庄福BICサイト 【禁無断転載】 H24・10・28製作 福岡県みやま市瀬高町小川 |
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【上小川村】
旧上小川村の金栗は古代遺跡の多い所で、堀池園も東部で遺跡が確認されているが上小川では数少ないのは、藤ノ尾遺跡調査で北に返済川跡痕跡と南に旧河川痕跡が確認されており、上小川は氾濫地あるいは湿地帯だったと思われる。後に開拓され、土居の微高地沿って人が住みついたと考える。築廻(東町)は土を高く盛り上げたり、堤防を築造したりする意味があり、南東には合ノ瀬・川原手・早田・藤ノ尾の境には開・郷ノ瀬など川に因んだ小字名があります。古代での久留米への舟旅は樋口の宮〜上小川(旧・酔千両酒造横)〜有富吉井〜大江〜下小川(えん魔堂横)〜長島〜堀切(飯江川と矢部川合流点)〜渡瀬〜黒崎〜有明海に出て、筑後川をさかのぼっていたと思われる。宇佐宮神領の小河庄は治安3年(1022)の筑後国符写には14町、鎌倉初期の宇佐大鏡には12町とあり、現在の上小川、下小川、もっと拡張すれば大江一帯にあったと、みられるが詳しいことは分っていない。戦国時代においては田尻氏が上小川、下小川の14町を知行(その土地一帯を支配する権利)を得た時期がありました。(田尻家文書) 江戸時代では蜷藩主の元「小川組」大庄屋の支配下に属し、吉井〜築廻〜上小川には薩摩街道が通っていました。築廻は本吉の清水寺方面の分伎点でもある。伊能忠敬の日誌に、上小川村築廻の追分碑とあるのは現在の東町郵便局より南に入った旧道路上に石燈篭があった付近をさすものと思われる。この石灯篭は現在、清水山千体仏横に移され保存されている。西の鉄道線路脇(大竹・前田)には蜷から2里を示す「二里石」があります。明治9年、金栗村・上小川村・堀池園村が合併で小川村となり、明治22年には、大江村・太神村が加わり小川村となりました。築廻はこの頃に東町と改称されている。明治40年の合併で瀬高町の仲間入りとなりました。
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@観音・地蔵堂 上小川 早鷹 |
山下家元祖霊の墓の前の小堂には地蔵像3体と観音菩薩像(阿弥陀三尊)彫り込みの石碑2基がある。中央の地蔵菩薩像三界万霊塔(高さ1m250cm)の蓮華座の下の約20cm角の塔には「三界万霊」が刻まれている。また文字は風化しているが安??年と四月一四日が刻まれているが江戸期建立の安永(1772〜81)・安政(1854〜60)年号であろうか。三界とは「欲界(食欲、物欲、性欲の世界)・色界(物質の世界)・無色界(欲も物もない世界)」のことで、私たちが生まれ変わり、死に変わりを繰り返している迷いの世界のことで、過去、現在、未来をいうこともある。その世界に生きる「万霊」(生きとし生けるもの)すべての霊を供養するために建てられた塔です。ほかの集落(下坂田ほか)の寺の境内や墓地では「三界万霊」の文字だけを彫りこんだ供養塔や石碑も見かける。阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)来迎の彫り込みの石碑は長年の風化で見えなくなっているが片方だけ観音像の線刻を確認できる。いずれもかなり古い年代の建立であろう。また集落内ではなく寺院の門前や墓に置かれたもので、小字「光福寺」との関連が気になる。8月9日は観音さん祭り8月14日には地蔵祭りを小学生が行っている。春と秋の彼岸の時期には現在も遠方から30人位の方が参拝に訪れる。いつもお花を絶やさずお参りされている。8月14日は近くのお堂の前でお地蔵さんの為に小学生が地蔵まつりを行う。参拝者に接待豆をあげ、町内に「地蔵さんに参ってはいよ〜」と勧誘に回っている。
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A山下家元祖霊の墓と恵比須さん 上小川 早鷹 |
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寛文9年6月1日(1669)に亡くなった藤原の公家の血統とされる山下藤兵衛尉を祀る。石碑には「山下元祖霊墓」とあり、明治28年7月再建とあり、古地図でも確認できるが、旧薩摩街道沿いの橋を北に渡った小字大堀の210坪の敷地あった墓です。しかし上小川〜大江の新道路建設のために狭くされ移動再建された。また上小川の部落に山下性が多いのは、山下藤兵衛尉の屋敷があり、山下家所領の集落で古屋敷(舗)は元の集落だったと考察できる。上小川の部落だけで9月14日に「よど祭り」としてお祭りを行う。隣にはエビスの祠があるが、前を通る旧街道筋から移されたものであろう。商売繁盛を祈願した街道沿い商家の繁盛ぶりを思わせる。 |
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B天満宮・初午さん・屋須多神社 上小川 巡禮 |
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上小川〜大江線の北よりの左道路角の小字巡禮にお堂があるが神社名が記されていないので、知らない方が多い。お堂の中に天満宮・初午さん・屋須多さんの神様は3つの石の社に祀ってある。東側の天満宮の祭りは9月25日に行っている。中央の初午さんは農耕の神様。本社の京都の伏見稲荷の神が降りた旧暦の2月初めての午の日(現在は新暦の日)に初午さんの祭事を行っている。この日を蚕や牛、馬の祭日とする風習もあった。全国の稲荷社(稲荷神社)はこの日に祭礼を行う。西側の屋須多神社は火災除けの神様である。12月1日に祭事を行う。小字の巡禮はここの社にお彼岸に巡礼者が立寄る場所を表す地名とみられる。 |
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Cおいどうさん 上小川 家下 |
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金栗との境、鉄道線路に近い路地角の石仏であるが、南西傍には光福寺の小字名があり、光福寺があったと推測されている。おいどうさんの由来は不詳であるが光福寺境内に祀られていた石仏の座像とも思考される。「おいどうさん」と称するのは、瀬高なまりでは「おじどうさん」の「じ」をはっきり発音せず早口で言うので、何時の間にかに「おいどうさん」の愛称名になったのでしょう。またここの西地区と東地区の地蔵さんと区別する為でもあるだろう。親しみを持って、毎日欠かさず、献花とお参りしてきた上小川の信者さんの幸せと村の発展を見守った仏さまでしょうか。春と秋のお彼岸にはお遍路さんが上小川の地蔵さんや観音さんにお参りに立寄り、近所の婦人が接待のお世話をしている。夏休みのお盆時の14日は西の小学生から中学2年生の女学生での地蔵さん祭りがある。各戸ごと訪れお参りを促し、お参り人には接待豆を差上げる。祭の翌日には集まった賽銭を子供達で分けあいます。 |
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上小川交差点の直進拡張工事の為に上記載の4か所は平成24年10月に東の研修センター(ゲートボール場)に移転しました。天満宮さん初午さん・屋須田さんは山下廣氏および上小川農事組合の寄付金にて再建。山下元祖霊墓・恵比寿さん・お観音さん・お地蔵さん・おいどうさんは県と市からの移転費と善意の浄財にて「移転実行委員会」のお世話により移転再建されました。(写真は山下辰男氏の協力を得ました)
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天満宮・初午さん・屋須多神社 |
移転再建された多目的研修センター敷地 |
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【酔千両】

東町(昭和40年
酔千両(隣の田圃では農作業の光景が見られる) |
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現・国道443号は明治42年頃に瀬高〜南関線として国道として供用されたと推測される。大正9年には主要地方道、柳川南関線となっている。田んぼの中に酔千両の酒造所が出来たのはこの頃であろう。また昭和30年代には返済川では端午の節句の幟が染め終わり、糊を落とすために川にさらす光景が見られました。 |
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小川(大字名) 上小川(行政区名) |
大字の小川は、ほかの地域の小さい川に付けられた意味の小字名の川の地名でなく、小は有難く尊称した「オ」を意味する地名です。返済川と坂田方面からの水系が流れる所の地名です。 |
小川橋(小字名) |
上小川の県道443号を潜る川の北側の小字名です。返済川と坂田方面からの水系などが入込んだ所の橋の意である。 |
大堀(小字名) |
上小川の県道443号を潜る返済川の北側の樋口神社まである広い土地の地名です。古来ここに返済川の水が入り込む堀があったのでしょう。 |
巡禮(礼)(小字名) |
上小川の薩摩街道の南側の道筋の地名です。春と秋のお彼岸に巡礼のお遍路さんが立ち寄る所の意でしょう。上小川には観音菩薩(阿弥陀三尊)の板碑のある地蔵堂があり遠くからの巡礼者が訪れる商業地でした。 |
早鷹小字名) |
昔に早鷹神社(阿蘇神社)でもあったのでしょうか? |
家下(かげ)(小字名) |
大江方面に行く道の西側の地名です。カゲ(家下)は陰のことで、日の当たらない日陰の意の地名です。 |
鈴木(小字名) |
大江方面に行く道の東側の古屋敷の東裏の水田の地名です。鈴木は姓として全国に多いですが、ここの鈴木=ススキの転訛と考えてみました。西方に日の当たらない意の「カゲ」の地名や、南隣の「中津留」や「池」の湿地地名からススキや大木が茂る荒地と推測しました。 |
古屋敷(小字名) |
大江方面に行く道の両側の地名です。小川の豪族が住んだ広大な屋敷の意でしょう。光福寺東隣にあるので関連がありそうな感じがします。 |
光福寺(小字名) |
上小川の西側の線路の東側の水田です。光福寺があった記録は残っていないが、小字地形図から相当大きな寺院、光福寺があったのでしょう。 |
西ノ内(小字名) |
光福寺に隣接した敷地を意する地名です。南南西側に隣接しているが仏教伝来地を意識して西の名を起名したのでしょうか。 |
吉原(小字名) |
上小川の南部にある。吉とは葦のことで湿地帯に葦が茂っている所の意の地名です。葦(アシ)が「悪し」に通じるので反対語で言い換えた語である。ヨシの語は平安末以前には見えない語源とあります。 |
東町の稲荷社・天満宮・屋須多神社 東町簡易郵便局裏 |
東町簡易郵便局の南路地を入ると赤い木造の祠の中に右から初午さん(稲荷社)中央に天満宮・左に屋須多さんが祀られている。初午さんは2月初めての午(うま)の日に祭礼を行っている。学問の神様、天満宮は9月、火災除けの神様は屋須多神社は火災の多い12月に祭礼を行う。恵比須さんは旧薩摩街道の道沿いにあり、商家の商売繁盛を願ったり、この前で定期的に特売市をやっていたかもしれません。
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築廻(つくもじ)→東町(行政区名) |
築廻の「築(つく)」は土を高く盛り上げたり、堤防を築造したりすることをいいます。「廻り」とは一つの場所を示す意味ですから、開拓地に付けた地名ではないかと思います。明治24年頃、築廻(つくもじ)の地名が東町に改名され現在、行政区名となっています。 |
飛竜(小字名) |
東町にある小字名の地名である。飛竜の表意は天に昇る竜のことです。「飛竜乗雲」の言葉の一部を利用したと思われます。飛竜乗雲とは英雄が時に乗じて勢を得るたとえだそうです。学問ある武士か、僧侶が名付けたかもしれません。 |
合ノ瀬(小字名) |
矢部川の支流が網目のごとく流れ合流する所の地名です。 |
川原手(小字名) |
東町から吉井方面に行く右側の水田です。川原の砂利の荒地を開拓した地名です。 |
早田(わだ)(小字名) |
川原手の西隣の所です。地名語源辞典にワダは川の曲流部などの、やや広い円みのある平地とあります。 |
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【吉井町村】
吉井は東の松延城の大手門から満福寺に延びる、城下町的存在で江戸初期に廃城になった後にも、満福寺の門前町として商家が並ぶ街でした。集落の寺中は上小川八幡神社の周りにあり貞観2年(860)頃には寺中神社と呼んでいた頃の名残りです。
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瀬高町吉井の旧薩摩街道沿いの亀崎明治34年にの亀崎鶴松さんは明治34年に創業している。子息の亀崎友男(大正9年生)さんは昭和17年から20年の出征中を除き、ずっと「はぜ蝋製造」の仕事を続けてこられ、最盛期には常勤の人も雇用されていた。近年では京都・会津若松に蝋燭用、長岡に煎餅焼用に出荷されていた。ここでは粉砕した櫨の実を、蒸して油圧機で搾る玉搾りの伝統的に近い製法を守り続けていた。使用した櫨の品種は主に久留米市山本町御坂の「伊吉櫨」を25年間使用していた。この櫨は多品種に比べ、一定量が取れる上に、粘りがあり、割れることが少ないという優れた品質を持っていました。しかし平成14年(2002)3月に廃業され平成21年に永眠されている。今では櫨蝋製造業は日本では3軒となり、みやま市では高田町江浦の荒木製蝋のみとなった。

蝋を搾る油圧機(亀崎製蝋所)
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左が荒木製蝋様、右が亀崎友男氏 |
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恵比須さん 吉井 |
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国道443に平行して南側を走る道路が昔の肥後街道である。東町公民館から満福寺までの薩摩街道は明確に残っていないが、満福寺正面からから東に街道が走り二の丸橋で川沿いにそって南に曲って山川町方面に向っている。東町・吉井に恵比須さんを祀っているのは、明治時代までは商店が建ち並ぶ街道沿いであった事を物語っている。 |
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地蔵堂・恵比須さん(左) 吉井 |
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吉井の昔の肥後街道沿いの地蔵堂で旅人の安全を祈るお参りが盛んであったであろう。春と秋のお彼岸にはお遍路さんも訪れ地蔵まつりが行われている。左隣には恵比須さんが祀られ薩摩街道の商店の建ち並びを想像させられる。 |
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天満神社 吉井 |
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吉井集落の天満宮で祭礼は9月25日に行われている。シロアリの被害で平成16年に再建され、立派な神社になっている。これも吉井の皆さんが昔から引き継がれた信仰の文化を大切にしている賜物である。
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【地名のはなし】 |
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吉井(小字名)(行政区名) |
満福寺正面から東に入る旧薩州街道沿いの小字名である。住み良い集落の意の地名でしょう。 |
宮ノ前(小字名) |
上小川八幡神社(寺中神社)の入口の敷地の地名であり。鷹尾文書にも「正八幡宮」とあり、かなりの格式と歴史をもった神社であり、寺中神社の前を表す意の地名で広大な土地に鎮座してあったことが解る。 |
寺中(小字名) |
上小川八幡神社は貞観2年(860)頃には寺中神社と呼び樋口神社と共に各荘園の行政事務と祭祀を行っている。寺中神社が鎮座していたことによる起名です。 |
垣添(かきぞえ)(小字名) |
寺中の西の水田地帯にある。集落を限る境界の垣根らしき所に付けられた地名です。 |
池(小字名) |
寺中の西の水田地帯にある。湿地で常に水が溜まった場所に付けられた地名です。 |
汐湯川(小字名) |
大字小川の東南地域吉井の隣にに汐湯川の地名がある。過去に温泉が湧き出しているとか、温泉場と考えられ、「汐」という形容詞までつけて具体的に説明している。 |
日之出(小字名) |
吉井集落の南側の所です。日が良く当たる土地の意でしょう。 |
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上小川八幡神社 吉井 |
上小川、吉井、東町の氏神様で正八幡宮とも呼ばれた。創建年代は不詳だが大宝元年年(701)頃と推測されている。祭神は応神天皇、武内宿弥、住吉大神。明治6年村社に被定、昭和11年9月神饌弊帛料供進指定。永井新著「柳川藩史料集」によれば、「鷹尾文書」に見える「正八幡宮」は当社のことである。祭礼は11月1日(現在は10月の最後の日曜日)に行われ、社殿は権現造りである。境内には明治10年の記のある鳥居と狛犬があり、この年に神社の改修を行っている。特に社殿の彫刻はすばらしいものである。 |
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満福寺 吉井 |
慶長12年(1607)僧興専により開祖創建された。第一世興専の実父は太宰少弐経房の嫡男、鍋島平右衛門尉藤原清久の三男、平七郎政房である。初代佐賀藩主、鍋島直茂の叔父にあたるが、世の兵乱をいとい、菩提心深く、遁世の志をもっていた。父清久に願いでたが反対され肥前領内を逃れ、筑後国の山中にかくれた。のちに仏門に入り一宇を建立する。その後、興専は、門徒一同と共に現在の吉井に移ってきた。田中吉政の藩主の時代、松延城主の上田清左衛門は、これを深く歓迎し、現在の満福寺を建立させた。以後、鍋島の性を捨て上田性を名のる。現在家宝として薙刀(なぎなた)一振が保存されているが、これは先の松延城主より寄進されたものである。
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倒壊前の鐘楼門は九世住職大宣により、天明8年(1788)と文化7年(1810)にそれぞれ再建されており、松延城の大手門と向え合せに建立されたものと伝えられている。平成3年の台風で入口の楼門と本堂の銅板屋根が吹き飛び被害を受けた。平成4年大改修工事のより瓦屋根に吹き替え風の被害を考慮し高さも低くされた。堂内も改修され現在の立派なお堂に変化している。仏殿の敷居も黄金色で輝き、彫刻も修復され輝きを戻し、お堂内の広さは目を見張るものがある。楼門は2階建で鐘撞き堂があり立派な建物であったが再建に2億の巨額が掛かるため、平成7年に平屋の門で再建された。真宗大谷派である。(写真は旧鐘楼門) |
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【堀池園村】
堀池園はなんといっても、馬上金山・鉱主の成清博愛の屋敷のあった集落です。くわしくは堀池園の金山王・成清博愛を御覧ください。
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印鑰(いんやく)天満神社 堀池園 |
印鑰神社の由来は和銅5年(712)道君首名は新羅(朝鮮)大使に任命され、帰国後の和銅6年(713)筑後守となって肥後守兼任し農業生産をあげるために尽力した。首名の加賀国(現在の石川県)の祖先が取り組んだ農業政策をまねて、新しい技術を伝え名国司として仰がれた。その功績をたたえる為に道君首名を祀ったともいわれている。堀池園には、現在でも印鑰と言う小字の地名が残っていて、古い時代からのお宮と推測する。印鑰さんと呼んでいるが珍しい名の神さまで、印鑑と錠前を持った財政の神様として、崇敬されている。堀池園の場合、祭神は伊佐奈岐命であるが、その外に、宇多大畝名命、宇多阿延姫命、大国主命あるいは大臣武内宿弥などが祀られている。以前は堀池園集落の入口にある印鑰橋の近く(堀池園1,333)にあったが昭和35年6月に天満神社に合祀され印鑰天満神社とした。
現在の社殿は大正時代に大分県の馬上金山で金脈をあて、大富豪になった成清博愛氏の寄進によるものです。建物は獅子や象や波の中の亀の見事な彫刻で飾られている。その見事な出来映えを見学に来る宮大工も多い。内部天井には痛みがひどいが源平合戦の板絵が張られている。堀池園の印鑰(いんやく)神社は堀池園1333番地に、鎮座していたが天満神社と昭和37年に合併したが国司所在の神社として、由来があるので、天満神社と合祀する上は、社名保存のため、「印鑰天満神社」に改称した。例祭は9月23日の秋分の日に行われ境内で子供相撲が奉納される。参道左には牛神が鎮座している。
印やく神社の「やく」は、「鑰」という難しい字を書きますが、これは「かぎ」を表しています。印やく神社は、その昔この地方を治める国府の印とかぎを祭ったところで、この印やくは国府の倉庫のかぎを意味しており、国の役人がそのつとめを果たすのにもっとも重要なものだったのです。印にゃくと発音する神社もある。この神社は熊本・宮崎・石川にあるが全国的に少ない。福岡県では、山門郡に多く、瀬高町に5社、高田町に1社があるようである。
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浄金寺(池泉山) 真宗本願寺派 堀池園 廃寺 |
寛文元年(1661)僧実円により開祖創建された。当初は禅宗であったが、天台宗の鍵係を務めたといわれている。「こうかの木」の枝で刻んだ観音像一体が安置してあった。寛政元年(1789)頃から、旧7月9日に「やわらごっちん」といって各家庭からあぜ豆、小豆、黒豆などをぬきたて、村の老若男女みんなで観音様に参詣し、「やわらごっちん」をいただいて供養をしてきている。また寛政元年4月には堀池園の母親孝行息子の新兵衛が藩から米2俵が贈ら表彰されている。昭和52年頃までは札所があった。集落の中程の水路傍にあったが北側に自宅を新築移転し天満宮の南になった。平成5年頃に後継者がなく廃寺とされた。 |
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堀池園 (行政区名)堀池園 |

堀池園集落 |
堀池園は朝廷が園池司を置いた所と言う。鶴記一郎氏の「地名のはなし」によると、園の地名は堀池園は集落名、小川金栗の上園は小字名です。当地方では園をソノと呼ばずゾンと通称します。「園」地名は大広園、小川、太神地方に偏在しているのは、広田氏の領地だった、広田県との関係でしょう。「園」とは大化改新前代からの土地制度で、私有土地とされる宅地園地から発したものです。大宝律令(702)によって、水田は明確に私有を許されなかったが、園宅地は売冗、質入ができたにですが桑、漆などを植える義務がありました。広田氏は自力によって、課税義務のない広大な園地を開拓して経済地盤を築いたものと思います。地園(宮園)堀池園(小川)・上園(金栗)・宮園前(下小川)があります。 |
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印鑰 (小字名) 堀池園 |

印鑰天満神社 |
印鑰の地名が堀池園にあります。ここは樋口神社の東南部の水田地帯ですが、返済川の河岸段丘で広い平坦地で役所の立地に格好の所です。大宝1年(701)頃に朝廷が堀池園に園池司を置いたとある。貞観2年(860)頃には上小川の寺中神社(吉井の上小川八幡神社)ともに各荘園の行政事務と祭祀を行っている。朝廷の徴税機関の役所や荘園の行政をやっていた所です。ここにある印鑰神社が役所の所在を証明しています。 |
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土穴 (小字名) 堀池園 |
奇妙な地名で、その起因は検討がつきません。返済川と坂田方面からの水系が合流する所で重要です。おそらく両水系をつなぐ地下式の樋管でもあったかと想像しています。 |
家下畑(小字名) 堀池園 |
樋口神社の東側の畑です。カゲ(家下)は陰のことで、日の当たらない日陰の畑の意の地名です。 |
樋口 (小字名) |
樋管や水門との関係地名です。樋口神社の付近には返済川と坂田方面からの水系が合流する所で重要です。おそらく両水系をつなぐ地下式の樋管でもあったかと想像しています。 |
川原(小字名) 堀池園 |
矢部川の支流が網目のごとく流れ、雨期になれば氾濫し平野の中に支流が勝手気ままに流れていた時代の川にまつわる地名です。大江集落の川原の小字名も同じです。 |
柳内 (小字名) |
川の中に足場を組み、木や竹ですのこ状の台を作り、上流から泳いできた魚がかかるのを待つ漁法「梁漁」と関係した地名と想像しています。 |
馬喰 (小字名) 堀池園 |
堀池園の東部村はずれの返済川に沿った地域で、矢部川の氾濫原で荒腐していた所です。馬喰が活躍した馬の市場などあったと考えられません。役場の台帳では馬喰でなく馬九郎となっています。馬九郎なる者が、近世にこの地を開拓し、その開拓者にちなんでその地名を「馬九郎」と呼んだのでしょう。 |
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参考文献
地名の古代史(九州編) 瀬高町の地名の話(鶴記一郎)転写承諾済 大江小学校の歩みと郷土 瀬高町誌 |
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