庄福BICサイト 【禁無断転載】  H23・1・25製作  H25・8・31更新         福岡県みやま市瀬高町大字小田小字唐尾

   唐尾(からお)中島(なかしま)
 カラ(唐)は小石、土混じりの石または干上がった、または()れるの意で尾は土地の形状を意味しています。古代では唐尾は河川敷、中島は川の洲であったろう。唐尾の善通寺の南方の田んぼから、古代遺跡が発見され山裾に近い微高地に人が住んでいたのが確認されています(.)南北朝期から戦国期には国人領主の溝口氏の領地とだったみられる( )徳川時代の初め、柳川藩主の田中吉政(よしまさ)が大規模な堤防工事を始めてから、自然おもむくままに流れていた矢部川が現在の位置に落着いた( )旧薩摩街道(唐尾道)の宿場であったが元禄8年(1695)4代柳河藩主立花鑑任(たちばなあきたか)が下庄・上庄の西寄り( )のコースに変更されたが、柳川藩と久留米藩の国境の宿場町として( )また矢部川上流の山村からの矢部往還の最初の町として、旅館や飲食店が立ち並んで(にぎわ)っていました。天明3年(1781)は藩から茶屋営業を停止され抱女(遊女)を追放されている(.)
  
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 【郷土の人物伝 日源上人(にちげんしょうにん)と紙(すき)の祖 矢加部新左衛門(やかべしんざえもん)
 日源上人は、越前の国五箇村の武士真柄(まがら)重良左衛門の四男として生まれました。俗名(ぞくみょう=出家する前の姓名)を真柄四郎太景基(かげもと)といい、朝倉義景の家臣でした。元亀(げんき)元年(1570)、織田・徳川の連合軍と浅井・朝倉の連合軍が近江(おうみ)の姉川で戦いました。世にいう姉川の合戦です。この戦いは織田・徳川軍が勝利し、朝倉の家臣であった長兄の真柄十郎左衛門真元と次兄の真柄次左衛門直高、それに三兄の十郎三郎直澄(なおずみ)が戦死してしまいました。そこで、19歳の四郎太は日蓮宗の僧門をくぐり、俗名を捨てて“日源”と改め、兄達の霊をつむらうために諸国行脚(あんぎゃ)(歩きながら修行すること)の旅にでました。文禄の初め(1592年頃)旅の途中で筑後市溝口にたどりつき、廃寺同様だった福王寺の再興に尽力(じんりょく)することになったのです。ところが、そのころの溝口村は矢部川の氾濫で疲れきった貧しい村でした。どうにかしてこの村を盛んにしたいものだと考えた日源は、矢部川の水の豊かさと、その付近にたくさん自生している(こうぞ)に目を付けました。楮は紙の原料としては最適なのです。その時日源は、郷里の故郷の越前に居る、兄直基の三児、新左衛門新右衛門新之丞の三(おい)をを説き伏せて溝口村に連れてきました。そして、兄弟4人力を合わせて(.)寺の中で苦心しながら手漉き和紙作りに専念したおかげで立派な紙を作ることができました(.)このことが領主の耳にも届き、文禄4年(1595)、領主の立花親成(ちかしげ)の命により、見本として奉書紙(ほうしょし)楮の繊維で作った最上等の日本紙)を差し出しました。すると、領主はたいへんよろこんで褒美として種々の手漉き道具をくださいました。そのうえ、福王寺には9反8畝の田を寄進して、年貢(税金)を納めなくてよいという特別な援助をしました(.)その後、日源は苗字帯刀を許されましたので、矢部川の矢部の中に郷里5箇村の箇を入れて「矢箇部(やかべ)」と称しました。(現在「箇」が「ケ」になっているのは簡略字です。)関ヶ原の合戦(1600年)後、藩主立花氏に替わって、元和4年(1618)田中吉政が入国した後も手厚い保護が続きました。元和(げんな)7年吉政の死亡により筑後の国は久留米・柳川・三池の各藩に分割され、宗茂が10万9,200石に減禄の上( )柳川に再封されるが溝口村は川向こうになり久留米藩に組替えされる。従って兄の新左衛門唐尾村に移り住み紙漉(かみすき)(和紙の製造)を創め、次兄の新右衛門は溝口村に残らせ兄弟そろって和紙作りに従事する(.)末弟の新之丞は肥後藩主加藤清正のもとに召し抱えられ八代の宮地で紙作りを伝授したという( )かくして兄弟の努力が実り、その後彼等の技術指導のもと、唐尾・中島で30軒、山中で60軒位のほとんど村全部が作りを業とする日本一(.)和紙漉き地方となる。漉かれた紙は柳河紙と評価され( )奉書尾紅花紙、松皮紙、色奉書、小菊色、半切壇紙、繪透紙などの優良品が製造され、特に柳河半切は水に()れても破れず、文字が判明に書けると賞賛(しょうさん)された。紙漉きの技術は九州全域に伝幡拡散はもとより、唐尾の紙は全国に名をはせ栄え瀬高港から積み出され販売された( )日源上人慶長14年(1609)10月14日遷化、福王寺に葬る。新左衛門寛文9年(1669)正月29日没す。その末孫は唐尾にあり(.)溝口村新右衛門は寛永8年に没す。その末孫は溝口の矢加部小一郎家(10代目)なり。新之丞の末孫は熊本県八代宮地にある矢壁家と推察されている(.)溝口紙は、慶長5年(1600)、熊本県の八代に広まり、元禄3年(1690)には佐賀郡にも広まり有名になりました。最も盛んだった頃には山中に60軒、唐尾・中島には30軒の手漉き紙製造業の家があって賑わっていました。
そのころは紙商人達の往来が盛んで、商店や遊郭(ゆうかく)が許可され、「唐尾座」の芝居興行もあり、なかなか活気があったようです。「唐尾座」は他地方にも巡業していたと伝えられています。ここで作られていた手漉き紙の奉書紙は、主として、半切り紙、障子紙、提灯紙、傘紙、裏地紙でした。しかし後には、唐尾地区では障子紙が主ではなかったかと思われる。なお、溝口村の対岸である唐尾地区に手漉き紙が普及したのは遅く、文化12年(1815)というのは不思議です。



日源上人(福王寺)
日源上人慶長14年(1609)10月14日遷化、福王寺に葬る。新左衛門寛文9年(1669)正月29日没す。その末孫は唐尾にあり(.)溝口村新右衛門は寛永8年に没す。その末孫は溝口の矢加部小一郎家(10代目)なり。新之丞の末孫は熊本県八代宮地にある矢壁家と推察されている(.)溝口紙は、慶長5年(1600)、熊本県の八代に広まり、元禄3年(1690)には佐賀郡にも広まり有名になりましたその後、宗茂は味方の豊臣軍の敗北で城を明渡し流浪の時を送が徳川家康宗茂の器量を惜しみ、奥州棚倉(おうしゅうたなくら)にて1万石をを与え大名として復帰させ、最も盛んだった頃には山中に60軒、唐尾・中島には30軒の手漉き紙製造業の家があって賑わっていました。
そのころは紙商人達の往来が盛んで、商店や遊郭(ゆうかく)が許可され、「唐尾座」の芝居興行もあり、なかなか活気があったようです。「唐尾座」は他地方にも巡業していたと伝えられています。ここで作られていた手漉き紙の奉書紙は、主として、半切り紙、障子紙、提灯紙、傘紙、裏地紙でした。しかし後には、唐尾地区では障子紙が主ではなかったかと思われる。なお、溝口村の対岸である唐尾地区に手漉き紙が普及したのは遅く、文化12年(1815)というのは不思議です。 

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      【千間土居(せんげんどい)(はね)
 
矢部川の名称は江戸時代以前は単に「川」とか「大河」と言われ、江戸時代になって柳川藩(立花宗茂)と久留米藩(有馬豊氏(ありまとようじ))の境界を矢部川の中心としたことから「御境川」と呼ばれた。また川底が浅く、大雨の度に洪水が起き田畑に大きな被害を起こし「天井川(てんじょうがわ)」や「暴れ川」とも呼ばれた。両藩とも河川氾濫を防止するのは重要な課題であった。柳川藩では元禄8年(1695)普請役(ふしんやく)(建築や土木工事の責任役)田尻総助(たじりそうすけ)により地元農民の夫役(ふやく)により八女郡北山村の曲松(よごまつ)より山下に至る御境川(矢部川)の1300(けん)(2、3km)に高さ7m余もある壮大な土手を築き(.) 引き続き広瀬・小田・長田に至る4km弱の長田土居を築堤した。しかも対岸の久留米藩からの苦情や抗議の余裕も与えないように昼夜兼行(ちゅうやけんこう)の突貫工事で、1300(けん)(2300m)も護岸を数日で築き上げている。二男の惣馬(そうま)宝永(ほうえい)6年(1709)2月26日に普請役になり父親が構築した堤防に上木にクスノキを下層にはマタケやハチク、モウソウチク等の竹との二段林の植栽によって頑丈(がんじょう)にし、川岸には対岸に突き出した石積や蛇籠(じゃかご)で水流をやわらげる水刎(みずはね)を造り堤防を守ったこの土居の工事に駆り出された地元領民には食事、用便以外には休息の時間もない非常に過酷(かこく)な重労働であった為に、田尻惣馬に対する(うら)みをはらすために「切る時は、木六、竹八、(あし)九月(何れも陰暦)、惣馬の首は今が切り時」と大変物騒な内容だが、直訴できない当時、戯言(たわごと)としてウップンをはらした歌までできている。これが千間土居・広瀬河端(かわばた)・小田野林・長田孤林(きつねはやし)と呼ばれ、矢部川の流れが定まり水害から護り、荒田を良田に(よみがえ)らせました(.)享保2年(1716)には広瀬堰からの水路が完成した。矢部川河川敷の地名にも開拓を意味する「(ひらき)」や、開拓した人物を付けた籐八勘五郎の土地がある。明治初期の測量地図を現在と検証すると旧南筑橋までの道は馬による外敵から守る枡形(ますがた)(L字形)になり舟着き場に行っている。水流を変化させる水刎(みずばね)は6か所があり水の流れる勢いを(.)対岸の久留米領の堤防に向け堤防を守るためです(.)その後の改修工事のためにほとんどの原形が残っていないが、唐尾刎を唐尾バネ公園(写真上題目)に見ることができます(.)今までに千間土居を築いたのは田尻総助惣馬親子または惣馬が通説になっていましたが、これは三善庸礼(みよしようれい)の「御国家損益本論」や渡辺村男の「旧柳川藩誌」によるもので、元禄8年(1695)には惣馬は18歳で殿様のお共で江戸に居たことが「柳川藩史第四編鑑任(あきただ)記」の惣馬の略歴に記され、病気により浪人となり宝永6年(1709)、33歳で普請(ふしん)役に取上げられて多くの偉業を残していることが解りました。在職中には土居に楠木(くすのき)や杉を植樹し笹を植込み堤防を補強し川岸には水流を弱める水刎(みずはね)を築いています。書き直しの文章は田尻総助惣馬親子の墓がある「九品寺(くほんじ)」あるいは「古地図に見る本郷の歴史で紹介しています(.)
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公園の大楠のたもとに延命地蔵さんが鎮座してある( )台座には、地蔵形像焼香供 養憺礼賛嘆是人住 処即得十種利益願 天保五年仲冬摩訶吉祥辰是立 とあり唐尾刎(からおはね)に向かって立ち、等身大(約1.6m)で右手に錫杖(しゃくじょう)、左手には宝珠(ほうじゅ)を持ち素足の姿のお染地蔵(おそめじぞう)天保5年(1834)に建立されている。古老によると江戸時代半ばに普請奉行の田尻惣馬(そうま)により千間土居の完成後に、唐尾の瀬に水流を対岸の久留米藩側に押しやる為の水刎(みずばね)を造る工事が、相次ぐ大雨で工事が進まず、縁起しきたりに従い与吉無垢(むく)の娘の、お染水神さまに人柱になり犠牲になり、のちにお染の分身として延命地蔵を建てられたと言う逸話(いつわ)が残っている。今後は水難がかからないように、また福島道を行く人々の旅が安全でありますようにと( )村人はお染の分身である延命地蔵を水刎(みずはね)の傍に建立したのだった。像の後には樹齢300年の(くす)の大木が立っている。平成22年に、西側に新しく南築橋(なんちくばし)も架けられ幹線道路は唐尾集落を通らなくなり静かになったが( )今後も延命地蔵さんが唐尾周辺の人々の安全と幸せをお守りすると思います(.)毎月4日・14日・24日は地蔵尊の日です。8月24日は地蔵盆です(.)

     【地名の話し】
  唐尾(からお)(小字名)(行政名)       
唐尾とは矢部川河川敷の砂利混じりの干上がった原野を開拓して出来た集落でしょう。もうひとつカラ(唐)は中国または朝鮮(韓)半島の意もあり、津は港の意で( )佐賀県の唐津など貿易港や寄航地に多い地名ですがここでは関係なさそうですね(.)  
  勝田(小字名)          
 唐尾集落の南側の小さい水田です。朝鮮語でカツ(カツミ)は湿地の意であるから川畔や沼地の開拓水田の意です(.)
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  上野開・中野開・下野開(小字名)           
 いずれも矢部川に沿った堤防内の広大な河原の地名です(.)元禄8年(1695)の堤防工事以降治水工事をはじめ干拓工事によりできた土地で、開は開拓の意である。干拓工事後は水田として利用されたが近年堤防が拡張され河川敷となっている(.)
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  日出(小字名)
 唐尾集落の東側からと宝満(ほうまん)神社までの水田の地名で、よく乾燥する微高地に付けた地名です。日がよく当たるなどの気象的地名ではありません。
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  (小字名)        
 宝満神社のある社領で東の堤防水門橋まで水田を含めた土地です。
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  河原(かわはら)・上河原(かみがわら)(小字名)        
 広瀬堰からの本田川の水路の北側の水田の地名です。河原の呼び方はゴラ、ゴウラ、コウラ、コラなどというのです。これらの意味は河岸の石のゴロゴロしている所に付けた名です。古代はここにも矢部川が流れ込んでいた事を表しています(.)
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  東藤八・西藤八(にしとうはち)・甚五郎(じんごろう)(小字名) 
 南築橋の西側矢部川の堤防沿いに東藤八があり、さらに西に西藤八と甚五郎の地名がある。藤八と甚五郎は人名で、これらの人が資金を出したか、干拓工事に貢献した人の名でしょう(.)また下流に続く長田の北藤八・中藤八の地名も同じです。干拓後は水田として利用されていたが現在は堤防が拡張され河川敷になっている(.)
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  唐尾浦田(小字名)           
 唐尾集落の北方、南築橋の手前の西側の水田です。浦とは湾曲して陸地に入り込んだ所の意だから、矢部川河岸の開拓水田でしょう(.)
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 中島(小字名)(行政名)
矢部川の氾濫(はんらん)時は島の形態になる土地からの起名でしょう。やはり矢部川河岸の開拓地に移り住んだ集落名です。
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  黒瀬
 瀬は川や海などの水が浅く歩けるような所、川や海の流れのことを示す。矢部川河岸の開拓水田でしょう(.)
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 シヨケ(志興計)田(しょうけだ)小字名)      
矢部川すぐ南側にある、なかなか()った地名です。瀬高地方で竹で編んだのざるのことをショウケと呼びます。志興計はショウケの呼び名に漢字を宛がったもので、ショウケのように保水の悪い砂地の水田に付けた地名だと思います。矢部川の氾濫で土砂が埋まっていた所でしょう(.)
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 塔の元または鳥居元小字名)           
塔の元の南方の平田の南島ストア傍に「塔の元橋」があります。今なお土地の人は「トリモト」と呼び伝えている所です。元は建仁寺の「鳥居元(とりいもと)」または「塔の元」と言い伝わったもので、ここに建仁寺の鳥居があったのでしょう。建仁寺まで1500mもあり、寺の規模の大きさを物語っている(.)
           
     昔の唐尾の景観を想像させる唐尾の池とホーゼの民話
 大昔、唐尾付近に大きな池があって年中清水がいっぱいみなぎっていた(.)周囲を歩くと時間がかかるので人々は舟で渡っていました( )ある時、神様が御供人を連れて池の辺りにまで来られた。里人(さとびと)は急いで舟を準備して神様をお渡ししようとした。舟が湖の中ほどに差し掛かったとき嵐になり、湖面が揺れ転覆(てんぷく)しそうになる。神様は南方の清水山に向かって手を合わせると、大揺れしていた舟が、水面に吸い付くように(おだ)やかになり、舟は嵐の中をものともせずに滑り出し、間もなく唐尾の船着場に着いた。神様はお礼に籾俵(もみたわら)3俵を舟に置いて姿を消したという。よくよく調べて見ると舟底にほうぜ
川蜷(かわにな)=カワニナ科の巻貝)がびっしり吸い付いて舟を守っていた( )あの嵐の中でも転覆を(まぬが)れたのは、ほうぜの重量のせいだったのだ。お礼の種籾(たねもみ)を元に稲作りを始めたところ、たちまち村人達は裕福になったという( )それ以来、川といわず田んぼといわず、生息(せいそく)するほうぜを、村の者はけっして食べなかったので初夏にはホタルが舞い飛ぶ里になったとさ( )ホーゼはホタルの幼虫の餌になるので5月末から唐尾から舟小屋周辺で天然記念物のゲンジボタルが発生して飛び交います
    
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    八坂神社
社伝によれば、立花藩主時代の安永4年(1775)6月10日、領主の命により筑後国柳川領上妻郡山下町の八坂神社から分霊、唐尾の地に勧請された。これに伴い同年の6月10日、領主が小田.平田.唐尾.中島の4地域に対し(.)神事、風流、子供踊りをするよう命じたのが始まりです。山下の場合はそれよりずっと以前、長崎からとの伝聞がある。御神体は素盛鳴命(すさのうのみこと)が中心で大己貴命(おおなみちのみこと)少彦名命(すくなひこなのみこと)の御三体を安置され、社地は河村九右衛門から寄贈された。その後、領主の忌日と重なった為に6月13日に変更された。風流奉納行列は、神輿祠掌(みこしししょう)、奉楽と続き、その後に小田平田唐尾中島集落の順に、鐘、太鼓、高張傘、(ほこ)などの行列が続き、各集落を巡行して、最後に神殿前で演奏し終了する。(現在は御輿はない)寛政6年(1794)、子供踊りを中止したところ、文化11年(1814)5月(.)流行病が発生したため、再び従来の子供踊りを再開したが、明治5年以後は踊りをやめ、風流のみを奉納している。藩政時代は(.)家老.寺社奉行等が出張していたが、明治時代から代役が務めたという格式の高い風流である(.)明治の初めに唐尾八坂神社の祇園祭に、唐尾の人々が余興(よきょう)として1ヶ月前から稽古して唐尾座主催の芝居が上演された( )明治4年の上演が大変評判になり常設舞台が2ヶ所でき明治28年(1895)頃には全盛期を迎えた唐尾座の歴史がある(.)下に続く↓    
八坂神社正面鳥居   祇園祭 本殿 
  唐尾座の芝居 
 唐尾八坂神社の祇園祭に、余興として唐尾座(からおざ)主催の芝居が上演された。その俳優は、主として唐尾の人々が祇園祭に、1ヶ月前から稽古(けいこ)して当日上演していた。(5月1日小屋入り、6月1日奉納)たまたま明治4年(1871)上演(じょうえん)したものが大変出来映えが良かったので、近隣の町村でも評判でした( )そんなことから、その年、熊本県長洲町(ながすまち)からの招きで興行したのが唐尾座の旗揚げになったようです。その時の地域別の一座の人々は、唐尾7人、山下2人、山中2人、八女郡兼松(かねまつ)1人、野町1人、本吉1人の合計14人でした。その後、次第に盛んになり、明治28年(1895)頃には全盛期を迎えた( )専門の衣装方、かつら方をやとい、唐尾座の名声は、熊本や佐賀方面にも聞こえるようになる(.)ひいきの女性客の金銭的援助が座の経営を大きく支え、踊って、もうけて、銀行を建てたという(うそ)のような話も聞かれたと伝わっています(.)全盛期の役者として、「嵐徳三郎中村三吉、浅尾鬼工丸、市川虎平、市村家吉、中村成子、中村巴若、坂東定市、いちかわ恵三造、浅尾玉車(.)市川花柳(団十郎)中村米三郎」などがいました。唐尾座は、夏.秋の祭りや他村の祭りをめあてに稽古に励んでいました(.)本拠地唐尾には、上下に常設舞台が設けられていました。役者の嫁さんは、夫から踊りを習って踊ったそうです(.)尾上多三郎は、お寺で修行したことのある人で、学問があり、やせ形で(かみしも)が似合ったとのことです(.)
  坂東薪笑は、大阪の人で、唐尾の女性を(よめ)にしたといいます。踊りが上手で唐尾全域に踊りをはやらせたといいます( )松本団松と芸名が墓石に()られている人もあったそうです。役者は化粧するおしろいの鉛毒(えんどく)のため早死にした人が多かったそうです(.)このように栄えた唐尾座も、大正12年(1923)9月の関東大震災(.)不景気で大きな打撃を受け、また、映画の発達等もあって、その後復興(ふっき)することができませんでした( )唐尾座の出し物は、創作や踊りだけのものでなく、主なものとしては、自来世(じらいや)」.「肥後駒下駄」.「太閤記」.「隅田川続俤(こちのおもかげ)」.「先代萩」があり市川九団次の当たり芸は、播隋院長兵衛(ばんずいんちょうべい)」であったとのことです。後期には、浄瑠璃(じょうるり)芝居の中間に浪花節(なにわぶし)入りのものも上演されたと言われています(.)大江考祥書・ふるさとの昔ばなし瀬高の民話と伝説・挿絵、河野覚(.) 
   宝満神社     唐尾、日出
 祭神は玉依姫命、住吉明神、春日明神の3柱を祀ってある。唐尾・平田・中島の集落の氏神さんである。山伏の修験道太宰府の宝満山(ほうまんざん)竃門(かまど)神社の分霊を祀る神社である(.)宝満山は山伏の山岳仏教の竃門山寺などの修験道場であった由来からか参道東には観音仏を祀る木造の仏舎がある。ここ唐尾にも宝満山の山伏(やまびし)が訪れ加持祈祷のほか各地の文化・芸能などを伝えていたであろう( )文化13年(1816)11月,藩主である柳川8代藩主立花鑑寿(あきひさ)が神社の造営をしたと棟札(むねふだ)が残っている( )9月15日に「よど祭り」が行われている。11月23日新嘗祭(にいなめさい)がある。新嘗祭(にいなめさい)とは天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に勧め、また、自らもこれを食して、その年の収穫を感謝する祭儀であるが地方の神社でも秋に新穀を供えて神を祭る稲作儀礼(収穫祭)をやっている(.) 

本殿

観音さんの木造仏舎
  唐尾の薬師堂と地蔵堂
 唐尾集落の中程の路地に近所の人が持ち寄り世話をしてお花を奉げ信仰しているお堂です( )8月20日には男子小学生が祭礼を行っている(.)接待豆を用意して賽銭をあげた参拝者に差し上げ、集まった賽銭(さいせん)を分け合う昔からの子供の伝統行事である( )
 
薬師堂

地蔵堂
 
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