庄福BICサイト H22・11・29製    H27・7・21更新 ふるさとの里山 禅院 福岡県みやま市瀬高町(せたかまち)大字広瀬(ひろせ)・禅院(ぜんいん)
 集落の唐尾(からお)山中(やまなか)の県道の中間にある紙漉(かみす)きの「矢ケ部新左衛門の碑」を目印に脇の農道を南の山側に入りと禅院集落です(.)地元みやま市でも知名度の少ない集落ですが、この付近の山からは古墳(.)土器が発掘されており、古代から人が住んだ形跡があります。のちの鎌倉時代から戦国時代の歴史も多く残っている集落です( )禅院の名称は地元では「ゼンニン」と呼ばれ、山間にある「禅院山建仁寺(けんにんじ)観寿院」との関係で起こつたものとされている。京都の建仁寺を開祖した栄西(えいさい)禅師は延暦寺などで天台宗を学んでいるが平安末期に天台宗に嫌気し( )禅宗が繁栄していた中国(南宋)の天台山万年寺で、禅の秘法を学び、建久2年(1191)に日本に臨済宗(りんざいしゅう)を開祖して筑前・筑後・肥後を中心に布教している( )

県道沿いの記念碑脇を右に入る 

 建仁寺入口 熊野神社鳥居
ここの地名を仁王堂と言う
 
建仁寺
    【建仁寺】
 寺伝では禅院の禅院山・建仁寺・観壽院は天台宗延暦寺末派は鎌倉初期の土御門天皇の時、建仁(けんにん)元年(1201)3月、草創開山は葉上(ようじょう)大僧正とするとある。葉上大僧正とは天台密教葉上流の流祖でもある栄西禅師である(.)しかしこの年は鎌倉の寿福寺の住職であり(.)建仁2年(1201)に京都の建仁寺を開山しているので、弟子により創建されたと推測される。その後、鎮雄僧正より文禄年間(1592〜1596)まで密灌(みつかん)の法行があった。代々、最高僧位の法印大和尚位(ほういんだいおしょうい)で権大僧都となって管内に色衣を許されたとある。伝承では禅僧画家の雪舟明国から帰朝後( )一時期(1470年頃)建仁寺の寺坊の一隅に滞在し、親交のあった大竹村の禅寺二尊寺(にそんじ)の和尚と友情をあたためながら、仏道精進(しょうじん)の修行のかたわら好きな絵筆に親しんだと言われている。元の建仁寺の庭や十六羅漢画像(らかんがぞう)雪舟の作と伝えられているが今は無い。往昔は小田村の唐尾の西入口にある平田部落の南島商店の所の「鳥居元(とりいもと)」は、建仁寺の大門(鳥居)跡と言われ、寺の由来と規模の大きさを物語っている(.)境内墓地に権大僧都隆澄はか数人の高僧の墓石がある。唐尾の宝満宮の南にある蔵元(くらもと)(小田の小字名)の地名は建仁寺のお蔵があった所とされ(.)その付近に戦国時代に龍造寺軍勢に焼かれる前の建仁寺建っていたと想像される(.)

    【熊野神社と日高姓について】
 建仁寺の上の山の中腹には熊野神社がある。本山は仏教的要素の多い和歌山県の熊野本宮・熊野速玉(はやたま)大社・熊野那智(なち)大社の3つの神社である。創建は不明だが禅院の熊野神社は禅院城の鬼門(きもん)や建仁寺を守る守護神(しゅごしん)として祀られたとされ、現在、禅院集落の氏神である( )禅院集落は現在19戸の小さい区であるが「日高」の家が多いところである。由来は熊野三山のある和歌山から寺を継ぐ尼僧(にそう)の着任に伴い、信者として一緒に就いてきて伝統を保持(ほじ)して住み着いたと言われ、今でも語り継がれている。和歌山県には日高姓が多く、地名では日高郡の各町がある( )
     
   参道石段と神社(奥)  祭神 神社屋根普請の写真H・10
 
  【溝口氏の領地】
 平安時代から戦国時代では国人領主(こくじんりょうしゅ)溝口氏は下妻郡溝口
(筑後市)を拠点とし矢部川南岸の禅院村や小田村も領有していた。観世音寺文書に平安末期の康治3年(1144)溝口三郎大夫三毛大夫季実らが観音寺領の生葉郡(いくはぐん)大石に入り乱暴したとある。鷹尾文書に鎌倉初期には溝口資忠(すけただ)なる人物が瀬高下庄の政所(まんどころ)として同庄内に勢力を持っていたとある。南北朝期には肥後の菊池氏を支援し、筑後の五条(ごじょう)星野(ほしの)氏らと共に懐良親王(かねよししんのう)および後村上天皇の皇子良成親王(よしなりしんのう)を守護して南朝側として参戦している。( )末期には溝口太郎(たろう)が水田庄北島(筑後市北島)の半済給人となり勢力を伸ばしていたが同所の押領行為を室町幕府によって停止されている(.)室町期には、溝口武資(たけすけ)が鷹尾社大宮司に宮の修理免田を安堵している。水田庄の郡領を大鳥居氏に返付するなど( )ある種の権力を持っていたとみられ、水田庄への介入により領域支配の拡大に努めていたとみられる。(.)戦国期にも菊池氏に従っていて、文亀元年(1501)溝口資清(すけきよ)菊池武運(きくちたけゆき)能運(よしゆき))従い一族の宇土為光(うとためみつ)と戦ったが戦死している。天文3年(1534)の乱で溝口長資(ながすけ)菊池義宗(きくちよしむね)義武)の反大友挙兵に加わり、敗北し領地の下妻55町を失っている。天文19年(1550)の乱で溝口鑑資(あきすけ)大友義鎮(よししげ)(のちの宗麟)を謀反(むほん)した筑後の西牟田三井氏らに加わり、大友側の田尻(たじり)氏の鷹尾城を攻めるが逆に自分の要害を攻められ田尻氏に長田25町・三溝6町を奪われて没落し(.)400年間支配した溝口氏の歴史が終わった(.)建仁寺の山奥には溝口(みぞぐち)氏が、禅院城(ぜんいんじょう)を構えていた。また隣村の小田古僧都(こそじ)道の東側にある小田城や溝口城(筑後市溝口)(かま)えていました(.)大城美知信先生の講演による)

       
   山頂の 禅院城跡 禅院城跡 
       【戦国大名大友氏と建仁寺の狼藉(ろうぜき)禁止の制札(せいさつ)】  
 永正元年(1504)筑後守護の豊前の大友氏は(.)配下の柳川の蒲地家が下筑後地方に約2万町(約20万石)という大勢力を持つようになり、警戒して15代目の蒲池鑑久(あきひさ)の領地(下蒲池)1万2千町(12万石)と鑑久の弟の蒲池親広(ちかひろ)を大名分として分家させ(上蒲池(.)8千町(8万石)に勢力を分散さた。上蒲池親広は山下に居館を構させ、その後、蒲池鑑広が山下城を築城した。豊前の戦国大名大友義鎮(よししげ)は、将軍足利義輝(あしかがよしてる)から、豊前、筑前守護にも正式に任命され宗麟(そうりん)と号し、永禄13年(1570)には豊後、豊前、筑後、筑前、肥後、肥前、日向、伊予半国を平定し最盛期を出現させ南蛮(なんばん)文化を導入した( )のちに洗礼を受けドン・フランシスコと名乗り、家督を継いだ息子の義統(よしむね)や家族にも洗礼を受けさせた( )天正6年(1578)宗麟義統の親子は日向の耳川の戦いで薩摩の島津に敗れ、3千人余の兵士を亡くす(.)これをきっかけに佐嘉の龍造寺軍は筑後に攻め込み、天正7年(1579)大友配下の山下城主蒲池鑑広を攻め降伏させ龍造寺隆信の配下となった(.)この際に建仁寺は龍造寺軍に焼き尽くされ旧記(.)寺宝も佐嘉に持ち去られ「禅院相寄坊」のみが残された。筑後では衰退した大友から離反する城主が増えた( )それらの城主を(おさ)える為に大友宗麟義統(よしむね)の勇将、戸次道雪(べっきどうせつ)高橋紹運(しょううん)が征伐に出兵する。天正12年(1584)9月8日、山下城を攻める前に建仁寺に陣を敷いている( )その時の紹運の筆跡で部隊の統率の為に「制札禁制(せいさつきんせい)」が次のように残されている( )右軍勢甲乙濫妨狼藉竹木採用之事堅令停止畢若於違反之族者可処厳科者也執筆如件」悪さをするな。したら重く(ばつ)するぞの意味である。この(いくさ)で筑後国の大半を奪回した豊前の戦国大名大友宗麟の家臣戸次立花道雪は建仁寺に寺領20石を寄進している(.)しかし、この(いくさ)で筑後国の大半を奪回したものの、島津家久(いえひさ)軍に本国の豊後を奪われ、ついに宗麟上洛(じょうらく)して、豊臣秀吉に援軍を求め、これが秀吉の島津征伐の原因になった。秀吉が九州を平定すると、宗麟は病気で亡くなり、嫡男の大友義統(よしむね)(洗礼名コンスタンチノ)に豊後一国が安堵(あんど)された。しかし義統文禄(ぶんろく)2年(1593)朝鮮の役鳳山城(ほうざんじょう)を離れ救援役を放棄する失態を犯し、秀吉逆鱗(げきりん)に触れ豊後国改易(かいえき)幽閉される。長男の義乗加藤清正預りとなり、一家は離散(りさん)し正室の菊子は子供を連れ豊後を離れる( )
    郷土の人物伝・大友菊子(おおともきくこ)
 豊後国を改易(かいえき)された大友義統(おおともよしむね)の妻の菊子(きくこ)(洗礼名ジュスタ)は、幼い子供3人を連れ吉弘善兵衛鑑広(菊子の父鑑理の弟)あるいは田崎保時のお供で柳川城主となっていた(おい)宗茂の元を頼ったという。菊子高橋招運の妹で立花宗茂の叔母にあたる(.)禅院村の建仁寺は戦国時代の天正7年(1579)に佐嘉の龍造寺軍勢により山下城主蒲池鑑広を攻めた際に焼き尽くされ旧記(.)寺宝も佐嘉に持ち去られ寺僧が住む「禅院相寄坊」のみとなっていた禅院村に屋敷を与えられた(.)しかし苦労がたたり翌年の文禄(ぶんろく)3年(1594)11月5日に死去した(.)建仁寺の西側の石段を登ると鎌倉時代以降の(こけ)むした墓.石仏.石造物が点々と散在しているが、その奥に大友菊子の墓がある( )墓碑には「尊乗院殿日正妙智大姉之塔也」と刻まれている( )史料では「菊子は法華経の信者だったので、宗茂は藩内唯一の法華宗(ほっけしゅう)の本浄寺(下庄八幡宮裏)に6反30石を与え、寺が湿地だったので下庄新町に新しい寺を建立し移転させ、菊子の法名を尊寿院(そんじゅいん)とし、寺号を尊寿寺と改称し、分骨した墓をたて霊を納めた」とあるが(.)法華宗はキリシタンを嫌う加藤清正が信心した宗派であり(.)キリシタン禁制の時代、宗茂の意向で法華宗の寺を選んだ推測する。息子の男也(おとや)宗茂の家臣で鷹尾城(大和町)米多比鎮久(ねたびしげひさ)に預けられ、同所の鷹尾大宮司の邸内に一棟を新設し大宮司に養育された。文禄4年(1595)疱瘡(ほうそう)を患い翌年の慶長元年(1596)、僅か7才で世を去った。上庄の来迎寺の誠誉上人が引導して来迎寺に葬った(.)大友男也の墓は無縫塔(むほうとう)台座に「豊州大友當君.月窓照芳大童子」の銘がある( )家系に無いのは世をはばかってであろう(.)また娘の阿西(おにし)(洗礼名マキゼンシア)は長崎に行き、浦上渕村に逃れていた大友の元重臣志賀親成(ちかなり)を訪ね、尾崎屋敷に迎えられた。阿西は桑を植え、蚕を飼って糸を紡ぎ(.)近隣の娘達にそれを教え、また、行儀作法も教えていた。村里では「桑姫(くわひめ)」と呼ばれたという( )寛永4年(1627)、姫が病死すると、尾崎の地(竹之久保)に塚が築かれた( )竹之久保の、元砲兵隊跡にあった「大友家 桑姫御前(くわひめごぜん) 塚」と刻まれた塚は、明治33年に淵神社に移され、桑姫神社に納められている(.)
 
建仁寺裏山の墓地


建仁寺裏山の大友菊子の墓
高110cm・巾35cm・厚6cm

下庄の尊寿寺の大友菊子の分骨の墓
高110cm・巾35cm・厚6cm
 
上庄の来迎寺の大友男也の墓
 

長崎の淵神社境内の桑姫神社
 
桑姫の墓(江戸期の絵図)
 江戸末期に建仁寺寺の古瓦の発掘品を展示した記録がある(.)文政7年(1824)5月15日に柳川藩士の西原一甫(にしはらいっぼ)の主唱で江戸上野不忍池(しのばずのいけ)(ほとり)淡々亭で珍物奇物を持ち寄り耽奇会(たんきかい)を開催した。郷土では雉子車(きじくるま)・車塚神鏡・魚化石・山中村建仁寺の古瓦(ふるかわら)などが出品されており、西原一甫は出品物を写生し解説した耽奇漫録(たんきまんろく)を出版している。岡茂政の柳川史話には「建仁寺の古瓦は海棠庵(かいどうあん)の出品で八女郡禅院の建仁寺跡から(とれ)たというものである。建仁寺は雪舟(せっしゅう)作の庭があったというので有名である。今は庭の跡も(はたけ)となって一木一石すら残っていない。これは柳川藩士武藤陳亮から贈ったもので其手筒の一半が採録されている。海棠庵とは亮明(りょうみょう)の子思亮のことで有名な江戸の書家である」と説明されている。幕末の時点で雪舟作の庭があったというので有名であり(.」)建仁寺の建物は無くなり一木一石すら残っていなく畑なっているとあり(.)秀吉の時代の文禄(ぶんろく)年間(1592〜1596)には鎮雄僧正により密灌の法(みつかんのほう)が行われていたとあるが残された禅院相寄坊でのことだろう(.)
       【建仁寺の再建】
 藩政時代には建仁寺焼討ちで残された禅院相相(壽)坊は有力寺院と認められ60石3升の知行地を立花〜田中(.)立花の藩主から賜っている。現在の建仁寺の場所は享保5年(1720)に立花家により菊子の墓がある山の下(現在地)に小規模な建仁寺が再建された(.)戦前まで吊るされた半鐘の銘に「享保五年庚子七月二十四日現住隆寛再興奉納作者山鹿郡中村の某」とある(.)(柳川新報大正8・5・6渡辺村男記事)寺の南には享保15年3月に納められた納石経「妙法漣華経(みょうほうれんげきょう)一部」があり、乳幼児の百日咳に効くという経塚池の湧き水に参拝祈願が絶えなかった時期もあった( )建仁寺は、信仰寺的な性格を持ち檀家を持たずに、武家や信者達の祈祷寺(きとうでら)として信仰されてきた歴史があり、寺の墓地には歴代の住職らの墓石が散在している。現在は天台宗延暦寺(えんりゃくじ)末派です。 天台宗の寺院台帳には本尊は千手観音で栄西の記載がある。現在は禅院部落が管理運営し、( )仏事は弁当を持寄る伝統的な「おこもり」が4月と7月に寺で行われている。9月17日と12月1日は熊野神社の神事が行われる(.)ほかの村でも行われていた「おこもり」だが、各家庭から御馳走を持合い法事の後に食べ合う習慣が禅院だけに継承されている(.)
 おこもり行事 お堂内   おこもり行事
     
 井戸跡この上に屋敷2軒があったという 納石経と経塚池(享保15年)    近隣の信者が寄進した石仏
 お釈迦さまは、古来、旧暦の2月15日に入滅されたと伝えられ、この日、建仁寺をはじめ全国の寺々では、涅槃図(ねはんず)を掛けてお釈迦さまの遺徳を追慕(ついぼ)報恩(ほうおん)の誠を捧げる涅槃会(ねはんえ)の法要が催されてきました。 画面中央に、娑羅双樹(しゃらそうじゅ)の下で、頭を北にして、西を向き右脇(みぎわき)を下にして臥すお釈迦さま、その周囲には十大弟子をはじめ諸菩薩、諸天(しょてん)、動物や虫類までが集まり、お釈迦さまの入滅(にゅうめつ)を嘆き悲しむ様子が描かれてます。 (建仁寺・釈迦涅槃図(痛みのため釈迦の顔・彩色デジタル写真加工)作者・年代不明・修復移管中(.)
          【地名のはなし( )  明治初期の測量地図
  
  新堀(小字名)
 地名語源辞典には堀は、朝鮮語「部落・村邑」の意で、新堀とは新来民族の部落の義」とある(.)ここ禅院と山中は縄文時代から人が住み遺跡が多い所だから、古代朝鮮帰化族(きかぞく)が住んで、新しい文化・技術をもたらしていたとも推測できる( )藤の森古墳の北に広がる水田の地名です( ) 
       .
  日吉谷(小字名
  広瀬の日吉谷は日光の良く当たる谷と解してよいでしょう。現在はミカン畑が広がっています。谷には中世か近世に築造された貯水池があります。池の側には巨岩を配した藤の森古墳があります(.)
      【藤の森古墳】
古墳には高10m以上もあるタブの木や藤の木が茂り( )以前はみだりに、この森に入ると神の(たた)りで死ぬと言伝えられて誰一人踏み入り人はなかった( )この古墳の中央部に、身の巾2m以上の立石と()せ石が一個ずつ他にも数個の石が組まれています(.)大石は、長さ5.4、高さ3.6、ある。これは2つの巨石を中心とする古代信仰の磐座(いわくら)とも言われてきた。大正2年の秋に禅院区の人々が森を開いて公園のようにし、大石に七五三縄を張って(あがめ)ています。
龍木免(たつきめん)(小字名)
龍は水神の意で神社の祭事の費用を賄う為の税を免除された水田です。
  
小城谷(おしろだに)(小字名)     禅院     
新堀の南側にある谷です。戦国時代の文亀年間に溝口常陸介が、この山中に禅院城を築いていたことから、この城に関係があると考えられる。おそらく「小さいキ(城・柵)」と言うのが語源と考えられる(.)
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屋敷(やしき)(小字名)      禅院 
禅院は現在19戸の小さい区で日高姓が占めている集落です。ここの土地は現在、水田が占めてるが日高一族の屋敷が屋敷と起名されたであろう(.)
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仁王堂(通称名) 
 熊野神社の鳥居と虚空蔵(こくうぞう)と集落の境界守り神である庚申神の石碑が祀られている。建仁寺の入口で昔から呼ばれてきた地名です(.)地名から推察すると、昔、ここに建仁寺の仁王堂が建っていたことから付けられた地名でしょう。 清水谷から移築された虚空蔵堂の虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)は、星に乗って舞い降りた智慧(ちえ)と福徳の仏様と伝説がある。大宇宙の如く大きな功徳(くどく)で、悩める全ての人々を救済する力を備えた菩薩であり、不思議な力により窮地(きゅうち)に陥った者を救う菩薩であることから、能満諸願(厄払いその他、諸々の願いを良く満たしてくださる)( )身体健全、家内安全、交通安全、商売繁盛、水子(みずこ)供養祈祷、等が特に信仰されてきた。荒尾市の四ツ山神社も同じ神格である(.)
オシロ(通称名)     
建仁寺を南東に登った山の中に城跡がある。戦国時代の1495年溝口常陸介が築城した禅院城があった所である。禅院の熊野神社は「オシロシタ」と地元では呼んでいる(.)
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古屋敷(小字名) 
山間には建仁寺と寺の守護神、熊野神社があり、古代から日高一族が栄えた土地で熊野神社に仕える任務を行ってきました。寺の屋敷が古屋敷と起名されたであろう(.)
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 清水谷
建仁寺や虚空蔵堂や熊野神社のある場所で清水が湧く事から名付けられたであろう。虚空蔵堂(こくうぞうどう)は熊野神社鳥居の脇に移築されている。地図ではもう一つ祀られていたお堂があるが、現在の聴き取りでは判明していない(.)
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西谷(小字名)
建仁寺の西北側にある谷です(.)
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岩渕(小字名)
禅院集落の西端の山裾で岩があった事による起名です(.)
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蔵ノ元 (小字名)小田村
建仁寺のお蔵があった所とされ、寺の由来と規模の大きさを物語っている(.)
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@古地図に見る山中の歴 本ページ  B古地図に見る唐尾の歴史 C古地図に見る小田の歴史   D古地図に見る長田の歴史
E古地図に見る坂田の歴史   F古地図に見る大草の歴史  G古地図に見る本吉の歴史 H古地図に見る山門の歴史  表題・東山村の歴史
 
引用文献・大城美知信著・「筑後・溝口について」鶴記一著「地名の話」・瀬高町誌・ 筑後市史
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                  参考文献 瀬高町誌・柳川史話下巻・   H・22・10・29製作