みやま市の武士と城 
庄福BICサイト  H18・10・16更新     
   戦いの歴史
弥生時代 みやま市での戦(いくさ)の歴史は弥生時代に小国同士の縄張り争いに始まり、西暦184年卑弥呼が連合国の代表女王になってからも、隣国の狗奴(くな)国(阿蘇から球磨川あたり)の熊襲との戦を行っている。その後壱与田油津姫などの女酋が国を治めた仲衷天皇18年に神功皇后の戦により田油津姫は退治され朝廷の権力が及んでいる。(日本書記)
 
 (補足欄)
北の関の大塚
 (山川町)
山川町の北の関を南へ出ると、2−3軒の農家や水車場があった。下を流れる川は飯江川の上流で血波川や合戦ヶ淵と称する。その川縁に大きな小高い塚が、県道下の田んぼの中にある。邪馬台国狗奴国との合戦があり、その時の戦死者を葬った塚だと言い伝えられている。
その後最終源平合戦の北の関決戦の戦死者も葬り平家台とも申していた。
その後南北朝時代の戦時中にしばしば激戦あって、その戦死者も合葬されたところである。中でも特に菊池武敏公は合戦に勝利せられたが、血波川合戦ヶ淵もその名残である。法華経塔として自然石の大供養塔がある。
 (補足欄)
草場古戦場
神功皇后は田油津姫を討つ時に、有明海から北上して矢部川に入り高尾嶋(大和町鷹尾)に上陸した。それから多くの部下と共に藤尾部落に着き軍議をしていた時、賊軍が攻め込んで来て大きな戦いになった。朝廷軍は突然の攻撃に驚き、すぐに反撃に出て賊軍を打ち破った。伝説によるとは、この地は牧場であり略して「草場」という説と「戦場」を略して「草場」という説がある。
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古墳時代 西暦270年頃には筑紫国造磐井山門県主(つくしのみやこやまとのあがたぬし)が郷土を治めていたが528年大和朝廷にそむいて九州王朝樹立を目指し九州の豪族連合と朝廷軍と戦ったが敵軍の物部麁火の手によりに戦いで亡びるている磐井の乱)神籠石の謎
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飛鳥時代 658年天智天皇(皇太子時)筑紫の国を巡業され郷土では長島に滞在された。当時の豪族も朝廷の政権にゆだねる。
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平安時代 貴族の世の中939年藤原純乗蒲池城(柳川)を築き942年には蒲池の初祖がかまえ、平戸松浦党や宇都宮家とも縁を結び結団している。藤原氏全盛の1121年藤原俊忠が瀬高の荘園を領有している。1167年平家の横暴から宇都宮○三郎(藤原が祖)の子、藤原中次は弟重国と京都から祇園宮を分け上庄に逃れて住んでいる。
1185年壇ノ浦の戦いで追っての源氏との源平合戦が船小屋から飯江川において行われ、要川は最後の激戦地である。平家の残党は沖の端や本郷、山川町、肥後に逃れた。
補足欄)
平家の落武者
沖の端の落武者は初めて漁業に従事し、これを漁民の祖として漁民を六騎と呼んでいる。
山川町の平家の塔は当時に斬首されたものを埋めた所である。七霊宮は平家7人の夫人が滝に身を投じて死んだ霊を弔った所。平家塚もその名残である。最後に平家の公達5人は肥後の五家庄に「五家」、6人は沖の端に「六騎」本郷の公達も永久に住み着いた。
鎌倉時代 1276年蒙古襲来、1284年再び来襲(弘安の役)。大宰府、鎮西奉行、少弐経資ら薩摩の島津、肥前の松浦党ら、筑後軍は博多庄浜を担当し戦い田尻三池蒲池の諸豪出陣、功をたてる。の諸豪出陣、激しい戦いに挑んで功をなした。蒙古軍は台風により壊滅し元帝国の野望は壊滅した。「神風」の始まりである。.
南北朝時代 九州豊後の大友一族、肥前の龍造寺一族、薩摩の島津一族三国志であり、それに宇都の宮、蒲池、田尻、菊池、松浦、有馬などの武士が絡み戦乱の時代は秀吉九州平定まで続く。
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足利尊氏の子直冬は親と対立抗争し足利幕府は分裂。九州の守護である、島津、大友、少弐は直冬に味方して向かい入れた。九州では幕府方、南朝方、直冬方に別れ混乱が続く
1358年筑後川の合戦では懐良天皇(南朝)に叛旗をひるがえし大友、少弐が戦う。

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(補足欄)
大塚古戦場
大塚部落にあり、延元2年(1337)4月に肥後の菊池武重恵良惟登らは筑後をその勢力下においた。それを知った足利尊氏は、家臣の一色道猷を遣わし筑後に攻め込んで来たので、菊池氏、恵良氏は一色氏と大塚原で戦って大いに一色軍を打ち破った。その時の斬首は200余に及んだという。
永禄8年(1565)には黒木肥前守がこの大塚で賊と戦い戦死したということが系譜に書かれている。
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(補足欄)
長田河原戦場
長田部落にあり。延元元年(1336)8月23日朝廷軍、平津肥前守溝口太郎入道とその部下達と、佐竹二郎荒木有家らと戦った所で溝口軍の敗北に終わっている。
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室町時代 1392年南北朝 合一する。1394年〜応永の頃はみやま市西部と柳川蒲池、みやま市中部は神領(鷹尾神社)、みやま市北部溝口氏と氏、みやま市東南部田尻氏が支配していた。1559年菊池氏は筑後に侵入して、各地で合戦を起している。蒲池が柳川に城を築いたのもこの年である。
安土桃山時代 郷土では各地で戦乱が続き1587年豊臣秀吉が九州を平定、蒲池氏が出城を置いた後柳川城に豊後の大友氏の流れをくむ立花家の名将鑑連の養子立花宗茂13万2千2百石の領土に入城したが関が原合戦では西軍の豊臣側(石田三成)に加わり敗北。徳川家康の政権になり、領土没収、朝鮮出兵(秀吉時代)の際の親交、加藤清正の好意で肥後で過ぎし、しばらくして江戸のお寺に入る。宗茂が江戸にいることが徳川家康に知れ宗茂は奥州棚倉に領土を与えられた。三河岡崎の田中吉政1601年関が原合戦で石田三成を捕らえた功績で筑後国32万5千石の柳川城主となる。
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江戸時代 田中吉政は三河岡崎(元家康の居城)10万石から筑後一国32万5千石を与えられ、筑後藩となり治水、干拓事業、街道整備や城郭を固め天守閣の建設をを行う。1611年「一国一城令」により吉岡城、松延城、江浦城などこわされた
1621年立花宗茂が大阪の陣で徳川の軍に加わり手柄をたてたので柳川城に戻り、加藤清正に預けていた家臣たちを引き取り、幕末まで立花家が12代にわたり柳河藩を治める。 
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   郷土の城 
女山神籠石の列石 瀬高町大草の女山の山の斜面や丘陵の側面に約70cm方形の列石の上に2m以上の土塁と前面に鹿砦式防柵を築いた古代城跡である。5世紀末の磐井の乱時代、畿内勢力と九州勢力の国家統一をかけた戦いで畿内大和軍防備の為の建造説と7世紀半ば白江村の海戦(663年)時期、唐、新羅からの防衛の為大和政権の築造説がある。神籠石の謎 

  蒲池一族の城跡 蒲池城は天慶年間(938〜947)藤原純友(すみとも)の弟藤原純東が築いたと柳川地方の伝承あるが、築城者は、藤原純友一族ではなく、大宰府をめぐる戦いで純友の弟の藤原純乗の軍勢を迎え撃った大宰権帥の橘公頼であり、その子の橘敏通の子孫が蒲池城に拠り蒲池の領主となったとする説もある。
蒲池城跡 (柳川市蒲池)
天慶2年(939)平安時代の大宰少弐筑前守藤原長範の子供で藤原純友(すみともの弟藤原純乗築城したとされている。
天慶4年(941年)
藤原純友の乱(天慶の乱)の時、大宰府を襲い焼き払い柳川に迫った純友の弟の藤原純乗の軍勢を、蒲池城で迎え撃った。その功で橘公頼の子孫が、筑後国蒲池の領主となった説と藤原純友の末裔が領主である説がある。
延久年間(1069〜1074)蒲池氏が居城としたが、後に柳川城が築城後は出城となる。
鎌倉時代に嵯峨源氏の源久直が蒲池の地頭職になって赴任し、筑後国蒲池の領主の娘婿となりその勢力を背景にして本拠地として蒲池氏の初代となる。
応永年間(1394年〜)蒲池12代目蒲池武久の娘は筑後の高良大社で南朝の懐良親王の軍事参謀の領地を持たない武将の宇都宮久憲と出会い結婚し、蒲池氏の名跡と遺領を相続し蒲池久憲(かまちひさのり)となり蒲池家を再興し発展の基礎を作る。従兄弟の貞知久憲と行動を共にした。久憲以前の嵯峨源氏系蒲池氏を「前蒲池」といい、久憲以後藤原氏族宇都宮氏系蒲池氏を「後蒲池」を呼んで区別している。
同じようなケースに、蒲池氏の重臣で、
蒲池鎮並の肥前行きを制止しようとした木統光の大木氏があります。
大木
氏は、久憲の弟の宇都宮資綱の子の大木政長にはじまり、大木姓は、宇都宮泰宗が管理していた徳大寺家の大木庄に由来します。

天正9年(1581)蒲池鎮並が、肥前の龍造寺に謀殺され攻められ柳川城とも落城した。

歌手の松田聖子(蒲池法子)は福岡県久留米市の生まれだが、父親の生家は柳川の旧家で、上に書いた蒲池氏の塩塚の分家の子孫。 柳川城主の蒲池鎮漣(かまち・しげなみ)の弟の蒲池鎮貞(かまち・しげさだ)の子孫で、 聖子の兄の蒲池光久さんは、蒲池鎮貞から数えて14代目。初代の蒲池久直から数えると34代目となる。

柳川城跡 (柳川市) 下蒲池家
矢部川の支流である沖の端川を利用して築いた水城で柳川高校付近の一帯が柳川城跡で石垣や堀割が残っている。
文亀年間(1501〜1504)蒲池治久が蒲池城の支城として築いた。治久の孫である鑑盛の時に勢力を増し 蒲池城を支城とし柳川城を本城としています。
蒲池家は豊後の大友家や肥前の龍造寺に仕え戦乱を生き延びた。
天正8年(1580)
蒲池鎮並(かまちしげなみ)が龍造寺軍に囲まれたが、300日間立てこもっても、落城しなかった。
龍造寺隆信
(りゅうぞうじたかのぶ)鎮並(鎮漣)と和議を結んだが翌年天正9年(1581年)5月27日隆信は娘婿でもある鎮並(夫人は隆信の娘玉鶴姫を猿楽能に招き、佐賀城下で刺客を差し向け、従者共々暗殺してしまいました。その勢いで龍造寺軍は柳川城を攻め落とし、さらに塩塚城などの支城を次々と攻め落としました。

なお鎮漣の嫡男の宗虎丸は殺されたが、宗虎丸の姉の徳姫と弟宮童丸は、家臣に守られ柳川落城から逃れる。宮童丸は後に蒲池経信となり、その一族は、豊後日田に子孫を伝え、今日に到っている。初代蒲池経信、2代経行3代経成と続く。
鎮漣と共に討死した家臣蒲池鎮久の子、熊千代(蒲池貞久)も塩塚の民家に逃れ、成長して諫早に蒲池の系譜を伝える。

天正15年(1587)秀吉の九州平定後、立花宗茂が13万石で城主になるが、徳川家康の政権になると、関が原の戦いで西軍に加わり敗北し改易となる。
新しく三河の岡崎城の田中吉政が入り5層の天守閣を建て堀割りを造る。城の城郭が翼を広げた鶴を連想させたので舞鶴城とも呼ばれた。2代目忠政で世継ぎがなく断絶。1620年再び立花宗茂が12万石で城主となり、幕末まで13代立花鑑寛まで立花藩の城下町として栄える。明治5年(1872)失火により全焼した。
*藩政の時から瀬高庄(瀬高町上庄)に通じる道がある柳河城下を瀬高町(昭和7年京町と改称)と称され、城入口に「瀬高の門」(明治に下庄上町の引接寺に移設)があった。元和6年宗茂が再封の際、門は柳川の新町に移設されたが、瀬高町の名は昭和7年まで呼ばれた。
               

    城の石垣



 唯一残っている城の写真
塩塚城跡 (大和町塩塚)
天正9年(1581)5月27日龍造寺隆信蒲池鎮並の弟蒲池統安(むねやす)が守る柳川城を攻め落し、5月28日、蒲池の出城である塩塚城を鷹尾城主・田尻鑑種(たじりあきたね)に攻めさせました。田尻鑑種の姉は柳川城主・蒲池鎮並の母ですから、一族同志の悲惨な戦いでした。柳川城から鎮並夫人玉鶴姫(たまづるひめ)をはじめ、子息・侍女ら108人は、統安の二男塩塚石見守鎮貞(しおつかいわみのかみしげさだ)が守る塩塚城に逃れていました。6月1日、塩塚城は攻め落とされ、108人は、少し東の蒲原に隠れていたが、ついに自害または殺害された。後日、遺骸(いがい)を塩塚城の少し離れた所の宗樹寺(そうじゅじ)の前に集め、弔(とむら)ったのが百八人塚です。現在、108名を祀る地蔵尊がある。玉鶴姫の遺骸は、本堂の横に埋葬し、その上に若宮神社を建立(こんりゅう)、のち下塩塚の住吉宮(すみよしぐう)に合祀(ごうし)したと伝えられます。戦国の習いとはいえ同族、親族を相打ちし鎮並夫人とは龍造寺隆信の娘、玉鶴姫である。
*塩塚城は中世末期の平城(ひらじろ)で、本丸の規模は東西15間(27メートル)、南北14間半(26メートル)でした。天正年間(1573〜91)柳川城主蒲池鎮並(かまちしげなみ)の一族塩塚石見守鎮貞(しおつかいわみのかみしげさだ)の居城であった。

蒲船津城(三橋町蒲船津)
柳川城蒲池氏の家臣蒲池益種の居城であったが、天正9年(1581)蒲池鎮並(鎮漣)龍造寺隆信に暗殺され、柳川城は龍造寺氏に攻められました。このとき龍造寺氏の将、鍋島直茂は蒲船津城に攻め寄せました。蒲池益種は奮戦したが落城し、蒲池兵は囲みを抜けて塩塚城に逃げ込もうとしたが皆討ち取られた。攻め込んだ鍋島直茂は後の佐賀の鍋島藩の祖になる。落城のちには、龍造寺の四天王のひとり百武賢兼(ひやくたけ‐ともかね)が城番になったと伝えられている。熊野神社前の県道の南周辺が城跡であったろう。次郎丸、旗角目、門の内などが残っている、字村中(むらなか)周辺が城跡と考えられている。
垂見城跡 (三橋町垂見)
三橋町垂見にある。蒲池氏の柳川城の支城で蒲池氏の家臣、垂見常陸介が守る。
天正9年(1581)6月 柳川城主 蒲池鎮並鎮漣)が佐賀で暗殺後 蒲池氏の諸城をことごとく攻め落とされ垂見城もその一つである
白鳥城跡 (三橋町白鳥)
白鳥神社の西側あたりにある。築城年は不明。蒲池氏の柳川城の支城として建てられた。
天正10年(1582年)
龍造寺軍は 鍋島直茂を率いる1万の兵が 柳川に入り田尻鑑種は、筑後の反龍造寺の諸将と肥後の大津山氏 和仁氏の援軍が加わり激しい戦いがあった 始めは田尻勢が優勢だったが諸将の連絡が悪く 田尻鑑種率いる兵は敗走した
今古賀城(三橋町今古賀いまこが
柳川城の支城として築かれたもので、天正9年(1581)蒲池鎮並が佐嘉城下で龍造寺隆信により謀殺され、龍造寺氏により柳川城を落とされたときに、今古賀城も落城した。
天正15年立花宗茂が柳川城に入ると家臣が城代として入りました。その後立花氏が関ヶ原で西軍につき敗れた為に除封され廃城となりました。城跡は現在、周囲に堀があり今古賀の公民館がある。
佐留垣城跡 (大和町栄皿垣)
佐留垣 城は、蒲池氏が支配してた時の 柳川城の支城 で蒲池鎮並(しげなみ)の弟蒲池統春(むねはる)の居城である。
天正9年(1581年)龍造寺隆信の命令で柳川城や塩塚城攻め落とされた翌日(6月2日)鷹尾城主、田尻鑑種と肥後の小代親伝(しょうだいちかただ)ともに、蒲池氏の残党が最後にたてこもった佐留垣城を攻め、蒲池統春を初め100余人を全て討ち果たし、切り取った首を2隻の舟に積んで龍造寺隆信の佐嘉城に送らせ、首実見をした言われている。

佐留垣城跡は大和町役場の南役1kmほどの皿垣小学校の東に隣接した戒音寺(かいおんじ)の周辺50mあたりと思われ、現在は宅地化している。わずかに濠跡が残るだけである。
大木城跡(瀬高町大広園、北大木)
周辺を濠に囲まれていた。この城は下野国の宇津宮弥三郎宇治川の合戦によって戦功があり領地を賜り、大木部落に城を築き大木主計頭と名乗っている。南北朝時代に落城しているが、その後蒲池久憲の次男資網の子大木政長が城を再興している。柳川城の蒲池氏の蒲池鎮並に属す。天正9年鎮並の老臣であった城主の大木統光龍造寺隆信の陰謀を心配して筑後川まで追いかけ蒲池鎮並の佐賀の須古城に行くのををやめるよう説得したのは有名。

山下城跡 (立花町北山) 上蒲池家(蒲池分家)
立花町の矢部川沿い北山に城跡あり。蒲池氏が筑後を統括し、大友氏に対して反抗し独立することを警戒していた。永正元年(1504)筑後守護の豊後の大友氏は、本家15代目蒲池鑑久の領地(下蒲池)1万2千町(12万石)と、山下の山奥に(立花町北山)に本家の鑑久弟の蒲池親広大名分として分家させ(上蒲池)8千町(8万石)に勢力を分散させた。
後に蒲池鑑広が築城した。別名は人見城。立花町の北山の山奥にあり天然の要塞である。柳川の蒲池嫡流を「下蒲池」山下の庶流を「上蒲池」として区別した。蒲池鑑広は豊前の大友方を通し、柳川城の鑑並天正6年の耳川の戦いで肥前の龍造寺方となり同族同士敵味方に別れ戦う。龍造寺の筑後侵攻に抵抗して2万の大軍に対して籠城を行い守りぬいている。
また無形文化財の「幸若舞」はこの城から周辺の農民に伝承され現在、瀬高町大江にて舞われている

山下城跡をのぞむ
瀬高城跡(瀬高町上庄出口)
戦国の武将、黒木の猫尾城主黒木鑑隆(あきたか)の子。黒木兵庫頭実久(さねひさ)(家永)の城であった。肥前の龍造寺隆信軍に攻められ、援軍に駆けつけた父の鑑隆は大塚村で戦死(墓は下庄の二尊寺にある)実久はその時、猫尾城に逃げ、のちに猫尾城主となる。上庄出口に牛御前森の地があるが、その森の中に石碑がある。ここが城の跡ではないかとされている。また土地の人に言わせると牛御前森は古戦場の跡といい、この城跡はまだ明らかでない。
松延城跡(吉井城)(瀬高町松田)
吉井にあった。櫓(やぐら)跡、城濠は埋もれてしまい当時を偲ぶものは何も残っていない。しかし、本丸、二の丸、三の丸と地名が残り、城の跡を示している。周辺は北広田の広範囲まで住居跡の井戸が多数、発掘されている。天正12年(1584年)に山下城主の蒲池鎮運が肥前の龍造寺隆信に攻められた時に協力する意味でこの地を領していた土豪の椛島式部が、築いた城である。
豊臣秀吉の時代には柳川城主になった立花宗茂の家臣、立花三郎右衛門が城番になり、慶長4年(1600年)には藩主田中吉政の家臣、松野主馬が城番をつとめて12000石を領している。田中吉政、世継ぎが無いのを理由に失格している。松延城は元和元年(1615)一国一城令で廃城となった。

2003年の山門前田遺跡(片垂)の新幹線用地発掘調査では戦国期の遺構の溝3条、井戸10基、土坑3基、多数のピットが発掘された。溝は同一箇所に集中する。井戸の平面プランは円形か楕円形で、径1〜1.5mと井戸に比してかなり大型である。これらもいずれも湧水層まで掘りこんでいることから、井戸と同一の性格と考えられる。井戸から加工のある松の幹が出土した。
本郷城跡(瀬高町本郷)
天正12年(1584年)肥前の龍造寺が攻めて来た時、それを防ぐために、山下城主、蒲池に味方する意味で壇大炊助によって築かれている。壇の子孫は今でも本郷に多く、廃城後は大庄屋の職にあって勢力をふるった。戦国時代の筑後国下妻郡広田庄本郷村の本郷豪族の館(砦)を拠点として勢力を誇示していた。現在は城跡を確認できるものは無いが小路八幡宮の南方にあったとされている。
吉岡城跡(瀬高町吉岡)
「城」とあるが、中世の豪族吉岡氏のやかた(館)のあったところで、小規模な城を拠点とし、城主と農民の生活を守る防衛的集落であった。城主は武士であるが、農民、地主であり、農民の指導者であった。館を中心として一族郎党の農民が集落を形成し、城主を中心として村落共同体を営んでいたのである。あくまでも農業経営が本体で、敵の攻撃を受ければ立って防ぎまた戦を挑むのである。天正年間(1573〜92)の頃の城主は吉岡加賀守天正12年(1584)に肥前(佐賀)の龍造寺が攻めて来た時、山下城の蒲池と一緒に戦っている。この地に吉岡の性が多いのは、その一族である。その当時、大友、竜造寺、高橋、戸次氏などの間に攻防が繰り返されていたにで、この館の幾度か兵火をうけたであろう。立花藩の前の領主田中吉政公の時代、吉岡城主の不破伝衛門は、豪勇の反面慈悲深く、たとえ罪人でも、頼って逃げ込んだ者はその罪をとがめず、又捕えさせなかった。吉岡城跡は、現吉岡集落の中心地域で石鶴水路の吉岡橋(安達宅)の北西部の通称「ヤブノウチ」と言われる地帯で、最近まで竹薮に覆われていた。館の周囲は防御用の堀を巡らしていたが、水田、宅地に変じている。城跡には吉岡家の生目八幡さんがあり、その付近には城の築造に使用したと思われる巨石が放置されている。また三天神を祭ってあった小堂の跡がある。吉岡加賀守の子孫吉岡家の住家も新築されこの地にある。
吉岡城の西方に「アン」という地域があるが、ここは長宝寺の所在した地域といわれている。今は民家の宅地となっている。庭先には吉岡家を記念する自然石の大きな板碑が、文字を刻みかけたまま放置されているが何か突発的な事変でも起きたであろうか。(下庄小学校100周年記念誌記事より)
                   
城跡

石像
城跡石
宮園城跡(瀬高町大広園、宮園・南大木・高田町海津)
瀬高町大広園宮園と南大木・高田町海津のまたがり築城されている。三池郡境の肥後口の押さえとして重要な城であった。
三潴郡の蒲池氏、十一代目(後蒲池二代)城主蒲池義久の次男の今村大隈が南北朝合一後の応永年間(1394〜1428年)に築城された。宮園城は水城(浮城)と呼ばれ、四方を水壕に囲まれ、清水山の大堤を切ると敵兵を溺れさせ、城を孤立させる事が出来る構造になっていた。難攻不落とうたわれ、決して攻め落とされる事はなかったが、天正16年(1588)豊臣秀吉九州征伐の折ついに落城、九州新領地配当により廃城となるまで今村氏代々の居城であった。九州征伐にて戦死した、兵士は「将軍地蔵」として祀られている。当時のの石垣は、柳川城築城の折,すべてを持ち出されたが昭和時代になり再建された。現在の東照寺の境内がが本丸跡である。東照寺は今村家の菩提寺として開祖され。現在の東照寺境内の伝之授社には宮園城主、今村大隅の五輪塔、二代城主瀬兵衛、三代城主薩摩、四代城主、土佐入道覚盤のそれぞれの逆修碑(生前に仏事を営み立てた碑)が合祀されている。
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禅院・小田城跡(瀬高町禅院小田・)
室町時代の戦乱の明応(めいおう)年間に、この地域を支配していた溝口(みぞぐち)氏が、溝口城(筑後市溝口)の支城として築城したとみられる。禅院区の建仁寺の西方1kmばかりの山地に禅院城跡があり小田の古僧都道から東に入った海抜213mの山頂に小田城跡がある。戦国時代の200年間はこの地域で禅院城、小田城.溝口城を根城として長田河原(ながたごうら)、禅院の合戦などを演じ活躍し、溝口常陸介時代は500町を領し( )一時は下庄(しものしょう)水田(みった)方面まで勢力を張っていた。筑後動乱で豊後(大分)大友義鑑(よしあき)謀反(むほん)し、大永(だいえい)5年(1525)2月12日大友の先陣1700余人に溝口城を囲まれ、常陸介溝口刑部川崎右京亮と心を合せ、城に楯籠(たてこも)る。大友の援軍の吉岡・山下城の軍勢が到着して溝口城は陥落(かんらく)し、禅院・小田城も同時に大友義鑑軍に落されたとみられる

小田城入口の熊野神社鳥居

  田尻一族の城 田尻氏(たじりし)は、筑後国三池郡の大身(たいしん・身分が高く禄高の高い人)で筑後十五城の一つ。原田氏、秋月氏(筑前国・朝倉郡)、高橋氏などと同じく大蔵党の氏族で、天慶3年(940年)藤原純友の追討に勲功のあった大蔵春実の子孫。「田尻系図によれば、大蔵春実の孫の実種が田尻又三郎と名のったのが始まり。
田尻城跡(高田町田尻)
田尻氏は鎌倉時代からみやま市高田町田尻地区一帯を本拠とする国人領主で、大蔵春実の後裔といわれる。寿永年間(1182〜84)に大宰大監原田種成の三男種実が、筑前国から筑後国三池庄田尻邑に移り住み、田尻又三郎を称したことに始まるという。田尻の森山八幡宮の裏山一帯は、戦国期田尻氏の居城、飛塚城の跡といわれる。
天文17年(1547年)頃、
田尻親種ちかたね大友義鑑よしあきから山門郡の鷹尾に二百五十町の知行地を与えられると、矢部川河畔に新しく鷹尾城を築き、これに移った。旧田尻城には、一族の田尻左京を入れて城番とした。
鷹尾城跡(大和町鷹尾)
大和町鷹尾にあり。永禄年間(1558〜1570)の築城で田尻家の居城となる。郷土の権力者田尻鷹尾城を本拠とし、江浦城堀切城浜田城津留城を支城として肥前軍の来襲にそなえていた。田尻鑑種は柳川城主蒲池鎮漣の母が田尻鑑種の姉である同族である。だが両家に悲劇が始まる。天政9年(1581)蒲池鎮漣が和睦した龍造寺がいる肥前の須古城に行く途中殺害され龍造寺軍はすぐに柳川城、塩塚城を攻めた。その城攻めの先鋒が叔父の田尻鑑種だった。翌年田尻鑑種は龍造寺家に叛旗を翻した為に鷹尾城に2万の龍造軍に攻められたが、守り堅く1年間篭城戦となった。天正11年(1583)和睦を結び城の囲みを解いた。
江浦城跡(高田町江の浦)
永禄3年(1560年)永江勘解由左衛門平方が築城。高田町の江の浦本丸交差点の歩道に城跡ノ石碑が残っている。江浦城は鷹尾城の支城で田尻了哲が守った。
天正10年(1582)
龍造寺政家の2万の軍勢でも江浦、津留、浜田、堀切の四つの城も守り固め翌年には和睦し、龍造寺軍は撤退した。天正15年豊臣秀吉による九州征伐によって三池郡は高橋直次(立花宗茂の弟)の所領となり、江浦城には直次が入城、永江氏は高城主となり直次に従った。慶長6年(1601)田中吉政が筑後国の藩主となと、その家臣田中主水正が城主となる。元和元年(1615)一国一城令で破却となった。
浜田城跡(瀬高町浜田)
享保2年(1530)鷹尾城の支城(砦)として、江の浦、津留、堀切、と共に築城されたもので鷹尾の本城と共に鷹尾五城と称した。浜田城は村の南にあり現在小字名を古城という。東西十間半、南北二十一間半、平地より高きこと一間半である。今は竹が生え墓地となっている。
天正10年(1583)当時柳河城にいた龍造寺久家(政家)、鍋島信正(直茂)はある日、鷹尾城田尻鑑種、山下城主蒲池家恒(鎮運)を上庄矢部川において鵜飼の川狩に招いた時、実は川狩にことよせて両名を殺す噂が流れたことから田尻、龍造寺の間が気まずくなり遂に田尻は鷹尾城にたてこもり、本城はもとより各城も食料、弾薬、武器を整え浜田城は田尻大蔵之助が城主になり肥前勢を待ち受けた。かくて田尻、龍造寺は戦闘を開くにいたり、龍造寺久家(政家)は自ら3万の軍勢を率いて鷹尾城及び各支城を攻撃したが屈しなかつた。
天正12年肥前の勇、龍造寺隆信は島原において有馬、島津の軍に大敗しあえなく討ち死にした。かねてこの機をうかがっていた豊後の大友氏はこの機到来とばかりに、戸次道雪、高橋招運の両将を筑後に派遣し、龍造寺方の諸城を攻略した。その時戸次道雪は瀬高周辺の村々を焼き払った。
やがて
天正15年豊臣秀吉九州平定によって戦乱の世も終り、立花宗茂の柳川入城後、浜田城ほか廃城となった。田中吉政が筑後の領主となった後もこの城には手をつけていない。
堀切城跡(瀬高町河内 堀切)
浜田城と同じく鷹尾城の支城(砦)として築かれたもので堀切の北(おつく)という地名が城跡で三方掘割に囲まれた処にあった。天正10年龍造寺との戦いの時、田尻彦左衛門鎮永(南筑明覧、筑後将士軍談は福山将鑑)が城主となり肥前勢と戦った。その後、田尻、龍造寺との間に和平が成立し、田尻は本城鷹尾城を明け渡し、一時堀切城に入った。天正13年(1585)堀切の地元の人達が大友と通じ龍造寺に反抗した。堀切の住民、戦に加わり大いに奮戦し多くの戦死者を出したと聞く。その時豊後の侍、平井鎮経が城主となりこれを守った。これを支援する戸次高橋及び山下城の蒲池家恒(鎮運)の軍勢が浜田村に布陣し、田尻、龍造寺の軍と激しい攻防を繰り返した。その頃肥後を平定した島津は下筑後に侵入し三池河内守と語らい、平井弾正が守る堀切城を攻略した。城兵は防ぎきれず平井弾正は城を捨て江の浦へ逃れやがて豊後へ引き揚げた。天正15年他の支城と共に廃城となった。その遺構はわからない。南筑明覧にいう「三城(津留、浜田、堀切)ヲ守リシ子孫多クハ民衆ニ在リ」と。
津留城跡(大和町六合)
鷹尾城の北に位置する。津留城は、永禄(えいろく)3年(1560)に築かれた江浦(えのうら)城、浜田城、堀切(ほりきり)城とともに、鷹尾本城を守る四支城のひとつで、天正10年(1582年)龍造寺軍が、津留城攻めの時には津留因幡守が守った。この城も守り堅く 龍造寺軍が攻めても落とす事が出来なかった。
天正12年(1560)戸次道雪(べっきどうせつ)高橋紹運(じょううん)に攻められ、鷹尾城落城後、廃城になった。現在は城跡の周りに水堀が残っている。公民館及び民家が城跡である。
中島城(大和町西二重)
平成16年に大和町教育委員会(現・柳川市)は同町中島の西二重地区で中島城の発掘調査中しており、これまで、堀や人工的な整地層が発見されこの一帯に中島城があった可能性が高くさらに調査を進めている。田尻氏の本城である鷹尾城の古図には中島城が画かれており鷹尾城番宮川才兵衛が兼務している。



 柳河藩 田中 立花家の歴史 詳細は柳川市(旧柳河藩)の歴史
1586年(天正14) 島津氏が筑後国に攻め込み、筑紫郡の岩屋城主の高橋招運はたてこもり大軍により壮烈な戦士をした。その息子の立花宗茂立花道雪の養子となり粕谷郡の立花城にいた。立花氏の家系は先祖を大友氏に続いている。
1587年 豊臣秀吉の島津征伐が終わり、立花宗茂はその武勇を賞されて蒲池氏が落城したのち柳河藩の柳川城主となり、13万5千石を与えられた。
1592年(文禄1) 文禄の役、柳川の立花宗茂2350名を率いて黒埼より朝鮮に出陣秀吉に従軍する。
1593年(文禄2) 宗茂は朝鮮の平壌付近で李 如松(り じょうしょう)の率いた明の大軍を打破する手柄をたて、後には蔚山に籠城して危地におちいった加藤清正らの苦難を救った。
1594年(文禄3) 秀吉、病死。宗茂、朝鮮より凱旋し松を持ち帰り本郷の矢部川に松を植え(朝鮮松原)、カササギ(朝鮮カラス)も放った(天然記念物)。また朝鮮人参を山川村飯江人参山に植え薬用とした。
1600年(慶長5) 関が原の戦いで西軍に属して戦い敗れ、柳川に帰ると東軍についた佐賀の鍋島直茂らが 攻めてきたので、これを迎え三潴郡で戦った(八院の合戦)。その後黒田加藤らの勧めで和議が成り立つが、領地な没収され立花宗茂奥州棚倉の城主、1万石の大名に左遷された
1601年(慶長6) 岡崎城主田中吉政、関が原合戦で石田三成を捕らえた功績で筑後藩32万5千石の柳川城主となり石垣を築き天守閣をつくり城郭を固めた。
1602年 吉政は上庄の祇園社に50石の寄進状をよせる。
1604年 藩内に1里塚を築いた。現在するもので、瀬高街道に1里石(三橋町下久末)福島街道に3里石(瀬高町壇の池)三池街道1里石(大和町四十丁)3里石(高田町渡瀬)南関街道に3里石(山川町野町中村病院角)がある。ほかに馬の駅が作られ交通の便を与えた。
1609年 田中吉政は江戸参勤交代の途中、伏見で病死。四男の忠政が跡を継ぐ。だが兄、康政と争いが起きた。その後兄が幕府に訴状を出した為、その釈明の為忠政は江戸にのぼったが病死。
1620年(元和6) 二代目田中忠政に世継ぎ無く断絶。立花宗茂は大阪の陣で徳川の軍に加わり手柄をたてたので再び柳川城主になることを許され筑後国南部の11万石の大名になる。三池藩は弟の直次の子、種次が藩主となる。
1697年 4代立花鑑虎(あきとら)は四方に堀を廻らした総面積約7000坪の「集景亭」の別邸を構え遊息の地を造営。現在の「お花」御殿である。
1861年 柳河藩領の黒崎に英国の黒船出現。上陸して清水山の参拝と三池石炭山の検分を要求。応じたかは、不詳。
1867年(慶応3) 大政奉還
1868年(明治元年) 12代鑑寛(あきとも)は柳川藩(1871年に柳川県)の知事になる。
1910年(明治43) 14代寛治(ともはる)は「お花」(集景亭)の大部分の建物、庭園の新築を行い、西洋館と大広間、宴遊会場を造営。


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