庄福BICサイト   H20・9・8作製      H21・4・1更新

   【古代】
 瀬高町の東部の清水山の遺跡から3万年ほど前の旧石器時代の石器が出土しており、ふもとの大道端遺跡(おおみちばたいせき)などからは縄文時代の石器や土器さらに117戸の大集落の住居跡が発見されている。
 三橋町の垂見(たるみ)校区では縄文時代後期に有明海の水面が下がり、陸地が出てきて2000年程前の弥生時代中期に、水と稲と海の幸を求めて人々が住むようになったと考えられている。平木御仁橋垂見字三橋棚町南部川端などから当時の土器が出土している。人は田畑の作物や有明海の魚や貝も多く食べていたとみられる。
 有明海をとおして南の鹿児島や沖縄ともさかんに交流していたことも南の海の島でしか採れない貝の装身具(そうしんぐ)の出土から解っている。さらに朝鮮半島や中国大陸から鉄器や青銅の武器や鏡など、いろんな技術が入ってきており、登り窯を使って1000度以上で焼かれた古墳時代の土師器(はじき)や須恵器は、平木天満宮付近・三郎丸江崎の城(吉田病院の北)心源寺付近・三橋中学校付近・棚町五十丁などから出土している。古墳時代の古墳も江崎の城平木の南西で確認されている

   【飛鳥・奈良時代】
 645年の大化の改新により中国(唐王朝)の律令制度の影響を受けた律令国家が誕生。地方に国をおき、国の下に郡、郡の下には里(のちに郷に変る)福岡県地方は筑紫国と呼ばれ、690年頃に筑前国筑後国に別けられた。
 郷土は、筑後国山門郡に属した。奈良時代の715年条理制(じょうりせい)は瀬高町の金栗の西を基点として南北一条・二条・三条と西に広がり、沖端川の上流(中山の北)を基点として北から南に一里・二里・三里と広がっている。垂見校区は三条から七条(東西)南北は二里から五里の間に含まれている。
 一平方里を一町間隔(かんかく)で縦横に各六等分され、その一コマを坪と言い、その面積は一町(1ヘクタール)である。なお平木木坪は七条五里二ノ坪にあたり、ここから昭和30年頃に条理制時代の住居跡や土器類がたくさん発掘されている。当時の生活は掘立て柱にカヤ葺き屋根の竪穴住居で床は土間で真中には炉があり片隅に釜戸があったとみられ、人民の生活は税や兵役にさらに天災や疫病に苦しめられたと思われる。
  【垂見村のおこり】   
11世紀後半の八幡神社の筑後進出により、高良玉垂神と八幡神を併祀し、また別宮として創建されて行く過程のなか、垂見村の神社八幡宮が創建されたのは久安4年(1148)8月と同社の縁起書は伝えている。この社の祭神は八幡神外海神(高良)、住吉神となっている。久安4年はこの社に八幡神が祀られた年でその以前の神は海神であったであろう。
 天慶神名帳(てんぎょうじんみょうちょう)山門郡に二十六社があり、そのうちに垂水三宅(毛)門神がある。これが垂見八幡宮の前神であろうと考えられる。また播磨国明石郡垂見郷垂水神社が本社でなかろうか。同社の祭神は垂水大神(龍)海神、衣財内神となっている。この両社の関係を考えるとある共通点があることが考えられる。
 この社の創建は天慶(てんぎょう)8年(945)以前にさかのぼって考えられることは、同村に元村前元村浦の地名があり、その周辺に弥生の遺跡が残されており、ここに古い村があったと考えられる。北村元村の北にある村の意で元村より新しい村であろう。
 後の時代、嘉歴(かりゃく)3年(1328)の鷹尾神社の古文書に垂見大宮司の名が見えるがその性は明かでない。この宮司が九月会(新暦の10月)に奉仕するというのは鷹尾八幡の大事な祭りと考えられる。海神の祭礼9月9日を考え合わせるとその重要性が伺われる。武家の進出支配のなかで八幡神への武家集団の特別な信仰を集め、神威を増して来た。
 戦国時代に戦略拠点たる垂見城をめぐる武士の興亡、豊後の大友氏第15代大友親繁(おおともちかしげ)ゆかりの心源寺の存在等にその影を見ることができる。
慶長(けいちょう)5年(1600)、柳川城主の立花宗茂が関ヶ原の役出陣に当たり、当社に重臣を代参させ、御神刀を奉納し、戦勝を祈願された程の由緒ある神社である。


垂見八幡宮
  【瀬高庄】
 律令制度も維持できなくなり、平安時代中期には土地の私有制が起こって、郡司や村役人などの豪族は耕地を開発して私有地(名田)の所有者(名主)となった。自分たちの土地を国司の支配から守る為に、特権を持った皇族や貴族(公家)あるいは寺院や神社に寄進して、その庄園(荘園)にすることが盛んになる。
 郷土も保安(ほうあん)2年(1121)藤原俊忠が都から大宰府の役人(長官)、太宰大弐(だざいのだいに)としてきて、瀬高の荘園を領有し瀬高庄が成立した。
 
大治(だいじ)6年(1131)瀬高庄は上庄と下庄に分かれた。鷹尾神社古文書後鳥羽院庁下文によると嘉応(かおう)年間(1170)頃は俊忠から京都の左大臣・徳大寺実定に世襲された庄園であった。
 古くから
高良大社の別宮である鷹尾神社瀬高下庄の鎮守社に定められ、名別(村別)に徴収される一定額の役米が、鷹尾神社の経済を支え、祭礼・掃除役・宿直役なども下庄の名主たちが公平に負担していた。
 寿永(じゅえい)元年(1182)鷹尾神社古文書に二十二名(村)が瀬高下庄の村々であり、同社の正月7日間と彼岸饗膳を調達していた。その中に三橋町内には稲富枝光新名熊丸北鴨住吉富の村がある。往時これらの村は下庄の村々に含まれていた。垂見校区内に鴨住熊丸三郎丸がある。
 この頃に上庄には庄館(しょうかん)(役所)があり、ここから柳川方面に道路が開かれていた。この道は柳川瀬高間の旧道である。この道に架かる橋があり、五十丁御前橋御仁橋御三橋と言った。御三橋は現在の三橋町の村名の起こりである。
現在の県道は明治18年(1885)に開かれた道で国道であった( )明治42年(1909)に柳河〜矢部川駅(現・瀬高駅)間に柳河軌道が開通していた。この軌道は昭和7年(1932)三国鉄道(佐賀線)の開通によって廃止となった。その後バスが開通して今日に至っている。

 鎌倉時代には豊後(大分県)の守護大友氏の一族である大友秀直(ひでなお)が、鷹尾別府の地頭職を獲得し、出入りの船から年貢を押領し、鷹尾神社との争いごとを起している。
 建歴(けんりゃく)3年(1213)の鷹尾神社古文書に瀬高上御庄住人横手入道無縁なる者が祭礼用の大刀を奉納する代わりとして米三石を寄進している記事がある。これは五十丁横手の住人であろう。横手の庄上庄の一村であったと考えられる。上庄は瀬高庄の一部で矢部川瀬高町上流、および柳川方面に村々があったようで、上庄に属する村は横手梁河村(柳川)・藤吉村・筑後市の今寺の村々があげられている。横手の天満宮はこの頃の社であろうか。

 南北朝時代での庄園の資料には康永(こうえい)3年(1344)瀬高庄とあり、南朝の興国(こうこく)5年にあたる。北朝の年号である康永の使用から北朝方であった。なお北朝の年号、明徳3年(1392)蒲船津(きもん)天満宮が創建されている。この年は南北統一の年である。いずれにしても柳川城主蒲地氏は北朝方に味方しているので、その配下の山門郡北西部は蒲地氏と行動を共にしたのであろう。

 室町時代応仁の乱(1467)以来、天下は乱れ、幕府がおとろえると、戦国大名が現れ、たがいに自分の領地を広げる為に争った。山門郡も北西部は蒲池氏(かまちし)が南東部および三池郡田尻氏(たじりし)が支配していた。郷土の垂見城白鳥城蒲池の支配下にあった。
 大永(だいえい)5年(1525)大内氏の重臣陶美作守が侵入し筑後の諸城を攻めたとき、この城によって郡内の諸豪を攻めた。小田の溝口、立花町の辺春はこれに加担したが、大内氏の没落によって兵をおさめている。

 
天文年間(1532〜52)の頃は豊後に勢力をもつ戦国大名の大友氏が筑後に進出、柳川蒲池鑑盛(かまちあきもり)鷹尾田尻親種(たじりちかたね)これに応じ、郡内ほとんど大友氏に従いました。天正の始め(1573)垂見城によったのは垂見常陸介(ひたちのすけ)である。勿論蒲池の家臣である。垂見村のおこりで書いた嘉歴3年(1328)の鷹尾神社の古文書の垂見大宮司と関係ある人であろう。
垂見城跡は垂見村の東北、城町(しろまち)という所にその史跡標が立てられている。城町とは奈良時代の地名代町(水田)の意であったとも考えられる。また八幡宮の北東部あたりが旧城跡でなかったかとも思える。垂見城がおちるのは天正7年、または蒲池一族の没落の天正9年(1581)と考えられるが、その記録は残っていない。

   【白鳥合戦】
 旧柳川藩誌によると戦国時代の天正7年(1579)5月5日肥前(佐賀)龍造寺家治(いえはる)鍋島直茂(なおしげ)の軍勢は筑後の支配をねらって、兵1万を率い山下城(立花町)蒲池鑑広(あきひろ)を攻めてきました。このことを予期していた鑑広は、肥後の大津山河内守資冬(すけふゆ)和仁丹波守(わにたんばのもり)に援軍を求め、筑後の緒将とも連合し、蒲池勢は瀬高下庄に陣を敷きました( )
 蒲池鑑広先鋒(せんぼう)上庄に入った。肥前勢はこれを破って下庄に進む。松延に陣した援軍の肥後の大津山和仁の兵( )矢部川の下流を渡って肥前勢の後方との間に別け入ったので肥前の軍勢は白鳥( )まで退却して陣を立て直したが、そこへ鷹尾城(大和町)に待機していた田尻鎮種(しげたね)と大間城主三池鎮実(しげざね)が、すかさず攻撃を仕掛け、勝敗が決らないまま日没なで死闘が続きました( )この戦いを考えると下庄上庄白鳥と、瀬高( )から三橋東部にかけてが古戦場であり、その最後の戦いが白鳥城中心に行われたのであろうが( )これを守ったのは白鳥兵庫である( )

白鳥城跡は本丸、二の丸、出の丸があり、周囲を堀で囲み、西に入口がある。現在は陸続きとなっているが当時は堀が連なり、橋を架けていたであろう。白鳥村の東に白鳥神社は白鳥兵庫が、おそらく信仰した社であろう。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を葬った伊勢能保野から飛び立った一羽の白鳥がここに来て遂に 見えなくなったという言い伝えがあり、日本神話の日本武尊を祀る神社です。
 天正9年(1581)柳川城主の蒲池鎮並(かまちしげなみ)肥前龍造寺隆信のために佐賀で誘殺された。柳川城を守った弟の統安一族はすべて討死し、鎮並の子供の宗虎沖ノ端で捕えられ殺された。垂見城もこの時に攻められ垂見常陸介も戦死したであろう。白鳥城白鳥兵庫もおそらくこの時に戦死したであろう。こうして蒲池氏は没落し、柳川城は肥前龍造寺氏の家臣鍋島長門守が城番となった。


白鳥神社
白鳥古戦場 白鳥城跡 垂見城跡 三橋中テニスコート西

    【豊臣秀吉の九州平定】
天正15年(1587)4月豊臣秀吉島津征伐の為に九州に下った。立花宗茂(たちばなむねしげ)(筑前立花山の城主)はその先鋒となった( )5月には島津氏は降伏した。天正16年(1588)6月立花宗茂は功によって柳川に封じられ13万石を領した( )宗茂柳川に封じられてから豊後臼杵より移し建立された寺が垂見の心源寺である( )心源寺は戦国大名大友氏の第15代当主大友親繁の菩提寺という( )本寺にあるの大友親繁位牌は文明14年(1482)であるが、旧柳川藩誌には明応(めいおう)2年(1493)とある( )現在は本堂のほか墓地などがあるが、元は境内も広かったという。
 寺の西北に八郎さんという社跡がある( )八郎は八大竜王のことで竜神すなわち海神である。元は心源寺の境内社であったという。当寺は元は天台宗で曹洞宗に改め現在に至っている( )
慶長5年(1600)天下分け目の関が原の戦いで立花宗茂は西軍に属して近江の大津城を攻め落としたが( )西軍が破れ柳川に帰った。かねて親交のあった加藤清正(かとうきよまさ)瀬高に来て、久末(三橋町)に陣を構え宗茂に城の明渡しを説得した( )宗茂清正の好意で肥後の高瀬に向かった( )
 加藤清正陣営跡
    【柳川藩時代】
徳川家康慶長8年(1603)に幕府を開いた。宗茂にかわって柳川に入城したのは岡崎城主の田中吉政である。筑後32万石を領して柳川を居城とした。口分田甚五右衛門により小さな城を壊して水田とさせた。白鳥垂見城は、この時に壊され開田されたのである。
 元禄(げんろく)14年(1701)に藩は、筑後柳川城の辻門前の札の辻を基点に藩内に一里石などの道標を築いたとある。三橋御仁橋の中間の一里石はこの時に立てられたものとみられる。題して「柳川より一里」とある。瀬高街道は柳川から上庄の薩摩街道と交わる出口迄であるが、薩摩街道を上り本郷から東に伸びる矢部往還を通り藩領の東端の矢部村があり、上庄から薩摩街道を下り肥後(熊本)南関の手前の湯谷が藩境である。これらの街道は藩行政にとって大切な道路であった。
瀬高街道の一里石
 御仁橋村垂見の分村で垂見散田といった。この村の鎮守八幡宮は垂見八幡宮の分社で室町時代後期の創建と言われている。
八幡宮
 田中吉政は当初キリスト教を手厚く待遇ししており、慶長(けいちょう)12年(1607)柳川のキリシタンは1400人とある。 慶長18年(1613)12月、これを禁じて、教徒を追放した( )しかし宗教の力は強いもので、ひそかに信仰し続ける者もあった。棚町の観音堂本尊仏の傍に子供を抱いた小さな仏像がある( )子供の顔が外向か内向でキリストの母マリアか在来の子持ち観音であるが( )棚町観音は隠れキリスタンの信仰の対象となったかも知れない。

 正保2年(1645)に蛇行した矢部川の流れを変更する掘り替え工事が津留村泰仙寺・浜田であった。これより以前は棚町の地は高柳と地続きであったのであろう。
 棚町字熊丸高柳五郎四郎入道の支配地であったことは、鷹尾古文書にあり、承久元年(1219)鷹尾社祭礼諸役衆等日記に西郷高柳上三郎大宮司、高柳舟大夫の名があることから考えると棚町は元は高柳と一連のつながりがあったと思われる。矢部川の改修によって棚町高柳日吉神社の分霊を祀ったと思われる。日吉神社の祭神は大山積の神である。山の神は水が水田に引かれる頃、山から下りてきて農耕を助け、秋の収穫が終わると山に帰ると言われている。
 
柳川藩は藩内の村々を治めるのに7組、後に9組も大庄屋を置き、その下の村々に小庄屋を置いた。郷土では垂見組大庄屋の支配下にあったが、上垂見下垂見白鳥上棚町のほかは大和町の各村を含んでいた( )五十丁は本郷組に属していた。垂見組の大庄屋は池末直右衛門といって柳川本町組支配池末氏の一族であった( )垂見村の高石氏や大町氏も大庄屋であったというが、記録はどこにも残っていない( )本郷組は本郷の氏で宗茂以来代々その職を命ぜられた家である。小庄屋については垂見の藤吉登喜(故人)の家がそれであったという( )五十丁菊次藤七.その子藤助がつとめと本郷組大庄屋記録にある( )
 
垂見組に属する村は、南徳益北徳益野田四十町上塩塚南野作出皿垣江島明官開南野開皿垣開中島島堀切鷹尾古河西津留江崎弐町新開下棚町中棚町上棚町白鳥上垂見下垂見である( )

 文政7年(1824)10月
三柱神社造営につき五十丁村は米2石6升5合を寄進している。文政9年1月には五十丁村の小庄屋の菊次藤七は御役御免となり( )息子の藤助が代役を仰せ付けられ、前々の様に郡役所直支配となっている( )

文政11年(1828)8月に西日本を襲ったシーボルト台風の暴風雨で五十丁村は倒家17軒の被害があった。

   【島田天満宮】
 古くから驚風(けいれん・ひきつけ)高熱の神様として名高い神社です。 「山門郡誌」によれば享保年間に大宰府天満宮の分霊を奉祀、守護神とした。後日、氏子の子供が筋引の疫病かかり祈願して病気が全快。その事が嘉永慶応の時代に四方に伝わり、明治に至り参拝者が激増した。例祭(毎月25日)当日は柳川軌道も臨時列車を出したとある。現在も島田の世話人の奉仕で毎月25日には祭礼が行われ、祭日には子供の安全祈願や安産、学業成就(じょうじゅ)を祈願する参拝客で賑わっている。境内には八坂神社這鷹(はいたか)神社があります。這鷹神社はもともと同地方の氏神として崇拝されたものといわれる。

 江戸後期の記録に「垂見表」とある。この地は昔から藺草(いぐさ)の栽培が行われたと考えられる。古くは建歴3年(1213)鷹尾神社古文書の宝殿修理併装束用途物注進状に七尺莚(むしろ)四枚内三枚御畳料一枚御シトネノ料、下敷薦三枚御畳料、御庄名々弁ずとあり、垂見村は鷹尾神社の名(村)で無いかも知れないが、神社用のほか、上流家庭の畳や下敷に用いられたと考えられる。垂見周辺では優秀な製品が作られていたのでその名があると思われる。
藺苗の株分け
 垂見には柳川藩が推奨した木蝋の製造する家があり、戦前でも十戸余りもあった。木蝋はハゼの実を蒸して蝋を搾りだす仕事である。こうして作られた木蝋を削り、太陽にさらして白色にして「さらし蝋」にしていた。
 垂見保育園付近の場所は江戸時代火薬の製造所であった()加藤某がその任に当った。付近に2m以上の堤防が廻らされた火薬の貯蔵所、煙哨庫があった。今は開田して水田となっている。

     【明治時代】
 明治維新により士農工商の階級制度が廃止されたが、なお士族・平民という肩書は残された。その他、断髪令・徴兵令が出たり暦が新暦となった。明治2年(1869)に垂見の心源寺に大坪関高氏は私塾を開いている。明治4年(1871)廃藩置県によって柳川藩は柳川県となりついで、三潴県となり、明治9年(1876)に福岡県となった。始め山門郡を15区に区分された。垂見村上棚町村白鳥村は第八区に属し、平木村は十区に入った。
 明治6年(1873)大政官布告による学校を心源寺に開校、知新小学校と命名し、 明治11年には垂見八幡宮前(現・山田宅)に萱葺き二階建の新校舎が建てられ垂見小学校と改称している。
 明治27年(1894)
には垂見尋常小学校と改称して現在地(垂見1610)に移り、足洗学校(水町)島田・散田塾が廃止され垂見尋常小学校と合併。当時の卒業生の思い出文章によると、雨の日は蓑(みの)やゴザの上を縄で結んでかぶって、ゴム長靴など便利なものはなく、そんなときは皆は素足で通学していた。冬の雨の日は足はもちろん、ゴザを透して肩や脊をぬらし冷たかったとある。

垂見小学校
 明治22年(1876)垂見(1329人)・白鳥(405人)・五十丁(393人)・棚町(794人)の四村が合併して人口2921人・505戸の垂見村となり、役場は村の中央の棚町沖田に置いた。村長は末松和作であったという。
明治40年(1907)4月宮ノ内村川辺村川北村垂見村の四村が合併して三橋村が誕生した。

 明治43年(1910)三橋村に電灯が点灯した。それまではランプを使用していた。ランプのホヤが、ススで黒くなるので夕方に掃除するのは子供の仕事であった。電球のことをホヤと呼んでいたのは、ランプの時代の名残りである。



垂見

このページは昭和51年の「垂見小学校10周年誌」に掲載の郷土史研究家・故
堤伝(つつみつたえ)氏の「垂見校区の歴史」を御子息の了解を得て編集・作製させてもらいました。