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柳川城の外堀の東北に広がる「柳河町」は西の「沖端町」と同じく、町人が住んだ町で、瀬高町・辻町・外町など各単位は「町」で呼ばれた。しかし、町人以外にも武士や足軽・扶持人たちが住んでおり「鷹匠小路」や「長柄小路」など武士の屋敷に付けた「小路」を用いて呼ばれている。延享年間(1744~48)の「山門郡辻町住 中村六助蔵書」の「柳川惣町図写し」の左下記載には、侍43軒・寺社32ヶ所(但し寺下屋浦、家内・店、21軒)山伏5ヶ所、扶持人445軒、御家中家内68軒、町醫6軒、町人1232軒とある。ほかの資料に武士を除いた城下町の人口は、宝暦2年(1752)に4,584人、文化14年(1817)に4,927人、元治元年(1864)に5,515人で徐々に増えています。
ここでは、江戸時代の柳川城下の町々の様子を郷土史家・柳川方言の研究家である恵美須町在住の松石安兵衛氏著「近世柳河の町々」と元伝習館国語教師の井上勇先生著「柳川市内町名由来」で各町の由来・歴史と「旧柳川藩志」中卷、社寺の史料を柳河明証図会の挿絵と共に紹介いたします。寛政2年町小路地図(旧藩主立花家史料)と明治16年頃に「土木取調」の為に測量された地図(みやま市柳川市土木組合所蔵)で説明してあります。 |
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【出来町】 旧・出来町・頓徳町・日向町 |
出来町は柳川最南端の町で藤吉・江曲村の2つの道から柳河町内に入る唯一の道で、市街地に入るには、頓徳町と細工町の二重の木戸を通らねばならなかった。南を向いて通りの片側のみに並び日当たり良き町であった為に日向町あるいは日なた町とも呼ばれた。頓徳町とはトントコトントコと仕事をする音がすることから、頓徳の町名にしたという。享保絵図では出来町と記載。寛政絵図では出来町と片原町と記載。明治元年、頓徳町と日向町(出来町の名はない)。明治4年、頓徳町と出来町。明治6年に頓徳町・日向町の両町を合わせて「新たに出来たる町」という事から出来町となった明治17年の耕宅地1町、戸数55・人口265人。昭和60年、13世帯・49人(急減は工場の閉鎖などに依るか?)。 |
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長命寺・ 五台山宝光院 (天台宗) 出来町20-1 |

長命寺入口の利益衆生の地蔵尊 |
長命寺の説明文に「藩主別荘地時代より、南方数町の間、民家を許さず」とある。これは藩主鑑通公が参詣(たぶん舟で外堀を来て寺の石橋の所で舟から上がられたであろう)の時であろう。寺の南方を長命寺原と呼ばれた。東方に横たわる(本土居・御仮橋・塩塚川堤防)城塞(外城城壁)の広大な眺望を愛して柳川の名勝にしようと願われたであろう。江曲への曲り角には、長命寺の入口がある。道ばたの屋根付きの「利益衆生の地蔵尊」は 明和6年(1769)に長崎の品川兵左衛門広門により建立されている。地蔵尊は災難や疫病から衆生の住む迷いの世界から救済する御利益を賜るとされ、信仰されてきた。周りにある盃状穴は、古くは安産祈願・子孫繁栄や死者の蘇生を願ったものとされ、魔除けの目的で神社や寺の石に穴を彫ることが多くなったと言われる。江戸後期には、すでに信仰の理由は忘れ去られています。傍にある石燈籠は天保13年(1843)7月に奉納されている。 |
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仁王門 (坂本小路の最勝院→長命寺) |
明治維新後の神仏分離の際、坂本小路の山王大権現(現在の日吉大社)の別当最勝寺が廃寺となり、神社の参道にあった仁王門・阿吽の仁王像が長命寺の山門として移された。この仁王門は元禄8年(1695)に山王大権現(現・日吉神社)の石橋を渡った参道に切妻屋根の仁王門が造られ、右は像高225cmの密迹金剛開口の、左には232cmの那羅延金剛閉口の相の仁王像が置かれた。正面右の阿形像の背面腰部には「上妻郡山下町(現・立花町山下)・佛師・東佛傳基氏・草場村(現・瀬高町大草)大工・三小田孫助・元禄乙・亥八歳六月吉日」の印刻がある。(右図は山王大権現社・最勝院を画いた柳河明證圖會の部分図)。仁王門には草鞋が奉納されるが、健康健脚を願う人が仁王にあやかろうと奉納した。あるいは善意の人がお参りの方に使用してもらう為に奉納したと言われる。) |
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修復引越し前の仁王像・下地の白色が残り
腕・腹・足に赤の彩色が残っている。 |

復元参考資料
兵庫県宝塚市・中山寺の仁王像は以前の彩色等の痕跡をつぶさに調査して現代の絵師で復元された
修復前の仁王像門

修復前の仁王像 |
寺院縁起 |
寺記によると発祥の往古寺は三池郡舞鶴城内(現・高田町舞鶴)にあった。享保17年(1732)に中興の祖、西戒壇第8世覚城普光和尚が椿原小路(鋤崎土居)に自ら寺を建設する。元文2年(1737)の創立で開山は覚城普光和尚で天台宗総本山・比叡山延暦寺の三門の一つ青蓮院門跡の直支配となる。延享3年(1746)に椿原町にあった長命寺に立花帯刀家の3代目茂之(主水)と弟である5代藩主貞俶公の生親・(玉線院)の隠居地が卒去の為に茂之の寄付により寺を出来町に移転した。同時に本尊不動明王並びに秘仏・大聖歓喜天が寄進された。当時、律院の豪海の願いにより官寺となる。明和3年(1766)には7代藩主鑑通公の祈願寺となり、秘仏・毘沙門天王を寄進される。藩主自ら参詣せられ代参も2、5、9、の月に行われた。寺領地70石余が寄付されていた。明和6年(1769)に寺の入口に地蔵尊の像が建てられた。安永2年(1773)3月、祇園守の紋を許された。明治4年(1871)廃仏毀釈で廃寺となった最勝院などの仏像や石碑、石像物は悉く長命寺に移った。参道には寛正2年(1461)の逆修碑や天文6年(1578)久我対馬守大蔵朝臣久貞の逆修碑や文禄2年(1593)の断碑や古き石仏が参道に並んでいる。長命寺の本尊は不動明王で寺宝に秘佛・大聖歓喜天、秘佛・双身毘沙門天、十一面観世音菩薩がある。村誌に寺地798坪とある。明治5年(1872)に学制発布され観設小学校が長命寺の庫裡を学舎として発足、のちに境内地に2階建校舎を新築し長命小学校と改称、明治16年(1883)に本堂、聖天堂、庫裡は全焼し学校記録も殆んど焼失し往時の別荘時の面影はない。火災後に古材を用いて簡素な本堂を再建したとある。長命小学校は明治14年に中町に移り、明治25年に柳河尋常小学校と改名される。
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本堂仏間中心には本尊の立花道印寄進の不動明王が祀られ、右に大聖歓喜天王(秘仏・立花道印寄進)、毘沙門天王(譲徳院さま御尊顔)、十一面観音菩薩(家老立花平左衛門寄進)、愛染明王(柳川藩士有志の寄進)、虚空蔵菩薩(龍蔵院天満宮より移す)。左に双身毘沙門天(7代藩主・鑑通公寄進)、准胝観音菩薩(子安観音)(家老小野若狭守寄進)、不動明王(北三の丸の常福寺(廃寺)所蔵を明治2年立花家より御預け)、大弁財天(坂本小路の薬師寺より移す)、大日如来(長崎の品川兵右衛門寄進)、延命地蔵菩薩(家老立花勝兵衛寄進)、大弁財天(十時氏勧請)が厨子に納まっている。ただし藩政1089古文書の龍蔵院天満宮よりの不動尊、山王宮末寺よりの千手尊・十一面尊、慈恵大師が見当たらない。公儀の御位牌、御天守の鎮主の愛宕大権現の預かり尊像は明治16年の火災で破損したことが、翌年の長命寺差出しの古文書で解る。 |

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写真準備中
元亀二年(1571)・六体地蔵逆修石塔
(御堂内に祀る)
因幡入道(蒲地因幡守鑑憲の造立 |
本堂 |
堂内 |
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寛正2年(1461)(室町時代)の逆修碑
鎌倉時代の末から江戸時代にかけて広まったもので一字一石経といって小石にお経の一字を書き甕に納め、その上に碑を立て祖先と自身の後生を願いました。 |
天文6年(1578)2月(戦国時代)の逆修碑
久我対馬守大蔵朝臣久貞の逆修碑
坂本町薬王寺にあった碑です。柳河明證圖會にも紹介あり。 |
文禄2年(1593)の断碑
坂本小路・最勝院にあった碑です
柳河明證圖會にも紹介あり |

仁王門を入ると石造群がある |
宝篋印塔の一部
鎌倉時代のものと思われる |

宝暦四年(1754)の宝篋印塔
この塔を礼拝することによって罪障を消滅し,苦を免れ,
長寿を得るとして,この信仰は広まった。 |
天正七年(1579)己卯九月廿八の板碑
銘刻右欠損部に見える |
手前右の石碑は発起神
煩悩を絶ち真如の理を悟って、極楽に往生する、その
仏果を求めて仏道に入る先導をなす道神のことであろう |

田中惣左衛門・田中惣右衛門・田中弥助の
当時の豪商の寄進
明和7年(1770)の手水鉢 |
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往時は光明院(愛宕山伝法寺龍蔵院)の境内社であったが明治維新後の神仏分離により天満宮が残された。天満宮は延宝年間に勧請された。社殿の彫刻飾りは立派なものである。長柄町、細工町3丁目、頓徳町、日向町の氏神である。夏祭りには境内池上に千灯明が点けられ、上町の祇園祭と同じく参拝者で賑わった。境内には愛宕神・観音堂弁財社があり、棲門前には大黒天・蛭子社があった。入口の楼門は建築法が精巧である。大正11年に石の鳥居が建てられている。 |
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境内から見た楼門 |
光明院・ 龍蔵院・伝法寺 廃寺 出来町 |
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竜蔵院宥遵は修験者として柳川に来て住み、慶長5年(1600)に宗茂が開城の時に肥後に従い三池郡の高泉に住む。元和6年(1620)の宗茂の柳川城再封の時に頓徳町に寺地9畝余りを賜る。島原の役の時に2代行清はお供して陣中御具役を勤め、貝を吹き立て矢石を犯して勇進し、敵弾に当り死す。その弟の清与がしばらく当寺を預かり、行清の子、清秀を3代とする。清秀は法力殊に優れ加持祈願に効験あり。当寺の本尊は弁財天にして、藩主宗茂および誾千代姫は信仰深く、寛永15年(1638)に堂宇を勧請された。誾千代姫より末広の扇面に、御自筆の御歌を献納される。寛永年中に愛宕大権現を勧請される。のちの延宝年中に天満宮を勧請し同社の相殿に置く。寺内に氏子より、観世音地蔵稲荷の3躰を1座に勧請し、また門前に安政年中に氏子より、大黒天蛭子社の1堂が建つ。境内の狛犬のくわえて玉に歌が彫ってある。昔は疫痢の御祈祷があり千燈明が奉納された。明治維新後本院は廃院となるが、その子孫は今なお院地内に住み、感状および菅公一代絵縁起などを所持する。
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出来町の天満神社
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出来町南端の木戸を出て光明院(現・天満宮)の前を西へ行く道は片原町となっている。屋並が片側だけの町。瑞松院門前、沖端田代町の東にも片原町がある。)今は片原町は消滅し、家やアサヒ醸造や鶴味噌醸造が建ちこんだ江曲の町となり、南に広がっていた長命寺原も歴史上の名となった。 |
【南長柄町・北長柄町】 旧南長柄小路・北長柄小路 |
藩政時代では南北長柄町は南長柄小路・と北長柄小路言う。長柄(槍)組の組屋敷が小路の起源である。北長柄橋は新町水門から西流する川下りのコース上の橋で長柄小路を南北に分ける境橋である。南北の小路は食い違いになって見通せぬようになっていた。北に対して当然南長柄橋があるべきだが、不明である。南長柄も堀回しに守られていて、いま細工町3丁目裏の狭い堀が境堀となっている。ここが南の橋に当るはずである。この橋から細工町に出ると出来町境枡形に御番所と木戸があった。長命寺原から片原町・光明院前の木戸。出来町の木戸を通過した百姓衆は二重の木戸を通って城下に入ったわけである。北長柄小路が小道具小路と隣接しないのは、堀の東北隅が魚の荷揚げ場だった為で、そのまま東魚屋小路となっている。ここの水揚げ浜は沖端の二丁井樋で川舟に積替え、城堀を遡って、ここの荷揚げ場に来ていた。明治6年に長柄小路は北長柄町と南長柄町として分離した。

南長柄町 |

北長柄町 |
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龍徳院・宣徳院・福泉山 廃寺 北長柄町11-2あたり |
曹洞宗で開山は梅岳寺4代賢鉄和尚とする。寛永19年に宗茂公の御遺髪御焼香を勤める。3回忌に百日江湖興行し跡を碧雲和尚に譲る。忠茂公が黄檗宗に帰依し福厳寺を改宗する。よってその時の住職碧雲和尚はこれを遺憾ととして、道雪、宗茂公の尊牌を肩にして寺門を出て、両公の追福の為に一寺を営む。忠茂公はその寺を滅し領内を追い出そうとしたが、原尻、宮内氏は仲裁に入り寺を維持する。よって原尻氏は毎年米6俵と金6両を付与する。宮内氏が死して本院に葬る。法号を龍徳院という。碧雲和尚は厚諠に感じ寺号を改める。原尻氏はのちに立花を冒し通称を四平と呼ぶ。忠茂公の代、寛文8年に寺地1反4畝15歩を寄付される。安永4年より御茶湯料10俵、天保5年9月、道雪様254回忌につきその後15俵を寄付される。明治維新後に廃寺となる。現在、柳川西鉄タクシー会社の敷地になっている。
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【新町】(現・風浪宮前の瀬高御門の枡形跡から細工町三丁目までの東西の新町通り) |
江戸期は柳川城下の瀬高町組に属し、外城(郭)内の東部、矢部川水系二ツ川右岸に位置する。元和7年(1621)、立花宗茂が再封され藩主となった時に、瀬高町(現京町)3丁目から東へ行けないようにし、細工町を東に曲がった所に南方の藤吉村の北西部を開発造成し新たに新町を設けた。造成した土地に瀬高町(現・京町)の瀬高御門を、新町に移動させた。柳川城下鍋島絵図では、瀬高門は今の国道橋南、土居の隠水門(埋樋)の南にある。西原一甫著『柳川名勝図絵』(下図)に「水門せまく急流にして底深し、水を遊ぐ者この所につどい来て暑を忘る」と。狭くしたのは、入口の水嵩を上げて水圧をかけ急流にして低平地の城内に流し込む工夫である。また①「柳河明証図会」の絵の左の番所から土居の松林は瀬高御門北の際から北の角まで堀に沿って424間(763メートル)の外郭曲輪土居を構築ししたものでです。造成した新町や細工町・出来町は藤吉村から柳河町に編入した。新町は新たに営むという意味から町名が付けられました。柳河町の東の大手で要所の瀬高御門の規模は桁行七間、梁行二間半であり、辻町・出の橋の御門の三門とも同じ規模であった。東部より柳川城下にはいる唯一の関門で,北部の井手橋御門とともに城下の要衝であり、抜荷番所としての機能も兼ねた。御門の北の鋤崎土居には二ツ川からの流れを城堀に注ぐ水門が3ヶ所ありました。瀬高門のそばにある「新町水門」と北端の「明王院水門」、その中間には隠し水門が設けられていた。御門外を橋でなくダム埋樋の水門式道路にしたのは、水量増加と井堰による瀬高水門への水圧強化のためであろう。ダム埋樋の重要性により番人は常駐で御門が閉まると番人の家は門外となり孤独するので隣組は藤吉村であった。井樋の堰板は常時、穴一つを開けて、真勝寺土居の新堀に水を流し、土居の井樋で藤吉・江曲に給水している。また戦乱の世では籠城の際に、新町水門と明王院水門が閉ざされ、本流の矢部川の水を塞き止め、沖端川に大量に流し込み、東の平野を湿地帯とすることで、ぬかるみの有明海と沖端川と合わせて城下町ぐるみで水城として外敵の侵入を防いでいました。柳河年表・県史資料5によると享保元年(1716)に瀬高町3丁目より出火、細工町・出来町・新町に延焼する。伊能忠敬の「測量日記」の文化9年(1812)10月14日の条に「瀬高門、右に番所、新町」とある。安政4年(1857)7月に十時兵庫組が火術を高畑の四丁八丁で執行中,火旗が当町に落ちて火災が起き,これを新町火事といった。新町は元藤吉村で、ここの風浪神社は元は藤吉村の風浪神社の神幸所だった所です。道路拡張で境内は狭くなったが新しい社殿となった。 |

①柳河明證圖會・瀬高門水門 |

風浪神社角にあった「瀬高門址」の石標

寛政2年絵図での瀬高御門 |
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瀬高下庄・引接寺の移設された瀬高門(1階に変更)
(台風で倒壊保存中) |
風浪神社 |
新町水門 |
川下り |
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田中吉政の墓がある真勝寺・田中山 真宗大谷派 新町 |
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田中吉政は関ヶ原の役で石田三成を捕らえ、その功績により翌年の慶長6年(1601)に筑後藩32万5千石を領し、柳川城を居城として、有明海、矢部川、筑後川沿岸の開発、それにともなう治水、 利水工事、柳川城の修築、整備による大城郭建設、久留米、福島城の修造、柳川 久留米街道(田中道)、柳川・福島・黒木を結ぶ黒木街道の新設など、多くの業績 を残しています。パルトロメヨの洗礼名を持つキリシタン大名でもあり,領内のキリスト教徒が迫害されたとき保護したという。慶長14年(1609)2月18日に京都伏見に62歳で客死する。別に墓は京都黒谷の西翁寺にもある。「真勝寺は往古は真教寺という。文禄年間(1592~96)、宗茂の命により、御井郡仁王丸村(今の久留米市北野町仁王丸)から大屋小路(今の柳川市一新町)の所に移され、その後田中吉政の菩提所としてこの地に移し、吉政の遺骨葬送ありて本堂の下に埋葬する」とある。真勝寺本堂下にある吉政の墓石は高さ約1メートル、幅約70センチの四角柱で、先端がややとがっています。上から見ると十字架の形。墓石の真上に本尊の阿弥陀如来像を安置した本堂があって、本堂自体が吉政の墓となっていると言います。吉政の位牌は「前筑洲太守従四位下桐厳道越大居士神儀」裏に「慶長16年歳次辛亥2月18日」とある。吉政の位牌は柳川市内の報恩寺・順光寺・玉樹院・光樹寺にも安置してあります。銘は多少相違がありますが道越は皆同じです。大正6年(1917)、本堂を取り崩し、大正8(1919)2月14日に御堂の落成式を挙行しました。真勝寺の什蔵に田中吉政肖像・「五百本之内田中民部少輔」の銘のある槍・田中筑後守宛の端午の祝儀 に付ての将軍豊臣秀頼の内書(内密の書状)・徳川家康の関ヶ原の役に際しての「召しぶみ」の書状・宗茂寄進の朝鮮分捕品香炉・陣太鼓がある。往時に本寺の境内に脇寺の5ヶ寺があり、有事の際の町の東南部の防衛に備えていた。いずれも真勝寺と同じく真宗大谷派である。正応寺・光善寺・浄勝寺の3寺は明治維新後も境内に留まり、独立の寺となる。 |
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正応寺 慶長9年(1604)に僧良善の開祖草創。村誌に寺地面積234坪とある。 |
光善寺 寛永5年(1628)に僧宗善の開祖創建。村誌に寺地面積51坪とある。 |
浄勝寺 寛永2年(1625)に僧平善の開祖創建。村誌に寺地面積212坪とある。 |
円成寺 天正16年(1588)に僧休安の開祖創建。寺地面積239坪とある。
本寺は文政(1818~30)の頃に明野村(現大和町)に移転している。 |
浄覚寺 元禄(1688~1703)の建立。本寺は堂宇なく寺号のみ永く残る。 |
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寛政2年の町小路地図(部分) |

柳河明証図会 |
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【細工町)一・二・三丁目】 |
細工町は元和7年(1621)、立花宗茂が再封され、新町に瀬高御門が移された時に新町と瀬高町をつなぐ大道(肥後街道)が造られ、散ばっていた箔屋町・白金町・こうがい町に住んでいた請職人を、町別当の松田縫殿が集めて住まわせた町です。柳川藩志には「細工町三丁目と新町の銀細工屋・鼈甲細工やなど点々とありて、箔屋町とか白金町とか三丁ありしを細工町と改称し」とあるが、こうがい町があったとも言われている。「こうがい」とは江戸時代の女性用髪飾りの一つで髷などに挿す物で、金・銀・鼈甲・水晶・瑪瑙)などで作った。定かではないが柳川神棚は細工町に居住していた仏壇の木地師である細工職人が始めたといわれる。ひと昔前までは柳川に数十軒の神棚製作所があり、九州などからの注文を一手に引き受けてきた歴史があります。柳川神棚の特徴は各所に仏壇の技法が見られ繊細な仕上がりを要求される障子扉や、屋根中央部には唐破風という独特の曲線美を持たせる造りが特徴的です。今では職人たちの数も減り続け僅かに2世帯を残すばかりとなる。細工町三丁目の交差点北東角の石道標には「右瀬高通り」・「左出橋通り」と刻んであった。一時紛失して発見され民家軒先に復元されたが根元で折れて、保存場所不明となったが、発見され平成20年(2008)に道路改良工事完成時に元の近くの歩道に復元された。享保絵図の細工町の道幅は3丁目2間、2丁目4間、1丁目2間2尺で中太であった。寛政絵図では均しの道幅に書いている。この通りには竜徳院(戦後廃寺)・本光寺・常光寺・光照寺・長栄寺・大神宮・金剛院(瀬高町三丁目)が、両側から参道沿いに判明しにくいように配され、寺院の裏からは長柄小路・東魚屋町・寺浦に通じている。

柳川神棚 |

細工町3丁目の道標・「左出橋通り」 |

細工町3丁目の道標・「右瀬高通り」 |
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寛政2年の町小路地図・旧藩立花家史料(折目修正・東南部分拡大) |
【東魚屋町】 |
東魚屋町は新町・出来町・細工町が出来たので新しく出来た町です。西の魚屋町に対して東部を受持つ魚屋町の意の町名である。西は材木町の浜から蟹町に水揚げしたが、魚は沖の端二丁井樋で川舟に積替え、城堀を遡って小道具町と北長柄小路の間の魚屋町浜で荷揚げされていた。今も浜の一隅は小道具町か北長柄町のように見えるが、東魚屋町町内である。西の魚屋町と同じく八百屋も瀬高町入りの横丁に八百屋が立並んでいた。長柄町へ行く道や東魚屋町は防衛上ジグザグ家並であったともいう。内城東北隅の対岸に当たるので、本光寺・竜徳寺・東金寺が配されている。水路からの攻撃を想定していたのであろう。町の東方北側に、安東省庵二十代の師、玄磧和尚を奉祀してある「玄磧宮」がある。東金寺の墓地に、享保16年(1731)、大火・飢餓・大津波と災害の多かった時に建立された一杯地蔵がある。一杯の酒を献じて祈願すれば歯痛・癜の皮膚病が全治すると言う。寛政絵図には東魚町・横町・東町と記載。明治元年には東魚屋町・釘指町。明治6年に東魚屋町になっている。明治17年、71戸・328人(明治初期に人口が多いのは魚屋によるのであろう)。昭和60年、49世帯・171人。

東魚屋町の魚屋さん |

一杯地蔵 |
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本光寺・峯山 (真宗大谷派) 東魚屋町21-2 |
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蒲地左馬太輔鎮久の子、通称美濃貞久は、蒲地鎮並の甥であるが、剃髪して涼好と号し、蒲池家滅亡後、菩提供養の為本山に寺号を乞い、蒲地の中村に一宇を草創し開山とする。文禄元年(1592)に立花家により、これを大屋小路に移す。慶長16年(1611)、城主田中はこれを藤吉村に移す。寛永2年(1625)に現在地に移す。本堂本尊の下には藩主忠茂の兄の立花宗繁(1608~1664)(内膳家の立花政俊)の妻である浄華院の墓があるが墓石に十字のしるしがあると言う。立花政俊の母加袮(養福院)はキリシタンの筑紫広門の娘で、加袮の妹はキリシタン大名だった黒田長政の側室として嫁いでいる。慶長12年(1607)、イエズス会、準管区長フランシスコ・パシヨ神父は秀忠・家康に謁し、大阪で秀頼訪問、また柳川に新設されたレジデンシアと領主田中吉政を訪問するため柳川に来ている。柳川のキリシタン1400人がいたという記録あり。
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墓所には国文学者・藤村作の墓がある。作は明治8年(1875)に現柳川市坂本町に生まれ、城内小学校、中学伝習館、熊本の第五高等学校と進学しました。昭和14年(1939)に定年退職して、日中戦争のさなか北京師範学院と北京女子師範学院の名誉教授の職に就きます。戦後、国語教育学会、日本文学協会を創設し会長に就任した。昭和28年(1953)に自宅で病死。享年78歳。墓は東京都立多磨霊園にもある。柳川川下りコースの一角(外新町)に「国文学者・藤村作先生顕彰碑」が建てられている。
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東金寺 (真宗大谷派) 東魚屋町16 |
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安政5年(1858)に僧慈敬が開祖する。ここの釣鐘は明治12年の鋳造であった。民家を寺院の代りにし、まだ御堂はない。その裏に墓地があり、地蔵像は往時に山伏を埋めた地という。地蔵は酒を愛し、歯痛の祈願をなすに、酒を浴せればその効験ありという。古老の話では、柳川城ができる以前に、ここの墓の上に浄土宗の金正寺があり。ゆえに金正寺屋敷と呼んでいた。
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金剛院・稲荷山・観音寺 廃寺 →金剛院棚倉稲荷 京町40あたり |
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開山は、紀州熊野十ニ社別当修験の本源正覚僧正、即伝の第2子金剛院密乗と言う。この金剛院は始め観音寺と言い、その子信誉に至り寺は、三宝院御門末にして柳川領内の触頭であった。寛永15年、藩主宗茂公より本院を建立せられ、その敷地内に稲荷・金比羅二神並に聚幸神を奉祀す、末社秋葉・弁財天二社及地蔵堂あり。毎年、初午稲荷祭、3月20日の金比羅祭には、寺社奉行藩主在城中一回必ず恒例として、参拝された。稲荷社縁起には、「藩祖道雪公この明神を尊崇し誓って護軍神とせり、永禄8年(1565)5月、道雪公が戦に臨みし時、夜々白狐燃火の瑞を示し、遂に勝利を得る。天正9年に秋月種実と戦しとき、白狐が戦陣に出陣して、我勝を得たり。文禄2年(1593)の朝鮮半島の碧蹄館の役には、明神の庇護ありて、宗茂公大勝し大いに国威を宣揚せり。慶長5年(1600)9月、宗茂公は大津城を攻め落とし、その兵を率いて、柳川に帰る時、夜に筑後川に渡る船なし、然るに突如、そのの場に、小女が現れ川下に導きたれば船あり、全軍を渡し、然る後に白狐現れて消へ失せり。宗茂公が改易され、夫人閏千代姫は肥後腹赤村の市蔵宅に居住の時も稲荷神を深く信仰していたが、慶長7年(1602)7月頃に病を患い金剛院密乗による医療祈祷の甲斐なく、10月に夫人逝去す35歳也。宗茂公浪士となり肥後を出て、京師に入り数年後、家康公より奥州棚倉に一万石に付せられる。元和4年(1618)に加藤家の牛方馬方騒動の後、米多比親子が宗茂公預かりとなる時に誾千代姫の依命により 太郎稲荷が棚倉へと遷宮され奉祀せらる。明神の庇護有。元和6年(1620)、宗茂公再び柳川城主となり、城内の内苑に一社を建立更に、2代忠茂公は金剛院に太郎稲荷(ダキニ天)を奉遷す、のちに棚倉稲荷と称す。寛永14年(1637)の島原の乱及び寛文10年(1633)の長崎事件など明神の庇護有り、以後藩主参勤の時或は、事変毎に明神の庇護を蒙る事少なからず。」宗茂、忠茂公は自筆の諱及び花押を社に捧げ、宗茂公夫人は鏡一面を神体として寄進ありしと言う。寛政4年(1792)3月に瀬高町(現・京町)で大火災起り、社殿を焼失する。明治の維新後に廃寺となるが棚倉稲荷は存続し大正中期に大改築を行い現在に至る。昭和32年7月5日京町3丁目の信徒一同により、本殿並に附属建設物の改築を行う。平成5年10月に信徒一同社殿 修復並びに鳥居を建立す。」(京町3丁目町内会案内板参照)院内には秋葉宮・弁財天地蔵堂・棚倉稲荷社・金毘羅大権現・及び聚幸神と冥加島稲荷の合殿があったが、寛政4年(1792)3月に堂宇焼失する。現在は秋葉社と稲荷社が存在する。金毘羅大権現と金剛院の鳥居石の扁額が拝殿脇に残る。
金剛院境内の南側を流れる堀割は沖端川の分水路二ッ川の桶井桶通称、かくれ水門から辻町方面(京町商店街の南裏)に流れ込み隠れ四分流路から東町を枝分けし、各家庭水吸場(くみづ)で朝一番に飲料水を汲み、のちには洗い場として生活に密着した堀割でした。昭和40年代に水道が各家庭に普及して、柳川の堀割は下水やゴミ捨て場となりへどろで機能を失っていましたが、行政と住民の協力で昔の姿を取り戻しています。 |
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風来寺・桐林山 廃寺 |
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享保城下絵図ではは法雲寺とあり、のちに蓮華院と変わり、享保11年(1726)に黄檗派の風来寺が建立され、小野家の菩提寺となる。安政5年(1858)12月に三池郡大間村の恵日寺の境内に、引地願許可されたとあり。小野家は三池の炭坑のために三池に移り住んでいたからと思われ、三池郡の恵日寺の境内に移転したと見られる。現在、敷地には観音堂が残っているが、禅宗で使われる御仏である事から風来寺の御仏とも思考される。しかし、観音堂として地元住民に世話、信仰されて現在に至る。
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隣家の恵比須さん |
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大光院・(青竜寺・法王山) 廃寺 椿原町31あたり |
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もと鋤崎にあり。寛延2年(1749)10月に本山へ願いすぐに末院になる。宝暦2年(1752)10月に建立。例年白米5俵の寄付あり。末社に愛染明王・弁天堂あり。寛政5年(1793)5月の住職は純雅がなっていたが廃寺となる。現在は空き地で、大光院と陰刻された燈籠らしき台石の上に、道祖神の石碑が祀られている。
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長栄寺・清川山 細工町 |
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大永5年(1525)に村上左衛門尉実時は剃髪して良智と号し、三潴郡田口村に遍受寺を開く。本寺をもってその隠居寺となす。文禄年間に宗茂公により藤吉村に長栄寺を建立し良智の孫の寂道を開山する。寛文年間にに現在の地に移る。往時は真宗大谷派なりしも往時不品行のことあり。文政7年8月19日に真宗本願寺派に転ずる。文化年間に本堂が火災になるがのちに再建する。
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光照寺・恵日山 細工町 |
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豊後国上杳掛城主の杳掛日向守直之の玄孫の杳掛八兵衛光照による開祖である。光照は朝鮮の役では矢に当り、大津の役では右足を折り立ち居が不自由となる。慶長16年5月に肥後の西光寺にて剃髪して寛教といった。元和7年に下宮永に帰り住み、名を行善と改める。庵を創立し利渉と号する。元和年間に十時寿閑入道から鋤崎の別荘を寺地に寄付してもらい光照寺を開くとあり、元は鋤崎土居の椿原小路にあり、のちに細工町に移ったとみられる。真宗本願寺派。寺内には十時寿閑などの墓がある。光照は一名に生田源蔵と称す。和歌を巧みとす。藩主忠茂公は師として歌道を修む。同寺に忠茂公の和歌を蔵する。 |
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常光寺・三嶋山 細工町 |
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最初は天台宗であったが、真宗大谷派に変っている。淨光院竜善の開祖であった。竜善は柳川城主の蒲地鎮並の弟である。初めは三潴郡蒲地村の三嶋山淨光院に住し除禍壊災の祀典を行う。代々、蒲池家の祈願所であった。天正9年(1581)に蒲池家は佐嘉の龍造寺の陰謀で抹殺され滅びて淨光院も衰える。天正時代の末期に、藩主、立花宗茂により再興された。元和6年(1620)の宗茂の柳川城再封後に常光寺と改め城内の大屋小路にあった真勝寺の内に住まう。真勝寺が藤吉村(現・新町)に移す時に常光寺も細工町に移る。4代、正道の時に宗門のことにて追院(僧の職を剥奪し追放)させられる。藩主鑑虎の時、立花源左衛門の弟の順応は常光寺の養子となり藩主の命にて中興開山となる。これにより法燈再び光をかかげ、末永く寺が継承される。本寺は真勝寺の次席にて同派の寺とは格式が違っていた。境内には、朝鮮老婆および儒者で、文政7年(1824)に藩校伝習館の創設と共に助教となった牧園芽山の墓がある。朝鮮老婆は征韓の役で宗茂が京城に入り王宮にいた絶世の美女である王姫を柳川に連れ帰り、高齢となり世を去ったとある。同女の衣冠が当寺にあったが享保元年(1716)の細工町大火で焼失したという。現在の本堂は開基の地、三島より移築再建されたと言われる。 |
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大神宮社 細工町 |
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天正15年(1587)9月16日の同社の、祭礼の事を記載した旧記があり、その以前の創立である。元和2年(1616)より正月・5月・9月の15,16日の祭礼と定めていた。寛政7年(1795)6月1日に橋村肥前太夫が、伊勢神宮の写、神鏡および木太刀一振り、金幣扞神明と題する額を寄付する。嘉永6年(1853)正月に肥前太夫は手水盥を献上する。旧藩時代に農商工民に神宮大麻を頌布することを掌る。社の傍に太夫の宿泊所があった。その後、神職の鴨角氏がここに住んでいる。鴨角氏は天正年間より、蒲地三嶋宮に奉仕し、後に当社に移っている。
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伊勢屋(大神宮社)・淡路神社 椿原町18 |
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享保より約40年後の天保年代に順光寺の西隣(現・八軒町)から椿原小路に遷宮している。ここの境内に、伊勢の大麻(御札)領布の為に、二頭太夫の宿泊する家があり。二頭太夫は藩主および武士に神宮大麻を頌布することを掌る。その際にこの祭神が置かれた。二頭太夫とは神宮の御師と呼ばれ日本中に出かけ、信仰を勧めたり、参宮する人々の為の茶屋を持ち自分の家に宿泊させ内宮・外宮参拝、見物の案内をやる。いわば現代の旅行業者とみられる。寛政2年(1790)の絵図では鳥居と社殿があり、伊勢屋とあり、南隣に金毘羅宮がある。明治維新後に淡島神社が合祀されている。
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金毘羅社 椿原町45あたり |
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詳細不明調査中 |
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【小道具町】 旧・小道具小路 |
明治6年の小路名改姓で町名に変更される前までは小道具小路であった。世間の人はこれを「コドモコウジ」と呼んでいた。鎧の札刀柄の目貫鍔など刀剣甲冑、武具の付属品を小道具という。小札を綴じる縅(緒通し)用の切革職人は隣の切革屋町(現・恵比須町)に居たであろう。町名でなく小路と言ったのは武具制作者を士分待遇にした為かと推測される。この小路の北に御客屋(御使者・迎賓館に当る)があった。小道具工人の町たるべきを小路となして武家も居住させたのは、お客屋に対する備えと辻町御門枡型や内城東部を守る為で、長柄小路の続きと考えるべきである。お客屋の地はその南面の屋敷より今も一段高く、高い塀を廻らしてあれば裏に侍屋敷があるなど分からなかったろう。小路からお客屋の西側の塀に沿って内側からは分からぬように、犬走りの抜け道が付いていた。御客屋は維新後は役目を果たし、賛成病院→柳河警察署→郡役場→町役場→市役所と公的機関に変って今は商店街の駐車場となっている。明治17年、14戸・69人。昭和60年、44世帯・119人。

御客屋は商店街の駐車場となっている |

本町と小道具町の境を流れる掘割 |

小道具町 |
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【椿原町】 旧・椿原小路 |
明證絵図に「細工町の二院三寺の中に、大光院椿原小路あり」と。本文中に小路名があるだけで椿原小路名起源の説明はなく不明である。椿原小路は旧藩時代、鋤崎土居の内側にあって柳川城東方の守りであった。すぐ南に町の東の大手の重要拠点である瀬高御門と水門がある。寛政2年(1790)絵地図によれば武家屋敷16軒、他に御坊主3軒・御仕立師2軒・郡役所1軒となっている。同絵図に「鋤崎小路」とあるのは土居内の武家屋敷の総称であろう。金毘羅宮(今は淡路神社)・伊勢屋(今は歴史資料館)へ行く道である。藩政期に土居下に細長い馬場があった。弓・鉄砲・槍などの武術訓練馬であろう。伊勢屋は順光寺の西隣(現・八軒町)にあったのが後にここに移したものである。伊勢屋とは伊勢の御使(暦や御祓いを全国に配る皇大神宮の下級神官)が住み且つ大神宮を祀った所である。今は両宮とも婦人病の神様である淡路神社に合祀されている。明治元年、椿原小路・寺浦(細工町3寺の裏通り)。明治6年、椿原小路と寺浦の2町を合わせて椿原町と称した。明治17年、62戸・358人。昭和60年、113世帯・311人。 |
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観音堂(旧・法正院) 旧・椿原小路 |
寛政2年(1790)の古図には法正院の記載あり。本吉清水寺の住職が殿様に面会する為、柳川に来ての休憩・宿泊された寺院でもある。受持地面、1反15歩とある。もちろん観音信仰の堂元的役目をしていたと思われる。観音信仰は往古から、「観音経」を称えれば、姿を千変万化させて、この世のあらゆる場所に現れ、災いから救済される功徳があると信仰をあつめました。江戸末期に西国三十三箇所の観音霊場(近畿地方)をまね、遠方で行けないので筑後にも「西国三十三札所を回ったのと同じご利益が得られる」と言う事で「筑後三十三ヶ所観音霊場」が創立された。さらに柳川周辺での、ローカルの三十三観音霊場が作られたと見られる。現在、敷地は公園として利用されている。 |
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伊勢屋(大神宮社)・淡路神社 椿原町18 |
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享保より約40年後の天保年代に順光寺の西隣(現・八軒町)から椿原小路に遷宮している。ここの境内に、伊勢の大麻(御札)領布の為に、二頭太夫の宿泊する家があり。二頭太夫は藩主および武士に神宮大麻を頌布することを掌る。その際にこの祭神が置かれた。二頭太夫とは神宮の御師と呼ばれ日本中に出かけ、信仰を勧めたり、参宮する人々の為の茶屋を持ち自分の家に宿泊させ内宮・外宮参拝、見物の案内をやる。いわば現代の旅行業者とみられる。寛政2年(1790)の絵図では鳥居と社殿があり、伊勢屋とあり、南隣に金毘羅宮がある。明治維新後に淡島神社が合祀されている。
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金毘羅社 椿原町45あたり |
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詳細不明調査中 |
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明治16年頃「土木取調」測量地図(折目・シミ修正・追加文字あり) |
【京町(きょうまち)一・二・三丁目】 旧・瀬高町 |
今の京町は、もと瀬高町と言った。町名は柳河明證圖會に「瀬高町 辻門外東西の通り 往古は三丁目より今の大曲りの所に出て瀬高駅(瀬高宿)まで一筋に真直に行くゆえに これを瀬高町というぞ」とある。四丁八反大曲は藤吉小学校を北へ、川下りの総外堀に沿って国道橋で立花通り三柱神社前へ直角に曲がる所を言った。旧藩時代は瀬高往還が二ツ川に沿って舟場へ、その所から両側の堀に挟まれて棒状に、平安後期の政治の中心地、瀬高庄(保安2年(1121)頃の領主・藤原俊忠)の庄館(役宅)へ、御三橋・御仁橋・五十丁御前橋を経て通じていた(庄は荘の草体で同字)。筑後柳川城下絵図(鍋島家蔵)には京町に当る道路はな無く、今の寺浦(現・椿原町)に当る道に瀬高町と記入している。慶長年間に田中吉政が筑後国の藩主となり柳川城築き直しの際に瀬高町の通りが開かれたと思われる。瀬高町は町屋の大屋敷や倉が多かった。元和7年(1621)、宗茂が再封され柳川藩主となった時に、肥後街道が通る宿駅となり、北の出の橋門より新町の瀬高門に通じる道をL型にして城下に入る枡型道を深くした。その時に瀬高町が一・二・三丁目と更に整備されたであろう。
また「帷子市は往古は七月九日他国より商人立交わり蟹町にて夜の明くるまで賑わい 近年瀬高町にて七月十四日に市あり」とある。しかし文政9年(1826)頃は旅人の交易を禁じたので僅かの店となった」と言っている。藩の財政を握る銀会所が一丁目の高椋家にあった。二丁目には御客屋(御使者・迎賓館に当る)へ行く道があり、お客人が通り武士が両側に整列するだけの余地ある巾で大道りより更に道幅が広かった。この道と食い違いに西方寺への参道がある。東魚屋の横丁も二丁目から入る。三丁目には金剛院がある。明治17年、95戸・500人。明治20年、三丁目より柳川橋(国道橋)、から瀬高(みやま市)に一直線に通じたのである。明治22年、上・中・辻町通りを中軸に東・西の大分画29町を合わせて柳河町となし役場を瀬高町に置く、町勢、1461戸・8126人。大正元年に隠居小路を横切り横山小路に通じた道路が出来た。昭和初期に住民投票で京町と改称したのは、瀬高上庄・瀬高下庄が明治34年に合併して瀬高町と称した為に、同名で郵便物まで誤配が多くなった為である。昭和12年(1937)、九州鉄道(現・西鉄、天神ー大牟田線)の大善寺 - 柳河(現・西鉄柳川)間が開通し、西鉄駅時代となって、官公庁街の色濃かった京町が第1級商店街となったが、終戦後に駅周辺の開発が進むにつれ、三橋町の方が活気出て来た。 |
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明治末期の旧福岡銀行柳川支店前のおにぎえ山笠
京町一丁目の踊り山車を曳く当時の町内の人々 |

昭和初期の活気ある京町2丁目商店街から辻町を望む
辻町から西には道は開けてなく突き当りは原田糸屋の店頭
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明治末期京町の野口屋・板硝子・めがね・西洋釘の看板がある
大きなめがねの看板が目立ち店先に炭俵や車力がある |
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昭和27年に市制となり京町にあった市役所から辻町方向
中心商店街でほろ付トラックや自転車の数が多く賑わっていた
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三柱神社 三橋町高畑 |
三柱神社秋季の大祭「おにぎえ」は、文政9年(1826)に柳川藩祖の立花宗茂とその妻誾千代、さらに妻の父である戸次道雪の三柱を一緒に祀るために三柱神社が創設され、ご遷座祭を祝うために、外町(現・保加町)の人たちが江戸の神田囃子と、京都祇園の山鉾を参考にして、 「山車」を作って能に発した「どろつくどん」踊りが奉納された。その当時にしては奇想天外で、大好評を得たため、毎年奉納されるようになり、大賑わいしたことから、発音がつまっていつのまにか 「おにぎえ」と呼ばれるようになた。現在では、保加町、蟹町、京町(旧・瀬高町)三丁目の四町が一年交替で出しています。この祭りは毎年10月上旬の3日間行われる。 |

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⑨【隅町】 |
柳川城ならびに市街の鬼門隅である隅町は明王院隅(今の宮地獄神社の地)を合わせて造られた南北に長い町である。この明王院隅の隅を採ったのが町名の起源であろう。磯鳥~矢ケ城から八軒町~柳河小学校の北に流れていた市街地本流を二ッ河川と土居構築の際に鋤崎土居・松土居(通称信玄土居)の直角頭で分流し(信玄は将棋頭)縦堀(川下りコース)の土居に井樋(隠水門)を埋め、松土居並行の堀を掘って通水し、弁天隅で中断された市街本流に繋いだ。世にこれを新川と言った。井樋は隅町の周辺の椿原・旭・隅・曙・横山・常盤町の一帯は森林の荒地を開拓して侍足軽の居住地としたもので、鋤崎と呼ばれていた。鍋島絵図では東の大手は隅町鋤崎土居隠水門の南にあり、瀬高門が新町に移ったのですべて鋤崎土居となってしまったとみられる。鋤崎土居は総構え柳川外城の城壁土塁で東方に備えた最前線である。土居は大樹や竹薮で覆い地面を固めると同時に、一は天守閣を初め郭内市街の様相をかくし。一は堤防の馬踏み道と犬走り(築地の外壁と溝との間の狭長な空地)が造られていた。基底は15m・高低は3mに近かった。明王院は柳河市街の鬼門隅で弁財天をも祀ってある。(弁天隅とも言う。今は宮地獄神社東の小社(やしろ))。柳河の水の取入口は新町水門、隠し水門としての柳川橋南の桶井樋と弁天隅の3つがある。共に柳河で生活する町民の重要な水源である。隠し水門は水取口の前に菰などを繁らせ、隠していた。当初は桶で水を通したであろうが頑丈な石造りになり現在も残っている。沖の端川と城堀の落差のために三柱神社裏の堰堤の井樋は城堀の水量を司る重要な施設で番人は重責を担って、住いは弁天隅に一軒家があり、柳河町とは湿地で隣組が組めず昭和時代でも三橋町高畑区に属していた。北は妙院江湖で船付場であった。藩政時代、明王院の西には鉄砲撃ち場があった。明治元年(1868)では新町水門に続く鋤崎土居と元柳河村(今の三橋町柳河・矢ヶ部地区)に属しており、まだ萱野または田地であった。明治9年(1876)、隠居小路の東の突当たりの土居が削られて、高畑村へ架橋され三社神社へ行く新道が出来た。明治18年、国道制定により瀬高町三丁目が旭町の三軒小路に通じ国道橋が架けられた。鋤崎土居は切り拓かれて対岸の三橋町藤吉の大曲に柳川橋が架けられた。明治42年には柳河軌道が高畑から矢部川駅(現・瀬高駅)まで開通した。柳川橋の傍(現・筑邦銀行)には柳河軌道(株)の本社が建てられた。川辺の大木は鋤崎土居時代からの楠木と見られる。明治17年、23戸・107人。昭和60年、190世帯・665人、これは隅町南団地など家が建ち並んだ人口増である。

鋤崎土居が削られ明治に出来た柳川橋と柳河軌道(株)本社 |

柳川橋の楠木 |
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明王院・東光寺・鎮守山 廃寺 隅町22 |
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隅町土手の内、丑寅の角にあり。今なおここを明王院土手という。真言宗の山伏修験にして三宝院御門主末袈裟頭たり。初代の玉泉坊は東大友日向守恭隆とする。恭隆は大友家の支族にして豊後の藤北に領地あり。大友宗麟の命によりて修験者となり、彦山の座主に属しけるに、座主の竜造寺氏に一味するをもってまた左宝院の末に加わる。寺記に日本尊薬師仏は大友式部亟氏泰の守仏なり。氏泰は一夜東方より光を放ち、尊像の来るのを夢みる。目覚めてみれば枕上に霊像を得たり。よって道雪公に伝える。道雪公は藤北において大友の家士の東伊賀介鎮正に与える。道雪公が立花城に在城の時、伊賀介は筑前に来て、尊像を糟屋郡に安置し自ら修験となって明王院鎮正と号する。宗茂公が柳川に入るや、また柳川に移る。その後、代々修験となって之を守る。明和2年(1765)に鋤崎にの丑寅の地(現在地)に移る。薬師は大友能直よりの霊仏として、道雪公の預かりものなり。同寺の弁財天は由布又太郎の先祖より伝来の像なり。8代源隆は島原の役で、御具役を勤める。御陣後に12石ずつ拝領し、宝暦3年(1753)よりは代わりに御蔵米30俵を頂く。今は廃寺となり、ただ弁財天が存続している。 |
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弁財天 |
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宮地嶽神社 隅町22 |
慶応2年年(1867)3月に柳河商家の有志が筑前宗像郡宮地村に鎮座する開運商売繁昌の神社として知られている宮地嶽神社に懇願し生命をかけるほどの熱意が実のり、第一分霊社として勧請でき当地に奉祀された。写真は明治時代の宮地嶽神社で祭礼当日の、氏子の旦那衆やその番頭・丁稚とみられる。戦後の失火により焼失したが、昭和45年に再建されている。 |

宮地嶽神社 |

戦前の宮地嶽神社 |
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厳島神社 隅町22 |
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明和2年(1765)に7代藩主の立花鑑通により勧請創建される。祭神は市杵島比売命で例祭は9月16日であった。
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⑩【曙町】 旧・順光寺小路 |
隠居小路の中程の堀(木村回生医院の東の堀)を北に沿うて橋を渡り観音堂から順光寺に通じる小路である。順光寺に因んで小路名とした。順光寺は元和6年(1620)宗茂再封後、坂本小路より移されたものである。この小路は侍屋敷と足軽や軽輩武士の混住地であった。この小路の中程より北に行止まりの道がある。大字曙町字穴ん中である。また一名「おめかけ横丁」とも言う。他国者が迷い込めば、さぞ戸惑いを感じたであろう。明治6年に曙町と改称される。隠居小路を旭の直接差し込む町と改めたので、西・北隣の、この小路は土居から200m離れているので輝ききらきら朝日の出る前のほのぼの明けの町としたのであろう。明治16年、32戸・154人。昭和60年、34世帯・96人。 |
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順光寺・福永山 真宗大谷派 曙町2 |
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宮川丹後少将惟康は剃髪して僧となり、近江国坂田郡の順教寺の住職となり名を福永祐念と称す。田中吉政はこれを尊敬し帰依する所あり。吉政の筑後に移封されるや祐念は慶長年間に同所信徒の北川、伊藤、園田、井出などの30人を引率して柳川に来る。吉政は大いに喜び一寺を坂本小路に開き祐念を開山とする。宗茂公再封後に今の順光寺小路に移る。寺の宝物に田中吉政の肖像がある。30人の同行者の子孫は今なおあり。明和5年(1768)に藩主の立花鑑通(大応院殿)帰依ありて、蔵米10俵づつを永代寄付される。始め大応院と称していたが後に福永山と改める。また開祖の祐念は真勝寺の次男を養子となし、家を譲り末女と久留米領のある地に隠居する。後に久留米藩主に招かれて久留米順光寺の開山となる。享保18年3月2日の大火の為に類焼し宝物などを焼失する。 |
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⑪【横山町】 旧・横山小路 |
横山町は鍋島絵図では低湿地で、まだ屋敷地を成すに至っていない。享保絵図(1726)には横山小路とあって、低湿地で、まだ屋敷地を成すに至っていない。寛政絵図(1790)になって、武家屋敷が10軒ほど疎らに、それだけに広い敷地を占めている程度であった。この町の造りは、かねん手になっていて、隠居小路の軽輩武士と後の常盤町の足軽集団の中間地にあって、両者を統率指揮する立場の侍屋敷であっただろう。明治6年には横山町と称する。この町の東の方は大半田地であって、明王院隅へ行くには、今の横山町の三叉路から少し北へ入り、東に転じジグザグの道が付いていた。明治16年、22戸・114人。昭和60年、44世帯・137人。 |
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⑫【旭町】 旧・隠居小路 |
西方寺住職が2代藩主の忠茂より、隠居の地として寺地を賜り浄華寺が創設された。よって浄華寺の隠居の地の通りと言う意味で隠居小路と称した。寛政絵図を見れば下級武士や足軽屋敷となっている。 明治6年に旭町と改称されたのは、柳川市街の東部に位置して最も早く夜が明けると言う心意気からである。明治9年に高さ2m余、高木や矢竹の藪に覆われていた外城壁の鋤崎土居が、旧藩テッパウ撃チバ(射撃場)も共に取壊され高畑村に橋(現・公園橋)が架けられた時、土居内の住民は初めて旭日の昇天するのを見て町名の通りになったと実感したであろう。瀬高町三丁目から横山小路へ抜ける道は大正元年に出来たもので、順光寺小路の中程から北へ行き、橋を渡って木村病院横の観音堂へ抜けていた。この北曲りの道の中程から東へ道があり、多くの組屋敷があった。今もかすかに昔の面影が残っている。小路の中程より寺浦に通じる道があり、寺浦とは食い違いとなっている。この道の金剛院の裏に当る所に鳳来寺があった。享保絵図では法雲寺となっている。その北(今の旭町の往還)に東に行止まりの横道があり三軒小路(といって三軒の武家屋敷があった。明治19年~20年に、この三軒小路を利用して瀬高町三丁目(現・京町信号)とつながり、土居が取払われ柳川橋が架けられたので、この町は掘割を挟んで南北の二流れになった。この様な二街路ある町造りは我が柳河町には珍しい。西側の路地にある本吉屋は、天和元年(1681)”うなぎのせいろむし”を世に出して以来今日まで、三百有余年間、初代秘伝のタレと料理技術を忠実に継承しているという。江戸後期には柳川のうなぎを「食の都・大坂」に出荷して藩の大切な財源であった。今では、天然物は少なくなったが、特に、有明海の海水と、筑後川・矢部川の淡水が混じり合う河口付近で捕れるうなぎは、「アオ」と呼ばれ貴重なものとされた。身がよく締まり、風味よい磯の香りがほんのりと漂い、絶品であったという。細工町二丁目から東に折れ寺浦を通り、隠居小路・切革屋町・辻町ジロリの道は、細工町・瀬高町の官道に対して庶民の道であった。明治17年、67戸・373人。昭和60年、91世帯・288人。 |
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旭町の公園橋・杉森女学園生徒記念写真・橋向うは若力旅館 |
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安東省庵の墓がある浄華寺・法雲山 真宗本願寺派 旭町48 |
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西方寺の5代住職慶順は、慶安4年(1651)に2代藩主の忠茂より、隠居の地として寺地を鋤崎土居の内に賜り浄華寺を創設した。寛政2年の地図では常慶寺と記載されているが当て字であろう。浄華寺には「朱舜水に師事して大陸思想に活眼を開いた柳河藩の儒学者、安東省庵の墓があります。安東省庵は元和8年(1622)柳川市本町に生まれ、元禄14年(1701)に80歳で没しました。著書の中でも最も読まれたのが貞享元年(1684)に出版された「三忠伝(平重盛、藤原藤房、楠公父子の伝記)」です。城主立花宗茂、忠茂、鑑虎の3代に仕へ、また8代の子孫にその道を伝へて、柳川藩儒学の伝統を築いた。多くの弟子や門下生を育成していた。後に一門の尽力により藩校「伝習館」が生まれました。周囲には子弟や一門の墓が造られ、昭和58年につくられた前庭と併せた三忠苑には今なお多くの人が訪れています。
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⑬【恵美須町】 旧・切革屋町 |
隠居小路から西に続く通りで食い違いになって互いに見通せぬ。昔、切革商いが多かったのか切革屋町と言った。通称はカヤ町と言い、往時は茅草原であったからとも言う。鞣革を用途に応じて切り甲冑刀剣の小物(小道具)を作る切革師の町という命名であろう。切革は例えば、鎧の札を綴り合わせる革緒に用いた。また東部域の唯一の町屋であるが、町の性格からして西魚屋町・八百屋町・辻本町の横丁ジロリに続き、歓楽街の様相を帯びていた。辻町東入る横丁から切革屋町にかけて俗に「じろり」と言った。殿様も駕篭を止めて、じろりと横目に見て通り過ぎたほど歓楽街の町であった。今は屋号のみ残る「鯛屋・東京庵」等にはノスカイ(遊女)がいた。明治6年縁起をかつぎ恵美須町と改名された。町内に本派の蝕頭で専念寺・善定寺の塔頭2寺を持つ西方寺がある。門前より瀬高町への道は明治橋の所で二段に少しずれていて、武士の身隠れ場が作ってある。この道が、小道具町の「お茶屋」(迎賓館に当る)への道と食い違いになっているのは共に防衛面からであろう。また、細工町二丁目から辻本町までの往還に沿うた裏通りたる寺浦・隠居小路には、往還に通じるものはなく、この道はこの間のただ一つある通りから本通りに通じる道である。享保絵図、キリカハヤ町。寛政絵図、切革屋町。明治元年、切革屋町。明治4年、恵美須町。明治17年、44戸・224人。昭和60年、32世帯・105人。 |
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西方寺 |
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西方寺 真宗本願 恵美須町27-2 |
西方寺は足利将軍の子孫の足利安芸守政信改め慶信が開いた寺です。慶信は、天正15年(1587)に立花宗茂公が柳川に封じられた時に、家臣の由布惟信(雪下)・十時連貞(雪斎)・吉田右京の3人から柳川に招かれ、正行村(現在の三橋町正行)の法雲寺の住職になりましたが、その翌年の天正16年に切草屋町(現・恵美須町)に西本願寺派として西方寺を開山し西本願寺派の蝕頭となる。田中吉政が柳川を領すると本寺をもって菩提寺とする。吉政が逝去の際に住職が死して、その後継が2歳のために本山より僧を呼ぶが酒浸りで勤まらず、よき機会を逃がす。時に藩命により本寺を東派に改宗させようとしたが、慶了住職の未亡人が頑として聞入れず、1000日間青竹閉門に処する。家臣は寺院を焼こうとしたが、吉政の叔母慶福院は驚き家臣を説得させ大事に至らず。慶了の妻千鶴子は前柳川城主の蒲地鎮並の孫であり、嫁入りに持参した三条小鍛冶宗近作の薙刀が寺宝としてあったと伝わる。本寺は宗茂の重臣の十時連貞の菩提寺であり、江戸末期では立花壱岐の実兄である十時摂津や魚問屋・高椋新太郎の菩提寺でもあります。十時摂津は、明治新政府の中で西郷隆盛や大久保利通らとともに、初代の参与(大臣)になった人物です。高椋新太郎は商人ですが、立花壱岐に抜擢され、藩の財政改革に尽くした人物です。西方寺は明治の廃藩置県後に本山の制度が改められ蝕頭寺が廃止された。また北側が柳河尋常小学校の敷地となっている。
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黒住教柳川教会所 恵美須町39 |
黒住教は江戸時代の文化11年(1814)に備前岡山藩の守護神社・今村宮の神官であった 黒住宗忠 (1780~1850)が、開いた教派神道です。天理教、金光教と共に幕末三大新宗教の一つに数えられ、後の新興宗教の走りであるといえる。 |
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⑭【八軒町】 旧・八軒屋 |
享保(1716~36)絵図では順光寺の西隣角に「伊勢屋」という伊勢大神宮の伊勢暦と御祓を伊勢の御師(下級神官)が全国に配る出張の旅宿ががあった。享保絵図には「伊勢屋八畝三歩」と記載されている。鋤崎土居内の武家屋敷の領域内で小路と名ずけず、八軒屋と言ったのは、伊勢の御使である大神宮社(伊勢屋)が椿原小路に移転し、その空き地を北に並んだ新区画とし、士分の者と町人たる者の混住地域としたので、その八軒の家数を名の起源としたのだろう。北に歩くと鉄砲小路に続き各家の前には条理制以来の縦堀が流れていた。旧柳川(古川)の南の縦堀に沿うてかぎの手になっている。寛政(1789~180)絵図からは八軒家となる。明治6年(1873)に八軒町と改町する。明治17年、15戸・72人。昭和60年、17世帯39人。たとえ古くは八軒でも、れっきとした大字を持った町である。 |
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