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  江戸末期の郷土史    
H・19・7・22製作 H22・1・25更新     
  
     【享保の大飢饉】
享保17年の夏、山陽、九州、四国地方を中心に、冷夏と害虫により凶作に見舞われた。
享保17年10月に不作困窮、昔も近頃も、こんな不作はなかった。」「翌年(丑(うし)年)の春になっても餓死が続くだろう」の意味であろう。
この年
7月5日から、女山
梅野六之平は飢饉にあたり私財を投じて大塚女山の名主・長百姓にはかり、貧民6等に分け、毎日503人に救米を与えた。食料不足のため人の外、作馬も領内数千頭が死んだ。六之平は近国から50頭を購入して百姓に与えている。11月になって藤の尾堤村救米を与えた。
12月の下庄に大火があって貧民が多くなり六之平は炊出しをして援助している。(旧柳川藩志より)


 
享保17年(1732)の他の古文書にも「西日本一帯は5月中旬から6月にかけて大雨、8月にはウンカ(稲の害虫)の異常発生、秋にかけ蝗虫(イナゴ)発生、稲は枯れ空前の不作、翌18年も米・麦不作で、大飢饉.餓死するもの続出する.路上でも餓死した者おびただしい。12月柳川藩領内飢民4万5千人に達する。餓死者は123名、死馬3000頭。久留米藩では餓死者1万1198人を出した。」とある。9月には柳川藩は幕府より1万両、久留米藩は1万5千両を借用する。しかし藩財政および武士階級のみに使用され、農民救済には役立なかった。堪りかねた山門郡の農民は百姓一揆を起している。藩は酒の米を食用にするため藩領内の酒造を禁じた。翌18年には柳川藩は幕府より1万5千800石を借りて救済にあたった。
隣の肥後藩
(熊本)の記録でも「享保17年5月7日より洪水13日まで減水せず、そのために田作腐れ、害虫発生、被害甚大なり。今年、夏より秋にかけ蝗虫(イナゴ)発生夥敷、稲作被害前代未聞。夏期の洪水損耗14万7800石、秋虫入損耗33万390石、合計47万8190石に上る。餓死者6125人。」とある。
     【飢餓に苦しむ領民】
 翌年の享保19年3月の書には「当年中、御国では不作困窮にて餓死多し。68人」とある。
郷土の古文書資料にも「
享保18年大飢饉、餓死者123人、食べ物ない者4500人、牛、馬300頭死滅とある。柳川藩は幕府より米1万5800石借用した」とある。

石原家記という古文書には「久留米の平坦部農村では、食物になる草木も無くなり、毎日1万4・5千人が耳納山の付近の山で「葛(くず)の根・わらびの根・猿かけ・いどろの根まで採り、樫の実類採り、樫の実をつき砕き、なんべんも水を替え、だんごにして喰う、栗ぬかに大根つき交え、日に干し、粉にして喰う、大根・藁(わら)・麦にてかい餅こしらえ喰う」と農民食生活の苦しみの一部を記録している。

この飢饉を教訓に時の将軍徳川吉宗は米以外の穀物の栽培を奨励し、この時に青木昆陽が提唱したサツマイモの栽培が広く普及したと言われている。
「光源寺(下庄田代)・西念寺(上庄)・満福寺の3つの寺が向寄り、正月八日、講中にて300人余が参詣した。功徳聚院様(真如しんにょ、天和2年(1682)−延享元年(1744)東本願寺17世法王で院号は功徳聚院)の御書(教えを説いた書)をお願いし、15日頼み入れ、17日に許可され、2月27日に吉井の某?と本吉の清蔵をお供して頂きに行き、ご披露した。

    【瀬高の大火】
 左文面には「
文政5年2月17日に瀬高上庄の瀬口より火事が起こり、本町の大部分焼け、下庄の中町に火が飛んで来て、上町中町田代新町市場(元町)入り口まで焼けた。市場口にて止まり中止」とある。
郷土の古文書資料にも文政5年2月上庄大火が起きる。上庄民家200戸が焼失。本長寺青光寺往吉宮も焼失とある。さらに飛火して下庄民家250戸、光源寺(田代)宝聚寺(談議所)尊寿寺(新町)八幡宮(下庄)松尾宮(元町)焼失とある。
また、下庄八幡宮の記録には「上庄で大火が起こり下庄までおよび社殿、宝物類はことごとく焼失した。その2年後に氏子の手により社殿が建立された。さらに弘化3年(1846)本神殿が建立された。」とある。
   【シーボルト台風(文政台風)】
 文政11年(1828)8月9日
夜、子(ね)の刻(午前0時)より大風起こり、大野潟に大潮入り、開(ひらき)には田に塩が入り、大小の木に至るまで倒れ、大古家や新家が1ヶ村に15軒が倒れ、則善寺(柳川市田脇)のお堂が倒れ、行満寺(柳川市有明)や他の家でも瓦、土、屋根を吹き離し、御城内(柳川城)の大木75本が倒れ候。人が280人死に、馬が数百頭死に、または流され死に、あるいは家が倒れかかり死んだ。また8月23日夜に大風起こり、家、大木等が倒れ候。殿様より大風にて流されたり、家が倒れて死んだ家族は札50目・白米1俵を頂き、家が倒れた者は米1俵を頂く。大野潟の250軒の家は100軒余残る。殿様より衣類を頂く」とある。
大風とは西日本を襲った台風で、難破したオランダ船から国外に持ち出し禁止の地図が見つかりシーボルト事件の発端となったことから気象学者の根本順吉が「シーボルト台風」と命名した。九州来襲時の最大風速50m/s、総雨量1300mmと推定され過去最大級。この時に有明海で高潮が発生し、隣の佐賀藩でも家屋の全壊は3万5千軒、死者800余人を数えた。
 

シーボルト肖像画
(ブランデンシュタイン家蔵)
シーボルトとはドイツ生まれのヨーロッパ人で文政6年(1823)7月にオランダ商館付き医師として長崎に着任し、鳴滝塾を開き植物学・医学の講義を行うかたわら日本の歴史・地理・言語・動植物などを研究している。江戸にて蘭学者に面接指導し江戸蘭学発展のためにも貢献した。文政11年の台風で帰国予定のオランダ船が難破し、国外に持出し禁止の蝦夷えぞ・千島ちしまの地図が見つかる。その罪で国外追放を申し渡され、妻のと娘いねに財産を残し、二宮敬作高良斎の門弟に2人の世話を頼み文政12年(1829)12月オランダに帰国。16年後にドイツの貴族令嬢と結婚し、3男2女をもうけている。帰国して30年後の安政6年(1859)63歳シーボルトはオランダの貿易会社の顧問の肩書きで長男アレクサンダーを連れて再び長崎に来て、いね、そしてかつての門弟たちと再会した。娘いねは長崎で産科医として修業していた。文久2年(1862年)に日本の外交官職の長男を残し、日本を離れ1866年10月に亡くなっている。いねは後に日本最初の西洋医学の女性産科医となり東京・築地で活躍し、明治天皇の若宮が誕生する時に出産に立ち会っている。(シーボルト記念館(長崎)パンフレット参照)

    【雹(ヒョウ)の被害】
4月29日午後2時頃東津留より瀬高両庄(上庄・下庄)に降りしきりさらに城下点(松延)に氷(ヒョウ)が降る。瀬高川(矢部川)付近では1尺2・3寸(37cm位)積る。大きさは梅の実くらいのが降り、瀬高中山吉岡大竹、さといも、大豆、小豆は、みな消えてしまい、小麦、辛子(菜種のこと)など、皆落ちる。木の葉も落ち、状態が秋冬の景色のようになった。吉井宮(正八幡宮)の松並木の参道までが降ったが、こちらは多少さらりとさらりと氷降る。3日間は氷が消えなかった。
郷土の資料にも天保8年「風雨雷鳴らして雹(ヒヨウ)が大いに降る、作物皆無の村々には辛子(菜種)の上納を免ず」「雹(ひょう)降る、太さ7〜8分位、上庄が一番強く、吹き寄せて、おおよそ2尺位積もる」とある。
辛子とは菜種のことで、菜種油の原料です。明和2年(1765)に柳河藩士戸次求馬によって著された「南筑明覧」には当時の食品、海産物のなかに明記してある。
一、およそ南筑にて土地に産する名物は  素麺(そうめん)五色素麺瀬高種辛子(アブラナの一種で種を粉にひいて調味料に使っていた)・本郷の茄子(なす)松延芹(せり)金栗大根上妻川年魚(矢部川のアユ)・蒟蒻(こんにゃく)里芋(さといも)自然薯蕷(とろろ・やまいものこと)吉井酒禅院酒(この当時は瀬高酒より名物であったろうか?)
一、海辺の産は  海月(くらげ)海茸(うみたけ)アミ(すずき)エツえぶな名吉(みょうきち(いなだ)・きすご・たこ・石花(ところてん)あさりかに総角目(あげまき)・目花蛇(めかわじゃ)姥貝(うばかい)・寄居虫(がうな)その外品多し。
一、鶴、雁(がん)・鴨(かも)・早米来葉粉(葉巻煙草?)・三池多葉粉(たばこ)・今山大根・手鎌瓜・東山松茸(清水山で昭和初期まで採取)・柳川鯉・鮒(ふな)その外多くありと記載され、往古の食生活を推察することができる。

          島津 斉宣
   
  
薩州三位中将とは薩摩藩第9代藩主島津 斉宣しまづ なりのぶであろう。天璋院(篤姫)の祖父である。天保12年(1841年)10月24日、江戸の薩摩藩下屋敷にて69歳で死去している。薩州四位中将であったので過去帳の「三位」は四位の誤記とみられる。戒名は大慈院殿舜翁渓山大居士。
天保13年正月2日に江戸より島津斉宣 の遺骨が瀬高町上庄の来迎寺(らいこうじ)に到着。翌日3日の七っ半(朝5時)に竹竿を使った高提灯やタイマツに火を灯し、御遺骨がお通りになったとある。
吉井町の満福寺前の薩摩街道を、まだ暗闇の村中を北広田村野町原町南関熊本と薩摩に向って、明かりを燈した行列が進んで行った様子が浮かぶ。
御遺骨は法要後、薩摩の島津氏の菩提寺、池之上町の玉龍山福昌寺の墓所に納められた。


9年
前の天保4年(1833年)3月23日にも同じく江戸から薩摩の墓に安置する為に、 *薩摩藩第8代藩主島津 重豪(しげひで)の遺骨が瀬高宿の上庄の来迎寺(らいこうじ)に安置し、一行が宿泊している。(本郷組大庄屋記録古文書)
 *薩摩藩第8代藩主島津 重豪(しげひで)島津 斉宣の父親であり、官職位階は従三位・左近衛権中将であった。
酒豪家で娘や息子を将軍や大藩に政略結婚を進め江戸時代後期の政界に莫大な影響力をもった。
80歳を過ぎても薩摩から長崎や江戸出向くほど頑健な人物であったが、天保3年(1832年)夏から病に倒れ、、江戸高輪邸大奥寝所にて89歳の長寿をもって大往生を遂げた。号は栄翁。瀬高宿の上庄役目の本郷組の大庄屋の古文書には、重豪の遺骨を江戸から薩摩の墓に納める為に、天保4年(1833年)3月23日、瀬高宿の宿泊した一行は上庄の来迎寺(らいこうじ)に遺骨を安置し、宿泊している。その際に、本郷組大庄屋の壇氏は火の用心など事細かに町民に達しを出している。
 
立花左近将監とは11代柳河藩主立花鑑備(あきのぶ)で、逝去した時の喪に服た町の様子である。

柳河藩主立花鑑備さま逝去(せいきょ)5月11日
町の店は喪に服し7日間休業、油搾り綿打ち鍛冶屋など音を出す仕事は10日間休業。を売り歩くのも禁止、日限は後に指示される。出船を差し止め旅人商人の出発を差し止め。神社の神楽を休止、火の用心を念入れ、生き物を殺すのを5日間禁止。音曲(音楽・歌)禁止する。日限は後に指示される。

久留米領の黒木の専勝寺の奥さんが3月19日に死去。
久留米の寺町の誓行寺(せいぎょうじ)の住職が4月10日に死去。
過去帳の立花鑑備(あきのぶ)文政10年(1827年)8月、柳川にて生まれた。幼名は、保次郎である。
兄の藩主立花鑑広(あきひろ)は江戸上屋敷で天保4年(1833)2月に11歳(公称15歳)で亡くなる。大名相続の規程では、藩主が17歳に達していなければ養子を取ることができない為に柳河藩は、鑑広の死を隠し保次郎(鑑備)8歳(公称11歳)を、すりかえる為に6月に密かに江戸上屋敷に入り鑑広の身代わりにすること成功している。天保6年に将軍家斉に初御目見えを果たし、実名を鑑備と改めた。よって公的には10代藩主である。
天保13年(1842)、正室の加代子と離別している。弘化2年(1845)11月立花鑑寛(あきともを養嗣子として迎え、翌年5月11日に柳川にて死去した。享年20才
家督は鑑寛6月に継いでいる。柳河藩最後の藩主で明治維新で知藩事となっている。
 
「流行金時ころりを除る法」/一秀斎芳勝画
*商家の妻が病(コレラ)になり、唐辛子を病人の枕元でいぶらしている。

明治12年(1879)にも山門郡内でコレラが流行した記録が残っている。

      【コレラ大流行】
日本に初めてコレラが発生したのは、最初の世界的大流行が及んだ文政5年(1822)のことで、それ以前にはコレラは見られない。朝鮮半島を経由したか、琉球からかは明らかでないが、九州から始まって東海道に及んでいる。
第一次のコレラ流行から36年後の安政5年(1858)に日本で流行した安政コレラは、米艦ミシシッピー号が清国から長崎に入港し、同号のコレラ患者が長崎にコレラを流行らせ2,000人余が死亡翌年まで及ぶ。これが東進して江戸にも侵入し市民だけでもその死者は10万人とも26万人とも言われている。この年から3 年にわたり全国各地を襲った。
あっと言う間にトンコロリと死ぬので、「三日虎狼痢 (みっかころり)」などと呼ばれ恐れられた。治療法はなく神仏に祈るのみで、患者の半数が死亡したとある。

過去帳には「安政6年8月に大悪病が流行、トンコロリンは外国船から流行。満福寺の門徒(檀家)の人だけでも8月の1ヶ月で47人の弔(とむら)いを行った」とあり、16歳や孫の記載が多く子供のコレラによる死人が多く出た事が伺われる。

 
参考資料・筑後農民生活史(近本喜続著)・シーボルト記念館資料・南筑明覧・柳川藩志・

    Email:shofuku21@yahoo.co.jp

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