庄福BICサイト     【禁無断転載】      H・25・12・13更新  H・30・10・31更新        福岡県みやま市瀬高町(せたかまち)大字本吉(もとよし)
(清水公園の眺望)の田圃には高速道路のインターから西へ有明湾岸道路への道が完成、左右には九州新幹線の高架が横切っている( )
 後期旧石器時代の遺跡( )は本吉から小田にかけて標高50m〜300mの湧き水地そばの山麓地帯で1万5千年前の人が使った石鏃(やじり)石斧(いしかま)、石包丁などの石器が出土した清水山遺跡などが有名です(.)人が移り住みながら大型狩猟を含む活発な狩猟・採集活動が行われていたでしょう。ナイフやに石鏃(やじり)使われたつやのあるガラス質の黒曜石(こくようせき)は佐賀県腰岳・長崎県松浦半島・大分県姫島で採れたものが使われており、なんらかの流通網が存在していたと思われる(.)縄文遺跡も多く発掘され後期や晩期の権現塚北遺跡や坂田遺跡などが有名です(.)弥生時代では鉄や銅が使われた。中期の遺跡からは甕棺(かめかん)墓地が発掘され藤の尾遺跡からは甕棺から鉄剣が、鉾田遺跡からは細形銅剣の切先が出土している(.)女山の山腹から埋納された銅矛(どうほこ)が2本出土している。古墳時代の遺跡も多く、本吉の清水三重(きよみずさんじゅう)(とう)の南上にある古墳群は大正12年にその1っを発掘し副葬品も数多く出土した(.)茶屋から少し登った所に、今も完璧(かんぺき)な古墳が残っており、遠足やハイキングの時に小さな入口をやっと入り石積のドームのような石室(せきしつ)を見た人も多いだろう。このように本吉周辺の地域は遺跡の宝庫として知られています(.)
 
成合寺谷1号墳 (本吉825)     *古墳時代の装飾古墳
本吉字成合寺谷の小丘、標高60mの舌縁部にある(.)砂防ダム建設の進入路掘削に際し発見。外観は壊され不明、内部に横穴式石室をもち顔料による彩色を()前室.後室の周壁、袖石、軒石下面、石屋形天井石(石棚)前縁部と袖石で確認されたが(.)現状で図文として確認できるのは石棚の前縁で赤(ベンガラ).白(白土).緑(石の地肌(.)の上下の三角文を交互に配して中央の菱形文の幾何学文のパターン化した図文を構成している(.)石室下半分を全赤色に彩色した上で石棚前縁に幾何学文の図文を施したと考えられる。これは福岡県下には見当たらず(.)熊本県の菊池川流域にしか存在しない。菊池川流域との関係の強さが目立ち(.)弥生時代から同一の文化圏であることが想定できる。私の持論、邪馬台国は菊池方面も含むを証明するものともとれる(.)白の使用や隣接する文様の内部を塗り残す例は筑後川流域の古墳にみられ共通性がある(.)本墳の考古学的な独自性の最たるは、やはり石棚と壁画に求められる。現在、封鎖され見学できません(.)
 *石屋形風の石棚を設置し、石棚前縁のみに(.)三角文と菱形文を、白と赤の2色で描く                 
        
石棚前縁の写真を解りりやすくする為彩度を上げ表現しました。      
(壁面装飾確認調査報告書より) 

奥壁全景

青のシートの部分
    

 本吉(もとよし)条理制遺構(じょうりせいいこう)
  大化元年(645)の大化改新後の律令(りつりょう)国家制度の耕地の改革、整理の条理制(じょうりせい)が実施され、筑後地区は50年遅れた和銅(わどう)8年(715)に筑後守となった道君首名(みちのきみの おびとな)により大事業が行われた。この分割された遺構(いこう)は下図の古地図でも見れる(.)昔の春の遠足では清水山公園から遠望すると、(ふもと)から西に菜の花蓮華草(れんげそう)の花麦畑の黄・桃・緑の色が碁盤(ごばん)の目のごとく広がり、感動しながら見ることができた(.)条理の基本は、方六町(三十六町)を一里とし、この横のつながりをとし(.)縦のつながりをとし、土地の位置を表わすのに何条何里と呼んだ。さらに一里を36の坪に分割した(.)一坪は地積一町(約1ヘクタール)である(.)このの名(ともいう)が各地に小字名として土地台帳に残っている(.)本吉六ノ江は一条四里六ノ江(.)松田佐ノ江は一条一里三ノ江、、大広園八ノ坪は一条二里八ノ坪にあたる(.)現在、効率的な農作業と生産性を上げる為圃場(ほば)整備事業で無くなっています(.)
 
 北緑リ(きたみどり)(小字名)      本吉
本吉西部に広がる北端の水田です(.)緑りは「ミドロ」のことで湿地の水田のことです。朝廷の政府の良い字を付けよの改名政策に応じ「緑り」に変化させた地名です(.)
   .
 上八幡田(はちまんだ)・下八幡田(小字名)      本吉
本吉西部に広がる条理制が行われた田んぼの北西部あります(.)北広田八幡宮の神領田です。944年の神名帳に「泉澄神」があり八幡神社の以前の宮がありました。条理制後の中世期に変更された神領田の地名でしょう(.)


 
  鍬ノ元(くわのもと)(小字名)      本吉 
農作業で使用する鍬にあしらった地名です( ) 
  下小柳(小字名)      本吉 
魚を採る梁(ヤナ)に関係した地名です。水路でフナなどの川魚を採れていたのでしょうか( ) 
 片垂(かただれ)(小字名)      本吉 
どちらかに弛んだ変形した田んぼの地名です( )
 六ノ江(小字名)      本吉
奈良時代の条里制の遺構の名で、一条四里六ノ江にあたる( )
 小山田(小字名)      本吉 
小さい田んぼが3枚ある場所です。小さい田んぼの意の地名です( )
三井原(みいばる)
井は水路の意で水路に恵まれた土地でしょう(.)
穀相田(こくそうでん)
穀物にあしらった地名です(.)
稱宣町
稲にまつわる地名です(.)
 鉾町
 農作業で使用する鉾にあしらった地名です( ) 
 宗付(そうずけ)
 お寺の寺領からの起名だろうか(.)
 大深
 湿地で深みにはまる土地でしょう(.)
 
  諏訪(すわ)神社 本吉
 当社の諏訪神社記によると元禄16年(1703)(.)本社諏訪神社の創建1200年の行事を行った記録が残っているという(.)江戸期以前は梅ヶ谷の山の中腹に鎮座していたそうだ(.)真言宗の成合寺の守護神社の可能性もある( )江戸時代は柳川藩主の立花宗茂らの寄進の恩恵を受け、南筑後地方の産婦は必ず参拝して祈願をなしたという(.)柳川藩政時代に参拝の便宜をはかり山腹の梅ヶ谷から現在地に遷宮している( )現在の社は立花藩3代鑑虎(あきとら)(1664〜1695)の寄進による建物である。祭神は健御名方神(たてみなかたのみこと)で本吉の産土神である。安産の御守札を出すので遠くからの参拝者も多い(.)
 
  七社宮   梅ヶ谷
  7柱の神を祀る神社です。農耕・狩猟の神さま@御名方神(みなかたのかみ)A息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)(のちの神功皇后)、B大山津美神(おおやまつみのかみ)、穀物の神さまC宇賀神、D大国主命、E菅原神(天満宮)、F素盞鳴命の7柱です。毎年12月1日に神主さんを呼んで行事があります。小田集落では村の氏神として祀られています(.)
 
 薬樹山成合寺(なりあいじ) 本吉梅ヶ谷
大和時代の和銅2年(709年)に僧、頼現(らいげん)により開基されたとある。古義に真言宗仁和寺の末派とある。
戦国時代の田尻(たじり)城主の田尻左京亮の祈願所であった。戦国末期に佐賀の龍造寺(りゅうぞうじ)軍の兵火により焼け落ち廃寺となり、藩政時代の藩主立花宗茂(むねしげ)により再建され、宝暦5年(1755)立花鑑通(あきなお)の時快助これを中興した(.)瀬高で一番古い寺だが昭和52年廃寺となり瀬高郷土史会員の尽力によ(.)御本尊不動明王、薬師如来(日光、月光、十二神将)弘法大使像を本吉の三宝寺地蔵院に移されて安置した(.)境内には瀬高町文化財指定の自然石梵字板碑(ぼんじいたび)が残っている。寺跡前のみかん山に存在する(.)高さ1m、横75cm、厚さ20cmである。この板碑は、加持祈願(かじきがん)(神仏の加護を求める行法を修し、病気平癒や災いの除去などの現世利益を祈ること)(.)当所で盛んに行われていた名残りである。一種の塔婆(とうば)で主として死者の冥福(めいふく)生前信者達が供養したもの等がある( )13世紀頃のものが最も古く、17世紀の頃まで及ぶ。形状は五輪卒塔婆(ごりんそとば)(そとば=仏塔)省略変形されたものと考えられている。昭和58年町指定民俗資料となる(.)
自然石梵字板碑
 佛町(小字名)    本吉
佛町は本吉西部に広がる田んぼにあります。お寺の寺領の起因する地名です( )
 南緑リ(小字名)      本吉
本吉西部に広がる西端の水田です(.)緑りは「ミドロ」のことで湿地の水田のことです。朝廷の政府の良い字を付けよの改名政策に応じ「緑り」に変化させた地名です(.)
 釈迦町(小字名)      本吉
仏教の関連地名で近くの成合寺の寺領ではあるまいか( )
          .

 本吉(もとよし)  (集落名)
  清水寺の正式名称「本吉山普門院清水寺」と呼ばれたことに由来するという(.)本吉から分かれた草場、朝日、堤、藤ノ尾などに分村して行った人々が親村に対して尊敬と親しみをこめて、「本吉」と呼んだのが地名のはじまりでしよう(.)清水寺とほぼ同時代に創建された成合寺、横尾寺、少しおくれて叡興寺など一時は清水寺とは優劣なき教勢を誇っていました(.)(鶴記一郎氏地名より(.)


 
 【清水山公園と古墳】
 
 南筑後平野を見渡せる、眺望の優れた公園には5〜6軒の茶屋があり、春は桜見物で賑わう。秋の大正から昭和初期頃には三池炭鉱の地下坑道を支える坑木用の松林では(.)松茸狩(まつたけが)りが盛んで、茶屋に持込んで焼いておいしく食して楽しんだそうな(.)

 昭和28〜33年頃の下庄小学校の春の遠足は、6年生が新入生の手をつないで(.)校門を出て、街中や農村を歩き、お土産屋の建ち並ぶ本吉の麓からは山を登り(.)清水寺の石段を数えながら登り清水山公園に到着(.)全校児童1000人程の集合場所でした。当時、広く感じた公園も御覧のように狭い場所です(.)昼食の弁当(巻き寿司)を食べたあとは(.)近くの古墳の石室に入って、組合された山石の組込まれた石室を見学した。懐かしい光景を思い出します(.)

清水山1号墳
径20m円墳・複室構造の横穴式石室

清水山2号墳
径10m円墳・横穴式石室

壁面
 
天井
 
後室奥壁
                        
 
     清水寺(きよみずでら)


     江戸時代の後半期1742年の清水寺絵図で三重の塔(1836年(天保7)建立)はまだ無い。
                            
                   赤字は記入文字を拡大表示
 
昭和6年の観光案内パンフレットの絵( )大正12年に本堂が焼失する以前の絵になっている。 
  故岡茂政氏の柳川史話のなかで清水寺(きよみずでら)の開祖について、『西(にし) 以三(いさん)天和2年(1682)に著した「筑後地鑑」に 「本吉山清水寺(きよみずでら)はいずれの代の建立なるかを知らず、里老が言うにはその始めは禅寺にして大竹なる二尊寺(にそんじ)の末派なりと。天文時代の末に九州諸郡が大乱の後に、天正18年(1590)に藩主立花宗茂(むねしげ)により再興され寺を守っていた住職なるものを法印となし、その院を清水山西方寺という。」とある()

 久留米藩士杉山正仲(まさなか)小川志純(ゆきとう)寛政年間(1789〜)に書いた「筑後志」には「清水寺は山門郡本吉村にあり、大同元年(806)慈覚大師(じかくたいし)円仁)の草創にして洛東清水寺に同じ」と記してある(.)柳河藩士戸次求馬文化12年(1815)に著した「南筑明覧には「本吉山清水寺(.)本尊は()千手大士にして人皇51代平城天皇の御宇大同元年草創(そうそう)なり(.)天正の乱の佐賀の龍造寺隆信軍が乱入して之を焼けり。」とし、太宰管内志(だざいかんないし)には地鑑および筑後志の記事を併記している(.)また俗説に行基というのがある。然し年代を大同元年(806)とせる処から見ると(.)その誤であることは言う迄もない。行基はこ考謙天皇の天平勝宝(てんぴょうしょうほ)元年(749)(じゃく)している(.)柳川藩の寛政5年(1793)の「寺院帳」には「本吉山清水寺。人皇51代平城天皇の御宇大同元年比叡寺開祖伝教大師開祖也」とある(.) 西原一甫天保年間頃に編集した「諸国寺社縁起」には「抑当山千手施無畏の尊像は人皇51代平城天皇の御宇大同元年(806)の草創と申事は(.)当初伝教大師(最澄)入唐帰朝の、九州において佛像繁昌の地を選び給うに、筑後州東山に光明かがやくを(.)大師不思議に思召して尋ねのぼりて見給えば、獄々たる山中に光明を放つ合歓(ねむ)の立木に観音の尊容(あらわ)(たま)うにより、大師信心誓願を起し、直ちに尊容を刻み給う。誠に権化の妙作なり。然るにまた慈覚大師(じかくたいし)の渡唐の節新に霊夢の告あるにより、誓願を起し、帰朝の時その願をみてん為、当山に登りて重ねて一宇を修造し給う。(すなわち)本吉山清水寺之なり。天正の頃堂舎(ことごと)く兵火の災にあい灰燼(はいじん)の中より尊像(つつが)なく拜まれ給う。・・・」とある。
   .
 南筑明覧や寺院帳には此の縁起(えんぎ)によって其の開祖を伝教大師とし、筑後志は慈覚とせるものと思われる(しか)最澄(伝教大師)が帰朝の途次、清水寺に立寄ったといふことは疑わしい(.)最澄延暦24年(805)5月19日帰航の途につき(.)同年6月5日対馬に着し直に長門を経て一路京都に向ひ九州には立寄っていない。そして大同元年(806)といえば空海(くうかい)が帰朝した年で彼こそ九州にあって1年間も筑前観世音寺に逗留している(.)地鑑に何れの時代の建立なるかを知らずとしたのは無理ならぬことである(.)後年清水寺が日光山・輪王寺の末派として5代藩主立花貞俶(さだよし)帰依(きえ)を得ていたことは今も残っている寛保元年(1741)8月付輪王山宮の令旨によるも、その一班を(うかが)ふことが出来る(.)寛保元年は今から194年前で柳河藩5代貞淑公のときである。』(昭和9年10月載)とある(.)・・・ 九州の山門郡本吉村に大同元年(806)最澄が来た事を(あき)らかにする天台宗の歴史資料は無い(.)
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   【最新見解2021.10.
 本吉山清水寺(きよみずでら)は上蒲池時代では清水寺観世音として信仰されたとみられる。江戸初期延宝9年(1681)の藩の調査「蜷藩内寺社書上」の本寺・末寺、末庵、古跡堂守などの地帳記載の二尊寺古来の末寺、無職地には清水寺、西方寺も含まれており(.) 延慶3年(1310)に肥後の曹洞宗大慈寺の鉄山和尚により二尊寺が大規模(塔頭6・末寺54)に開山した事により末寺になり(.)九州諸郡の寺院がが戦国時代の戦火により衰退するまで、続いたと思考される(.)上蒲池の山下城主は清水寺観世音を祈祷寺として、田1町を寄進し信仰していた(.)
 江戸時代になり立花宗茂(むねしげ)立花鑑虎らにより衰退した清水寺が再興された頃に天台宗に宗派替えしたであろうか。後年、5代藩主立花貞俶(さだよし)が日光山・輪王寺の天台宗に帰依(きえ)した事などから、本吉山清水寺は臨済宗二尊寺の末寺から手を離れ江戸期には東叡山派(日光輪王寺・上野寛永寺など)の末寺となる(.)それ以来、上野東叡山寛永寺(天台宗)で修行した僧が出向く事になり、幕末の慶応年間に住職になった田北隆研(たきた おうけん)まで続いたとみる。江戸期の清水寺の末寺には梅松寺(上坂田)塔頭は@三十三佛(もと伝法山学禅寺一乗院を英山公が改名)(本吉)A天影山神光寺玄林院(塔頭・山中)が蜷藩内寺社書上に江戸初期の本寺・末寺の文書に記載されている(.)他にB十輪山三宝寺地蔵院(元禄年間建立・現存)C安国山大源寺十王院(万治年中再建・寛政5年廃寺)D放光山鳩峰寺文殊院(一乗院の側にあったが早く廃寺となる)E竹林山梅谷寺不動院(早く廃寺)が山内に塔頭が6個寺があった。  
   .     

 
享和2年(1802)の清水寺の略絵図
まだ三重の塔は無かった。

 
 鎌倉〜戦国時代の大竹山・二尊寺の末寺(蜷藩内寺社書上調査(.)


 戦国時代の南筑後の主な領主は、柳川城の下蒲池(12万石)と分家の山下城(立花町北山)の上蒲池(8万石)。その南部にある鷹尾城の田尻が領地を有していた。天正9年(1581)5月柳川城の下蒲池が滅びた後も上蒲池の2代山下城主の蒲池鑑廣(かまちあきひろ)は、東の支城の国見城、西には本郷城、坂田城、松延城の支城を構えていた(.)
 清水寺の残された古文書からは、山下城主蒲池鑑廣(かまちあきひろ)や子の家恒(鎮運の改名)からの寄進状に成円坊や清水山西方寺の書状がある。

 清水山西方寺(清水寺観音)に田を寄進した2通の古文書が寺に残されている(.)

@天正 6年(1578)12月28日付  成円坊宛鑑廣書状 上蒲池、2代目山下城主蒲池鑑廣(かまちあきひろ)が田、1町を寄進した書状
A天正 8年(1580) 2月24日付  清水山西方寺宛鑑廣 上蒲池、2代目山下城主 蒲池鑑廣がさらに田、1町を寄進した書状
B天正 2年(1574) 2月16日  成円坊法印澄顕  澄顕とは高良山明静院のこと 
C天正 9年(1581)3月付 成円坊法印宛家垣  家垣とは蒲池鑑廣の子で上蒲池3代目山下城主
D天正 9年(1581) 12月29日  成円坊法印家垣   父鑑廣の遺言どおり自家の祈祷所として保護する書状
 天正9年(1581)5月城主を引継いだ蒲池家恒の母(.)長千代から奉納された梵鐘から、周辺一帯の領地8万石を、支配し清水寺観音を鑑廣に引継き祈祷所として信仰していた(.)

 【清水寺の梵鐘】
 
 戦国時代の天正9年(1581)5月龍造寺隆信離反(りはん)の疑いをかけられた柳川の蒲池鎮並(いげなみ)は、佐賀に招き出され待ち()せていた佐賀城の軍勢に殺害され、同時に柳川城も攻め落されて蒲池氏下蒲池氏)滅亡(めつぼう)し、城へは家臣の鍋島信昌(なべしまのぶまさ)が入った(.)その襲撃騒ぎのなか、柳川の坂本町の山王(さんのう)大権現、別当最勝寺(現在の日吉神社)にある、室町時代(1449)蒲池忠久が奉納した梵鐘(ぼんしょう)を上蒲池の3代山下城主の蒲池家恒鎮運)の元に運び込まれた(.)
 その年8月、秋の彼岸に、その山王大権現の梵鐘に追銘(ついめい)を刻して清水寺観音菩薩Bに奉納された。追銘には3代山下城主の蒲池家恒の母親である(.)長千代(刻字は源長千代女)が息子の武運長久の願い@と、2月に亡くなった夫の2代城主蒲池鑑広(あきひろ)(法名・麟久)と天正6年の耳川の合戦で戦死した実父の柳川城主蒲池鑑盛(あきもり)(法名・覚久)と龍造寺軍に騙し討ちされた兄の柳川城主蒲池鎮並(しげなみ)(法名・覚英)(刻字は奕)の3名を追銘し成仏を願いA、盛大な法要と、梵鐘の開眼供養がなされた(.)
 天正12年
(1584)龍造寺隆信沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)で戦死した為、龍造寺政家が跡を継ぎ柳川城には龍造寺家晴(いえはる)が入っている(.)


 梵鐘は本堂そばの鐘楼に長年あったが、昭和14年頃に(.)三重塔を見下ろせる南の高台にある御茶屋が立並ぶ公園に移動され、より遠くに柳川を見渡せる南筑後平野に鐘の音を響かしていた。しかし(.)昭和18年の戦時中の金属供出で持ち去られた。現在では鐘楼の建物のみが、淋しく残されている(.)

<左側面縦帯の原銘>
      大明神沿用   也謹掛此    洪鐘以為梵鐘    行法器之礼   楽旦暮之間    百八声中音
<左側側面奥池の間の原銘>
      令一切衆生    入同有利  益無辺者也  宝徳元年己巳  十二月二十
<梵鐘右側面奥池之間の原銘>
      大旦那藤原忠久  次赤間田 久経    住持比丘 有仲   山鹿住大工工藤原則重
    =======================================================
<鐘を打つ正面の撞座を配する縦帯の追刻銘>
    @  旦那蒲池兵庫頭家垣武運長久心願成就也   再興干時天正九年辛巳八月彼岸  敬白
<梵鐘左側面縦帯の追刻名>
    A    麟久覚久覚奕   同証仏果故也
梵鐘背面の橦座を配する縦帯の追刻銘>
       奉寄進鐘一箇之事願主    源長千代女
       B筑洲清水寺観世音  御宝前住持比丘定舜法印 
  梵鐘右側面のみ銘文はなかった
参考引用資料・坪井良平「日本古鐘銘集成」, ()古代学研究183研究ノート木下浩良「みやま市清水寺の梵鐘について(.)

E天正10年(1582) 3月17日付   成円坊宛龍造寺政家  下蒲池を(ほろ)ぼし柳川城を占有した佐賀の戦国大名龍造寺隆信の子政家で普請用として杉6本の請求についての礼(.) 
F慶長 4年(1599) 6月12日付  清水寺宛親成  親成とは柳川藩主立花統虎(後に宗茂(むねしげ))のことで30石を寄進した書状 
G慶長 6年(1601) 7月 3日付   清水寺方院宛吉政  柳川藩主田中吉政(よしまさ)の54石2斗を寄進した書状
H元和 7年(1622) 2月26日付  清水寺宛竹中釆女正   長崎奉行、竹中釆女正(たけなかうねめ)田中吉政が寄進した54石2斗の寺領を認めた書(.)
 立花宗茂も再び柳川城主おなり田中と同じく54石2斗を寄進している。その他の古文書に次の4状がある(.)
      .
I慶長 6年(1601) 7月 3日付  清水寺宛 石崎若狭守磯野伯耆守宮川佐渡守  
その他に3月27日付の宗茂から清水寺に宛てられた祈祷に関する礼状や宝永6年7月立花勝兵衛十時(ととき)摂津由布九郎兵衛小野織部から「其の院買入植立山一円之処今度改て拜領山に被仰付候己後代々之住職に於い(.)進退不可有相違候」という清水寺領に関する重要な文書がある。清水寺には輪王寺宮光弁法親王の御筆幅物がある(.)また延宝9年10月19日の3代藩主普門院英山立花鑑虎)が寄進した「観音普門品経」1巻がある(.) 

 清水寺所蔵の寄進状は約10通ばかりである。明治20年に修史局編修官として(.)幕末の佐賀藩士で、近代日本の歴史学における先駆者である久米邦武(くめくにたけ)博士が訪れて政府の歴史編纂所である修史局に提出され、清水寺文書の全体文は太宰管内志に書載されている(.)
     
   清水寺のおもな出来事
文治 元年(1185) 壇ノ浦で敗れた平家の落人に同情して戦意をそそり味方したとして(.)源頼朝の命により平家を追撃する豊後の緒方三郎惟栄(これよし)が寺院を焼き払った。(伝承)
永禄 2年(1559) 佐賀の龍造寺隆信が寺を焼き払った。(伝承)
天正 6年(1578)  上蒲池、2代目山下城主蒲池鑑廣(かまちあきひろ)が成円坊に田、1町を寄進
天正 8年(1580)    山下城主 蒲池鑑廣(かまちあきひろ)が清水山西方寺にさらに田、1町を寄進。
天正9年(1581)   5月、2代目山下城主の妻長千代が追銘された梵鐘を寄進する。
天正10年(1582)  柳川城を攻落とした龍造寺政家が成円坊に普請用の杉6本を送ってもらい礼状を出す(.)
天正18年(1590) 柳川藩主となった立花宗茂公が清水寺再建する(.)
慶長 4年(1599) 柳川藩主立花親成(のちの宗茂)は寺領30石を寄進(.)
慶長 6年(1601) 柳川藩主田中吉政は54石2斗の寺領を寄進(.)
元和 5年(1620) 柳川藩主立花宗茂が54石2斗の寺領を寄進(.)
元禄16年(1703) 柳川3代藩主立花鑑虎(あきとら)(第2代藩主・立花忠茂の4男)公寄進の能舞台が完成。
延享 2年(1745) 柳川6代藩主立花貞則(さだのり)が阿弥陀堂と本堂下の石段と山門(楼門)を建立。
延享 3年(1746)  仁王門が藩主藩民の寄進によって建立された。
寛保元年(1741)
〜寛保3年(1743)
大神宮と地主社と毘沙門堂(びしゃもんどう)建立。
安永8年(1779)  清水寺三重塔の前身九輪塔創設(長崎丸山の遊女寄進(.)
寛政 元年(1789) 5月に大城七右衛門が発願し、上庄の鋳物師平井惣兵衛が制作した賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)()で仏」が奉納される(.)
天保 7年(1836) 柳川9代藩主立花鑑賢(あきかた)らと、その領民の浄財によって三重の塔が文政5年(1822)に着工して約14年の歳月をかけて完成した(.)
明治維新後   柳川藩主の手を離れ維持管理費は有志の寄付浄財に頼ることになる。堂塔荒廃する。
 明治44年(1911)  荒撫(こうぶ)の清水寺の修理を企画し有志の寄付浄財を集める。
大正3年(1914)   清水寺の修理工事完成。                                                 
大正12年(1923) 11月8日午前1時、狂人の為に本堂が放火により焼ける。本尊の千手観音菩薩像は無事(.)
大正15年(1926) 7月に三潴郡東部の千人同行会が本堂に掲げる鰐口(現存)を奉納する(.)8月、本堂、廊下、阿弥陀堂、舞台の再建築案と寄付勧進が開始される。予算総額28万3千円(現・4億円)(.)
昭和 5年(1930) 本吉の麓からトロッコが架設され資材を上げた。本堂は宮崎の楠木を用い完成された(.)
昭和41年(1966) 三重の塔を虫食い被害の為に瀬高町民などの浄財により再建された(.)
昭和50年(1975) 松久朋琳(まつひさほうりん)・宗琳父子の仏師により、丈六(4.8m)の千手観音像(秘仏)が復元され、旧観音像一部が胴内に納められた(.)
昭和61年(1986) 三重塔に釈迦如来座像が安置される(.)
  
  【清水寺本坊庭園
 故、岡茂政氏の柳川史話の記事に史蹟名勝(しせきねいしょう)に指定された本坊庭園について「かつて当時の県嘱託島田氏はこの庭について「自分は昭和3年に庭園の調査をして農学者・造園家の原熈(はらひろし)博士が来県の節、県内におけるつぼ(庭園)10ケ所ばかり案内した。だがどれも駄目(だめ)だといわれ、最後に自分が、かつて清水観音参詣の途中に立寄って、ちょっと良いつぼのように思った記憶から、物になるまいが余興(よきょう)のつもりで、このつぼを見てもらったが、これはいい庭だ。明日また詳しく調査しようと云うことで、それが動機で指定されるようになった(.)」と話されたが、地方人としても良い庭だくらいのことで、全国希有な名園であろうことは誰一人気付いた者はあるまい(.)全く無名の山寺の庭が偶然のことから一躍天下の名園に飛躍したものである。8月になり博士の命で内務省嘱託(しょくたく)で造園研究の新進学士の吉永義信氏が清水寺の庭園が指定の予定だからと視察に訪れた()私は吉永氏に同行したが、この庭について質問すると「別に大した庭でない。ただこんな辺鄙(へんぴ)な山寺の庭として推賞に値する。」とのこと(.)
・・・文部省指定の説明は「元禄年間のものならんと云わるるも、その築造年代明かならず。明治初年多少の廃頽(はいたい)を見たるも主要なる庭区は依然旧態を存す。三方山丘陵を以って(めぐ)らされ、後方台地の下に池又は島嶼に石を配し、松樹あり槭樹(かえで)あり山によれる清邃なる泉水庭にて佳姿にを有するものなり」とあるが、それにて其の一班が(うkぁが)われよう。この庭園について、築造者の名も分らず、また成立の年代が不明なことは如何にも遺憾に()えぬ。勿論清水寺にもこれに関する古文書はなく、地方にも何等の伝説も残っていない。文部省の指定文に元禄の頃かと推定されたのは庭の中央にある樹齢(じゅれい)200年余の紅葉が築造当時のものと考えられたからである(.)(柳川史話より)
 みやま市のホームページの清水寺本坊庭園の説明に「清水寺本坊庭園は、室町時代に画僧・雪舟(せっしゅう)が中国で学んだ山水技術をいかして築庭されたと伝えられる庭園です(.)清水連山の愛宕山を借景に岩清水をひいた心字池を中心に周囲に紅葉を配しており(.)春は新緑、秋は紅葉など、四季折々の趣があります。」とあるが、間違いである(.)広瀬・禅院集落の「建仁寺には雪舟が築いた庭があったという。藩政時代には廃頽(はいたい)しながらも、いくらか名園の面影は残っていた。」との伝承話と混同していないだろうか(.)

      詳細は 清水山散策散策を御覧ください



清水観音と三重の塔(焼失前)
   
現在の清水観音
   


       清水公園の徳永食堂より三重の塔を望む(天保7年建立の旧三重塔)
  
  【本吉の宿場町・門前町としての賑わい】

本吉は元禄8年(1695)に4代柳河藩主立花鑑任(たちばなあきたか)薩摩街道を下庄・上庄の西寄り(.)のコースに変更しするまでは、宿場町とし栄え(.)その後も清水観音を参拝する客の門前町でした(.) ところで、本吉村には明治になっても旅館が10余軒あったが(.)清水寺領内にあった清水屋館は巡礼客が(.)であったが商業町の本吉の旅館では宿泊以外に酒を飲ませたり茶屋(.)営業を行っていた旅館もあったという( )古文書にも江戸期の柳川藩の宿町には髪結(かみゆい)、風呂屋が存在し、特に風呂屋に(あか)すりや髪すきのサービスを提供した女性の湯女(ゆな)が居たことが知られている。(.)(瀬高町誌より)本吉には昭和10年頃にはあめがたの製造業者が3軒あり(.)飲食店や土産店が26軒あり農業は僅か25軒であった(
.)「よがんのん、あさがんのん」は本尊開帳の大祭である。8月9日はら10日の朝にかけて大護摩祈祷(おおごまきとう)が行われ、この日にお参りすると四万六千日お参りした功徳(くどく)があるといわれ、多くの参拝者が麓から本堂まで列をなしていた(.)

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   【清水山の水車と精粉( )
旧参道の渓谷に7つの水車が設置されていた(.)農民が麦を食べるようになった江戸期の元禄(げんろく)から享保(きょうほ)の時代から精粉の為に普及されたと言われる(.)しかし明治中期から大正初期にかけて次第に衰退し始め昭和の初期(.)には廃止されている。

河野常吉(かわのつねきち)古老の記憶( )によると明治期の水車の利用者の分布は第1は徳益・垂水・棚町から第2(.)は昭代町、第3は高柳・文広・三橋・高田・大和、(.)は松田・蒲船津・今古賀、第5は大竹・高柳・上開、第6は蒲船津・柳河・両開、第7(.)は山川村・高柳・大江・五十町・鬼橋・島田の地域から来ていたそうだ(.)

単身者の慰安(いあん)の目的もあり、村から2〜3人が組となって麦を車力で運び(.)水車小屋に2〜5日泊り込み持参した米を()き、あるいは粉でうどんを作って自炊しており、副食(.)は小屋が出す塩タラ、鯖、豆腐、コンニャクなど当時は相当に良い待遇(たいぐう)だったそうだ(.)本吉から女や子供が黒ん棒やあめがたを売りに来ていたという(.)



        南町
    
     

 享和2年(1802)の清水寺の略絵図には寺院の境内を守る地主権現(じしゅごんげん)(地主神社)や火伏せに霊験のある愛宕神社が描かれている(.)旧参道の入口には石の鳥居(一つ鳥居)と石灯籠がある(.)明治以前の神仏混合時代の名残りである。お土産屋の途切れる参道入口にありました。(.)大正期に女山梅野鉄太郎寄進(きしん)で自動車も通れるように地蔵院の南側を上る新参道建設がなされ、鳥居(とりい)は100m奥の現在の旧道に移設されました( )旧参道を歩くと川向こう岸にはお地蔵さん(.)並び子供の願いごとを祈る人が訪れていた。この先の水車小屋手前の川向こう岸にあるのが若宮神社のお堂である(.)



  三宝寺地蔵院は元禄年間(1688〜1703)に清水寺僧、隆範法印が建立する。(清水寺末寺)御本尊の、地蔵菩薩は、等身大の石仏に金箔を施したものである(.)明治期までは小谷から小道を入った所であったが新参道が建設され道路面になる(.)堂内には廃寺になった成合寺の御本尊不動明王、薬師如来(.)日光、月光、十二神将)弘法大使像が瀬高郷土史会員の尽力(じんりょく)により安置されている(.)
 元屋敷(小字名)         本吉
 元が付くので他の町より古い場所であったでしょう。商家があり東側の民家の玄関先には清水山からの清流が流れスイカを冷したり、野菜などを洗っていました。最も山里村の情緒を残し観光スポットになる所でした(.)残念ながらセメント蓋で覆われています。再現復旧したい場所です。民家の裏にも小さな小川が流れていますよ(.)
  南町(小字名)         本吉
 清水寺の参道入口の道には観光・参拝客のために休息所や御土産店があり、花見や紅葉の時期が人がたかって賑やかな時期でした。
  屋敷ノ内(小字名)      本吉
 南町からの狭い東側の道は昔の面影を残している場所です。安産の神さま諏訪神社まで散策してみませんか。
三舟山・三舟・三舟谷(小字名)本吉
本吉集落の北東部にある山間部で近年造成してグランドが整備されています。かって、この辺一帯まで(.)がそばまで侵入していた頃は小さな丸木舟が出入りしていたから起こったという説があります(.)清水寺の縁起による唐からの帰国の最澄(さいちょう)有明海から清水山の山腹に光明の光を追い、御船(みふね)を泊めた場所からの起名であろう(.)
三軒屋(通称名)本吉・県道柳川からの本吉入口八剣神社周辺
伝説の「最澄が中国の唐から連れてきた竹本王で日本名を竹本翁吉と名付け清水の地に住まわせた。彼の子供が3人出来たので、それぞれ三軒の家を作って分家させた。」がこの地であり現在も三軒屋の由来の地名が残る(.)
新町(通称名)  本吉・八坂神社周辺
寛保2年(1742)の柳川藩の記録に「本吉村に20軒の商家を新設し、清水参拝者の便に供す。これを本吉新町と称す」とある。女山の梅野六之平は私財を投じて清水寺参詣人の便宜をはかるため(.)旅館20戸を山下より移し、本吉新町と名ずけた(.)
朝倉(あさくら)(小字名)   本吉
北部にある本吉集落の入口で八剣・八坂神社があります。朝倉の地名は元屋敷地名の傍にありますし、有力者の屋敷があり富豪の倉のあった所でしょう(..)
彼岸田(ひがんだ)(小字名)      本吉
本吉集落の西側の水田です。仏教に関係する地名で、お寺の水田の意でしょう(.)
 宮ノ脇(小字名)      本吉
本吉集落の南方にある諏訪(すわ)神社の敷地の意です。
 町後(小字名)      本吉
本吉集落の南方の民家のある敷地の端の意です(.)


本吉旧バス停付近の追分地点
大正期から道路整備事業で藤の尾朝日村への道が直進整備建設される。
草場大塚村方面への県道新道が建設された(.)
●八剣神社前から草場〜
女山村唐尾
への直進化した新道が建設された(.)
●清水寺観音堂への新参道は参道鳥居か(.)地蔵院の前に曲がった道がその頃に女山の
梅野鉄太郎氏が資金と人夫を提供して建設されている(.)



大ソブ(オオソブ)(曾婦)     本吉
諏訪神社の参道の南側にある。ソブの語源による、昔の製鉄所との関係ではないかと思います。この付近から産出する砂鉄を材料にした当時としては大きな製鉄所があって(.)農具を製造していたのでしょうか。本吉地方は条理制の行われる頃までは、瀬高地方では先進地でしたから、そんな工場があっても矛盾しません(.)
  成合谷(なりあいだに)(小字名)         本吉
 蛇谷の北側の成合谷は巨刹真言宗の成合寺の所在地です。ナル。ナラの語は平坦の意で崖地の谷から運搬された土砂で埋まった小平地から成合の地名が生まれたものです(.)
  梅ヶ谷(小字名)        本吉
 本吉集落の南端にある。梅花の咲きほころぶ梅林を連想していました。ところが、梅(うめ)は埋もれることの当て字のようです。蛇谷から流失した土砂によって埋まった小さな扇状地です。地形的地名が変化したものです(.)
  蛇谷(じゃだに)(小字名)    本吉
 梅ヶ谷の上部にあり、細長いミカン園が広がった土地です。蛇(ジャ)は大きな蛇の総称であり、またジャは山の急斜面や断崖に使われている言葉です。蛇谷はへびという動物より崖地に起因しる地形語だと思います(.)
  椛本(かばもと)(小字名)      本吉 
 樺はもみじ、紅葉したかえでの意で、もみじ木が多く紅葉の見どころだったでしょう。本吉南端の所です(.)
        【お茶の歴史と郷土の人物伝】
 お茶の原産地は中国雲南省といわれ、日本へは唐の時代に中国より仏教修行の僧侶たちによって伝わりました。
1191年日本に臨済宗を伝えた栄西が筑前背振山に茶種をまき、博多に聖福寺を建立し境内に茶を植えたのが国産の茶生産の始まりとされます。この茶種が、山城宇治、伊勢、駿河と広がり現在の茶の産地となっています。
八女茶は、1423年栄林周瑞という明から帰国した僧が霊厳寺を建立するとともに、釜炒り茶の栽培・喫茶法を地元の庄屋 松尾太郎五郎久家に伝えたのが始まりとされています。

 田北隆研(たきたおうけん )(1825〜1883)は江戸上野寛永寺で天台宗を修め、慶応年間に清水寺住職となる。維新後、寺領山林が没収されることとなり、これに抵抗して寺領として保留することに成功し、廃藩置県(はいはんちけん)の折、浪人が増えないようにと茶の伝習所を設立したという(.)明治10年(1877)頃より、寺領の山林を開墾(かいこん)、養蚕用の桑と茶を植えて農業の振興につとめ、7年後には十町歩以上の茶畑を造成した(.)当時、九州では初めて玉露を生産して輸出向けとした。茶業組合を興し、初代会長となる( )明治20年には清水寺の茶畑、音羽園(おとわえん)を、安場保和(やすばやすかず)福岡県知事も見学にくるほど県下でも第一であった。外国との輸出は神戸から小川敬吉(おがわけいきち)が買いつけにきて談議所の浜より船で積み出していた( )また静岡(.)の玉露茶の伝授のために本吉の野田恵太郎松尾亀太郎の2現地で研修させ茶師(ちゃし)として養成し八女地方に2人を教師として指導に行かせて地域の発展に尽くした(.)玉露の生産は明治大正( )以来、清水山を中心に始った(.)その後清水から製茶技術を導入した星野村昭和3年手もみ玉露(.)の生産が全盛となり、昭和38年には八女郡星野村は全国一の生産地となっています(.) 以後、南筑後地方の郡産茶は統一され(.)高品質に改良された特産品「八女茶」として日本有数の高級茶として全国的に知られるようになった(.)

田北隆研
  三宝寺地蔵院  本吉(清水寺新道上がり口)
元禄年間(1688〜1703)に清水寺僧、隆範法印が建立する。御本尊の、地蔵菩薩(じぞうぼさつ)は、等身大の石仏に金箔を施したものである(.)廃寺になった成合寺の御本尊不動明王、薬師如来(日光、月光、十二神将)弘法大使像が瀬高郷土史会員の尽力により安置されている(.)
@古地図に見る山中の歴 A古地図にみる禅院の歴史  B古地図に見る唐尾の歴史 C古地図に見る小田の歴史   D古地図に見る長田の歴史
E古地図に見る坂田の歴史   F古地図に見る大草の歴史 本ページ H古地図に見る山門の歴史  表題・東山村の歴史
 
 参考文献・清水小学校百周年記念誌・瀬高町誌・柳川史話・筑後地鑑・南筑明覧・福岡県史第3巻  

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