫を感謝する祭儀であるが地方の神社でも秋に新穀を供えて神を祭る稲作儀礼(収穫祭)をやっている。
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唐尾の薬師堂と地蔵堂 |
唐尾集落の中程の路地に近所の人が持ち寄り世話をしてお花を奉げ信仰しているお堂です。8月20日には男子小学生が祭礼を行っている。接待豆を用意して賽銭をあげた参拝者に差し上げ、集まった賽銭を分け合う昔からの子供の伝統行事である。
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薬師堂 |

地蔵堂 |
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