庄福BICサイト              写真は女山史跡森林公園展望台からの眺め      

                         みやま市瀬高町女山神籠石(ぞやまこうごいし) 平成16年11月作製  平成18年10月20日更新  平成24年1月15日更新

 女山(ぞやま)
 女山はもともと女王山と伝えられる地で三世紀に君臨した邪馬台国女王卑弥呼の居城の地と思考されている地域である。神籠石列石は、古代の呪術が信奉されていた時代の遺物であろう、山の北部にある上権現堂(かみごんげんどう)の付近は高い(いわ)がそそりたって古代の神祭地に()せられた所であり、南部の中腹からは中型の銅剣2本の内一本は青銅(せいどう)器で中国製と考えられる。祭器が出土しており、神域であったであろう。また山一帯には古墳後期の石窟(せっくつ)古墳が何千基かあると想定され、神籠石列石内には女山の梅野氏の山の女山長谷古墳群だけで百基に及ぶ古墳が発見されハソウ提瓶、皿、横瓶などの須恵器(すえき)が数多く採集されている中にも馬具の装飾品「雲珠(うず)」は県文化財に指定され、麓の梅野家に保存されている。神籠石内側には長谷・スモウバ古墳群・日吉坊古墳群・椎拾谷(しじゅうだに)古墳群があり山全体が古墳につつまれた神域である(.)一方四つの谷に水門をもつ神籠石は4kmにわたり西に低く東に高い石垣をなしている。
 管理人庄福の仮説は、神籠石列石は敵から守る城には向かない場所である(.)西にある集落からは神籠石配列内部が見渡せ(.)古塚山を頂点としたピラミッドにも似た三角形の霊域あるいは死者の領域を平地から拝める斜面になっており防御には不向きであり神籠石は3世紀頃に築造されたものと考え(.)頂点の古塚山こそが、シャーマンである卑弥呼が鬼道を唱え、死後には卑弥呼墓となり、その下の扇状の地には連綿(れんめん)と末裔達が墓を築いていったと想像するが、発掘調査による全貌解明を期待したい。663年、朝鮮半島の友好国、百済(くだら)が唐と新羅の連合軍に攻められ滅び、百済復興の救援の為に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(のちの天智天皇)661年3月に先遣隊1万人を、662年5月には2万7千人を663年には1万人の軍隊を送り百済南部の新羅軍を駆逐(くちく)したしかし錦江の河口である白村江(はくすきのえ)の戦いで唐軍に大敗し、多くの捕虜を残し、百済遺臣と日本に逃げ帰っている(.) 
 中大兄皇子は、反撃を恐れて、大宰府の「水城」や西日本に朝鮮式山城を築き、防備を固くした。女山でも唐軍の来襲(らいしゅう)に備え、既存の神域であった神籠石石列に取急ぎ土塁(どるい)を積み、前面には逆茂木の柵を築造し平地にいる人達の逃げ()もる城に代用したのであろう。女山地区の大道端遺跡の発掘によると(.)数百の住居があったと考えられている。日本書紀などに記録がまったく残されいないのは追工事の為とみる(.)幸運にも唐軍の来襲は無かったが、もし反撃に来ていたら(.)列石の下部は平地に近く、石を並べて繋いでいっただけの神籠石に積上げた土塁(.)逆茂木では軍備の優れた唐軍にとっては、すぐに攻入ることができたであろう(.)日本書記に出てくる天智朝の朝鮮山城は戦闘を意識して石垣状に積み上げて防壁としている(.)  
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  【女山神籠石の景観】
@所在地な(.)
*福岡県山門郡瀬高町大草の女山集落の筑紫山地支脈の東部山麓部
*標高203mの古塚山を中心に山の稜線添(りょうせんぞ)いに、ちょうど首飾りを掛けたように、東が高く西側が低くなっている。。山麓最北端の横尾谷より北半分についてはまだ発掘されておらず不明である(.)
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A列石
*砂礫岩(されきがん)の切り石で、石の大きさ、長70cm、高さ67cm、横69cm(平均)石の産地は高田町亀谷という。延長約3000m。所要石766個。現在は女山の南部稜線と西の一部にに僅かに残る。口伝(こうでん)によると田中吉政が柳川城を築いた際に持ち去られ、城壁となった。昭和初期、この城の内堀を埋めた時には、神籠石の石垣も取崩され(.)干拓地の堤防築造に使われた。古代から江戸期にかけて女山付近の用水路の護岸、民家の礎石に使用され、また東部の古僧都山(こそぢやま)永興寺の礎石などに多く使用された。昭和39年には、宅地、道路を建設する為に、違法に列石の一部が削り取られている(.)行政は「歴史・文化・観光」と唱え、自分達の祖先の文化遺産を、調べもしなければ守りもしないで、どこに文化があるのだろうか(.)
*水門、北から日子神社鳥居の先にある横尾谷(よこうだに)(または粥餅谷(かいもちたに)・梅野宅の北庭にある長谷(ながたに)源吾谷(げんごたに)は開発行為で失われている・産女谷(うずめたに)(または、うめと呼ぶ)は杉本神籠園を坂を少し上がった場所にあるが一旦は破壊され(.)復元されている。横尾谷水門と長谷水門が水門の原形をとどめている。長谷水門は個人敷地あり見学は梅野宅に事前に承諾が必要(.)
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B用途
祭域(.)霊域とする学説もあります。大野城など朝鮮式山城に酷似しているため、山城説が有力視され、調査では土塁を築くための基礎とされ、この上に2m程の土塁版築(はんちく)工法)が築かれ、前面に3m間隔に柵柱と、列石背後に積み土が南部の列石の前部と日子神社(ひこじんじゃ)境内の列石の前部に柱穴が発見され、確認されました(.)間隔はおつぼ山と同様に3mである。境内の列石の内部も横縞模様の土層の人口土塁が確認され(.)幅はおつぼ山と同様に9mであった。鹿砦ろくさい式防柵があったとも考えられる。鹿砦とは昔、敵の進入を防ぐために、とがらせた木を組んで造ったかき逆茂木(さかもぎ)です。ただ土塁前面基部に切り石を並べることの特異さや(.)山城に不可欠な倉庫群がも未確認であることなど、祭域・霊域とする説もまだ見逃せない(.)
 

逆茂木復元画
 C構築年代
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祭域・霊域説では邪馬台国の女王、卑弥呼の居城と古代ロマンを唱えているが、山城説では、大化(645)以降から天智天皇4年(665)の間であろうと見られている(.)
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D昭和28年に国の史跡に指定されている。

女山神籠石展望所入口
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神籠石山城構造図  神籠石の列 神籠石列前の穴 横尾寺谷水門
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 【神籠石の名の由来】

冒頭で大言海辞典(国語辞典の祖)に神籠石について「筑前、筑後の両国内に峻険しゅんけんなる山中に方形の切石を不規則なる形に並べ環らしたる地域の名。谷を渡り、峯を上り、狭きも十余町、広きは数十町に及ぶ。神霊の地なると標せしものとの説あり、或いは城跡なりとも云う。筑後の三井郡、高良山なるは、明治以前より、か(こ)うごういしと称せられ、此の遺跡、最も先ず学者に知られたるに因りて、後に處々ところどころに発見せられたるものにも、同名に称えらる。周防国、能毛郡、石城山にも類似のものあり」とある。

 その名称の神籠石−こうごいしは、現在では、その築造目的は霊域説を排して、山城説、つまり防御機能を果たすものとされました。そうしますと字面は実体と符合しないのです。そこで、名称の由来を次のように考えています。それでは久留米の高良山地方で呼ばれている「こうごいし」とはどんな意味があるだろう。つまり「こうごいし」という昔から呼んでいた言葉に漢字を仮借して当てたもので、字義とは全く関係ないのです。「香合石」、「革籠石」とも当て字され呼ばれた地域もある。柳田国男氏は「コウゴ」というのは奇石の名称であると称えている。結局は奇石が、「こうごいし」の始源だとされている。学会においては明治31年(1898)に小林庄次郎氏が、筑後・高良山神籠石を「霊地として神聖に保たれた地を区別したもの」として紹介したのが最初である。
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【築造年代の謎】
資料@
 【誰にも書けなかった邪馬台国】の著者・村山健治は朝鮮式山城の列石は、山頂や尾根では石を外側に並べ、山頂や尾根を列石の内側に取り込んでいる。女山神籠石も同様である。けれども、朝鮮式山城の列石が塊石積み石塁であるのに対し、こちらは角石の一列ならべてある。朝鮮式山城では防寒風に自然地形を利用して、石の列を屈曲させるが、女山の神籠石では、ある角度をとってゆっくり曲げている。私も女山神籠石は朝鮮式山城の列石と思うが、両者にあるいくつかの相違点がどうも気にかかる。それにしても、たとえ城柵をつけたしたとしても、この程度の列石で軍事的な効果が期待できたのであろうか。神籠石の聖域説の「高良山神籠石研究」を発表した古賀寿氏の揚げ、その解答としよう。「天照大神が天の岩戸に隠れた。天手力男命がそれを引き出した。大神が二度と天の岩戸のもどれないよう、布刀玉命がしめ縄をその前に張った。これは古事記神話の一節だが古代人は縄を張ればその内側は聖域に也、悪い神は入れなくなる、と考えたのである。現代でも、地鎮祭には四方に縄を張りめぐらせるのも、同じ理由からである。神籠石もやはり同じ宗教感覚に立ったものである。敵が攻めてくる。敵には悪い神が突いているから恐ろしい。ところが神籠石があれば、内側はいい神だけがいる聖域になる。万一、敵が列石を突破してきても、敵についていた悪い神は列石野線で落ちてしまう。入ってきた敵は悪神がついていない単なる人間だ。いい神がついている味方には、敵を恐れる必要がなくなる。

資料A
 「古代の地方史.西海編」の中で井上辰雄氏は「その狗奴国との交戦に備え、狗奴国に接する南をかためるために卑弥呼が城柵を築いたのではないでしょうか。異常に多い七万戸という人々も単なる農村の人口だけでなく、諸国から徴発され、この地に配され防備に当たった兵士や「婢千人」に象徴されるような、卑弥呼の周辺にあって彼女に奉仕する数多くの官人や官僚、守護兵を含むものだったと思う。**黛弘道は筑後、佐賀の両平野に福岡県朝倉郡の杷木神籠石を頂点とする5つの神籠石が取り囲んでいる点に注目していてのは、極めて興味深い指摘である。この神籠石が築かれた年代が果たして三世紀のさかのぼるかは疑問としても、女山の産女谷の神籠石の列石から中広の銅矛2本が発見されたことは、女山は弥生時代の遺跡であったことを認めなければなるまい。仮に神籠石の築造が6世紀以後のものとされても、それらの城柵は卑弥呼の時代の遺構を拡大し継承したことも考えられからである。」と語っているが決定的な築造年代に及んでいない。
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資料B
 佐賀県政百年記念企画、昭和58年出版。「ふるさと。人と風土」の中に「磐井いわいの乱は中央政権に対する九州勢力の単なる反抗とはいえない。日本列島で天皇制による統一国家が名実とも成立する七世紀代に向けて各地で進められていた統一国家形成の動き、つまり九州では筑紫君磐井を頂点においた統一国家形成への動きがあつた訳であり磐井の乱は畿内勢力と九州勢力の国家統一をかけた最後の統一戦争だと考えられる。**各、山城は、配置が筑紫平野の防備を中心になされており装飾古墳の分布状況と一致している。土塁の築造技術は5〜6世紀の古墳の墳丘の築成と共通するものであり、水城にみられるような版築工法とは異なる。したがって神籠石山城の大部分は5〜6世紀古代国家成立道程における各地豪族連合による築造と考えたほうがよい。磐井野乱後、畿内大和政権は急速に九州に勢力を伸ばし地歩を固めた」と述べられている。
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なお神籠石は当時としては国内的では一大工事だったに違いありませんが、記.紀その他の記録に全く見えないのです。このことは却って、中央政府の方に何か意図があったかと不審を覚え磐井の乱時代の築造を意識せざるを得ません。さらに地方史の碩学、矢部一貞も神籠石築造を磐井時代としているのです。
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(築造した人物)
次に神籠石の築造に当たったのは、群集墳を営んだ人々、つまり大道端遺跡調査で発見された大集落であるとともに、鉄製品を製造していた高い技術を持っていた農民集団だったのでしょう。又その人々は、既にみたように、百済からの渡来系と土着の弥生系の混血した集落の人々だったと思考する。
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【築造の背景となった磐井(いわい)の乱】

@反乱の誘因、大和政権の内紛など
崇神天皇が三世紀末に大和朝廷を開いたといわれ、その後応神天皇が4世紀末に崇神王朝を亡ぼして登場します。応神王朝の畿内豪族の連合政権は勢力を四方に伸ばして行くのです。五世紀中頃から豪族のの争いが激化して安康天皇の殺害、天皇家と大豪族葛城氏の争いなどが起き、応神王朝最後の武烈天皇には子供がなかったので継体天皇が皇位を継ぐが皇統との血縁で政権は内紛を起す
磐井は一時朝廷に奉職しており既に知っており朝廷に不審、不満を抱いていたのではないだろうか。加えて大豪族吉備勢力が反乱を起し、また南朝の経営は後退する状況で磐井の乱は起った。磐井は大和政権は畿内だけの支配圏だけでしたから、九州の豪族が連合して立ち上がれば九州王朝樹立も夢でなかった、しかし畿内側はこの情報を素早く手に入れ、意表を突いて九州に攻め込んだのではないでしょうか。
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A九州王朝
その豪族連合とは、磐井の直轄地筑紫(築前、筑後)、それに(肥前、肥後)、加えて−とよ(豊前、豊後)を捲き込んだ広範な地域。さらに吉備地方とは精神的な結びつき、朝鮮半島に対する海の制海権を押さえ、まさにその頃の日本の一半が九州連合に参加し結束が固められようとしていた。九州連合側では神籠石山城を築きながら、長期戦を考えていたが、畿内の動向を探る情報に乏しく、さらには国内平定戦、半島での実戦など百戦練磨の中で、武器、戦略において畿内側は九州を圧倒していたのでしょう。
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B乱の終結
大伴金村(おおとものかなむら)物部麁鹿火(もののべのあからび)は527年6月より1年5ヶ月、528年の末には御井郡で磐井を斬殺し、子供の葛子は父の罪に座して殺されることを恐れて粕屋郡の屯倉をたてまって一件落着と、日本書記には伝えてある。ところが「筑後風土記」の逸文には磐井は豊前に逃れたとあります。真実は分かりません。
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趣味の古代吉備へのリンク記事

*坪井清足によると「古代山城には@神籠石系山城と、A日本書記に出てくる天智朝の朝鮮山城がある。
@神籠石系山城は女山神籠石をはじめ福岡(大野城を除く)佐賀、山口の山城は、神籠石の列石を廻らせ、その上に版築工法(朝鮮山城では百済にしかない)で土塁を築き、山を取り巻いている。
A日本書記に出てくる天智朝の朝鮮山城には神籠石の列石が見つかっていないし、版築工法は用いていない。
朝鮮式山城については諸説が入り乱れているが、私はこの神籠石系山城は、在地の勢力が外敵に備えて独自にきずいたもので、天智朝の朝鮮山城の7世紀よりもっと古い5世紀の「磐井の乱」の時の九州側の大和に対する防御陣とみえないこともない。

【建築目的(5世紀建造の場合)】
「この高地性弥生集落の後身というか、その発達した形というか、それが古代朝鮮式山城なのです。最初は敵に見えない高いところに住みましたが、農耕には平地がいいので、平地にだんだん集落を移していく。移してくるけれども、敵に対する備えというものがやはり必要であり、いったん緊急の場合に逃げ込む場所を彼らは確保したわけで、それが山城です。」(日本古代史と朝鮮(金達寿著))
「朝鮮では『城下』といわないで『城内』と呼んだように、朝鮮では要するに、いったん戦争になれば人民もみな城の中に避難したのです。ですから朝鮮では古代山城を一名『逃げ城』とも呼んでいます。人々が逃げ込む城、これが朝鮮式古代山城です。」(講談社学術文庫702)より
【瀬高歴史資料館説】

「神籠石と呼ばれる遺跡は、福岡県内を中心に9ヶ所ある。その遺跡は山塊地形を利用した石列、水門の連なりである。**遺構の名称は、高良山神籠石が高良玉垂宮を取り巻くように発見され、その境内図の中に「神籠石」の文字があったことから付けられた。しかし各神籠石の発掘調査が重ねられた結果、現在では古代の山城遺構であることが略々断定されるまでになっている。
神籠石の構造は、列石に沿って土塁を築き上げ、谷筋には渓谷の流水を防ぐために水門を開けた石積みを施し、山頂部全体が防御壁によって保護されて、外部からの侵入を阻止できるように配慮されている。その構築技法から、「日本書記」等に見える大野城(糟屋郡宇美町外).基肄城(佐賀県基山町外)金田城(長崎県美津島町)などと等しく、朝鮮渡来の技術者によって築かれた朝鮮式古代山城」遺構の系統に属する者と推定され、その築造時期は古墳時代の後期、特に、唐.新羅日本.百済による白村江(はくすきのえ)の海戦(韓国・錦江河口辺り)があった7世紀中頃の緊張した時期、6〜8世紀の間と考えられる。勿論、その分布.規模から大和政権による国家的事業として築造されたものと見られる。」と白江村の海戦(663年)時期、唐、新羅からの防衛の為大和政権の築造と見ている。

白江村の海戦」とは七世紀半ば、朝鮮半島。を競う高句麗(こうくり)新羅(しらぎ)百済(くだら)の三国による争いの末、660年、大国・唐の援軍を得た新羅百済を滅ぼした。百済は、仏教をはじめ大陸文化を伝えてくれた大切な国。日本は百済の残党の求めに応え、派兵を決断した。数次にわたり、何万もの軍勢が対馬海峡を渡った。決戦となったのが、663年8月28日、現在の韓国・錦江河口辺りで繰り広げられたとされる「白村江の戦い」だ。白江村の戦いについては管理人、庄福の「韓国歴史の旅」を御覧ください。
【まとめ】
遺跡の発掘も未確認が多く全貌はまだ謎のままであり、神籠石系山城天智朝の朝鮮山城では下記の写真や説明でも明らかに年代による築造技術の差が視られ朝鮮山城では城門や建築物跡が確認されさらに高度な技術による築城と推測される。さらに今後の発掘調査結果に期待を持ちたい。
神籠石系山城
5世紀の磐井の乱における九州側の築造
@ある角度をとってゆっくり曲げ角石を配列
A配置が筑紫平野の防備を中心になされており
 装飾古墳の分布状況と一致して工法が似ている
B神籠石の列石を廻らせ、その上に版築工法をとる
C記録がまったく残されず築造人物、目的不明
天智朝の朝鮮山城
7世紀の白江村の戦いにおける大和政権の築造説
@自然地形を利用して、石の列を屈曲
A百済の技術者による高度な建築
B日本書紀に記載の城は塊石積み石塁である
C11ヶ所の城と目的を記載(下記の6ヶ所解明)
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名称 神籠石系山城所在地説明(磐井の乱の527年頃と思考) 現地写真
 高良山(こうらさん)
(久留米市)
福岡県久留米市の高良山の南側の約1,500メートルにわたり約1,300個の列石が確認されています。北側にも石があったと推定されますが、確認できていません。
この部分は『日本書紀』にも記述のある、天武7年12月(679)の筑紫の大地震で崩壊したと考えられます。

神籠石という名称はもともと参道の中腹にある、現在は馬蹄石と呼ばれるものを指していたのが、列石が明治31年に高良山神籠石と紹介されてから、同じような遺跡を神籠石と呼ぶようになりました。
 女山(ぞやま)
(みやま市)
福岡県みやま市瀬高町女山にある。
隣の高田町の竹飯の山から1m内外もの長方形の石を、切り出して、山の上に運び上げ,延々3`近くも整然と並べるというのは、当時でも大プロジェクトであったろうと想像できます。
それだけの権力を持った人物は誰だったのか、何の目的で作られたのか、妄想が膨らみます。女山ぞやまは古来女王山とも呼び邪馬台国の九州の山門やまと説で論戦の舞台であり、卑弥呼の里として注目されている。明治29年(1897)4月、永興寺の住職・加藤良順氏の不思議な列石として郷土史家石田昌氏を案内して発見
 おつぼ山
(佐賀県武雄市)
佐賀県武雄市橘町にある。
昭和39年調査で列石の背後に版築によって築かれた土塁が存在すること、
また列石の全面に三メートル間隔で堀立柱の痕跡が見つかったことから山城である事が確定的となった。柱間隔の距離から唐尺の使用が考えられることから築造期間は7世紀中期ではないかと推定されている。しかし郭内の遺構については未確認であることや築造主体などについても不明であり、その全貌は依然謎に包まれたままである。昭和35年に発見。
 雷山
(前原市)
福岡県前原市の雷山(標高955m)の北中腹、標高400 〜480 mの山中に築かれた古代山城です。
城の範囲は東西300m、南北700mほどと考えられる。ここからは糸島地方のみならず博多湾や玄界灘まで広く一望できます。
遺構としては現在谷の南北に築かれた水門とそれから東西に延びる列石群を見ることができます。南水門には列石の下部に設置された「暗渠」様式の水門跡と石塁の一部に水樋を設けてそこから流水する水門跡の2種類の水門跡があります。さらに、南水門一帯には門跡らしき列石の切れ間を2ヶ所確認しています。
北水門は切石を長さ12m、幅10m、高さ3mに積み上げた強固な造りを見せています。また、水門の東西両端からは列石が「ハ」の字形に開きながら尾根頂上に向けて急斜面を登っています。明治33年以前から知られていた。

 水門
 御所ヶ谷
(行橋市)
福岡県行橋市西南部と京都郡勝山町、犀川町とが境界を接する山塊に位置し、そのほとんどは行橋市側の南斜面ある。
列石東端部にある標高247mのホトギ山を最高所とし、その延長は約3kmにおよんでいる。土塁は高さ約5m幅約7mで質の異なる土を版築工法により積み上げている。
また列石全面では他の神籠石同様に柱穴が検出されるとともに版築土塁中からも検出されており、築造過程を探るうえにおいて貴重な資料を提供している。
中門石塁は上下二段に築き、下段に水門を設けた姿は神籠石のなかでも類のない雄大なものである。明治41年小倉中学校長の伊東氏により発見。

 水門
 鹿毛馬(かけのうま)
 
(頴田町)

福岡県嘉穂郡頴田町にある。
平成9年度までの調査の結果、水門部(西側谷部分)の2つの暗渠と版築による土塁の様子が分かりました。
今回の調査で土塁中に直径45cmの柱を発見し、約3m 間隔で8本を列として確認できました。
以前から確認されている約3m間隔で列石前に設けられている直径約30cmの柱と今回発見された土塁中の柱 を組み合わせ、さらに板材を使用し、列石を基礎に据えた土塁を築いたと考えられます。
土塁中の柱列の存在は、古代の版築という土木技術を知る上で大変貴重です。暗渠はどちらも全長約18mの規模で、土塁幅は約9mを計り、柱の間隔3mを単位とする工事の規格性が伺えます。明治33年八木奨三郎により発見。

 杷木(はき)

福岡県朝倉市杷木地区にある。
神籠石(こうごいし)は長尾城と鵜木城(うのぎじょう)をとりまくように、およそ2kmにわたって縦横70cmほどの大きな石を並べ土塁を築いています。
2ヶ所の水門も見られ、昔の土木工事の素晴らしさが伺えます。

「神籠石」は、全国でも珍しいもので、国指定史跡になっていますが、まだ誰が、いつ、何のために作ったのかはっきりしていません。高台にある東屋からの眺望は素晴らしいものです。近くにおらび坂伝説の長厳様(ちょうごんさま)を祭った長厳社や、泥打ち祭りで知られる阿蘇神社があります。昭和42年に発見。

 石城山
山口県熊毛郡大和町にある。
明治42年秋、西原為吉氏(福岡県瀬高町東山村出身)によって発見され、それまで九州でしか存在しないとされていたこの大遺跡が本州でも発見されたので、考古学界の注目するところとなった。
列石線は、南側鶴ヶ峰近く標高342mを頂として下向きに廻り、石城五峰(高日ヶ峰・星ヶ峰・鶴ヶ峰・築ヶ峰・大峰)を取り囲み下部は、北水門たりで、標高約268mまで下がっている。列石線の総延長は2533mにもおよぶ大規模なものである。
列石線が谷間を横切る場所には、高い石垣壁を築き、その中央下部に水門を設け、北水門東水門がある。
 鬼の城
(岡山県総社市)
岡山県総社市にある。
壁は、要所に高石垣を交えつつ、強固な土塁を2 .8Kmにわたって巡らせています。城壁は幅約7m、高さ約6mあり、外・内側に平たい石が1.5 m幅で敷かれています。この敷石は城壁を守るために設けられたと考えられます。
城壁の谷部には水門が設けられています。現在6か所確認されており、いずれも下半部が石垣、上部が土塁の構造です。この水門は城内の水を管理するための排水口です。

城門は東西南北の4か所にあり、いづれも通路部分に敷石があります。西門・南門はほぼ同規模の門で、12本の柱で支えられた楼門と考えられます。西門の近くには角楼と呼ばれる防御施設があります。城内は、30haに及ぶ広大さで、城庫とみられる礎石建物跡も6〜7棟発見されています。他の神籠石遺跡のなかでも、高度な城造りと想像できる。


  水門
 帯隈(あぶくま)
佐賀市の北部山麓にある帯隈山(おぶくまやま)に築かれた古代山城の跡といわれています。

昭和16年に発見され、昭和39年に発掘調査がなされました。切石を並べた列石線は北側山頂部から下って南側山すそを廻り、馬のてい鉄のような形になっています。石は花崗岩(かこうがん)で、高さ60センチメートルほどの直方体に切りそろえられています。昭和元年3月に発見。
写真、記事は各市町村の公式資料などによる。
名称 日本書記に出てくる天智朝の朝鮮山城説明(白江村での敗北の663年頃) 写真
 大野城(おおのじょう) 福岡県大野城市にある。
天智天皇4年(665年)の秋
、8月には百済の貴族を遣わせて、長門国(山口県)・筑紫国に城を築きます。
同じく百済の貴族を筑紫国に遣わせて、大宰府の北2〜3キロメートルにある大野山<四王寺山・大城山>に大野城(おおのじょう)を、大宰府の南約10キロメートルにある基山に基肄城(きいじょう)が築かれました
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大野城市・太宰府市・宇美町の3つの市町にまたがる巨大な朝鮮式山城です。大野城がつくられたきっかけは、663年、朝鮮半島の南部にあった百済(くだら)という国を助けるために送られた日本の軍勢が、白村江(はくすきのえ)という所で唐(とう)・新羅(しらぎ)の連合軍と戦い、大敗北したことにはじまります。これに驚いた日本ではすぐにも唐・新羅軍の来襲があると考え、敗戦後数年のうちに各地に城を築き、防人(さきもり)を配置し、全国的な防衛体制を整えました。
大野城もそれにともなって665年、佐賀県基山町にある基肄城(きいじょう)とともに九州の政務をつかさどる大宰府を中心とする防衛システムの一環として造られました。また同じ目的で前年に造られた水を貯えた堀をもつ防衛施設の水城も近くにある。今現在、大野城に当時の建物は残っていませんが、古代の山城の姿をほうふつとさせる見所がたくさん残っています。

  礎石群

 石垣
 基肆城(きいじょう) 佐賀県基山町にある。基肄城(きいじょう)は、天智天皇4年(665)唐・新羅の侵攻に備え、大宰府防衛のため築かれた朝鮮式山城です。筒川の谷を袋状に囲む稜線に4kmにわたって土塁を巡らせ、谷の出口を石塁でふさいだ約70haの地域が城内でここに40棟以上の建物がありました。
今に残る土塁・石塁・問跡・水門・礎石などから当時の国防施設をしのぶことができます。明治33〜41年の間に発見された。

 
礎石群
 金田城(かねのき)

長崎県対馬市美津島町黒瀬城山にある。
日本書紀には天智天皇6年(667)「対馬国金田城を築く」と記載されており、白村江(はくすきのえ)の戦い(663)で日本は大敗し、朝鮮半島より撤退を余儀なくされた。

ここに大和朝廷は唐・新羅の攻撃に備え烽(とぶひ)、防人(さきもり)を壱岐・対馬・筑紫に配置した後、この城山に壮大な朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ)を築いた。

文献資料にみられる朝鮮式山城は11ヶ所で、うち遺跡が確定しているのは金田城、大野城(福岡県太宰府市)、基津城(佐賀県基山町)鞠智城(熊本県菊鹿町)、屋島城(香川県高松市)、高安城(大阪府八尾市)の6ヵ所である。
金田城は朝鮮式古代山城と呼ばれるもので、石塁や土塁を築き、城門や水門を構え石塁の延長は2.8km に及び、低いところで2〜3m、高いところでは4〜5mに達する。城壁は東側の3つの谷を抱えこみ、北から順に一ノ城戸、二ノ城戸、三ノ城戸が設けられている。


写真、対馬市観光案内より
 屋島城  高松市屋島にある。
その遺構として西麓の浦生(うろ)から鑑真ヶ谷に登る山道沿いに石塁跡・櫓跡(やぐらあと)が見られる。
屋島は頂上が平坦で、その周囲に切り立った崖があります。その地形を利用しており、崖を外郭線と呼ばれる防衛ラインに見立て、崖が途切れたところに石積み(石塁)や土盛り(土塁)をしていました。頂上には、倉庫や見張台の建物、貯水池があったと推測されています。

城門は南嶺西側の外郭線で確認され、幅約5m、奥行き約10mで、両側の側壁は石を積み高さは1.5m以上あります。床面は3段の階段状で、敷石をしたり、岩盤をそのまま利用し、さらに排水溝を備えています。


 
四国新聞より
 高安城  大阪府八尾市にある。
平成11年に大阪・奈良府県境の高安山(488m)の7か所で発見された、「横積み」と呼ぱれる石の積み方で、同時代の古墳の石室と共通するうえ、大きさなども古代の山城・鬼ノ城(岡山県総社市)と類似。「日本書紀」では天智天皇6年(667)に「倭国の高安の城を築く」とあり、奥田研究員らはこの石垣が高安城の城壁ど判断。
高さは10m以上と推定される。
山頂の東の奈良県平群町久安寺でも、幅15m、高さ8mの土塁状の土手に石垣を加えた施設を
長さ20mにわたり確認。水門らしい地形も残り、ここが城壁の東辺とみられる。

 
読売新聞より
 鞠智(きくち) 熊本県菊鹿町にある。
鞠智城は、朝鮮半島・白村江の大敗北(663年)を契機に、当時の大和朝廷が威信をかけて築きました。八角形の塔や米倉をはじめ、遺構、トンネルなどが出土している。

7世紀頃の日本は、中国大陸や朝鮮半島と極度の緊張関係にありました。663年には朝鮮半島に出兵して、白村江(はくすきのえ)で唐と新羅の連合軍と戦い大敗を喫しました。このことに危機感を覚えた大和朝廷が西日本の各地に11の古代山城を建造し、そのうちの一つが鞠智城なのです。
文献によると
天智4(665)年に築城された大野城・基肄城と同時期に修理されていることから、鞠智城が築かれた年代は、大野城・基肄城と同じ6世紀後半のことと考えられます。
 しかし鞠智城は、他の古代山城と異なり、内陸部に位置していることから、当時九州を統治していた大宰府政庁(福岡県太宰府市)や前線基地の大野城(福岡県大野城市)・基肄城(きいじょう・佐賀県三養基郡基山町)に
武器や食糧を供給する兵站(へいたん)基地だと考えられています。

2003年国指定文化財になり、歴史公園として整備され現在は鼓桜と米倉と兵舎が復元されている。
当時の想像図 (復元米倉)

西側城郭 画クイック
写真、くまもとの公園より

歴史公園(復元鼓桜)

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