⑦-⑧ 【奴国から不弥国 へ】
東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
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(現代文訳)(奴国から)東に行き不弥国に至る。百里。官は多模といい、副官は卑奴母離という。千余りの家がある。
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不弥国の比定は、宇美町が有力であるが南方面の大宰府市や筑紫野市にに不弥国が広がっていた説もある。言語学者の長田夏樹氏のいう「洛陽古音」で「ホ・ム(ホ・ミ)」にあたるという立場に依拠して、「宝満山」の西麓の太宰府市付近を考えている。すなわち、宇美町と太宰府市・筑紫野市にまたがる秀麗な山・宝満山(標高869M)は、ホツミ→ホツマあるいはホミである意見あり。また現在の呼称「hou-man」の山がもと「hou-mitu」(あるいは「hou-mit」)の山で、このくらいの転訛は十分ありうるのではないかと思う。太宰府という地名自体は置かれた官署・大宰府に因るものだから、別の地名(不弥国)がもともとあった筈でもあろうと語る。
奴國が博多湾岸から春日市のあたりだと想定すると、東の不弥國は、従来通り宇美町と推定できる。原田大六氏は、現飯塚市の立岩遺跡の重要性から見て、ここを含む旧穂波郡が不弥国だとする。奥野氏は、これを糸島 から遠すぎるとし、間には三郡山塊が聳えているのでとても簡単には行けないだろうという意見を述べている。春日市を奴国とした場合には、飯塚は北東、場合によっては(小 郡あたりからみれば)北と言っても差し支えないような位置にある。魏志倭人伝の記載の東方向とは距離が違いすぎる。やはり宇美町や大宰府市や筑紫野市説をとり、宝満川を下り投馬国に向かう。しかし文化的にも類似点があり参考の為に、飯塚市の立岩遺跡は紹介いたしました。
宇美町立歴史民俗資料館 福岡県糟屋郡宇美町宇美1丁目1−22 TEL092-932-0011
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【光正寺古墳】
光正寺古墳は、福岡県糟屋郡宇美町光正寺3丁目4537にある3世紀中頃から後半の前方後円墳。5つの主体部を確認されている。1号主体部と2号主体部と5号主体部は箱式石棺、3号主体部は 割竹形木棺、4号主体部は合口土器棺。 糟谷地方を治めた豪族の王墓と考えられている。魏志倭人伝には、倭人が絹の生産を行っていたとが、光正寺古墳でも絹の痕跡が発見されました。宇美川流域における前半期の古墳として有力なものである。昭和50年(1975)に国の史跡に指定。

甕棺
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甕棺
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甕棺埋葬の様子 |

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甕棺
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祭祀用壷
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祭祀用高杯
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紡錘車
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【七夕池古墳】 福岡県糟屋郡志免町田富3丁目511-9 TeL、092-935-1419
七夕池古墳は、糟屋地区最大の円墳で(直径29メートル)で周りには幅3.5mの溝がめぐっています。埋葬施設は頂上部の竪穴式石室が主体部で、木棺内に壮年女性の遺体を安置し、九州で8遺跡しか出土例がない琴柱形石製品や、刀、鏡、3,300もの玉が出土しました。古墳時代前期末の古墳とされている。七夕池古墳は、南側に近接する宇美町の前方後円墳「光正寺古墳」とともに昭和50年(1975)6月26日に国指定史跡となりました。志免町には萱場古墳群・松ノ尾古墳群・堺田遺跡・松ヶ上遺跡・亀山石棺・七夕南遺跡がある。志免町は福岡空港の東側にある町で、南東にある隣町である宇美町にある宇美八幡宮の注連縄が張られた土地であることから、志免の地名となった説がある。

七夕池古墳 |

七夕池古墳 出土品
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七夕南遺跡 1号甕棺墓 |
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【立岩遺跡】 福岡県飯塚市 飯塚市歴史資料館 福岡県飯塚市柏の森959−1 TEL/FAX : 0948-25-2930
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立岩遺跡とは、遠賀川流域の立岩丘陵上にある「立岩・堀田甕棺遺跡」・「下ノ方遺跡」・「立岩・ 焼ノ正遺跡」などの総称です。遠賀川流域の古墳群は古代、権勢を誇った有力者たちが
いたであろう。遠賀川を遡り、大陸からの渡来人達が定着した場所だったのかもしれない。昭和8年(1933)に市営グランド造成工事中に発見され学会に発表されました。その後昭和38年(1963)から昭和40年にかけて調査された「立岩・堀田甕棺遺跡」から甕棺が発見され、全国的に「立岩遺跡」が有名 になった。立岩・堀田甕棺遺跡の43基の甕棺の中から前漢鏡10面、青銅器、鉄器、、ゴホウラ貝の腕輪、絹などの 出土品が発見された。この発掘によって明らかにされた考古学上の新事実とは以下のよう な点である。なお、腕輪は市指定の文化財に、甕棺と前漢鏡10面をふく104点が国指定の重要文化財に指定され ており、出土品は飯塚歴史資料館に展示されている。
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飯塚歴史資料館・甕棺 |

蓋を閉めた状態の甕棺
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38号甕棺・30歳位の男性①ゴボウラ貝の腕輪14個 ②鉄戈 ③頭の左に銅鏡 |
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【前漢鏡】
立岩遺跡から出てきた前漢鏡(単圏文銘帯鏡や連弧紋銘帯鏡)は、今まで出土していた前漢鏡よりも美しく、それまで全国で出土した前漢鏡は出土状 態が判然としていなかったが、立岩遺跡からの前漢鏡により出土状態も明らかになった。鏡の状態がすこぶる良好で、 報告書にはすべての鏡の拓本が記載されている。銘文も解読されている。前漢鏡は全部で10面出土しているが、1 0号甕棺から出土した6面が完全品で特に優れており、全部に銘文を持つ。その銘は、後の日本人が作った三角縁神 獣鏡などのように、誰それがこの鏡を造ったとか、銅は徐州産とかいうような、自らを誇示するようなものではなく、 「日に喜びあり、月に富あり」と言ったような漢詩風である。そんな所も「この鏡が日本一美しい」理由かもしれな い。 |
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【ゴボウラ貝の腕輪】
ゴボウラ貝の腕輪は吉野ヶ里遺跡でも甕棺の副葬品として出土している。 ゴボウラ貝は奄美大島より南にしか生息していない貝である。つまり交易によってもたらされた装飾品であるが、北
九州の幾つかの遺跡からは、この貝製の腕輪が出土している。当時、南方の島とも交易があり物々交換などで九州北部までもたらしたであろう。それは少なからず、それらの遺跡が比較的大き な、或いは裕福な集落だった事を示している。 |
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【絹】
立岩遺跡における絹は、36号甕棺の中にあった鉄剣や鉄矛に少し付着した形で残っていた。この発見により、弥生中期に 九州では絹を使用していたことが我が国で初めて明らかになった。これにより、魏志倭人伝の記載より250年も前に、北部九州 で絹文化が存在していた事が証明された。その後、絹使用は弥生前期まで遡る事になったが、北部 九州20カ所近くで弥生の絹が確認されている。 その後北九州では幾つかの遺跡から絹製品が発見されるが、甘木市の栗山遺跡では、庶民の甕棺の中から絹の衣服を纏った人骨 が出土して、絹文化が北九州で広く蔓延していた事を立証した。その後、絹使用は弥生前期まで遡る事になったが、北部 九州20カ所近くで弥生の絹が確認されている。現在までのところ同時代の絹は、北部九州以外の地域では出土していない。
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⑧-⑨ 【不弥国 から投馬国(とうまこく)へ】
(原文) 南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
(現代文訳)南、投馬国に至る。水行二十日。官はビビといい、副はビビダリという。およそ五万余戸。
水行二十日についてこの箇所の知識は里数を知らない、ただ日や月を以って計算していた倭人からもたらされた情報の加筆と推測する。
また、中国大陸の王国から侵略の恐れがある為に、遠い南海の果てに邪馬台国があるとの情報をもたらしたのではないだろうか。
水行とは海や川もある。不弥国から南に投馬国まで舟で川を航行した事に述べる。 .
不弥国からの行程は現在の宇美町を中心にもっと南西に広がっていたと推測。筑後川の支流、宝満川の上流に筑紫野市大石がある。そこに大昔から「船着き石」と呼ばれた石がる。郷土史家の村山健治氏は、弥生時代もこの大石が船着き場だったと主張する。帯方郡からの魏使も、ここで不弥国を後にして南へ川を下り投馬国の舟旅をはじめたのであると語る。、
考えられるもう一つが、博多湾と有明海を結ぶ海運のコースである。不弥国の三笠川を船で遡上し、二日市付近は宝満川と繫がる浅瀬の針摺地峡(二日市水道)を利用した説がある。この地峡は狭くて且つ滑りやすい地盤の故、両岸から人夫がロープで舟引き摺って二日市水道を通過させ、宝満川に流したであろう。さらに宝満川の蛇行した川を下り、本流の筑後川に出て、投馬国(久留米市御井朝妻)に進んだとみられる。西日本鉄道とJR鹿児島本線と国道3号線や九州縦貫自動車道が束になっている二日市の所が御笠川と宝満川を繋ぐ邪馬台国時代の水道の跡である。
現在は両脇の山が迫る地峡となっているが、4世紀後半から~5世紀前半にかけ気象異変による脊振山系東端の九千部山の崩壊と山口川の氾濫で水道が埋没したとみられる。温泉掘削の際の地盤調査によれば、この地(二日市水道)は現在標高40メートルであるが、さらに70メートル下層が邪馬台国時代の地層に該当し、水道の深さが10メートル以上の水深であったことが、解っている。埋没後も一大運河が掘削された痕跡がある。三笠川と山口川と宝満川に繋がるの水道の。福岡市の比恵・那珂遺跡群では、運河とおぼしき遺構や、遺構を横断する道路跡も発見されており当時の土木技術の高さを感じ取れる。
日本最古の古墳は九州にあった?
【津古生掛古墳】 小郡市三国が丘三丁目
筑後川水系の支流である宝満川が市域を南北に縦断する平坦な宝満川流域にある、津古生掛古墳そのものは、住宅地の造成のよって残っていませんが、築造は3世紀後半頃、津古2号墳に続くと考えられている全長33mの前方後円墳です。現在の地形より20m高い位置にあり、墳丘(長さ33×径29×高さ5m) 方部(幅13×長さ10×高さ0.2くびれ幅6m)古墳からは庄内式という古い土器が見つかり、その年代から津古生掛古墳は3世紀末のものになり、その時点で奈良県桜井市箸中にある布留式土器が出土した箸墓古墳より古い、日本最古の古墳といわれ、のちの研究で築造年代は250年頃と推測された。「古墳北部九州発生説」が広まり、この古墳を卑弥呼の墓とする説まであらわれた。古墳の周囲には方形周溝墓、円形周溝墓や土壙墓などが多数造られていました。この古墳から出土した中国製の方格規矩鳥文鏡や、短い前方部に飾られていたと考えられる鶏型土製品から、この地域の有力な首長とその家族や近親者が埋葬されたと考えられる。
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投馬国の比定も難問であるが、(投馬(妻=つま)国にふさわしい地名に筑後地方の三潴・上妻・下妻久留米の御井朝妻などがある。有力なのは投馬国の船着き場は久留米の旗埼にあり、高良山の麓(久留米市御井朝妻1丁目・久留米大学すぐ北)に「朝妻の泉」がある場所(味水御井神社)に王城地があったと推測される。
さらに筑後川を下り有明海に出て、すぐ傍の南下にある矢部川の河口を遡上して邪馬台国の卑弥呼が住む女山(みやま市)に着いたであろう。またのコースに、久留米からは山裾道を南に歩き邪馬台国の女山(女王山)に辿り着く困難な道もある。
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【祇園山古墳群】 福岡県久留米市御井町高良山299-8、299-218 |

祇園山古墳と頂上の箱型石棺
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祇園山古墳が投馬国の王墓と思考する。県指定高良山の山麓、祇園山(赤黒山)の頂に営まれた古墳です。一辺24m、高さ約5m、2段に造られ、周囲を石で葺いた墳丘を持つ、筑後地方では珍しい方墳です。遺体を埋葬した内部主体は板石を箱型に組んだ棺で、その内面は朱で赤く塗られていました。残念ながら過去に盗掘を受けて背期間内には何も残されていなかった為、祇園山古墳がいつ作られたのかははっきりとはわかりませんが、その特徴などから、九州地方の中でも最も古い時期の方墳とも言われています。三角縁神獣鏡や変型方格規矩鏡が近くの高良大社には出土品として伝わっていますが、正確な由来は不明となっています。又、墳丘の周囲には調査されただけでも60基を越える箱式石棺・甕棺など小型の埋葬施設が有りましたが、甕棺から出土した鏡などは、現在太宰府市の九州歴史資料館に展示されています。 (下の写真は頂上の箱型石棺)

高良山の中腹には、1mほどの長方形の切石が延長1.6kmにわたって約1300個一列に並んだ神籠石は高良山の西斜面を大きく囲んでいる。 |
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祇園山古墳 |

三角縁神獣鏡
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変型方格規矩鏡 |

周囲の墓からの出土品 |
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