庄福BICサイト  http://shofuku.nobushi.jp/tyamataikoku.html     H・2017・8・23作成開 H・2021・ 1・ 26更新中 福岡県(旧山門郡)みやま市瀬高町女山

 
 
 中国が()()(しょく)の三国に分かれて争っていた3世紀,日本列島には女王卑弥呼(ひみこ)が治めていた邪馬台国という国があり,、その様子を伝える貴重な資料が「魏志倭人伝」(正確には『三国志』のなかの『魏志』30東夷伝の倭人条)に書かれている。弥生時代後期の2世紀後半(やまと)と呼ばれた日本の様子を、3世紀末西晋(せいしん)の官吏の陳寿が実際に倭(日本)に行った人の話を聞き、書いた歴史書によってのみ知ることが出来る2000字あまりの記録です(.)しかし不明な点も多く、邪馬台国の場所で畿内説と九州、山門説などに江戸時代新井白石(あらいはくせき)本居宣長(もといのりなが) 以来、今日まで論議された。しかし畿内説は北九州からの航海をでなくへの航海としている()命をかけて航海の舵をとる海人が方向を間違えるはずはない。魏志倭人伝が示す邪馬台国の位置は、「水行十日、陸行一月」という日程を除けば()里程・方角はもちろん、帯方郡から邪馬台国までは方角も違うが、記載された距離の12000里(1里≒90mと推測)をあてはめると大和までは届かない(.)また、魏志倭人伝にいう、「蚕桑緝績(さんそうしゅうせき)」の痕跡や吉野ヶ里を筆頭として環濠集落の構造が北部九州の他にみあたらない。狗邪韓国(くやかんこく)を中心とする、朝鮮半島南部の辰韓地方より、供給された鉄製品の出土が畿内は少なく北部九州は豊富である(.)邪馬台国の以北には役人を置いた海に近い伊都国らしきものは存在しなど、地理に関しても畿内・大和と考えるのは無理で()九州・山門説が『魏志倭人伝』に書かれた方位と地名が当てはまる。九州説の山門=ヤマトという古代からの地名も山門説の大きな根拠として注目され、みやま市(旧・山門郡)瀬高町東部に女山(ぞやま)(女王山)にある古代朝鮮式山城の「女山神籠石(こうごういし)」周辺が卑弥呼に関係した遺跡と検証しました() 
   
 洛陽(らくよう)
 
 「三国志」でお馴染みの曹操(そうそう)(155~220)は、後漢末の群雄の一人で、華北を制覇(せいは)しましたが、紀元208年赤壁(せきへき)の戦いで劉備(りゅうび)孫権(そんけん)の連合軍に大敗し、天下を三分する形勢になりました(.)216年曹操は魏王となりましたが、220年、実際に初代皇帝として魏を建国したとされるのは子の曹丕(そうひ)(187~226)です。そして後漢の都の雒陽の字を洛陽に元に戻して魏の都とした。翌年に蜀の劉備も対抗して(漢の)皇帝を称し、さらに229年には呉の孫権(そんげん)も皇帝を称し、1人しか存在できないはずの皇帝が3人並び立つという、かつてない事態になった(三国時代)(.)
 魏の初代皇帝の曹丕226年に崩御し、長男の曹叡(そうえい)(明帝)が魏の第2代皇帝となった。曹叡239年に34歳崩御(ほうぎょ)されたので、その後を養子の曹芳(そうほう)第3代皇帝となり継いだ(.)
その後254年に、曹髦(そうぼう)第4代皇帝となったが、司馬昭(しばしょう)の権力に不満をもち自殺的なクーデターを試みて、賈充(かじゅう)により殺された。その後260年に皇帝の擁立されたのが曹操の孫にあたる曹奐(そうかん)第5代皇帝となる。洛陽に都し,三国のうち最も強大であったが、やがて司馬氏の勢力が高まり(.)265年に魏は5代45年で滅亡して司馬炎(西晋の武帝)に帝位を奪われる(.)

 239年(景初三年)、邪馬台国の女王・卑弥呼はこの当時の華北を支配する魏王朝へ難升米(なしめ)等の使節を送り、この使節は朝鮮半島の 帯方郡経由で 首都・洛陽まで至りました(.)これに対し、魏は240年(正始元年)に返礼使として梯儁(ていしゅん)を倭国へ派遣し、 親魏倭王の金印および銅鏡100枚などを卑弥呼に授与したとされます(.)その時の魏の皇帝は第2代皇帝の曹叡崩御されているので第3代皇帝の曹芳が出迎えたとみられる。(.)

       
 
洛陽の墓から出土した副葬品用の
把手付容器(とってつきようき)

墓の副葬用に作られた土製(.)
公共井戸(いど)
 
  六博盤(ろくはくばん)・サイコロの
数字で駒を進めたすごろくの類のゲームである。


円形の石製の硯 蓋の中央の円柱を取り巻く五頭の龍の透かし彫り円柱の上面に五銖銭(ごしゅせん)を線刻
 
 
 洛陽の墓から出土した二頭の獣を表す獣文鏡


 動物の骨を薄く削り、目盛りを刻んだ 定規
 本品は一尺は24cm、一寸は2.4cmとな(.)
 魏の尺度を伝える貴重な資料である(.)

 古代中国の一尺は時代によって変遷(へんせん)がある。

後漢時代の墓から出土した墨書紙・銅鏡の上下に緩衝材(かんしょうざい)として挟んであった。45文字ほどの書体あり(.)
 
関内公(かんないこう)の亀形のつまみをもった金印・関内公は魏では高い身分で一定の収入が保障された(.)
 
戦闘用馬車の車軸(しゃじく)に取つけて呉軍を蹴散らしたと
推測される
撞車頭(どうしゃとう)
 
 呉軍を合肥城(ごうひじょう)城壁から投石機で
攻撃したとされる
石球(せききゅう)
 
 隋獣が爪で魚を抱いた姿のベルト留め
帯鉤(たいこう)

 ㊧炭炉の熱い炭を㊨熨斗に入れ絹繊維の
衣類のしわを平らな底でのばす、いわゆるアイロン(.)
 
 
邪馬台国から魏の洛陽までの経路
  (倭人伝部分現代文解釈) 景初二年(238)六月(注・魏の景初3年」公孫淵(こうそんえん)(ちゅう)せられた後になって、卑弥呼は始めて使いを遣わして朝貢した」よって景初三年(239)が正しいとされている。倭の女王が大夫難升米(なしめ)等を遣わして帯方郡に到来し、天子に詣うでて朝献し たいと要請した。太守劉夏(りゅうか)は、使いを遣わして彼らに随行させ、都(魏都 洛陽(らくよう))に詣でさせた。その年(238年?)の12月、以 下の文書を倭の女王に送った。「親魏倭王卑弥呼に申し伝える(.)帯方郡の太守劉夏は使いを使わし貴方の大夫難升米・ 次使都市牛利を送らせ、貴方の献上した男生口四人・女生口六人・班布(はんぷ)二匹二丈を奉って到着した(.) 貴方がいる所は遙かに遠いにもかかわらず、使いを派遣して来た。これは貴方の忠孝の表れであり、うれしく思う。今 貴方を親魏倭王としてたたえ、金印紫綬(しじゅ)を授け、封印した後に帯方郡の大守に授けさせる。貴方は、それを人 々に示し()人民を服従させなさい。貴方の使者難升米牛利は、遠い所を渡って来て長旅をしてきた(.)今、難升米を率 善中郎将とし、牛利を率善校尉として、銀印青綬を授け、引見して労をねぎらい(倭へ)帰す事にする(.)今、絳地(こ うち)、交竜錦五匹〔臣の松之(しょうし)は,絳地は絳テイの誤りと言う。漢の文帝は皀衣(そうい)を()ている、これを弋テイ(よくてい)と言う、これである。この字(テイ)は、魏朝の過ちではなく、おそらく 写した者の誤りであろう()絳地スウ粟ケイ(すうぞくけい:ちぢみ毛織物)十張、茜絳 (せんこう:茜色の紡ぎ)五 十匹、紺青五十匹を以て、汝が献じた贈り物に答える(.)また特に汝に紺地の句文錦三匹、細班華ケイ(さいはんかけい)(模様を細かく斑に表した織物)五張、白絹五十匹、金八両、五尺の刀二口()銅鏡百枚、真珠、鉛丹各々五十斤を授け、 全て装封して難升米牛利に託してある(.)(彼らが)還ってきたら目録と照らし会わせ、全てを貴方の国中の人に示し て(.)国家(魏)が貴方に好印象(哀れ)をもっている事を知らしめなさい。だから、(魏は)鄭重に貴方に好物を授け るのである」と()
     比定地  方角  里数(短里1里=70~90m)  実距離  里数累計 国別戸数 
  (魏都 洛陽(らくよう)  中国河南省許昌市魏都区           
   帯方郡(たいほうぐん)  韓国のソウル付近    ①~⑨まで12000里      
 ② 狗奴韓国(くなかんこく)  韓国の金海市・別名伽耶(かや) 東南  ①~7000余里 750Km   7000余里  記載なし 
 ③  対馬国  対馬    ②~1000余里   80Km   8000余里   1000余戸
 ④ 一支(いき)  壱岐    ③~1000余里   90Km   9000余里   3000余戸
 ⑤ 末盧国(まつろこく)  松浦郡(唐津市)  東南   ④~1000余里   65Km  10000余里   4000余戸
 ⑥ 伊都国(いとこく)  怡土(いと)(糸島市)  東南  ⑤~500余里   30Km  10500余里   1000余戸
 ⑦ 奴国(なこく)    那津(博多湾)(福岡市・春日市) 東南   ⑥~100余里   20Km  10600余里  20000余戸
 ⑧ 不弥国(ふみこく)   糟屋郡宇美町・大宰府市・筑紫野市    ⑦~100余里   20Km  10700余里   1000余戸
 ⑨ 投馬国(とうまこく)  久留米市あるいは吉野ヶ里    ⑧~残り1300里    
 ⑩ 邪馬台国(やまたいこく)  山門郡(みやま市瀬高町)       連合国を含んで70000余戸
 狗奴国(くなこく)  熊本県菊池市・球磨(くま)   邪馬台国の南      記載なし 
               
   . 


    【魏志倭人伝(行程部分の読み下し文)
倭人は帯方の東南、大海の中に在り。山海に依りて國邑をなす(.)旧百余国。漢の時、朝見する者あり。今、使訳の通ずる所三十国。 郡より倭に至るには、海岸に循して水行し、韓国を歴て(.)乍は南しあるいは東し、その北岸、狗邪韓国に至る。七千余里。 始めて一海を度る。千余里対馬国に至る()大官を卑狗といい、卑奴母離という。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。 土地は山剣しく、深林多く、道路は禽鹿(きんろく)(こみち)(ごと)し。千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴 す(.)又南一海をわたる千余里。名づけて瀚海(かんかい)(対馬海流か)という。一大国(壱岐国)に至る。官また卑狗といい、副を卑奴母離という。方、三百里ばか り。 竹木、叢林(そうりん)(やぶやはやし)多く()三千ばかりの家あり。やや田地あり。 田を耕せどなお食足らず()南北に瀚海(日本海?)す。 また一海を渡る千余里末盧国(まつらこく)に至る。四千余戸あり。山海に(はま)いて居る。草木が生茂って行く前に人を見ず(.)好んで魚鰒(魚やアワビ)を捕うる。水、深浅となく、みな沈没してこれを捕る()東南に陸行すること五百里伊都国(福岡市西区(旧怡土郡)付近)に到る。官は爾支といい、副は泄謨觚(せもこ)柄榘觚(へここ)という。 千余戸あり。世々王あるもみな女王国に統属す()郡の使いの往来して常に駐る所なり。 東南して奴国(なこく)(福岡市東区・春日市)に至る。官は兒馬觚といい、副は卑奴母離という。2万余戸あり。 東行不弥国(ふみこく)(宇佐町)に至る(.)百里。官を多模といい、副を卑奴母離という。千余の家あり()
 南、投馬国(とうまこく)に至る。水行二十日()官を彌彌といい、副を彌彌那利という。五万余戸ばかりあり。
  南、邪馬台国に至る。女王の郡する所なり。水行十日、陸行一月(.)官に伊支馬あり。 次を彌馬升といい、次は彌馬獲支といい、次は奴佳韃という。7万余戸ばかりあり()女王国より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、 その余の旁国は遠絶にして詳らかにすることを得べからず。 次に斯馬国あり。次に己百支国あり(.)次に伊邪国あり。次に郡支国あり。次に彌奴国あり。 次に好古都国あり。次に不呼国あり。次に姐奴国あり。次に対蘇国あり()次に蘇奴国あり。 次に呼邑国あり。次に華奴蘇奴国あり。次に鬼国あり()次に為吾国あり。次に鬼奴国あり。 次に邪馬国あり(.)次に躬臣国あり。次に巴利国あり。次に支惟国あり。次に烏奴国あり(.)次に奴国あり。 これ女王に境界の尽くる所なり()その南に狗奴国あり。男子を王となす。その官に狗古智卑狗あり。 女王に属せず(.)郡より女王国に至ること万二千余里(.)


 帯方郡

   魏志倭人伝の冒頭に登場する帯方郡(たいほうぐん)(ソウル付近)とは後漢末期の混乱により、3世紀の初めに、遼東(りょうとう)から楽浪郡にかけてをほぼ独立して支配していた公孫康(こうそんこう)は3世紀の初め、楽浪郡の南部を分けて「帯方郡」を設置した。邪馬台国の女王「卑弥呼」が(.) この帯方郡を通じて約50年間、公孫氏と親交を結んでいた事は有名である(.)しかし公孫氏や高句麗が中国の呉と結ぼうとすると(.)やがて三国時代に入った中国の司馬懿(しばい)(司馬宣王)を派遣して公孫氏 を滅ぼし(AD238)、楽浪郡と帯方郡も魏の支配下に入る(.)邪馬台国の女王「卑弥呼」は公孫氏とも親交はあったのだが(.)魏が成立するとすかさず臣下の「大夫難升米」等を 魏(魏都 洛陽(らくよう))に派遣し、景初2年6月(239)中国から卑弥呼(ひみこ)は、「親魏倭王」の称号と100枚の銅鏡を贈 られた(魏志倭人伝)(.)


 
なお、249年司馬懿(しばい)らがクーデタをおこし、魏の皇族を抑えて首都洛陽を制圧し西晋の成立となっている()。『日本書紀』の神功紀に引用される『晋書』起居註に秦始2年(266年)(.)倭の女王の使者が朝貢したとの記述があることから()卑弥呼のあとを継いだ台与の使者と推測されている(.)  
   
封印
 

 韓国の首都ソウル市の近郊にあったとされる。

風納河土城跡・帯方郡治扯の城か
 

  ①−②  【帯方郡(たいほうぐん)から狗奴(くや)韓国(かんこく)(.)
 (原文) 倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國()
    
.
(現代文訳)倭人(わじん)帯方郡(たいほうぐん)の東南の大海の中にあって、山に囲まれ島を連ねて国を造っています。倭国(やまとこく)はかって百余国に分かれ、漢(後漢)王朝の時に朝見する者もありました。()の時代の今、使いが行き来したり言葉を通訳できるのは30国程度です()

 
(原文 從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸 狗邪韓國 七千餘里 
     .
 
(現代文訳) 帯方郡(たいほうぐん)から倭国へ行くには、半島の西海岸に沿って航行し、南や東に蛇行しながら進むと、その北岸にある(朝鮮半島南沿岸部にある倭の北岸と理解し狗邪韓国は倭国の勢力範囲だったと解釈する)狗邪韓国(くやかんこく)に着きます。帯方郡から<狗邪韓国までの距離は七千里余りです(.)

 狗邪韓国(くやかんこく)

 狗邪韓国(くやかんこく)は別名を伽耶(かや)と呼ばれ、「狗邪(くや)」の文字も伽耶を聞き取り充てた文字であると思われる。 魏志倭人伝の底本となった『魏略』には弁韓と辰韓の国々から鉄を産出する。韓〔族〕・(わい)〔族〕・倭〔族〕が、みな鉄を取っている。どの市場の売買でも、みな鉄を用いていて、中国で銭を用いているのと同じである()とある。当時の古代国家にとって、鉄資源の安定的確保は最大の関心事であったはずだ()そうであれば、倭国も朝鮮半島南部に飛び地のような占有地を有して、恒常的に鉄を入手していたと考えられる(.)また狗邪韓国は、倭の国々に文化を輸出する窓口としてその役割を担っていました狗邪韓国の遺跡からの出土品は()日本でも見られるものが非常に多く出土しております。銅剣、銅矛、銅戈等の青銅器をはじめ、日本と同様に中国鏡や、勾玉も数多く出土しています()日本に青銅器や鉄器が伝わったのはほぼ同じ頃になります。日本では、もたらされたこれらの品を、再度溶かして、新たなものとして作り替えていました(.)弥生時代、海峡を渡って来た彼らの足跡は、支石墓や甕棺の形で北九州をはじめとして、非常に多く遺跡として残されています()532年に新羅に滅ぼされた時、狗邪韓国の人々は日本に渡ってきました。壱岐や、北九州にその痕跡の多くを残しています(.) 
 鉄鉱石の産地で鉄の素材の搬出地であった
 
3世紀末の朝鮮半島勢力図

 
製鉄をする加耶の人


倭国本土に鉄の素材を船出しする倭人
 
伊都国の平原王墓出土と同じ福泉洞古墳出土の素環頭太刀(三国時代)

(複泉洞博物館展示)

八鼓鈴と福泉洞11号墳出土の金剛冠(複泉洞博物館展示)
 
     
 銅鏡(福泉博物館展示) 池山洞古墳群は、主山の東南の稜線に大加耶時代に造成された大小200基の古墳である。特に頂上付近は直径20mを越える古墳が群れをなしていて、実に壮観である。44号墳の出土遺物から(.)ここは大加耶国の支配者層の墓域とみられている。32号墳から出土した甲冑(かっちゅう)と加耶金冠   
 
 
鉄鉱石と砂鉄(左) 鉱滓(製練かす)(右)
 
鉄てい(鉄の素材)
 

鉄斧(1世紀)
国立金海博物館展示
   

鉄鏃(1世紀)
 


 馬冑(ばちゆう)馬のかぶと
 
銅鏡(加耶時代)
国立金海博物館展示
        
 
(左)巴形(ともえがた)銅器、(右)筒形銅器
国立金海博物館展示

 金海市の鳳凰洞遺跡
 
甕棺(複泉洞博物館展示)
 
甕棺
 
石棺

   ②−③  【狗奴韓国から対馬国へ】
 
(原文()始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴 
     

 (現代文訳)始めて一海を渡り、千余里で対海国(対馬国)に至る。対馬ー壱岐ー末盧国の海峡横断を一律1000余里としているのは、それぞれが1日航海だったことを示唆するその大官は卑狗(ひこう)といい、副官は卑奴母離(ひどぼり)という。居する所は絶海の孤島で、およそ四百余里四方。土地は、山が険しくて深い林が多く、道路は鳥や鹿の道のようである(.)千余戸の家がある。良田はなく海産物を食べて自活している。船に乗って南や北(九州や韓国)へ行き、商いして米を買い入れている()
 
 
 対馬(つしま)
 対馬については、同じような形と大きさの二つの島が相対していることから「対島」と称していたのではないかと解釈する。『魏使がどこに上陸したのかは不明であるが(.)釜山と対馬の最北端は約50kmであるが、従来の1里=70m~90m説に従えば、これでは千余 里にはならない。倭人伝を信用しきれば、魏使は対馬の東側に上陸したことになる()対馬の弥生遺跡は、南部よりも北部に多く、西海岸の中央部の密度が最も高い。2000年に三根町山辺(やんべ)地区で発見された山辺遺跡(弥生大集落)は(.)それを地で行くような遺跡が出現し、それまで大規模な遺跡の無かった対馬に おいて()こここそ「対馬国」の首都ではないかと騒がれている(.)主島はかつて1つの島だったが、地峡となっていた部分を寛文12年(1672)明治33年(1900)に海軍により人工的に開削され(.)細長い主島は南北3島に分離された。耕作に適した平地は少なく全体的に山がちで険しいが、下島の方が標高が高い(.)遺跡の状況から魏使は中央部の三根町山辺付近に立ち寄り、距離の短い南回り(30Km)で壱岐を目指したであろう()
     .
 
 
左端・ 銅製剣把頭(剣の握り手)・豊玉町佐保出土
 
広形銅矛は対馬で100本以上出土
 
中広形銅矛

弥生時代後期の集落跡・三根遺跡山辺 
   ③−④   対馬国から壱岐国へ】
 (原文() 又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴   
 (現代文訳)さらに、南に一海を渡る。千余里。名づけて瀚海(かんかい)という。一大国(壱岐国)に至る。官は、また(対海国と同じく)、卑狗(ひこう)といい、副は卑奴母離(ひどぼりという。およそ三百里四方。竹、木、草むら、林が多い(.)三千ばかりの家がある。いくらかの田地がある。田を耕しても、やはり、住民を養うには足りないので、また(対海国と同じく)、南北に行き、商いして米を買い入れている()
 
 
 壱岐(いき)
 原の辻遺跡は平成5年の調査で三重の濠を巡らせた大規模な環濠集落、祭祀建物跡が検出さている()定紀元前1世紀頃の船とクジラを描いた捕鯨の線刻絵画土器出土物もあり捕鯨を行ってとも推測される。大陸系の出土品が多く、中国鏡、戦国式銅剣、大泉五十(たいせんごじゅう)貸泉(かせん)などの中国の銭貨、トンボ玉、鋳造製品、無文土器、三韓系土器、楽浪系の土器などが展示してあり、大陸との交流拠点であったのが証明される()(壱岐・原の辻展示館 長崎県壱岐郡芦辺町深江鶴亀触1092-1  TEL 09204-5-4080) 
     ..
 

      .
   

   勾玉・管玉・ガラス小玉一連も出土


    古墳時代の金銅製辻金具
       
       朝鮮半島南部の伽耶からもたらされたと推測される鋳造鉄斧
       鉄は貴重で農具・工具・武器の多種多様の鉄製品が出土している。

 
        祭儀建物跡復元模型
 
   ④−⑥    【壱岐国から末盧国(まつろこく)へ】
 
(原文) 又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取()
     .
 (現代文訳 また、一海を渡る。千余里。末盧国(まつろこく)に至る。四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない。魚鰒(魚やアワビ)を捕ることが好きで、水の深浅にかかわらず、みな、水に潜ってこれを取っている(.)

 一大国こと壱岐の石田郡から末盧国に向かったとある。船は 久里双水古墳に至る前に呼子(よぶこ)町の加部島付近を通過します。あるいは入港したのかもしれません。その加部島には延喜式名神大社、肥前一の宮の宗像三女神を祀る田嶋坐神社があります()伊都国で統治していた一大率は、津(港)に赴いて、海を渡って中国や朝鮮へ行こうとする倭の使者や、渡来した帯方郡使を臨検したという記述があることから(.)末盧国は川の港(津)のある唐津市の松浦川の河口付近にあったとされている。唐津市は「唐に行く港」という意味だが、もともとは「韓」のことで、朝鮮半島ではなく南部の「加羅(から)伽耶(かや)」のことだという。鉄生産地の朝鮮南部から唐津に多くの人が渡って来たであろう。次の伊都国まで五百里を歩いている(.)

   
  末盧国(まつろこく)
  「末廬国」(まつろこく:まつらこく、とも言う)は、佐賀県の、唐津を含む松浦半島東側一帯 にあったクニだと考えられている(.)     
 
                                                        .
      【菜畑遺跡】  唐津市菜畑字松円寺3355−1   0955-73-3673 
 菜畑(なばたけ)遺跡は、唐津駅から西へ2Km程の場所にある(.)昭和55~56年に唐津市教育委員会により発掘調査が行われ、住居跡、土壙墓(どこうぼ)甕棺墓(かめかんぼ)、貝塚、それに日本最古の稲作の「ムラ」が発見された。菜畑では今から2500~2600年前の縄文時代晩期に大陸から伝えられた稲作を日本で初めて行なった(.)水田跡の発掘と、付随して出土した数々の農機具は、我が国稲作の起源が縄文晩期後半まで遡る事を明らかにした(.)福岡の板 付遺跡の発見では半信半疑だった者も、ここに至っては「縄文時代の水田」を認めざるを得なくなった(.)稲作は弥生時代に開 始されたのではなく、縄文時代の末期に既に定着していたのである。 遺跡からは、これを証明する多数の炭化した米(.)稲穂をつみとる石包丁・木のクワ・エブリなどとともに小区画(20~30平方メートル)の水田跡も発見された。また、水稲だけではなく、アワ・ソバ・ダイズ・ムギ・などの五穀をはじめ(.)メロン・ゴボウ・クリ・モモなどの果実・根菜も栽培していた(.)中でもメロンが縄文時代末期に、すでに栽培されていた事は大きな話題となった。平成元年の発掘では、儀式に用いたと思われる形のままの数頭の豚の骨が出土し(.)家畜としてのブタも飼育していた新事実が確認された。菜畑は文字どおり「日本農業の原点」であることを証明された(.)遺跡は現在遺跡公園として整備され、竪穴式住居や、日本最古の水田跡も復元されている(.)遺跡の敷地内には、高床式建物を イメージした「末廬館」が建設され、「菜畑遺跡」出土の炭化米をはじめ石包丁、クワ、カマなどの農具(.)カメ、ツボ、現代と同形のスプ ーン、フォークなどの食器類など、多くの遺物が展示されている。 博物館「末廬館」にはこの他、唐津周辺の遺跡から出土した青銅器や土器類も多数展示されている。昭和58年国指定史跡(.)      
                             日本最古の水稲耕作遺跡 
 

縄文時代晩期の
稲作のムラの竪穴住居(再現)
 

復元された縄文時代の水田
 

末蘆館と復元水田・ 菜畑遺

 
 
 【久里双水古墳】唐津市双水・JR筑肥線/唐津線 山本駅下車 徒歩20分 ・バス停: つつじヶ丘団地 徒歩3(.)

 久里双水古墳(くりぞうすいこふん)3世紀末から4世紀初めの前方後円墳である。全長 108.5m、後円部径62.2m、前方部幅42.8mの前方後円墳。盤龍鏡(ばんりゅうきょう)・管玉・刀子(とうす)(小刀のこと)が出土した。出土された副葬品の在り方から(.)近畿とは別の文化圏の古墳であ る可能性が高いと注目されているし、前方後円墳もその起源は九州ではないかという説の拠り所にもなっている(.)魏志倭人伝さる「末廬国」の王墓ではないかという見方もある。現在は外観整備、ベンチ、ライトアップ等を整 え、石室のレプリカも作成し、古墳公園として整備されている(.)
     
       
 久里双水古墳
 
   ⑤-⑥    【末盧国(まつろこく)から伊都国(いとこく) へ
 (原文() 東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐 
    .
 (現代文訳 (末盧国から)東南に陸上を五百里行くと伊都国に到着する。官は爾支(にき)といい、副は泄謨觚(せもこ)柄渠觚(へくこ)という。千余戸が有る。代々、王が有り、みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に(とど)まる所である。
     .
別の項には(原文()自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
 
(読みくずし)  女王国より以北には、特に一大率(いちだいそつ)という役職を置いて諸国を検察させている。諸国はこの一大率(おそ)(はばか)ている。伊都国に常駐している。その様子は、まるで中国の地方長官・刺史(しし)のようである。邪馬壱国の王が使者を派遣し()の都や帯方郡、諸韓国に行くとき、及び帯方郡の使者が倭国へやって来たときには(.)いつも一大率が伊都国から港に出向いて調査・確認する()文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない()

 
(解説) 『魏志倭人伝』の中で『王』が居たと明記されている倭の国は伊都国と邪馬台国と狗奴国で、他の国々には長官、副官等の役人名しか記されていない。一大率は、卑弥呼の王権によって任命された派遣官である。倭国の官人である。女王国の北側には、特別に一大率(いちだいそつ)(いちたいすい・とも読む)を置き諸国を監察させており、諸國は畏(おそ)れている。女王は常に伊都国で治めており、中国(漢、魏)の刺史(しし、監察官)のようだ。」である(.)
 伊都国(いとこく)
 女王国以北の6国で倭人伝に「皆統属女王国」した王がいたと記するのは伊都国だけである。その王墓とみられる三雲南小路の王墓、伊原鑓溝(いはらやりみぞ)の王墓、平原の王墓がある。こららの王墓だけで副葬された銅鏡は約110面もあり、伊都国の豊かさの一端がわかる()糸島市井原916に伊都国歴史博物館があります() 
     .
 
 


曲り田遺跡・支石墓

 【石崎曲り田遺跡】  福岡県糸島市二丈石崎328−6 (歴史の里スポーツ公園として展示説明あり))
 稲作開始時期の集落遺跡です(.)昭和54年(1979)の発掘調査で稲作の始まりを裏付ける土器群や石器、竪穴住居、支石墓、甕棺墓などが発掘された(.)邪馬台国の時代の末廬国と伊都国の境界あたりに位置する。菜畑遺跡と同時期の最初期の水田稲作遺跡とされている(.)この発見により、それまでの弥生時代前期と考えられていた稲作や大陸系磨製石器の出現、支石墓(しせきぼ)の導入、鉄器の生産などが縄文時代晩期には整っていたことが確認された。朝鮮南部の受けた支石墓は縄文時代晩期に玄界灘沿岸におい(.)特に糸島半島に現れ九州北部に広がっている。(.)

 弥生時代の土器に詳しい立命館大学の家根祥多(やねよしまさ)氏は、曲り田遺跡について次のような指摘を行っている。「弥生土器は朝鮮半島の無文土器の系譜をひいており(.)こうした無文土器を作る人々が稲作を持って渡来したことは確実である。その場合、福岡県曲り田遺跡では(.)朝鮮系の無文土器の甕が30%、縄文土器の深鉢が60%存在する。 このデータから、新たに渡来した人々は(.)縄文人と同じ集落に住み、村の住民の三人に一人は渡来人であったろうと推定している。曲り田遺跡では、夜臼式土器(ゆうすしきどき)文化期の竪穴住居が30棟出土しており、菜畑遺跡の弥生初頭の竪穴住居8棟に比べると(.)かなり大きなムラであり、渡来人の集団もある程度の規模を有していたと考えられる(.)したがって、この曲り田ムラのケースは(.)まさに南部朝鮮人が、曲り田ムラの縄文人に協力を求めて、移住して来たと考えて間違いないだろう(.)
」と指摘する。
 
 
 
     【人物線刻板】 (上鑵子遺跡)
はがきサイズの板に刻まれた顔には入れ(ずみ)をし、頭には羽飾りを付け、貫頭衣のような服を着ており、右手には武器である(ほこ)のようなものを持っている。祭りを司る司祭者の可能性がある。
魏志倭人伝には「男子は大人、子供の区別無く皆体に入れ墨をしている(.)昔から、この國の使者が中国に詣で来た時、皆自ら大夫と称し ている(.)夏后(王朝)の少康(五代目の王)の子は、会稽に領地を与えられると、断髪入れ墨を以て蛟竜(こうりゅう)(サメの類)の害を避けたと言うが、今 倭人も、好んで潜水して魚貝類を捕える(.)入れ墨はまた(少康の子と同様に)大魚や水鳥を追い払うためであったが(.)後にはしだいに飾りとなった。諸国の入れ墨はそれぞれ異なって、左にあったり、右にあったり、大きかったり、小さかったり、身分の尊卑によっても違いがある」と記載あり(.)
   
硯(すずり)の破片

 
【硯の破片発見】

平成27年(201512月)、三雲井原遺跡で国内最古の長さ8cm幅4.3cm厚さ6mmの(すずり)の破片が楽浪郡の土器を捨てたと見られるくぼ地から発見された(.)楽浪郡のあった朝鮮半島の北西部で出土した硯と似ており硯と判断した(.)市教育委員会は「伊都国では楽浪郡など渡来人が外交を担っていたと考えられる(.)中国からの賜り品への返礼書などを作るため、半島から持込んだのでは」と推察した(.)これまでも国内の文字使用は3世紀頃とみられてきたが、それを裏付ける発見である(.)
 

     三雲南小路(みくもみなみしょうじ)王墓】 

三雲南小路遺跡(国の史跡)は弥生時代中期の方形周溝墓で、甕棺墓 2器を持つ『王墓』と云われている(.)三雲南小路王墓は江戸時代後期、文政5年(1822)に発見され(1号甕棺)、出土品のうち銅鏡1面と銅剣1本が博多の聖福寺に伝えられ国の重要文化財に指定されています(.)最初の発見から150年後の昭和50年(1975)、新たに2号甕棺が発見され、銅鏡22面以上、ヒスイ製勾玉(.)ガラス製勾玉、管玉、金銅製の四葉座飾金具などが出土しています(.)1号甕棺には大型の銅鏡が多く武器も副葬され、2号甕棺小型銅鏡が多くガラスの装身具が副葬されているのが特徴で、1号には男王が(.)2号には王妃が埋葬されたという説がある。墳丘は弥生時代の中期後半(約2000年前)に造られたと推定され(.)豪華な副葬品や墳丘の大きさから伊都国王の墓であると考えられています(.)直径27.3cmの大型鏡(重圏彩画鏡)は 中国でも王侯クラスが保有するもので(.)金銅製四葉座飾金具やガラス円板璧は、中国の漢の皇帝が位の高い臣下に下賜したものである(.)またガラス円板璧は夜光の壁として珍重された。小田富士雄氏(福岡大学教授)は(.)これは伊都国と奴国(岡本)からしか出土していないので、2世紀の最初の時期 には、中国が 王と認められたのは、奴国連合から伊都国連合へ移っていたのではないか、と言う(.)、このような高級な副葬品が埋葬されるのは弥生時代の中頃までであり、卑弥呼の時代には大陸から入って来たものは見つからない(.)三雲南小路、 須玖岡本(春日市)の被葬者らは、当時の倭の100余国の中でも頂点に立つ、倭国王というべき存在だったのかもしれない(.)  
   
文政5年に甕棺から出土した銅剣の実測図から再現された


一号棺墓

一号棺墓
     
二号棺墓

 

   伊原鑓水(いわらやりみず)遺跡】
 三雲南小路遺跡から数十mのところにある、江戸時代天明年間(1781~88年)に発見された遺跡です(.)出土品は残されていませんが、三雲南小路遺跡の調査をした青柳種信という人が40年前の発見についての聞き取り調査を行い(.)その資料とともに付近の農民が保管していた鏡片27枚、巴形(ともえがた)銅器2つの拓本を残しています。拓本から判明した鏡は全て前漢後期から後漢前期の鏡で(.)これによりこの王墓は1世紀後半~2世紀初頭のものと推測されています。
 
 弥生時代中期・後期の倭国の有力な王と推測される。後漢書東夷伝の一節に西暦107年に奴国王帥升等は後漢に朝貢している(.)日本史上、外国史書に初めて名を残した人物。 後漢書東夷伝の記述からはこの倭国の所在地は明確でないが、九州の可能性が高い
(.)伊原鑓溝(いはらやりみぞ)の王墓は「帥升等」の朝貢の時期と重なります。この時代の「奴国」側にはこれに匹敵する王墓は発見されていません(.)

 
  鏡の多さに卑弥呼の墓と思わせた伊都国女王の墓 
        平原王墓(ひらばるおうぼ)  
昭和40年糸島郡前原町平原(当時)において、農作業の最中に多量の朱と共に大小鏡の破片等が発見された(.)偶然の発見 であったが、福岡県教育委員会はただちに地元の原田大六氏を調査団長とした発掘調査団を組織し、調査・発掘が実施された(.)結 果、遺構は東西十八m、南北十四mの長方形の方形周溝墓で、弥生時代から古墳時代にかけての遺構であるとされた。原 田大六は、2世紀中頃であるとしている(.)遺構の中央部には、割竹形木棺を収めていたと思われる痕跡もあった。この遺 跡からは、破砕された合計39面の鏡、ガラス・メノウなどの装身具、素環頭太刀等が出土し(.)鏡の枚数は一墳墓からの 出土数としては我が国最多であった。又、復元された内行花文鏡は直径が46.5cmもあり、これ又我が国では最大経の鏡で(.)日本製で、同型鏡4枚もあった。太刀等武具の少なさ、装飾品の豪華さ、それに鏡の多さなどから、原田は、この遺構を 「伊都国の女王」の墓だと想定している(.)副葬品の内容は、銅鏡40、素環頭大刀()そかんとうたち1、ガラス製の勾 玉(まがたま)3、管玉(くがたま)30以上、小玉500以上、連玉886個、メノウ製管玉12、耳塘(じとう)(ピア ス)2などとなっており、これらの出土物は、糸島市の「伊都国歴史資料館」に展示してある(.)
 
    
被葬者の想像像
   
素環頭大刀とガラス小玉・メノウ管玉・ガラス勾玉の副装品
 
竹割り形木棺を据えた痕跡はあるが棺材や遺体は無し
 
古墳四隅の銅鏡群のほとんどバラバラに割られていた
(㊤伊都国歴史博物館の平原王墓の出土状況を再現した模型)
 


 
 築造年代不明の雷山神籠石は雷山(標高955m)の北中腹、標高400~480 mの山中に築かれた古代山城です。その範囲は東西300m、南北700mほどで(.)現在残る遺構として谷の南北に築かれた水門とそれから東西に延びる列石群を見ることができます(.)


  
 我が国最古の王国早良国(さわらこく)

  
【吉武遺跡群】(やよいの風公園)福岡市西区吉武194
   魏志倭人伝の邪馬台国時代よりも古い紀元前2世紀の吉武遺跡群で福岡市の西区早良平野にある。飯盛山の東に広がる扇状地で(.)真中を室見川が流れ南には佐賀県と境を接する背振山系がひかえている。川を下れば程なく玄界灘にいたる場所である。昭和56年(1985)から圃場整備事業が計画されたため(.)昭和60年にかけて、福岡市教育委員会が5次にわたる事前調査を実施した。調査の結果、遺跡群が縄文時代から中世にかけて遺跡からなる大規模なものであることが判明し(.)吉武高木遺跡では遺跡群の南部にあり、最盛期は弥生時代で、前期末から中期後半にかけて甕棺を主体とした墳墓1200基、丹塗磨研土器を投入した土壙50基(.)竪穴住居や掘立柱建物などが出土した。この遺跡群は、「吉武高木遺跡」、高木遺跡に隣接する「吉武大石遺跡(.)大石遺跡の約250m北にある「吉武樋渡(よしたけひわたし)遺跡」で構成され国史跡に指定されている()現在「やよいの風公園」として整備されていて、園内には「最古の王墓」、「甕棺ロード」、「大型建物」などの展示・解説コーナーが設けられている() 

    
    紀元前2世紀・弥生初期の早良王国
       日本最古「三種の神器」が出土

 .弥生中期の始め(紀元前2世紀頃)の遺跡と考えられ(.)紀元前1世紀の奴国王墓の須玖岡本遺跡や伊都国王墓の三雲南小路遺跡よりもさらに古く、日本では「吉武高木」ほどの冨と権力を持つ「クニ」は他になかったと思われ(.)我が国最古の王墓(木棺墓)の発見と騒がれた。この地から日本の王権のしるしである三種の神器という伝統が始まる。古事記の「天孫降臨(てんそんこうりん)」に出てくる「立派な宮殿」とは、吉武高木の大型掘立柱の高殿である。吉武高木と樋渡の両方から「絹」が出土したことからも邪馬台国へのつながりを思わせる(.)でも弥生時代中期後半には、大型建物は姿を消し、墳丘墓(ふんきゅうぼ)や甕棺墓ロードの形成も終わり、集落の規模が小さくなりました。弥生時代後期の魏志倭人伝・邪馬台国の時代には記載できない程に早良国は姿を隠していました。これほどの富と権力をもつ国が落ちぶれることなく(.)「三種の神器」を携え瀬戸内海を東遷して畿内に勢力を伸ばし、大陸の文化を受け継いだ九州北部の文化を畿内の文化と融合させ奈良盆地に大和国一大勢力を築いたであろう。再び早良国に集落が盛んに営まれるるのは(.)約500年後の古墳時代後期になりました(.)また弥生時代中期後半から末期の北部九州では「邪馬台国」「伊都国」「奴国」へと発展していったであろう(.)

 
福岡市博物館展示パネルより

 【吉武高木遺跡】
紀元前100年位
 王の墓としては国内最古の弥生時代前期の墓や、集落の跡などが見つかっている(.)支石墓を持ち込んだ渡来人のグループ中で(.)突出したボスの墳丘墓で支石墓系の流れをも汲む標石木棺墓3号から、三種の神器①など、その圧倒的な副葬品から、相当の権力をもっていたことを伺わせる
(.)高木遺跡の東側には回廊を廻らせた大型の掘立柱建物跡も発見され、復元模型②では二階建ての高床式の建物になっている(.)この高殿は祭祀場として使われたのではないかという(.)いづれにせよ「早良王国」と呼ばれるにふさわしい「クニ」だった(.)
 
 【吉武大石遺跡】
 弥生中期初頭から中期後半の遺跡で「甕棺ロード」と呼ばれるほど発展し、後期には衰退した甕棺墓群の遺跡です(.)多数の銅剣・銅矛・
銅戈(どうか)武器、戦闘をうかがわせる出土品から、戦士の墓と推測されている(.)いつの世も権力には、その背景に強力な軍事力がある(.)

 【吉武樋渡遺跡】
 他の遺跡より1世紀ほど後になる弥生時代中期後半の遺跡で(.)墓域内の甕棺墓27ヵ所、墓域外から140ヵ所の甕棺墓出土し、数基の木棺墓や石棺墓が出土している(.)墓からは素環頭太刀・十字形把頭飾・銅剣・素環頭刀子・鏃のほか前漢鏡「重圏文星雲鏡(.)が出土している。まぎれもなく吉武高木の血を受け継いでいるという(.)この樋渡遺跡の力が急速に低下するのに呼応するように「伊都国」と「奴国」が現れる
(.)

 

     
【吉武高木遺跡出土品】


 

銅剣(吉武高木遺跡3号木棺墓出土)
 
銅戈(どうか)
吉武高木遺跡3号木棺墓出土))

 
勾玉(吉武高木遺跡3号木棺墓出土)
   
吉武高木遺跡3号墓出土の数々
のちの天皇家の「三種の神器」の原型か
 
二階建ての高床式の建物(模型)
 
吉武大石遺跡 
 
二頭の鹿の線刻がある甕棺

朝鮮半島の特徴をもつ金海式甕棺
野外模型展示コーナー
   
  吉武樋渡遺跡(弥生中期初頭から中期後半)出土品 *福岡市教育委員会調査資料展示品を参照しました 
 
銅剣(36cm)と十字形把頭飾(高さ5cm)
 
上から剣(36cm)・素環頭太刀・剣・素環頭刀子・鏃
 
前漢鏡「重圏文星雲鏡」径8.3cm
             



  ⑥-⑦    伊都国(いとこく)から奴国(なこく)へ】

 (原文(.) 東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
   
.
 
(現代文訳) 伊都国から)東南、奴国に至る。百里。官は兕馬觚(しまこ)といい、副は卑奴母離(ひどぼり)という。二万余戸が有る。
 
奴国(なこく) 
    中国の史書に出てくる最初の日本の個人名は、『後漢書東夷伝』には建武中元2年(西暦57年)に倭奴国((やまと)奴国(なこく)?)は後漢へ朝賀し、貢物(こうぶつ)(みつぎもの)を奉じていました。使人は自ら大夫と称した。光武帝から印綬(「漢委奴國王印(かんのわのなのこくおういん)」)(委=倭)を授けられている()この金印は江戸時代天明4年2月23日志賀島(しかのしま)で地元の百姓により巨石の下から出土発見され.た。巨石とは古墳と推測される。金印は現在は国宝に指定され福岡市博物館で保管・展示されている。博多湾はかつて那津(なのつ)と呼ばれていた事から、奴国は福岡市周辺(東区・博多区・春日市)に比定される()のちの魏志倭人伝にも奴国は登場するが同一の国であれば3世紀になっても存在していたことになる()

 【須玖岡本遺跡】
 弥生時代中期の甕棺墓・木棺墓・土壙墓・祭祀遺構・住居跡が見つかっている(.)
春日市の熊野神社には広形銅矛(どうさい)の鋳型が保存されている(.)また熊野神社には「王墓の上石」と呼ばれる長さ3.3m幅1.8mの平板の石板も残されていたが()これは、明治時代に家を建てるのにじゃまだというの で動かしたところ、下に甕棺墓があり()中から漢時代の中国鏡の破片が26面分が出土(.)散逸した鏡片の収集と原型の復元で、草葉紋鏡3面(径23cm位)・星雲鏡6面・重圏銘帯鏡6面・連弧紋銘帯6面・単圏銘帯鏡(日光鏡)5面)が復元し確認された(.)他に銅剣・銅鉾・銅戈などの青銅器が8本以上、ガラスの壁 (へき)やガラスの勾玉などが多数出土したと言う(.)これらの副葬品は既に大半が散逸してしまっているが、上石だけは転々と場所を代 え熊野神社に残っていたが(.)現在は「奴国の丘歴史公園」内に移転され保存展示されている(.) 


漢の皇帝から下賜(かし)された鏡?草葉紋鏡 
   
       青銅器・鉄器・ガラス製品の生産工房住宅群  
   春日丘陵の住居跡からは、銅鉾・銅剣や銅鏡、小銅鐸などの銅製品工房跡や、当時、ハイテク産業の菅玉や勾玉(まがたま)などのガラス製品工房の跡、国産絹織物の破片などが発見されている。弥生時代の最先端の文化・技術を持っていたと考えられています(.)吉野ヶ里遺跡が発見されるまでは、西日本の青銅器は全て生産されていたのではと思われるほどである(.)それ程多くの青銅器鋳型、中子、半製品が出土している。ここの資料館には鋳型群が山ほど展示されている(.)また国内最古級となる弥生時代中期から後期(紀元前2世紀~紀元後1世紀)のてんびん用の分銅とみられることが分かった(.)重さの規格も朝鮮半島の分銅と共通し、識者は「当時から国際規格の計量法が国内で使われていたことを示す。武末純一・福岡大名誉教授(考古学)が分析し(.)重さの規則性や重ねやすいようにした加工跡などから古代の分銅「(けん)」と結論づけた。韓国の茶戸里(たほり)遺跡出土の青銅製権(紀元前1世紀、約11グラム)の3倍、6倍、20倍、30倍の重量で「朝鮮半島と共通の規格が使われていた可能性が高い」(市教委)という(.)須玖遺跡群には青銅器の生産工房があり、分銅は原材料の計量のほか交易にも用いられたとみている(.)朝鮮半島との間で、物々交換ではな大陸の度量衡制度を取り入れた経済活動が行われていたとみられる(.)
出土した分銅(権)
 ガラスの勾玉の鋳型が出土した遺跡は、 これまでに9つが知られている。大阪府茨木市・東奈良遺跡、山口県菊川町・下七見遺跡の2ケ所の他は(.)全てこの春日丘陵とその周 辺である。ガラス製品の製作は弥生中期に始まると考えられているが(.)中期の鋳型が出土する所では具体的な製作を示す他の遺物や遺 構がわかっていない。五反田遺跡では、勾玉鋳型(まがたまいがた)が複数個、坩堝(るつぼ)(溶融させる際に用いる容器)、勾玉(まがたま)の未製品などが出土して製作を裏付けているが、時期は弥生期後半と見られている(.)春日市教育委員会の吉田佳広氏は、「溶解温度の低いガラスは青銅に比べて遙かに鋳造し易いが(.)その 製作に関して専門知識と熟練が必要な事は青銅器と変わりなく、原料の入手や製造技術にも共通する点が多い(.)青銅器の工人の中でガ ラスを扱う技術を習得した者は(.)青銅器工房の一角において、さまざまな青銅器とともにガラス製品の製作を行っていたものと思われ る(.)」と述べ、ガラス製品の製作が推測される遺跡では、同時に青銅器生産に関する遺物も伴っている事を指摘している(.)
 

 

 【須玖(すぐ)五反田遺跡】
 ガラス製品の製作工房跡が確認されている(.)中期前半の墓地や後期後半の竪穴住居跡とその周辺からガラス勾玉(まがたま)の鋳型などが発見されている。また、青銅器鋳型なども発見されている(.)


 
【須玖坂本遺跡】
 青銅器鋳型や坩堝(るつぼ)銅滓(どうさい)など青銅器鋳造関係の多数の遺物が発見された。青銅器工房跡と思われる建物跡も発見されている(.)


 【須玖永田遺跡】  
 掘立柱建物16・溝8+土坑・井戸+住居を発掘(.) 銅鏡鋳型(内行花文日光鏡系倭製鏡第II型b類鋳型1)・銅矛(中子数点)・銅製鋤(中子1)・銅滓(銅塊数点)・鋳造で使った道具で取鍋(とりべ)+坩堝(るつぼ)・弥生土器+土師器+陶質土器+木製品が出土している(.) 

  【須玖タカウタ遺跡】
(2015)多紐細紋鏡の鋳型が発掘されました。
国内最古の銅鏡鋳型です。これまで出土した多紐細紋鏡はすべて朝鮮半島製で、土の鋳型だと考えられていますが、この鋳型は石製で、土製のものに比べやや線が荒い印象です。この鋳型を使った鏡は現在のところ発見されていません
春日市岡本3-57のに「奴国の丘歴史資料館」と「奴国の丘歴史公園がある(.)JR鹿児島本線南福岡駅より岡本方面へ徒歩20分。TEL092-501-1144()
 

甕棺と祭祀用土器(朱塗り)
   
ガラスの装飾具



稲刈りに使用か?石包丁
 
           小銅鐸の鋳型(いがた)
   

          小銅鐸の中子(なかこ)
 
 
銅戈の鋳型の破片
   
銅鏡の鋳型
     
ガラス勾玉とガラス小玉の首(.)       
 

銅戈(どうほこ)の鋳型大南遺跡


 
   
熊野神社に保管されていた
広形銅矛(どうほこ)
の鋳型

下側が湯口となる全長h約81cm
 
       
博多区の那珂川と御笠川に挟まれた丘陵上に広がる比恵(ひえ)那珂(なか)遺跡群は石器時代から縄文時代までトチやシイなどの照葉樹林の茂る森の狩猟や採集の場でした(.)弥生時代前期から中期にかけて森を切り開いて環濠集落の建設や拡張が始めます。発掘調査では半分に折れたり、()が欠けた石斧(いしおの)が大量に発見されている(.) 
北部九州から全国に広がった環濠集落という暮らしの方法を、朝鮮半島から最初に取り入れたのは比恵・那珂に住む人々だったのです。(板付遺跡の環濠集落より古い)(.)

弥生中期以降、湧き水が無い為に、数百もの井戸が掘られている。県内で発見された井戸の半分以上を占める(.)ここに多くの人々が集まり暮らしてしていたとみられる(.)これらの井戸には発掘調査では祭祀に用いられたとされる彩色土器などが繰り返し投込まれている(.)弥生後期以降では丘陵のほとんどの場所で開発されている。
この時期までの奴国の拠点は春日市の須玖(すぐ)岡本遺跡を中心とする大集落にありました。しかし、比恵(ひえ)の北東側の沖積地には大規模な水田が開発され発展する一方(.)須玖岡本遺跡群の遺構が減少することが報告されており、このことは「奴国(なこく)」の中心が比恵・那珂に移ったことを示しており、奴国の首都が移転したとも言える。比恵(ひえ)那珂(なか)には倭国内の各地域や朝鮮半島の土器等も持ち込まれ(.)ここを拠点とした広範囲の交易ルートが確立されたことが解る(.)比恵遺跡の墳丘墓の甕棺には銅剣が副葬され(.)付着した絹は、日本最古の絹織物とされている。那珂遺跡からは、吉野ヶ里遺跡(.)九州大学筑紫キャンパス内遺跡に次いで3例目となる巴形銅器(ともえがたどうき)の鋳型が出土している。現在の糸島市井原で出土したと記録した巴形銅器(ともえがたどうき)に酷似しており奴国と伊都国の関係が示唆(しさ)される。古墳時代になると比恵・那珂を縦走する全長1.5Km以上も延びる並列溝(へいれつみぞ)がつくられました。両側には側溝をもつ道路の可能性があり道路沿いには方形周溝群が並ぶように築造されました(.)なお近くに稲作農耕で有名な板付遺跡や金隈遺跡甕棺展示館があります(.)(福岡博物館の比恵・那珂モノがたりNo407参照(.) 
福岡市埋蔵文化財センター ・福岡市博多区井相田2丁目1−94・TEL092-571-2921(.) 福岡市博物館・早良区百道浜3丁目1−1・TEL092-845-5011  
   
 ⑦-⑧   【奴国(なこく)から不弥国(ふみこく) へ】 
 (原文) 東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘()
    
 
(現代文訳)(奴国から)東に行き不弥国に至る。百里。官は多模(たぼ)といい、副官は卑奴母離(ひどぼり)という。千余りの家がある。
     .
  
 不弥国(ふよこく)

 不弥国の比定は、宇美町が有力であるが南方面の大宰府市や筑紫野市にに不弥国が広がっていた説もある。言語学者の長田夏樹氏のいう「洛陽古音」で「ホ・ム(ホ・ミ)」にあたるという立場に依拠して、「宝満山」の西麓の太宰府市付近を考えている(.)すなわち、宇美町と太宰府市・筑紫野市にまたがる秀麗な山・宝満山(標高869M)は、ホツミ→ホツマあるいはホミである意見あり(.)また現在の呼称「hou-man」の山がもと「hou-mitu」(あるいは「hou-mit」)の山で、このくらいの転訛は十分ありうるのではないかと思う()太宰府という地名自体は置かれた官署・大宰府に因るものだから、別の地名(不弥国)がもともとあった筈でもあろうと語る(.) 

 奴國が博多湾岸から春日市のあたりだと想定すると、東の不弥國は、従来通り宇美町と推定できる(.)原田大六氏は、現飯塚市の立岩遺跡の重要性から見て、ここを含む旧穂波郡が不弥国だとする(.)奥野氏は、これを糸島 から遠すぎるとし、間には三郡山塊が聳えているのでとても簡単には行けないだろうという意見を述べている。春日市を奴国とした場合には(.)飯塚は北東、場合によっては(小 郡あたりからみれば)北と言っても差し支えないような位置にある。魏志倭人伝の記載の東方向とは距離が違いすぎる()やはり宇美町や大宰府市や筑紫野市説をとり、宝満川を下り投馬国に向かう。しかし文化的にも類似点があり参考の為に、飯塚市の立岩遺跡は紹介いたしました。(.)


           宇美町立歴史民俗資料館 福岡県糟屋郡宇美町宇美1丁目1−22  TEL092-932-0011     
 【光正寺古墳】
光正寺(こうしょうじ)古墳は、福岡県糟屋郡宇美町光正寺3丁目4537にある3世紀中頃から後半の前方後円墳。5つの主体部を確認されている。1号主体部と2号主体部と5号主体部は箱式石棺、3号主体部は 割竹形木棺、4号主体部は合口土器棺。 糟谷(かすや)地方を治めた豪族の王墓と考えられている。魏志倭人伝には、倭人が絹の生産を行っていたとが、光正寺(こうしょうじ)古墳でも絹の痕跡が発見されました。宇美川流域における前半期の古墳として有力なものである。昭和50年(1975)に国の史跡に指定(.)

光正寺古墳内の模型図
 

光正寺古墳
 
 
甕棺
 
甕棺
 

甕棺埋葬の様子
 
 
甕棺
 
祭祀用壷
 
祭祀用高杯
 
紡錘車
       
     
    【七夕池古墳】  福岡県糟屋郡志免町田富3丁目511-9   TeL、092-935-1419
 七夕池古墳は、糟屋地区最大の円墳で(直径29メートル)で周りには幅3.5mの溝がめぐっています。埋葬施設は頂上部の竪穴式石室が主体部で、木棺内に壮年女性の遺体を安置し、九州で8遺跡しか出土例がない琴柱形石製品(ことじがたせきせいひん)や、刀、鏡、3,300もの玉が出土しました。古墳時代前期末の古墳とされている(.)七夕池古墳は、南側に近接する宇美町の前方後円墳「光正寺古墳」とともに昭和50年(1975)6月26日に国指定史跡となりました。志免町には萱場(かやば)古墳群・松ノ尾古墳群・堺田遺跡・松ヶ上遺跡・亀山石棺・七夕南遺跡がある。志免町は福岡空港の東側にある町で、南東にある隣町である宇美町にある宇美八幡宮の注連縄(しめなわ)が張られた土地であることから、志免(いめ)の地名となった説がある。
 
七夕池古墳
 
七夕池古墳 出土品
 

七夕南遺跡 1号甕棺墓

  

  立岩遺跡】 福岡県飯塚市    飯塚市歴史資料館   福岡県飯塚市柏の森959−1  TEL/FAX : 0948-25-2930
    立岩遺跡とは、遠賀川流域の立岩丘陵上にある「立岩・堀田甕棺遺跡」・「下ノ方遺跡」・「立岩・ 焼ノ正遺跡」などの総称です。遠賀川流域の古墳群は古代、権勢を誇った有力者たちが いたであろう(.)遠賀川を遡り、大陸からの渡来人達が定着した場所だったのかもしれない。昭和8年(1933)に市営グランド造成工事中に発見され学会に発表されました(.)その後昭和38年(1963)から昭和40年にかけて調査された「立岩・堀田甕棺遺跡」から甕棺が発見され、全国的に「立岩遺跡」が有名 になった(.)立岩・堀田甕棺遺跡の43基の甕棺の中から前漢鏡10面、青銅器、鉄器、、ゴホウラ貝の腕輪、絹などの 出土品が発見された(.)この発掘によって明らかにされた考古学上の新事実とは以下のよう な点である。なお、腕輪は市指定の文化財に(.)甕棺と前漢鏡10面をふく104点が国指定の重要文化財に指定され ており、出土品は飯塚歴史資料館に展示されている(.)
   
    
 
飯塚歴史資料館・甕棺
 
蓋を閉めた状態の甕棺
 
38号甕棺・30歳位の男性①ゴボウラ貝の腕輪14個 ②鉄戈 ③頭の左に銅鏡
  
    【前漢鏡】

 立岩遺跡から出てきた前漢鏡(
単圏文銘帯鏡や連弧紋銘帯鏡)は、今まで出土していた前漢鏡よりも美しく、それまで全国で出土した前漢鏡は出土状 態が判然としていなかったが(.)立岩遺跡からの前漢鏡により出土状態も明らかになった(.)鏡の状態がすこぶる良好で、 報告書にはすべての鏡の拓本が記載されている。銘文も解読されている(.)前漢鏡は全部で10面出土しているが、1 0号甕棺から出土した6面が完全品で特に優れており、全部に銘文を持つ(.)その銘は、後の日本人が作った三角縁神 獣鏡などのように、誰それがこの鏡を造ったとか、銅は徐州産とかいうような(.)自らを誇示するようなものではなく、 「日に喜びあり、月に富あり」と言ったような漢詩風である(.)そんな所も「この鏡が日本一美しい」理由かもしれな い(.)
   ゴボウラ貝の腕輪】

 ゴボウラ貝の腕輪は吉野ヶ里遺跡でも甕棺の副葬品として出土している。 ゴボウラ貝は奄美大島より南にしか生息していない貝である。つまり交易によってもたらされた装飾品であるが、北 九州の幾つかの遺跡からは(.)この貝製の腕輪が出土している。当時、南方の島とも交易があり物々交換などで九州北部までもたらしたであろう(.)それは少なからず、それらの遺跡が比較的大き な、或いは裕福な集落だった事を示している(.)
 


  
【絹】

 立岩遺跡における絹は、36号甕棺の中にあった鉄剣や鉄矛に少し付着した形で残っていた。この発見により、弥生中期に 九州では絹を使用していたことが我が国で初めて明らかになった(.)これにより、魏志倭人伝の記載より250年も前に、北部九州 で絹文化が存在していた事が証明された(.)その後、絹使用は弥生前期まで遡る事になったが、北部 九州20カ所近くで弥生の絹が確認されている(.) その後北九州では幾つかの遺跡から絹製品が発見されるが(.)甘木市の栗山遺跡では、庶民の甕棺の中から絹の衣服を纏った人骨 が出土して(.)絹文化が北九州で広く蔓延していた事を立証した(.)その後、絹使用は弥生前期まで遡る事になったが、北部 九州20カ所近くで弥生の絹が確認されている(.)現在までのところ同時代の絹は、北部九州以外の地域では出土していない(.)




    ⑧-⑨  不弥国(ふみこく) から投馬国(とうまこく)へ】
 
 (原文)   南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸

 
(現代文訳)南、投馬国に至る。水行二十日。官はビビといい、副はビビダリという。およそ五万余戸。
水行二十日についてこの箇所の知識は里数を知らない、ただ日や月を()って計算していた倭人からもたらされた情報の加筆と推測する() 
 また、中国大陸の王国から侵略の恐れがある為に、遠い南海の果てに邪馬台国があるとの情報をもたらしたのではないだろうか(.)
水行とは海や川もある。不弥国から南に投馬国まで舟で川を航行した事に述べる(.) 
 . 

   
 投馬国

 不弥国からの行程は現在の宇美町を中心にもっと南西に広がっていたと推測。筑後川の支流、宝満川の上流に筑紫野市大石がある(.)そこに大昔から「船着き石」と呼ばれた石がる。郷土史家の村山健治氏は、弥生時代もこの大石が船着き場だったと主張する(.)帯方郡からの魏使も、ここで不弥国を後にして南へ川を下り投馬国の舟旅をはじめたのであると語る(.)、 

 
考えられるもう一つが博多湾と有明海を結ぶ海運のコースである。不弥国の三笠川を船で遡上し、二日市付近は宝満川と(つな)がる浅瀬の針摺地峡(二日市水道)を利用した説がある。この地峡は狭くて且つ滑りやすい地盤の故、両岸から人夫がロープで舟引き()って二日市水道を通過させ、宝満川に流したであろう。さらに宝満川の蛇行した川を下り、本流の筑後川に出て、投馬国(久留米市御井朝妻)に進んだとみられ現在、西日本鉄道とJR鹿児島本線と国道3号線や九州縦貫自動車道が束になっている二日市の所が御笠川と宝満川を繋ぐ邪馬台国時代の水道の跡である(.)
 現在は両脇の山が迫る地峡となっているが、4世紀後半から~5世紀前半にかけ気象異変による脊振山系東端の九千部山(くせんぶやま)崩壊(ほうかい)と山口川の氾濫で水道が埋没したとみられる。温泉掘削の際の地盤調査によれば(.)この地(二日市水道)は現在標高40メートルであるが、さらに70メートル下層が邪馬台国時代の地層に該当し(.)水道の深さが10メートル以上の水深であったことが、解っている。埋没後も一大運河が掘削された痕跡がある(.)三笠川と山口川と宝満川に繋がるの水道の(.)福岡市の比恵・那珂遺跡群では、運河とおぼしき遺構や、遺構を横断する道路跡も発見されており当時の土木技術の高さを感じ取れる(.)
  
      日本最古の古墳は九州にあった?
 津古生掛古墳(つこしょうがけこふん)   小郡市三国が丘三丁目

 筑後川水系の支流である宝満川が市域を南北に縦断する平坦な宝満川流域にある(.)津古生掛古墳そのものは、住宅地の造成のよって残っていませんが、築造は3世紀後半頃、津古2号墳に続くと考えられている全長33mの前方後円墳です。現在の地形より20m高い位置にあり(.)墳丘(長さ33×径29×高さ5m) 方部(幅13×長さ10×高さ0.2くびれ幅6m)古墳からは庄内式という古い土器が見つかり(.)その年代から津古生掛古墳は3世紀末のものになり、その時点で奈良県桜井市箸中にある布留式土器が出土した箸墓古墳(はしはかこふん)より古い、日本最古の古墳といわれ、のちの研究で築造年代は250年頃と推測された。「古墳北部九州発生説」が広まり、この古墳を卑弥呼の墓とする説まであらわれた。古墳の周囲には方形周溝墓(.)円形周溝墓や土壙墓などが多数造られていました。この古墳から出土した中国製の方格規矩鳥文鏡や、短い前方部に飾られていたと考えられる鶏型土製品から、この地域の有力な首長とその家族や近親者が埋葬されたと考えられる(.)

       
   

   投馬国の比定も難問であるが、(投馬(妻=つま)国にふさわしい地名に筑後地方の三潴(みずま)上妻(こうずま)下妻(しもつま)久留米の御井朝妻などがある。有力なのは投馬国の船着き場は久留米の旗埼にあり、高良山(こうらさん)の麓(久留米市御井朝妻(みいあさずま)1丁目・久留米大学すぐ北)に「朝妻の泉」がある場所(味水御井(うまみずみい)神社)に王城地があったと推測される(.)




 さらに筑後川を下り有明海に出て、すぐ傍の南下にある矢部川の河口を遡上して邪馬台国の卑弥呼が住む女山(みやま市)に着いたであろう(.)またのコースに、久留米からは山裾道を南に歩き邪馬台国の女山(女王山)に辿り着く困難な道もある(.)

 
          【祇園山古墳群】 福岡県久留米市御井町高良山299-8、299-218


祇園山古墳と頂上の箱型石棺
 祇園山古墳が投馬国の王墓と思考する。県指定高良山の山麓、祇園山(赤黒山)の頂に営まれた古墳です。一辺24m、高さ約5m、2段に造られ、周囲を石で葺いた墳丘を持つ、筑後地方では珍しい方墳です(.)遺体を埋葬した内部主体は板石を箱型に組んだ棺で、その内面は朱で赤く塗られていました(.)残念ながら過去に盗掘を受けて背期間内には何も残されていなかった為(.)祇園山古墳がいつ作られたのかははっきりとはわかりませんが、その特徴などから(.)九州地方の中でも最も古い時期の方墳とも言われています(.)三角縁神獣鏡や変型方格規矩鏡が近くの高良大社には出土品として伝わっていますが(.)正確な由来は不明となっています。()墳丘の周囲には調査されただけでも60基を越える箱式石棺・甕棺など小型の埋葬施設が有りましたが(.)甕棺から出土した鏡などは、現在太宰府市の九州歴史資料館に展示されています(.) (下の写真は頂上の箱型石棺) 
     
 高良山の中腹には、1mほどの長方形の切石が延長1.6kmにわたって約1300個一列に並んだ神籠石は高良山の西斜面を大きく囲んでいる(.)
 
 
 
祇園山古墳
 

三角縁神獣鏡
 
変型方格規矩鏡
 
周囲の墓からの出土品
 
 
  【吉野ヶ里(よしのがり)遺跡】 (佐賀県神崎郡吉野ヶ里町田手1843)
 久留米から西に県境を超え14.5Kmの場所にある弥生時代中期の大規模環濠集落跡の吉野ヶ里遺跡(邪馬台国時代は弥生の後期にあたる)は、脊振(せぶり)山地南麓から筑後川に流れ込む田手川(たでがわ)の右岸にある。神埼市と吉野ヶ里町にまたがる遺跡で全長2.5kmの壕に囲まれた日本最大規模の弥生時代の環壕(かんごう)集落跡です。弥生時代が始まった紀元前4世紀に丘陵南端で誕生した環壕集落は後期には40haを超す大規模環壕集落へと発展した(.) 弥生時代全時期の多数の住居跡、高床倉庫群跡、3000基を超えるかめ棺、弥生時代中期の王の墓と考えられる墳丘墓(ふんきゅうぼ)などが発掘されています。墓からは鉄の矢じりが体の中に残っている人骨や、首のない人骨などが出土し、魏志倭人伝の倭国の争乱大乱による武器を持った戦争をしてたことが解る(..)墳丘墓からは、高度な技術を要する有柄細形銅剣やガラス製の管玉などが出土し、中国大陸や朝鮮半島との交流をうかがわせます(.).遺跡を中心に弥生時代の雰囲気が感じられるのが、吉野ケ里歴史公園です。発掘品を展示説明した資料館もある(.) 

                後ろに見える背振山地の向こうに末羅国・伊都国・奴国がある。 
 
  把頭飾り付き有柄細形銅剣と
  ガラス管【装飾品)の出土



   巴形銅器(復元)とその鋳型
 

  巴形銅器を用いた製品の復元盾
 
鉄族(矢じり
 
銅の鋳型(西隣の久保和泉町上和泉遺跡出土)
 

 銅矛の鋳型

  有柄細形銅剣と銅剣とガラス管
        
      
       
        首の無い遺骨
      
 甕棺
 
 

  沖縄などの南海産のボホウラ貝で作った腕輪


 糸を紡ぐ紡錘車


 
 出土した麻と絹の繊維
 
    弥生時代の衣服を復元したもの
 
       祭祀に使用した土器


   
 
    九州初出土の銅鐸
 
      小型刀と鉄製品

耳環あるいは指輪?対で出土
 
      環濠溝と土塁や柵

 深さ3m環濠のV字の堀には数十万点を
超える土器群が捨てられていた
 

     高床倉庫や竪穴住宅 
 
 魏志倭人伝には卑弥呼の都の様子について「宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり。兵を持して守衛す。」と記しています。まさに復元された吉野ヶ里遺跡にそっくりです。幾重にも巡らされた環濠と城柵、巨大な居宮、敵の侵入を見張るための幾つもの物見やぐら(楼観(ろうかん))があります。遺跡の全容が明らかになるにつれ魏志倭人伝の記述にあまりにも似てますが(.)現在までのところ卑弥呼の墓と考えられる古墳は発見されていません(.)


 
 
     主祭殿と物見櫓
 
      祭殿内では会議や祈祷が行われた


 
    【平塚川添遺跡】(福岡県朝倉市)
 筑後川とその支流の小石原川・佐田川にある福田台地周辺遺跡群である。その台地に平塚大願寺遺跡(三角縁神獣鏡が出土)、平塚栗山遺跡、平塚垣添遺跡(下・写真)がある(.)弥生中期から古墳時代前期の約300年間人々が住み続けた低地性
多重環濠集落跡であり、出土した竪穴住居跡・掘建柱建物は両集落のべで517軒・252棟を数えた(.)主な出土品は首長館付近から小形仿製鏡(ほうさえいきょう)2、、長宜子孫銘内向花文鏡片1、広型銅矛1、工房跡からは貨泉(中国で作られた貨幣)、ガラス製管玉、ガラス小玉、碧玉(へきぎょく)製管玉、木製建材、柱やネズミ返し、木製農耕具、銅鏃4、が出土している。台地は高くなく、5~6メートルの高さで、西に小石原川(または甘木川)がある(.)平塚大願寺遺跡の方形周溝墓から三角縁神獣鏡が出土し、また平塚栗山遺跡からも出土した。安本美典氏は朝倉市付近は邪馬台国の遺跡があるのではないかと考えている(.)現在の朝倉市は2006年に甘木市、杷木(はき)町、朝倉町が合併して朝倉市となっている。
 小形仿製鏡





      
   
    

三角縁神獣鏡



    




 
 
 
 
     甘木歴史資料館(月曜休館)朝倉市甘木216-2  電話0946-22-7515 西鉄甘木線 甘木駅から徒歩11分
 
   
             【①畿内、大和のまわりの地名】
 
              【②夜須町のまわりの地名】
  ①は畿内、大和の地名です。②]は北九州の夜須町(朝倉郡筑前町)の地図です。比べればほとんど同じ場所に同じような地名があります(.)たとえば、北の方に「笠置山(.)という山があり、「春日」というところがあり(.)「三笠(御笠)山」というところがあります(.)あるいは「長谷」であるとか「朝倉(.)であるとか、ほとんど同じような位置に同じ地名があります(.)これは北部九州の筑後川流域の勢力が(.)東に移って大和朝廷をたてたさいに(.)元の九州の地名を畿内(きない)に持っていったんだと推測されます(.)畿内の奈良県もこの甘木、朝倉のあたりも(.)地形が非常に似ていて(.)大きな川の上流であり(.)ある程度盆地的になっている。こういうことから(.)故郷を懐かしんで同じ地名を付けたと想像します。
 
 栗山周一氏の「邪馬台国東遷説(とうせんせつ)」によると倭国人は九州北部に中国や朝鮮半島からの大陸文化を盛んに取り入れ人口の増加とともに、大挙瀬戸内海を東遷(とうせん)し、大和の地に移り、強力な国家を作ったと見るのが、理論上正しいと思う(.)九州北部に一種特別なる墓制がある。すなわち甕棺を用い銅剣と銅鉾の副装品がある。この分布は、はなはだ蜜である。九州北部には、大陸や朝鮮半島の多くの遺物が発見されている(.)中国古代の鏡のごときも、相当に多い。近畿地方を中心として、魏時代の鏡が、多数発見されている。この事実は倭人の大挙東遷(とうせん)の仮定によって氷解せられるであろう。倭人の東遷を、三国時代を中心として、前漢末、または西晋ころと仮定すれば、九州北部の文化が東に次第に移り、それ以前の畿内文化と融合したことを確かめると同時に(.)北部九州文化に特殊性が無くなったことも理解される。倭人の奈良盆地方面に東遷する時代まで倭人の勢力は、九州北部に相当に強大であったろう(.)してみると近畿地方の大古墳は、倭人が東遷して、大和の一大勢力を有するに至ってからのものである。倭人の大和東遷は、卑弥呼の死後である。卑弥呼の血族または関係の民族が(.)大挙して大和地方に移り、九州の倭国の名をそのまま称して『大和』と言った。奈良県の大和(倭)は倭人が九州より移住東遷して、邪馬台国の旧名を襲用(しゅうよう)して大和に永住したので、国名は改めなかったと解すべきである。なぜに旧地の国名を称したのか(.)当時中国大陸の交通上(.)その信用とか便利とか、国家統治の方策などから依然として邪馬台と称したのであろう(.)大和政府の原始は、倭国に求めねばならぬ。彼等倭人は、さかんに中国文化を輸入し、大挙大和地方に途渉移住し、一部は瀬戸内海方面に分布し、淀川平野より大和に侵入した倭人は、最も強力であった。」と論じている(.)


   【日田市発掘の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんきょう)(大分県日田市)

 日田市は筑後川の上流にあたり、夏の風物詩、伝統漁「鵜飼い」見物や温泉で有名な観光地です(.)昭和8年(1933)に国鉄久大線豊後三芳駅付近で、久大本線の敷設工事のために線路の盛土のための用土を採集している際に(.)ダンワラの土地から出土した石棺の中から地元の渡辺音吉氏が発見したたとされる(.)しかし、湿気を避けるため、石炭箱に石灰と一緒に入れて三芳小学校に寄贈展示されていたが(.)鉄鏡は行方が分からなくなっていた(.)

 昭和35年(1960)に京都大学の梅原末治氏が奈良の古物商から「伝・日田出土」の「鉄のかたまり」の肩書きの鉄鏡を買い取り、天理大学附属天理参考館に依頼して研ぎ上げると(.)昭和37年(1962)に金銀玉による模様が施されていることが明らかになった。また保存用の石灰が被っていた事から行方不明のダンワラ古墳から出土した鉄鏡と解った(.)

そこで、梅原は、発見者の日田市の渡辺音吉の案内のもとで現地調査を実施。その結果、日田市日高町(ひたしひだかまち)の通称ダンワラと呼ばれる場所から出土したものと判断され(.)その場所がダンワラ古墳と呼ばれるようになった(.)ただし、発見から調査までの間に約30年が経過しており(.)出土地点は前述の線路工事によって発見当時に破壊されていた為に今は消滅している。(.)

「三国志の英雄」として知られる曹操(155~220年)の墓「曹操高陵」を発掘した中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌(はん・いひん)氏は2~3世紀の中国において『御物』など最高級に位置付けられる貴重な鏡であり、大分県日田市のダンワラ古墳出土と伝わる国重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」を(.)邪馬台国の女王・卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」の一枚である可能性が高いとする見解を明らかにした(.)曹操の墓出土の21cmの鉄鏡と同一で、いずれも2~3世紀の中国において「御物」など最高級に位置付けれれる貴重な鏡である」という見解で一致した(.)

         金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は卑弥呼の鏡か?


          現物は東京国立博物館所蔵。      レプリカは天領日田資料館で展示中。 
 ダンンワラ古墳の鉄鏡は直径21.1センチ。鉄の鏡体の背面に金や銀を埋め込む象眼「金銀錯」が施され(.)朱色のうるしで彩色した珠がはめ込まれている。手足の長い龍のような怪獣が多数描かれ(.)銘文は「長宜■孫」(欠落部分の■は「子」と推測される)の四文字が刻んである(.)

蕨手文(わらびてもん) は蕨の形に似た渦巻状の文様で、呪術的な図文と考えられています。卑弥呼が鬼道(呪術?)に使用してたかも。女王鏡は何も語らない(.)



 天領日田資料館  大分県日田市豆田町11−7
                電話 0973-24-6517
     ⑨=⑩  投馬国(とうまこく)から邪馬台国へ】 

 (原文) 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 
  (解説邪馬台国について)この箇所の水行十日陸行一月の知識は里数を知らない、ただ日や月を()って計算していた倭人からもたらされた情報と推測する() または卑弥呼の宮殿から帯方郡さらに海上を中国大陸側の町の現・東営市(とうえいし)まで十日、更に煙台(えんたい)からは黄河に沿って陸上を王の住む洛陽まで一ヵ月(煙台—洛陽間、約1048Km)の行程と捉える()1日の走行距離は 1048Km÷30日=34Km  時速4Kmで歩いて休憩なしで約8時間かかり倭人伝の陸行一月があてはまる()
 また脱字[朱文字]説では。(追加文字文()(不弥国から)南[行千三百里]至邪馬壹國  女王之所都 [因詣献上] 水行十日 陸行一月
 (不弥国から)1300里で邪馬台国に至る。卑弥呼の宮殿より魏都 洛陽(らくよう)に至るには海上10日、陸を1月かかる。) と考えるのが妥当で あるが、いずれにしても水行と陸行の記載記事は削除に価する記事である()ここは投馬国から水行三百里 陸行では四百里と捉えたい(.)
  
 邪馬台国(やまたいこく)
    【山門(やまと)の地名の由来】
 山門と邪馬台は「ヤマト」として古代からの地名として呼ばれ同一性がある。山門(やまと)という地名を探ってみる。710年に出来た『日本書記』神功記には「轉至山門縣、則誅土蜘蛛田油津媛」とあり、(神功皇后が)山門県に転至ましして、即ち土蜘蛛田油津媛(たぶらつひめ)を誅殺したとある。ほかにもある(.)藤原忠平、紀長谷雄たちが勅命によって、927年(延長5)にまとめあげた延喜式(えんぎしき)という古文書がある()宮中の年中儀式、百官の儀、作法から諸国のことなど記した書に「山門五郷、大江、鷹尾、山門、草壁、大神」となっている(.)草壁が大草に変わったが他の4地名は今も残っている。では山門をヤマトと呼んでいいのだろうか()931年~939年に日本最初の漢和辞典倭名類聚妙(わみょうるいじゅしょう)の中に、つぎの注釈がある。「山門郷 夜万止(やまと)と訓む、草壁 久佐加部(くさかべ)と訓む(.)大神 於保美和(おおみわ)と訓む、、、、」つまり(.)『日本書記』『延喜式』『倭名類聚妙』の三古文書をつなげば(.)神功皇后のころから、山門の地名はあり、夜万止(やまと)と呼ばれたことになる(.)つまり卑弥呼から百年位のちの時代()すでに「やまと」と呼ばれていたことになる。山門郡は弥生時代の後期、「やまと」と呼ばれいたのだ()この点でも、邪馬台国は、このあたりにあり山門郡に位置していたことになる()

 卑弥呼が景初2年(238年)、現在のソウル付近にあった魏の出先機関帯方郡(たいほうぐん)に使者を送ったのは、敵対する「狗奴国」からの脅威に対抗するための援軍を求めたであろう。魏志倭人伝によると、「狗奴国(くなこく)」は邪馬台国の南にあり、男王の名は「卑弥弓呼」、副官の名は「狗古智卑狗」です。「狗奴」は「クマ」、「狗古智卑狗」が「キクチヒコ」であれば、狗奴国は熊本県の菊池付近と考えられ(.)それも瀬高町邪馬台国説が支持される要因であろう(.) 
 
    瀬高卑弥呼祭り

                                                                            .
 邪馬台国の否定地、福岡県みやま市(旧・山門郡)瀬高町女山(ぞやま)の地は北九州の福岡県南部に位置し、吉野ヶ里遺跡のある背振山脈が見渡せる。
有明海が正面に望めます。金色に染まった麦畑一帯では弥生時代の住居遺跡が連なり古代国家を連想できます
。(写真は女山神籠石遺跡からの展望(.)

瀬高町の弥生時代は、前期から住居跡・祭祀跡・墓地等が発見されている(.)標高50mの三船山遺跡からは、中期後半~後期前半の堅穴式住居跡24軒、祭祀跡としては中期後半の丹塗り筒型器台や甕が確認されている(.)また、土器が破棄された上枇杷遺跡や、山麓に中広形銅矛二本を埋納していた産女谷遺跡等もある。
 甕棺墓は、中期初頭~後期前半の権現塚北遺跡(.)戦闘による細形銅剣の破片がある小川鉾田遺跡等が甕棺墓の代表例である(.)後期になると、箱式石棺墓や木棺墓が多くなる(.)    福岡県みやま市(旧・山門郡)瀬高町では坂田の権現塚古墳(直径約四五M、高さ六M弱の円墳)とか堤遺跡、同町山門の藤ノ尾車塚遺跡(江戸中期に後漢鏡三面を出土と伝え)、山川町でも大塚古墳・面の坂古墳など、多くの遺跡が点在している(.)坂田の権現塚古墳(直径約四五M、高さ六M弱の円墳)とか堤遺跡、同町山門の藤ノ尾車塚遺跡(江戸中期に後漢鏡三面を出土と伝え)、山川町でも大塚古墳・面の坂古墳など、多くの遺跡が点在している(.)

卑弥呼の墓か〔発掘調査まち) 権現塚(瀬高町)
       【権現塚遺跡】
女山の西側の坂田地区の畑にある(.)周りに堀のある段付円墳で径50m高さ5m、の円墳で周囲を幅11mで深さ1.2mの堀跡が囲んでいる(.)魏志倭人伝に「女王死するや、大きい塚を作る。径百余歩、殉葬者百余人」とあり江戸時代の儒学者(.)新井白石が唱える山門説以後、その大きさから邪馬台国女王卑弥呼の墳墓と主張する人もいる(.)この塚の南の畑から弥生の合わせかめ丹塗りの高さ40cmの大きな高杯(.)神酒を献じたと思われる小さななどが出土し、堀の北東隅に合わせ石棺があるところを見ると(.)弥生式遺跡(墓地)の上に造られた古墳であろう(.)周辺からは、縄文時代後期~晩期の住居跡や、勾玉、管玉、石斧、また(.)甕棺48基、弥生~古墳時代の住居跡、縄文~古墳時代の土器(.)その他数多くの遺物が出土している(.)また、この古墳は神功皇后が田油津姫征伐の時(.)官軍戦死者の墓という伝説がある。いずれもまだ確かなことはわからない(.)
 

 
 
甕棺(権現塚の北東

 権現塚の北東
       【大道端遺蹟】
 瀬高町大字大草字大道端に位置し(.)九州自動車道の建設のために昭和47年に予定地を調査し、南北360m(.)東西50mにわたり大集落が発見されました。弥生時代後期約10軒(.)古墳時代後期から奈良時代に及ぶ総数149軒の竪穴住居です。又、平成2年圃場整備(ほばせいび)に伴い3ヶ所の緊急発掘が行われ、1区では弥生時代の竪穴式住居跡3軒(.)古墳時代の竪穴式住居跡6軒、2区では古墳時代の竪穴式住居跡では11軒(.)溝2条、3区では古墳時代の竪穴式住居跡21軒、溝1条を検出しています。いずれの住居跡の平面形態は方形です(.)出土遺物は甕、器台などの弥生土器と甕、鉢、壷、器台などの土師器がみられます(.)

縄文時代中期から奈良時代に至る重層遺蹟として知られる沖積平野を耕地として開墾していった古代人の足跡を 示す貴重な住居群遺蹟である(.)生産工房を持つ比較的に裕福な自然村落だが、律令下の条里整備によってて崩壊している(.)
 
卑弥呼の祈祷の場所では

この裏山が三船山遺跡 
      【三船山遺跡】
 本吉地区の「老人ホーム卑弥呼弐番館」の脇を上がった標高50mの裏山で発掘後に清水運動広場になっている。弥生時代前期からの住居跡・祭祀跡(.)墓地等が発見されている。三船山遺跡からは、中期後半~後期前半の堅穴式住居跡24軒(.)祭祀跡としては中期後半の丹塗り筒型器台や甕が確認されている(.)祭祀跡は有明海の沈む太陽を望む事ができる眺望のよい場所(.)卑弥呼が祈祷を司った場所と推測する卑弥呼フアンもいる(.)
 
藤ノ尾の車塚古墳
 
藤ノ尾遺跡群


 【藤ノ尾の車塚】

 車塚は、瀬高町大字山門字藤の尾の東北に位置し(.)南北約55m、東西27m、高さ3.5mの前方後円墳で(.)明治22年頃までは周囲に33.6mの昭和30年代には1.5mの堀があった(.)往時は陪塚が左右にあったと聞くが今はない。 享保20年(1735)に漢鏡3面が掘り出され(.)この塚の中央に収められていたが、今は破片すら残っていない。
塚の南西部か(.)弥生中期の合せカメ棺が多数出土している。(昭和61年調査)。又、塚の南東部のたて穴からも(.)弥生末から古墳中期にかかる土器が出土している。したがってこの古墳は3世紀末から4世紀初めにかけてのものと考えられる(.)

「藤ノ尾遺跡群(.)と称され弥生時代前期後半から古墳時代中期前半までの長方形住居址や甕棺(かめかん)の墓群が確認されている。赤色顔料にはベンガラと辰砂(水銀朱)の二種類があるが、古代から土器や木製品の表面に塗られたり(.)人を墓に埋葬するときに上から振りかけたりして使われた(.)県の九州新幹線関係埋蔵文化財調査によると7~9区の住居址から内面朱付の甕や・鉢・耳付鉢・8点L字状石杵(いしきね)1点、摩石1点が出土していることから、朱精製の拠点の一つと見られ、原料となる辰砂(しんしゃ)(朱)や朱精製技術が瀬戸内海から伝播(でんぱ)したとみられ、山門遺跡群は有明海沿岸地域におけ(.)海上交流の拠点的な集落の一つと思われるとある(.) 
 
車塚古墳出土の鏡の写し
 
藤ノ尾遺跡群
 
 金栗遺跡
 

釜戸


    【金栗・鉾田遺跡】
昭和25年(1950)4月15日より瀬高中学校のグラウンド拡張(かくちょう)の際、金栗(アスタラビスタ南、あんざい歯科東側)より土を求め、地下げの際に弥生後期~奈良時代の環濠集落(かんごうしゅうらく)遺跡発見されました。東西40m・南北30m環濠集落(かんごうしゅうらく)の内側に、井戸6基、()跡3ヶ所、灰のつまった竪穴4ヶ所、小形竪穴16棟が出土している(.)環濠集落の中央に全国でも珍しい2重の木枠(きわく)をつけた井戸で、内枠は木を()り貫き下部3ヶ所に穴をあけ、外枠として巨木を半切して内をくり抜いたものを抱き合わせ(.)奈良時代の井戸1基が完全に近い形で発見され( )この井戸底より当時の(くし)と須恵器が出土した( )瀬高町でコンクリートの側壁が施工され金栗遺跡県指定遺跡となり井戸の横に案内板も設置された(.)円筒コンクリートの内部を覗くと水の中に先は朽ちて鋸状(のこじょう)だが、木枠状の円筒が確認できる。奈良時代の釜戸土師器(はじき)須恵器(すえき)、平安時代の竪穴住居(たてあなじゅうきょ)跡、鎌倉時代の「金玉満堂(きんぎょくまんどう)」の吉祥句(きつしょうく)刻銘(こくめい)をもつ輸入された宋青磁など発掘されたことから、弥生時代の環溝(かんごう)が鎌倉時代前期まで存在し、小形の住居を建設し(.)共同生活を営むという、弥生時代環溝集落の慣例と何ら異なるところのない(.)一般住民の生活があったことを知ることができます( )この遺跡の南30m地点の昭和62年に地下げ工事(.)発見された遺跡からも陶磁器、緑釉水差(りょくりゅうみずさし)滑石(かっせき)の権(分銅)などが出土している(.)
 さらに遺跡の東方200m地点に鉾田(ほこた)遺跡(小字鉾田)がある。高台を地下げして水田とする工事の際に発見され、弥生、中期初頭~後期前半の50数基の甕棺(かめかん)埋葬の共同墓地と住居跡が発掘された。大きな甕を組合わせてその中に死体を入れて葬った甕棺(かめかん)からは10cmの銅鉾片、また小型銅鏡、紡垂車(石)、弥生式土器の破片が多数出どしている(.)

 









 
 
金栗遺跡
 
金栗遺跡
   
鉾田遺跡の甕棺


 
         女山から出土した銅矛・上が長さ83cm、下が78.5cm

 
筒形器台(丹塗り)祭祀跡出土
 (上枇杷遺跡(大江地区)出土)
 
      女山から出土した首飾り
 
 
   ㊤ 甕(丹塗り)
   ㊦青銅製(すき)先先
 フミアガリ遺跡(堤部落)
 
          ㊤蓋付き壷
          石包丁
   
     硬玉製勾玉・管玉(権現塚北遺跡出土)

      
           藤ノ尾部遺跡出土


みやま市・面の上古墳出土の四獣鏡 

       
     炭化米
  
上枇杷遺跡出土(大江地区)
 

山門堤の邪馬台式古墳

山門堤の邪馬台式古墳

山門堤の邪馬台式古墳
 
堤中心の道路から出土の石棺 
 

車塚の東側
藤の尾 藤の尾遺跡 藤の尾   

車塚の東側

上枇杷遺跡(大江地区)
 

 
   【女王国北側の国々】
   .
 (原文) 自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡 其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里
 
(現代文訳)女王国より以北は、その戸数や距離のだいたいのところを記載出来るが、その他のかたわらの国は遠くて情報もなく、詳しく知ることは出来ない。次に斯馬国(しばこく)筑前国志摩郡・糸島市・糸島半島)あり。次に己百支国(しはくしこく)肥前国彼杵郡)あり(.)次に伊邪国(いやこく)肥前国北高来郡伊佐早・諫早市)あり。次に郡支国(ぐきこく)肥前国五島列島)あり。次に彌奴国(みなこく)春日市と福岡市南区の一部)あり。 次に好古都国(こうこつこく)肥前国高来郡・島原半島)あり。次に不呼国(ふうここく)筑後国八女郡。旧上妻郡、下妻郡)あり。次に姐奴国(しゃどこく)神崎郡吉野ヶ里町)あり。次に対蘇国(たいそこく)鳥栖市)あり。次に蘇奴国(そどこく)筑後国三潴郡・久留米市)あり 次に呼邑国(こいふこく)筑後国八女郡)あり。次に華奴蘇奴国(かなさきなこく)佐賀県神埼)あり。次に鬼国(きこく)久留米市荒木)あり()次に為吾国(いごこく)豊後国大分郡・大分市)あり。次に鬼奴国(きどこく)豊後国速見郡・別府市)あり。 次に邪馬国(やばこく)大分県中津市。宇佐市)あり次に躬臣国(きゅうしんこく)大分県玖珠郡玖珠町)あり。次に巴利国(はりこく)筑前国杷木郡・朝倉市)あり。次に支惟国きいこく)肥前国基肄(きい)郡・基山町・基肄城付近)あり。次に烏奴国(をどこく)(あり(.)次に奴国(どこく)筑前国那の縣・福岡市)あり。 これ女王に境界の尽くる所なり(.)
その南に狗奴国(くなこく)熊本県菊池市)あり。男子を王となす。その官に狗古智卑狗(くこちひく)あり。 女王に属せず。(帯方)郡より女王国に至ること万二千余里(.)  

( )内の比定地は只今研究中です。
 
邪馬台国の南狗奴國(くなこく)
 
(原文) 其南有狗奴國 以男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
   (現代文訳) 女王の南、また狗奴國(くなこく)あり。 男子を以って王と爲す。 其の官を拘右智卑狗(こうちひこ)という。 女王に属さぬなり。
   .
  女王国の南の国、狗奴國拘右智卑狗(くこちひく)は菊池彦と考えられるので熊本県北部の菊池川流域周辺と思われる。狗奴國は官の拘右智卑狗が外交や軍事の当事者として活躍し、女王国の大夫の難升米が自ら帯方郡をへて魏の都の洛陽(らくよう)まで行ったように、狗奴國からも帯方郡に使者を派遣し、その時の使者が拘右智卑狗であり、それにより帯方郡にまで名が知れれたていたであろう()
  
 狗奴国(くなこく)
  
     製鉄と武器の生産拠点か?菊池川流域の弥生時代の遺跡
     【狩尾遺跡群】(熊本県阿蘇市狩尾下の原)
 狩尾遺跡群は菊池川の源流の東方面の阿蘇山の北側に位置する阿蘇市の西部 にあり(.)湯の口、方無田、前田、池田・古園の4地点の遺跡の総称である()いずれも外輪山の山裾に沿って流れる黒川沿いにあり、標高も500mと高い地点である。なお、この地点は山に向かって強い風が吹く地点として知られており(.)製鉄には最適地であった。 太古に阿蘇山と外輪山の間に火口湖ができ(.)鉄バクテリアが火山灰の中の鉄分を集めて水酸化鉄を作り、それが干上がって
リモナイト(阿蘇黄土)として蓄積された(.)これらの遺跡の地点は鉄の原材料の上に位置し、しかも無尽蔵に近い埋蔵量であった(.)鉄は国の盛衰を左右するほどの貴重品であり、その生産方法は一部の人間だけが握っていたと考えられる(.)その技術が盗まれない為にも森を求めて移動した製鉄の工人達は、その痕跡を(つぶ)していったことも想定出来る。よって製鉄の遺跡は見つかり難い(.)
  湯の口遺跡からは縄文時代の土器片と石鏃(.)弥生時代の終わり頃から古填時代の始めにかけての竪穴住居跡45基が発見された(.)鉄器は鉄鏃(てつぞく)=矢じり55点など総数331点が出土、また鉄滓(てつくず)を除く鉄製品の出土した住居跡は34基で全住居跡の約8割を占める(.)また、13号住居跡は鍛冶工房の姿を如実に残しており(.)この遺跡内で鍛冶および鉄器生産がおこなれていたという(.)阿蘇町狩尾一帯に点在する巨大な遺跡群からは弥生時代、祭祀(さいし)に使われた土器を赤く彩ったベンガラの素材となる阿蘇黄土(褐鉄鋼)がとれることから(.)祭祀顔料と用品の工房も確認されている(.)また内陸部にも関わらず鉄器が大量に出土しているため(.)阿蘇黄土を原料として既に沼鉄鉱の鉱床を用いた簡易的な製鉄遺跡でともいわれる(.)弥生時代後期後半に九州各地に見られ始める薄い平造りの鉄鏃(てつぞく)(やじり)が造られた現場遺跡。簡易な板鉄をやじりの形に成型したときに出る三角形の切りくずがたくさん出る(.)阿蘇では祭祀用土器が作られた生産遺跡から出てくるケースがあり、狩尾遺跡群はそれに当たる(.)   
 
    
古代の製鉄原料?阿蘇黄土・リモナイト  
 

(株)日本リモナイトは現在も採掘している 

戦時中鉄不足の時、ベンガラが製鉄原料
として、北九州におくられた情報もあるが?
今は臭や糞の臭いを減らす効能があり
ペットの餌や黄土色のクレヨンに利用
 
   
 西弥護免遺跡(にしやごめんいせき)(菊池郡)
 熊本県菊池郡大津町にあり(.)総数214軒にのぼる弥生終末期の住居跡、198基の土壙墓群住居跡群を囲む環濠の総延長1キロ以上の大遺跡で、総数581点の鉄器が出土している。このうち298点の鉄器片は173号住居跡に集中して出土した(.)
鍛冶工房とみられるこの住居跡出土の鉄器は、形のわかる(やじり)5点・やりがんな2点のほかはすべて針状か幾何学形の細片であり、再加工のための鉄素材という性格をもっていると思われる(.)

    
方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき)】(熊本県山鹿市(やまがし
 方保田東原遺跡は菊池川右岸と方保田川(かとうだがわ)に挟まれた台地で、広さは35~40haにおよび、遺跡は弥生時代後期から古墳時代前期の防御用の幅8mの大溝や多数の溝溝をめぐらしたいわゆる「環濠集落」で、吉野ヶ里遺跡に匹敵する 規模である。出土遺物としては(.)多数の土器のほか、500点以上の
が見つかっていて、その多さは全国でも際立っている。種類は(おの)ナイフなどのほか(かま)釣針など多彩である。注目するのは製品でない(かたまり)や棒や板状の鉄片で鉄器の素材とみられる。この遺跡ではかなりの規模で鉄器づくり(鉄鍛冶(てつかじ))行われていたようだ。巴 形銅器・銅鏃・小型?製鏡などの銅製品がある(.)また山陰地方や近畿地方など西日本各地から持ち込まれた土器なども多数出土しており、西日本一帯の活発な交流が窺える事から、交易で 繁栄していた可能性も高く(.)菊池川中流域の拠点的な集落であったと考えられる。。住居跡からは足跡も見つかっている。また 鉄器を作った鍛冶場と思われる住居跡も発見されている(.)
   
全国で 唯一の石包丁形鉄器


内部朱土器と石杵
青銅器 
家形土器
 
    【諏訪原(すわのはる)遺跡】(玉名郡和水町(なごみちょう)江田)
 
 弥生後期~古墳時代初めの73軒の竪穴住居跡の一画から鍛冶工房とみられる出土品として焼土や
鉄滓(スクラグ)、鉄片を多数ともなう住居跡が調査されている。5号住居跡から鉄片118点、7号住居跡から鉄滓、39号住居跡から鉄片200余点が出土している(.)鉄片はいずれも細片で、製品の型どりをした後の鉄屑が、あるいは再加工のために工房に集められた回収品かとみられている(.)このことから、レベルの高いら鍛冶工房跡(高温度操業の鍛冶が可能であったと推定される集落跡)と推測される(.)


    
 両迫間日渡(りょうはざまひわたし)遺跡】(玉名市)  
 菊池川下流の玉名の両迫間日渡(りょうはざまひわたし)遺跡から弥生時代前期(約2300年前)の水田跡が見つかっている(.)市教委によると、県内で見つかった水田跡としては最古という。同遺跡は菊池川右岸の玉名平野中央部に位置し、水田跡は九 州新幹線新玉名駅の南約100メートルの地点。水田跡からは木製のくい約170本が2つの列をつくっているのを確認している(.)列と列の間に土などを盛って水田に泥が進入するのを防ぐ(あぜ)にしていたという。周辺からは弥生時代前期の土器 片も複数見つかった(.)

   【塚原遺跡】(玉名市)


 岱明町野口の「塚原遺跡」は弥生時代中・後期(1-3世紀ごろ)の
大規模な環濠(かんごう)集落跡である。菊池川下流域では初めての発見で、市教委は周囲の遺跡との関係から、九州西部の海上交易の中継拠 点だったと推測している。集落内の直径約11メートルの大型建物跡は弥生中期のものとしては県内最大という(.)市南西部にある塚原遺跡付近は現在、農地や宅地が広がっているが、かつては海岸線に近かった。遺跡は約9万平方メートルと考 えられる。環濠集落は、周囲に溝をめぐらせた弥生時代の特徴的な集落(むら)の形態。外的の侵入を防ぐ機能などがあったと考えられてい る。今回見つかった集落跡では、住居を含む建物跡23軒分や土器、石器などを確認(.)集落の境界とみられる幅約5メートル、深さ約 2・2メートルの溝を挟んで、かめをひつぎにした甕棺墓(かめかんぼ)4基も見つかった。  住居跡は円形や四角形で、直径約11メートルの最大の円形は住居跡としては大きすぎ、集会場などの可能性がある。塚原遺跡そばの北西側に位置する「(とし)の神(かみ)遺跡」では、奄美諸島以南にしか生息しない貝のゴホウラを使った装 身具「貝輪」が出土しており、この一帯が海上交易の中継点の集落だったと考えられる(.)
 
   
魏志倭人伝以外の文書になるが、『隋書倭国伝』という、魏志倭人伝より少し後の倭(わ)について書かれた文書にこんなことが書かれている()

有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。

(現代文訳) 阿蘇山が噴火したら人々は異を以って(良くないことが起きる前触れとして?)祈祷をすると書かれている(.)やっぱり、倭(わ)は九州の事として認識されている()

狗奴國は大陸の呉との交易をしていたのか? 
 才園(さいぞん)古墳】熊本県球磨郡免田町(めんだまち)(現あさぎり町)
 
6世紀初めの熊襲の豪族の墓とみられる才園(さいぞん)古墳から金メッキ(鍍金)をほどこした平縁の神獣鏡(リュウ金獣帯鏡)。(.)(直径 11.7cm、厚さ 3mm 青銅鏡(白銅鏡)の背面全体に分厚く鍍金()され、、外側の文字: (.) 吾 作 明 竟 幽 凍 三 商 彫 刻 無 極 □ 大 吉 羊 宜 侯 王 家 富 昌 師 百 □ 楽 衆 神 見 容 命 長 」が出土し中国の鏡の研究者である王士倫(.)によると三国志時代(3世紀)に中国の江南地方(呉の領域(.)でつくられたものという(.)鍍金鏡は中国でもたいへん貴重なもので、日本では3枚しか出土していない()国指定重要文化財になっている(熊本市立博物館が所蔵)(.)
   



  
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