みやま市山川町の歴史散歩
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   面上国の里と平家の里】
 みやま市は、古くは邪馬台国ゆかりの地であり、山川町北部にも貴重な遺跡や古墳が残されている。2世紀始め邪馬台国成立以前の「倭面上国」と想定するに適した遺跡の数多い古代ロマンを秘めた「面上国の里」である。

 中原地区を流れる要川は壇ノ浦の戦いの後、源平の最後の激戦地であり、今もその平家の伝説や言い伝えが残る「平家の里」として古くから知られています。

 町を縦断する旧街道筋の原町では江戸時代には道中大名の休憩所馬役所が設けられ、宿場町として栄えた。また御牧山には柳川藩主立花鑑虎(あきとら)公が牧場を創設した軍馬農馬の育成所跡のお牧山公園があり馬頭観音堂が祀られている。

 藩政時代柳川立花藩に属していたが、明治40年1月1日万里小路村富原村竹海村及び緑村の一部が合併し山川村を設置した。
 大正10年、瀬高町から熊本県南関町まで当町を縦走する東肥鉄道が開通し、村内に野町ちくご原町北の関の三ヶ所の駅が設置され、当時唯一の交通機関として利用されたが昭和13年に廃止された。
 昭和44年4月1日村勢の飛躍的発展を図る意味において、町制を実施し、平成19年1月29日に瀬高町・高田町と合併し、みやま市が誕生しました。
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 古代古墳    倭の面上国を探る
 みやま市山川町には古墳時代の遺跡がたくさんあります。九折(つづら)にある「大塚古墳」。全長(南北)約44m、幅(東西)25mの前方後円墳で、近隣では類をみない大規模なものです。特にここからは、天皇家の御陵や、磐井の墓と伝えられる岩戸山古墳など、貴人の墳墓からしか出土しない埴輪の“蓋”の破片が発見されました。ここを中心に、北に蛇谷古墳、南に面の上古墳クワンス塚古墳などがあり、魏志倭人伝にいう「棺あれど槨(かた)なし」に当たる、石棺直葬の前期古墳と考えられます。

 「
面の上古墳」は、旧道(太閣道)と国道443号が交差する地点にあります。洪積期に形成された扇状地の台地上にあり、まわりには2、30基ぐらいの古墳があったと想定される場所です。この古墳からは、石棺、人骨、鉄剣、鑑、釧などが発見され、特に人骨の左手に長さ61.8cmの両刃の剣が副えられており、その柄の部分は、貴人しか持つことができない“鹿角装の剣”の特徴があり、身分の高い人の墳墓ではないかと言われています。また、四匹の獣の形を肉彫りにした、古い時代の銅鏡(直径12cm)が人骨の手の間に伏せてありました。これは“四獣鏡”と呼ばれ、よく知られている“三角縁神獣鏡”よりも古い時代のもので、船山沖ノ島から出土した鏡と同じ貴重なものです。この古墳は副葬品などから、古墳時代の前期のもので、みやま市のなかでも古いものと考えられます。
面の上古墳(現在公園) 九折大塚古墳 クワンス塚古墳

   たたら製鉄跡        河原内イモジ・鍋谷
 蒲池山の大堤の北東の山にイモジ・鍋谷の地名があり、この付近は古代からの製鉄や鋳造の遺跡がある。現在は開発によって全貌を知ることが出来ないが、2ヶ所から「鉄滓(てつかす)」や「ふいごの羽口」が出土している。たたら製鉄とは直径70cm、高さ1mの炉でできており、竹の筒を長く継ぎ、「ふいご」を作って送風した。また山の崖の上昇気流を利用したと思われる。高田町の田尻、田浦からも出土している。弥生後期から古墳前期の遺跡と思われる。

   【源平合戦】
 12世紀中頃
、平家は、宿敵源氏をほぼ全滅させ,強力な権力を持つたが、権力を失った源氏が再び息を吹き返した。平家と源氏の戦い、「源平合戦」(治承・寿永の乱)が双方の間で平安時代末期1180年1185年にわたって繰り広げられた。
 1184年一ノ谷の戦い屋島の戦いで敗れ下関に退いた平氏軍を源氏軍が追撃した。

 1185年3月壇ノ浦の戦いで平家の総帥平宗盛(たいらのむねもり)安徳天皇と神器を奉じ、源義経(みなもとのよしつね)を総大将とした源氏軍を迎撃激戦の後に宗盛は生け捕られた。二位の尼(にいのあま)平時子は外孫のあたる安徳天皇(8才)を抱いて、「浪の下にも都の候ぞ」と言聞かせ海中に身を投じて自殺し、平家が完全敗北となる。しかし生き残った平家一門は九州に逃れ、郷土の地で最後の決戦に挑むのである。      
一ノ谷の戦い 源氏の軍船に追い込まれ
入水する安徳天皇と二位の尼
     義経と弁慶

   【源平の最後の激戦地―要川】  山川町重富・高田町舞鶴(湯摺地区)
 要川は源平最後の激戦地としての伝承がある。文治元(1185)年3月、平家栄華の夢破れて壇の浦で敗れ生き残って九州に落ちのびてきた平家一門は、やっと太宰府に逃れる。だが源氏の追討の手ににあい南へ南へと遁れ、久留米の竹井城主草野永経(ながつね)を頼ったが相手にされず筑後の山門本吉山にある清水寺に加勢を求めた。船小屋の北方尾島においても源氏の大群と戦ったが敗れ去った。九郎原から中山上庄下庄吉井の里から清水、そして野原庄へと逃れた。小桜威の鎧(よろい)も無惨に引き裂かれ、弓弦は切れ矢はすでに尽き果てて、ついに狩道(かりじ)の駅(山川町尾野)に着いた。
そして天台宗である
清水寺の僧兵数千人と近郊の法師土豪の力添えを得た平家軍は、ここ山川の地を最後の戦いの場と決め、要川周辺に背水の陣を敷き源氏軍の追撃を持った。しかし、琴平山の見張台、大物見から源氏の軍兵を待ち受ける平家武将が見つめていたものは、時の運に見放された平家一門の歩んできた道ではなかったか。
 

そして、平家は押し寄せる源氏の大群の前に勝つ術もなく、
中原の戦いで決定的な敗北を喫した。斬殺された者の血で草も木も朱に染まり、川面も血の色に濁り流れたというところから、血波川とも名がつけられた要川である。

 清水寺など平家に味方した寺社は源氏軍の豊後の武将緒方三郎に建物を焼き払われた。矢つき、刀折れ、生き残ったものもわずか。ある者は山や谷に逃れ、ある者は南を指して逃れ行き、散々に落ちていったと言われている。平家の姫君たちは、もはや逃げることも叶わず四方を断崖に囲まれた
中原の奥深くの森に分け入り、今を限りと瀧に身を投じた。また捕らえられた平家の武将たちは、各地で首をはねられた。松風ノ関平家台中原平家の塔湯谷平家墓小萩平家墓現人神さては中原七霊宮等激戦の様相を残している。
 【物見塚
小萩村の小高地で要川最後の決戦の時に平家軍の物見の指揮所跡の伝承の地。ここからは要川を眼下に遠く野町・飯江方面を一望のもとに見渡すことができる絶好の物見の場所である。この小高地の頂上には山川で最も古い文献に出ている長久3年(1042)建立の天満宮がある。
物見塚 頂上の天満宮 野町・飯江を望む
源平の最後の激戦地「要川」 平家の塔

 
「小萩より湯摺り出てたる要川扇の高さ血波立つらむ」と詠じた。
 これは平家某氏の辞世の歌と言われている。

山川町は、源平の合戦にまつわる伝説や言い伝えの多い所で、文治元年(1185)に建てられた供養五輪の塔の残欠が三基残されており、「平家の塔」として町内の篤志のかたが大切に祀っておられます。
ここ
要川平成8年、水辺公園として開設され、清き流れに魚釣りを楽しむことができ、憩いの場としての利用者も多くなっている。

  やまかわ平家まつり
2年に1回、3月の第3日曜日に行われている。8月16日に行われる光のページェントのローソクの灯し火は美しい。


        
                          
(やまかわ平家まつり)

   平家の七人の女官を祀る七霊宮(しちろうぐう)  山川町甲田字松葉谷
 要川の合戦で敗れた平氏は、ちりじりになって落延びる以外に道はなかった。多くの女官達も彼らと運命を共にしました。その女官達の中の七人の上臈(じょうろう)(身分の高い女官)にも、追手が迫りこれまでと覚悟を決め、要川から待居川(平家が源氏を待ちうけたことによる命名)をさかのぼり、昼なお暗い森の中の滝壷に身を投げて果てました。里人達はその死を哀れんで、瀧のそばに祠を建てて祀りました。

 それから誰言うとなく瀧を「しちろうの瀧」、社を「しちろうぐう」と呼ぶようになったと言い伝えられてきました。
言い伝えによると、この七人の女官は滝壷に身を投じた後、「なまず」に化身したと言われて来ています。
後に里人が大水でこの社のご神体が流されたとき「なまず」がくわえて助けたと言う話が残っていて、それ以後この地方では「なまず」を食べない風習が、待居川は元より飯江川中流域まで残されています。
また、一人の女官の遺体が飯江川を流れ下り
海津
(高田町)に流れ着いたので、海津の人たちはこれを葬り祠を建てたそうな。
   
 七霊宮 七霊の滝  
          
   平家台
 中原のマテゴ川と小萩川の合流点を要川という。平家の最後の戦場であるが、この要川の決戦に敗れて退却せし、平家は、次第に南に追いつめられた。要川の上流北ノ関原の戦死者は松風ノ関内に葬り、これを平家台と称した。
東西八間、南北六間くらいの大塚であったが、是も東肥鉄道敷設により、坪数を減じているが、相当大きな独立小島のような塚で、大きな供養塔が建っている。
  平家落人の里     平・谷軒(たんのき)・五位軒(ごいのき)
 落武者となった五人の平家武士は肥後の山奥の五家荘へ、また浦河・難波・若宮・是永・加藤・鳴神の六人は柳川沖の端に逃れ永住した。今も、柳川北原白秋記念館のすぐそばの「六騎」という地に後裔が住んでいる。

 さらに、落ちのびることもできず、障子岳の山深くに分け入って、身分を匿し、里びととも交わらず、こっそりと山の中に隠れ住んだ一党は、数年の間昼は洞窟に隠れ、暗くなると食べ物を探しに山を降りるという生活を続けた。おそらくは、地元豪士の田尻氏の配慮を得ての逃避生活であったと考えられる。障子岳下の洞窟に隠れたる一人の格式武士は、平家塔を始め戦跡各地の戦死の英霊を祀ったと言う。

 やがて、追捕の手がゆるむ頃になると里の人とも言葉を交わすようになった。しかし、名前を正直に言うこともできずに、平姓を「坂無」という名に秘した。現在、高田町亀谷地区「平」デーラまたはテーラという集落があり、20戸のうち18戸坂梨姓である。子孫である坂梨姓一族の人は、洞窟の祖先を現人神と祀って、毎年4月16日赤旗を立てて祭礼を行っている。山川町甲田の山中に「五位軒」「谷軒」という集落があるが、ここも平家残党の住み着いたところと伝えられている。

源平の最後の激戦地「要川」
後方の山腹が平集落
山腹の五位軒の集落
   天保古山(てんぼくやま)平家一本桜 
 要川を見下ろす東の天保古山の山頂にそびえる、樹齢200年を超える高さ18m・幹周り2.5m枝の広がりは約20mの見事な山桜です。春の3月にもなると、夜半にライトアップされた花びらの一枚いちまいが平家伝説の語り手としていっそう輝きを増し、人々を惹きつけて放しません。
                  
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   松風の関        北関
     【松風の関の歴史】
 古代からの筑後の国と肥後の国を結ぶ細い道が通り、その中で
背戸坂と呼ばれた、最も嶮しい天然の要害の地でありました。 七世妃に作られた古代官通に関所を置いたものであろうと言うこと等が解ってきています。往時は“玉のごと吹く風は松の梢をなで、松籟の音は美しい楽を奏でた松風の関”の名が生まれたそうです。今では、竹林の葉ずれの音のみが往時の哀史を物語るかのようです。

 平安時代末期、源平争乱のとき寿永二年(1183)の秋・・・平家のために菊池次郎高直に大津山の関明けて参らせよとて先立ちを通したれ共、此の事終に、はかばかしからじとて高直心変りしてけり・・・」 源氏との戦いに破れ、安徳天皇平宗盛とともにいったん九州の大宰府に逃げのびた。その後「自分が先に行ってあとから逃げて来る人たちが関所を通れるようにしておきます」と言って、自分だけさっさと領地の菊池に逃げ戻り城に閉じこもったという。
この
『源平盛衰記』にある“大津山の関”とは、山川町の北関にある“松風の関”のこと。中世以前は、肥後領の白間荘・大津山にあったので、“大津山の関”と呼ばれていました。寿永2年(1183)。源氏と平家の争乱の時代は既に関所として菊池氏によって守られていた。

 南北朝時代には南朝軍の懐良親王に御供した真弓有公正平3年(1343)菊池軍唯一の重要な関所として重任に就き筑後征討にのぞんだ

 天正15(1587年)戦国時代が終り、九州征伐のために軍を進めた
豊臣秀吉がこの道を通り、原町と野町に太閣道”という名を残しています。

 戦国時代は合戦の度に、肥後領になったり筑後領になったりしたが、
江戸初期田中吉政が、筑後国32・5万石の領主として柳河域に入ると慶長6年(1601)、ここ松風の関から北を筑後領としたので、それ以後、筑後領となり現在に至っております。
松風の関は肥後と筑後の国境のみならず、
肥後街道もここを通っており、参勤交代の行列もこの街道から江戸に上がったといいます。

 明治10年(1877年)西南戦争の際には、明治政府軍の官軍総督の有栖川宮熾仁親王が、福岡の本営から南下して、この道を通り熊本城の北方の田原坂で薩摩の西郷軍と戦った。交通の要衝は、軍事上の要衝でもあったのです。
           
代官屋敷の跡
   首切り地蔵
 松風関所の近く、北関の熊野神社の南側に代官屋敷跡がありますが参勤交代の途中、薩摩の島津殿様も宿泊した屋敷です。現在ではみかんの畑のなかに古井戸のみが残っています。また、昔から関所といえば「入り鉄砲、出女」を厳しく監視し、関所抜けには「磔」などの極刑が処せられました。この斬殺された人々とを哀れみ、里びとが供養のために建立したのが“首切り地蔵さん”で、関のそばに祀られています。“松風の関”に通ずる旧道は、すぐ東側に国道443号が走り、さらに西は九州自動車道にはばまれて、農作業にいく人のほかは、いまでは通る人もいません。
            
関の側の首切り地蔵
.湯谷柳川領境界石     大牟田市湯谷
 松風の関の南900mの大牟田市湯谷の集落に新旧2本の境界石がある。
江戸時代に筑後柳川領肥後熊本領の国境を示すために建てられたものである。
古い方は、江戸時代初期に建てられたものと思われ、一辺36cmの四角柱の花崗岩で作られています。三つに折れて中段と下段だけが残っており、現在高は、3mです。表面の文字は、読みにくくなっていますが、次のように判読できます。
 「(従是西)北筑後国立花(左近将監)領内 柳河札辻ヨリ是迄四里二十町余」
(   )内は、推定
 新しい方は、古い方が折れたため江戸時代末期に取り替えられたものと思われます。一辺35cm、高さ3.7mの良質砂岩の四角柱で作られています.表面には肉太の文字で次のように刻まれています。
 
「従是西北筑後国柳河領従柳河札辻四里二十町余」  
 
大牟田市教育委員会説明文より

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  かさ地蔵      山川町北関地蔵後  南筑後戦国史・田尻物語
 江戸時代後期の建立。板碑状の石に線刻のお地蔵さん。この近くでは珍しいものです。田尻種貞と並んで建てられていることは田尻氏の供養のために建てたものと考えられます。
 田尻因幡守種貞供養塔   供養塔は田尻因幡守種貞/圓寂鎮了安大居士/文禄二癸巳年春二月二一日/明暦二年忌日造立焉末孫田尻種元/と4行に刻まれています。

 田尻氏は北関の西側の飛塚
(高田町)に本城を構え、代々ここを居城とするこの地方の豪族でしたが、永禄年間(1558~1569)に城主田尻親種鷹尾城に移り、ここは城番に守らせました。これより数百年間この城は続いたと言われています。種貞の事跡については明らかではありませんが、おそらく文禄2年(1593)文禄の役(秀吉の朝鮮出兵)で戦死したものと考えられます。
ここに供養塔があるのは、種貞親種以下鷹尾城に移った後も飛塚城を本拠として活躍。飛塚城の見えるこの地に居城を構えていた為でないかと考えられます。
             
              かさ地蔵
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   真弓広有(まゆみひろあり)の墓    バス停真弓橋より真弓川沿いに山中を登る
     【真弓の由来】
 真弓氏は、人皇第七代孝霊天皇の第九皇子、道豊事主尊の八世の胤(子孫)大弓音人と言う人がその先祖であるたされている。この人は射術の祖と言われるほどの弓の名人で、その昔、神功皇后に従って三韓攻めに加わり、功があったので、日本射騎将軍の名をいただいたという。

 その子孫は、
武智と言う姓を称し、又隠岐に移住してからは隠岐を氏とした。
 元弘3年(1333)後醍醐天皇は建武と言う元号(南北朝時代)に変え新しい政治を始められた。ところが、たまたまその年に伝染病が野火の広がるように大流行しために死ぬ者は数え切れないはどであった。折りもおり、天皇のいらっしゃる紫宸殿の上に不思議な怪鳥が現われて「いつまで。いつまで」と不気味な声で鳴いた。天皇も団民も、この鳴き声を聞いて、新しい建武の政治が何時まで続くのかと、あぎ笑っているように思えてならなかった。「えんぎでもない」と皆恐れた。
そこで天皇は側近の公家さん達と相談されて、隠岐次郎左衛門広有に白羽の矢を立て、その怪鳥を弓で退治するように命じられた。首尾よく射落してみれば、それはヌエと言う怪鳥で、頭は人のようであり身体は蛇、くちばしは先が曲って歯はノコギリの刃のように鋭く、足には剣のように鋭い 「けずめ」があり羽を広げるとその長さは5メートルほどにも及んだと言う。誰にも出来なかったこの難しい(ぬえ)退治に成功した広有天皇から大変なおほめの言葉をいただいた。更に天皇はその夜直ちに五位の似を授け真弓と言う姓をも賜わったという。

 南北朝時代
郷土では南朝方の征西将軍懐良親王
(かねよししんのう)を支援する肥後の菊池武光(たけみつ)を中核とする勢力と北朝方足利尊氏の派遣した九州探題一色範氏(道猷)と争っていた。

 興国3年(1342)後醍醐天皇の皇子、
懐良親王は征西大将軍に任命され九州にの薩摩に上陸し、正平3年(1348)菊池の隈府城(わいふじょう)に入り拠点とした。真弓広有は弓術の大指南番として幼年の親王のお伴をした。
真弓広有は、松風ノ関が筑後と肥後両国の菊池軍唯一の重要な関所として重任に就き筑後征討にのぞんだ。親王が九州に上陸から19年目にして大宰府に懐良親王を首班とする 征西府 (征西大将軍の政務機関)が誕生した。以後、11年間に及ぶ南朝勢力の全盛時代を迎えるのである。広有は後に自分の務めは終わったと退役し肥後との団塊いの静かな山里に引きこもり、一生を終えたと伝えられ、この地が真弓と伝えられている。

 真弓広有の死去は正平24年3月19日(1369)で享年は65才。葬儀の導師は大牟田・今山の普光寺の憎・蒙順と言われている。〈笠間益三・豪順聞書) 広有の墓と言われるものは、広有の二十三代の子孫の筑紫祐是有と言う人が菩提を弔うために真弓の中ほどの小高い丘の上に建てられたものである。墓石には、向って左に「大五百遠忌供養塔」右には音人六十八世、四位真弓次郎太夫右衛門尉広有とあり、正面には、南無妙法蓮華経、在勅射騎将軍の文字と共に、「妙法経力病即消滅・上行無辺行菩薩・浄行安立行・苦悩乱者頭破(作)七分との有難い法華経の文字も刻まれている。この墓(廟)は山川町真弓の中ほどにある。
文中元年(1372)8月南朝勢力は衰退し、親王は征西将軍職を退き
筑後矢部(福岡県八女郡矢部村)に隠退、弘和3(1383)3月27日懐良親王55才で九州の地で亡くなられた。

 真弓地区には以前には真弓性の庄屋の子孫がいたが、今は名乗る家はない。ただし真弓の坂本家では、真弓広有を「坂本先祖さん」として、1月29日に先祖祭を毎年、供養塔の前で行ってきている。
       
      真弓広有公の墓
   萬里小路藤房(藤原藤房)の墓  甲田 中原
 南北朝時代に京都の後醍醐天皇に使えていた萬里小路藤房(藤原藤房)という貴族が、建武元年(1334)争いごとを嫌って、都を逃れて、僧となり行方をくらまし姿を消したという。
後醍醐天皇の皇子、懐良親王が九州に赴かれるのを知り、親王を慕って密かに九州に下り南朝軍の根拠地である菊池と筑後の八女を結ぶ唯一の街道が通る、ここ中原の地に住んだ。しかし親王に会えることを期待しながら暮らしたがその時は訪れなかったという。ここ中原藤原の館で静かに余生を送り天授6年(1380)85才で亡くなられた。ただ、萬里小路(まてご)・萬里の森(までもり)・藤原館(ふじはらやかた)という地名だけが残りました。菊水の紋の入った墓が萬里小路橋のたもとと藤原館にあつたと伝承されているが、飛塚
(高田町)にある五輪塔が藤房の墓とも言われて未だに解っていない。
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   民話「はなたれ小僧さま」発祥の地  バス停真弓橋そば
 むかし、真弓に正直者だが貧しい老夫婦がいた。山で刈った柴を南関の町へ売りにいったが、全然売れなかったので水神さまにおわびして柴を川に流したところ、川から水神さまが出てきて「柴のお礼にこの小僧を上げよう。この小僧様はエビナマスしか召し上がらぬ。願い事は何でも聞いてくださる。」というと消えてしまいました。気がつくと目の前に、かわいい小僧さんがいましたが鼻の下に汚いふたすじの鼻汁を垂らしていました。その小僧様に祈ると、ほしい物が何でも出てきて老夫婦は大金持ちになりましたがエビナマスをとることと鼻汁がいやになって、この小僧様を水神様に戻すことにしました。すると今まで建っていた屋敷も蔵もいっぱいの米も消えてしまって、もとのような貧乏な暮らしになったという。

 この民話証生の地は大谷から
真弓橋を渡った右手の川の渕で「はなたれ小僧さま」のお堂がある。古老の話によれば昔は深い渕であり、エビがたくさん獲れたとのこと。あの話の中にはエビナマスが出て来るのでなるほどとうなずける。
この話が放送局の調査取材ときもいりで世に広まり、真弓に眼られた民話であると言うので、区の有志の方々の芳志により、さらに真弓の奥まった
釈迦院に、水神様として祀り、その祠が昭和38年9月1日に建てられた。また、おじいさんが建てた屋敷が地名(屋敷谷)として残っています。それから小僧様の石像が作られたのを契機として毎年8月28日「民話の里まつり」が大谷区で開催されています。
           
     
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   お牧山放牧場跡    お牧山公園
 江戸時代の天和3年(1683年)、柳河藩主第3立花印鑑虎は、郡内でいちばん高い狭野山に、軍馬・農工場の放牧場を設けました。これが「お牧山」の始まりで、鑑虎公の母里である奥州仙台より種馬を譲り受け、9ヵ年の歳月を費やして、土塁を築き柵を設け、馬の飼育に必要な人材を配したのです。鑑虎は毎年、馬肥ゆる秋の一日に、供人を従えてお牧山へむかいました。勢子の若者衆はそろいの法被に、鉢巻姿もりりしく、手には取り縄を持って殿様をお迎えします。若駒を集め、馬草を与え「駒取り」行事が始まるのです。若者衆は殿の殿前で功名を立てようと懸命に捕縄を繰ります。馬を捕らえ、“ハミ”を馬の口にかませたら競技は終了。山野に木霊する馬のひずめの音やいななき、若者たちの歓声がきこえてきそうなお話です。山頂には当時の移動手段や農耕の要だった馬の霊(れい)を慰(なぐさ)める馬頭観音が祀られている。幕末には烽火台が置かれました。また、元禄年間から春と秋の2回、野町で馬市が開かれました。当時、山川の町は宿場町で、たいへんにぎわいであったといわれています。
お牧山 馬頭観音を祀る五社宮 山頂にある馬頭観音
   いっちょ願いの地蔵   お牧山公園手前
 昔、草深いお牧山に分け入った村人が道に迷った際、お地蔵さまに念じて助けを乞うたところ、光明がさして無事帰路につけたことから「ミチアケ地蔵」として皆に慕われたことがきっかけで、ひとつだけ願いごとがかなう、"" 一つの願い地蔵さま""として慕われるようになった。親しみを込めて「いっちょ願い地蔵さま」呼ばれるようになったそうな。そんなありがたいお地蔵様ですから真剣に一つだけをお祈りしてみませんか?
             
   金霊泉
 立花鑑虎公はお牧山の人馬の飲料水のために、山頂近くの馬頭観音の脇に涌水池を堀らせました。人びとはこれを「殿様の井戸」と呼んでいましたが、この水が万病に効くと評判になり、いつしか霊験あらたかな「金霊泉」と呼ばれるようになりました。現在はこのお牧山の中腹に町で井戸を掘り野外活動などに利用する一方、遠方からわざわざこの水を汲みにこられる方も多いようです。
           金霊泉
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   蒲池山の大堤加茂川の名水     河原内蒲池山
 このような民話が残されている。「ある年の夏。蒲池山の堤の側の家に一人のおじいさんが現れた。真っ白な長いひげと真っ白な着物。目つきの鋭いおじいさんで、家の主に「この堤の長さは百間(約200m)あるか。深さはどれくらいか。」ときいた。うす気味悪く思った主は、「この堤は浅く、長さも九十九間で、百間はありません。」と嘘をいった。これを聞いたおじいさんは「それでは、とても住めない」といってパッと姿を消した。実はそれは大蛇の化身だったそうな」
享保2年(1717)
柳川藩唯一の水位利土木家・田尻惣馬によって築造された堤です。
山道を立花町方面に少し登ると、地下
117mから湧き出る「加茂川の名水」があり、ペットボトルを持参して水汲み(無料)に訪れる人も多い。
さらに
            
蒲池の堤
 雪峰山麓の「立花家の墓所」   九折
 三代藩主鑑虎公と四代藩主鑑任公の墓所が、山川町の九折の地にあります。
もともと夏の暑さを厭われた
鑑虎公が、元禄11年(1698年)に、涼をもとめて、山紫水明の里であるこの地に、「別荘(雪峰軒)」をもたれ、季どきに訪れ静養されました。ある冬の朝、峯みねに積もる雪の美しさに感動あれた鑑虎公は、「自分が死んだらこの地に葬れ」と言い残され、元禄15年(1702年)に逝去された折、その遺言通り、この地に眠られたのです。墓所は九折の「雪峰山霊明寺」跡地にあります。
            雪峰山の墓所
   旧田北邸 つるべ井戸  禅林寺近く
 代々蒲池山に居住していた田北氏(立花藩槍指南役「田北親為」を祖とする)の邸宅の庭に掘られた、深さ9mの石組み井戸。つるべ式のくみ上げ井戸で、現在も水が湧き出しています。
             
   江月堂     河原内
文久2年(1862)に僧鉄文によって建立された黄檗宗の寺。寺の山門は柳川藩主しか通れなかった。ここの特徴は、本堂が日本式住宅建築のなかに組み込まれた、いわゆる座敷本堂という珍しい建築です。庭園には四季折々の花々・植物に魅力があり、毎年10月に開かれるお茶会では、美しい琴の音が和の神髄を感じさせてくれる。
         
   太閤道(薩摩・坊津・豊後街道)
 大和朝廷が軍事目的のため、道路網を確立して以来この山川の地は交通の要衝にあり、特に古代官道においては筑後国府より、葛野(羽犬塚)を経て狩道駅(山川町尾野)から肥後大水駅(オオムツ)(南関)へ通じる西海道であり、その途中に「松風の関」があった。この街道をある時は、落武者が、大閤(豊臣秀吉)がそして江戸時代の参勤交代の道として、また明治維新後の西南の役(えき)で官軍が進行し、北原白秋が幼少の頃、母の実家へと通ったという由緒ある街道であり、古くは太閤道、薩摩街道、豊前街道、原町住還など時代によって、地域によって呼び名があったようです。
              
   三里石      尾野字虎ノ尾
 筑後藩主田中忠政は父の意志をついで、全国にならって慶長17年(1612)柳河域下札の辻を起点に一里塚を詔けました。山川町には、追分石(道標・野町赤坂)三里石(野町上町)四里石(北関)が設けられました。追分石は、野町赤板の四つ角、柳川にむかって右側の角に立てられ、右側面に「清水寺道」左側面に「柳河道」と彫り込まれているのが今でも読めます。この三里石は「三里」とのみ刻まれたものです。
               三里石(野町上町)
四里石は高速道路の北関のボックスの南側、旧道の傍らに立っていましたが、高速道路建設時になくなっていたため、三里石にならって町で元の場所に復元しました。南関街道(薩摩街道)にはこの外、一里石(三槍町一里石)・二里石(復元・瀬高町下の庄大竹)・国境石(大牟田市湯谷)があります。南関街道は肥後国とを綻ぶ重要な道路で、柳河札の辻から松風の関を経て湯谷国境石まで全長4里20丁余(約18.2Km)ありました。
 尚、旅人の便宜をはかるために「宿駅」と「お茶屋」が置かれました。山川には、宿駅(馬継斬・馬16頭が置かれた)「原町」。お茶屋が「野町・原町・三峰・北開」に置かれました。

 現在の道路(443号)は当時の道路(旧道)に大体治っているか、または取り込んでいます。旧道もそのまま残っている所もあります。今歩いてみても当時とは周りの景観は逢っても気分は味わえるのではないでしょうか。一度歩いてみようではありませんか。
             
 
1907年(明治40)
  1月1日
万里小路村、富原村竹海村緑村の一部が合併して山川村が誕生する。
1959年(昭和34)
  4月10日
山門郡山川村と三池郡高田町との境界変更に伴い、元の竹海村が高田町へ分村する。
1969年(昭和44)
  4月1日
山川村が町制施行で山川町となる。
2007年(平成19)
  1月29日
山門郡瀬高町・三池郡高田町と合併してみやま市となる。山門郡が消滅する。

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          山川町役場企画部・の承諾により山川町HP・歴史散歩道や山川町教育委員会・仲井克己講師の資料・により製作しました。