山裾に広がる平田と小田の集落は昔の面影を残す農村です。山中には古墳群が発掘されており、古代から人が住んでいたと見られる。平安時代から戦国時代では矢部川右岸の自然堤防に築かれた平城の溝口城(筑後市)と山城の禅院城と小田城を持つ溝口氏が支配していた。小田城は1,4km程山に入った古僧都林道と名木野の林道に挟まれた標高214mの山頂(北緯33度9分東経130度32分)に城址が残されている。鷹尾文書の鎌倉初期の瀬高下庄政所に溝口太郎資忠の名があり、応永14年(1407)9月8日に溝口武資であろう人物が鷹尾大宮司に鷹尾別府内の社領免田ならびに米満・田吉・三郎丸の各名の田地を安堵していることから、大友氏のの所領である鷹尾別府の地頭の権限を与えられていたとみられ、水田庄へも介入しており領域支配の拡大に努めていたとみられる。天文19年(1550)の乱で溝口鑑資は大友氏にそむき大友陣の鷹尾城の田尻親種の軍勢に敗北し没落したと推測されている。
小田の薬師寺は永正15年(1518)5月10日、領主の溝口薩摩守が開いたと言われる。寺記に「昔、寺の僧が田を耕作していた。ある年、旱魃で非常に困難したので本尊の薬師如来に祈願したところ、翌朝になると、寺の田のみが水が満々と張られていた。村人は怪み、かっと怒り薬師如来を矢で射たところ反対に里人が即座に死んだという。それ以来、水引薬師寺と尊崇するようになったとあり、当時の状況は水引きの争いが絶えず、特に雨の少ない時はひどく、流血の事故はたびたびあり、水喧嘩の歴史の中でこの水引き薬師様はいろんなことを教え、村人に信仰されていたのでしょう。
小田の七社宮は永正3年(1506)溝口太郎弐資によって創建されたとあり、その後の慶応2年(1866)に柳川藩主、立花鑑寛が改築した棟札が残っている。境内右手前にある薬師寺の守り神の役を果たし、宗教も混合して小田集落のの人々は七社宮の氏子であり、薬師寺の衆徒でもあった。溝口氏は小弐氏の一族となっているが、藤原氏を唱えたこともある。社頭の献燈には菊水の紋があしらってあり菊池氏に味方をしていた。平安末期から天正年間まで約400年続き、大友陣の田尻親種の軍勢によって武運つたなく亡ぼされている。この地域で溝口城・小田城.溝口城を根城として長田河原、禅院の合戦などを演じ活躍し溝口常陸介時代は500町を領し一時は下庄.水田方面まで勢力を張っていた。溝口氏出陣に当たっては精神的よりどころの氏神の当社で幾度か武運長久が祈願されたことでしょう。
【小田の幸若舞】

大江に伝わる大頭流幸若舞 |
初祖・桃井直詮(幸若丸)(1405-1480)が初めてから700年の伝統を持つ日本最古の舞楽といわれる幸若舞が小田村でも舞われたことをご存知だろうか。上蒲池家の山下城主の蒲池鎮運が京都で朝廷警備の任に就き、越前出身で幸若舞の達人の京の町人大澤次助幸次に出会い、二人は幾度かの出会いを重ねる中、天正10年(1582)山下城(立花町山下)に大沢を連れ帰り、小田村に俸禄を支給し住まわせ幸若舞を家臣達に教えたと言われる。上蒲池家はその後、秀吉の西下により落ち、三池郡のうち200町を給わり、立花への与力を命ぜられ海津館に移ったが、幸若舞は下妻郡溝口村(筑後市)に住んでいた家臣の田中直久から代々、直種そして直俊によって受け継がれていった。なかでも直久の子直種は、幸若舞の天才と言われ大沢から伝授した大頭流の舞にさらに六番を加え、四十三番とし、節調子に磨きをかけて人々に教えたという。溝口村の田中家から小田村に移り、猪口善右衛門直勝が受継いでいるだとみられる。直勝は久留米の人とある。のちに、同村において櫻井次左衛門直那と、さらに重富次郎直元が受継ぎ小田村において幸若舞の全盛を極めた。 |
天明7年(1787)になると小田村の重富次郎直元から大江村の松尾平三郎増墺へ系譜、装束、直伝正本が受継がれた。その後は代々、松尾家を中心として村内で継承され、江戸時代には毎年正月21日、柳河藩主の鎧の祝に、国家安全・武運長久を祈って、大江天満神社で幸若舞を奉納していた。 文化8年(1811)に江戸の読本作家、曲亭馬琴が書いた『烹雑の記』に「幸稚」として「幸若丸句節舞踏に妙なるよし、軍記に見えたり、其余波諸国にある歟、江戸人は知らざるもの多かり。しかるに今も筑後山門郡大江村なる農家に、代々幸若の舞を伝へたるものあり。又その近辺永田(長田)という所にも、彼派わかれて太夫かかり、何かかり(この名をわする)などいうありて、酒宴の席、月祭、日祭、などいふおりには、心招きてもてはやしつつ興ずる舞なるに、今幸若の舞といへば、扇拍子にてうたうめり。これを舞とこころえたるは僻事なるべし。この大江にはむかしより伝へもてる烏帽子装束あり。ふりたる幕を張り、鼓うちならして立舞と聞り、職人絵尽につ載たる舞々の画像おもひあはすれば、よくこれにかなへりとぞ、西原主話談せらる」(以下略)とあり小田の隣村である北長田や南長田(上長田)でも別の派で幸若舞が演じられていたようです。こうして筑後農村部に入った幸若舞は、様々な舞方の手を通じて、山下・溝口・長田・坂田・小田・草場・朝日、堤、松延、などに広がり、酒宴の席や祭事のたびに舞い楽しまれたでしょう。しかし江戸末期より、時代と共に趣味の変化、能曲、俗歌が盛んになるにつれて次第に衰え現存するのは瀬高町大江の幸若舞のみとなった。
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元禄8年(1695)に4代柳河藩主立花鑑任が薩摩街道を下庄・上庄の西寄りのコースに変更しするまでの 本吉〜女山の山沿いを通っていた唐尾道(旧薩摩街道)は古地図の赤矢印の道筋であるが、大正13年からの道路整備事業で本吉から直進化した道が新設され、現在では小田東橋〜小田橋〜塔の元橋と直線の道路となっている。 |
【地名のはなし】
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平田(小字名)(行政区名) |
小田集落の北側にある集落です。単純に平らな水田の意味か水害の少ない平穏な水田に付けられたのでしょう。
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名木野(小字名) |
これは薙(なぐ)ぐ、すなわち草を払って焼いたことから起名されたものです。何年毎か一定地域の草木を薙ぎ払い焼きはらい、そこを数年耕作すれば放棄して次の土地に移ることによって地力を維持したのでしょう。十分な肥料のなかった時代の農業のあり方が想像できるのです。「野」は昔は一地域または集落の意味があったようです。
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南上野・北上野(小字名) |
善光寺の北方の水田です。道路の南側と北側の野原に東京の上野の地名を拝借し、美化した地名です。
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前川原(小字名) |
古僧都の山道脇の川の水が溜まる荒地の意の起名でしょう。
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平町(小字名) |
平田集落の北東の所です。平=タイラの意で、平地の畑に付けた地名と推測します。
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牛和田(小字名) |
平田集落の西側にある水田です。ワダは川の湾曲により出来た平地の意で、牛を放牧した土地と想像します。
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小田(大字) |
大字の小田は、ほかの地域の小さい田んぼに付けられた意味の小字名の小田の地名でなく、小は御の意味で有難く尊称した「オ」を意味する地名で稲作とともに入った語源の地名です。 |
小田・小田西(小字名)(行政区名) |
現在の小田の集落の南西部が小田西、北東部が小田東の小字名です。大字小田の起名の集落です。 |
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諸菴谷(小字名) |
小田集落の東にある。菴は庵と同じ意味であるが辞書には大きな禅寺に付属している小さな僧房とあり庵か小寺があった山間の谷であろう。
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屋敷ノ内(小字名) |
屋敷とは集落を意味しているが、水田が広がる地であるので昔は家屋が建ち並んでいたであろう。
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軍場(小字名) |
屋敷ノ内の北に位置し矢部川に近い戦国時代の戦場の地名です。現在は水田に変わっています。
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小坊谷(小字名) |
小田集落にあり寺院の所在していた所でしょうか、現在でも墓地や小仏堂があります。
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龍子(小字名) |
小田の西南部の山里にあり、中国古代の賢人の意でそれから名付けられたのでしょう。
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赤目(小字名) 小田西 |
アイヌ語で赤はakka, wakka で水、水流、川のことで、目は mem 湖沼、湿地のことで川が流れ込む沼か湿地の意味で、瀬高町にも石器・縄文時代に住んだアイヌ民族の地名の残存と言えるでしょう。小田集落の西南端にあり西側に隣接する長田の今赤目はこの後に出来たものでしょう。
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郷土の人物伝 |
池辺藤左衛門は、文政2年(1819)、山門郡東山村小田(現・みやま市瀬高町)で生まれた。幼少の頃より学を志し、吉田舎人家に寄宿して藩校伝習館に学んだ。その後、肥後の横井小楠に学び、嘉永元年(1848)には伝習館の寮頭に任じられ、学校改革を唱えた。安政元年(1854)には立花壱岐の根回しにより、侍読として江戸に上り、水戸の藤田東湖と戸田忠太夫に接触した。安政6年(1859)、立花壱岐が藩全権に着くと、池辺藤左衛門は物成役、大阪留守居、その後は中老として実務面で手腕を発揮した。文久2年(1862)、壱岐が病気再発のため職を辞すると、藤左衛門も追放され、慶應元年(1865)までの2年間、牢獄に繋がれた。出所後は「不始末」をもじって「節松」と号した(墓石に刻まれている)。王政復古後、壱岐が復帰すると、藤左衛門も用人格の辞令を受け、情報収集のため長州と京都に派遣された。京都滞在中の慶応4年(1868)三月、壱岐の推挙を受けて新政府の会計官判事に任じられた。新政府においては参与の由利公正とともに金融財政政策を担当した。会計基立金の創設や太政官札の発行など積極的な金融政策を推進したが、太政官札の流通難などに対する批判が高まり、明治2年(1869)、由利公正とともに辞職した。柳川に帰った藤左衛門は、明治8年(1875)、東京での再仕官を願ったが、妨害を受けて、その後は八女郡山崎村(現・八女市立花町)に隠遁して小学校の児童を教えた。以降、中学校の校長や伝習館館長などを歴任して、教育の振興に努めた。明治27年(1894)、76歳にて死去。墓は蜷の良清寺にある。 |
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【沖平六(1799〜1867)】
小田の沖家は豊後の戦国大名大友氏に仕えていたが、沖惣兵衛政長の時に大友宗麟の後を継いだ義統は失態を犯し、秀吉に豊後国を改易され一家は離散し妻の菊子は幼い3人を連れ甥の立花宗茂を頼り禅院村の建仁寺に逃れている。義統は浪獄し、慶長年間に沖惣兵衛政長は宗茂に仕え、代々柳川藩立花家の家臣であった。
4代目の安友が代官役となって以後の当主は代官役、瀬高御蔵役、御山役などを勤めている。当初は三池郡に52石を領していたが、子孫は小田村に住んだ。御山役になってからであろうか。
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初代政長の禄高は三池郡尾尻村の内で52石であったが、その子政益が若年で没したために、3代目の政賢のときは禄高は10石に減ぜられた。政賢の跡は下妻(のちに山門)郡小田の浪士黒木松悦の次男安友が養子となり跡を継ぐ。当初安友は在」江戸の普請役を勤めていたが、のちに柳川にもどり代官役に転じている。この間、住まいを小田村に移し、享保7年(1722)からは作出屋敷に住み「在宅勤務」となる。以後歴代の当主は代官役や瀬高御蔵役、御山役などの在方の実務官僚を勤めている。沖家はその傍ら宝暦期前後より近隣の諸階層を対象に金融活動を行っており江戸時代後期の文化文政時代(1804年-1830年)以降は積極的に土地集積をし地主経営を行っている。
9代目平六(正吉・祐作)は富豪家であったが、慈善家として知られ、藩の窮乏を救うために再々献金するなど、藩の財政に寄与し天保3年(1832)3月に藩主の立花鑑広により新地45石を給される。嘉永年間(1848〜53)より藩の財力窮乏の為に甲冑8、金500両を献じ、その後も甲冑や大砲を献じて安政6年(1859)9月に藩主の鑑寛に100石を給された。藩用その他公共事業あるいは慈善事業に投じた私財は巨額にのぼり、子孫に残した資産は父祖から譲られた財産の過半を減らしていたと言う。9代目の平六は29才で藩の普請役となり、32才の時に山下村口割谷より山中村の八割のトンネル水路「切通し」の用水路事業に普請頭の成清平七らと携わっている。またこの事業に沖家は金150両の資金を寄付している。明治維新を迎え、その子健雄(万蔵・政路)が明治6年(1873)に家督を相続、同11年に下妻郡広瀬村・小田村の戸長となった。当家の古文書は柳川古文書館に寄託されている同家は宝暦期(1751〜64)頃から金融活動をおこなっており、それに伴う土地集積もみられる。 |

ありしの沖邸 |
【沖 蔵】
近代の沖家では明治26年(1893)に沖健雄の次男として生れた蔵は伝習−五高−東大のエリートコースを歩き、大正14年(1925)に弁護士開業、法政大教授・上智大講師を経てドイツに留学している。上海、香港、シンガポール、マレーシア、セイロン、カイロの各港滞在の折、白人の制圧下における原住民の悲惨な生活状況を見聞し、民族の幸福は、完全独立を必修の条件することを痛感し方策を案ずる中、第一次大戦後の敗戦したドイツは農業を基盤として復興している状況をみて、民族の独立は農業が基盤であると認識し帰国して故郷で農村経営に力を注ぐ。農業経営の成果は政治力が必要と痛感し、県会議員を経て昭和11年(1936)から昭和16年までは国会議員として農村経営の改善に努力し、また農民の健康維持の為にも、強引に農協診療所を設置した。戦時中は農村経済を豊かにするために、諸産業を督励し、和紙、傘、蝋、瓦などの共同組合長を勤める。油とのりは配給制であったが、生産地と消費地の直結をはかり、軍需工場の油と傘、宮崎の、のりと傘を物々交換し、原料入手を容易にして増産に努め、全国一の生産県とした。戦後の昭和21年(1946)以降は柳川で弁護士業のかたわら農協理事長などを勤めて農村経営の発展に寄与している。 |

沖 蔵 |

【名木野】
宮地獄神社の付近から、玉、剣、曲玉、土器類を発掘され、同所門前塚の山腹からは、昭和51年山林の畑地造成の際に13箇所の古墳群が発見された。築造年代の違った、いろいろの古墳が次々と群集し、5世紀の前半頃に石蓋土拡墓.竪穴系横口式石室が築かれ、その後5世紀後半に横穴式石室ができ6世紀半ば頃から後半にかけて、石室を有する少々大きい古墳が築造され、その6世紀から7世紀の始めにかけて、終わっているらしいこと。どの古墳からも葬礼用のものと思われる丹や漆を塗った土師脚付堆がセットで出土している。また付近の平田から長さ23p、幅3,3pの石剣が出土している。
名木野の集落へ入り、細い山あいの道を10分程辿ると左側の斜面に「しだれ桜」が立っています。「白一重しだれ桜」で、樹高15m、胴廻り2mの堂々たるもので、樹齢は約300年といわれている。寒冷地に適する品種とされ、京都付近を中心に、せいぜい広島県の山岳地あたりが南限とされていて、瀬高に古木として生き残っているのは珍しい。柳川藩の家臣吉田家の別邸があり、元禄時代(江戸期)に京都から苗木を取り寄せ庭園に取り入れたと思われる。近くに柿本人磨ほかを祀る祠があり、天保14年(1843)別邸の名と思われる「晴嵐亭」に於て催された、連歌の一巻と奉納の木札がある。また祠には嘉永4年(1851)に奉納された、吉田千秋の和歌三十二首の板の扁額も遺されている。 |
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仏勅寺(福田山)は大竹村の二尊寺の2世住職春龍(了岱)が開祖。始めは二尊寺の末寺として下庄にあったが元禄8年(1695)に当地に移った。立花藩のこの地域の堤防土木工事などの政策遂行と仏勅寺創建が軌を一つにし、権力を背景に繁栄したであろう。福田山の額は柳川藩3代藩主立花鑑虎の自筆である。一般住宅の構造でお堂、があり普段住人はいない。本尊は地蔵菩薩です。
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【檀一雄逗留の地・平田の善光寺】
大正10年建立、上拝上部の立派な彫刻は四国愛媛県西条市出身の堂宮彫刻師の近藤光金のち泰山の作で向かって左の獅子木鼻の下に「出身伊予国博多近藤光金刀」と刻まれています。正面の壁面(松図、梅図)鏝絵も珍しいものである。小説家の檀一雄は昭和21年(1946)7月、最愛の妻リツ子を亡くし、4歳になったばかりの長男、太郎と 瀬高町朝日の親戚の村山健治のはからいで書き物するに静かな小田の善光寺の住職宅2階の借間に身を寄せる。一雄は太郎と一週間に一度は山里から瀬高の繁華街に出向き、工場(こうば)を散策したり商店で安い鰯など買い求めたりして生活をした。こうした生活が半年ほど続く。この間、友人や師から、妻に対する追悼や文学的再起を促す手紙をもらい再起し、「リツ子・その愛」を書き更に名作「真説石川五右衛門」の構想を練ったのもこの時期である。同じく瀬高に疎開していた児童文学者与田準一の仲人で瀬高町上庄の山下酒造家の山田賦令妹ヨソ子さんと再婚する。のちに誕生した長女が檀ふみである。
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善光寺

当時の檀一雄と太郎 |
久留米絣の始祖井上伝女は、天明8年(1778)の暮、現在の久留米市通外町の米穀商「橋口屋」こと平山源蔵の娘として生まれ幼少の頃から布を織ることにすぐれ、13才の頃(1801)古い布を解く糸に「かすり」のような柄が出てきたことから、糸に柄を付け、織る技法を考案し今日の久留米絣が出来ました。その後、21才の時市内原古賀町の井上次八に嫁ぎ、二男一女をもうけましたが、28才の時夫を失い、3人の子供をかかえながらこの道に励み、40才の頃には四百人の弟子がいて郷土の機業の振興に務めました。晩年は実家の近くに作業場を設け多くの子女を養成招かれては近郊に出張教授するなど久留米絣の発展に尽くし、明治2年(1869)82才で死去された。 |
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山裾の小田・女山・本吉の村でも内職の織り子さんにより盛んに織られ、村中に機織の音が聞こえていた。現在でも少数の家で手間賃仕事で織られている。平田で快適な機織の音に引かれて織り元を訪ねて見学させてもらった。根気のいる細かい手作業で鮮やかな絣の模様に気を引かれた。出来あがった久留米絣は1反あたりの編み賃が7千円位と聞いた。写真は平田部落の大石宅での久留米絣織りの様子 (平成17年11月)
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平田部落の地蔵堂は地蔵像と道祖神の猿田彦神を祀ってある。お堂手前左には社日さんの石碑がある。9月4日に地蔵まつりが行われている。ゆかた姿の女子小学生がお金を家庭から集め駄菓子(昔は地蔵豆)などを買いお賽銭をあげた参拝者にお茶請をふるまっている。平田の家を廻り「地蔵さんに参ってはいよ〜」と参拝を」促し夜9時まで行う。祭礼のあと集まった賽銭を高学年順に多く分け合いカレーライスなどで会食をやる。弘法大師も祀られ「おこぼさん祭り」は北組1班と西組2班の3組の順番制で旧暦3月21日と旧暦7月21日に朝9時から夕方4時まで食事を持ち寄りお堂で供養が行われている。お彼岸の時期にはお遍路さんが訪れ賑わう。3月と9月には千人参りが行われている。社日さんの祭りには周辺の農家からお金が上がっていたが現在は上がらない。 |
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【法讃寺】
平田の集落の中にある法讃寺は真宗大谷派で本尊は阿弥陀如来です。寛文6年(1666)八女郡光友の谷川より坂田左衛門則兼が当時真宗寺がなかった小田千石の要請により移り建立。今も谷川法讃寺と称し、光友の谷川には、寺屋敷の地名が残っている。 |
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