福岡県みやま市山川町・高田町のお寺

 庄福BICサイトみやま市のお寺

                 資料を補いながら更新し充実させます。H19・2・9 更新H19・112・16

山川町のお寺
宗永寺(春林山) 覚成寺(九折山) 正法寺(仏頂山)
禅林寺(円通山) 江月寺(松濤山) 霊明寺(雪峯寺)
入性寺(宝王山) 吉祥寺(天端山) 金剛寺(成田山) 
甲山寺多福院(大慈山) 顕忠寺(真弓山) 西楽寺(松林山)
釈迦院 崇寿寺 来通寺
常楽寺 金井庵 製作途中です。更新に期待ください。
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高田町のお寺
満願寺 寂善 光徳寺
極応寺 蓮妙寺 清台寺
帝釈寺 光萬寺 仁業寺
江月庵 少林寺

山川町編
 宗永寺(春林山) 昭和年代に廃寺           河原内 九折
延享2年(1745)玄堂和尚が開山、立花帯刀家の初祖である茂虎公の菩提寺である。宝暦10年(1760)金海によって再建された。境内の1地蔵尊の台座に「一切有情」 「地蔵菩薩結縁願主中」 「宗永山圓如謹誌之」 ( )「時天明元年辛丑年閏月吉日立」(1781)と刻まれている( )
 覚成寺(九折山)            河原内 九折
寛文八年二月十四日 開基慶専創立通照今号越智末孫四国伊豫城主河野四郎仁宮源平戦之後当国に下着堀切村に住居成氏神嫡子三郎通秀河原内村に住居通秀より二十五代磯之助通種長照寺と云う庵寺住居致候処立花鑑虎公懇命に依って長照寺を覚成寺と改め建立す。(松尾龍城編より)
寛文8年(1668)2月14日慶専和尚が開基創建した。伊予水軍を率い( )源氏方として四国伊豫城主河野四郎通信は源平戦の後に堀切村(瀬高町河内)に住居した。嫡子の三郎通秀河原内村(山川町)に住居し( )通秀より25代磯之助通種長照寺と言う庵寺に住居してたところ立花鑑虎公が長照寺を覚成寺と改め建立して下賜されたとある。真宗大谷派である( )
 正法寺(仏頂山)            河原内 九折 
享保3年(1718)柳川の福厳寺3代悦堂和尚の隠居地として、三池の内山村より移転建立された寺である。
 禅林寺(円通山)            河原内 蒲池山
元禄2年(1689)鉄文和尚が開山創建した。寛保2年(1742)に僧泰陽が中興した。裏手には泰陽和尚から後の歴代和尚の墓があり、この墓石の前には座禅石が据えられているものもあり( )禅宗の厳しい修行僧の姿を想い浮べることが出来るが現在空院となり、地域の人々によって守られてきている。寺は当時の建築仕様を残して庭も残っているが、かなり痛んでいる( )
 江月寺こうげつじ(松濤しょうとう山)        河原内 蒲池山
江戸初期の万治2年(1659)鉄文和尚が開山創建した臨済宗黄檗派の寺院です。鉄文和尚は筑後山門郡海津村出身の高僧で、当時宇治黄檗山万福寺に居り、木庵禅師の法弟であった。柳川藩主の菩提寺の福厳寺の開山に鉄文が迎えられている。江戸時代を通じて、鉄文自身やその弟子を開山として、南筑後地方一帯に黄檗宗寺院を次々と開いた。現在の江月寺は江戸時代の末期の元治元年(1864)に本山第35代住寺にもなった独唱和尚が中興して、後に隠居地とした寺です。江月寺本堂は、書院、庫裏とともに一連の棟続きの建物の中に納まっています。隠居寺だけあって黄檗宗寺院の本堂というよりも居住空間としての要素が強く、本堂が日本式住宅建築のなかに組み込まれた、いわゆる座敷本堂であります。
立花藩主だけが通る事が出来たという門が当初の隆盛を伝えて残っている。花々・植物に囲まれた情緒豊かな庭園は四季折々の魅力があり、毎年10月に開かれるお茶会では、美しい琴の音が和の神髄を感じさせてくれる。鉄文和尚の墓が、すぐ脇の山の山腹に寺院を見守り静かに立っている。

           
 霊明寺(雪峯山)廃寺         河原内 九折
江戸時代の中期の享保9年(1724)鉄文和尚が開山創建した。臨済宗黄檗派の寺院で釈迦牟尼仏を祀る。
もともと夏の暑さを厭
(いた)われた第三代柳川藩主立花鑑虎公が、元禄11年(1698年)に、涼をもとめて、山紫水明の里であるこの地に、「別荘(雪峰軒)」をもたれ、季どきに訪れ静養されました。ある冬の朝、峯みねに積もる雪の美しさに感動あれた鑑虎公は、「自分が死んだらこの地に葬れ」と言い残され、元禄15年(1702年)に逝去された折、その遺言通り、この地に眠られた。
慶応3年焼失に付き明治6年、当寺第15代田中実存が再建した。
昭和の中頃に廃寺となり今は寺の礎石を残している。南側には立花家代々の家臣やゆかりの人々の墓が並んでいる。柳川藩三代藩主立花鑑虎公と四代藩主立花鑑任公の墓所が、あります

            雪峰山の墓所

 入性寺(宝王山)            尾野 野町 上町
小千尊末葉河野七郎従者越智通照従う伊豫国本国堀切村蟄居の嫡男三郎通秀河原内村に移住此の嫡孫通重出家俗名知らす法名玄了創建年歴紙破難知寛永七年第四代也、其の創建巳年来観中迄十五代是観氏まで十六第也。(松尾龍城編より)

宝永7年(1710)2月
に僧越智玄了和尚の開基創建とある。一説には寛永20年(1643)建立とも伝えられている。
 吉祥寺(天端山)           立山 赤山
元禄15年(1702)悦堂和尚が開山創建した。境内の地蔵尊には「文化十参酉(とり)六月吉日」(1813)と刻まれている。
 金剛寺(成田山)            立山 赤山
昭和28年(1953)に大本山成田山新勝寺(千葉県)の山門分院として吉開観法によって創建された。
 甲山寺多福院(大慈山)       原町 原町下
元禄7年(1694)に本吉山清水寺の隆尚法印が建立。天台宗甲山寺は原町にあり、千手観音馬頭観音をまつる。清水寺の末寺で、千手観音が代表の仏である。原町徳川参勤交代の宿場であり、通行の殿様の行列が休憩した。その時お茶屋を召し上がった家をお茶屋と言い、元郵便局の家がそれである。この当時、地方で一番家屋が密集していて160戸以上もあったのであるが毎年旧暦8月17日18日の2日間は、観音様の後縁日で賑わったのである。町の両側に諸方から集まった色々の店がぎっしりと並んで、中にも遠目がねと言う珍しい時代囃子の歌入りもので、男女二人が掛け合いに竹ムチ、手拍子そろえて面白く時代の実活を見せる。例えばママ子イジメとか、仇討ちとかの劇物を、今の紙芝居のような仕掛けで非常に面白くやったが、見手が多かった。もう一つ珍しいのがある。これは男が女に買うてやらねばならない風習があって、年間に一口丈、話をしたばかりの男に娘の子は、この腕に下がる習慣である。買うてくれんの十七夜」と広く地方に知られ、珍しい習慣であって、男は相当の金を一ヶ年間貯蓄して、この金を持って観音様参詣をしなければならない。女は夜の一時、二時頃友達と三々五々連れ立って帰途につく、そして17、18日のこの月影にお互いの風呂敷を広げて、もらい物の品比べをして、腕のよさを競う。そのうれしさは、一年中一番の娘子の楽しみであった。誠に奇な風習であったが、他郷に其の類例がないと云うことである。筑後、肥後、肥前から参詣が多かったので評判が高かったのである。(松尾龍城山川町地方の歴史と伝承より)
ここは筑後33箇所霊場の内27番札所として春と秋の時期には巡礼姿の人々と、それを迎えるお接待の方で賑わいをみせる。
           
 顕忠寺けんちゅうじ(真弓山)          原町 下
昭和5年(1930)真弓広有の菩提寺として松尾龍城・栄によって創建された。日蓮宗である。
 西楽寺(松林山)              原町 下
寛永14年(1637)に僧菊池教心により開祖創建された。真宗本願寺派である。薩摩街道・原町宿を偲ばせる唯一のもので江戸後期の1812年(文化9)2月に街道の測量の為に伊能忠敬一行が宿泊した寺です。
釈迦院                      真弓
真弓釈迦院の古仏のお釈迦様は、建武元年後醍醐天皇の勅願寺、京都大本山妙顕寺の釈迦仏の御分霊のお釈迦様であります。真弓公が天皇の命により、征西将軍懐良親王の九州下向に随従して九州に下り、松風ノ関の守護職となり、役宅を真弓屋敷の谷に定められた。ここに自家信奉として祀り信仰せられてので、一門の福山ヒサノ家に於いて、釈迦院様と崇めて子孫に伝えられていたのであります。
昭和九年は釈迦院正六百年に当たりましたので、六百年祭を営み、其の記念として六百年の釈迦院大石碑五尺の楕円形自然石が建立せられています。
松尾龍城氏歴史資料より
 崇寿寺                   北関
元禄元年(1688)建立。釈迦牟尼仏を祀る。  禅宗である。
 常楽寺                   河原内 
寛永元年(1624)に山門郡鬼竜村に玄尚和尚が開祖創立した。天和元年(1681)河原内村へ寺を移転再建した。   
 寿福寺                   赤山
宝暦8年(1751)11月27日建立された。  禅宗  十一観音菩薩を祀る。
 金井庵                  尾野
瀬高町の大竹の二尊寺末派であり阿弥陀如来を祀る。   元禅宗
 来通寺                  尾野
     準備中    空欄は只今情報収集中です、しばらく時間をいただきます!
高田町編 
 光釈寺        飯江
創立は天明8年(1788)慈航の開祖である。本堂、古裡、鐘楼があり、明治14年4月に光釈寺と改称の許可があった。真宗大谷派、本尊は阿弥陀如来である( )
 宝泉寺        亀谷
安政4年(1857)の創立である。本堂は四間入四間半で、境内は124坪を有する。真宗大谷派、本尊は阿弥陀如来である。
 清台寺(青苔寺)   原
開祖は智静、安承3年(1774)一宇を創立し天明5年(1785)4月24日本山業如法王により本仏寺号を授与された。である。真宗大谷派、本尊は阿弥陀如来である( )
 海福寺          岩津
黄檗宗で本尊は釈迦牟尼仏である。寛文9年(1669)の開山で、開祖は鉄文である。高木山海福寺は、倉永法雲寺、上楠田梵天山帝釈寺と同じ福厳寺の系統に属する( )現在は仏像はなく住職、無住のまま荒れ果てているが、境内の板碑は「観音さん」として里人に崇敬されている板碑は蓮華の上に如来の坐像がある( )外に石蔵尊2基があり、1基には、「天明三年五月吉日」の銘がある。明治初年、野田卯太郎(号、大塊)、永井純一、水野澄治、佐々木七五三などが自由民権の思想の運動の発祥地であるという( )
 明願寺      今福
開祖は定念で、はじめ天文11年(1542)同村中牟田に創立し、本山証妙法王より本号を授与さられその後、現地に移転した。真宗大谷派、本尊は阿弥陀如来である。本堂、古裡、鐘楼、山門がある( )
 浄泉寺      今福
慶長3年(1598)6月の創立で、僧正仙徹門と号す)を以て開基とする。開基の俗名は尾張国の住古賀尾張介房光と称し、父の六郎蔵人房信は太閤秀吉の知遇を受け、一子の房光はその直参となった( )後の朝鮮征伐において立花宗茂の旗下に加わる。再度の戦役に偉功あり。たまたま名護屋城にて太閤の死亡の知らせに( )無常を感じ剃髪して徹門と号した。宗茂の願いにより、柳川領に留まる。山門郡古賀の庄(今福)に一字を創造し、寺領三百石を配される。後に東西に分派のことあり( )徹門は東派教妙宗主に従う。本堂、古裡、鐘楼、山門がある。真宗大谷派、本尊は阿弥陀如来である( )
 金仙寺      今福
元は柳川長柄小路にあったものを、天和3年(1683)今福に移した。金仙寺山の麓にあり、往年に失火により焼失した。後に小堂を建立したが山門炭坑開抗の為に再び今福に移った( )中央に失火の際に搬出した前身黒こげの釈迦牟尼仏の木造を安置する。石段の右側に観世音を安置し、石材に「山浦理右衛門三十三番元禄八年十二月吉日」と刻まれている。碑前に風雅な蓮華台型の水洗盤がある( )
 福王寺(福応寺)      原字中尾
準備中
 流水寺(流泉寺)  田尻
準備中
 
 満願寺         竹飯1283
    準備中
 寂善寺(谷井山)               竹飯1346
2つの由来の史料がある。
@真宗東派。肥後山鹿の城主、徳永源左衛門康教というもの、文禄4年(1595)、世の無常を感じて、本郡竹飯村に移住する。後世剃髪して、願誓と唱え当寺を創立する。弟が2人あり。1人は倉永(大牟田市)に、1人は野町(山川町)に住み農夫となる。願誓の子孫の法順は、延宝5巳年(1667)2月15日、京都に上り、東本願寺の末寺となる。立花英山公の遊猟の時本寺に憩われ、その貧困の状態を知り、佐野村の鳥越山を寄附せらる。村誌に、寺地東西十五間、南北十七間、面積ニ五五坪とあり、本寺明細帳には、境内一一七坪、ニ六三坪とあり。(旧柳川藩誌より抜粋)
A開祖は肥後の武家にして、戦役の際落城。剃髪して僧となり、法名を順了と号せり。享保18年(1733)のことなり。安永5年(1776)正月21日、86歳の高齢をもって入寂す。本堂は五間四面にして、安永8年(1779)に再建せしものなり。他に鐘楼、山門なども同年造営せり。(明治時代発行の福岡県寺院沿革誌より)
    
 光徳寺                竹飯1177
     準備中
 極応寺                海津1598
 海津村には寺院ないため、文化7年(1810)に海津村民の信仰の殿堂として当時の庄屋、永江市助(北)・松尾庄右衛門(南)などの尽力(じんりょく)によって中牟田村(高田町今福・中牟田)から海津村茂出の地に極応寺を移転しされた。移転前の極応寺は江の浦の光万寺(こうまんじ)、第3世・祐願の第3子・祐護は中牟田村に創建し(,)第13世まで信仰されていたが第14世の智山の時に海津村に移転している(.)極応寺には創建時に2名の庄屋の銘が印刻された文化7年鋳造の半鐘が残っている(.)  
 蓮妙寺                岩津772
     準備中
 清台寺      原1028
     準備中
 福正寺     下楠田渡瀬
今福村浄泉寺第7世の住職、寂応と言う人、享保年間(1716頃)当寺を創建するという。真宗大谷派、本尊は阿弥陀如来である。
 帝釈寺                上楠田3459
黄檗宗で本尊は釈迦牟尼仏である。郷土の寺院中最も古い寺で、今山の普光寺、定林寺と同じく嵯峨天皇の弘仁12年(821)、三池中納言師親の建立で、もと天台宗であったが中頃、曹洞宗に転派した。郷土の豪族蒲池氏の祈願寺である。往古は立派な七堂伽藍が備わっていたという。天正の争乱に当り龍造寺隆信の為に焼け討ちにあい、壮麗なる堂宇もあたら烏有(うゆう)に帰した(火事にあって全焼し、何もかも失ってしまうこと)という。黄檗宗十哲の一人である鉄文禅師が第2代藩主立花鑑虎(英山)の懇請によって、福厳字の開祖となり、後年また鉄文によって梵天山帝釈寺は復興した。今は往時の盛観を偲ぶのみである。境内地に古池があり、そのほとりに五重の宝塔がある。いかにも風格のある様式で、江月の文字が刻されまた丸に三の印を正面に彫刻されている。
 地福寺    下楠田
真宗大谷派で、本尊は阿弥陀如来である。上内村春光寺第4世の住職恵秀の弟諦によって明和7年(1770)に創建された。本堂、古裡、鐘楼がある。
 新興寺     下楠田渡瀬
日蓮宗で、本尊は大曼茶羅である。嘉慶2年(1387)の創建で、元天台宗安穏寺と号し、山門郡大江村真木にあったが、寛文の頃(1789頃)顕寿院日久領主の寄進を得、ついで日念は寺を現地に移転して平等山新興寺と称した。元禄15年(1702)領主立花公の帰依深く寺地9畝を寄付せられた。現在の境内地である。・・・・
 光萬寺                 江浦
真宗、大谷派で本尊は阿弥陀如来である。室町時代の大永3年(1523)に本願寺より阿弥陀佛の絵像を受け創立、慶願和尚の開祖である。当初は西牟田にあったが、元禄16年(1703年)江浦町に移る。大友宗麟が九州に権威を振るっていた頃、その配下に大谷刑部左衛門貞政と言う人が真宗の信者で宗麟のキリスト教信仰と主従相よれず容れず、貞政山門郡清水に一寺を建立して念仏に専念した。時に大永年間ある日、突然、宗麟より使者が来て豊後に帰国するようにすすめたが、聞き入れる事なく一子 神十郎を逃して割腹した。後年神十郎慶安と称し父君の意思を継ぐ。寺宝には1600年代の品が数多くある。境内には慶安の墓もある。九州の俳壇の河野静雲師は光萬寺の庭を愛し、度々訪れ、数多くの句碑(寂光荘)を残す。「来し方や梅の有明月に佇つ」
昭和35年江浦保育園を開園する
 仁業寺                  江浦
臨済宗、本尊 聖観世音菩薩である。正保元年(1644)創建。豊後国玖珠城主小田大和守民部少輔(大友の配下)は筑前の地にて戦死、その孫、大坪左近久一(市左衛門)は江浦町に住み、立花藩より里正(里の長)を命じられた。久一は祖父追福のため正保元年(1644)9月堂宇を創建し二尊寺中興の祖、乾明和尚を請うて開山した。(柳川藩誌) 
本堂前に閻魔堂があったが破損のため閻魔像は本堂に併拝してある。大坪氏墓前には「大乗妙典一石一字塔 元禄十七年甲申三月吉日(1704) 大坪氏慶峯浄悦居士 写拝 の石塔がある。
 江月庵     廃庵             江浦
仁業寺に立っている地蔵菩薩台石に「江月庵■四年五月二十九日」とあり又ここに在ったと思われる手洗い鉢に「奉倶水手盤・元禄八年(1695)乙亥5月十七日江浦観音講中敬喜捨」とある為、地蔵台石は貞享4年(1695)と思われる。昔からこの土地を庵と呼んでいるのは、江月庵があった為の呼び名が残っているのであろう。
 少林寺                 江浦
真宗大谷派 本尊 阿弥陀如来である。文久2年(1862)5月建立。肥後の国、平寛造なる人薙髪なし知成と号しその養子 了道は大谷本願寺21世厳如上人に帰依し僧となり、文久2年に今福に一寺を建立せるも慶応2年4月に江浦町に移る。
       
 西光寺     徳島
準備中
 万通寺     南新開字堅小路
 阿弥陀寺    黒崎開
準備中
 福聚庵 (大般若波羅密多経)      黒崎竜宮島
準備中
 金剛寺      北新開潟
準備中
 天興堂     北新開字東小路
準備中
 正覚寺     北新開字堂浦 
準備中

山川町教育委員会資料・松尾龍城山川町地方の歴史と伝承・高田町誌・柳川藩誌より編集しました。
御意見・資料提供をお願いしています。

       庄福BICサイト   Email:shofuku21@yahoo.co.jp