後期旧石器時代の遺跡は本吉から小田にかけて標高50m〜300mの湧き水地そばの山麓地帯で1万5千年前の人が使った石鏃、石斧、石包丁などの石器が出土した清水山遺跡などが有名です。人が移り住みながら大型狩猟を含む活発な狩猟・採集活動が行われていたでしょう。ナイフやに石鏃使われたつやのあるガラス質の黒曜石は佐賀県腰岳・長崎県松浦半島・大分県姫島で採れたものが使われており、なんらかの流通網が存在していたと思われる。縄文遺跡も多く発掘され後期や晩期の権現塚北遺跡や坂田遺跡などが有名です。弥生時代では鉄や銅が使われた。中期の遺跡からは甕棺墓地が発掘され藤の尾遺跡からは甕棺から鉄剣が、鉾田遺跡からは細形銅剣の切先が出土している。女山の山腹から埋納された銅矛が2本出土している。古墳時代の遺跡も多く、本吉の清水三重の塔の南上にある古墳群は大正12年にその1っを発掘し副葬品も数多く出土した。茶屋から少し登った所に、今も完璧な古墳が残っており、遠足やハイキングの時に小さな入口をやっと入り石積のドームのような石室を見た人も多いだろう。このように本吉周辺の地域は遺跡の宝庫として知られています。 |
成合寺谷1号墳 (本吉825) *古墳時代の装飾古墳 |
本吉字成合寺谷の小丘、標高60mの舌縁部にある。砂防ダム建設の進入路掘削に際し発見。外観は壊され不明、内部に横穴式石室をもち顔料による彩色を、前室.後室の周壁、袖石、軒石下面、石屋形天井石(石棚)前縁部と袖石で確認されたが、現状で図文として確認できるのは石棚の前縁で赤(ベンガラ).白(白土).緑(石の地肌)の上下の三角文を交互に配して中央の菱形文の幾何学文のパターン化した図文を構成している。石室下半分を全赤色に彩色した上で石棚前縁に幾何学文の図文を施したと考えられる。これは福岡県下には見当たらず、熊本県の菊池川流域にしか存在しない。菊池川流域との関係の強さが目立ち、弥生時代から同一の文化圏であることが想定できる。私の持論、邪馬台国は菊池方面も含むを証明するものともとれる。白の使用や隣接する文様の内部を塗り残す例は筑後川流域の古墳にみられ共通性がある。本墳の考古学的な独自性の最たるは、やはり石棚と壁画に求められる。現在、封鎖され見学できません。
*石屋形風の石棚を設置し、石棚前縁のみに、三角文と菱形文を、白と赤の2色で描く
石棚前縁の写真を解りりやすくする為彩度を上げ表現しました。 (壁面装飾確認調査報告書より)
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奥壁全景

青のシートの部分 |
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【本吉の条理制遺構】
大化元年(645)の大化改新後の律令国家制度の耕地の改革、整理の条理制が実施され、筑後地区は50年遅れた和銅8年(715)に筑後守となった道君首名により大事業が行われた。この分割された遺構は下図の古地図でも見れる。昔の春の遠足では清水山公園から遠望すると、麓から西に菜の花と蓮華草の花と麦畑の黄・桃・緑の色が碁盤の目のごとく広がり、感動しながら見ることができた。条理の基本は、方六町(三十六町)を一里とし、この横のつながりを条とし、縦のつながりを里とし、土地の位置を表わすのに何条何里と呼んだ。さらに一里を36の坪に分割した。一坪は地積一町(約1ヘクタール)である。この坪の名(江ともいう)が各地に小字名として土地台帳に残っている。本吉の六ノ江は一条四里六ノ江、松田の佐ノ江は一条一里三ノ江、、大広園の八ノ坪は一条二里八ノ坪にあたる。現在、効率的な農作業と生産性を上げる為、圃場整備事業で無くなっています。 |
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北緑リ(小字名) 本吉 |
本吉西部に広がる北端の水田です。緑りは「ミドロ」のことで湿地の水田のことです。朝廷の政府の良い字を付けよの改名政策に応じ「緑り」に変化させた地名です。
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上八幡田・下八幡田(小字名) 本吉 |
本吉西部に広がる条理制が行われた田んぼの北西部あります。北広田八幡宮の神領田です。944年の神名帳に「泉澄神」があり八幡神社の以前の宮がありました。条理制後の中世期に変更された神領田の地名でしょう。 |
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鍬ノ元(小字名) 本吉 |
農作業で使用する鍬にあしらった地名です。 |
下小柳(小字名) 本吉 |
魚を採る梁(ヤナ)に関係した地名です。水路でフナなどの川魚を採れていたのでしょうか。 |
片垂(小字名) 本吉 |
どちらかに弛んだ変形した田んぼの地名です。 |
六ノ江(小字名) 本吉 |
奈良時代の条里制の遺構の名で、一条四里六ノ江にあたる。 |
小山田(小字名) 本吉 |
小さい田んぼが3枚ある場所です。小さい田んぼの意の地名です。 |
三井原 |
井は水路の意で水路に恵まれた土地でしょう。 |
穀相田 |
穀物にあしらった地名です。 |
稱宣町 |
稲にまつわる地名です。 |
鉾町 |
農作業で使用する鉾にあしらった地名です。 |
宗付 |
お寺の寺領からの起名だろうか。 |
大深 |
湿地で深みにはまる土地でしょう。 |
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諏訪神社 本吉 |
当社の諏訪神社記によると元禄16年(1703)に、本社諏訪神社の創建1200年の行事を行った記録が残っているという。江戸期以前は梅ヶ谷の山の中腹に鎮座していたそうだ。真言宗の成合寺の守護神社の可能性もある。江戸時代は柳川藩主の立花宗茂らの寄進の恩恵を受け、南筑後地方の産婦は必ず参拝して祈願をなしたという。柳川藩政時代に参拝の便宜をはかり山腹の梅ヶ谷から現在地に遷宮している。現在の社は立花藩3代鑑虎(1664〜1695)の寄進による建物である。祭神は健御名方神で本吉の産土神である。安産の御守札を出すので遠くからの参拝者も多い。
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七社宮 梅ヶ谷 |
7柱の神を祀る神社です。農耕・狩猟の神さま@御名方神、A息長帯比売命(のちの神功皇后)、B大山津美神毎年12月1日に神主さんを呼んで行事があります。小田集落では村の氏神として祀られています。
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薬樹山成合寺 本吉梅ヶ谷 |
大和時代の和銅2年(709年)に僧、頼現により開基されたとある。古義に真言宗仁和寺の末派とある。
戦国時代の田尻城主の田尻左京亮の祈願所であった。戦国末期に佐賀の龍造寺軍の兵火により焼け落ち廃寺となり、藩政時代の藩主立花宗茂により再建され、宝暦5年(1755)立花鑑通の時僧快助これを中興した。瀬高で一番古い寺だが昭和52年廃寺となり瀬高郷土史会員の尽力により御本尊不動明王、薬師如来(日光、月光、十二神将)弘法大使像を本吉の三宝寺地蔵院に移されて安置した。境内には瀬高町文化財指定の自然石梵字板碑が残っている。寺跡前のみかん山に存在する。高さ1m、横75cm、厚さ20cmである。この板碑は、加持祈願(神仏の加護を求める行法を修し、病気平癒や災いの除去などの現世利益を祈ること)が当所で盛んに行われていた名残りである。一種の塔婆で主として死者の冥福や生前信者達が供養したもの等がある。13世紀頃のものが最も古く、17世紀の頃まで及ぶ。形状は五輪卒塔婆(そとば=仏塔)が省略変形されたものと考えられている。昭和58年町指定民俗資料となる。 |

自然石梵字板碑 |
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佛町(小字名) 本吉 |
佛町は本吉西部に広がる田んぼにあります。お寺の寺領の起因する地名です。 |
南緑リ(小字名) 本吉 |
本吉西部に広がる西端の水田です。緑りは「ミドロ」のことで湿地の水田のことです。朝廷の政府の良い字を付けよの改名政策に応じ「緑り」に変化させた地名です。 |
釈迦町(小字名) 本吉 |
仏教の関連地名で近くの成合寺の寺領ではあるまいか。
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本吉 (集落名) |
清水寺の正式名称「本吉山普門院清水寺」と呼ばれたことに由来するという。本吉から分かれた草場、朝日、堤、藤ノ尾などに分村して行った人々が親村に対して尊敬と親しみをこめて、「本吉」と呼んだのが地名のはじまりでしよう。清水寺とほぼ同時代に創建された成合寺、横尾寺、少しおくれて叡興寺など一時は清水寺とは優劣なき教勢を誇っていました。(鶴記一郎氏地名より)
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【清水山公園と古墳】
南筑後平野を見渡せる、眺望の優れた公園には5〜6軒の茶屋があり、春は桜見物で賑わう。秋の大正から昭和初期頃には三池炭鉱の地下坑道を支える坑木用の松林では、松茸狩りが盛んで、茶屋に持込んで焼いておいしく食して楽しんだそうな。
昭和28〜33年頃の下庄小学校の春の遠足は、6年生が新入生の手をつないで、校門を出て、街中や農村を歩き、お土産屋の建ち並ぶ本吉の麓からは山を登り、清水寺の石段を数えながら登り清水山公園に到着。全校児童1000人程の集合場所でした。当時、広く感じた公園も御覧のように狭い場所です。昼食の弁当(巻き寿司)を食べたあとは、近くの古墳の石室に入って、組合された山石の組込まれた石室を見学した。懐かしい光景を思い出します。
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清水山1号墳
径20m円墳・複室構造の横穴式石室 |

清水山2号墳
径10m円墳・横穴式石室 |

壁面 |
天井 |

後室奥壁 |
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【清水寺】

江戸時代の後半期1742年の清水寺絵図で三重の塔(1836年(天保7)建立)はまだ無い。
赤字は記入文字を拡大表示 |
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昭和6年の観光案内パンフレットの絵図 |
故岡茂政氏の柳川史話のなかで清水寺の開祖について、『西 以三が天和2年(1682)に著した「筑後地鑑」に 「本吉山清水寺はいずれの代の建立なるかを知らず、里老が言うにはその始めは禅寺にして大竹なる二尊寺の末派なりと。天文時代の末に九州諸郡が大乱の後に、天正18年(1590)に藩主立花宗茂により再興され寺を守っていた住職なるものを法印となし、その院を清水山西方寺という。」とある。 |
久留米藩士杉山正仲と小川志純が寛政年間(1789〜)に書いた「筑後志」には「清水寺は山門郡本吉村にあり、大同元年(806)に慈覚大師(円仁)の草創にして洛東清水寺に同じ」と記してある。柳河藩士戸次求馬が文化12年(1815)に著した「南筑明覧」には「本吉山清水寺。本尊は千手大士にして人皇51代平城天皇の御宇大同元年の草創なり。天正の乱の佐賀の龍造寺隆信軍が乱入して之を焼けり。」とし、太宰管内志には地鑑および筑後志の記事を併記している。また俗説に行基というのがある。然し年代を大同元年(806)とせる処から見ると、その誤であることは言う迄もない。行基はこ考謙天皇の天平勝宝元年(749)に寂している。柳川藩の寛政5年(1793)の「寺院帳」には「本吉山清水寺。人皇51代平城天皇の御宇大同元年比叡寺開祖伝教大師開祖也」とある。 西原一甫が天保年間頃に編集した「諸国寺社縁起」には「抑当山千手施無畏の尊像は人皇51代平城天皇の御宇大同元年(806)の草創と申事は、当初伝教大師(最澄)入唐帰朝の序、九州において佛像繁昌の地を選び給うに、筑後州東山に光明かがやくを、大師不思議に思召して尋ねのぼりて見給えば、獄々たる山中に光明を放つ合歓の立木に観音の尊容顕れ給うにより、大師信心誓願を起し、直ちに尊容を刻み給う。誠に権化の妙作なり。然るにまた慈覚大師の渡唐の節新に霊夢の告あるにより、誓願を起し、帰朝の時その願をみてん為、当山に登りて重ねて一宇を修造し給う。則本吉山清水寺之なり。天正の頃堂舎悉く兵火の災にあい灰燼の中より尊像恙なく拜まれ給う。・・・」とある。
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南筑明覧や寺院帳には此の縁起によって其の開祖を伝教大師とし、筑後志は慈覚とせるものと思われる。然し最澄(伝教大師)が帰朝の途次、清水寺に立寄ったといふことは疑わしい。最澄は延暦24年(805)5月19日帰航の途につき、同年6月5日対馬に着し直に長門を経て一路京都に向ひ九州には立寄っていない。そして大同元年(806)といえば空海が帰朝した年で彼こそ九州にあって1年間も筑前観世音寺に逗留している。地鑑に何れの時代の建立なるかを知らずとしたのは無理ならぬことである。後年清水寺が日光山・輪王寺の末派として5代藩主立花貞俶の帰依を得ていたことは今も残っている寛保元年(1741)8月付輪王山宮の令旨によるも、その一班を窺ふことが出来る。寛保元年は今から194年前で柳河藩5代貞淑公のときである。』(昭和9年10月載)とある。・・・ 九州の山門郡本吉村に大同元年(806)に最澄が来た事を明らかにする天台宗の歴史資料は無い。
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【最新見解2021.10.17】
本吉山清水寺は上蒲池時代では清水寺観世音として信仰されたとみられる。江戸初期延宝9年(1681)の藩の調査「蜷藩内寺社書上」の本寺・末寺、末庵、古跡堂守などの地帳記載の二尊寺古来の末寺、無職地には清水寺、西方寺も含まれており、 延慶3年(1310)に肥後の曹洞宗大慈寺の鉄山和尚により二尊寺が大規模(塔頭6・末寺54)に開山した事により末寺になり、九州諸郡の寺院がが戦国時代の戦火により衰退するまで、続いたと思考される。上蒲池の山下城主は清水寺観世音を祈祷寺として、田1町を寄進し信仰していた。
江戸時代になり立花宗茂や立花鑑虎らにより衰退した清水寺が再興され後年、5代藩主立花貞俶が日光山・輪王寺の天台宗に帰依した事などから、本吉山清水寺は臨済宗二尊寺の末寺から手を離れ江戸期には東叡山派(日光輪王寺・上野寛永寺など)の末寺となる。それ以来、上野東叡山寛永寺(天台宗)で修行した僧が出向く事になり、幕末の慶応年間に住職になった田北隆研まで続いたとみる。江戸期の清水寺の末寺には梅松寺(上坂田)塔頭は@三十三佛(もと伝法山学禅寺一乗院を英山公が改名)(本吉)A天影山神光寺玄林院(塔頭・山中)が蜷藩内寺社書上に江戸初期の本寺・末寺の文書に記載されている。他にB十輪山三宝寺地蔵院(元禄年間建立・現存)C安国山大源寺十王院(万治年中再建・寛政5年廃寺)D放光山鳩峰寺文殊院(一乗院の側にあったが早く廃寺となる)E竹林山梅谷寺不動院(早く廃寺)が山内に塔頭が6個寺があった。
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享和2年(1802)の清水寺の略絵図
まだ三重の塔は無かった。
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鎌倉〜戦国時代の大竹山・二尊寺の末寺(蜷藩内寺社書上調査)
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