庄福BICサイト 【禁無断転載】 H21・10・ 6製作 H27・9・ 3更新 福岡県みやま市瀬高町大字大草 |
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この地は徳川時代の国学者、本居宣長以来、邪馬台国九州説の有力な否定地として注目されてきました。女山村には神籠石の配列石があり、山腹には古墳群がある。大塚村の前方後円墳は日本書紀・神功皇后記に山門県の上蜘蛛・田油津姫を討った記事があり、その蜘蛛塚と伝承が、近くの坂田には卑弥呼あるいは神功皇后が田油津姫征伐の時、官軍戦死者の墓という伝説があり、女性の首 長がいたことをうかがわせる。明治9年の町村合併により、大塚の「大」と草場の「草」をとって大草村が誕生した。こうしてできた地名を合成地名と言います。この場合は、合併する両村の戸数などが接近していて、一方の村名に吸収されることを、いさぎよしと、しなかったのでしょう。江戸時代からの道筋が残る 明治16年頃に測量した地図を検証しながら歴史探訪します。
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【女山村】 |
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女山はもともと女王山と伝えられる地で、3世紀に君臨した邪馬台国女王卑弥呼の居城の地と考えられる地域である。東の古塚山(標高203m)を中心に山の稜線添いには角石の配列が扇を広げた形をなして下方に広がり麓の谷には四ヶ所の水門がある。「日本書紀・続日本紀」等にも記録されない「謎の神籠石」は神域説(霊的説)など諸説あるようだが、今日では城の城郭としての要素を持つものだろうとの説がやや有力らしい。列石の内部には長谷古墳群・スモウバ古墳群・日吉坊古墳群・椎拾谷古墳群があり、銅鉾、大刀、土器、勾玉、貝製の雲珠などが出土している。梅野歴史資料館では裏山の古墳から出土された品などを多く展示している。昭和47年7月高速道路の建設前の発掘調査(大道端遺跡)で、女山神籠石の産女谷水門がある杉本神籠園の前面からの八楽会教団までの300m、幅50mにわたり表土をのけただけで次々と177戸の大集落の住居跡が発見された。まず古墳時代後期を中心とする住居跡の下層には、縄文時代と弥生時代の遺物も包含した地層をもつ複合遺跡であった。平成2年には圃場整備に伴い3ヶ所の緊急発掘で1区では弥生時代の竪穴式住居跡3軒、古墳時代の竪穴式住居跡6軒、2区では古墳時代の竪穴式住居跡では11軒、溝2条、3区では古墳時代の竪穴式住居跡21軒、溝1条の遺跡を確認した。大道端遺跡の発掘によると、数百の住居があったと考えられ、各戸5mくらいの方形の家で西側にかまどを備えていた。これらの住人達の墓地が女山の山部の集合古墳である。古墳には須恵器が多く、住居跡には土師器が多く出土している。大草の大道端遺跡をはじめ、坂田・本吉・朝日・堤・藤の尾の一帯は古代住居や古墳の宝庫である。まさしく「卑弥呼の里」と呼ばれ、古代ロマン漂う地域である。
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みやま市歴史資料館展示イラストより |
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【郷土の人物伝・梅野家】
女山の梅野家は寛永2年(1625)に黒田藩家老の梅野長右衛門(菅原信高)の弟、梅野孫兵衛(菅原信利)が女山に住い分家の初代となる。
2代目孫兵衛(菅原信時)は正保元年(1644)に立花藩に仕え、家老の由布九郎兵衛(5680石)に引き立てられる。
5代目梅野六之平(菅原信勝)は享保17年(1732)の飢餓において大塚村・女山・堤村・藤の尾村の500余人に私財や田畑を売り、玄米雑穀1200俵の食料を与え、死んだ農作馬の為に89頭を与え農民を救済した。なお貧困者のために、長崎まで出かけて富豪より千両を借用し4ヶ村を救っている。翌年正月に、救済の功績により立花藩主から身分格式を昇格され長田山を賜った。延享3年(1746)の飢餓でも本吉新町を含む5ヶ村を救済している。寛保2年(1742)には私財を投じて山下町より旅館20戸を本吉村に移し商家を建て清水寺参詣人の便宜をはかり地元を繁盛させた。同時に祇園宮を建立し産土神とした。
9代梅野六之平(菅原信成)は文久元年(1861)私財を投じ道路建設・道標設置などの公共事業に貢献し道標2基を立てた。現在、藤の尾の追分碑や草場の永興寺参道口石碑などが残っている。
10代の梅野六之平(菅原信周)は幕末に柳川藩士として官軍の会津戦争に参戦。従軍した時の鎧兜と日本刀及び日本刀をさした記念写真がある。
11代の梅野鉄太郎は明治25年(1892)東京駒場農業専門学校(東京農大の前身)を卒業し学んだ技術を取り入れ、地元女山の日子神社の北側に、製糸工場を造り、生糸生産を始めた。付近の農家はもとより、肥後方面(山鹿、植木、南関、菊池)の養蚕農家まで繭の買い付けに行くほど繁栄した。明治37年(1904)日露戦争が起り、輸出が止り、操業できなくなり工場を閉鎖した。また大正12年の放火で、清水寺の本堂が全焼した後、清水寺本堂の再建復興及び参道までの車道造りに尽力している。
12代の梅野茂芳は、昭和20年代に矢部川堤防及び橋と取付道路の嵩上げ改良などに尽力している。その他、所有地の裏山の古墳から発掘されたものに馬具の装飾具である「貝製雲珠」(県指定有形民俗文化財)、古墳時代に使用していた装身具「金環・銅環」、弥生時代中期の「勾玉の首飾り」などが自宅資料館に展示されている。敷地内の奥には長谷水門があり、国指定の史跡である神籠石が横切る。自宅の庭園は四季折々の木々や花を楽しむことができて、事前に電話予約をすれば見学も可能。
梅野家 |

梅野製糸工場の従業員 |
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【郷土の人物伝・俳人、松尾竹後】
女山出身の俳人松尾竹後は明治15年に旧柳川藩家老の由布家の3男として生まれ幼名を由布熊次郎といった。中学伝習館時代は由布白影と名のり北原白秋・藤木白葉・桜庭白月らの同僚と文学活動で目を開いた。のちに白影は俳句一筋に進み日露戦争従軍中に母方の姓を継ぎ松尾竹後の号となす。明治40年に上京すると、弱冠28才の若さで「宝船」の選者に抜擢された。大正8年「倦鳥」に発表した愛別離苦を詠じた連作句「海鼠の如く」の130余句は、当時の俳壇に衝撃を與えた。関東震災大正12年、瀬高に一時帰郷「瀬高倦鳥俳句会」を指導した。昭和16年に帰郷し、郷里を動くことなく作句と後進の育成にあたった。清水寺に松尾芭蕉忌を修し続けた。昭和35年、79才で没した。こよなく愛でた清水の本坊前庭に「しづかにも 月の僧坊 さまたぐる」の句碑がある。昭和35年に79才で永眠。死後「海鼠の如く」と題した竹後の句集が町内で発行され、句碑も5基建立された。立花道雪・立花宗茂の重臣由布雪下 の末裔である。 |
松尾竹後の俳句
明治40年上京した竹後は、若干28才にして「宝船」の選者に推され、明治、大正年間に次のような今に瑞々しい作品を発表している。
びろうどに真珠に冷ゆる雪は降る 沼沿ひの草恋ひ馳(は)せし雪舟(そり)のあり
よき水に茹(ゆで)竹の子の象牙かな 麦の穂のもやもやもせむ乳のあたり
躍(おど)らしき乳房つつみて単もの きりぎりす女は肌を見せずなりぬ
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【郷土の人物伝・杉本培根】
杉(瘁j本家は幕末の古文書では、当主の松三郎(培根の祖父)は特定の武士の「取次」としての地位を背景に土地集積・金融活動を行っていたことが解かる。近代に入ると父の杉本松之助は生業として土地経営以外に酒造業や製蝋業にも携わっている。また蝋だけでなく樟脳や米穀などを仕入れて、長崎・大坂に運び売りさばいている。また明治19年、山門郡瀬高町酒造会社が発足し、その中の第一人者であった。結婚して11年間子供を授からなかったが妻のキセは清水観音に午の刻の裸足参りの願を立て、一心に祈りを続け、明治20年(1886)4月8日に酒造会社の一人子として生まれたのが、杉本培根である。成人になると、すでに写真家として。一家を成すに至った。世間の関心を高めていた折、趣味の絵画に手を染めるようになり、昭和初年の頃から、院展審査員の赤城師に師事する事6年、この道に精進の傍ら、養鶏事業に手を出し、珍種の鶏を購入するなど、奇行に等しい事もあった。次いで洋蘭栽培に力を入れ、蘭を通じて東京・横浜を初め各地の知名人と交流があった。また肥後花菖蒲の品種改良に手をつけ、今日の杉本神籠園の基礎をつくった。この頃から坂本繁二郎先生と蘭に絵と親交が重ねられ、女山の住いに、しばし来訪された。杉本家には、坂本先生の遺彩が数多く蔵されていた。絵画のみならず、世道人心を導き、農を興し商を利するなど、独自の人生を歩み、昭和46年11月9日にに85歳で世を去った。
明治43年、生まれの息子の春雄さんは花菖蒲の育種の傍ら量産に取り組む傍ら、全国で植物収集をする際に昭和37年に、たまたま屋久島で発見した変種のタニワタリ。 そこからこのタニワタリの変種の選抜育種が始まり、のちのエメラルドウェーブとなる。さらに昭和24年生まれの孫の健康さんが九州県内の花菖蒲園のサポートを行う傍ら引継ぎ、平成6年にようやく品種の固定が確認でき、品種登録を出願。『エメラルドウエーブ』と名付けられました。平成7年からJAみなみ筑後瀬高花部会により関東、関西の花市場へ生花用として園芸連(現、JAふくれん)を通して共販をしています。
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女山日子神社(権現さん) 女山 |
明治12年行政区域の変更によって日子神社(旧権現さん)が下長田の行政区画となったため、女山地区では、神社を持たなくなった。その後、女山地区では不作が続いた為、分神を英彦山神宮より勧請して女山の南方の椎拾谷に神社を建立し祭礼を行ったが参拝人も減少したため、明治44年10月に梅野家の所有地の女山粥餅谷に宮を造営した。女山の日子神社を地元では「新権現さん」と呼んでいる。
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【御田植え祭】
長1人、早乙女8名計9名の男の子(現在は女子も参加)小学生が女装して、五穀豊穣を祈り田植えの儀式が行われる。おさは裃を着、御幣を持ち、早乙女は化粧して花笠をかぶり、絣の着物を着て手ずきん、ケハンをつけて田植えの動作をする。その際、御田植えのことばを唱える。当日使われる松葉(田苗にみたてたもの)は神官によりお祓いされたもので、その松葉を田んぼの隅に刺しておけば病、害虫除になると言い伝えられている。
女山部落の氏神で部落宅を1〜4組に分けお座の当番を決め定期的にお花を手向けている。山裾の鳥居から石段を登って行くが足に自信がない方は他の参拝者にお賽銭を渡し、代理参りをしてもらっている。祭礼は旧の2月15日だったが現在は長田の日子神社と同じ3月15日に行われる。鳥居から左の山道を30m入った所に女山神籠石の粥餅水門がある。 |
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A女山・大塚、地図拡大
女山(小字名)(行政区名) 女山ノ内(小字名)女山 |
女山はゾヤマと一般に呼びますが、ヂョヤマの転訛したものです。かっては、女山は女王山と呼ばれていたが、後世「王」をはばかり女山となったということです。この起名が、かっての呪術師、女性シャーマンによるものであれば、宗教地名になります。
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横尾 |
横尾寺の麓にあったことからの田圃の起名であろう。横尾寺は明治維新後の明治政府の神仏分離政策により廃仏毀釈運動により廃寺へと追い込まれた。境内山中の氏神の彦山大権現(日子神社)は明治12年行政区域の変更によって下長田の行政区画となったため、女山地区では神社をもたなくなった。その後、女山地区では不作が続いた為、分神を田川郡添田町の英彦山神宮より勧請して女山の南方の椎拾谷に神社を建立し祭礼を行ったが参拝人も減少したため、明治44年10月に梅野家の所有地の女山粥餅谷に宮を造営した。女山の日子神社を地元では「新権現さん」と呼んでいる。
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山川原 女山 |
返済川の河原と横尾寺(日子神社)のある山に挟まれた土地からの起名であろう。堤防のなかった昔には返済川は矢部川の水が流込む大きな河川であり、そのため地面下の往古の砂や砂利が採取されていた。東の池は粥餅谷(横尾谷)から流れてきた水の池であろうか。
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地蔵前(小字名) 女山 |
蔵は山や谷の意味があり崖地の地名もありますが、長田日子神社の鳥居手前の地蔵堂があることに起因する地名と思います。この地の南端の返済川に架かる橋の名は地蔵前橋です。
明治25年(1892)梅野鉄太郎(梅野家11代目)は東京駒場農業専門学校(東京農大の前身)を卒業した後、学んだ技術を取り入れ、ここ地蔵堂近くに製糸工場を造り、生糸生産を始めた。 |

長田日子神社鳥居 |
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粥餅谷(通称名)女山 |
女山のカイモチダニという面白い地名は、崖→ガケ→カケ→カイから起名されモチのように軟弱地盤の谷だったのではないかと思っています。長田日子神社の鳥居から左の山道を30m入った所の女山神籠石の横尾谷水門は粥餅水門とも呼ばれていた。神籠石の水門は南の梅野宅の北側空地の裏山に長谷水門があり、梅野宅の南側の庭園上の天満宮付近に源吾谷水門があったが開発工事で無くなった。さらに女山南端の杉本神籠園の裏山には産女谷水門がある。女山には谷の地名として宇倍谷・椎拾谷があります。 |
横尾谷水門 |
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柏木(小字名) |
返済川に沿った水田で、カシは自然堤防や傾斜地の意味があるので、自然堤防の土地が川に沿って長く広がっていたのでしょう。現在は整地され水田になっています。
女山から直接に大塚までの道が無いので梅野鉄太郎が私財を投じて明治後期に建設しました。現在の女山から八楽会教団の前を通り柏木橋を渡って大塚公民館に行く道です。その外鉄太郎は清水寺の現在の新参道も大正期に建設して貢献している。
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大道端(小字名)女山 A地図 |
昭和47年、九州縦貫自動車道路の建設で発掘調査があり、神籠石が近くにある、この地一帯は縄文から弥生時代の遺跡があり古代の住居が建ち並んでいたようです。小字の大道端の名は古代集落に大きな道があったのが起因でしょう。
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茂引(小字名) |
返済川の東側の水田です。茂は平坦地、引は低いの意という。
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栗の内(小字名)女山 |
荘園や公領を基盤ちして成長してきた武士団の屋敷または領地から起名したものです。本吉寄りにも狭いがもう1ヵ所あります。
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産女谷(うめだに.うずめだに)(通称名) |
東部山麓にあり語源は、本吉の梅ヶ谷(ウメガタニ)、成合谷(ナリアイダニ)と同類で土砂で埋まったことによる起名。またウームすなわち樹木の繁茂や農産物の豊作を願った地名とも考えられる。 |
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【大塚村】 |
大塚には、老松宮入口には田油津姫の墓と言伝えられた前方後円墳の大塚(蜘蛛塚)があったが、新道建設の際に二分され。石室の中心部のみ残り、塚上に地蔵尊を祀ってある。昔は雨が降ると、この古墳から血が流れると言われていたが、これ石棺内の朱が流れ出ていただろう。西南方向の畑には権現塚(坂田地区)があり、神功皇后が田油津姫征伐の時、官軍戦死者の墓という伝説がある。集落周辺からは弥生時代の遺跡が発掘されており、大草から坂田・山門地区一帯は古代から栄えた集落群であったことが判明している。大塚村は永正6年(1509)に戦国大名の大友義長より三池郡北部の田尻を本拠とする田尻氏に預け置かれた。天文17年(1548)に田尻親種は、拠点を田尻から鷹尾城(大和町)に移し、町南部の堀切・浜田に支城を設けている。 |

大塚(蜘蛛塚) |

権現塚 |
大塚老松神社 |
大宰府天満宮系の神社で菅原道真を祀る。天満宮は全国に多く分社しているが、この老松神社は福岡県に多い。瀬高町の場合南北朝時代頃は長田荘と坂田荘は大宰府安楽寺領荘園で、共に大塚集落と上長田集落と上坂田集落には老松神社が鎮座している。瀬高町には道真公を祭る天満神社は19社を数えるが老松神社は大宰府安楽寺領荘園だつた3社のみである。老松神社は思うに大宰府天満宮の分社と安楽寺天満宮領内の菅原道真を祀る神社を区別し寺領側を優遇したと考察できる。神社の名称の由来は菅原道真の両親が老松社に祀られているからとの説と、九州の太宰府に左遷された道真公は都を想い『東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ』と庭の梅を懐かしむ歌を詠みました。すると 都から歌に詠まれた梅が飛来して根付きました。これが飛梅、紅梅殿です。この梅を追って来たのが追松 転じて老松と言われます。この、能の題材「老松」にもなっている飛梅伝説から老松神社の名称が生まれた説もある。
老松神社は大塚・女山の産土神であった。昭和16年頃まではお祭りの時は立派な千灯明で境内が飾られ近隣からのお参り客で賑っていた。境内に老松が数本あって宮地獄宮に若宮の両社も祀ってある。祭礼は11月25日。平成17年の台風の被害で屋根が無く雨ざらしの状態(写真)であつたが、平成18年に小規模ながら社殿が再建された。入口の楼門は他のお宮に無い立派な建物で大塚部落民の自慢である。
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境内入口左にはに蜘蛛塚があり、この塚が大塚の地名の起こりである。神功皇后が征伐した田油津姫の墓とも伝えられている。この墳の南18mばかりの田の中に小墳があった。これも大塚と呼び、もとは一緒の前方後円墳であったが道路作りの時、二分されたものと思われる。大正2年春、田の中の小塚を崩して、その上に新道が作られた。昔は女王塚と呼んでいたが、後世になって大塚に改めたと言う。塚の上に地蔵尊を祀つてある。
【蜘蛛塚延壽地蔵大菩薩由来】
この地蔵尊は古代から祀り受継がれて来たのであるが、特に享保17年(1732)より6年間も、毎年連続して起こった洪水・凶作・大飢餓・火災などの災害の折には度々土砂に身を埋め、あるいは火に焚かれ、人々に代わって苦難を受けられたと伝えられている。台座の正面には三界萬霊、左面には大塚村中と彫ってあり、工事の際台座の下から、お題目(南無妙法蓮華経)と書いた小石82個が出土した事を見るにつけても、当時の人々が如何に深い信仰心を、この蜘蛛塚地蔵尊に寄せられていたか明らかに知ることが出来る。(村山健二資料) |
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超勝寺 大塚公民館隣 |
旧柳川藩誌中巻によると文禄4年(1595)に浄土宗に改宗している。弥生遺跡の地に建立されていて昭和37年春に境内から2千年前の弥生土器などが出土している。古老の言によれば、約500年前戦火によって焼失し、その後幾多の変遷を重ね、現在の建物は明治初年に永興寺の書院を解体し移転したものである。お寺の本尊仏は阿弥陀如来の古い座像である。元治2年(1865)当山53世の「忍蓮社頂誉上人戒阿正専大慧大和尚」の大位牌が存在する。境内の板碑の線刻地蔵尊は、永禄4年(1561)のものである。来迎寺の末寺であり元禄9年(1696)に上庄の来迎寺の住職、重誉光の陰刻の銘がある釣鐘がある。 |
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B大塚測量地図 緑線や活字はHP作成追加文字です
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眼鏡橋(大塚橋)大塚より清水寺の旧参道、一つ鳥居脇に移転 |
文久4年(1864)の春に石造りの眼鏡橋は完成ししている。当時の村人は、大水のたびに橋が流されるので立派な橋を架けたいとの願いから、女山の梅野六之平(8代目菅原信好か)に資を請い、石材は、今の高田町田の浦にある飯盛山から、山道は、きじ車(特殊運搬具)、平地では大八車によってはこばれた。夫役は大草一帯から集められた。大正14年、眼鏡橋のすぐ上にコンクリートの橋ができ、この橋が不要になり郡役所から取りこわしを命じられたが、御上から作ってもらつた橋でなく、村民全員で作った橋だから絶対取りこわすことはできないと村民一丸となり守り通した逸話がある。県道飯江−長田線の道路拡張の為に清水の旧参道に移設されている。
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大塚(行政区名) |
大塚の地名は古墳の所在地を示します。 |
東屋敷・西屋敷・北屋敷(小字名) 大塚 |
大塚集落の住宅街の意の地名です。東屋敷には廃寺になった天台宗の東光寺がありました。Bの大塚の地図の道路に面した東屋敷の紫の敷地です。現在は西屋敷に浄土宗の超勝寺がある。 |
垣添(小字名) |
大塚集落の東側の水田地帯にあり、集落を限る境界の垣根らしき所に付けられた地名です。 |
御供田(小字名) |
集落の東方にある水田です。神社にお供えするための水田です。 |
三反畑(小字名) |
大塚集落の北東の畑です。畑の面積を表す地名です。平成2年圃場整備に伴い3ヶ所の調査が行われ、竪穴住居群などが40軒近く発掘され三反畑遺跡とされました。 |
中畝町(小字名) |
中畝=中瀬で、「町」は一囲いの田地の意がありますから、傍にある返済川の中州を開拓した田地です。 |
日出(小字名) |
大塚集落の東端(女山側)の返済川に沿った水田です。日当たりの良い所の意の地名です。 |
中須(小字名) |
大塚集落の東端(女山側)の返済川隣の所です。ナカス(中須)=中州で返済川の流れによって出来た川の中州の意の地名です。中州を開拓して出来た畑です。 |
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上河原(小字名) 大塚 |
大草の返済川に沿った所の地名です。矢部川は現在のように連続した堤防でなく網目のごとく流れ、雨期になれば氾濫し平野の中に支流が勝手気ままに流れていた時代の川にまつわる地名です。下流に中河原・下川原の田んぼがあります。 |
立宮(たつのみや)(小字名) 大塚 |
大塚の老松神社の社領を意する地名です。 |
古賀(小字名) 大塚 |
古代の法律語の空閑から古賀・古閑の文字が出来た説と水の流れの乏しい所をコウゲと言っていたのが転訛してコガができた説がある。大塚の古賀は集落の南西側にあり、かって砂利の多いコウラだった荒地でした。 |
八反畑(小字名) |
大塚集落の西の畑です。畑の面積を表す地名です。 |
北ノ前・西ノ前(小字名) |
大塚集落の入口の土地の意の地名です。
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【草場村】 |
草場の香椎聖母宮は草葉、朝日、藤尾の三部落の産土神であった。荘園時代の本吉庄(本吉・草葉・朝日・堤・藤尾)は平安末期から鎌倉・室町時代まで香椎宮の領地であったので草場の地に香椎聖母神社を創建したとであろう。天正16年(1588)立花宗茂は柳川拝領入り城以来、かねてから信仰していた香椎聖母宮を草場に社殿を造営し社領を与え保護をした。祭りの流鏑馬や草場行列(ドンキャンキャン)は昭和45年(1970)で終わっている。
Cの古地図を見ると山沿いの唐尾から山川町への唐尾道は元禄9年(1696)まで薩摩街道(坊津街道)として利用されていた道です。豊臣秀吉が薩摩の島津征伐の為に通った道は矢部川を渡り上長田〜大塚〜草場の尾島道を通過しているが、現在は農地整備でこわされ唐尾・尾島道の追分の道しるべ石柱は清水小学校に移設されている。部落を通る新道は大正14年に建設され、昭和15年産業道路(現国道209号)開通により接続するために県道として拡張されたであろう。現在、道幅が狭い為に、新たに旧街道にそって女山方面まで県道が建設された。
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C草場拡大地図 緑線や活字はHP作成追加文字です
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唐尾道と尾島道、追分にあった道しるべ(清水小学のグランドと校舎間に移設) |

草場の追分の道碑(文字部加工) |
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左側面には三池今町(三池郡) |

昔の唐尾・尾島道 |
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現在の明治期に直進化されrた唐尾道 |
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原本の地図
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【寺社仏閣】
永興寺(叡興寺)(巨泉山 仏頂院) 大草 |
永観2年(984)、源信(恵心)僧都が千手観音を刻んで本尊とし開山したとある。古僧都山はそこから呼ばれるようになったのだろう。 筑後観音33ヶ所の霊場である。
清水寺と共に山岳仏教の代表的なものであった。本堂前左の崖下には瀬高町指定文化財の自然石梵字板碑があり中央の二重円相中に釈迦如来の種子、下部に長い碑文あり永興寺の縁起などが書かれているが解読不可能である。
建久3年(1192)、源頼朝が幕府を開いた時、梶原源太を普請奉行として楼門を建立した。その後、横尾寺の僧との間に争論があって全部が焼失した。建久4年(1193)、建立の境内にある「五輪の塔」は父の敵討ちを成し遂げた曽我十郎祐成、五郎時宗の供養塔とされ、十郎の恋人、大磯の虎御前が、兄弟のために諸国を巡礼の折り、叡興寺の山門を 梶原景季 が 普請奉行となって再建することを知り、はるばる瀬高の女山神籠石の 源吾谷 水門近くに住まいを定め, 曽我兄弟の供養塔2基を建立し, 女山から叡興寺まで日参して兄弟の冥福を祈ったとの伝承がある.供養塔には建久何年(1190〜1199)と刻した銘がわずかに見えていたが今は不明である。虎御前はふもとの女山(現・梅野宅)に庵を作り祈り続けたという。「南築名覧」には「今、梅野某屋敷の内に観音堂あり。これ両尼草庵の跡地。池あり「鏡が池」と名づく」とある。山川町に「虎坂」があり,伝承の虎御前の墓があったという。 「虎御前の墓」は,現在不明. 道路拡張をするときに埋められ, それを知った築地原正英氏(福岡県文化財保護指導委員)が すぐに現場を訪れ探索しましたが、現在に至るも埋められた場所を特定できていません。
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【曽我兄弟・虎御前の伝説】
伊豆地方のにおける領地争いで、伊藤祐親と工藤祐経の間にトラブルが発生し、祐親の子である河津祐通が暗殺された。 曽我兄弟は北条時政に仕えながら、父の敵として祐経を殺害する機会をうかがっていた。 建久4年、源頼朝が富士の裾野で狩りを催したときに, 兄弟は祐経を討ち取って念願の敵討ちを成就させた。兄の十郎はその場で新田忠常に切り殺され、弟の五郎も生け捕りになった後、頼朝の直々に取り調べられて処刑される。兄弟が死んだ後、十郎の恋人、虎御前、19歳は曽我の母のもとを訪ね兄弟を弔い出家する。兄弟の霊を弔いながら諸国を回って、供養のために百堂を建立したと「曽我物語」あらすじである。
しかし鎌倉・室町時代、こうした怨霊鎮圧の話を語りながら農村を回る尼僧姿で諸国を遊行して歩いた、一種の女旅芸人「虎女」の”曽我語り”の唱導により全国に伝播し、御霊信仰と結びつき、曾我兄弟の供養墓や百堂・虎石などを建てられともいわれる。
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永興寺 |
明応年間(1495年前後)に天台宗の檀徒によって守られるようになり、本堂には千手観音の霊像が安置してあった。
慶長7年(1601)、僧尊隆が中興して、3年後藩主田中吉政より観音供養料を寄進され、後の世、藩主立花家よりも寄進された。正保3年(1646)立花忠茂は東照宮霊祀を寺内に建て荘厳を極めた。代々の柳川藩主は此の霊祠に参拝していた。 寛政2年(1790)の古絵図には北側に本堂があり、南には東照宮霊祀と稲荷宮が祀られていたが、明治の廃仏毀釈で焼失し、現在は観音堂と正一位豊政福稲荷大明神のみがある。昔の繁栄した永興寺の面影はなく江戸時代の造立の石仏と唯一の多層石塔が静かな山間にたたずんでいる。
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古図には虎御前が建てた曽我兄弟の五輪塔二基がある・立花忠茂が建てた東照宮霊祀もある |
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熊野神社 大草字山田 |
永正3年(1506)に領主溝口太郎藤原弐資が建てたとものであるという伝えが残っている。境内には、正保3年(1646)に建立したという東照宮があったが、明治8年11月の火災にあって今はない。御神体は永興寺にある。熊野信仰は鎌倉時代に関東の武士が下り(下り衆と称し西遷御家人)持ち込んだものである。
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豊政福稲荷大明神 大草・永興寺境内 |
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永興寺の境内観音堂前に正一位豊政福稲荷大明神が祀られている。創建は不明であるが江戸期の寛政2年(1790)の絵図面には現在の位置は東照宮の鳥居があり、急な石段(一部下段が残る)を登ると立花忠茂が建てた東照宮(御神殿)があり北側に稲荷宮がある。明治になり、焼失した後に現在の場所に移動されたであろう。 |
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香椎聖母宮(しょうもぐう) 草葉 |
明治初期までは草葉、朝日、藤尾の三部落の産土神で神功皇后、応仁天皇,武内宿弥が祭神となっている。荘園時代の本吉庄(本吉・草葉・朝日・堤・藤尾)は平安末期から鎌倉・室町時代まで香椎宮の領地であったので本社の香椎宮(福岡市)から勧請し草場の地に香椎聖母神社を創建したと考察できる。藩政時代に移り柳川藩主・立花宗茂の領地となる。立花宗茂は生まれ故郷(豊後国)玖珠郡筧村の神主、吉弘艦理の次男高橋招運の嫡男で1568年に生まれた。同所の産土神は香椎聖母八幡宮で宗茂は、かねてから厚く信仰していた。天正16年(1588)立花宗茂は柳川拝領入り城以来、草場に社殿を造営し社領を与え保護をした。また、堤、藤ノ尾の氏神でもあった。その後に廻廊楼門など氏子中によつて修理がなされている。この宮の祭礼は、旧11月19日(現在は11月第2日曜日)で、祭の座元から行列は太鼓、鐘で賑やかに行われていた。行列の順は、先頭が露払い、猿田彦大明神(赤、青の面を持つ)、神職、座元、御弓、薙刀、鉄砲、村人、お馬四人、鐘、小太鼓、人重部、傘鉾、鋏箱、道化(5,6人面を付ける)大太鼓(主役で飾りつけをする)、打つ人4名(シャグマ、タスキ)で総勢61名である。ドン、ドン、キャン、キャン、ドン、キャンキャン、と大太鼓にあわせ、鐘、小太鼓が一体となって、行列はお宮に向って進む。お宮に到着と同時に、騎馬武者が出てきて流鏑馬を行ないお祭は終わる。この草場行列(ドンキャンキャン)は昭和45年(1970)まで行われていた。現在は草場の産土神であり祭りの風流に使用した大太鼓は神殿に保存されている。昔の参道はもっと長く松並木であった。太平洋戦時中に燃料用として松脂を取る為傷つけられその後全部の松が枯れて無くなっている。境内には観音菩薩を祀ってあり、お彼岸時は巡礼者がお参りに訪れる。
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草場(集落名)(行政区名) |
大草の草場集落の地名について、その起因に、大化の改新の地方制度としての草壁郡や、神功皇后が田油津姫征伐の戦場(いくさば)と結びつける伝説があります。でも草場は昔の草の繁った土地の遺名でその草を肥料や牛馬の肥料にする為の採草地であり、雑草が繁り、農民にとっては大事な土地であった。その採草地から「草場」の地名が起こったものです。
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黒岩(小字名) 草場 |
慈恩の滝の黒色の岩の所在が起因の土地と古老が説明してくれました。 |
黒岩口(小字名) 草場 |
山の上に黒岩溜池があり慈恩の滝の水が朝倉との境に流れくる出口の意の起名です。 |
ナラ町(小字名) 草場 |
寺田の北隣の水田です。地名語源辞典にはナラは暖斜地、平地、「ならす」「なるい」などと同源とあります。山からの傾斜地を開墾した意の地名でしょう。 |
朝倉 草場 |
本吉八剣神社三叉路から山沿いの道で女山の入口で山の下の所です。素敵な山村風景を感じさせる地名ですが、アサクラ(朝倉)=朝は暗いの意味で、山かげにあって朝のうち日蔭になる所の地名です。やはり午前中は山裾で日蔭で暗い所です。 |
寺田(小字名) 草場 |
本吉から山沿いの道で女山の入口西側の水田です。どこかのお寺の寺領水田の意の地名です。 |
東屋敷・西屋敷(小字名)草場 |
昔の人は家のことを屋敷と呼んでいました。草場集落の住宅地の意の地名です。 |
寺屋敷(小字名) 草場 |
草場集落の北側にあり広い敷地(現在は水田)です。記録には残っていないが相当大きなお寺があったと推測します。 |
馬場内(小字名) 草場 |
香椎聖母神社の社領で、中世からの、騎馬術の訓練場だった所です。香椎聖母神社の参道は現在よりも長く、松の並木であったが戦後に枯れて無くなっている。 |
弥三町(小字名) 草場 |
草場集落の南端にある水田です。ヤソは湿地と雑木林などの不良地を指す意ですから、整地する前は湿地だったでしょう。
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沓形(小字名) 草場 |
草場集落の南端にある水田です。ガタは湿地を表しますので、整地する前は踏んだら練りこむ湿地あるいは「クツ」形に湾曲した地形だったでしょう。
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竜毛(小字名) 草場 |
草場集落の南端にある水田です。「竜」は水神を表し、「毛」は作物の意があるので、神社にお供えする為の畑でしょう。
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三舟(小字名) 草場 |
草場集落の南端にある水田です。縄文時代から、この辺一帯は矢部川が網目の状態で流れ、海が傍まで侵入して、舟が出入りしていたから起名されたのでしょう。
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本津(小字名) 草場 |
三舟の北側にあり草場集落に接している所です。地名語源字典には、モト(本)はオオモトの意で、ツ(津)は舟着場、港とあります。草場の舟着場の意の起名だと思います。
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塔薹(小字名)草場 |
三舟・本津の西隣で舟の航路の西岸と想像します。塔薹=灯台で早朝や夕方に港を標す明かりを灯した所でしょう。三舟・本津・塔薹の地名から、昔はここに舟着場があったであろう。
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東前(小字名) 草場 |
草場集落の東入口の土地の意の地名です。
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ヱザリ町 |
躄町と書くのだろうか、珍しい地名です。
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小字地名解説文は故鶴記一郎氏の承諾で「地名の話し」を引継いで編集いたしました。本ホームページ掲載記事の無断掲載はお断りします。
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