庄福BICサイト福岡県みやま市瀬高町編 平成17年3月編集開始平成21年1月31日更新  
歴史を探る手段として、石器、土器、古墳、古文書などの文化遺産があります。地名も縄文、弥生の古代から使用された地名が多く残り、何千年、何百年かの間、歴史を重ね生き延び、あらゆる土地で培い育み言い伝えられた表現である地名。そこには人々の息遣いや感情、意識が込められて、今日でもなお、生活の手段となって使用されています。つまり地名は縄文、弥生、古墳の時代から連綿と続いて来た日本人の共同感情を最も純粋に保存された息の長い文化遺産です。瀬高町では大字が20、小字名が1000を越えます。それに行政区が102そのほか俗称、私称があります。これらの地名は大部分は誰がつけたたのでしょうか。いうまでもなく、名もなき庶民により出来上がり行政の役人や支配者により追認され、呼び名に漢字を宛がえ記録し、利用されてきました。これらの地名の由来を研究され「瀬高の地名の話」を昭和55年に出版された下庄の鶴記一郎さんの記事を紹介し、当サイトで引き続き現地取材・資料研究にて大字・小字名・通称名を追加編集してみました。更新記事で原亀男氏の瀬高の地名考を参考にしました。
下庄校区編 南校区
西部
南校区
東部編
大江校区編 清水校区編
水上校区
坂田・長田
水上校区
小田・広瀬
上庄校区編 本郷校区編 福岡・山門
 瀬高編 

瀬高の起名は遠く縄文時代にまで遡るものと見られる。「瀬」とは一般的に、岩石などの上を走る激しい流れのことや、川や海などの水が浅く歩けるような所、川や海の流れのことを示す。こうしたことから、文広芳司付近で、矢部川の少し浅いところを「瀬高」と呼び始めたものです。瀬高の「高」は特に意味はなさそうです。それがいつごろからか、芳司付近の川が「瀬高川」と名付けられ、その川の両岸にある土地が「瀬高」と呼ばれるようになり、「瀬高」の名はだんだんと土地の固有名詞として定着していきました。
瀬高の起名にはもうひとつ説がある。12代景行天皇(71〜131)が広田県(あがた)野坂村(今の瀬高町)に御臨幸になられた折り、「この地は河の瀬高くして水音最も清々し、よって此の瀬に塩斉(しおい)せなむ」と仰せられたことから瀬高と呼ぶようになった、という歴史的にも意味深い伝説である。また瀬高の地名は逆語順がとられ、「高い瀬」「高瀬」とすべきだが、この語源は南方系で中国江南から稲作文化を運んできた倭人だけでなく、広く東南アジアのインドシナ、或はマレー人、ポリネシア人、さらに遠くビルマ人、インドのタミール人なども含めます。南方の文化流入の証といえるとともに、南方からの渡来民族が日本民族形成に影響を与えたと考えられる。
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 大字・小字・通称地名
土地の登記簿には大字名のほか古くからの小字名が存在しています。台帳にはないが、同じく昔から呼ばれた通称名もあり使用されています。いずれも古き時代の歴史を持った地名で当時の様子を知るのに貴重な文化遺産です。
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婦計・鉾田・成合・産女谷・唐尾など、古代地名は呼んでた名に仏教の伝来と共に入った漢字を無理に宛がわれ意味が難解な地名があります。
藤ノ尾・朝日・梅ヶ谷など奈良時代の和銅6年(713)から平安中期の延長5年(927)にかけ朝廷の政府の良い漢字を付けよの改名政策に応じて本来の呼び名を宛がった漢字の意味で誤解しそうな地名もある。
和銅8年(715)、土地区画整理として本吉から北西方面に条里制が施工された水田の遺名に灌漑水路の
三ノ溝・五ノ溝。一戸または一つの集団に水田を班給した五反田・八ノ坪・大坪・六ノ江・中田江・十町などがあり、高柳集落には特に多く残っている。下庄・上庄、坂田の北庄分・南庄分は荘園時代の遺名です。
中世期
の松延城跡の本丸・二の丸、大木城跡の大木の内、宮園城跡の城畑・射場ノ元、豪族一族の住む屋敷・堀ノ内・栗ノ内などの地名、寺領に寺の名称や佛町・衣掌町・聖・禅院・大竹・鐘ノ免、神社関係地名に汐井神・樋口・牛御前・釣天・天神・稲荷・祇園田がある。
古代の矢部川は網目のように流れおり、有明海の海面が下った
弥生時代から稲作の水田開墾が始まりますが、水上校区の坂田・長田・小田の田のつく言語は稲作開始とともに流入して来た古いものでしょう。湿地帯との開拓や矢部川の藩政時代の土居工事などによる開拓・干拓地名には堀・鶴・津留・開・籠の付く地名が残っているが、長い歴史の中で現在の土地を勝ち得たものです。干拓地名は南校区の地名に特に多く、湿地帯の意の開拓地名は瀬高町全域に残っている。
藩政時代の商業の発展した名残の
本町・新町・横町・上町・中町・市場町明治時代の柳川軌道沿いにできた栄町・恵比須町・矢部川の商業発展地の地名があります。それでは歴史を語る地名、各校区編をお楽しみください。
  
  
               下庄校区編
平安時代中期の荘園には現在の瀬高町には瀬高庄(上庄・下庄)・広田庄(芳司)・坂田庄(坂田)・長田庄(長田)・本吉庄(本吉)などがあった。下庄の領域寿永元年(1182)8月16日付の鷹尾神社公文所下文案(鷹尾神社文書/平遣4045)によれば、吉里・稲富・行武・重富・小熊丸・太郎丸・楽定・弥乙丸・小太郎丸・乙丸・久富・武富・友吉・有富・新名熊丸・吉富・吉武・吉成・枝光・北鴨荘・元吉成・小犬丸・小犬男丸・犬男丸の22名(みよう・集落の意味)に鷹尾神社の「餐膳酒肴」の調進が課されているとから、現在の下庄域から大和町・三橋町域に及ぶ一帯にその荘域が広がっていたと考えられる。
瀬高庄→下御庄(しもおんしょう)下庄(しもんしょう)(しものしょう)(大字名)
瀬高庄は平安時代のの保安2年(1121)に藤原俊忠が領有し、10年後の大治6年(1131)には上庄・下庄に二分された。下庄は三橋町・大和町(現在柳川市)まで広がる大庄園鷹尾神社は下庄の鎮守社であった。庄とは荘園の荘の当て字として使われてきたものである。鷹尾神社は建暦3年(1213)に宝殿の火災があり古文書のほとんどが焼失し、その以降の文書が現存している。平安末期の1189年頃「筑後鷹尾文書」には鷹尾郷を「筑後國下御庄鷹尾」で鷹尾社は「高良別宮鷹尾社」と呼ばれた。下御庄の鷹尾郷の干拓の開発が進み建久6年(1195)には「鷹尾別府」「鷹尾別宮」という呼び名に変っている。武士支配時代には、武家の信仰の厚い八幡宮へ転向しはじめ、高良玉垂宮の支配から脱却する気運が、立花藩となり急に高まったではなかろうか。現在の下庄は古くは「下御庄」と書かれていて永く「しもんしょう」と発音していた。これは庄園時代の呼び名の名残ではないだるうか。(瀬高郷土史会の上津原猛氏の原稿より抜粋)
上町(かんまち)(小字名)(行政地名)
平安時代の芳司市場(文広)からの道筋で藩政時代(江戸時代)には酒蔵の並ぶ酒造家で栄えた町です。明治時代は6軒の酒屋がありました。当時は矢部川の船着場から酒を各地に流通させていました。地名の起名は矢部川上流から上町→中町と名付けられたのでしょう。
中町(なかまち)(小字名)(行政地名)
藩政時代(江戸時代)矢部川に沿って商業の発展した名残の街区名で、肥後(熊本)からのの参勤交代の街道筋で矢部川の渡し場から上庄の街道に結ばれていました。明治時代には3軒の酒造家の酒蔵があり、商業の町として栄えました。地名は矢部川上流から上町→中町と名付けられたのでしょう。
府内(ブネ)(通称)    下庄八幡神社付近
下庄八幡神社一帯を通称「ブネ」という。これは府内の転訛(てんか)したもので、宝聚寺住民の苦情処理場であったのに対して、政治を取り仕切っていた役所の所在したことに由来すると思われる。ここは藤原氏荘園の役所があった所ではないでしょうか。
矢部川・恵比須町・栄町  明治時代に出来た町!
明治24年、鹿児島本線が瀬高町まで延びて、当時、駅の名を高瀬(玉名市)と混同しないように「矢部川駅」と付けられました。駅名から付近を矢部川と称するようになりました。今の行政区としての矢部川○○丁目はその駅名から起こったものです。明治42年に柳川〜瀬高間に柳川軌道が開通し、矢部川3丁目から分町し、商売繁盛を願い恵比須神を勧請し恵比寿町ができている。栄町は商店が栄えるよう願いを込め起名された商業地域の町名です。柳川軌道沿線の新道路沿いに商店が移転したり、新規の店や劇場ができて下庄は都市化が進みました。
              

栄町
田代(たしろ)(小字名)(行政地名)
この地名は、田をこしらえた所の意で、中世の開墾土地につけられたというのが定説です。下庄の田代は江戸時代からの商業地域の街で、中世以降にいろいろ人工が加えられ起名当時には水田などもあったものと理解してよいだろう。藩政時代の宿場町として栄えている。また文広集落にもある田代の小字地名は中世の開墾地であろう。
行武→生竹(小字名)    下庄新町
昔、下庄新町から中絶方面にかけ行武(いきたけ)という名の集落があり、奈良時代の和銅8年(715)班田制の実施により班給された土地のなごりであり、行武という人が開拓した土地とみられ下御庄の一集落であったろう。
高良大社の
天慶4年(941)の筑後地区の神様の登録帳の古文書天慶神名帳「域樹(いきたけ)神」の記載があり行武の名(集落の意味)の鎮守の神様で現在の生竹天神に該当すると考えられてている。
寿永元年(1182)8月16日付の鷹尾神社公文所下文案(鷹尾神社文書/平遣4045)によれば、吉里・稲富・行武・重富・小熊丸・太郎丸・楽定・弥乙丸・小太郎丸・乙丸・久富・武富・友吉・有富・新名熊丸・吉富・吉武・吉成・枝光・北鴨荘・元吉成・小犬丸・小犬男丸・犬男丸の22名(集落)に「餐膳酒肴」の調進が課されていることから、下庄の荘園は現在の下庄域から大和町・三橋町域に及ぶ一帯に広がっていたと考えられ行武の集落も鷹尾神社の氏子であることがわかる。
南北朝初期の
暦応2年(1339)「鷹尾文書」の田畠譲状によれば「一所八反三丈 まき 元行武(いきたけ)」とあって真木は、もと行武に、入っていたらしい。行武は下庄新町の鎮守神、「生竹天神」周辺の栄町から真木までかなり広範囲の土地であったのが伺え知れる。イキタケの地名に行武から、良い字を付けよの改名政策に応じて生竹の漢字が宛がわれたとも思考される。
昭和40年頃までは下庄新町の生竹天神は栄町の古賀活版所(現・ルノワルユースホステル)の裏にあり柳川軌道が出来る前は一帯田んぼであった。現在栄町の筑邦銀行の一帯に小字名として残っている。
新町(小字名)(行政区名)
江戸時代商業地域として栄え新町の起名があったと考えられる。新町は薩摩街道の道筋であり、菊久司から南に三池街道と水路が八幡町(土居)三池(大牟田)方面に延びていた。廃道になる大正7年まで菊久司の自宅が街道の西に、倉庫が東に道をまたいでいた。阿部酒屋からは北へ延びて東部山間部に続く吉岡土居の上辺の道もあり通行量の多い「新町村」であった。江戸末期から明治時代には菊久司・菊久栄・甘露の銘柄の酒蔵があり、米屋、石灰(肥料)屋、呉服店、塩物問屋、和傘製造屋などがあった。現在の新町(行政区名)の西方に小字新町が残り、東方は西池田の小字名がある。
             
西池田(小字名)      新町
下庄新町の東半分地域の小字名であるが、家屋は自然堤防の上辺に出来た小高地の集落であるが、西側あるいは北側にある池や堀を埋め立て造成した水田地帯に起名されたのでしょう。
市場町松尾宮町元町行政区名)
現在の下庄の元町は江戸時代からの肥後街道筋で「市場町」と称し、商業の繁栄した所東市場中市場(片平町とも言った)と西市場に分かれていた。大正時代まで商業が盛んで油屋・豆腐・蒟蒻屋・湯葉屋・青物屋・畳屋などあり昭和初期まで市場と呼んでいた。その後「松尾宮」があることから「松尾宮町」に変更、第二次大戦後は「元町」に改名された。
飛岡・中飛岡(小字名)      元町
元町の旧薩州街道の北側が中飛岡、南側に飛岡の小字名がある。周囲よりとび離れていた自然堤防の小高い所の意です。
談議所(だんきしょ)小字名)(行政区名)  
談議所は「ダンギショ」と読むべきですが地元では「ン」が欠落して、ダキショと呼んでいます。奈良時代の養老元年(717)創建の宝聚寺の談議所天台宗の会談道場に由来するものです。その頃、この寺院で仏の慈悲によって農民の苦悩をやわらげ、明日に希望を持たせる如き大衆に説教が行われていなかったでしょう。大衆済度の法話を開始したのは、中世の宗教改革によって生まれた浄土、真宗、日蓮宗などです。天台、真言宗は鎮護国家の宗教として、行政に利用され、平安時代は貴族の宗教として栄えました。したがって、当時の談議所は説教というより、行政上のもめごと相談所だったのです。大化の改新という一大改革期に農民は不安と動揺に明け暮れたのでしょう。そうした談議所が今日まで地名として残ったものです。この談議所は中世から矢部川の河港として栄え、近年まで瓦の産地として、九州にその名をはせていました。
             
日渡り(小字名)  談議所
矢部川沿いの談議所の浜に連なる下流側にある。ケ(日)は二日以上にわたる日の意があるので、日数をかけて荷物を運ぶ船場のある場所であろう。談議所や高柳の川辺は交通物資集散の要地として繁盛しました。詳しくは港編談議所の浜を御覧下さい
             
婦計(ふけ)(小字名)土居(通称)      八幡町一
瀬高地方では湿地のことドブ、ガタ、ジュツタンボなどと呼びますが、地名としてのフケの呼び名もその一つです。この地には一本松神社(現天満宮)のほか、女の神様で竜神が祀られていた婦計神社があった。八幡町一には西婦計、東婦計の小字名が残っている。新町からの三池街道は湿地帯より高い自然堤防の犬ゴロ土居の上辺を通っており、周りはレンコン畑が広がっていたそうだ。江戸期は「土居」と呼ばれていた。
八幡町(やわたまち)(行政区名) 
八幡町や談議所はは矢部川の河港であり平安時代頃からで天草・島原方面との交易の港町として栄えた町です。室町時代から江戸時代にかけて海賊、私貿易、密貿易を行う倭寇の船を通称して「八幡船」と呼ばれた。倭寇が「八幡大菩薩」の幟を好んで用いたのが語源とされる。八幡町の船も鎌倉から室町時代には鷹尾城の田尻氏が掌握下において「嶋織」「嶋木綿」の舶来品の取り引きをしていた。この交易の船も八幡船と呼ばれるようになり、その船が停泊することから八幡町の起名となったであろうと思考する。浜では近隣の若衆が荷役に精を出した。人数は10人から20人位で暇な時は「寄場」でバクチに興じてた。周辺は商談の場で旅館、遊郭、商店が立ち並び賑わい繁盛していた。八幡町一に架かる思案橋は遊郭で遊んで帰るか思案した橋といわれる。
土居 八幡町一
大正時代まで新町からの小川の自然土居があり上辺に三池街道が通っていたことから街道周辺は「土居」の地名でもあった。
平町・下平町(小字名)  八幡町一
矢部川付近の所です。ヒラは平地の意もあるがヒラク(拓く)の意もあるから、ここでは矢部川沿いの開拓地と理解すべき地名でしょう。
田村口(小字名)  八幡町一
三池街道の思案橋の南側の所です。ムラクチは八幡町・談議所・田代の村入口の意味だと思います。
 思案橋
安の内(小字名)  八幡町一
安養寺の境内であったことに由来するものであろう。安養寺から南150mに山法師塚なるものがあって、昭和50年、瀬高町中央公民館敷地造成の際、塚の撤去及び調査が行われ、安養寺住職二世及び妻と思しき墓石、弥生時代の住居跡など発見された。よって安の内の地名にある安養寺は昔、相当大きな規模を誇っていたものと推測できる。
七生寺(小字名)  八幡町一
奈良時代の和銅8年(715)班田制の実施により七生寺に班給された土地のなごりである。安の内の西側の敷地一帯が七生寺という寺の境内地であった地域で中央公民館の西側の田圃(水路の南側)である。現在でも大師堂、石仏群や墓地の一部が残り、昔の面影を偲ぶことができる。
通道(小字名)  八幡町二
三池街道の通り道にあり、そこから起名されたのでしょう。
一本杉(小字名)    八幡町二
現在は田んぼや住宅地ですが、昔はここに杉の大木があり起名された思います。また八幡町一の天満宮には松の大木があり、一本松天神と呼んでいました。隣の武宮酒造の酒の銘柄が「一本松」でした。旅人の為に地域の道しるべとして利用されました。
東欠橋・西欠橋小字名)    八幡町二
三池街道に両脇の水田です。欠橋=掛橋のことで、傍の水田に起名されたものです。                
上中田江・中田江(なかたえ)(小字名)   中絶
和銅8年(715)に土地区画整理として条里制が施工された時の地名です。中田江は中絶の元の地名で時代とともに転訛しました。
集落北方の三池街道沿い
中絶(なかだえ)(行政区名)
地名を漢字で表示するので、当て字が多く、また発音の転訛が起こり古来は「ナカタエ」と呼び中田江と表示していた。その後、発音がなまり「ナカダエ」に変化し中絶の漢字表示に変化したものである。
                  
八坪・向江(小字名)    中絶
奈良時代の和銅8年(715)に土地区画整理として条里制が施工された時の地名です。瀬高町には条理制における多くの地名が残っています。
幸助(なえずかり)(小字名)   中絶
条理制あと荘園制度に移行しますが後期に下部組織をなすのが名田(みょうでん)制度です。名田(みょうでん)とは平安後期から中世にかけて、一般農民が土地の所有権を強化するために、土地に自分の名を冠したものです。平安後期から中世期の幸助さんの土地の名前ということです。最終的には安土桃山時代の太閤検地によって、名田は完全に消滅した。             
小塚小字名)    中絶
塚とは古墳のことで、小さな古墳がある所の意です。
苗漬(なえずかり)(小字名)      中絶
苗=早苗の意で漬=浸かるで苗が浸かることです。古老に聞いたら文字通り、水稲がよく浸かる程の湿田だった所だったそうです。
                
寺町(小字名)    中絶
仲絶集落の東北にあり、条理制時代の一区画で、どこかの寺領であったろう。
吉岡土居→緑町(行政区名)
明治後期に209号線上の吉岡土居が緑町に改名されたものです。吉岡どいは新町の阿部酒屋から北に延び筑後銀行前の県道を横切り、吉岡の5つ角にいたる。さらに右折して瀬高の北方農協倉庫に達する。昭和13年頃産業道路(現209号)建設で殆ど取り壊され、新町の金光教会傍の太田水路付近に当時の面影を見ることができる。土居は中世末期から江戸初期に工事が進められたものであろう。下庄の街並とその南部に広がる水田地帯を守るのが主な目的であった。どいは高さ地上4m、基底巾10m、全長約1000mで上辺は道路に利用され、両脇にハゼの木が密生していた。
                 

秋原ガラス通り
正楽寺(小字名)   緑町
下庄小学校の東北側一画で正楽寺という寺の敷地という。正楽寺は西側にある引接寺の末寺であったが創建年代など明確でない。古老の話によると、寺の周囲には大きな堀があったという。その堀の一部が今も残っている。寺跡を確認するものはない。
                 
恵比須町(行政区名)       恵比須町
明治42年6月に新町や元町の北側の田畑に新道に柳川軌道が敷設され沿線沿いに商店が出来始めた。昭和期になり国道209号が建設され、交差点付近の矢部川3丁目の西部が分割され、商売に縁起の良い町名に「恵比須町」が起名され、交差点に恵比須像を祀り商売繁盛を願ったのが始まりです。
垣添(小字名)          矢部川3丁目  
1番街通り商店街付近の小字名で二尊寺の寺領境界の垣根らしき所に付けられた地名です。
板敷面(いたじきめん)(小字名)   矢部川1丁目
瀬高駅を中心とした周りの地域です。寺院などの経営田で免税された土地の遺名です。
                
北原(小字名)           矢部川1丁目
板敷面(瀬高駅)の北西に広がる水田地域です。ハル、バル、ハルは開墾の意味で北原の原は野原の意味でなく、開墾を意味するハリ、ハルに宛てたものと思います。
大竹(おおだけ)(通称名)(行政区名)
「大竹山二尊寺」のによる地名です。当時、大竹が茂っている土地だったので大竹山の寺号が付けられたと言う。二尊寺の名は平安末期に二尊仏信仰が盛んな時の寺名と思考されている。「大竹山二尊寺」の繁栄により大竹村の起名となる。大竹村は明治9年下庄町村と合併して下庄町村となりました。

二尊寺鐘楼門
北方(小字名)    大竹
寺領「大竹山二尊寺」の北側を意する地名です。
前田、(小字名)  矢部川2丁目
旧薩摩街道の南側を前田と呼ぶ。二尊寺の寺領の一部で二尊寺の前の田の意味があり政治的に優遇されて免税されていた土地である。かって二尊寺は、瀬高地方において、宗教界を牛耳る強大な権力を持っていた証が、寺領の広大さにも表われている。
 前開(小字名)  矢部川2丁目
瀬高駅南200mの県道の踏み切りの西側一帯を前開といい、開とは開拓地を表わす地名である。
樋口(ひぐち)(小字名)     矢部川1丁目北
樋管や水門との関係地名です。樋口神社の傍にある土穴(つちあな)は奇妙な地名で、その起因は検討がつきません。樋口神社の付近には返済川と坂田方面からの水系が合流する所で重要です。おそらく両水系をつなぐ地下式の樋管でもあったかと想像しています。
                
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金栗(かなくり)(行政区名)西金栗(小字名)   大字小川
小川の金栗は地名であり集落名であります。歴史地名の武士団の屋敷または領地の意の栗ノ内と同類ではないかと思います。すぐ傍に栗ノ内があるのに金栗と別名をつけたのに何か意味がありそうです。ここは、砂鉄の産地か、農具を製造する鍛冶屋があった所ではないかという人がいます。栗はグリ石からでたもので、製鉄の残滓(のこりかす)がゴロゴロしていたかも分りません。
上園(かみぞの)(小字名)      小川金栗
「園」地名は大広園、小川、太神地方に偏在しているのは、広田氏の領地だった、広田県(あがた)との関係でしょう。「園」とは大化改新前代からの土地制度で、私有土地とされる宅地園地から発したものです。広田氏は自力によって、課税義務のない広大な園地を開拓して経済地盤を築いたものと思います。金栗集落に八幡神社があるのは広田八幡神社との関係があるかも知れません。
               
鉾田(ほこた)(小字名)      小川金栗
湿地帯をドブ、ガタ、ジュツタンボ、フケなどと呼びます。湿地の意の「フケ」のフがホに変化して出来た湿地帯の土地名です。
栗ノ内(くりのうち)(小字名)    小川金栗
金栗の西方、瀬高町役場のある地域で大字小川は広い範囲にあります。中世において、荘園や公領を基盤ちして成長してきた武士団の屋敷または領地から起名したもので、金栗にも豪族が居たであろう。大字の太神や長田にも同じ栗ノ内の地名があります。
吉岡(行政区名)      大字文広
吉岡はよしの密生している小高い所の意です。吉岡の集落名は戦国時代の末期、豪族吉岡加賀守が、この村に居城したことからはじまる。天正12年(1584)に竜造寺が攻めて来た時、山下城の蒲池と一緒に戦っている。この地に吉岡の姓が多いのは、その一族である。吉岡加賀守の末裔は立花藩政時代に代々藩の指定医師となり、15代目は吉岡久(きゅう)氏である。昭和43年に83歳で故人となられた吉岡久敬(きゅうけい)氏は16代目の目医師であり吉岡と羽犬塚で吉岡病院(眼科)を営まれた。歴代続いた通称「吉岡の目のお医者さん」であった。、17代は吉岡久敏(ひさとし)氏で現在藩政時代に屋敷があった場所(西屋敷)に18代吉岡久正氏が住まわれている。(平成18年現在)明治9年吉岡村芳司村と合併し文広村になった。大正時代の吉岡集落は、吉岡城跡から西方一帯にかけて、広い深い竹薮におおわれていた。狐が夜な夜な出没し、現在の共同墓地付近には「一反木綿」が下がり、狐か悪鬼の仕業と人々が恐怖におののく程、物寂しい所であった。吉岡集落は石鶴水路と吉岡川の分流点の大字下庄の一部と大字文広の東南部である。
                     一反木綿妖怪
東屋敷・西屋敷(小字名)    吉岡
瀬高での武士団の屋敷または領地の意の屋敷地名は、自然堤防に立地する集落所在地にあり、南部には無いので同じ意味の栗ノ内や堀ノ内より先に起名されたであろう。作出方面から流れる石鶴水路をはさみ東屋敷・西屋敷の地名があり西屋敷の敷地が戦国時代の吉岡一族の居城の領域で江戸期には立花藩の藩医で目医者を務めた吉岡氏の屋敷があった。明治になり白蟻で屋敷が痛み、東屋敷の中道南橋の西たもとに移転し吉岡病院(眼科)を昭和43年まで続けられた。
                
栗ノ内(小字名)    吉岡
屋敷地名の北に接し、同じく、中世において、荘園や公領を基盤ちして成長してきた武士団の屋敷または領地から起名したもので、吉岡一族の居城の一部があった場所と思われる。
作出(つくりで)(行政区名)      文広
江戸時代に入り矢部川周辺の開拓が進み分村現象により誕生した集落名です。地元のではは「ツクッデ」と呼びます。不思議なのは幕藩体制259年間に全国で開拓が進んで耕作面積は増加しても人口は約3千万内外で増加しなかつたことです。農村に商業資本の魔手が延びていき、さらに重税で農民の生活は極度に圧迫され、堕胎、棄民などにより、分村も最低生活を維持する消極的意味しかもっていなかたと解しています。現在、作出は55戸に発展して堂々たる独立した行政区です。
踏み切り→初瀬町(行政区名)
明治期の鉄道敷設時に「踏み切り」の地名で呼ばれ、現在は初瀬町の集落名で呼ばれています。昔の矢部川の河川がこの地まで浅瀬が広がっていました。近くに小字名で広瀬・石原がありますがそれを証明しています。「ハツ」は開拓を意味し、矢部川の河原のの開拓地名です。「ハリ」は開墾を意味する地名だそうです。
大塚(小字名)    初瀬町
王塚古墳があった地域で多くの古墳が点在していたことから起名されたと思います。ここからは弥生時代の石器。石剣や高杯、器台、合わせがめ棺、磨製の石剣などが出土している。古代集落があった所です。
芳司(ほうじ)文広あやひろ)(大字名)(行政区名)
芳司の地名は古墳、奈良、平安時代にわたり、この集落で土師器(はじき)を造る窯場(かまば)があったことに起因するといわれている。平安朝、白河院政の頃ですが、荘園制度が次第に朝廷の財政を圧迫していきます。その対策として、朝廷側は、在地領主を公権的にひきつける為の徴税機関としての「保」を成立し、その役人を「保司(ほじ)と言った。その役所が一時、今の文広に置かれ、その役人の保司に広田氏が就任したと思われる。その保司が芳司になったのだと思います。文広(あやひろ)とは、保の役所のことを公文(くもん)と呼び、その公文の広田のをとって文広ができたと思っています。文広は大字名で明治9年吉岡村と合併してできたものです。その頃の保または公文と呼ばれる役所の所在の証明となるのが、文広の印鑰(いんやく)神社です。印はいんかん、蛯ヘ鍵で、役所を象徴する言葉です。
                     

印鑰神社
馬場先 (小字名)         文広
中世からの、騎馬術の訓練場だった所です。近世になり広田八幡宮の奉納行事として流鏑馬が行われていた。現在は農耕馬を養わなくなり廃止されている。
汐井神(しおいのかみ)小字名)   文広
矢部川の河畔にある汐井神社がある所の地名で付近住民の信仰の対象となっています。
                   
幸丸田(小字名)        文広
荘園制度の下部組織をなすのが名田制度で一般農民が私有権を強化するために人名を名田に用いた名残です。     
屋敷・東屋敷(小字名)    文広
広田一族の領域で文広集落の大部分を占める広大な土地です。
天神屋敷(小字名)      文広
神社に関わる者が住んでいたり耕作していた土地であろう。文広集落の東南部にある広い土地である。
八反田・八子田(小字名)  文広
文広集落の北東部にあり、この地域は条理制の実施されてないが、班田制は実施されたので、条理制名を採用したのでしょう。
古賀(小字名)         文広
古代の法律語の空閑から古賀・古閑の文字が出来た説と水の流れの乏しい所をコウゲと言っていたのが転訛してコガができた説がある。文広の古賀は集落北の矢部川堤防に沿うた細長く、かって砂利の多いコウラだった荒地で開墾が遅れた地域だったと思える。
八子田(はねだ)
矢部川の堤防に当たる水流を変え決壊を防ぐ為に石の固まりで羽の形をした堤防柵(バネ)があった所の水田の意です。唐尾など江戸期に造られた多くバネが矢部川の河岸に見られます。
イヤシ(小字名)        文広
矢部川河岸で砂利が多く、竹林が繁茂していた不良地からでた地名だと土地の人は言っております。つまり、いやしい土地のことでしょうか。
高柳(大字名)   北高柳(行政区名)
漁法の梁(ヤナ)に関係した地名です。梁とは、川の瀬などで、杭を打ち並べ水が一ヵ所だけ流れるようにして、斜めに張った木や竹の篭で魚を受け捕らえる仕掛で、こんな「ヤナ」がこの地帯に多く仕掛けられていたので、この地名がおこったのです。このヤナの材料には柳の木枝を利用したかも知れません。
きんぎし(通称地名)       北高柳
北高柳の東部一帯、大正時代まで、矢部川堤防添いに十戸余の集落のあった地域。昔あった金源寺(きんげんじ)の転訛した(なまった)ものといわれている。
竜臥(りゅうが)(小字名)   北高柳日枝神社境内 
北辺の矢部川河岸にある。真言宗時代の僧が地名として造語したのではないだろうか。竜は水神の意味があるから、水神を祀ってあった寺の跡か、あるいは水神さんが常住する聖なる場所を念じて起名しとものと考えられる。1633年創建の元町の松尾宮は熊本から分霊を一時、この高柳に奉安していることから当時高柳には規模の大きい真言宗の寺があったであろう。
                  
角源蔵         北高柳日枝神社境内 
竜臥の南側の一画で同じ寺の敷地内であろう。真言宗の元三大師(ゲンゾウダイシ)にあやかつた人名地名であろう。
弥太郎開(やたろうかい)・外浜・ヨシノ(小字名)    北高柳・南高柳
北高柳の西方の堤防沿いの地名である。弥太郎は人名で、開拓工事に貢献した人の名であろう。これに下流の南高柳に続く外浜・ヨシノなどは開の字はありませんが同じ潟地の開拓地です。
草葉(小字名)     北高柳
クサバ(草葉)は草場の意味で、竹や木を組んだ、刈った稲を掛けて乾かす設備の稲掛が普及前に、稲干場とした所で、平素は芝草地になっていた意の地名です。
聖町(ひじりまち)(小字名)     北高柳
北高柳部落の南部一画にあり条理制(飛鳥)時代の一区画と推定され、ある寺の寺領の一部であったろう。
久保(小字名)     北高柳
クボ(久保)は窪の意味で窪地の土地の意です。
城ノ内(じょうのうち)(小字名)  高柳
南高柳集落と高柳集落の間の矢部川近くにある地名です。中世において荘園や公領を基盤として成長してきた武士団の屋敷または領地から起名されたものです。
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               南校区編
南校区の西部は古代、海底であったものが地殻の変動により隆起して陸地となり、 再び陥没した所である。現在の土地は、推古天皇の7世紀ごろから開拓が続けられ江戸時代から本格化した干拓によって出来上がりました。隣接する大和町や高田町も同様である。祖先は、最大5.5mにもおよぶ干満の差を利用し、干潮時の短い時間に土を盛り、堤防を築いて海水をせき止め、新しい大地を生み出してきたのです。しかし、それだけでは、土地に塩分が残っているので植物は、生育しません。堤防の内側に水路や深い井戸を掘り、塩気のない水を干拓地に引き入れ、何回も耕し、綿などの塩分に強い作物から順番に植え、やっと稲作ができる水田にしてきたのです。開・籠・河内など中世から近世にかけての干拓に関する地名の多い所です。矢部川と飯江川の合流地点では海岸に近いので島・船津など他地域にない地名の多い所です。

村中(むらなか)西名(にしみょう)東名(ひがしみょう) 南高柳
南高柳集落の住宅地一帯の小字名です。村中は中心部の意でミョウ(名)は東と西部の集落の意で荘園時代の名残です。
仏生(小字名)         南高柳
高柳西部落の南側一画公民館北東辺にあり。仏聖と書く場合もあるが、仏飼田というべきもので、尊い仏様に、日を定めて御飯を供える米の出処田であった。恐らく宝聚寺との関係ではあるまいか。
三ノ溝(さなみぞ)(小字名)(行政区名)     高柳
筑後地方で和銅8年(715)、土地区画整理として条里制が施工された、灌漑水路の遺名です。三ノ溝山王社の神社があり南高柳では現在も地域名として使用されています。五ノ溝の小字名もある。他の地区の「溝」名の付く地名も条理制の灌漑水路の遺名で中絶付近の三ノ溝・東津留地域の五ノ溝があります。
五反田(小字名)  三ノ溝
和銅8年(715)条里制が施工され、一戸または一つの集団に対して、五反、六反、七反の水田を班給した地域名で高柳の三ノ溝付近にある小字名です。他の地区で松田地域の六反田があります。
渡り手  三ノ溝
分村のことであろうか。
不毛・福久・深田(小字名) 三ノ溝
瀬高地方では湿地のことをドブ・ガタ・ジュツタンボなどと呼びますが、地名としてのフケ呼び名もその一つです。高柳にある不毛・福久・深田の水田はフケに宛てた漢字の湿地帯の開拓水田の意です。
大工給小字名)        高柳
大工職人にが住んだとも言われるが、この土地は水田地帯だから、職人の仕事がない時に野良に出て働いたとも考えられる。
本坊(小字名)         高柳
相当に大きなお寺があった所と考えられる。
宮司町(小字名)       高柳
高柳には集落の氏神さんの3社をはじめいろんな宮があります。お宮の宮司さんが住んでいた所でしょう。
梶町(小字名)         高柳
南高柳と散田の間のある水田です。鍛冶職人が住んでいた所です。
亀の石(小字名)         高柳
亀と関係ありそうですが、亀は神に通ずるところから、何かの神社領の地名でしょう。
高柳新堀(しんぼり)(集落名)    高柳
矢部川の堀の開拓により出来た土地で高柳から分村した地名です。
梨ノ水(なしみず)(小字名)    高柳新堀
矢部川に近いこの地域は土地の人に尋ねたら、よく水不足するから、水無しから起こった地名ではないかとのことでした。
江湖(えご)(小字名)     高柳新堀
高柳の南西部の矢部川付近に小字名である。江湖とは海水が出入りする川を称した。灌漑水の乏しい時代に樋門を設け満潮時は海水の上部にある淡水(アオ)を水田に引水した。下層の海水が浸入し始めると樋門を閉める。江湖に設けた井堰による灌漑法がとられ、その遺名が残ったのでしょう。上庄の江湖橋は矢部川の本流か、支流が上庄を中心として迂回していた頃、江湖があった所でしょう。
下里(小字名)         高柳新堀
矢部川の流れから見ると、高柳の集落の下(しも)にあたる集落の意味の起名でしょう。
土居ノ内(小字名)      高柳新堀
清掃センターのある付近です。ウチはフチ(縁)の転訛で矢部川の土居の縁の意の起名です。
高柳散田(小字名)(集落区名)       高柳
高柳の娘村にあたり、浜田集落に隣接する。律令制度時代の口分田や乗田に対して百性墾田、寺田、寺墾田、神田、庄田など公の水を使用しない田を散田と区別し免税していた。しかし瀬高町に所在する散田は公水の矢部川水系を使用しているので荘園時代の平民百姓に与えられた公事を負担する百姓名が大部分であったが、一部の領主直属の経営で、公事を負担しない免税土地散田であろう。
六反田・七反田・五ノ溝(小字名)      高柳散田
和銅8年(715)条里制が施工され、一戸または一つの集団に対して、五反、六反、七反の水田を班給した地域名で五ノ溝は灌漑水路の遺名です。
会田(あいだ)会町(あいまち)(小字名)   高柳散田
「アイ」、「アウ」は、出会う、集まることです。共同ですることを瀬高では「モヤイ」とも言って、「アイ」と語音が似ています。結局、数人の共同耕作地か、地主と小作人が収穫物を分けあった水田の意でしょう。
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浜田(大字名)(行政区名)
地名語源辞典には浜は「土堤。岸。」とあります。矢部川の河原周辺の湿地帯開拓水田の意です。現在、浜田一・浜田二の行政区名があります。
沖田(おぎだ)(集落名)     
浜田の北部の集落名です。オギ(沖)=オギ(荻)の当て字で、辞書には荻は「イネ科の多年草。原野の水辺に群生する。高さ2メートル内外。茎の下部は露出する。花穂はススキに似るが、大形で小穂に芒(のぎ) がない。メザマシグサ。ネザメグサ。[季]秋。」とある。矢部川の荻の茂る湿地帯を開拓して出来た集落です。
野田(小字名)     野田・沖田
沖田の西部と浜田の西部の2箇所にあり浜田西は以前は野田の集落名でした。ノダ(野田)はヌタの当て字です。ヌタとは今でも、汚いこと、汚いところを言います。結局湿地帯から生まれた地名です。
細工町(さいくまち)(小字名)     沖田
細工町とは発音に近い斎宮町(さいぐうまち)の当て字の変化であろう。神社のある集落または神領の意の地名です。
井釜口(いがまぐち)(小字名)     沖田
井は水路の意で釜は洞穴、滝の意もあります。灌漑用水路の水が吹き出る水路口のある所の意味です。開拓によりできた土地で浜田から分村した小集落で沖田散田とも称し、南小学校の南側に現在4軒の民家がある。
南里(なんり)(小字名)     南浜田
南浜田にあり集落の南部を意味する地名です。
古城 (小字名)          南浜田
享保2年(1530)鷹尾城の支城(砦)として、江の浦、津留、堀切、と共に築城されたもので鷹尾の本城と共に鷹尾五城と称した浜田城跡で東西十間半、南北二十一間半、平地より高きこと一間半である。今は竹が生え墓地となっている。浜田南の天満宮の北西側(金子宅)裏の辺りになる。
芦原(あしはら)(小字名)     北浜田
北大木の北側にあり、芦は葦(あし・よし)の当て字で湿地帯に葦が茂っている所の意の地名です。「葦」は辞典には、イネ科の多年草。根茎は地中をはい、沼や川の岸に大群落をつくる。高さは二〜三メートルになり、茎は堅く、円柱形で、細長い葉が互生する。穂は秋に出て紫色から紫褐色に変わる。若芽は食用になり、茎ですだれを作る。とある
吉原(よしはら)(小字名)     北浜田
浜田の西部にある。吉とは葦(よし・あし)のことで湿地帯に葦が茂っている所の意の地名です。葦(アシ)が「悪し」に通じるので反対語で言い換えた語である。ヨシの語は平安末以前には見えない語源とあります。
会田(かいだ)(小字名)     浜田
浜田の会田(かいだ)の会は開に通じることから開田で新開地の地名です。
江越(えごし)(小字名)     浜田
江は水路の意で越は水があふれる状態です。矢部川の水が満潮時には逆流する湿地帯の意です。
東津留(大字名)(行政区名)
ツルとは朝鮮から来た言語といわれ、水の曲流部にできた小平地を指し川の淀んだ所ということです。木に巻つく蔓と両語源がある。耕地・畑を意味する説もあるが、川の淀みが付近の田畑まで拡がったものと思います。正保2年(1645)に矢部川の蛇行(矢部川七曲りの一つ)を直線とした一大工事矢部川堀替工事)が行われ津留村が西津留(大和町)と東津留村に分断されたものです。鶴の付く地名も同じ意味の地名で長田の後鶴(うしろつる)・文広の名鶴・上庄の鶴崎がある。
柳瀬野(小字名)・ヤナ城(通称地名)     東津留南
漁法の梁(ヤナ)に関係した地名です。梁とは、川の瀬などで、杭を打ち並べ水が一ヵ所だけ流れるようにして、斜めに張った木や竹の篭で魚を受け捕らえる仕掛から地名が起こったでしょう。また江戸時代初期に柳川藩主宗茂の家臣の石橋重四六が津留の渡しの目付役を仰せつかって柳瀬野に住んでいた。寛永14年(1637)の暮れ12月に島原の乱が起こり藩主から出陣の用意をして家来と登城する際に緊急に作った食料のおこわ飯の「ひやくぞうさん」の語り草がある。柳川藩目付役重四六が住んでいたこの地を村の人は「ヤナ城」と呼び続けられている。
蜘手分(くもでぶん)(小字名)        東津留南
矢部川の堤防近くにあり、クモデの漁法から起こった地名と思います。地域がクモデに似ているからではの説もありますが、やはり漁法のクモデによる地名でしょう。
            

 矢部川河川の野焼き
金附免(かねつけめん)(小字名)        東津留南
寺の鐘や鐘楼の費用を捻出し、免は免税された土地の意で、この地名は寺院などの免税された土地の遺名です。泰仙寺にも鐘ノ免があり同じ意味の地名です。
衣掌町(小字名)      東津留
お坊さんの衣類費を調達した所の地名です。
       
泰仙寺(大字名)(行政区名)
泰=タイは「地名の語源」によると、海底の高み、などがあり、仙はセンで川の音に通ずる。したがって泰仙の地名は、川底が高まってできた台地から起こったと考えられる。ここは有明海が矢部川に湾入していたと考えられる所で矢部川と有明海の作用によって堆積した土地と考えられる。寛永16年(1639)津留村と同じく矢部川の蛇行(矢部川七曲りの一つ)を直線とした一大工事(矢部川堀替工事)鷹尾村は鷹尾(大和町)泰仙寺(瀬高町)に分断され、泰仙寺にあった鷹尾神社の神幸所を観音堂の傍に移す。現在の産土神「聖母宮」である。村名は泰仙という地名にある寺院名を村名にしたと思われる。
鐘ノ免(かねのめん)(小字名)    泰仙寺
寺の鐘や鐘楼の費用を捻出し、免は免税された土地の意で、この地名は寺院などの免税された土地の遺名です。東津留の金付免(かねつきめん)も同じです。
内開・外開・東開・下開(小字名)    泰仙寺
これらの地名は寛永16年(1639)矢部川の蛇行(矢部川七曲りの一つ)を直線とした一大工事によって開田された地名で川床跡で蛇行して連なる土地です。
高畝町・源正・鐘ノ免・上開(小字名)    泰仙寺
矢部川の蛇行の堀替え工事で矢部川の州だった開田土地で、元は矢部川の右岸にあった鷹尾集落の土地で、この集落の人々の菩提寺は鷹尾にあります。水田の水利も強い制約を受けるなど当時はよそ者扱いで大和町の鷹尾集落と深いつながりがありました。
芦高(小字名)    泰仙寺
(アシ)は同じ読みの葦(アシ)のことで矢部川の河畔に葦が茂っていた所の開拓地名です。
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河内(かわち)(大字名)
明治9年の町村合併により江戸時代の自然村の堀切村・吉里村・開村が合併して河内村ができました。辞書には河内とは、川の流域に開けた平地または川州(かしゅう)とある。現在は大字名として使用されています。
堀手ノ内(ほっでのうち)(小字名)  河内
中世において、荘園や公領を基盤ちして成長してきた武士団の屋敷または領地から起名したものです。その屋敷を堀切城といっていた。豪族屋敷を中心として、下人、作人の住居があり、事が起きれば、屋敷を拠点として兵火を支えたのです。
(おく)          河内
享保2年(1530)鷹尾城の支城として堀切城跡で三方掘割に囲まれた処にあった。天正15年他の支城と共に廃城となった。城と呼ぶより小さな砦の出城で戦があれば普段は農業を行う武士を集めて戦っていたであろう。現在の河野健一宅の敷地になり屋敷の周りに堀があったが北側のみ残っている。
松原(小字名)   堀切
堀切集落の北部の公道沿いにある。宗高神社に祀られている竹迫(たかば)種重宝永3年(1706)の墓が松原の地にあり、古くからの松の木がある墓場の地名思われます。
堀切(行政区名)       大字河内
河内の堀切には堀切城の所在した所として有名である。堀切とは掘割、切通しの意がありますが、軍事上の自然水路が巡らされ要塞の役目をしてたでしょう。飯江川の南対岸の高田町にも堀切集落があるが、二つの集落は元々、一つの集落の堀切が飯江川の延長工事で切り離されて出来た。または瀬高の「堀切」を本堀切と呼び高田町の方を裏堀切と呼んで区別していた。
(小字名)(集落名)        河内
河内の北部にある小集落名で、世界で一番短い地名です。水田化される前の野原の状況を示したものです。集落には子授け・安産の神様、木玉宮が祀ってある
苅分野(かりわけの)(小字名)   堀切
年々の収穫が不安定なために地主と小作人で成熟した作物を折半して刈取る方式の土地ではないかと思います。高柳の会田(あいだ)も似た起因をもつ地名でしょう。
対米(ついごめ)(小字名)     堀切
堀切の北側の「対米」は「対籠」から来たもので、やはり開拓地名です。東南方向にある「向籠(むかいごもり)」に対しての地名です。
芳野(よしの)(小字名)     堀切
八歳島集落北側にある地名で、芳は葦の当て字で葦の茂った河川敷を開拓した湿地帯地名です。
堀切集落の東部にある小字名。湿地の意味のエダ(エタ)の意でしょう。本郷に三ッ枝、大草に七ッ枝、松田に八ッ枝、高柳に投枝(ナゲシ)があり同類の地名であろう。
八歳島(はっさいじま)(小字名)(集落名)        河内
昔は初瀬島と呼んでいました。河内の八歳島→初瀬島は矢部川に入港する舟がはじめて瀬に出会ったことによる地名でしょう。この地域も開拓地です。河内の西側の飯江川沿いに八歳島・八歳島二・八歳島三の地名が連なっている。原亀男氏の瀬高地名考には「八には崖や端を意味する場合やほかに八幡神のように用いられる場合があり、歳には塞や斉田の意味があるようで、八幡社の祭田であったとも考えられるが、ここでは矢部川の端にある斉田の島という意味か。」とある。
川ノ内(かわのうち)(小字名)  河内
八歳島の東側に南東に飯江川と並行して長い3つの水田の区画が北から川ノ内三・川ノ内二・川ノ内一ある。地元では川ノ内をカワチと呼んでいる。開などと開拓を意味する語尾はありませんが現地の状況からして旧飯江川、矢部川の河床か低湿地帯の開拓され水田となった所です。大字の河内の名称の発祥の地とも思えます。
壱町籠(いっちょうごもり)(小字名)  河内
川ノ内と八歳島に接した飯江川の開拓地名です。「籠」は筑後川下流に多い開拓地名です。
向籠(むかいごもり)(小字名)    河内
飯江川の州であった竹葉の北側にあり、やはり「籠」は開拓を意するので飯江川の開拓地名です。籠の開拓地名は筑後川の周辺に多く見られます。
竹葉(たかば)カワダ(小字名) 堀切
堀切集落の南側の飯江川の州の遺名で、その地名域を通称地名としての「カワダ」が取り囲んでおります。これは、飯江川の蛇行を直線化する為の工事によって出現した地域です。工事前はカワダに川の流路があり竹葉はであったのです。竹葉の由来は、柳川藩20代藩主立花鑑茂の重臣で鳥見役であった竹迫(たかば)種重である。勤め後半病身になり、4丁6反を拝領して堀切村に居住す。現在竹葉という字名がこれである。竹葉(たかば)には竹迫種重を祀った宗高神社がある。
           

宗高神社
小路(小字名)(集落名)        河内
堀切集落を小道を北西に入った集落で、数本の小道を入り込むので小路の名が付いたのでしょう。裏小路入口の掘割には山森神社(やんぼっさん)が祀ってあります。
矢城(やかしろ)           河内
城の付く地名からここに見張り用の砦があったであろう。八歳宮の飯江川50m上流の古賀正巳宅の敷地である。
船津(ふなつ)小字名)          河内
河内地域には西部と東部と飯江川の丁字橋の西側に3ヶ所あります。津は港の意で舟着場のことです。橋が出来るまでは江浦(えのうら)への往来の舟着場でした。
丁子(ちょうし)(小字名)          河内
飯江川に架かる丁子橋の北側の水田です。丁は古語辞典によれば「公用の労働に使われるもの」とあり、丁子は「ようろご」といって公用の労働に従事する人夫達の意で、その人達が居住していた所であろう。しかし手水(てうず)や常路(ジョウジで傾斜地のこと)からの転訛も考えられる。江浦への往来の丁子橋はこの田んぼから起名されたものです。(原亀男氏の瀬高町地名考より引用)
小開(こびらき)(小字名)          河内
飯江川の丁子橋から西北に延びる開拓地です。「開」は開拓を意味する語尾です。飯江川の堀切の舟渡しはこの地の河岸の船津から江浦(えのうら)へ渡っていました。傍には舟の安全を祈り金毘羅が鎮座していましたが現在は公道に遷宮してあります。
          

金毘羅神社
三ノ家(みちえ)(小字名)     河内
開拓により出来た土地に3軒移住して分村してできた地名ですが、現在集落の痕跡は認められず水田化しています。水害などにより住居は安全地帯に移住したのでしょう。
熊代(くましろ)(小字名)     河内
河内の東、209号国道近くにある。動物名が付く珍しい地名だが、神社がもっていた神田の意である。同じ神社の水田の意の神代や神稲の地名がある。
(ひらき)(行政区名)    大字河内
瀬高町の南端になり高田町の岩津と接する所です。河内は矢部川や飯江川の川下にあたりは開墾地が多く存在する地域です。その開拓地の意の開を採用して集落の行政区名となったのでしょう。小字名の長町(おさまち)があります。
中島 ・出島 (小字名)          
開集落の西側の水田が中島、南側が出島の水田です。飯江川の州の状態の島を開拓した水田です。
篠葉原(しのはばる)(小字名)          
開集落の東側の地名で笹薮が生茂った地帯の意です。「篠とは山野に群生し、クマザサ・アズマネザサ・ミヤコザサ・ネザサなど種類が多い。葉は長楕円形で先がとがる。かご・ざる、その他細工物を作るのに用いられる」とある。瀬高地方には河川や水田の微高地に群生しており、細く、しなやか形から俗名「おなご(女)竹」と呼び、子供達が小刀を持って切り出しに行き、「突き鉄砲」の材料や七夕の飾り笹にしていた。
松ノ木(小字名)             
開集落の北側の地名で松木の林があった事による起名と思われます。
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太神(おおが)(大字名)
宇佐八幡宮の神職には宇佐氏、太神氏、辛島氏がありました。瀬高に来られたのは、そのうちの太神氏(おおみわ)だったのです。太神氏は舟で当地方に上陸したが、長島(おさじま)地方で、当分そこで居を構えていたので、一族の氏神として、今の太神宮を創建したのだと思います。その太神氏は次第に広田県(ひろたあがた)と称していた地方に勢力を延ばすに及び広田姓を称したものです。今の大字太神の地名は広田氏の改姓前である太神氏の遺名でしょう。時代は降りますが、律令時代において、一般庶民は口分田として一定の土地を班給されましたが、広田氏は功田として270町を与えられました。これは神亀元年(724)で、この年に広田八幡宮も創建されています。さて平安時代中期の『倭名類聚妙』に全国4041の郷にまじって、筑後国山門郡の太神、山門、草壁、鷹尾、大江の5郷が列記されている。この太神・山門・草壁郷の所在地が筑後の歴史家の間で不明とされていた。明治9年下小川、長島、井出ノ上の三村合併により該当地として比定され太神と名称されました。
井手ノ上(いでのうえ)(行政区名)   大字太神
井出は用水路、井堰の意味です。井手ノ上の集落は北から流れる立派な水路があり、三池街道筋の水郷の集落です。その灌漑水路の意の地名です。
                      

三池街道
小井手(小字名)        井手ノ上
水路の西際の土地名で、井出は用水路、井堰の意味です。そこを流れる灌漑用水の関係地名です。
銭亀(小字名)          井手ノ上
亀と関係ありそうですが、亀は神に通ずるところから、何かの神様との関係地名と思っています。
草葉・草木(小字名)          井手ノ上
井出ノ上の国道209号の西側に土地名です。昔は草木が生茂っている土地で、その草を肥料や牛馬の肥料にする為の採草地であったろう。
京手(きょうで)(小字名)          井手ノ上
井出ノ上の国道209号の北西端の土地名です。京手(キョウデ)は経田(キョウデ)のことで、読経料として寺へ寄附された田のことです。
下小川(しもおがわ)(行政区名)       大字太神
古来から京都に近い方を上(かみ)という慣習から小川地域の下(しも)にあたる地域の地名です。藩政時代は小川組が取り仕切ったことでしょう。現在の行政区名は下小川東・下小川西がある。
馬場先(小字名)         下小川
八幡神社の社領で、中世からの、騎馬術の訓練場だった所です。
余ノ図・西余ノ図(小字名)  下小川と栗の内にまたがる
荘園時代の平民百姓に与えられた公事を負担する百姓名が大部分であったが、一部の領主直属の経営で、公事を負担しない免税土地を余ノ図と呼んでいた。
                
耳切(みみきれ)築切(つききり)(小字名)  下小川
太神の北東部の端に耳切と築切の奇妙な地名がある。ミミとは瀬高地方では、カマギのミミなどと物の端を意味します。切(きり)は部分、一区画です。したがって端の方の開墾地に付けた地名ではないかと思います。築切の築は土を高く盛り上げたり、堤防を築造する意味をもちます。
                 
菖蒲(しょうぶ)(小字名)       下小川
下小川の新川と大根川の合流点にある。菖蒲の花園を想像しましたが関係なく、「ショウブ」とは水路または湿地のことです。北隣に落合(おちあい)の地名があり新川と大根川の落ち合った湿地帯のようです。
落合(おてあい・おてえ)(小字名)    下小川
藩政時代、灌漑上、山門、松田方面の余り水を再度利用して大江、太神方面をうるおす為にできた新川と大根川が落ち合う所、すなわち合流する地点です。1枚の田んぼの水が1ヶ所処に集まって流れ出るところを「オテミナクチ」と呼びます。落合は大きな地形における水の合流点でしょう。
福王寺(小字名)         下小川
下小川の北部に福王寺に関係する土地です。この寺名は岩津村(現・高田町)や溝口(筑後市)に日源上人(溝口や唐尾で和紙の製造を始めた和尚)が再興した寺があり、これらが大神村にあったか、あるいは関係あるかは不明です。
牟田・鉾田(小字名)         下小川
線路北東際の2ヶ所の田んぼ名で、牟田は湿地帯のヌタの田んぼの意です。鉾田は湿地の意の「フケ」のフがホの変化して出来た湿地帯の土地名です。
門前(小字名)         下小川
お寺の前の敷地の意です。妙光寺の寺の前の敷地のことでしょう。
町口(小字名)         下小川
下小川橋を渡った、公民館周辺の地名で集落の入口周辺を意味する地名です。
西方(小字名)         下小川
下小川集落にある下小川橋の西側集落を意味する地名です。
落合(小字名)         下小川
下小川の南東にある地名で、真木方面の水路と大根川の落ち合う、合流点の意の地名です。
築切(小字名)         下小川
小川の東にある地名で、「築(つく)」は土を高く盛り上げたり、堤防を築造したりすることをいいます。開拓により土盛りにより水路と畑を作り上げた所です。
宮園前(小字名)         下小川
大広園の宮園城の西南に隣接する所です。水路が迷路のように入り組んだ水城の宮園城の城内を意味する地名です。
久保田(小字名)         下小川
下小川の東端にあり宮園城の近くにある。久保田とは公文(クモン)田のことで、国郡の役所や荘園の役人に給された田のことです。

栗ノ内(小字名)(行政区名)  
本来の堀ノ内の「ホ」と栗ノ内の「ク」はともに酷似した発音法をとりますので、ホとクが入れ代りクリノウチに転訛したものです。中世において、荘園や公領を基盤ちして成長してきた武士団の屋敷または領地から起名したものです。豪族屋敷を中心として、下人、作人の住居があり、事が起きれば、屋敷を拠点として兵火を支えたのです。瀬高町にある屋敷地名も豪族屋敷を意味しますが、栗ノ内地名が後に起名されたと思います。
            
稲荷(小字名)       栗の内
栗ノ内の南東部の水田地帯に稲荷神社を祀ってある所の地名です。現在も稲荷神を祀ってあるそうです。
神楽田(小字名)     栗の内
鬼木の西側の土地名で神を司るための水田(神田)の意であろう。
             
鬼木(おにき)(小字名)   栗の内
辞書には「鬼」は姿が見えない意の「隠」の字音「おん」の転という。地上の国つ神荒ぶる神人にたたりをする怪物。とある。鬼木は正月用の薪。年木(としぎ)。とある。南校区の鬼木は神を司る場所の意と推測する。こうやの宮がある所で異国風の服を着て「七支刀」を持った男神が祀られて鬼木部落の人達が先祖代々氏神として祀り続けている。
             
馬渡(小字名)      栗の内
鬼木集落の南方にあり馬でなければ渡れなかった湿地帯だった所です。
            
長島(おさじま)(行政区名)     大字太神
地名語源辞典にはオサ(長)の語源は首長・頭首・長官・長・かしらなどの意とある。島は田のある所、川沿いの耕地または村とある。また長(オサ)はもとヲサ(wosa)であって、琉球では父や祖父の事をアサという。参考に北欧神話では神を呼ぶのにAsaを冠してAsa Loki, Asa Odin, Asa Tyrなどと呼ぶとある。瀬高町の長島は古代史跡多く、七支刀を持つ御神体のある、こうやの宮・自然石を祀る田中の宮、神話漂う釣天宮などがある神々の住む所とされて来たが、神を祀る村の意がぴったりであろう。
天神(小字名)      長島
長島の南端にありここには天満神社が無いことから、河内の開に接するので河内の開の天満宮と関係した地名であろう。東方の近くには田中の宮を祀る祠がある。
日出(ひいで)小字名)   長島
飯江川の北側にありよく乾燥する微高地に付けた地名です。日がよく当たるなどの気象的地名ではありません。この地は大木が茂り森に田中の宮が祀られていたそうです。現在は伐採されています。
釣殿(小字名)      長島
飯江川と大根川の合流点の西側一帯の地名です。釣殿宮がある場所を意味する地名です。
石佛(小字名)      長島
中小路にある養福寺の境内で現在、通りにお堂があり、ほかは水田になっています。永禄2年(1559)戦国時代肥前竜造寺隆信が本吉清水寺を焼き払った時と同じ頃、焼打ちに合いに、仏像や石仏などは近くの堀に投げ込んでしまったと伝えられている。その後再建されなく柳川に移っている。
                            
宮ノ前(小字名)     長島
太神宮の南側の水田一帯の地名です。神社領に付けられた地名です。。
茅津(小字名)         宇津
宇津集落の小字名です。茅とは「屋根をふく材料とする草。イネ科のススキ・チガヤやカヤツリグサ科のスゲなどの総称」とある。ツ(津)とは舟着場、港のことで、開拓前の茅(かや)が茂った舟着場の意です。
道山(どうせん)(小字名)    宇津
宇津集落の南側にあり高田町の岩津の山沿いに道路のある地名のことです。
大江前(小字名)         宇津
宇津集落の南端にあり飯江川の河口の前の土地の意です。古代、すぐそこまで海が入りこんでいた頃の起名と推測します。
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大広園(おおひろぞん)(大字名)        堀池園(小川)・上園(金栗)・宮園前(下小川)
園の地名は大広園の大字名、小川の堀池園は集落名、一般地名に、大広園の地園、金栗の上園、下小川の宮園前などがあります。当地方では園をソノと呼ばずゾンと通称します。「園」地名は大広園、小川、太神地方に偏在しているのは、広田氏の領地だった、広田県(あがた)との関係でしょう。「園」とは大化改新前代からの土地制度で、私有土地とされる宅地園地から発したものです。大宝律令(702)によって、水田は明確に私有を許されなかったが、園宅地は売冗、質入ができたにですが、桑、漆などを植える義務がありました。広田氏は自力によって、課税義務のない広大な園地を開拓して経済地盤を築いたものと思います。原亀男氏の瀬高地名考では「神社に属する菜園と考えられ、大と広には特に意味はなく形容詞の「大きい」「広い」であろう。」とある。
広安(ひろやす)(通称名)(行政区名)       松田
広安の広は、大広園から取ったもの、安はヤス(湿地帯の意)に宛てたものでしょう。戦国時代に武士の砦の広安館があり大木城の支城の役目を果たしていました。ここには鉱泉の浴場があり湧水は鉄分が多く、皮膚病には、すばらしく効くそうです。一度ためしてみませんか。瀬高町民でもこの浴場を知らない人が意外に多いのは残念です。静かな湯舟の中では、社会と家庭のトラブルから離れ、心の優しさを晴らす湯客の会話が流れています。ここは北大木集落の北側ですが、18軒位の集落ですが正確には大字松田になるそうです。
館跡 広安の湯
大木 大木の内・キンド・寺屋敷(小字名)  北大木
瀬高町で人名が地名になったのに、大木の集落がある。中世の豪族大木氏が居城(大木城)したことによるものです。城は東西160m、南北90m面積4000坪である。大木の内(本丸)、陣畑の字名やキンド(城戸)、寺屋敷(大木氏の菩提寺跡)などの地名が残っている。だが、その大木氏の本来は宇都宮姓で、三潴郡の大木村に来てから大木氏を名乗っているので、元は地名が先といえる。
大木城跡のある地域を北大木で宮園城跡の東の地域を南大木の行政区となっています。

                

 大木城跡
(つじ)(小字名)        北大木
北大木集落の西端にあり辻の意味は交差路だがそんな所でないので、石垣(ついじ)などと音声が似ていることから垣添と類似の、集落の境界的意味をするものと思います。
栗田(小字名)           北大木
北大木の東方の水田にあります。ぐり石、つまり砂原ではなく礫がごろごろしていた原に付けられたものです。
鮒取(ふなとり)(小字名)     宮園散田
大広園散田の北東にあり、条理制遺構の一画です。そこには東西に延びる大きな溝があり、鮒などの淡水魚が盛んに捕獲されたのでしょう。この地名は正しく鮒に起因するものです。
村中(小字名)           宮園
宮園城から村中に通ずる所の城外の土地です。現在大根川の村中橋があり東照寺の第3駐車場のある地域です。
肥後町(小字名)         宮園
宮園城跡の北側にある地名です。中世において、肥後(熊本)の菊池氏が度々瀬高地方で、大友氏等と戦いました。そうした関係で、肥後の人々が移り住んだか、一時的にも、菊池氏の館があったことによる遺名と考えられる。長田の山添付近にもあります。
城畑(しこばた)(小字名)      宮園
室町時代の初期(1394〜)築城された宮園城があった所武士団の屋敷があった所です。周りには堀や石垣が現存している。豊臣秀吉の九州征伐。新領地配当により廃城になるまで約200年間今村氏の居城であった。宮園城の本丸の堀を挟んで南東の城内あたる。
地薗(小字名)       宮園
宮園城の本丸や二の丸の堀を挟んで北東の城内にあたる。
寺道 (小字名)       宮園
宮園城の東照寺があった所です。
射場ノ元(いばのもと)(小字名) 南大木
中世からの、騎馬術の訓練場だった所です。宮園城を防衛する武士達が、流鏑馬(やぶさめ)と称して、馬を走らせながら、次々に的を射る競技の訓練をした所です。
武士田(小字名)       南大木
宮園城の武士に与えられた水田です。
門田(かどた)(小字名)     南大木
宮園城跡の東側にあり、名主などの有力者が、領主から免田として認められた肥大な土地の遺名です。その中には領主の直営田で、下人に耕作させていたのもあるようです。
八ッ家(やつえ)(小字名)    南大木
開拓して出来た土地に8軒が移り住んで分村した地名です。現在2軒だけ残っていて、かっての住所跡は水田化されていますが、日当たりがよく、防風林なども残存して5,6軒の住居のあったことが推定されます。
蓮輪(小字名)         南大木
南大木の北方の田んぼにあり。この付近の堀に、今でも少しは蓮の花が見られるから、蓮と関係あると土地の人は話してくれました。   
宮園(行政区名)
行政区の名称で宮園は現在東照寺のある宮園城跡周辺の集落です。
宮園散田(みやぞのさんでん)(通称名) 宮園
宮園散田は大広園の東端、松田集落に近い集落で、宮園の娘村ですが現在の土地台帳には記載が見当たりません。開拓により宮園から移り住んだ村で、散田は領主直属の経営で、公事を負担しない免税土地の意で小字名としてあったのでしょう。20軒以上の集落だが行政区は離れている宮園になっていて車で集会に行くそうです。
(つくだ)(小字名)       大広園
大広園の南東部にあります。語源字典には「佃」は作り田または中世領主の直轄地とある。ここの場合は地頭の直轄地で、年毎に農民に分与して耕作させていた土地の遺名です。
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                大江校区編
大江(おおえ)(大字名)(行政区名)
本来、「江」は中国の「楊子江」「黒龍江」など大海の入り江の名称に用いられていたが、転じて「かわ」の総称となって、上海周辺の江南文化と共に渡来し、北方文化は後に渡来した。大江周辺は古代、有明海がこの辺まで侵入した、矢部川の河口と考えられる「大」は大きいの意味だが、これは尊称、美称、敬称で自分達の土地.村を誇りとし、敬い尊んでいた証である。古老は大江を「うーえ」と昭和初期までは呼んでおった。多いことを「ウーカ」大変な事になった、は「ウーゴチ」なつたなど「大」は多いの意味もある。
湯ノ上、湯尻(小字名)      大江
大江集落の所在する所で大江天満宮の東入口に湯ノ上橋があります。平安末期から中世にかけて、地方豪族、小領首、名主などの血族、使用人が住んでいた所です。大江では中世が名主、近世では庄屋の住居ということになります。湯の付く地名なので過去に温泉が湧き出しているとか、温泉場と考えられる。それから集落の東側に峯の元(水のもと)などあり、大江は聖なる水が豊富に湧き出し生活を潤していた村です。
宮脇(小字名)      大江
神社の(大江天満宮)の所在を示す地名です。
三条府
奈良時代の和銅8年(715)、土地区画整理として条里制の施工の関係役所があった所でしょう。大江集落の東の十字路の橋に三条府橋が存在しています。
小森(小字名)      大江
大江天満宮の傍の湯ノ上橋の東の所です。地名語辞典には「コモリ」は湿地・干拓地の意とあります。湿地を開拓して水田にしたのでしょう。小さな森の存在を想像していましたがコモリに小森を宛がった地名でした。
平木(小字名)      大江
大江集落の東側にある所です。地名語辞典には「ヒラキ」は新開地の意とあります。やはり湿地か荒地を開拓した水田です。
過田(小字名)      大江
大江集落の東側にある所です。これはガタ(湿地)地を開拓した水田です。
北牧(小字名)真木(行政区名)  
真木集落の北西の所です。北牧(きたまき)の地名は、真木として集落名になっております。これは領主の直径牧場で年貢の減免された所です。牧の制度は律令時代に始まり、軍馬、駅馬を飼育していました。中世、近世に至っても、この制度は残ったようです。
               
屋敷内、東屋敷(小字名)    真木
真木の集落の所在する所です。東屋敷は屋敷内で分家した結果でしょう。平安末期から中世にかけて、地方豪族、小領首、名主などの血族、使用人が住んでいた所です。大江では中世が名主、近世では庄屋の住居ということになります。瀬高では、ほかの集落でも屋敷地名があるが多くは大宰府などの荘園だった所であった。
長田・竜田(小字名)       大江・真木
大江集落の東方に長田(ナガタ)、真木集落の西方に竜田(タッタ)の地名があり、雨を呼ぶ竜神、水神との関係地名です。長は蛇の意でインドから東南アジアを経て日本に上陸したのであろう。竜は中国か、朝鮮半島経由して日本に上陸した。インドのナガが中国に上陸して竜に変化したものであるので日本には長より遅く上陸している。有明文化圏の稲作民族は水を恵む竜神、水神を信仰し、インド、東南アジア、中国江南地方の文化を継承した竜文化の宝庫である。蛇踊り、竜船競争大蛇の眼玉取り、竜の変形とされるカッパの伝承など切がありません。
五反田・八ノ坪(小字名)  真木
奈良時代の和銅8年(715)、土地区画整理として条里制が施工され、班給された水田の遺名です。     
初田(はつた)(小字名)     真木
大江の西方の水田です。「ハツ」は開拓を意味し、湿地帯の開拓による水田の意です。
榎町(小字名)     真木
ここは三池街道の通る所で街道の真木集落の道しるべに植えてあったのでしょう。水路を横切る国道209号の橋が榎町橋です。「榎」を字典には「ニレ科の落葉高木。高さ二〇メートルに達する。葉は非相称の卵円形。初夏、淡黄色の雌花と雄花をつけ、秋に橙(だいだい)色で小豆大の甘い実を結ぶ。江戸時代には街道の一里塚に植えられた。」とある。
井釜口(小字名)     真木
真木集落の北西三池街道沿いにあります。奈良時代の和銅8年(715)、土地区画整理として条里制が施工され、班給された灌漑用水の遺名です。
             

真木集落北入口(三池街道)
芙蓉(ふよう)(小字名)          真木
真木の東端の水田地帯の一画で芙蓉は蓮の別名です。湿地帯には蓮が良く栽培され蓮の地名が生まれた。その後、蓮地名が芙蓉地名への転化は、大江の学ある方が村の発展を念じて、美的地名に創意決定されたであろう。その外、湿地帯名として、過田(ガタ)、深町、フケ、牟田、鉾田など数え切れない程の種類があります。
有富(ありどみ)(行政区名)          
有富集落は公的にはアリドミと呼びますが通称はアツヅミと促音にします。この呼び方が本来のものでしょう。そのよび名は安曇(アズミ)からでたということが定説になっております。アズミとは安曇氏からでたもので、安曇氏は律令制以前の社会において、大和朝廷に対して海産物を貢納していた豪族名です。諸国の海人はこの安曇にひきいられ、海部(アマベ)として下働きをしていたものです。したがって、この地方にも、海産物を取り扱つていた人々が住んでいて、安曇の支配下にあったのでしょう。有冨集落には、海部、海人族のシンボルとされるカッパを祀った若宮神社があります。ほかにもカッパを神体とした小堂が瀬高の南部地域にあちこちあります。この海人族とは南方系の人種とされております。
宮ノ前(小字名)     有富
有富集落の北側にあります。現在の若宮神社の入口周辺を示す地名です。
鳥元(小字名)      有富
鳥=鳥居のことで、鳥居のある所の意の地名で、現在の若宮神社の所在地を示す地名です。
栗ノ内(小字名)     有富
有富集落の所在する所です。屋敷名でなく武士団の屋敷または領地の栗ノ内の名があり古代から豪族が住み続けた証でしょうか。
             
松田(大字名)(行政区名)
明治9年(1876)に松延村と北広田村が町村合併により、松延の松と北広田の田を取り松田村が誕生したものです。松延城には松並木があり、城下町の風格があり、周りには条理制時代からの田んぼが広がっていたのでしょう。ちなみに南広田は在力(ざいりき)村と合併して清水に変わりました。
本丸・東二の丸・西二の丸・北三の丸・南三の丸・城内・近代寺・今屋敷・北屋敷(小字名)  松田
戦乱の安土桃山時代に山下城の蒲池に協力し、肥前(佐賀)の竜造寺の攻撃に備えて1584年に築城された松延城の跡は、松延の北部にある天満神社の西方に位置し、現在、小高い丘陵地で竹藪となり、僅かながら昔の面影を残している。今に残る城の所在を示す小字名で松延城の構成が解る。江戸初期の1615年、幕府の「一国一城の令」で廃城になった。この広大な城内を囲む外堀の南部には、今屋敷掛畑(北屋敷)があり樺島家・中山家・古賀家・金子家・峰谷家の武家屋敷があったが維新後は生活も困窮し、皆この地を去られた。ざるを作ったり、魚売りをしていたと伝えられている。樺島家は立花家に忠節を尽くし畳め、大庄屋の永代世襲の待遇を受けて勤めた。 
             

松延城跡
寺田・前田(小字名)            松田
県道沿いにある大祥寺の寺領の小字地名です。大祥寺は元禄14年(1701)大竹の二尊寺の依頼により、鷹尾村の大祥寺(1324年頃の創建)を松延村へ移転したと立花家の記録にある。
佐ノ恵・大坪・六反田(小字名)     松田
松田の西一帯にある水田に存在する小字名の田んぼです。筑後地方で和銅8年(715)、土地区画整理として条里制が施工され、班給された水田の遺名です。
八ッ枝(やつえ)小字名)            松田
開拓して出来た土地に8軒が移り住んで分村した地名です。大祥寺の南側に当たりますが水田化して住居はありません。古老によると住居の存在した記憶はないが墓地跡があるから人家があったと思われるそうです。ここは微高地が残っており昔の住居を偲ぶことができます。
鎧町(よろいまち)鍛冶町(かじまち)(小字名)  松田
農具、鎧の職人が住んでいた町、または彼らに耕作させていた土地からの起名と思います。松延城の南方にあることから武士の戦の道具などの製作もしていたと考えられる。
扇子町(小字名)  松田
鎧町や鍛冶町のある地域で扇子職人が住んでいた地名でしょう。
長別当(小字名)  松田
山川方面に行く県道443号の近くの地名です。役人が住んでいた地名です。
北広田(行政区名)
広い田の意の地名です。藩政時代は北広田村と呼んで歴史ある村です。
大町(小字名)                北広田
広い町の意もあるので薩摩街道筋で栄えた宿場町ではないでしょうか。
前町(小字名)                 北広田
名主などの有力者が領主から免田として認められた肥沃な土地の遺名です。
栗田(くっだ)(小字名)                北広田
松田の西部の水田にあり、ぐり石、つまり砂原ではなく礫がごろごろしていた原に付けられたものです。
野間(小字名)                北広田
北広田の北東端、朝日集落の南方にあります。ノマとは沼地、ヌマの転訛したもので沼地だった土地の名残りです。
五安田(ごあんだ)(小字名)                北広田
北広田の北東端の野間の西側の地名です。地名の語源にはヤ(沼地)ス(州)から沼地とある。湿地を開拓した水田の意でしょう。
(小字名)                北広田
ミドリは@緑して存在する集落A風が激しく耳が取れそうな所Bミドロ(湿地)の意があるが周辺の地形からみて湿地を意する地名です。
鳥町(小字名)                北広田
鳥=鳥居のことで、鳥居のある所の意の地名です。944年の高良神名帳に「泉澄神」があり、そのお宮の鳥居であろうか。
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小川(大字名) 上小川(行政区名)
大字の小川は、ほかの地域の小さい川に付けられた意味の小字名の川の地名でなく、小は有難く尊称した「オ」を意味する地名です。返済川と坂田方面からの水系が流れる所の地名です。
家下(かげ)(小字名)    下小川
大江方面に行く道の西側の地名です。カゲ(家下)は陰のことで、日の当たらない日陰の意の地名です。
鈴木(小字名)    下小川
大江方面に行く道の東側の古屋敷の東裏の水田の地名です。鈴木は姓として全国に多いですが、ここの鈴木=ススキの転訛と考えてみました。西方に日の当たらない意の「カゲ」の地名や、南隣の「中津留」や「池」の湿地地名からススキや大木が茂る荒地と推測しました。
古屋敷(小字名)    下小川
大江方面に行く道の両側の地名です。小川の豪族が住んだ広大な屋敷の意でしょう。光福寺東隣にあるので関連がありそうな感じがします。
光福寺(小字名)    下小川
上小川の西側の線路の東側の水田です。光福寺があった記録は残っていないが、小字地形図から相当大きな寺院、光福寺があったのでしょう。
西ノ内(小字名)    下小川
光福寺に隣接した敷地を意する地名です。南南西側に隣接しているが仏教伝来地を意識して西の名を起名したのでしょうか。
板瀬川(小字名)    下小川
金栗集落の東の鹿児島本線の一帯の水田地帯の地名で洪水時に水が逆流したことから起名されたとのことです。
垣添(かきぞえ)(小字名) 下小川
下小川の南端の水田地帯にある。集落を限る境界の垣根らしき所に付けられた地名です。
有富前(小字名)    下小川
有富集落の領地を意する地名と思います。
築廻(つくもじ)東町(行政区名)  小川
築廻の「築(つく)」は土を高く盛り上げたり、堤防を築造したりすることをいいます。「廻り」とは一つの場所を示す意味ですから、開拓地に付けた地名ではないかと思います。明治24年頃、築廻(つくもじ)の地名が東町に改名され現在、行政区名となっています。
巡礼(じゅんれい)(小字名)  東町
上小川の肥後街道の南側の道筋の地名です。春と秋のお彼岸に巡礼のお遍路さんが立ち寄る所の意でしょう。上小川には観音菩薩の板碑のある地蔵堂があり遠くからの巡礼者が訪れる商業地でした。
飛竜(小字名)      東町    
東町にある小字名の地名である。飛竜の表意は天に昇る竜のことです。「飛竜乗雲」の言葉の一部を利用したと思われます。飛竜乗雲とは英雄が時に乗じて勢を得るたとえだそうです。学問ある武士か、僧侶が名付けたかもしれません。
小川橋(小字名)    東町    
上小川の県道443号を潜る川の北側の小字名です。返済川と坂田方面からの水系などが入込んだ所の橋の意である。
大堀(小字名)    東町 
上小川の県道443号を潜る返済川の北側の樋口神社まである広い土地の地名です。古来ここに返済川の水が入り込む堀があったのでしょう。
合ノ瀬(小字名)     東町
矢部川の支流が網目のごとく流れ合流する所の地名です。
川原手(小字名)     東町
東町から吉井方面に行く右側の水田です。川原の砂利の荒地を開拓した地名です。
早田(わだ)(小字名)     東町
川原手の西隣の所です。地名語源辞典にワダは川の曲流部などの、やや広い円みのある平地とあります。
吉井(小字名)(行政区名) 小川
満福寺正面から東に入る旧薩州街道沿いの小字名である。住み良い集落の意の地名でしょう。
宮前(小字名)       吉井
上小川八幡神社(寺中神社)の入口の敷地の地名であり。鷹尾文書にも「正八幡宮」とあり、かなりの格式と歴史をもった神社であり、寺中神社の前を表す意の地名で広大な土地に鎮座してあったことが解る。
寺中(小字名)       吉井
上小川八幡神社は貞観2年(860)頃には寺中神社と呼び樋口神社と共に各荘園の行政事務と祭祀を行っている。寺中神社が鎮座していたことによる起名です。
汐湯川(小字名)      吉井
大字小川の東南地域吉井の隣にに汐湯川の地名がある。過去に温泉が湧き出しているとか、温泉場と考えられ、「汐」という形容詞までつけて具体的に説明している。
日之出(小字名)      吉井
吉井集落の南側の所です。日が良く当たる土地の意でしょう。
堀池園(行政区名)堀池園 上園(小字名)小川金栗  
園の地名は堀池園は集落名、小川金栗の上園は小字名です。当地方では園をソノと呼ばずゾンと通称します。「園」地名は大広園、小川、太神地方に偏在しているのは、広田氏の領地だった、広田県との関係でしょう。「園」とは大化改新前代からの土地制度で、私有土地とされる宅地園地から発したものです。大宝律令(702)によって、水田は明確に私有を許されなかったが、園宅地は売冗、質入ができたにですが、桑、漆などを植える義務がありました。広田氏は自力によって、課税義務のない広大な園地を開拓して経済地盤を築いたものと思います。大広園(大字)堀池園(小川)・上園(金栗)・宮園前(下小川)があります。
               堀池園集落
印鑰(いんやく)(小字名)  堀池園 
印鑰の地名が堀池園にあります。ここは樋口神社の東南部の水田地帯ですが、返済川の河岸段丘で広い平坦地で役所の立地に格好の所です。大宝1年(701)頃に朝廷が堀池園に園池司(えんちつかさ)を置いたとある。貞観2年(860)頃には上小川の寺中神社(吉井の上小川八幡神社)ともに各荘園の行政事務と祭祀を行っている。朝廷の徴税機関の役所や荘園の行政をやっていた所です。ここにある印鑰神社が役所の所在を証明しています。
               
印鑰天満神社
土穴(小字名)        堀池園 
返済川と坂田方面からの水系が合流する所で重要です。おそらく両水系をつなぐ地下式の樋管でもあったかと想像しています。
家下畑(かげはた)(小字名)  堀池園 
樋口神社の東側の畑です。カゲ(家下)は陰のことで、日の当たらない日陰の畑の意の地名です。
川原(小字名)        堀池園  
矢部川の支流が網目のごとく流れ、雨期になれば氾濫し平野の中に支流が勝手気ままに流れていた時代の川にまつわる地名です。大江集落の川原の小字名も同じです。
馬喰(ばくろう)(小字名)       堀池園 
堀池園の東部村はずれの返済川に沿った地域で、矢部川の氾濫原で荒腐していた所です。馬喰が活躍した馬の市場などあったと考えられません。役場の台帳では馬喰でなく馬九郎となっています。馬九郎なる者が、近世にこの地を開拓し、その開拓者にちなんでその地名を「馬九郎」と呼んだのでしょう。
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               清水校区編
本吉から上庄にかけての中部地帯は条理制の六ノ江などの遺構、遺名が所在しています。条理制破壊後の仏町・釈迦町・八幡田など多くみられます。
山門(大字名)
地名語源には山門とは山のある所。山の間、山地への入口とある。鏡完二氏の解説はマライ語でヤマツアン(王、主権者)、ヤマツ(王者の土地)とある。瀬高町は邪馬台国の邪馬台国のヤマト(倭)のトの発音で甲類の山門でなく、倭と同音乙類の大和をとり、倭=大和としているが、ヤマトの呼び名にずっと後の時代の日本での漢字の当て字であるから、漢字の発音説は不自然、不適格であると思う。
平安時代中期の『倭名類聚妙』に全国4041の郷にまじって、筑後国山門郡の山門、草壁、太神、鷹尾、大江の5郷が列記されている。1841年の「大宰府管内志」には「この郷(山門・草壁・太神、今は廃れてその名伝ハらずと書かれている。この山門・草壁・太神郷の所在地が筑後の歴史家の間で不明とされていた。明治9年に、藤ノ尾、堤、朝日の合併にともなう新村名として地域の人々により当該地として比定され、名称された。
藤ノ尾(ふじのお)(行政区名) 山門
物、地域の端の方を「ふち」と言います。その「渕の尾」和銅6年から平安中期(927)にかけ律令政府が行政地名の統一にて「諸国(くにぐに)の郡(こほり)・郷(さと)の名(な)は、好(よ)き字を着けしむ」(続日本紀)とある。良い字を付けよの改名政策に応じて清楚な花の「藤」に変化したものと思います。かって、この集落に藤ノ花が咲いていた記録でもあれば、この推定は誤りになりますが。現在、車塚の上に藤の花の棚が作られていますが、やはり藤ノ花が咲いていた集落だったから藤ノ尾の名が付いたとの希望的、夢があるのかもしれません。
車塚(小字名)       藤ノ尾
藤ノ尾集落の県道の北側100m位にある前方後円墳です。車塚の名は塚の形が御所車の車輪に似ていたからの説と神功皇后あるいは藩主・立花宗茂公の車を止めたからの説がある。古代、神功皇后田油津姫を討つ時に、有明海から北上して矢部川に入り高尾嶋(大和町鷹尾)に上陸した。それから多くの部下と共に藤尾部落に着き車を止め軍議をした所との伝説がある。
     御所車
天神林      藤ノ尾
天満神社に係る地名です。ここに天神さんがあった記録は無いので、堤の天満神社か堀池園の天満神社に関係する神田であろうと思われる。
因幡(小字名)       山門
神話伝説でもありそうな地名ですね。車塚の東側にある納骨堂の東一帯の地名で、昭和後期に地下げして畑から水田にし、弥生時代の遺跡が発掘された所です。イナバ(因幡)=イナバ(稲場)で、竹や木を組んだ、刈った稲を掛けて乾かす設備の稲掛が普及前に、稲干場とした所で、平素は芝草地になっていた意の地名です。でもうまく漢字を当てはめたものですね感心しました。
横枕(小字名)       山門
昼寝できそうな地名ですね。車塚の北側、変電所や横枕橋付近の地名です。因幡の地名の北側にある返済川と自然堤防との狭間の水田地帯です。開墾地の地割をするに当たって地形の都合上幹線に並行して割ることのできぬ、大部分の田畑の上端に長い形の地面にできた所です。
垣添(かきぞえ)(小字名)   山門
藤ノ尾集落の東部の水田にあり、集落を限る境界の垣根らしき所に付けられた地名です。ほかの集落でも多くみられます。
(つつみ(行政区名)   山門
地名語源にはツツミは堤、溜池とある。微高地の古墳群の上に集落があります。集落南方には清水山からの副流水が湧く堤がありそれが集落名になったと思います。堤からの湧水は灌漑用水に利用されていましたが、現在は水路が整備され、安全上の問題から埋め立てられました。堤集落は古代の10ヶ所の巨石古墳群があり卑弥呼の墓とも言い伝えがあります。巨岩の古墳からは昔から金の副葬品が出土してきました。
       
      
上久保田(かみくぼち)・下久保田(小字名) 
堤集落に入る北側の道路の両脇の水田地名です。クボは窪地の意で湿地の水田の起名です。
鬼田・御二田     山門
堤と朝日の境の北方にある水田です。ニタはヌタとともに湿地の意で両地名とも、ニタに漢字を宛がった湿地地名です。
河原(ごうら)         山門
鬼田や御二田の北側の地名です。ゴーラは石地・砂地、石がごろごろしている所とあります。東側の川からの氾濫地でしょう。
東塚原・西塚原(小字名) 
原は集落のことで、塚のある村と解すべきでしょう。堤集落全体が古墳の上にあり、卑弥呼の墓ではないかと、言われています。
巨石古墳
三十六(さんじゅうろく)(小字名)       
数学の答えみたいな地名ですね。堤集落の南500m位にあり、周辺は弥三町、ケソウ田などの湿地の意の小字名のある大変な湿地帯だったそうです。ミドロの湿地を意味する語に三十六を宛て、当初ミドロと呼んでいたのを、いつからか数字読みの36に変ったものと思います。あるいは条里制が施工され、班給された水田であろう。
大正時代はこの一帯の湿地を「じゅっ田んぼ」と呼びレンコンの栽培をしていたそうです。子供はレンコンの実をおやつ代わりに食べていたそうです。現在は七生寺という自然堤防の土砂を埋め湿地が改善されてハウス栽培が盛んです。
             
七生寺(小字名)       
堤集落の南500m位にあり、七生寺という寺があったか、寺領があったのでしょう。記録には残っていません。
前田(まえだ)(小字名)     
堤集落の南西部、三十六の地名の西方にある。名主などの有力者が領主から免田として認められた肥沃な土地の遺名です。この地は松延城の傍にあるので、城に関連した土地でしょう。
城内(小字名)        山門
松延城の北側にあり城の敷地を意する地名です。
朝日(行政区名)       山門
今はアサヒと一般的に呼び、朝日集落の人々でさえアサヒと呼ぶのが本来であるかのように思われていますが、昔はほとんどの人がアセと言っておりました。この呼び名が古来からのものです。朝日集落は自然堤防の微高地にありますが、その周辺の水田は、かっての矢部川氾濫原でありました。今でも地面を少し掘れば砂利層があり浅い瀬のあったことを物語つています。和銅6年から平安中期(927)にかけ朝廷の政府の良い字を付けよの改名政策に応じて浅い瀬→浅瀬→アセと呼んでいたのを、朝日に改名したものと思います。
東小路・西小路(小字名)    朝日
朝日集落の小字名です。辞書には「幅の狭い道。町なかの狭い通り。」とあります。朝日集落の入り組んだ路地からの起名で、方角で二分した地域があります。
久留原(小字名)    朝日
朝日集落の県道の北側の地名です。クルは小平地を意する地名です。朝日の8世帯位の家がある場所です。
幸賀(こうが)(小字名)    朝日
現在の直線の県道は昔は朝日集落の東側で一旦南に曲がりすぐに元の本吉方面に向っている。その曲がり角の場所です。コーガは村内の小区画の名あるいは古家の意の地名だそうです。朝日集落の県道の北側の住宅地の意の起名です。
           

垣添(かきぞえ)(小字名)   朝日
朝日集落の東部の水田地帯にあり、集落を限る境界の垣根らしき所に付けられた地名です。
寺門(てらかど)(小字名)    朝日
朝日集落の東側の境界の意の「垣添」の土地の東側にある地名です。現状は墓地跡で微高地ですから大きな寺院があった所と思います。
北バハスワ(小字名)       朝日
山門のハスワは朝日集落の南部水田にあり、北広田境界付近地にあり、条理制実施のはずれになるようです。「ハスワ」とは着物でいえば裾などを縫い合わせるつなぎ目を補強する為に使用する布切れのことで、この地名は異なる地形や境界につけたもので、または蓮も連想できるので湿地帯の意もありそうです。
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本吉(もとよし)(大字名)(行政区名)
「清水山麓に横たわり、条理制遺構がある地域です。古くから開けた「本吉庄」の土地である。本は「山もと」、「ふもと」の意で吉は葦(よし)の生えた湿地を意味する。ヨシは芦(あし)が悪いに通ずるので反対語で言い換えたものという。当地の小字名には湿地や低を意味するものが多く、古くから水田稲作に適していた為と考えられる。」と原亀男氏は解釈している。
本吉は古くから清水寺の門前町として、あるいは旧街道筋の宿場町として栄えた集落です。
三軒屋(通称名)本吉・県道柳川からの本吉入口八剣神社周辺
本吉で始めて雉子車をを作ったのは最澄が中国の唐から連れてきた竹本王で日本名を竹本翁吉と名付け清水の地に住まわせた。彼の子供が3人出来たので、それぞれ三軒の家を作って分家させたのがこの地であり現在も三軒屋の由来の地名が残る。
          
新町(通称名)  本吉・八坂神社周辺
寛保2年(1742)の柳川藩の記録に「本吉村に20軒の商家を新設し、清水参拝者の便に供す。これを本吉新町と称す」とある。女山の梅野六之平は私財を投じて清水寺参詣人の便宜をはかるため、旅館20戸を山下より移し、本吉新町と名ずけた。
朝倉(あさくら)・元屋敷(小字名)   本吉
北部にある本吉集落の入口で八剣・八坂神社があります。朝倉の地名は元屋敷地名の傍にありますし、有力者の屋敷があり富豪の倉のあった所でしょう。
彼岸田(ひがんだ)(小字名)      本吉
本吉集落の西側の水田です。仏教に関係する地名で、お寺の水田の意でしょう。
宮ノ脇(小字名)      本吉
本吉集落の南方にある諏訪神社の敷地の意です。
屋敷内(小字名)      本吉
本吉集落の南方の民家のある敷地の意です。
片垂(小字名)      本吉
本吉集落の西側の川沿いの水田です。雨時に川の水が滝のように入り込む水田の意です。
町後(小字名)      本吉
本吉集落の南方の道路の西側の住宅地です。清水山を前として集落の西外れの土地を町後と起名したのでしょう。
清水谷(きよみずたに)(小字名)      本吉・清水寺
清水という地名は全国的に広がっています。清水とは神聖な水の意で、その水が湧き出る清水寺ののある地名です。明治時代の村名、小学校の名ともなっています。巨刹清水寺については良く知られていますが、清水の名は近世から明治時代まで水車の所在として有名でした。
 ・佛町(小字名)      本吉
佛の地名は清水寺参道の南一帯にある山で、佛町は本吉西部に広がる田んぼにあります。お寺の寺領の起因する地名です。
上八幡田・下八幡田(小字名)      本吉
本吉西部に広がる条理制が行われた田んぼの北西部あります。北広田八幡宮の神領田です。944年の神名帳に「泉澄神」があり八幡神社の以前の宮がありました。条理制後の中世期に変更された神領田の地名でしょう。
北緑リ・南緑リ(小字名)      本吉
本吉西部に広がる西端の水田です。緑りは「ミドロ」のことで湿地の水田のことです。朝廷の政府の良い字を付けよの改名政策に応じ「緑り」に変化させた地名です。
釈迦町(小字名)      本吉
仏教の関連地名で近くの成合寺の寺領ではあるまいか。
梅ヶ谷(小字名)        本吉
本吉集落の南端にある。梅花の咲きほころぶ梅林を連想していました。ところが、梅(うめ)は埋もれることの当て字のようです。蛇谷から流失した土砂によって埋まった小さな扇状地です。地形的地名が変化したものです。
蛇谷(じゃだに)(小字名)    本吉
梅ヶ谷の上部にあり、細長いミカン園が広がった土地です。蛇(ジャ)は大きな蛇の総称であり、またジャは山の急斜面や断崖に使われている言葉です。蛇谷はへびという動物より崖地に起因しる地形語だと思います。
成合谷(小字名)         本吉
蛇谷の北側の成合谷は巨刹真言宗の成合寺の所在地です。ナル。ナラの語は平坦の意で崖地の谷から運搬された土砂で埋まった小平地から成合の地名が生まれたものです。
大曾婦(おおそぶ)      本吉
諏訪神社の参道の南側にある。ソブの語源による、昔の製鉄所との関係ではないかと思います。この付近から産出する砂鉄を材料にした当時としては大きな製鉄所があって、農具を製造していたのでしょうか。本吉地方は条理制の行われる頃までは、瀬高地方では先進地でしたから、そんな工場があっても矛盾しません。
大谷(小字名)         本吉
成合谷の北側にある大谷は上、下に貯水池があり、現在でも灌漑の機能を果たしています。大きい谷に付けた地名です。
三舟山・三舟・三舟谷(小字名)本吉
本吉集落の北東部にある山間部で近年造成してグランドが整備されています。かって、この辺一帯まで海がそばまで侵入していた頃は小さな丸木舟が出入りしていたから起こったという説があります。しかし、その舟との関係で三舟の地名が起きたとは考えられません。「木」「フ」などの語は古代から物の尖ったものに用いた形容詞でした。結局、三舟山とは、山のそそり立っていることに付けた山名です。
大観峠(だいかんとうげ)     (本吉)
標高294mの清水山の山頂です。大観峠の地名は眺望絶景からでしょう。筑後平野・有明海・雲仙を見渡せます。
古僧都(こそじ)(通称名)本吉〜小田
標高286mの古僧都山は「越路」すなわち「とうげ」に起因するものでしょう。清水寺〜大観峠〜永興寺〜小田の平田の善光寺脇に抜ける山道を古僧都越えと言う。
大草(大字名)
明治9年町村合併により、大塚の「大」と草場の「草」をとって大草村が誕生した。こうしてできた地名を合成地名と言います。この場合は、合併する両村の戸数などが接近していて、一方の村名に吸収されることを、いさぎよしと、しなかったのでしょう。
女山(小字名)(行政区名) 女山ノ内(小字名)女山     
女山はゾヤマと一般に呼びますが、ヂョヤマの転訛したものです。かっては、女山は女王山と呼ばれていたが、後世「王」をはばかり女山となったということです。この起名が、かっての呪術師、女性シャーマンによるものであれば、宗教地名になります。ここには神籠石の史跡があり邪馬台国の女王・卑弥呼の居城とも言われています。
朝倉(あさくら)  女山
本吉八剣神社三叉路から山沿いの道で女山の入口で山の下の所です。素敵な山村風景を感じさせる地名ですが、アサクラ(朝倉)=朝は暗いの意味で、山かげにあって朝のうち日蔭になる所の地名です。やはり午前中は山裾で日蔭で暗い所です。
黒岩口(小字名) 女山
山の上に黒岩溜池があり慈恩の滝の水が朝倉との境に流れくる出口の意の起名です。
黒岩(小字名)  女山
慈恩の滝の黒色の岩の所在が起因の土地と古老が説明してくれました。
寺田(小字名)  女山
本吉から山沿いの道で女山の入口西側の水田です。どこかのお寺の寺領水田の意の地名です。
ナラ町(小字名) 女山
寺田の北隣の水田です。地名語源辞典にはナラは暖斜地、平地、「ならす」「なるい」などと同源とあります。山からの傾斜地を開墾した意の地名でしょう。
栗の内(小字名)女山
荘園や公領を基盤ちして成長してきた武士団の屋敷または領地から起名したものです。本吉寄りにも狭いがもう1ヵ所あります。
大道端(だいどうばた)(小字名)女山
高速道路の建設で発掘調査があり、この地一帯は縄文から弥生時代の遺跡があり古代の住居が建ち並んでいたそうです。その古代集落に大きな道があったのが起因でしょう。
粥餅谷(かいもちだに)(通称名)女山
女山のカイモチダニという面白い地名は、崖→ガケ→カケ→カイから起名されモチのように軟弱地盤の谷だったのではないかと思っています。女山日子神社の鳥居から左の山道を30m入った所に女山神籠石の粥餅水門がある。神籠石の水門は横尾寺谷長谷があり、源吾谷(げんごだに)産女谷(うめだに.うずめだに)の水門は破壊されています。そのほかに宇倍谷(うばいだに)・椎拾谷(しじゅうだに)の谷名があります。
                
地蔵前(小字名) 女山
蔵は山や谷の意味があり崖地の地名もありますが、女山日子神社の鳥居手前の地蔵堂があることに起因する地名と思います。この地の南端の返済川に架かる橋の名は地蔵前橋です。
産女谷(うめだに.うずめだに)(通称名)女山
東部山麓の大字大草にあり語源は、本吉の梅ヶ谷(ウメガタニ)、成合谷(ナリアイダニ)と同類で土砂で埋まったことによる起名。またウームすなわち樹木の繁茂や農産物の豊作を願った地名とも考えられる。
草場(集落名)(行政区名) 
大草の草場集落の地名について、その起因に、大化の改新の地方制度としての草壁郡や、神功皇后が田油津姫征伐の戦場(いくさば)と結びつける伝説があります。でも草場は昔の草の繁った土地の遺名でその草を肥料や牛馬の肥料にする為の採草地であり、雑草が繁り、農民にとっては大事な土地であった。その採草地から「草場」の地名が起こったものです。
弥三町(やぞまち)(小字名) 草場
草場集落の南端にある水田です。ヤソは湿地と雑木林などの不良地を指す意ですから、整地する前は湿地だったでしょう。
沓形(つがた)(小字名) 草場
草場集落の南端にある水田です。ガタは湿地を表しますので、整地する前は踏んだら練りこむ湿地あるいは「クツ」形に湾曲した地形だったでしょう。
竜毛(小字名)  草場
草場集落の南端にある水田です。「竜」は水神を表し、「毛」は作物の意があるので、神社にお供えする為の畑でしょう。
三舟(小字名) 草場
草場集落の南端にある水田です。縄文時代から、この辺一帯は矢部川が網目の状態で流れ、海が傍まで侵入して、舟が出入りしていたから起名されたのでしょう。
本津(小字名)  草場
三舟の北側にあり草場集落に接している所です。地名語源字典には、モト(本)はオオモトの意で、ツ(津)は舟着場、港とあります。草場の舟着場の意の起名だと思います。
塔薹(とうだい)(小字名)草場
三舟・本津の西隣で舟の航路の西岸と想像します。塔薹=灯台で早朝や夕方に港を標す明かりを灯した所でしょう。余談ですが、明治の大草の小字名地図に塔薹の薹が読みとれずやっとトウダイと解明しました。三舟・本津・塔薹の地名でかって、ここに舟着場があったことが解り、大発見だと感激しました。
東屋敷・西屋敷(小字名)草場
昔の人は家のことを屋敷と呼んでいました。草場集落の住宅地の意の地名です。
東前(小字名)  草場
草場集落の東入口の土地の意の地名です。
馬場内(小字名)  草場
香椎聖母神社の社領で、中世からの、騎馬術の訓練場だった所です。
寺屋敷(小字名)   草場
草場集落の北側にあり広い敷地(現在は水田)です。記録には残っていないが相当大きなお寺があったと推測します。
茂引(もひき)(小字名) 草場
返済川に沿った水田で、茂は平坦地、引は低いの意という。
柏木(小字名)     草場
返済川の南東(草場)側の所です。カシは自然堤防や傾斜地の意味があるので、自然堤防の土地が川に沿って長く広がっていたのでしょう。現在は整地され水田になっています。
大塚(行政区名) 
大塚集落付近には、大塚(蜘蛛塚)や権現塚(坂田)があります。大塚の地名は古墳の所在地を示します。
上河原・中河原・下川原(小字名) 大塚
大草の返済川に沿った所の地名です。矢部川は現在のように連続した堤防でなく網目のごとく流れ、雨期になれば氾濫し平野の中に支流が勝手気ままに流れていた時代の川にまつわる地名です。
立宮(たつのみや)(小字名)    大塚
大塚の老松神社の社領を意する地名です。
古賀(小字名) 大塚
古代の法律語の空閑から古賀・古閑の文字が出来た説と水の流れの乏しい所をコウゲと言っていたのが転訛してコガができた説がある。大塚の古賀は集落の南西側にあり、かって砂利の多いコウラだった荒地でした。
東屋敷・西屋敷・北屋敷(小字名) 大塚
大塚集落の住宅街の意の地名です。東屋敷には廃寺になった天台宗の東光寺がありました。
垣添(小字名)     大塚
大塚集落の東側の水田地帯にあり、集落を限る境界の垣根らしき所に付けられた地名です。
御供田(小字名)   大塚
集落の東方にある水田です。神社にお供えするための水田です。
北前・西前(小字名) 大塚
大塚集落の入口の土地の意の地名です。
三反畑(小字名)   大塚 
大塚集落の北東の畑です。畑の面積を表す地名です。
中畝町(なかせまち)(小字名)   大塚 
中畝=中瀬で、「町」は一囲いの田地の意がありますから、傍にある返済川の中州を開拓した田地です。
日出(ひいで)(小字名)  大塚
大塚集落の東端(女山側)の返済川に沿った水田です。日当たりの良い所の意の地名です。
中須(小字名)      大塚
大塚集落の東端(女山側)の返済川隣の所です。ナカス(中須)=中州で返済川の流れによって出来た川の中州の意の地名です。中州を開拓して出来た畑です。
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東山村(とうざんむら)清水村・水上村   清水・水上校区
明治9年の合併で清水村・水上村が東山村となり、昭和31年瀬高町と合併して残念ながら消え去りました。清水・水上は小学校名に東山は中学校名として残されました。
               水上校区(坂田・長田)
落名として坂田・長田・小田など田のつく地名が多く縄文中期、瀬高町では稲作が最も早い時期に始まったのではないでしょうか。(田)はインドのドラヴィタ語の一種であるタミール語であり南方民族が日本民族形成の基層に関わっていることでしょう。
坂田(大字名)上坂田下坂田(行政区名)
坂田は傾斜地にある水田の意味もあるが、縄文中期から稲作が始まった平坦な地域です。ドラヴィタ語の中でタミール語が日本語の語源に近く縄文中期に入った稲作に関する単語にコメ、イネ、ウス、ハタ、タなどの語源があります。坂田・長田・小田タの言語は稲作開始とともに流入した縄文中期から稲作が始まった頃の地名でしょう。坂田は多くの縄文・弥生遺跡が眠る地域です。

戦国時代、所領十八町の坂田遠江は蒲池氏配下の将としてこの地に砦を構えていました。明治13年(1880)下妻郡のうち、山中、広瀬、小田、長田、坂田、文広、本郷山門郡に編入されました。 下長田側の上坂田と堀池園側の下坂田の集落があります。
郡領(小字名)・郡領二・郡領三(小字名) 上坂田      
上坂田集落の北西の水田です。律令制度の郡司の役人(在地首長)が管理する水田です。
掛上・掛中・掛下・掛一・掛二・掛三(小字名) 上坂田
上坂田集落の小字名です。掛=画のことで集落内の区割りに使用された地名です。
本郷道一・本郷道二(小字名) 上坂田
上坂田集落の西方に本郷村・文広村に往来する道の周りの水田に付けた地名です。
河田一・河田二河田三(小字名) 上坂田
上坂田集落の東から西に流れる南方の川傍の水田で、単に川の傍の田んぼの意の地名です。
市場(小字名) 上坂田
上坂田に市場の言い伝えはありません。「市場」とは商業的市場と倉庫所在地を意味する場合があるそうです。上坂田には郡領などの地名があることから、ここに公領を管理する役所の倉庫があった関係と推測します。
大畠一・大畠二(小字名) 坂田
上坂田集落の南東側の水田の地名です。耕地面積の大きい畑の意の地名です。
町畠(ちょうばた)一・町畠二(小字名) 坂田
大塚集落の手前の畑です。耕地面積による畑の意の地名です。昔の面積の単位は(ちょう)・(たん)・(せ)・(ぶ)・(つぼ)・(ごう)・(しゃく)が使われました。一町=三千坪=約9917uです。
中園一・中園二(小字名) 坂田
国道209沿い東にある昔は畑の所です。園とは主作物以外の桃、梅、茶などを植えた畑の意です。
権現一・権現二・権現三(小字名) 坂田
権現塚のある周辺のハウス栽培の畑の地域です。ゴンゲンとは仏教の「権現」思想からが神号になつたもので、その神様の名を付けた畑です。
稲葉上・稲葉中・稲葉下(小字名) 坂田
坂田の東南部の昔は畑の所です。竹や木を組んだ、刈った稲を掛けて乾かす設備の稲掛が普及前に、稲干場とした所で、平素は芝草地になっていた意の地名です。
大塚(小字名)        坂田
権現塚のある畑の所です。大きい塚のある意の地名です。
定角(じょうがく)一・定角二・定角三(小字名)       坂田
ジョウガクは定覚とも書かれていますが、それは「定額」から来たものです。中世期において、豊凶によらず、土地に対して一定額の税金を納める制度の土地が定角の起こりの地名だと思います。国道209沿いにある地名「定角」は昭和37年に弥生時代中期の石棺とかめ棺が発掘された場所で傍に「中園」の地名がありますが、ここでは縄文時代の土器が出土しています。このあたりは古代から開けていた所です。
上池田・下池田(小字名)    下坂田
坂田の西南部にあり矢部川に近い為、湿地帯の堀や池を埋めて造成した水田地帯です。
                    
北庄分・南庄分(小字名)    下坂田
坂田の南西部の端にある水田で平安時代の荘園にちなむ地名です。
前田(小字名)           下坂田
坂田の南部にあり、名主などの有力者が、領主から免田として認められた肥大な土地の遺名です。その中には領主の直営田で、下人に耕作させていたのもあるようです。
屋敷(小字名)           下坂田
瀬高地方では家のことを古くは屋敷と言い、立派な家は御屋敷と呼んでいました。下坂田集落の住宅地帯の意の地名です。
                 
長田(大字名)下長田上長田(行政区名)
ナガはインドシナのチャム語のnaga(竜、蛇)、タは助辞でナガ.タは竜神の意で、竜神を祭ったところの地名という。沖縄などの方言では蛇のことをナガムン、ナガムシ、ナガモノと呼ばれている。また「竜蛇」の意が「長、永」の意味だけに使用したと考えられる。下長田集落周辺には「八竜」(下長田の娘村の名称でもある)「福竜」の小字名があります。大牟田の大蛇山、長崎の蛇踊り、ベーロンの祭りや龍宮説話、竜神の小童の姿の河童伝説など沢山あり、縄文時代から古墳時代まで海人族が竜文化を持ちこみ、ひたすら竜神にすがり、祭祀を怠りませんでした。明治13年(1880)下妻郡のうち、山中、広瀬、小田、長田、坂田、文広、本郷山門郡に編入されました。
長田(小字名)        下長田
下長田集落の北西部の矢部川河畔に「長田」の小字名が残っている。古老によると下長田にあった老松神社は昔、洪水で流され上長田に移転されたとの言い伝えがある。それが由縁か神主さんの祭礼の始まりは下長田から行われる慣習がある。この場所が昔の老松神社の所在していた場所で、大字長田の発祥地ではないかと思います。
屋敷・屋敷二・屋敷三(小字名)       下長田
昔は家の事を屋敷と呼んでいた。下長田集落を三つに区分けた小字名で集落を取り仕切る長が住んでいた村であったろう。
        
八竜(小字名)       下長田
この小集落一帯は小高く、干ばつ時には水不足の甚しい所です。八竜とは八大竜王のことで国語辞典には「仏法を守る八体の竜神。すなわち、難陀・跋難陀・娑迦羅・和修吉(わしゆきつ)・徳叉迦・阿那婆達多・摩那斯・優鉢羅の称。雨や水に関係するとされることが多い。八大竜神。」とある。宗教的竜神を祭った地名です。現在の八竜集落には、やはり水神の八つの腕を持つ八臂弁財天(はっぴべんざいてん)像を祀る八竜神社がある。
            
後鶴(うしろづる)西津留(小字名) 下長田 
鶴は、鶴亀といってとても縁起のよい言葉で、鶴丸、鶴田などさまざまである。ツルが後鶴のように語尾につくと、意味が変わってくる。おめでたい意味ではなく、水の曲流部にできた小平地を指す。下長田と上長田に広がる矢部川の近くに後鶴の地名がある。ツルとは朝鮮から来た言語といわれ、川の淀んだ所ということです。耕地・畑を意味する説もあるが、川の淀みが付近の田畑まで拡がったものと思います。また鶴の地名は鶴渡来伝説によるとも言われています。昔は九州・中国・四国にかけて、あちこちに鶴の飛来地が実在したとの新聞記事にも接しました。長田の鶴飛来伝説は信頼性があり矢部川河畔の水田に下り立ち優美な鶴の姿態を再現したいものです。ほかに鶴の付く地名は本郷の名鶴や南校区の東津留も上小川の中津留も同じ意味の地名です。
八拾町(やぞまち)(小字名)  下長田
下長田の国道209号の付近の地域です。ヤソとは湿地と雑木林などの不良地を示す意味ですから、やはりそんな地域で下長田のこの場所は湿地であったとは思われませんので雑木林の荒地ではなかったかと考えます。
肥後町(小字名)     下長田山添
下長田の娘村としての「山添」の集落付近にある。中世において、肥後(熊本)の菊池氏が度々瀬高地方で、大友氏等と戦いました。室町幕府時代の永享4年(1432)から32年間は肥後の菊池氏が守護職になり筑後を治めました。そうした関係で、肥後の人々が移り住んだか、一時的にも、菊池氏の館があったことによる遺名と考えられる。長田の肥後橋姓もこの地名からの起こりでしょう。大広園にも肥後町の地名があるが同じ関係でしょう。
福竜(小字名)       下長田・山添
東山中学校東付近にある所です。。竜神を祭った地名で干ばつ時には雨乞いの祭事を行ったでしょう。福が付くので稲作の豊作を願い「福」の訪れることも願ったのでしょう。
善正渕(小字名)     下長田・山添
東山農協事務所付近から南東部大塚集落付近まで広がっています。下長田の娘村山添はこの地域に乗っています。ゼンショウ(善正)=センジョウ(千畳)の転訛した宛字で小平地の渕(フチ)の意と思います。
栗ノ内(小字名)
長田地域の中央部にあり中世において、荘園や公領を基盤ちして成長してきた武士団の屋敷または領地から起名したもので、長田にも豪族が居たであろう。堀ノ内や栗ノ内(堀が栗に転訛したもの)は武士の城や砦・屋敷を意味する言葉です。
九品寺(くほんじ)(小字名) 上長田
長田地域の中央部にあり、当初この地域に、九品寺の建物があったが、廃寺になり本郷で再興されたのが、現在の禅宗九品寺ではないかと思われる。上長田の九品寺地名域には、現在でも小仏堂があって、かっての寺院の名残りをとどめている。
西津田・西津田二・西津田三・西津田四(小字名)上長田
上長田集落内の西方矢部川縁から北東に四つに区分けした地名です。地名語源字典には、ツ(津)は舟着場、港とあります。古地図には水路から矢部川の所が人工的な長方形の幅広い河口になり舟着場の形状をしています。よって舟着場周辺の荒地帯を開拓し四つに区分した水田と思います。
春屋敷・春屋敷二(小字名) 上長田
上長田集落内の小字名で集落を取り仕切る地主が住んでいたでしょう。“春”はここに大地主、野田屋敷の美人娘、お春さんの名から起名されたそうです。
掛東一・掛東二・掛東三・掛東四(小字名) 上長田
上長田集落の春屋敷の東側の集落地帯です。掛=画のことで集落内の区割りに使用された地名です。老松神社を中心にお西・お東・お南の集落割りもあります。
陣の内(小字名) 上長田
上長田集落の老松神社の東方の現在畑の地名です。昔、武家屋敷があった事による地名です。
今赤目(小字名)     上長田
珍しい地名です。一里石のすぐ南東から水上小学校一帯の旧河床地で古い川の跡で狭くなっている周辺の地名で東側が赤目の地名で小田地域になります。「今」は新しくの意です。「赤」はアイヌ語で akka, wakka で水、水流、川のことで、「目は」 mem 湖沼、湿地のことだそうです。東隣にある赤目の土地の後にさらに新しく出来た泥水が流れ込んだ沼か湿地と思われます。瀬高町にも石器・縄文時代に住んだアイヌ民族の地名の残存が長田・小田集落の境にあることになりますね。
長田の鉱泉場(通称名)  上長田
上長田の鉱泉場とは公称ではありませんが、徳川末期、元治年間(1864)熊本の勤皇の志士、中田多一郎により鉱泉の湧き出る井戸が発見されてから、上長田の親村からここに移り住んだ人々によって形成された小集落名です。今では鉱泉場の地名は消えて、戦後は新船小屋の行政区ができました。昭和初年までは、鉱泉井戸と鉱泉を沸した浴場を中心に、南北に通ずる道路の両側に20戸程のこじんまりした宿屋がありました。宿屋には馴染みのお客がいて、長い期間逗留して胃腸病の治療やレクレーションを楽しんでいたのです。
              
横尾(よこお) (小字名)     長田
下長田の横尾寺(廃寺)から起名されたものである。横尾は谷や寺院、人びとの姓にもなっている地名で、逆語順がとられ、尾根.つまり山の横、「尾横」となるべきものが反対になっている。「瀬高」も同じく、南方系の語源である。また一説には「地名アイヌ語小辞典」によるとYOKOには弓や槍をもって獲物を待ちかまえる、ねらう、待つの意がある。狩をする所の地名にこのYOKOが横の当て字で名つけられたとも考えられ、当地の先住民はアイヌ民族だった可能性もある。有明海沿岸にはアイヌ語地名と称されるものが点在している。瀬高地方で休むことを、「よこう」「よくう」というからアイヌ語のYOKOと同じ意味の「待つ」と酷似しています。大草にも同類の横尾の小字名があります。
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小田(大字)     水上校区(小田・広瀬)
大字の小田は、ほかの地域の小さい田んぼに付けられた意味の小字名の小田の地名でなく、小は御の意味で有難く尊称した「オ」を意味する地名で稲作とともに入った語源の地名です。
小田・小田西(小字名)(行政区名)         小田 
現在の小田の集落の南西部が小田西、北東部が小田東の小字名です。大字小田の起名の集落です。
       
諸菴谷(しょうあんだに)小字名)        小田
小田集落の東にある。菴は庵と同じ意味であるが辞書には大きな禅寺に付属している小さな僧房とあり庵か小寺があった山間の谷であろう。
屋敷ノ内(小字名)         小田 
小田西にあり、戦国武将の溝口一族武家屋敷があつた場所かと思われる。この地域には溝口一族の小田城・禅院城・溝口城(筑後市)があり長田河原、禅院の合戦などを演じ活躍し時代は500町を領し一時は下庄.水田方面まで勢力を張っていた。
軍場(いくさば)(小字名)         小田 
屋敷ノ内の北に位置し矢部川に近い戦国時代の戦場(いくさば)の地名です。現在は水田に変わっています。
小坊谷(こぼうだに)(小字名)  小田
小田集落にあり寺院の所在していた所でしょうか、現在でも墓地や小仏堂があります。
竜子(小字名)        小田
小田の西南部の山里にあり、中国古代の賢人の意でそれから名付けられたのでしょう。
赤目(小字名)             小田西
アイヌ語で赤はakka, wakka で水、水流、川のことで、目は mem 湖沼、湿地のことで川が流れ込む沼か湿地の意味で、瀬高町にも石器・縄文時代に住んだアイヌ民族の地名の残存と言えるでしょう。小田集落の西南端にあり西側に隣接する長田の今赤目はこの後に出来たものでしょう。
     
平田小字名)(行政区名)        小田
小田集落の北側にある集落です。単純に平らな水田の意味か水害の少ない平穏な水田に付けられたのでしょう。
名木野(小字名)         平田                       
これは薙(なぐ)ぐ、すなわち草を払って焼いたことから起名されたものです。何年毎か一定地域の草木を薙ぎ払い焼きはらい、そこを数年耕作すれば放棄して次の土地に移ることによって地力を維持したのでしょう。十分な肥料のなかった時代の農業のあり方が想像できるのです。「野」は昔は一地域または集落の意味があったようです。
南上野・北上野(小字名)         平田  
善光寺の北方の水田です。道路の南側と北側の野原に東京の上野の地名を拝借し、美化した地名です。
前川原(小字名)         平田  
古僧都の山道脇の川の水が溜まる荒地の意の起名でしょう。
平町(小字名)         平田  
平田集落の北東の所です。平=タイラの意で、平地の畑に付けた地名と推測します。
牛和田(うしわだ)
平田集落の西側にある水田です。ワダは川の湾曲により出来た平地の意で、牛を放牧した土地と想像します。。
唐尾(からお)(小字名)(行政名)       大字小田
カラ(唐)は小石、土混じりの石または干上がった、または枯れるの意で尾は土地の形状を意味する。唐尾とは矢部川河川敷の砂利混じりの干上がった原野を開拓して出来た集落でしょう。もうひとつカラ(唐)は中国または朝鮮(韓)半島の意もあり、津は港の意で、佐賀県の唐津など貿易港や寄航地に多い地名ですがここでは関係なさそうですね。
             
勝田(小字名)           唐尾
唐尾集落の南側の小さい水田です。朝鮮語でカツ(カツミ)は湿地の意であるから川畔や沼地の開拓水田の意です。
上野開・中野開・下野開(小字名)           唐尾
いずれも矢部川に沿った堤防内の広大な河原の地名です。元禄8年(1695)の堤防工事以降治水工事をはじめ干拓工事によりできた土地で、開は開拓の意である。干拓工事後は水田として利用されたが近年堤防が拡張され河川敷となっている。     
日出(小字名)           唐尾
唐尾集落の東側からと宝満神社までの水田の地名で、よく乾燥する微高地に付けた地名です。日がよく当たるなどの気象的地名ではありません。
(小字名)        唐尾
宝満神社のある社領で東の堤防水門橋まで水田を含めた土地です。
河原(かわはら)・上河原(かみがわら)(小字名)        唐尾
広瀬堰からの本田川の水路の北側の水田の地名です。河原の呼び方はゴラ、ゴウラ、コウラ、コラなどというのです。これらの意味は河岸の石のゴロゴロしている所に付けた名です。古代はここにも矢部川が流れ込んでいた事を表しています。
東藤八・西藤八(にしとうはち)・甚五郎(じんごろう)(小字名) 唐尾・中島
南築橋の西側矢部川の堤防沿いに東藤八があり、さらに西に西藤八と甚五郎の地名がある。藤八と甚五郎は人名で、これらの人が資金を出したか、干拓工事に貢献した人の名でしょう。また下流に続く長田の北藤八・中藤八の地名も同じです。干拓後は水田として利用されていたが現在は堤防が拡張され河川敷になっている。
唐尾浦田(小字名)           唐尾
唐尾集落の北方、南築橋の手前の西側の水田です。浦とは湾曲して陸地に入り込んだ所の意だから、矢部川河岸の開拓水田でしょう。
中島(小字名)(行政名)
矢部川の氾濫時は島の形態になる土地からの起名でしょう。やはり矢部川河岸の開拓地に移り住んだ集落名です。
志興計田(しょうけだ)小字名)      中島
矢部川すぐ南側にある、なかなか凝った地名です。瀬高地方で竹で編んだのざる)のことをショウケと呼びます。志興計はショウケの呼び名に漢字を宛がったもので、ショウケのように保水の悪い砂地の水田に付けた地名だと思います。矢部川の氾濫で土砂が埋まっていた所でしょう。
鳥居元または塔の元小字名)     中島       
平田の南島ストア傍の塔の元橋があり唐尾の西入口側になります。今なお土地の人は「トリモト」と呼び伝えている所です。元は建仁寺の「鳥居元」または「塔の元」と言い伝わったもので建仁寺まで1500mもあり、寺の規模の大きさを物語っている。
           
広瀬(小字名)(大字名)
古語字典によると、瀬とは川や海などの水が浅く歩けるような所、または川や海の流れとあります。広瀬堰の上流側には広い川瀬が広がり対岸の溝口(筑後市)への行き交いの舟渡しがありました。広い川瀬から堤防の南の土地に小字の広瀬名があり舟客相手の商店が建ち並んでいました。舟渡し場のある広い川瀬から起名されたました。西方の禅院集落と瀬高町で最北東端の山中集落がある。
禅院(行政区名)       
禅院集落の山間にある、「禅院山建仁寺観寿院」との関係で起こつたものである。天台宗・建仁寺は建仁元年(1201)創立されている。天台宗なのに禅宗の「禅」をとった禅院とは不審に思われるが、奈良時代に僧の栄西達は天台宗の衰退をなげき、当時禅宗が盛んであった中国の宗で、禅の秘法を学び、天台宗の補強策を考えていた。つまり、その頃は天台宗と禅宗は同居していたので、建仁寺が天台宗であるが、集落名が禅院であっても矛盾しないのである。また禅院の名は建仁寺の山号から付けたか地名か、地名から付けられた寺号か明らかでない。
          
屋敷・古屋敷(小字名)      禅院 
禅院は現在十数戸小さい区で日高姓が占めている集落です。、山間には建仁寺と寺の守護神、熊野寺神社があり、古代から日高一族が栄えた土地で熊野神社に仕える任務を行ってきました。この2つの土地は現在、水田が占めてるが日高一族の屋敷や寺屋敷から起名されたであろう。
オシロ(通称名)     禅院 
地元の古老に聞くと建仁寺を南東に登った山の中に城跡があると言う。戦国時代の1495年溝口常陸介が築城した小田城があった所である。禅院の熊野神社は「オシロシタ」と地元では呼んでいる。
日吉谷(小字名)     禅院 
広瀬の日吉谷は日光の良く当たる谷と解してよいでしょう。現在はミカン畑が広がっています。谷には中世か近世に築造された貯水池があります。池の側には巨岩を配した藤ノ木古墳があります。
新堀(小字名)     禅院 
地名語源辞典には「堀の堀は、朝鮮語「部落・村邑」の意で、新堀とは新来民族の部落の義」とある。ここ禅院と山中は縄文時代から人が住み遺跡が多い所だから、古代朝鮮帰化族が住んで、新しい文化・技術をもたらしていたとも、推測できる。藤の木古墳の北に広がる水田の地名です。
小城谷(おしろだに)(小字名)     禅院 
新堀の南側にある谷です。戦国時代の文亀年間に溝口常陸介が、この山中に一城を築いて(小田城)、いたことから、この城に関係があると考えられる。おそらく「小さいキ(城・柵)」と言うのが語源と考えられる。
龍木免(たつのきめん)
龍は水神の意で神社の祭事の費用を賄う為の税を免除された水田です。
山中(やまなか)(行政区名)         広瀬
山の中の山間部には縄文時代の横穴住宅の洞窟などがあり、早くから人が住んでいたようです。これから山中の集落名が付けられたと思われます。あるいは1596年(文禄4)行脚僧の日源上人が溝口(筑後市)で和紙製造を始めた。下小川の福王寺を中興した。弟3人に製紙場を設け藩主の宗茂から御用紙の命を受け、材料のコウゾウの木を山の中で採取した地域から山中の集落名が付けられた説もあります。藩政時代の元禄8年(1695)田尻総助・惣馬親子の千間土居工事で矢部川の流れが定まり、河原が干拓され現在の山中集落が成り立ったようです。明治13年(1880)下妻郡のうち、山中、広瀬、小田、長田、坂田、文広、本郷山門郡に編入されました。
川端(小字名)           山中
広瀬堰の上流側の広い河原の広瀬の渡し場の河原の地名で、対岸の溝口(筑後市)の往来の為にありました。渡し場まで道路もあり、明治時代までありました。現在は堤防拡張工事で無くなりました。
丹花(たんが)(小字名)         山中  
本田川の北側の土地です。丹花は字典によりますと、赤い花で、美人のくちびるの例えとあります。ここの土は赤く鉄分の砂鉄が採取されたかもしれません。似た呼び名の「タンゲ」は少し小高い土地の意味があるそうです。つまり川面から見れば少し高い地形から起こった地名です。
下川原(しもがわら)(小字名)三砂(みさご)(小字名)        山中 
現在の本田川の南側は住宅が建ち並んでいるが水路を整備する前は砂地の河原だったことを示す地名です。
浦田(小字名)        山中 
山中の集落の西側の水田の地名です。浦とは湾曲して陸地に入り込んだ所の意だが古代はこの地にも入り込み流れていたのでしょう。矢部川の開拓によりできた水田です。
地蔵本(じぞうほん)・上地蔵本・下地蔵本(小字名)         山中 
広瀬堰からの取水口の本田川の南側の水田の地域です。地形語として「蔵・倉・鞍は崖や崩壊谷、あるいは峻険な斜面を持つ山をさして、特にそう呼んでいる例が非常に多い」とあり、現地状況から山裾を他の埋め立ての為取り崩して出来た水田と推測する。
谷口(小字名)        山中
山の堤谷の入り口のある平地、天満神社のある地域の地名です。堤谷は現在堤谷溜池となり灌漑用水に利用されています。
                  
八割(小字名)       山中
瀬高町では最東部に当たる所で、矢部川堤防沿いの地帯で、山地も迫っています。瀬高地方では、物が切れる、割れることに、接頭語を付けてハチキレル、ハチワレと言います。つまり堤防の決壊したことをハチワレと言ってその言葉をそのまま地名にしたのでしょう。
テツキ(俗称地名)     山中
八割付近をテツキとも呼びます。藩政時代、立花の大名らの巡視団は矢部、辺春、白木方面を訪れ、八割付近で小休止したそうです。八割の山谷から湧き出る泉の岸辺で、手をついて水を心ゆくまで飲んでいたそうです。それから「テツキ」の地名が起こったそうです。このことは山中の人が教えてくれたものですが伝説か、事実か判然としません。
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                上庄校区編
上庄(大字名)
平安時代保安2年(1121)にできた藤原俊忠の荘園、瀬高庄は大治6年(1131)に二分された。上庄と下庄の起名については、色々の説があります。古来から京都に近い方を上という慣習から起こったと言う説は、昔は久留米方面から南下する場合は本郷から上庄、川を渡って下庄へ足を運んだのだからです。川の西側、川の右岸が上だから上庄という説もあります。   .
北原(きたばる)(小字名)(行政区名)
ハル、バル、ハルは開墾の意味で瀬高地方では今でもよく使用される言葉です。上庄の北にある北原の原は野原の意味でなく、開墾を意味する、ハリ、ハルに宛てたものと思います。
三軒屋(行政区名)
上庄の北端にある。開拓により出来た土地に移住分村し、当初は3軒の家があった事による起名です。現在は行政区名になり、40軒以上の集落になっています。
干出(ほしで)住吉・秀(ひで)(小字名)本町
これらの地名は現地の状況からして、磧(かわら)、川原(こうら)に類するもので、よく乾燥する地域につけた地名と思います。多くが矢部川沿岸か旧河川跡にあります。日がよく当たるなどの気象的地名ではないと思います。
松原(まつばら)(小字名)    出口
上庄小学校の付近です。矢部川が蛇行してこの付近が河畔の松原であった意の地名です。
吉田(よしだ)(小字名)    出口
吉田は一面に葦(ヨシ)が生い茂っていたらしく、入植して開拓を始めた人たちは、ここを葦田と名前を付けました。しかし、葦田(アシダ)は悪し田に通ずるということから、葦を吉と呼び替え、願望を込めて佳名好名の吉田と決めたのでしょう。
祇園田(ぎおんだ)(小字名)   三軒屋
上庄には八坂神社があり、祇園宮の神領で免税された地名です。祭事の費用をこの田で賄っていたのでしょう。
夜失永(やしつなが)(小字名)  三軒屋
原亀男氏の瀬高町地名考によると「永は「ナガ」で「ナカ」からの転訛であろう。地名語源には「那賀」などがあり「土地」という意味がある。したがって夜失われる土地と理解できる。」とある。矢部川河岸にあった低地で、矢部川が増水氾濫すると一夜のうちに田や畑や家屋が流失した低地であったから、こうした珍しい地名が名付けられたのだろう。ちなみに倉永(大牟田市)宮永(柳川市)などがあり、永を土地の意味に解釈するとこれらの地名を理解できる。
腐道(くされみち)(小字名)    出口
上庄の腐道は地名として汚名の最たるものです。土地に対して、申訳ない気がしませんか。ここはかって、湿地帯でゴミ捨て場でもあったのでしょうか。
東鶴崎・西鶴崎(小字名)  出口
鶴の舞い降りる岬の意で縁起に良い地名ですが、語尾につく鶴の地名と同じく水の曲流部にできた小平地を指し付近の田畑まで拡がったものと思います。この地の周りには原野の意味の松原の地名や腐道ががあるのでやはり湿地帯であったろう。
牛御前(うしごぜん)(小字名)  北原
県職員住宅の西側にあり、牛御前の神社が祀られている所を意味する地名です。
           
一条寺(小字名)       北原
牛御前の北側で条理制の遺名でしょう。
宮手(みやで)(小字名)     北原
宮の神領で牛御前の西隣にあるので牛御前の宮の神領とも思える。
鍛冶屋給(かじやきゅう)(小字名) 五十丁
鍛冶屋職人にが住んだとも言われるが、この土地は水田地帯だから、職人の仕事がない時に野良に出て働いたとも考えられる。
重春・乙丸(おとまる)小字名)   五十丁
荘園制度の下部組織をなすのが名田制度です。名田とは、一般農民が土地の私有権を強化する為に、自分の名を付けたものです。鷹尾文書によれば、瀬高庄の下に22の名があって、その中に吉里名、有富名の名田がありましたが、重春・乙丸も名田の遺名です。「読本旧柳川」に「上庄の繁栄したのは、鷹尾別府10名の米満・小法師丸・三郎丸・田吉・一在・倉光・弥吉・末吉・小太郎丸・乙丸の役所、倉庫を設けられていたからである。小法師丸乙丸の両名が荘園と別府のどちらにも入っているのは、瀬高の荘分と、鷹尾別府と二つあったことがわかる。」とあり乙丸は人名に由来するものでしょう。
鬼橋(小字名)          五十丁
上庄の西端にあり、御二橋のある所であるので、オンニハシがオニハシに転訛して鬼橋の漢字の地名を宛がったのだろう。荘園時代に柳川に行く道路に架かる橋に上庄から御前橋→御二橋→御三橋(現在の三橋町)の名が付けられた歴史がある。
出口(小字名)(行政区名)
集落としての位置を示すもので今は行政区名になっています。この地は柳川往還と薩摩街道の分技するところから起名されたのではないでしょうか。大名はここにある、お茶屋(陣屋)に宿泊して、明朝出発した所です。
             
お茶屋前(通称名)      出口
江戸幕府の交通政策により参勤交代の街道に宿場を設け、大名は必ず本陣(お茶屋)又は脇本陣に宿泊することを要求した。本陣の事をお茶屋と称し、お茶屋番がおかれ大名および幕府の旗本、日田代官の高級武士の宿泊、休憩所として用いられた。県道423号の御茶屋前の信号から南に旧薩摩街道を入り20mから63m位までの東側一帯774坪にあった。建物は本棟と別棟の長屋があり、本棟は22室程あり建坪は157坪程であった。詳しくは街道編瀬高宿を御覧ください。
住吉(行政区名)
瀬高橋の南側の堤防にあった住吉宮の所在する場所にちなんで近年に起名された行政区名です。元は小字名の大昌地のあった場所です。
大昌地(おうしょうじ)(小字名)   住吉
大昌地とは瀬高庄の長官(代官)の役所(庄館)があったことから起名されたのであろう。以前この地は住吉宮があり海が近く、海岸には白砂が遠くまで続き、波打つ潮も清く、青松も茂り、景勝の地であった。
横道(小字名)(行政区名)
矢部川の横にある道の意の地名で藩政時代商業が栄えた町です。
瀬口土居町(行政区名)
矢部川のちなんだ地名です。平安時代から明治時代まで栄えた町です。来迎寺の門前町でもありました。
本町(行政区名)
「本町」とは元の町の意味であるから、上庄の中心となる意の地名です。八坂神社(祇園宮)を中心として栄えた町です。
松土居(小字名)       東新町
元々土居は城郭・豪族屋敷・集落周囲に築造された土塁を称していました。それが次第に河川の堤防の名詞になりました。矢部川の水流制御の堤防に関係した地名です。南方の矢部川の傍にあり、松並木でもあり優美な景色であったでしょう。
二百町(小字名)(行政区名)
商業の中心の役割をし、多くの店舗が並ぶ繁華街で夏の祇園祭りは人が通れない位賑やかでした。二百町とは領地面積を示す地名であるが現在の当敷地では狭いので、鷹尾文書に上庄周辺を横尾庄二百丁とありこの面積で起名したのではないだろうか。横手(三橋町)とは上庄の西南にある地名です。上庄の西側には五十町や百町の開拓地名があります。
         

祇園池
新町(小字名)(行政区名)
藩政時代商業の発展した名残の街区名です。二百町と並び店舗の数や種類も多く、お蔵の浜の柳川藩の米の積み出し港としても栄えた町です。航海の安全を祈る金毘羅神社があります。行政区名は西新町・東新町があります。     
御蔵前(小字名)      西新町
江戸時代初期柳川藩の税収(上納米や麦)を集めたり売り払ったりする三つの米蔵の敷地に付けられた地名です。詳しくは港編お倉の浜をご覧ください。
山免(小字名)       西新町
免とは税を免除された土地である。山とは古墳のことであろう。近年まで古墳が存在していたと言う。神格不明の神を祀ってあり、昔からの言い伝えに、この神は恐ろしく祟りがあると人々は寄り付かなかった不思議な場所です。
         
五十丁(通称名)
三橋町に続く五十町の開拓地名です。町を丁にしたのは、三橋町と区別する為の起名であろう。
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                本郷校区編
本郷(ほんごう)(大字名)本郷町(行政区名)
大化の改新の地方制度として「およそ五十戸を里となし、里ごとに長を一人をおく」の里は霊亀元年(715)郷に改められました。本郷の郷も大化の改新に由来するものです。沖端川の北岸は条理制の実施をみた所です。柳川藩志によれば仁和年間(885−888)、本郷村に岩神将監なるものが居城したとあるから、その頃から、本郷の地名は、定着していたのでしょう。いずれにしても「本郷」とは元の村の意味であるから、付近では重要な役割を果たしていた集落であったろう。明治13年(1880)下妻郡のうち、山中、広瀬、小田、長田、坂田、文広、本郷山門郡に編入されました。
小路(小字名)(行政区名)
本郷組の庄屋の檀屋敷への通路に起名された地名です。
北受場(きたうけば)南受場(小字名) 小路
九品寺の西側の一帯にある。平安末から、鎌倉時代にかけて、開墾を奨励する意味から、開墾田を免税したところを請所(うけどころ)と呼んだ起名です。現在の元庄屋檀氏の居宅のあった所です。開墾当時は湿地帯の荒廃地を檀氏が開墾して免税田とした土地だったでしょう。
門前(小字名)            小路
九品寺のある寺領の敷地の意の地名です。お寺の創建が奈良時代の養老4年(720)ですから、当時の起名でしょう。
逆瀬(小字名)           本郷町
洪水時に水が逆流していたことから起名されたものです。
小出口(小字名)
小出(こいで)は「近くの出村」の語源があり、口は端の語源がある。近くには上開ちいう小字があり、近くへの出村への出入り口という語源とも考えられる。小出口は矢部川に面し、付近には3箇所の堰がある。したがって「コイデ」は堰を作って設けられた分村(出村)と考えられる。
新茶屋(小字名)         本郷町
藩政時代、久留米からの参勤交代の薩州街道沿いで、旅人の旅籠(はたご)か休憩所があった所です。
行基橋(小字名)            瀬戸島 
本郷の行基橋は沖ノ端川に架かる橋名でもあり、地名でもある。役場の台帳には行ヶ橋(ぎょうがはし)となっている。僧の行基(668−749)は律令時代の人で、百済の帰化人の子孫で、諸国を廻って民衆教化と共に社会事業をし、交通、灌漑工事にも手をつけました。ところが、残念ながら、瀬高地方に来た史実はありません。巨刹九品寺の僧達は仏道精進の為、沖ノ端川の河辺で「行」をしていたのです。その「行」にちなんで「行ヶ橋」と呼んでいたのを仏教信者が行基の徳をしたい、行基橋に昇華させたものと思える。京都の真言律宗・九品寺は8世紀初期行基が創建しましたが、本郷の九品寺もその寺名にあやかったのでしょう。
雷千(いかずち)(小字名)     本郷作出
行基橋から北西方角の水田の地名です。この地域は条理制遺構地帯で、現在は平坦な地形をしています。地形の影響でたびたび落雷でもあったか、干ばつ時期に雷神にすがって雨乞いでもした所ではないかとも解釈しています。
津久田(つくだ)(小字名)     本郷作出
行基橋を北に渡り北東の一画で佛町の田の東側にある。地頭の直轄地で、年毎に農民に分与して耕作させていた土地の遺名です。
佛町(小字名)          本郷作出
行基橋を北に渡り100m先の右の田です。寺院の経営田で免税された土地の遺名です。
天神田(小字名)        本郷作出
佛町の田んぼの北側にある。神社の経営田で免税された土地の遺名です。
馬渡(まわたし)(小字名)     本郷作出
行基橋を北に渡った一帯の東端にある、馬でなければ渡れなかった湿地帯だった所です。
尾虎町(小字名)       本郷作出
馬渡の土地の南側にあり、この辺りは条理制遺構のあるところですが、矢部川氾濫原の湿地帯です。古語辞典によると「おどろ」は草の乱れて茂っていること、またはその場所とあり、「おどろ」が転訛し「おとら」になり虎の漢字を当てたと考えられます。この地は村はずれで寂しく、かっては雑草、灌木の密生する荒廃地だったでしょう。現在は水田化され、ハウス栽培の盛んな所です。
瀬戸島(小字名)(行政区名)
開墾前は矢部川の瀬が入り込み水が浅く歩けるような所に名付けられたのでしょう。
上開(小字名)          瀬戸島
矢部川から沖ノ端川の分水口付近の土地名で、潟地の開拓地名です。開は開拓の意である。
権現山(ごんげんさん)(小字名)   瀬戸島
山に付けた地名ではありません。矢部川の松原堰の沖端川分水口の三角地形の名です。権現とは仏が衆生を救うために、神・人など仮の姿をもってこの世に現れること、また、その現れたものとある。重要な三橋や柳川方面の灌漑用水口で権現さんを祀っていたのだろう。山は地形語でなく尊敬語のサンに宛がったものである。
中土居(小字名)(行政区名)・下土居(小字名)中土居
中土居八幡宮のある一帯の地名です。中世から江戸期の矢部川の土居工事により出来た土地に起名された地名です。
                  
下川原・上川原(かみごうら)(小字名) 中土居
中土居の北側の地域でさらに北側に瀬戸島があり川に関係した地名です。川原は本来の呼び方は、ゴラ、ゴウラ、コウラ、コラなどと言います。これらの意味は石のゴロゴロしている所に付けた地名です。
場々北(ばばきた)(小字名)       中土居
藩政時代、駒射ち・犬追物・流鏑馬の練習をした本郷馬場があった北側の場所から付けられた地名でしょう。沖端川の流入口を久留米藩から防備する為軍事演習を城下から二里余の距離にある本郷で行っていたのである。
三本松(弥平次開)(小字名)
名鶴堰の下流西側、場々北の南側の耕地です。天保2年(1831)洪水の為三本松付近の堤防が決壊した。柳川片原町の酒造業の諸藤弥平次は藩令を受け決壊した堤防工事を行った。屈曲した所で川底深く、水流強く堰き止めるのが困難であったが一計を案じ酒桶数十個に石を入れて川底に沈め遂に難工事を成功した。今に至るまで、この付近を弥平次開と称されている。
松原・四本松・(小字名)
松原、四本松の地名は、鹿児島本線の西部一帯で、昔の朝鮮松原にちなんで起名されたのは当然です。柳川藩主・立花宗茂は豊臣秀吉の朝鮮征伐に参加して、朝鮮から捕虜として連れてきた布織、印刷、医学の技術者を領内に住まわせた。その時に本郷の川堤に朝鮮松を植えたとある。その松原は大正時代までは百本を超えていたが、太平洋戦争中、燃料用に松脂を取り枯死し、現在三十本位補植、してある。さらに幸作橋の下流にも三本松の地名があります。
        

朝鮮松原
名鶴・下名鶴(小字名)
幸作橋の下流名鶴堰の東側の本郷小学校付近の地名である。鶴は湿地の意であるので湿地帯で洪水により被害を受けた耕地です。
一本木(小字名)
名鶴の土地の北側にあり、大きな木があったことを意する地名です。
北燈油(とうゆう)南燈油小字名)
本郷集落の幸作橋を東に渡った東部のはずれにある。お寺に供える燈油代の供給田である。大広園の「油田」も同じです。
坂田原(さかたばる)(小字名)
バルは開墾の意もあったが、後に範囲、領域を示すようになった。坂田原は行政的に本郷圏であるが、その領有権は坂田集落にあったことを示すものです。
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福岡県
福岡の名は初代福岡藩主、黒田長政が出身地の備前福岡の名を移したもの(現在の岡山県邑久郡長船町福岡)で兄弟地名である。
現在の福岡県の起源は筑前の福岡藩が明治4年の政府の廃藩置県により福岡県として成立したことに始る。
地元の柳川藩も明治4年7月柳川県になり同年11月に柳川県、久留米県、三池県が合わさり筑後一帯を三潴県となる。
明治9年8月には筑前国一円(福岡県)と筑後国一円(三潴県)それに豊後国(大分)の田川郡、京都郡、企救郡、仲津郡、築城郡、上毛郡が「福岡県」として成立した。
倭→山門(やまと)   邪馬台国?
中国の魏志倭人伝に書かれた2世紀後半から3世紀中頃の卑弥呼の居城、邪馬台国の比定地として江戸期から新井白石をはじめ星野恒・橋本増吉・遠藤元男・黛弘道・牧健治・森浩一氏らの学者達が推定しているのが福岡県南部の筑後山門(ヤマト)郷、瀬高町です。
日本での瀬高町の「ヤマト」の地名の記録は710年に出来た『日本書記』神功記には「(神功皇后が)山門県(ヤマトノアガタ)に転至ましして、即ち土蜘蛛田油津媛を誅う」ほかにもある。藤原忠平、紀長谷雄たちが勅命によって、927年(延長5)にまとめあげた『延喜式』という古文書がある。宮中の年中儀式、百官の儀、作法から諸国のことなど記した書に「山門郡五郷、大江、鷹尾、山門、草壁、太神」とある。草壁が大草に変わったが他の4地名は今も残っている。では山門をヤマトと呼んでいたのだろうか。931年〜939年に日本最初の漢和辞典『倭名類聚妙(わみょうるいじゅうしょう)の中に、つぎの注釈がある。「山門郷 夜万止(やまと)と訓む、草壁 久佐加部(くさかべ)と訓む、大神 於保美和(おおみわ)と訓む、、、、」つまり、『日本書記』『延喜式』『倭名類聚妙』の三古文書をつなげば、神功皇后の頃には、山門の地名はあり、夜万止(やまと)と呼ばれたことになる。しかし神功皇后の年代が明確になっていない。
平成19年に瀬高町・山川町・高田町の合併でみやま市が誕生して山門郡の地名が消えたことは残念なことです。歴史ある山門(ヤマト)の復活を願います。
参考文献
地名語源辞典(山中襄太)・地名の語源(鏡完二、明克)・地名研究入門(都丸十九一)・地名の古代史(九州編)
瀬高町の地名の話(鶴記一郎)転写承諾済・古地図提供 ・ 瀬高町地名考(原亀男)

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