庄福BICサイト   21・8・1 制作   21・11・24 更新 


     成清博愛の経歴】
   
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成清博愛(なるきよひろえ)は明治維新の4年前、元治(げんじ)元年(1864)10月14日に筑後国の名勝、清水山の観音本堂を望む山門郡堀池園村(やまとぐんほりいけぞんむら)明治9年に小川村に合併)、現在の福岡県みやま市瀬高町(せたかまち)小川(おがわ)1404の堀池園(ほりいけぞん)で生れた( )
       
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 堀池園にある石碑文によると成清家の先祖は豊後の大友宗麟(おおともそうりん)の家臣で戦国時代の天正6年(1578)11月に薩摩の島津義久(しまずよしひさ)と耳川の合戦で敗れて筑後の本郷村(ほんごうむら)
(現・瀬高町本郷)に逃げ延びたとある(.)祖父の平七は藩の普請役頭(ふしんやくかしら)として山下村の白木川から分水し山の中を掘通し水穴を通して山中や禅院(ぜんにん)村の用水路として灌漑用水の事業に(たずさ)わった(.)父の梅蔵は本郷村の浅山家の次男で成清家に養子に入り、継続して藩主より土木普請役を賜る(.)明治維新前後には種々の公務に携わり(.)明治18年には村会議員から小川村の村長に選ばれた資産家でした
(.)


 長男である
博愛は「幼少より冒険を好み、進取(しんしゅ)の気性に富み、大志を抱いた。知恵と勇気にすぐれ( )父母には、孝行を尽くし、兄弟の思いやりも深かった」とある(.)少年期は近くの金栗村(現・瀬高町小川の金栗地区)の庄屋であった、漢学者の西田幹治郎の私塾「麗川義塾(れいざんぎじょく)(明倫堂)」に入り学んだ(.)この頃に経史詩文を学んだ素養で、後に「的山」の雅号(がごう)をもち漢詩をよく作っている(.)


成清博愛
 明治14年(1881)に父の許諾を得て福岡の藤雲館(現・修猷館高校)に学び、学生寮の級友と東公園の松原で豪傑に遊んだという。卒業後、慶応義塾(現・慶應義塾大学)に進学し福沢諭吉の教化を受ける(.)しかし病気のため勉学を断念して帰郷し、治療のかたわら山に猟し、川に漁し、乗馬により心身を鍛錬する(.)

 明治
18年(1885)、24歳で、三池郡江浦村
(現・みやま市高田町)の江口家の娘、以恵子(いえこ)と結婚する。江口家はのちに柳川村(現・柳川市)に住居を移している(.)

        
【自由民権運動】
 明治19年1月2日、長男の
信愛(のぶえ)が誕生する。(のちに博愛の馬上金山鉱業を継承する)
父親の死により、資産を継承して成清家の当主となると、自由民権運動に没頭し(.)政治の世界へ足を踏み入れる。
大隈茂信を中心に結成した立憲改進党の九州での結成に各地を奔走(ほんそう)した。

明治21年(1888)次男のが誕生する。しかし生まれつき病弱であった。

 明治23年(1890)
、帝国議会が開設され、第1回総選挙が行われ、立憲改進党の山門郡・三池郡の支持者集めに活躍する。当時は小選挙区制で選挙権は直接国税15円以上を納めている( )25歳以上の金持ちの男性に制限されていた(.)

 明治25年(1892)には三男の勝介が誕生し、花火が打ち上げられ祝ったと言う。
博愛は村会議員から小川村の村長に選ばれました(.)また同年輩の柳川町の富安保太郎・下庄の阿部酒造の阿部一太郎・下庄の宮本房吉の諸氏と山門郡東部の中堅党員と瀬高の大竹二尊寺に改進党の本陣を構えた(.)富安保太郎は福岡県会議員をへて明治41年、衆議院議員(当選4回、政友会)(.)のちに貴族院議員や九州電気軌道、日本電報通信社などの取締役をつとめている人物である(.)
第2回総選挙では柳川町の岡田孤鹿(ころく)
候補の支援活動して、政府よりの吏党(りとう)権藤貫一と戦った。この時、民権派弾圧の筑前の玄洋社の杉山茂丸が100余名を率いて襲撃に来た為に、流血の惨事となっている(.)しかし岡田孤鹿は大差をつけ見事当選している(.)

 明治26年(1893)3月8日、次男のが5歳で亡くなる。堀池園の成清家の墓標には父の名は博江となっている。
博愛は「男一人の人生をかけるには(.)小川村の村長の椅子は小さすぎる」と経済界や政界で活躍したく、わずか1年で村長を辞任する(.)



成清御殿のあった印鑰橋の向こう
6軒ほどの家屋が建っている。

山門郡堀池園村(地図リンク)

 明治28年(1895)30歳で瀬高町上庄本町に創立された「瀬高銀行」の取締役に就任する(頭取は富安保太郎)。福岡県は日清戦争後( )景気は沸騰し、石炭の市価は急上昇し(.)黒ダイヤ(石炭)景気に湧きかえっており(.)大手財閥をはじめ、麻生太吉(麻生太郎元総理の曽祖父)( )貝島太助筑豊の炭鉱王安川敬一郎(安川電機( )明治学園創始者)など中小の地元(.)各坑主たちの活動も盛んでした。生まれつき、覇気(はき)満々の博愛は機を逃さず、すべての資産を投げ出し、一攫千金(いっかくせんきん)を狙い筑豊の炭界に進出する(.)
         ,
    【炭鉱事業】
 明治29年(1896)、所有不動産の殆んど全部を抵当にし、資金を調達して筑豊の嘉穂郡(かほぐん)で富士炭鉱の経営に乗り出した。次に田川郡神崎村(現・田川郡福智町(ふくちまち)金田)の「神崎(こうざき炭鉱」(明治6年創業)を買収、経営している。しかし無経験と炭価の下落のため失敗、ついで請け負った神田炭鉱も失敗した。その後も粕屋(かすや)遠賀(おんが)鞍手(くらて)など福岡県の諸炭鉱に着手する事6回、炭鉱経営巡りをしたが、この頃になると経済界は不振を極め、不幸にして事業は失敗に終わった(.)

 明治35年(1902)失敗の痛手を負い、小川村の堀池園に帰郷しふたたび小川村の村長になり、郡会議員も兼任しました。その後、同じ山で苦労するなら、石炭よりも金だと考え、金鉱山に着目し(.)近郊の八女郡矢部村や星野村の鉱脈地帯を調査させたが発見できなかった(.)


        【炭鉱に敗れ金山に挑む】
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 明治37年(1904)3月
、二度目の小川村村長を2年で辞任して大分県に入り、大分郡野津原村
(野津原町)・南庄内村(庄内町)・日田郡中津江(なかつえ)村・上津江村などで借区権を買い従業員の木戸(.)地質探査技師と金鉱を探したが、23回に及ぶ試掘はいずれも失敗している( )
 のちに馬上金山志の序文(じょぶん)には自ら
回想一番すれば半生の歴史は波瀾重畳幾度か奈落の底に沈淪(ちんりん)して『宿昔青雲、志蹉跎白髪年』の思いを為したりき。炭鉱に倒れたること六回、金山に(つまず)きしこと四回、しかも財産差押の厄に逢いしこと正に二十六回に達し( )家賃分散(明治時代の破産申し立て)の申請受けたること亦実(にょじつ)に二回を算す」と記している。借金取りの鬼に追われる毎日で(.)夢にも見るほどの、(つら)い思いの毎日であったという。近所では山師病と呼ばれ(.)親戚の者からは事業狂と(ののし)られ親戚縁を絶って交際を禁じる者すらいた(.)

 奈落の底の体験をした頃の博愛が書き綴った文面には(.)先祖代々の邸宅すら維持すること能わず
(できない)、むしろ故山(故郷)を去りて朝鮮出漁者の群に投ぜんかとも思い(.)また時には名刹をすてて 自ら仏門に入らんかと思いしこと 一再ならざしも、(かえり)みれば 家に妻子あり、愛妹あり、また先祖の霊牌あり、如何でか之を放抛(ほうほう)すべきか如かず、身を以て天の試練に当たり、初一念の貫徹に努めんにはと、再び奮然蹶起(ふんぜんけっき)するに至りぬ。多くの従業員の不平不満の声も聞かず、あたかも一家族のごとし』と再び奮起(ふんき)する。

木戸地質技師と成清博愛(木戸様写真提供)
明治の気骨精神を持つ博愛は、失敗の連続でも、初志貫徹の強い意思で屈することはなかった。そして破産状態の地獄の一丁目から這い上がるきっかけができた(.)

          【馬上金山の発足】

最盛期となった大正5年頃
 明治38年(1905)、彼は、たまたま大分県速見郡立石町(現在杵築市山香町(きつきしやまがまち)の馬上金山で甲斐某鉱滓(こうさい)を青化精錬(金鉱の粉を青化(せいか)カリの液にまぜ、その中に溶けた金を亜鉛の表面に沈澱させ、その亜鉛を焼きとばして金だけをとる方法)で好結果をあげているのを知る(.)
馬上金山とは戦国時代あるいは江戸時代初期の寛永6年(1629)に発見され(.)元禄時代から享保年間に日出藩や豪商らにより採掘され江戸末期には廃坑した金山で、その後幾度か試掘されたが失敗(.)明治29年に鉱区権者・胡麻鶴マツから筑豊で炭鉱開発していた帆足義方(ほあしよしかた)が鉱区権を買い、蒸気機関を入れて排水と深鉱にに着手したが(.)たまたま同年7月の大洪水で坑道が埋没し、揚水困難なために経営に行き詰まり、難鉱山として放置されていたという(.)

博愛は馬上金山に入り、甲斐と共同して青化試験を実施(.)さらに馬上金山を木戸と探査調査して有望なことを確かめ鉱区を買い占めることにした。まずは立石町、東山香・中山香の小規模な場所を買い試掘調査を行(.)金鉱脈が特に有望とみられる帆足義方所有の馬上金山の鉱区の面積、14万7600坪(約50ヘクタール)の原鉱区を買収しようと決意した(.)鉱区権の持主である帆足義方と再三再四、買収交渉を続けた。しかし失敗を重ねた後のことで、資金の調達も思うようにはならなかった(.)

 明治39年(1906)9月10日、馬上金山周辺の立石町、東山香・中山香の採掘願許可を得て
(福岡鉱山監督局資料)、小規模に採掘しながら帆足義方と馬上金山の買収交渉を続け資金確保に疾走(しっそう)した。この年、博愛は福岡県会議員の補欠選挙に立候補し当選した。

 明治40年(1907)1月1日、郷里の小川村は合併して瀬高町となる。博愛は再び福岡県会議員に立候補し再選された。
巨額の馬上金山の買収資金と起業費の捻出先(ねんしゅつさき)は明かでないが、自由民権運動で同志として活動していた富豪の酒蔵家や地主や政治家などであろう。同志の宮本房吉のように八女郡の金鉱の試掘を行った者もいたので(.)馬上金山の確実な鉱脈を確認した上での資金提供であろう。
11月苦心惨憺(くしんさんたん)してやっと帆足義方馬上金山の鉱区権譲渡の契約を終結できた。従来第一鉱区と呼ばれていたところで、面積14万7600坪の馬上金山の原鉱区である。その価格は17万円。内7万円を年賦償還(ねんぷしょうかん)とし、ようやく馬上金山の所有者となった。17万円は、当時米1俵が5~6円だから、現在の金に換算(かんざん)すると約5億円になる。「馬上金山志」には『買収交渉に任じられた馬上金山選鉱部長たる冨部今朝太郎の功労少なからざりし・・』とある(.)

       【毎朝2時の起床が厳則】
 明治41年(1908)博愛事業多忙のために福岡県会議員を辞職し(.)金山のある山香町下
(やまがまち しも)都甲貞雄宅の座敷に下宿した。社員である都甲貞雄は大正4年に「馬上金山志」翌5年には「成清博愛君葬儀録」を著している(.)当時福岡の知人に宛てた手紙には「・・当地入山以来は毎晩10時過ぎには就寝、朝は2時に起床(.)冷水浴をしてから、4時半まで日誌や手紙を書いたり業務書類の決裁の時間とし、新聞を読み朝食後はわらじ、きゃはんを着けて5時半に鉱事所へ参り(.)6時に汽笛を吹かし民家に寄食している事務員、鉱夫などに注意を与え6時半に抗所に集まらせ7時に着業致させ、皆人すべて勉強致して居(.)事業もここに多少捗致申候・・」とある。
先人達の失敗を我が戒しめとして、採鉱をあせらず(.)山の地形や地質、鉱脈を精密に踏査研究し、特に坑内の湧水と亜硫酸ガス対策に独特の排水設備を考案し(.)直方町の炭鉱で坑内湧水排水に活躍していた最新の蒸気汽缶動力による排水設備の導入を計画する(.)

 明治42年(1909)帆足義方と契約した馬上金山第一鉱区の残りの支払いが完了した(.)4月5日に馬上鉱山の採掘願許可を得る。9月14日に福岡県直方町(のうがたまち)で排水ポンプなど動力源になるボイラ(蒸気汽缶(.)を購入し、宇佐まで鉄道便で送った(.)それから先はまだ日豊本線は開通していなかったので(.)宇佐停車場から雨の中、コロに乗せて引いて馬上金山に運んだ(.)馬上金山の現地に着いたのは4日後であったという。徹夜(てつや)にして設備用工場を建て蒸気汽缶やポンプ・諸機械設置し(.)10月29日には試運転を行う(.)

馬上金山 建築風景
病人が出るほどの激務であったために、1週間を休養し、11月8日より旧坑道を利用し揚水ポンプ4台で浚渫(しゅんせつ)を行い、横抗36度にて43m坑道を開き創業の為の基盤整備をおこなった(.)この頃に知人に報告した書簡には「・・・無数の旧坑内を揚水に着手し、久しく世間の疑問となりたる馬上山下の宝庫より、果たして(じゃ)が出るか、馬が出るかは未来の事なるも、魂気強く丹田に力を入れて起業致居り・・・」と大勝負に立ち向かう決意が感じ取れる(.)しかし開鉱までには多額の起業費を要し、当初は郷民との関係もうまくいかず、(あざ)笑ったり、あるいは事業に妨害する者さえいたという(.)

滊罐室

馬上金山の排水ポンプ(木戸様写真提供)
 
         【馬上金山開鉱式】
明治43年(1910)10月、に博愛は馬上金山にある馬上八幡社に絵馬を奉納して成功を祈願している(.)額の左下には「福岡縣山門郡瀬髙甼 成清博愛」とある。11月10日馬上八幡社で開鉱式をあげ採鉱に着手し(.)同時に日立鉱山と売鉱製錬の契約を結んだ。この時の所感を次のように詠んでいる。「十年嘗胆気愈振 幾費工夫志始伸 馬上留鞭明堀下 臥牛驚立吼瓊春(けいしゅん」そして12月には幾分の採鉱ができるようになった。 12月15日には日豊本線が宇佐(うさ)から立石まで開通して金鉱経営に利便を与えてくれる。悪戦苦闘の続きであったが、成清博愛の頭上で、遂に「山の神」が微笑んだ(.)


馬上八幡社(後藤様写真提供)

博愛・奉納の絵馬


明治44年(1911)2月4日の瀬高町上庄の酒造家・川島準平あての書状 



第一抗抗口

製作所
 坑内
          【富鉱脈の発見】
 明治44年(1911)1月24日、直方の沼田鉄工場にて舶来製のボイラー及び巻揚機(まきあげき)を買い設置した。第1ボイラー20馬力・第2ボイラー26馬力の動力設備となる。馬上の山元での製錬用に高純度鉱石を粉末にする搗鉱機(とうこうき)100台が増設された。こうして社宅や納屋(出稼ぎ工夫の宿舎)も増設され第1期の工事は費用約6万円を費やして完了した(.)
4月
、大雨と突風の吹く中、(さくらひ)坑道の一部が崩れて陥没ししまった。事故現場に駆け付けると、そこには偶然富鉱脈が出現し、自然金の大きな塊が燦然(さんぜん)と輝いていた。自然金の発見は、馬上金山の将来を約束したようなもので、ゴールドラッシュはここから始まった。博愛47歳、馬上金山に着目して7年目のことでした。(さくらひ)の採掘現場では10分の1~2の高品位自然金をしばしば産出した。採取された鉱石は選鉱場のクラッシャーで(くだ)き分別して、かますに詰め、馬の背に乗せ、また馬車の荷台に乗せて約15km先の日出港(ひじこう)まで運び船で茨城の日立鉱山の製錬所まで運んでいた。また高純度の鉱石はクラッシャーにかけて砕いたものを搗鉱機(とうこうき)
100台にて粉末にして馬上金山の製錬所で製錬された。鉱石を打ち砕き、金鉱と水銀をまぜて、後で金だけを集める混汞法(こんこうほう)により、1日約100匁(375g)から150匁の金が取れた。当時の金1匁の相場は5円だった。現在の価値で200万円位である(.)  (木戸様写真提供)
 さらに6月には隣の鉱区を所有する大分市の森豊作より買収した(.)これが第2鉱区59万8千坪および第3鉱区1万8900坪で、のちに採掘開始されて中核鉱区となる(.)   

第一坑坑口の内部は中央に巻揚用のレールを敷き両側には階段式の人道が作られた。さらに坑口から35mの地点に第3番水平坑道(.)以下垂直15m降りるごとに第4番、第5番・・・と東西に水平坑道が掘られることになる(.)有毒ガスの換気は第二抗(立抗)から送風機により排出。また坑道の途中3ヶ所に貯水槽を設け、径15cmのパイプで3基の150馬力の揚水(ようすい)ポンプで毎分1㎥の湧水を排水した(.)
第二抗立抗(巻揚げ櫓)

クラッシャー選鉱場

馬の背に鉱石袋を乗せて運ぶ

馬車による運搬の出発

鉱石を馬車で立石駅に運ぶ

         【亀川の別荘・「的山荘」】
 この頃に馬上金山の富で別府の亀川
(現・日豊本線亀川駅付近)に門構えのある別荘「的山荘」を建てて大分での住いとした(.)庭は花が咲き乱れ、池には鯉が泳いでいた。また陶芸用焼き釜があり休暇には社員と趣味の陶芸を楽しんでいたという(.)敷地内の建物には重臣の社員家族たちと共に一緒の敷地に住んでいたという(.)この付近は別府の温泉地帯で天然温泉の露天風呂もあったという。写真の川に沿って通るのは温泉のパイプであろう。この時期に東京の浅草から養女に(こと)を迎え、社員に嫁がさせる為に嫁入り前の行儀作法の修行をさせたとみられる。亀川の別荘は日出町の「的山荘」の完成まで使用されていたであろう(.)

亀川の別荘

堀池園の今村氏(中央)造園の池

別荘庭園 (木戸様写真提供)
左から採鉱部長の和田皁造・選鉱部長の富部今朝太郎・地質技師の木戸隆(.)馬上金山鉱主の成清博愛・ 右端は養女の成清(こと)
        【ゴールドラッシュ期】
 明治45年(1912)
6月、桜鉱脈で富鉱部に到達(.)約200貫(750kg)の富鉱を採鉱した。この鉱石はトジ金に近く、鑑定に当った福岡鉱山監督署も驚いたという。この馬上金山から良質の金鉱の品位(鉱石中に含まれる金銀の割合(.)は、鉱石1トン中に20~30gの位であったが、地下70mの地点からは1~2割の高品位のトジ金自然金の結晶)級の富鉱が採掘された(.)馬上の鉱石は、たちまちにして品質の良いことで有名になった。採鉱が軌道にのり始めると(.)多くの鉱石を運ぶため馬車で立石駅まで運んで鉄道で茨城の日立鉱山に売鉱していた。汽車賃に比べ、コスト低減になるとし(.)前年3月22日に日出駅まで開通していた鉄道(日豊本線)利用を計画。立石停車場までトロッコ軌道を敷き、日出駅から日出港(ひじこう)に運ぶために莫大(ばくだい)な私財を投じて港の整備を行った。まず鉱石積降場・倉庫・桟橋を建設し、波止場を改築修理した。海での輸送手段として12トンの蒸気船「馬上丸」を購入した(.)
 この年、7月29日には明治天皇が崩御(ほうぎょ) され「大正」に改元された。8月には事業が忙しくて、長男の博信に早稲田大学を退学させ、馬上金山の経営を手助けさせ、事務をまかせる(.)
馬上金山の噂を聞き隣接の地面は次々と(ひそ)かに試掘出願者が出る。大分市の藤田辰三は密かに北側の隣接地の試掘権を得て事業を開始したが経営困難にとなり、博愛に全鉱区の譲渡けを願いでる(.)博愛は鉱山事業の困難さを説き、快く買収する。これが第4鉱区となる64万166坪である(.)

     
 大正2年(1913)1月
第2抗開さく起工式を行い、ランカッシャーボイラー
(蒸気機関によるポンプ駆動)4基が設置され当時としては進んだ機械が取り入れられた(.)産出額は月に30~40万円を算し、現在の金に換算すると約10億円になる(.)鉱区も次々に拡げて10鉱区を超え、その面積は1,250㌶に及んだ。立石駅から中山香駅(なかやまがえき)のほぼ中間に高い煙突をとりまく工場群が立ち並び、従業員も300名を超える盛況であった(.)馬上金山で採れた金鉱石はトロッコ3~4個連結して軌道を馬に引かせて立石停車場(駅)まで運び、貨車に積替え鉄道で、日出(ひじ)駅まで運ばれた。日出駅から当時としては珍しい浜線(引き込み線)で港側の日出駅に運ばれ(.)貯鉱場に置かれ、馬上丸の台船に積替え、茨城の日立鉱山の製錬所まで運んでいた(.)当時の田園の広がる漁村の日出港は、鉱石の積み出しにより、工場・倉庫が建設され(.)日出と別府とは船で連絡され、乗降客や物資の集散で急に賑わい発展しました。博愛は念願をかなえてくれた馬上八幡社の神楽殿(かぐらどの)を建替え、石灯籠も寄進し、お礼の参拝を行った(.)また大湯鉄道株式会社(現・JR九大線)の創立に参画、出資しました(.)
成清博愛
 
馬から切離したトロッコ台車から貨車への積込(立石駅)

日出港の馬上丸で製錬所へ

日豊本線日出駅から引込線の港側の日出駅


貯鉱場

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 別荘予定地として亀川の別荘に近い、海岸線にある大分県速見郡日出町平道現在のロイヤルホテルの敷地)、あるいは鉱石の積出し港に近い、日出城(暘谷城(ようこくじょう))の三の丸の海に面した約3670坪の敷地を検討して日出城の三の丸の地を選んだ( )三の丸の海岸部は東側は旧藩の蔵屋敷跡で古い蔵が若干残っていたという(.)南側は海に面する荒廃地でやぶになっており、まったくかえりみれない土地で破格の価格で購入したとの逸話が残っている(.)

        【日本一の産出額を記録】      
 大正3年(1914)、鉱区拡張は盛んにな(.)隣接する鉱脈の分布区域の中山香(なかやまが)村の試掘権を得て2月には権利を獲得する(.)これが第5鉱区の46万4千坪で11月には第6鉱区とな(.)30万3280坪の権利を獲得している(.)

屈指の含有量の金鉱石で全盛期が続き開抗3周年を祝った秋には、高品位自然金をしばしば産出し(.)日本一の産金額を記録した。約300名の採鉱夫は、100名ずつ8時間交代で(.)毎日坑内に降りていた。その頃の採鉱部長・内村金太郎の話によれば(.)1人の鉱夫が8時間で25万円分の金鉱を掘り出したこともあったという(.)今の金に換算すると2億3千万円位になる(.)
  
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博愛
は金山翁ならぬ「金山王」と呼ばれるようになり巨万の富が舞い込むようになりました(.)その富を豊後高田~宇佐~宇佐八幡間の「宇佐参宮鉄道」設立にも出資をし重役に就任している(.)

 瀬高の堀池園には1300坪の敷地に財を惜しむ事なく投じた豪邸を新築した。高い塀に囲まれ(わき)の川から水を取り込み池を配した庭園を造成した。内装は金の装飾(.)使用され近隣では「成清御殿」と呼ばれた。
1月に購入した(.)日本ではまだしいハドソン(アメリカ製)の高級車に乗って故郷の瀬高町に帰郷した(.)初めて見る自働車(自動車)に町民は驚き話題となる。堀池園の天満宮を建替え寄進し(.)本吉の清水寺に多額の寄進をした。現在も石段の山門下(.)寄進金の記念碑が元藩主立花家と並んで立っている。瀬高の学校に(.)多額の教材を寄付されている(.)

3月には別荘「的山荘」の建築に着工した(.)

 後列右、成清博愛 (写真右端が博愛)


          【別荘・的山荘】
 大正4年(1915)1月別府湾を見渡せる景色の良い、日出城(暘谷城(ようこくじょう)の三の丸の日出藩屋敷跡の超一等地に豪邸が完成した。本宅のある瀬高町からも職人を呼び寄せており(.)敷地周りの高さ約2,6mの塀には瀬高町特産の煉瓦が使用されている。三の丸通路沿いは成清金山の事務所・集会所・幹部社宅などを建てました(.)総工費25万円(現在の7~8億円位に相当)を要した。この年の馬上金山は月に42万5千円余りの産金高があった。今の金に換算すると12億円位に当るので全盛の様相が伺える(大分県興亡75年より(.)

落成した的山荘(大正4年)



庭園からの眺め
(写真提供・的山荘成清様)


山門


玄関
 敷地面積約3670坪、建坪約247坪。金鉱で当てた財を惜しむ事なく投じ玄関の式台や床、棚、書院などの座敷飾りのほか(.)各室を仕切る欄間彫刻、屋内の調度品に至るまで天下逸品の品々を取り揃えた。応接間の扁額(へんがく)は明治33年の立憲政友会の創始者、伊藤博文(明治42年ハルビンにて暗殺)の書である(.)博愛は政友会大分県支部の党員で活躍している(.)庭に出る靴脱石は京都から取り寄せた、希少価値が高い大きな鞍馬石が使われている(.)庭園には県内外から集められた楓(かえで)、山桃、楠、松などの古木、名木を植え込み、高崎山を築山に(.)別府湾を泉水に見立 てた借景の庭園として完成させた。博愛の雅号(がごう)から「的山荘」と名づけられました(.)「的山」とは、鉱山を当てるという意味だそうで、この号で漢詩をよく作っている(.)


        【夢の代議士に当選】
 大分県政友会党員であった
博愛は第12回衆議院議員選挙の候補者として要請された。この時(.)大分県では初めて登場した2台の自働車(自動車)を使い、演説で県下各地を疾走すると、沿道の人達が、エンジンの音を聞きつけて見物に飛び出したという(.)3月25日投票日、ついに念願の衆議院議員となり、政治、経済界で活躍されました(.)また、日立精錬所の久原房之助(久原財閥の総帥)に対して佐賀関
(大分市)に鉱山の精錬所を建設するよう働きかけた(.)

       
大分県区【定数 : 6 / 立候補者 : 8 】
得票数 名前 党派・会派
4144 当選 木下謙次郎 立憲同志会
4121 当選 箕浦勝人 立憲同志会
4027 当選 森環 立憲同志会
3913 当選 津末良介 立憲同志会
3728 当選 元田肇 立憲政友会
3687 当選 成清博愛 立憲政友会
3382 松田源治 立憲政友会
 -   その他   なし

 しかし選挙運動の疲れで軽微な咽喉病にかかり、6月治療の為に別府の観海寺温泉で静養、次いで心臓病を患い一時、東京の青山博士の診療を受け入院。病が良くなってきた事で日出に戻り(.)馬上鉱山の事務は子息の信愛に一任して大分県立病院にて治療を続けていた(.)

 6月に鉱区の拡張の為に二大鉱区となる、速見郡立石町の綾部宇策の所有する第7鉱区となる59万5350坪と、鹿児島県の松下彦士の所有する第8鉱区となる23万4600坪の権利を修得した(.)第9鉱区は鉱区は所員の実測調査により有望とされ出願した立石町白野地内の48万1000坪、第10鉱区の5万5000坪を買収した(.)
買収、拡張が行われ鉱区の延長10km、その面積は
1,250ヘクタールで創業から20倍になっていた。日豊本線の中山香(なかやまが)駅と立石駅のほぼ中間に、高い煙突をとりまく工場群が建ちならんだ。農業もまばらであった地区が、たちまち活気あふれる大金山街となった(.)
 10月下旬大分市において「大分物産共進会」が御大典および大分港落成を記念して、大分県物産陳列所(のちに大分工業学校となる)を主会場に催され(.。)博愛は馬上館を特設し、産出鉱石の標本(.)採掘から製金までの過程を展示して金山の事業を紹介した(.)その一隅に光彩燦爛たる純金製の大黒天の像を安置して大いに話題となりました。大黒天は自宅用と2体あったようだ(.)
純金製の大黒天の像
 11月10日京都で挙行された「大正天皇御大典」に参列後、病状が悪化したために衆院議員を辞め、同じ政友会の松田源治を次点者繰上当選させ政界に返り咲かせた。16日に東京大学病院青山内科(特別室)に入院した(.)馬上金山の所員代表は上京して見舞い、事務長の成清信愛(息子)は毎週2回鉱山の事務状況を通報した(.)夫人の以恵子は病気にて福岡市松浦病院に入院加療中の為に入院中の看病は雪子が熱心におこなった。12月24日に退院、日出町の的山荘に帰宅して治療を続けた(.)


入院中の博愛
大分物産共進会で出品した同型の純金の大黒像前にて)

(石井様写真提供)

         【成清博愛の死】
 大正5年(1916)1月17日博愛は危篤となり(.)妹の江口鶴子と馬上金山執務中の信愛並びに静岡県沼津において漁業経営中の子息の勝介に急報された(.)みずから臨終の迫ったのを自覚して、枕元に硯(すずり)の用意をさせ、信愛の前で遺書を(したた)め、最後の一筆を書き留めようと、1枚の絹布を広げて墨(ぼく)こんあざやかに筆をふるい、「寂静無漏」「一月博愛書」と傍書し筆を置き(.)笑ってこの世と別れるべしと看護中の近親、知友と金色さんらんたる大金杯で、豪華に末期(まつご)の酒を傾けながら永遠の別れが近い事を表しつつ・・・・18日、重体に陥り(.)日出町の別邸「的山荘」で妹の鶴子雪子信愛静子の息子夫妻に囲まれ惜しまれながら53歳で大往生をとげた(.)

成清博愛翁

 馬上金山は1週間の喪に服し臨時休業となった。同月
23日馬上金山で葬儀が執行された。檀家たる瀬高町本郷の徳円寺の荒川和尚の読経により始まり、1,000本余の弔旗、400対余の供花は会場を埋め尽くし(.)参列の僧侶380人余、会葬者4,800余人に及び、この地方における空前の盛大さであった(.)
法名は『寂清院殿釈博愛大居士』。三十七日の大法要は「成清御殿」と呼ばれる(.)本邸のある瀬高町小川の堀池園の成清家において徳円寺の和尚の読経により盛大に行われた。納骨は堀池園の東南の方角にある(.)レンガ塀に囲まれた約200坪墓地に目を見張る壮大な墓と成清家の家門隆盛(りゅうせい)
を裏面に書した高さ約5mの記念碑が建設され葬られました。(現在、墓は日出町に移設され記念碑のみ残されています(.)

成清家墓跡の博愛謹書の記念碑(地図リンク)

寄進した堀池園の天満宮

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 第二部 【長男・成清信愛による馬上金山経営】

   
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参考・引用資料 「成清博愛君葬儀録 」「馬上金山志」「大江小学校の歩みと郷土」
    「山香町誌」「日出町史」「日出町商工会史」「的山荘資料」

 
   
取材協力・写真資料提供 瀬高町成清博愛顕彰会馬上金山ゆかりの木戸様・的山荘の成清様・山香町
堀池園区長今村孝男様・石井保男様 
           
リンク
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