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    【筑後の薩摩(坊の津)街道の歴史】
 大化の改新(645)により、大和政権は地方に鎮守府・国府を設置。大化2年(646)には中央と地方の国府を結ぶ官道(官道とは現在でいう国道)が整備されはじめ、九州では大宰府を中心に道路を設け、地域支配の拠点である郡衛(ぐんが)の役所とを、水路や陸路で結び30里ごとに駅を設けた。坊の津街道は、筑後市内を南北に貫通していた官道を根幹として、長崎街道山家宿より分岐して、筑後3宿(松崎府中羽犬塚)を通り、肥後国を経て薩摩国坊の津港を結ぶ道路で、特に太宰府政庁の設置により、その支配地域との連絡交通のため発展した。その後も源平時代・南北朝時代も引き続き利用されて、藩政期ともなれば、西国大名の参勤交代、経済の発展に伴う生産物資の流通、一般旅人の通行に利用された重要な道路である。 この道路は九州を縦貫する道路であったため、久留米藩地域では坊の津街道とか、肥後住還とも呼ばれた。また、天正15年(1587)豊臣秀吉が島津征伐のため、軍勢を引率して、この道を通過したから一部については太閤道とも云われて、それに関する史跡や伝説も多い。
元禄9年(1696)柳川4代藩主立花鑑任の時、長田の渡し北長田で矢部川を渡り柳川領の長田小田本吉原野町と清水山麓の東寄りのコースから、西寄りの今寺
尾島久郎原今寺本郷瀬高宿のコースに変更されている。郷土史家の近本喜續氏の研究資料により瀬高からの筑後市の坊津街道(薩摩街道)を上りのコースで紹介します。

  今寺  筑後市津島西
今寺とは、津島西の旧名である。
本郷の北田の土手に柳川領の番所があったが柳川領との国境に久留米領の今寺番所が設置されていた。、米・麦類の密輸出や不法入出国を監視した穀留番所である。諸大名の通過の際、番所の室内に掛けたる槍を外し、有馬家定紋入の幕を落し、勤番侍は戸外に出ず、定場所におり、足軽以下は表にて下座して迎え入れた。番所には、常時飾槍・鉄砲・火薬・火縄が用意されていた。なお藩境石や一里石があったが所在地は判明しない。今寺とは、津島西の旧名であが、村内には天平年間(729)創建の光明寺があり筑後市内二十二ヶ寺院中最古の歴史を有する寺である。天正年間に藩主田中吉政により本末寺領残らず没収されている。延宝6年(1678)快音によって中興開山した。境内の鎌倉時代の作品と推定する九重塔は県指定の石造文化財である。

今寺 津島西部落内 今寺番所跡

津島東部落


津島東部落と木標
  久郎原村   筑後市津島東区
津島東区西方の街道沿いの小高い所に秋津島浪右衛門の供養塔がある。本名を村上浪右衛門といい。元禄10年(1697)に当地に生れた。享保元年(1716)、20歳の時に江戸に上り、力士となり、20数年間相撲に精進し名人の称号を受け、「天下第一」と称されるようになった。最盛期には、182cm、135kgの巨体であった。元文2年(1737)4月の大坂相撲の番付には東方の関脇とあり、寛保2年(1742)の相撲興行の番付には西方の大関とある。翌年9月に郷里久郎原で47歳で逝去した。文政年中(1818~30)に八女市福島の力士揚羽空右衛門の世話で建立された「日本第一秋津島塔」の供養塔が街道筋にある。(高口日文「郷土の鏡大関秋津島浪右衛門」参照
  尾島    筑後市尾島
尾島部落は現在の矢部川と松永川(桂川)との中間地帯古賀松原付近にあったが延宝元年(1673)の大洪水で堤防が破壊され、勢は軒まで浸し、家屋、家財、耕地まで流失した。住民は途方にくれて生活意欲を喪失していた。折地組大庄屋下川市左ヱ門は村の北方にある源平の古戦場、市の塚の松原に移住を計画した。薩摩街道筋に南北320間、街道中心に東西各30間に溝渠を掘り境界として村切りを行なった。人家115軒天満神社を建立、常用より興満寺を移転し近村より移住を求めた。藩庁は町づくりのため、正徳2年(1712)の検地まで免租地としたため、尾島は繁栄して制札場まで設けられた。伊能忠敬の測量日誌によれば尾島庄屋宅にて中食をなし、興満寺を出発点として記録している。
下川明神祠は下川庄屋の彼の偉業を永く忘れないため文政8年(1825)尾島金屋町の街道西側に建立された。
裏山とは、尾島集落の西北部の薮林の名称で、尾島から水田に通ずる古道の通っていた所である。尾島の東側を表山と云い、西側の山林を裏山と云った。昭和29年5月この付近の低台地に、5000年以前の住居遺跡が発見された。この遺跡は当地方では最も古い縄文遺跡として世間にその名を知られた。
(一)の塚文治元年(1185)3月、壇ノ浦の戦いに敗れた平氏の残党を追討して来た源範頼軍に追伐された屍体を埋葬して塚を造った。延宝2年(1674)尾島開村の時、この塚を発掘したら多くの甲冑刀剣等が出土したと云われている。明治28年(1895)村民相謀って五重の塔を建立したのがこの塔の由来である。
船小屋は旧藩時代元禄2年(1689)に矢部川の河川工事用の平田舟を格納する小屋が設置され、小屋番の役職の監督下に置かれていたことから土地の住民は「御船小屋」と呼んでいたから船小屋の通称が生じた。
文化年間(1804~1817)に疝癪(せんしゃく)で胸や腹の痛みで苦しみ、試験的に湧き出る鉱泉に水浴飲用して数日で治癒したから、その評判は筑後一円に広がった。文政7年(1824)3月、松永川畔に井戸を掘り浴場を設けたので、その名が界隈に広がり有名となった。飲用すれば特に胃腸病に即効があることが判明した。
           


尾島部落



街道は尾島上町の交差点から右斜めの旧道を入り
鶴田野町の町筋を通り二本松に向かう

下川明神祠

国道に合流向かえは興満寺
尾島の恵比須祠 尾島の国道沿いの恵比須祠 市の塚
  二本松   筑後市山の井

花宗川は、天正15年(1587)豊臣秀吉より、柳川藩主立花宗茂が下妻郡・三潴郡を拝領したため、灌漑用水を目的に着手、矢部川より引き込んだ半人工河川である。田中吉政が引き続き事業を行い藩主2代田中忠政慶長19年(1614)完成したといわれる。これを記念して、水田天満宮に石造大鳥居を寄進した。この川が、当初の着工者の名をとり、立花宗茂の花と宗をとり花宗川と呼ばれる由来である。また豊臣秀吉の軍勢が島津征伐の際、軍馬を同川で洗ったため馬洗い川といわれた。

白滝神社は平家堂とも呼ばれているが、文治元年(1185)壇の浦での最後の源平合戦に敗退した平家の残党が源氏軍の追討を受け、この地にて激戦が行われて多数の戦死者を出したため、その慰霊のため建立された。玉鶴霊社は平家の落武者某の若妻玉姫が、はるばる京より夫を慕いて当地を訪ねて来たが、夫の戦死を知り、戦死者を弔った平家塚の前で、自らの手で命を断った。同情した村民が祭ったと伝える玉鶴姫の悲恋哀話がある。花宗川右岸の白滝神社の前を通る細道が薩摩街道以前の古道である。
          白滝神社
二本松郷場跡は藩政中期以降上妻郡下妻郡より徴収された年貢米をここより川舟に10俵程積み込み若津港の新倉に送られ、関西方面への廻米船に積み替えられ出荷された。郷場には、藩庫役人が計画的に出張して年貢を受領していた。搬送用の舟を2本あった松につないだ。そのため二本松の名称が付けられた。
  
旧二本松橋 二本松の石標

   
水田経由の水田往還との分伎点を追分といい、そこには上妻郡下妻郡の郡境石が立っている。この分伎点には水田天満宮の燈篭数個が建立されていたが、太平洋戦争時に軍事上取り壊された。

水田焼は、約400年前、大和国管原郷の本田能登が太宰府に来て官公への神具を献ずるため、良質の原材である粘土を求めたが、砂礫が多くて不適であったから、太宰府安楽寺領である水田に来て焼き始めたのが水田焼の始めである。盛んな時には、本田・近藤家一族10軒位で作られていた。現在水田焼が只一軒のみ残っている。

街道は旧二本松橋を渡り、山の井の交差点を北西の細い旧街道を入る。諏訪通りを横切り進むと桝形の残る藤島橋に着く。
   



   羽犬塚宿場 筑後市羽犬塚

久留米市松崎
までの坊津(薩摩)街道は筑後三宿(羽犬塚府中松崎)を通った古代官道の葛野駅千数百年の昔から発展してきた宿場町である。
800年前には壇の浦の戦いで敗れた平家の落人や追討する源軍が通り、藩政時代は参勤交代の街道として更に発展した。
藩政初期には宿駅ごと乗り継ぐ、人馬継立をはじめ未熟であり需要も少なく、参勤交代などの大継には、上・下妻郡大庄屋、村々庄屋を通じて、農家夫役が村高に応じ国役として割り当てられた。また御茶屋がなく高級武士の宿泊は町の有力者宅が使われていた。
元禄14年(1701)には宿場の機能も整い始め、馬継所ができている。
正徳6年(1716)久留米藩は御定賃銭を定め、人馬賃銭を、人足1人、里あたり16文・本馬32文・半駄賃24文・商人荷物44文として宿間の里数で算出された。
享保7年(1741)馬市芝居興業が宿役の見返りに許可され、遊女屋3軒が認められている。
寛保元年(1741)宿駕籠(かご)10挺が藩から渡され、寛延2年(1749)久留米藩の御茶屋が設けられたとある。
宝暦10年(1760)御茶屋守に弥三郎が命じられ、藩主の滞在が慣例化した。
天明8年(1788)馬市が永年許可され、宿場としての機能が完成している。
寛政5年(1793)久留米藩は羽犬塚府中松崎宿に人足15人、馬10疋を常設し、人馬継立の宿役が始められ各宿町の請負せる形に改めている。緒記録から「家数百三十軒・町長四丁半、溝口・枡形・御茶屋・高札場・惣会所・牛馬会所・人馬問屋場・旅籠・寺社」が配置されていたことが知られている。御茶屋が宿駅の本陣化により、その管理は藩営となったが、その負担は領民に負担化が行われた。寛政4年(1792)以降は、御茶屋修理は茶屋守給とともに、農民より徴収した年貢米から充てられた。

御茶屋(本陣)は、現在の羽犬塚小学校敷地に、約1000坪の敷地に街道から引き込んだ所に豪壮な門構え、玄関は唐風造り、式台に駕籠が横付けされ、貴賓客は、そのまま最上の間に案内されるように造られていた。
大名行列は、蒲団・食器・食膳・漬物桶・便器など一切を携行し、食事は随行した膳部係により調理された。茶屋守は自宅に引き込んで何事もなさなかった。

会所では藩役人別当町庄屋などが詰めて勤務し、宿駅事務の一切をやり、組頭町年寄などの宿場役職が、旅客の宿泊や人馬貨物の継立事務を行なった。駅伝事務は、公私用の旅客の出入の記録や通行手形の確認を行なった。問屋には人足・駄馬・駕籠が用意され、人足は常に20名前後常駐していた。

溝口(かまえぐち)とは城下町や宿場町の防衛・検査の目的で、駅の入出口の両側に堅固な石壁を築きその上に櫓を構えた番所が設けられていた。羽犬塚宿においても、北の溝口は屋敷外町(宗岳寺付近)、南の溝口は山ノ井川の南藤島に設けられていた。特に7代有馬頼徸は、羽犬塚に常駐することが多かったため相当堅固な警備が行われたと思われる。

桝形は、別称かぎ形という。溝口の内側にあり、道を90度に折り、さらにまた折り人馬の突進を防ぐため、警備上の道路普請の方法で各地に作られている。北は宗岳寺付近で約12mのカギ形で作られ、南のカギ形は現在の法務局前で50mの長さに作られていることは、南の警備を重要視したのであろう。

制札場(せいさつば)とは、藩政時代に一般の法令を領民・通行人に知らせる目的で、板や紙類に書き掲示する場所である。
秋葉神社は久留米藩主7代有馬頼徸(よりゆき)によって久留米城内の秋葉神社を歓請し創建されたものです。
宝暦元年(1751)火災のため羽犬塚宿は被害を受け、宿場の遊女屋も全焼した。遊女屋の再建は住民の反対により大川向島(若津)に移転し繁盛している。
藤島橋(南桝形) 羽犬塚小学校(御茶屋跡)
昭和13年の国道209号の拡幅工事により昔の街道筋の面影を失い北の桝形と溝口は消滅している。


   【羽犬塚の地名の由来】
羽犬塚の地名に関しては、延喜式(905)に「筑後国府より葛野を経て狩道に至り、肥後国大水の駅に向かう」と記されているから、葛野が羽犬塚の旧名だと云われている。
中世から埋立地の意味である灰塚・はいんつか・羽犬塚などと称した資料もあるが、元禄15年に成立した六所宮縁起や当時の地誌などに載せられている「天正15年(1587)4月、天下統一をめざす豊臣秀吉が数万の大軍をひきいて島津征伐のため、この地を通ったとき、連れてきた敏しょうで羽根が生えたようによく跳ぶ愛犬がこの地で敵の矢にあたり死んだので、埋めて塚を築いた。この地を羽根の生えた犬の塚という意味で「羽犬塚」と呼ぶようになった」との、秀吉の愛犬伝説が最も広く親しまれてきた。

小学校前の羽犬塚由来碑
    【種田山頭火】
筑後市の薩摩街道沿いには昭和5年12月に滞在した俳人種田山頭火の句碑がある。
尾島の傍の船小屋温泉の 樋口軒駐車場前に 「雲の如く行き 風の如く歩み 水の如く去る」

坊津街道(薩摩街道)沿いの旧二本橋の袂には 「うららかな今日の米だけはある」

街道の南の桝形のある藤島橋(山の井)の袂には「さろうとして けふもくれたか山頭火」

羽犬塚宿の北の溝口のあった上町の社日神社には 「お経あげて お米もろうて 百舌鳴いて」
  (社日神社北側には山頭火が宿泊した木賃宿「喜楽屋」跡がある。)

また一条風穴の筑後工芸館には 「春風の鉢の子一つ」の句碑がある。 
樋口軒駐車場前 旧二本橋たもと 山の井橋たもと


社日神社

木賃宿「喜楽屋」跡
  一条    八女郡広川町一条・筑後市一条
石人山古墳などの古代遺跡が点在し、古代から栄えた地域です。石人古墳前の道が、藩政期前の坊の津街道である原形の古道である。一条の地名は、奈良時代の条里制により名付けられたと云われているところで、戦国時代の一条は、一条和泉守の館の所在地であった。一条氏は山下城主蒲池鎮運の支配下に属し、一条村の16町歩の所領を与えられ、村中の南屋敷に館を設け住居していた。一条氏は、下妻郡本郷村産の溝氏で、上蒲池より知行を受けて一条に館を構え,その地名をとり一条と姓を改めている。天正13年(1585)5月10日一条和泉守兄弟は、龍造寺軍に対して積極戦法をとり、相手の機先を制するため知徳城を打って出て、大野ヶ原で激戦を行い、戦利あらず兄弟とも討死した。藩政時代は在町として町が形成され、町入口には防備上溝口も設けられていた。
薩摩街道はこの先、相川の交差点の先を北東に向きを変え自衛隊の高良台演習所を通過して国分町の久留米駐屯地に向っ通っています。
   国分   久留米市国分町
国分町は歴史も古く、付近の遺跡からはは今から一万数千年前にさかのぼり、旧石器時代、縄文時代、弥生時代の多数の遺跡・土器が発見されている。天平9年(741)、聖武天皇は、国家の平安を祈願して、諸国に国分寺創建の詔を発しました。筑後国では、現在の日吉神社付近に僧寺、その北側約200mに尼寺が建立されました。明治30年歩兵第48連隊配置以来100年以上の歴史を持つ久留米駐屯地には歴史街道なる参勤交代道「坊津街道」跡が駐屯地中央を南北に走っている。
  府中宿   久留米市御井町
古代官道の国府所在地の御井駅でもある。府中の名は筑後国府が今から約1300年前(7世紀前半)から鎌倉時代が始まるまでの約500年間あったことに由来する。高良大社の門前町でもあり、久留米藩の領地内の脇街道で府中を通るものには「薩摩(坊の津)街道」「柳川往還」「府中道」「日田街道」が合流する重要な宿場であった。宿場には庄屋横目という名称の役人と、往還筋の町並みの世話をする町別当がいて、これら双方が宿駅の行政全般をとりしきっていた。この支配下に、実際の業務を取り扱う人馬問屋場があって、問屋役といわれる役人がいた。
府中本陣は、古地図によると御井小学校の正門の坂を登りきったところにあり、宿駅の制度が廃止されると、明治6年清水小学校となった。本陣、あるいは茶屋が学校になった例は羽犬塚にもみられるように他にもある。脇本陣は広手にあった薩摩屋と小松屋がそれであったといわれている。庶民大衆は「旅籠屋」を利用し、旅籠賃は宿で食事を支給するため、木賃(燃料費)に食事代と奉仕料が加算されてた。
高良大社

 神代の渡し
府中町からは、神代で筑後川を越え松崎町に至るのに「神代の渡し」を利用する筑後川越えがあった。参勤交代やその他で、諸藩の大名達が筑後川を渡って府中へ入り、府中を離れていったが、中でも島津立花藩の藩主が川を渡る時には、藩の御船手から船頭1名、有馬家定紋のある上着をつけた「水主」(船頭)6名が派遣され、晴雨にかかわらず屋根のない「川平田船」(底が浅く平たい船)に、駕籠をそのまま乗せて大名を渡した。その他随行する人々や、荷物については助船を出させ、御井郡鳥巣村(現・北野町)や竹野郡恵利村(現・田主丸町)の船庄屋の指揮で運んだ。しかし、その他の藩に対しては、ずいぶん待遇を落したという記録が残っている。


 松崎宿   小郡市(筑後国御原郡)
寛文8年(1669)有馬豊範が19ヶ村一万石の分知を受け鶴崎に城を築き、松崎宿ができ南は久留米府中から松崎を通り北は山家を結ぶ別名、松崎街道ができました。
。参勤交代道路として薩摩藩島津)、熊本藩細川)、柳川藩立花)等の九州の主だった大名がここを通い、重要な宿場町として繁栄した。幕末の松崎宿の総戸数は129軒、旅籠26軒、煮売屋6軒があり、藩主や大名を宿泊させる御茶屋があり、手紙の配達や物資運搬を行う駅伝もありました。宿場運営には庄屋・町別当らによる合議制で行われていた古文書が残されている。
もう一つの道に筑後川をわたり、北野町から大刀洗町本郷より筑前秋月八丁坂を越え、現在の筑豊を経て北九州へと通ずる秋月街道があつた。天正15年(1587)豊臣秀吉島津攻めの折も、これを利用して薩摩へ向ったといわれている。


旅籠油屋
 山家(やまえ)宿   筑紫野市山家
慶長16年(1611)に山家の初代代官の桐山舟波によって開かれた宿場です。筑前六駅のひとつで、黒崎木屋瀬飯塚内野山家原田です。長崎街道日田街道薩摩街道が交差する、「山家宿」は九州を貫く主要道の分岐点となっていたのである。薩摩街道はここで長崎街道に結ばれ小倉に至る。下れば、長崎に到る。

小倉からは門司往還を通り大里宿(だいりしゅく)から船で本州の山陽道赤間関(あかまがせき)下関)に渡り関西の西宮に向っていた。1799年に、長崎奉行所が大里村北九州市門司区に、船舶取り締まりのための番所を設けた時点で、長崎街道の起点は小倉から大里へと移っている。

リンク・秋月街道HP様

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 参考資料
 *筑後市内の記事は筑後郷土史研究会会長の
近本喜續氏の御承諾頂き「坊津街道筋史跡探訪」を使用いたしました。
 
  その他・「羽犬塚宿役の変遷」木本保男著・伊能大図模写本・種田山頭火資料・御井町誌参照


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