庄福BICサイト 韓国歴史の旅 2日目 忠州湖~百済の都・扶余~百済の栄華・公州~温陽温泉 |
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朝6時起床・7時には御粥とキムチ・レタス・ハム・タマゴ・韓国のりでエネルギー補給!7時40分にはホテル「原州インターブルゴ」を出発。朝は冷え込み気温は10℃、バスの窓際の席は腕が冷えて寒い。山間の村を通り抜けて9時には気温も上がり、忠州湖に到着。この湖は渓谷を塞き止めて作られた湖で、韓国で最も大きな湖です。天気は快晴、湖畔は紅葉が始まっていました。遊覧観光船に乗船。玉荀峰、亀潭峰、マンハクチョン峰、チョガバウィ、コレバウィ、ヒョンハク峰、オノボン、シンソン峰、カンソンデ、ボドゥル峰、オソン岩、ソルマ峰、ジェビ峰、ドゥム山などを遊覧するとあるが、写真スポットを探しシャッターを押すのに懸命です。 |
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湖畔は紅葉がきれいです! 湖畔遊覧後は百済の都・を目指して3時間半、車窓の眺めはなだらかな緑の山に囲まれて広がる田園。日本の故郷の風景に似ていると感じました。違うのは山裾に造られた亡骸を土葬した円墳が目立つ。公州市の街中にある韓国料理店店に着いたのは1時30分。キムチチゲは辛いと聞いたので、味噌チゲを注文。鉄の御椀に入った白いご飯とよく合う!定番の小皿料理も食べ、キムチの御代わりアリ。
昼食を済ませ、百済2番目の都があった公州市の武寧王の眠る宋山里古墳と百済3番目の都である扶余を訪れ教養を深める?歴史の勉強です。
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【百済王朝】
4世紀における朝鮮半島および満州では高句麗、百済、新羅の国がが競い合う三国時代でした。南端の小国家の加羅(任那または伽耶ともいう)は製鉄の産地であり、倭人は5世紀末まで軍事を主とする外交機関を持ち鉄の供給地として、新羅・百済・高句麗と共に活躍ししてきたとみられる。百済の都は現在のソウルの漢江南岸にあり、漢城と呼ばれた。風納土城と夢村土城、石村洞の古墳群などが、その時代の遺跡です。場子江の南部や日本で作られた土器や加羅の土器も発見された。当時、中国の宗(南朝)や倭、加羅との活発な交流が行われたとみられる。4世紀後半の百済は、30年間在位した13代近肖古王の時、百済は全盛期を迎え領土は南は南海岸まで、北は平壌城の手前まで、そして韓半島の中部一帯を掌握した。この頃に博士の高興を得て、初めて文字(漢字)が伝わったとする。王が死んだ後の百済は衰退し始め、475年には高句麗に攻められ王都漢城を失い、21代の蓋鹵王は処刑された。逃れていた子の22代文周王は都を熊津(現・忠清南道・公州市)に遷して、土城である公山城を構えた。公州市は475年~538年の間、百済の中心として63年間栄えた町です。 |
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【武寧王陵】
公州市の宋山里古墳は7ヶ所の墓があり百済時代(234~678年)の代表的な遺跡です。1971年に発見された7号墳は、百済25代の王(462~523年)の武寧王の墓であることが「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」と書かれた墓誌石から確認されました。墓の様式はレンガを積重ねた中国式で、出土品の90%は中国や日本からのものでした。武寧王は百済を立て直した王様と知られている。高句麗を牽制するために中国の南朝と緊密な関係を築き、先進文物も受け入れ、国力の向上を図りました。また、隣国・新羅を牽制するために、日本に先進文物を伝えて、その代わりに日本からは軍事力の支援を受けました。 . |
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宋山里古墳群 5、6、7号墳 |
7号墳の武寧王陵 |
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武寧王陵は、1971年に6号墳の排水工事の際に偶然発見され、20,9062点もの副葬品が発見され、そのうちの12種類、17点が国宝に指定され、公州博物館に保管されている。バス駐車場から歩いて宋山里古墳群入口ゲートを入る。古墳の形をした古墳群模型館では発掘された当時の様子をレプリカで紹介している。模型館の出口を出るときれいに整備された宋山里古墳群の外観を見学できるようになっている。 |
宋山里古墳群入口 |
古墳群模型館 |
発掘された当時の内部を再現 |
レンガと表面の文様は技術と文化の高さを表わす |
王陵を守るために作られた想像の獣 |
中国南朝からの銅鏡 |
羨道に置かれていた墓誌石 |
王(左)と王妃の頭枕(右奥)
輪の中に龍の頭が彫刻された刀(手前)
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武寧王の想像像 |
王が普段着ていた衣装
(複製) |
王の冠飾り(上)と髪と耳飾り |
王妃の冠飾り(上)と首と耳飾り・腕輪(下) |
日本産の高野慎の材料の棺(複製) |
王と王妃の金冠や金製の冠装飾、金製の耳飾り、金製の首飾り、青銅製の鏡、枕、足枕などの遺物が発見された。
墓の中にあった木棺の材料は韓国に全く無い「高野槙」が使われており、日本の近畿地方から九州でしか産出しないことから、日本から持ってきたもので日本との交流が盛んだった証拠であります。
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【武寧王は日本生まれ】
日本書紀の記述には「百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の軍君昆伎王を倭国(日本)に人質として派遣する際、一婦人を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の加唐島(佐賀県玄海海中公園の加唐島)まで来たところ、子が生まれたので嶋君(斯麻王)と名付けて百済に送り返した。これが武寧王である」と記され、つまり武寧王は、倭で生まれたことになります。専門家では武寧王は、日本で成長し結婚して淳陀太子をもうけ、淳陀を通じて日本で子孫を繁盛させた可能性が高いとされている。淳陀は倭国で死去した為に余明が代わって太子となったというという説もある。
※「続日本記」には「桓武天皇(かんむてんのう)(在位781-806年)の生母(高野新笠(たかののにいがさ))が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると書かれている。
武寧王が亡くなった後は26代目の王として息子の聖明王(523~554年))が即位し、538年には公州よりも南の豊かな扶余に都を移し町の北に王宮をつくり北にある山に避難用の扶蘇山城を構えた。また聖明王は日本の欽明天皇に使者をおくり、日本仏教の正式な始まりとなる仏像と仏具・経論を贈り、曇慧など9人の僧侶を日本に送っている。日本最初の寺院である法興寺(飛鳥寺)は百済から伝わった建築様式である。
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「続日本記」には「桓武天皇(かんむてんのう)(在位781-806年)の生母(高野新笠(たかののにいがさ))が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると書かれている。 |
百済滅亡後、子の一人豊璋が663年に倭国と軍事援助を受け復興戦争を行うが、白村江の戦いで大敗し、最後の悲劇が行われた扶余の王宮の離宮のあった扶蘇山城です。
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【百済最後の都 扶余】
26代聖王は百済の領土が南方に拡大した為に、538年に百済第3番目の都を熊津から泗沘(現・扶余)へ南遷している。倭国は百済から輸入された文物が数多くあり、軍事的援助の礼として、百済から倭に送られた奈良県の石上神宮に伝わる七支刀(国宝)がある。
百済は660年に31代の王である義慈王の時代に唐と新羅の連合軍に攻められ滅びました。。百済の遺臣は同盟国である倭国に人質として滞在していた百済王子である豊璋の帰国と百済復興の救援を要請した。中大兄皇子(天智天皇)は、これを承諾し、翌年3月に先遣隊1万人を、662年5月には2万7千人を663年には1万人の軍隊を送り百済南部の新羅軍を駆逐した。しかし唐は増援の水軍7千人を派遣し水陸併進して、倭国・百済連合軍を一挙に撃滅する作戦をとり、8月に白村江(現在の錦江の河口)で倭軍の1千隻を迎え撃ち、400隻余りを炎上させ倭軍を大敗させた。陸上でも、倭国・百済の軍は唐・新羅の軍に、敗退し、捕らえられた多くの捕虜を残し、百済遺臣と共に倭国に逃げ帰ったのです。 倭国は白村江での大敗で朝鮮半島における影響力を完全に失い、中大兄皇子は唐・新羅の連合軍の反撃に備え、大宰府の「水城」や西日本に朝鮮式山城を築き、防備を固くしたが幸運にも唐の遠征軍は襲来しなかった。以後、律令国家への道へと進んでいきましたが古代国家の形成を支えるため、さまざまな文化や政治に大きな影響を与えたのは、このとき戦乱を逃れて日本に渡海した百済遺臣だったのです。百済最後の砦であった扶蘇山で1350年昔の滅亡の悲劇を感じながら散策しました。 |
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扶蘇山の山門 |
落花岩まで歩くこと30分 |
悲劇にちなみ1929年に建てた百花亭 |
身を投げた白馬台 |
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【官女が身投げした落花岩】
百済最後の都の扶余の王宮の最後の砦として使われたと扶蘇山城には、あれだけ文化の華を開いた当時を偲ぶ遺物はあまり残っていません。わずかに、ここの北端にある、白馬江に突き出した儚い悲劇の60mほどの切り立った崖が残っているのです。西暦660年「白村江の戦い」で唐・新羅の連合軍に百済が完全に滅ぼされるとき、離宮の官女たち3000人が捕虜となり貞節が汚されるのを拒み、白馬台からすぐ下の白馬江に身投げをしたと伝えられてます。美しい衣裳のまま官女たちが身投げする様が、まるで花が岩から落ちるようだったと言うことから、その場所を落花岩と呼ばれています。 |
唐・新羅の連合軍に追詰められ身投げする官女たち・皐蘭寺「落花岩絵図」 |
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【皐蘭寺】
落花岩を屏風のように映し出している白馬江の川岸に位置している皐蘭寺(コランサ)は、百済末期に建てられたものと推定されています。百済の王たちが休息を取るための東屋だったという人もいれば、百済が滅亡するときに落花岩で身投げした3000人の宮女の精神を後世に伝えるために建てられたという説もあるが、皐蘭寺についてのはっきりした記録はない。寺の後方にある岩の間には皐蘭井という井戸があり、ここの水を1杯飲むと3才若返ると言われる。小学生の引率の先生が「君達は飲む必要は無い」と説得していた。ナットク!また井戸の上にある岩の間には皐蘭草が生えています。そばの川岸から観光用古代船に乗って悲劇の落花岩や白馬江(錦江)を眺めながら、朝鮮半島と日本を結ぶいにしえからの縁に思いをはせました。
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【その後の朝鮮半島の歴史】
さて、百済が滅びたあとが気になりますが、新羅と唐軍はさらに相次いで668年に高句麗を滅亡させる。676年に唐軍を半島から追い出し、旧高句麗領の南半分と合わせて朝鮮半島をほぼ統一することに成功し「統一新羅」という単一国家が生まれました。首都は慶州でした。その時期には仏教が大変盛んになり寺の建築や芸術作品に花を咲かせます。白村江の戦いで敗北した天智天皇から2代後に即位した天武天皇は双方の間で遣新羅使、遣日本使が30回以上送られ交易も盛んとなり780年までは良好であった。しかし9世紀末には新羅の国力は衰え、昔の高句麗と百済地域の軍部が勢いを増し、新羅・後百済・後高句麗の三国が競い合うが、高句麗の子孫である王建が統一新羅を倒し、918年には「高麗」を建国し再統一し、仏教はさらに朝鮮半島全土で盛んとなる。1231年にはモンゴルに侵略され間接支配を受け、日本の鎌倉時代に博多湾に攻め入った元寇にも参加している。高麗王家はモンゴル宮廷内に住みモンゴル貴族化した高麗王朝が150年間も続く。1392年に高麗の将軍である李成桂が中国の新しい王朝である明王朝と連合し474年間続いた高麗王朝を倒し、「朝鮮王朝」が誕生する。朝鮮王朝については4日目のソウル観光で紹介します。 |
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日本との多くの関わりをもつ百済歴史を探る見学はこれで終わり。バスで40分北上して、温陽温泉に到着。
夕食は韓国料理店で野菜と一緒に食べる韓国焼肉「ブルコギ」を楽しむ。日本のすき焼きみたいだ。宿泊の温陽観光ホテルには地階に温泉大浴場があり、日本の大浴場と変わりない。露天風呂はとても寒いので、サウナで汗をかく。廊下で到着した日本人宿泊団体客に出会ったので、どこから来ましたかと訪ねると「日本です」と中年のおばさんが返事する。ワカッテイル~~!出発空港はと聞くと「札幌」と返事アリ。外国気分タップリの御婦人様デシタ~~。 |
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