福岡県みやま市(旧山門郡)瀬高町のお寺  【禁無断転載】  H17・11・20編集開始・H21・5・18下庄校区更新
庄福BICサイト瀬高町のお寺  
             

山川町・高田町のお寺へリンク
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    瀬高の最も古い寺      仏教の由来
大和時代の大化元年(645)大化の改新が行われ、班田制に伴い条理制という空前の土地改革が行われたが、当地での実施は715年(和銅8)以降といわれている。スムーズな行使に苦慮した朝廷は民衆の不安解消に大陸から渡ってきた神、仏教の権威を利用したところに大きな目的があったであろう。瀬高町では709年創建の真言宗の成合寺717年(養老元年)高僧行基が諸国を巡業した折にに開基したとされる、下庄談議所の宝聚寺(天毎延暦寺派)です。720年に本郷に九品寺の創建、804年には最澄が天台宗・清水寺を創建されたとある。810年以降に長田の天台宗・横尾寺も創建されています。
@宝聚寺 下庄談議所 A成合寺(廃寺)本吉梅ヶ谷   B清水寺  本吉
C横尾寺(廃寺)下長田 D永興寺 大草 E九品寺  本郷 
     清水校区のお寺クイック
@成合寺     本吉梅ヶ谷  A清水寺   本吉 B永興寺     大草
C三宝寺地蔵院  本吉 D清勝院   本吉  E超勝寺      大塚
F空托寺       朝日 G朝日寺(観音堂)朝日 H清光寺(廃寺)  
I延命院(廃寺)     J勝萬寺    藤ノ尾  K地蔵堂(廃寺) 下坂田 
L黒岩不動院    草場 M八楽会教団 女山
    水上校区のお寺クイック
@薬師寺      小田 A法讃寺     平田 B善光寺   平田
C仏勅寺      平田  D建仁寺      禅院 E西教寺     上長田
F伝敬寺     下長田 G浄弘寺      下長田 H極妙寺     上坂田
I長楽寺     上坂田 J長命寺(廃寺) 坂田 K観音堂 山中・ 名木野・ 唐尾
L善通寺      唐尾 M横尾寺(廃寺) 下長田  
   本郷校区のお寺
@九品寺(くほんじ)本郷  A徳円寺(本誓山) B定林寺(廃寺)
C満願寺 (廃寺)        D高源寺(廃寺) E延命寺(廃寺)
F聖酬聚寺(廃寺) G常心庵(廃寺)
    上庄校区のお寺クイック
@西念寺 新町 A金剛勝寺(廃寺) B円鏡寺   
C正覚寺     D遠成寺(廃寺)  E来迎寺 二百町
F智善院(土居町観音堂) G青光寺(廃寺)  清楽寺  三橋中山
    下庄校区のお寺
@宝聚寺 談議所 A二尊寺   大竹 B引接寺  上町
C本浄寺 上町 D安養寺   八幡町一 E尊寿寺  新町 
F養安寺(廃寺北高柳 G光源寺    田代 H宝塔院 金栗
I本長寺 恵比須町 J大日寺(廃寺元町 K崇福寺(廃寺)元町
L長宝寺(廃寺)吉岡 M蓮華寺(廃寺)緑町 N寿経寺(廃寺)文広
O金泥寺(廃寺)下庄 P正楽寺(廃寺)緑町  地蔵堂大竹・ 吉岡・ 芳司
     南校区のお寺クイック
@龍本寺      浜田 A野田の薬師堂    浜田 B泰仙寺     泰仙
C実求寺      河内開 D養福寺        長島 E妙光寺(東琳山)   下小川  
F吉祥寺     下小川
     大江校区のお寺
@雲照寺  真木 A建徳寺  有富 B玉琳寺  北大木
C満福寺   吉井 D明浄寺   松田 E玉泉寺   大江
F浄金寺  堀池園 G法泉寺  北広田 H大祥寺  松田
I東照寺  大広園 J長福寺(廃寺)北大木 K延命寺(廃寺)松延
L金台庵(廃寺)北広田  

    清水校区のお寺    表題
@成合寺(なりあいじ)(薬樹山) 本吉梅ヶ谷
大和時代の和銅2年(709年)に僧、頼現(らいげん)により開基されている。古義に真言宗仁和寺(にんなじ)の末派とある。
戦国時代の田尻城主の田尻左京亮(さきょうのすけ)の祈願所であった。その後、藩政時代の藩主立花宗茂により再建され、宝暦5年(1755)立花鑑通(あきなお)の時快助これを中興した。瀬高で一番古い寺だが昭和52年廃寺となり瀬高郷土史会員の尽力によ( )御本尊不動明王、薬師如来(日光、月光、十二神将)弘法大使像を本吉の三宝寺地蔵院に移されて安置した( )境内には瀬高町文化財指定の自然石梵字板碑(ぼんじいたび)が残っている。寺跡前のみかん山に存在する( )高さ1m、横75cm、厚さ20cmである。この板碑は、加持祈願(神仏の加護を求める行法を修し、病気平癒や災いの除去などの現世利益を祈ること)( )当所で盛んに行われていた名残りである。1種の塔婆で主として死者の冥福生前信者達が供養したもの等がある( )13世紀頃のものが最も古く、17世紀の頃まで及ぶ。形状は五輪卒塔婆(そとば)(仏塔)省略変形されたものと考えられている。昭和58年町指定民俗資料となる( )
自然石梵字板碑
A清水寺(きよみずでら)(本吉山 普門院 
 寺の縁起では平安時代の初めの延暦23年(804)7月垣武天皇の命により38才の最澄(さいちょう)は遣唐使として中国東海岸に位置する浙江省(せっこうしょう)台州(たいしゅう)の竜興寺(りゅうこうじ)で天台宗を学んだ。最澄は帰国し天台宗を開創、翌年の大同元年(806)に天台宗の本吉山清水寺(本吉普門院清水寺)を創建したとある?。 寺伝によれば、「最澄は唐からの帰朝の折り有明海の東方山中に美しく輝く光を発見され、その光を求めて、一羽の雉を道案内にこの山に分け入ったところ、苔むした合歓(ねむ)の霊木に出会われた。大師は、大地から生えたままこの木に一丈六尺(約5メートル)の千手観音像を刻まれました。そしてお堂を建立し、その観音様を祀られた。木の本で刻まれたお観音様だから、当寺の山号を本吉山と称します」とある。 また本尊はねむの木の立木のままを根本の部分に一刀三札して千手観音を彫刻された霊像であった。京都清水寺の観音像は上部の木をもって彫刻し、大木町大字三八松字吉祥無量院の本尊観音像もまた同木であるとの伝承がある?。
古来より、安産、子授け、縁結びの祈りが絶えない。「よがんのん、あさがんのん」は本尊開帳の大祭である。旧暦の7月(現在は8月)9日から10日の朝にかけて大護摩祈祷が行われ、この日にお参詣ですると四万六千日お参りした功徳があるといわれ、多くの参拝者が訪れる。
文治元年(1185) 壇ノ浦で敗れた平家の落人に同情して戦意をそそり味方したとして、源頼朝の命により平家を追撃する豊後の緒方三郎が寺院を焼き払った。
永禄2年(1559) 肥前の龍造寺隆信がこの寺院を焼き払った。
天正18年(1590) 柳川藩主立花宗茂公が清水寺再建。
元禄16年(1703) 柳川藩主立花鑑任公寄進の能舞台が完成。
延享2年(1745) 柳川藩主立花貞則公が阿弥陀堂と山門建立。
延享3年(1746) 仁王門を建立。
寛保元年(1741)
〜寛保3年(1743)
大神宮と地主社と毘沙門堂(びしゃもんどう)建立
寛政元年(1789) 5月大城七右衛門が発願し、上庄の鋳物師平井惣兵衛が制作した「撫で仏」が奉納される
天保7年(1836) 柳川藩主立花鑑賢(あきかた)らと、その領民の浄財によって三重の塔が文政5年(1822)に着工して約14年の歳月をかけて完成した。
大正12年(1923) 本堂が放火により焼ける。
大正15年(1926) 7月に三潴郡東部の千人同行会が鰐口を奉納する。
昭和5年(1930) 本堂を宮崎の楠木を用い再建された。
昭和41年(1966) 三重の塔を虫食い被害の為に再建された。
昭和50年(1975) 松久朋琳(まつひさ ほうりん)・宗琳父子の仏師により、丈六(4.8m)の千手観音像(秘仏)が復元され、旧観音像一部が胴内に納められた。
昭和61年(1986) 三重塔に釈迦如来座像が安置される。

参道中腹にある清水寺本坊の心地の庭園に面する書院が平成4年、文化庁などの助成により新築復興された。書院には、佐藤春夫檀一雄師弟のほのぼのとした歌が掛かっている。
 「東山の 熟柿の朱さ 手に染まん いとけなき日の もみじならぬに

清水寺本堂

千手観音像

三重の塔

清水寺本坊

愛宕社、稲荷社、羅漢堂、若宮堂の建物が昔、あったが年号不明。
江戸期は山内に6つ寺がありこれを塔頭と呼んでいる。(すべて廃寺)
 @伝法山学禅寺一乗院  A天影山神光寺玄林院B十輪山三宝寺地蔵院  
 C安国山大源字十王院D放光山鳩峰寺文殊院  E竹林山梅谷寺不動院

                

      
     
上の古図は江戸時代の後半期1742年の製作で三重の塔(1836年(天保7)建立)はまだ無い。
清水観音さんの御日は毎月18日です。当日はお参りする信者さんに寺の檀家の御接待で社務所2階で精進料理のもてなしが行われていました。特に三橋町の蒲船津周辺の信者さんが沢山お参りされていた。旧暦の7月9日(現在は8月9日)の夜観音・朝観音さんの時には遠方の参拝者は本堂に寝泊りして通夜の詣りをしている。
B永興寺(叡興寺)(えいこうじ)(巨泉山 仏頂院) 大草
永観2年(984)源信(恵心)僧都(げんしんそうず)が千手観音を刻んで本尊とし開山したとある。古僧都山はそこから呼ばれるようになったのだろう。 筑後観音33ヶ所の霊場である。
清水寺と共に山岳仏教の代表的なものであった。本堂前左の崖下には瀬高町指定文化財の自然石梵字板碑があり中央の二重円相中に釈迦如来の種子、下部に長い碑文あり永興寺の縁起などが書かれているが解読不可能である。
建久3年(1192)源頼朝が幕府を開いた時、梶原源太を普請奉行として楼門を建立した。その後、横尾寺の僧との間に争論があって全部が焼失した。
建久4年(1193)、建立の境内にある五輪の塔は父の敵討ちを成し遂げた曽我十郎祐成五郎時宗の供養塔とされ、十郎の恋人、大磯の虎御前が、兄弟のために諸国を巡礼の折り、叡興寺の山門を 梶原景季 が 普請奉行となって再建することを知り、はるばる瀬高の女山神籠石の 源吾谷 水門近くに住まいを定め, 曽我兄弟の供養塔2基を建立し, 女山から叡興寺まで日参して兄弟の冥福を祈ったとの伝承がある.供養塔には建久何年(1190〜1199)と刻した銘がわずかに見えていたが今は不明である。虎御前はふもとの女山(現・梅野宅)に庵を作り祈り続けたという。「南築名覧」には今、梅野某屋敷の内に観音堂あり。これ両尼草庵の跡地。池あり「鏡が池」と名づくとある。山川町に虎坂があり,伝承の虎御前の墓があった. 「虎御前の墓」は,現在不明. 道路拡張をするときに埋められ, それを知った築地原正英(福岡県文化財保護指導委員)が すぐに現場を訪れ探索しましたが, 現在に至るも埋められた場所を特定できていません。
  【曽我兄弟・虎御前の伝説】
伊豆地方のにおける領地争いで, 伊藤祐親工藤祐経の間にトラブルが発生し, 祐親の子である河津祐通が暗殺された。 曽我兄弟は北条時政に仕えながら 父の敵として祐経を殺害する機会をうかがっていた。 建久4年源頼朝が富士の裾野で狩りを催したときに, 兄弟は祐経を討ち取って念願の敵討ちを成就させた。兄の十郎はその場で新田忠常に切り殺され、弟の五郎も生け捕りになった後、頼朝の直々に取り調べられて処刑される。兄弟が死んだ後、十郎の恋人、虎御前、19歳は曽我の母のもとを訪ね兄弟を弔い出家する。兄弟の霊を弔いながら諸国を回って、供養のために百堂を建立したと「曽我物語」あらすじである。
しかし鎌倉・室町時代、こうした怨霊鎮圧の話を語りながら農村を回る尼僧姿で諸国を遊行して歩いた一種の女旅芸人「虎女」の”曽我語り”の唱導により全国に伝播し、御霊信仰と結びつき、曾我兄弟の供養墓や百堂・虎石などを建てられともいわれる。
 
明応年間(1495年前後)に天台宗の檀徒によって守られるようになり、本堂には千手観音の霊像が安置してあった。
慶長7年(1601)、僧尊隆が中興して、3年後藩主田中吉政より観音供養料を寄進され、後の世、藩主立花家よりも寄進された。
正保3年(1646)
立花忠茂東照宮霊祀を寺内に建て荘厳を極めた。代々の柳川藩主は此の霊祠に参拝していた。 寛政2年(1790)の古絵図には北側に本堂があり、南には東照宮霊祀稲荷宮が祀られていたが、明治の廃仏毀釈で焼失し、現在は観音堂と正一位豊政福稲荷大明神のみがある。昔の繁栄した永興寺の面影はなく江戸時代の造立の石仏と唯一の多層石塔が静かな山間にたたずんでいる。


境内

観音堂

本堂跡
      

古図には虎御前が建てた曽我兄弟の五輪塔二基がある・立花忠茂が建てた東照宮霊祀もある

自然石梵字板碑 

曽我兄弟の五輪塔 

石仏群と多層塔
            
C地蔵院  本吉(清水寺新道上がり口)
元禄年間(1688〜1703)に清水寺僧、隆範法印が建立する。御本尊の、地蔵菩薩は、等身大の石仏に金箔を施したものである。
廃寺になった成合寺の御本尊不動明王、薬師如来(日光、月光、十二神将)弘法大使像が瀬高郷土史会員の尽力により安置されている。
D清勝院  本吉(清水寺旧道)
清水旧参道の川沿いにある。昭和初年代一木和尚が開祖、重症の悩み事の相談、手助けの祈祷寺として信者を集め当初は新興宗教的存在であったであろう。多くの信者が集まり祈祷の大きな声が旧道に響き渡っていた。自殺寸前の多くの悩む人を救ってきた寺でもある。その後、信者だった井上和尚(女性)が引き継ぎ信仰を深める。真言宗のお寺で弘法大師を祀る。御子息の井上卓勝和尚は昭和53年宗教法人を設立し熊本の小国町に金剛宝寺を建立した。本吉の寺は奥の院となっている。一つ鳥居の脇には清勝院の青銅の弘法大師の像を祀ってある。祈祷日は毎月21日であった。
E超勝寺      大塚公民館隣
旧柳川藩誌中巻によると文禄4年(1595)に浄土宗に改宗している。弥生遺跡の地に建立されていて昭和37年春に境内から2千年前の弥生土器などが出土している。古老の言によれば、約500年前戦火によって焼失し、その後幾多の変遷を重ね、現在の建物は明治初年に永興寺の書院を解体し移転したものである。お寺の本尊仏は阿弥陀如来の古い座像である。元治2年(1865)当山53世の忍蓮社頂誉上人戒阿正専大慧大和尚の大位牌が存在する。境内の板碑の線刻地蔵尊は、永禄4年(1561)のものである。来迎寺の末寺であり元禄9年(1696)に上庄の来迎寺(らいこうじ)の住職、重誉光の陰刻の銘がある釣鐘がある。
F空托寺       朝日字西小路
東本願寺派、寛永元年(1624)豊後の国士、空井正念が本願寺に帰依し剃髪して猪然と号し、その当時建立した。延宝元年(1673)立道が中興した。
G朝日寺(観音堂) 朝日字東小路 廃寺
臨済宗妙心寺末派で延元2年(1337)僧鉄山開祖。二尊寺の末寺であった。本尊は観音仏、33ヶ所巡礼所であった。境内に弘法大師堂があった。朝日公民館にお堂が残りお彼岸には巡礼者が訪れる。
H清光寺            堤西塚原 廃寺
臨済宗妙心寺末派で、正保元年(1644)9月、僧乾明の開祖であった。本尊は阿弥陀如来であった。大竹の二尊寺の末寺であった。
I延命院(長泉山)     堤西塚原  廃寺
旧公会堂(現、堤公民館)の左脇を入った所に庵寺があった。江戸期の延享の頃(1744〜1747)から長州(山口県)の人、僧玄要が居住していた。石の地蔵仏の下の角柱側面に延享4年(1767)11月吉日と「長пi長州)阿部郡長泉山・延命院」とあり山口県阿部郡から玄要上人が堤の集落に庵寺を開いた事を証明する。近年最後の庵寺の住職は日本画の絵描きで有名な河島一二氏である。依頼あれば縁起物の襖絵も書かれていた。昭和42年亡っている。堤の公民館の建設により石の地蔵像が観音堂の南側に移転安置されている。
                     
J勝萬寺(しょうまんじ)    藤ノ尾
立花家臣、渡辺仁兵衛幸治は剃髪し渡辺祐念と称し寛永6年(1629)上長田の西教寺を創立している。寛文12年(1672)正月18日祐念の人柄と功に対し、第3代柳川藩主立花鑑虎(たちばなあきとら)が宝樹庵の地に勝満寺を建立して下賜された。本堂には立花藩の紋章を用い、本堂修理再建には立花藩より賜っていた。鑑虎1696年7月4日、隠居して英山と号し、家督を次男の立花鑑任に譲り、翌日には剃髪して英山と号し、柳川にて58歳の生涯を閉じた。山川町河原内・九折(つづら)には藩主立花鑑虎公の墓が西向きに当寺と向かい合って建てられている。立花藩から鑑虎公の墓参りがあったときは勝萬寺に立ち寄られ、その接待に使用した時の道具が残っている。

11世住職大溟は書道に優れ号を蘭渚(らんしょ)と言い、展玩上人と称し高く評価されている。
本堂には同敷地にあった宝樹庵の薬師如来像や本山しか安置できない親鸞聖人像があり昔は近隣から本堂に泊りがけで参拝者が訪れた。像の入手由来は豪商が質に入れたのを信者がお寺に寄進したと言い伝えられている。昭和20年代までは暮れの12月には檀家の子供を招待し精進料理やラクガンの菓子で、3日間もてなされ子供の唯一の楽しみであった。





左・宝樹庵の薬師如来像 正面・親鸞聖人像

親鸞聖人の夫人恵信尼像
K地蔵寺     下坂田  
創立年代及び開祖不明である。この寺の本尊は地蔵菩薩であり、昔は庵寺で僧が住んでいた。道端寄りには三界万霊塔がある。「三界」とは「欲界・色界・無色界」のことで、この世界すべてという意味です。この世界に生きる「万霊すべての精霊に対する供養塔が「三界万霊塔」です。お御堂は平成年代になり新築され、婦人会で清掃・管理されている。右脇の小堂には弘法大師を祀ってありお彼岸にはお遍路さんが訪れる。

 地蔵堂 

 弘法大師堂
 三界万霊塔

        
L黒岩不動院   草場
約350年前頃より水車場があり、大きな岩の上には弁天様が祭られ、それにちなんで大正の末期に、草場の有志によって不動院霊場が建立され、村の発展と安泰を祈願し、現在に至る。
M八楽会教団   女山
昭和21年八楽精神修養道場を小川耕一郎教祖が創立し、昭和31年宗教法人認証八楽会総本部となる。この法人は八百萬神を主神とし、守護神を女王卑弥呼の霊、皇室霊先祖霊を奉斉し、八楽会の教儀をひろめ儀式行事を行う。「八楽会奥の院」では、4月下旬には、200本の石楠花が、花開き、「女山シャクナゲ祭り」が開催される。

          
       奥の院
         水上校区のお寺     表題へ
@薬師寺(医王山)          小田     山裾の小田公民館併用
開祖は天台宗であったが、永正15年(1518)5月10日、領主溝口薩摩守が薬師寺として開いたと言われる。ゆえあって約百年後浄土宗に改宗され、浄土宗善導寺末派であったが現在は柳川瑞松院(ずいしょういん)末派である。福岡県郷土史には小田の薬師寺は古墳、しかも円墳の上に建立されしものと記されている。
寺記に「昔、寺の僧が田を耕作していた。ある年旱魃
(かんばつ)で非常に困難したので本尊の薬師如来に祈願したところ、翌朝になると、寺の田のみが水が満々と張られていた。村人は怪み、かっと怒り薬師如来を矢で射たところ反対に里人が即座に死んだという。それ以来、水引薬師寺と尊崇(そんすう)するようになった」とあり当時の状況は水引きの争いが絶えず、特に雨の少ない時はひどく、流血の事故はたびたびあり、水喧嘩の歴史の中でこの水引き薬師様はいろんなことを教え、村人に信仰されていたのでしょう。堂内には薬師如来ほか阿弥陀如来・千手観音・不動明王・大日如来の仏様と弘法大師像の掛軸がある。境内の山の斜面には石仏や地蔵仏が並び、石の祠には乳母観音が祀られ古来は、お乳が良く出るように願うお参り者があった。毎年9月22日は薬師さんのお祭りで小田の信徒の女性が米を炊き男性がおにぎりを作り周りの地蔵さんや仏さまにお供えして供養を行う。春、秋のお彼岸には山を上がって巡礼者が訪れる。

     
A法讃寺          平田
真宗大谷派、本尊は阿弥陀如来。寛文6年(1666)八女郡光友の谷川より坂田左衛門則兼が当時真宗寺がなかった小田千石の要請により移り建立。今も谷川法讃寺と称し、光友の谷川には、寺屋敷の地名が残っている。
B善光寺(檀一雄ゆかりの寺)  平田 
大正2年信濃の善光寺如来様を筑前博多に出開帳の折、別当大勧進副住職、貴志僧正は師弟の間柄であった叡興寺の住職内田寂範師の請願を聞き、大正2年春この地に来た信者の受戒賛仏の法を行った。こうした縁で内田師の発起のもと善光寺分身如来の別院建立の計画が進められ翌、大正3年3月7日信州善光寺別当大観進僧、分身如来を報持下向、入仏式を挙行した歴史がある。現在の建物は大正10年建立、上拝上部の立派な彫刻は四国愛媛県西条市出身の堂宮彫刻師の近藤光金のち泰山の作で向かって左の獅子木鼻の下に「出身伊予国博多近藤光金刀」と刻まれています。正面の壁面(松図、梅図)鏝絵も珍しいものである。現在、坊守の原口博江さんが寺を守っていられる。坂を登った曲がり角の洞窟に薬師如来が祀られ下の湧水を持ち帰ると病が治ると重宝されていた。お寺敷地の西側の東山愛児園から入った古曽都林道の左脇にはお地蔵さんが祀られ水子供養や子供の健康をお祈りする方が訪れる。寺院一帯は桜の名所である。この付近は善光寺古墳群と称し、名木野古墳群、小田古墳群、女山古墳群が連なり、考古学、邪馬台国研究家が訪れる地域です。

善光寺付近は 檀一雄が逗留した文学の山里でりつ子その愛執筆の地である。
檀一雄の父親、参郎沖ノ端(福岡県柳川市)の生まれで古賀という家の次男として生まれ檀家の養子となったもので詩人北原白秋の実家とは隣地であった。檀一雄大正元年(1912)2月山梨県(都留市)で生まれ、一家は技師をしていた父の転勤に伴い、幼少期を福岡県柳川市、その後、久留米福岡、東京の谷中、栃木の足利市(旧制足利中学)、福岡(旧制福岡高等学校)と転々とする。東京大学経済学部在学中、小説「此家の性格」が同人雑誌に掲載され、尾崎一雄太宰治らとの交流が始まる。昭和10年(1935)「夕張胡亭熟景観」が芥川賞候補となるが荒んだ生活と放浪が続く。昭和17年(1942)に兵役を終え帰国し、高橋律子と結婚。昭和19年(1944)7月檀一雄は、妻リツ子と長男太郎を福岡に住む母の実家へ預けて陸軍報道班員として華北・華中・華南を旅した。帰国するとリツ子福岡伊崎浦(福岡市西公園近く)の実家で結核菌に冒されて病んでいた。敗戦後、リツ子自身の希望により糸島郡の西の浦・小田の海辺へと引っ越したが亡くなった。
檀一雄
 【リッ子死亡後、太郎と一雄が身を寄せた善光寺の頃】

昭和21年(1946)7月
、最愛の妻リツ子を亡くしたばかりの檀一雄は、4歳になったばかりの長男太郎福岡県山門郡瀬高町朝日の親戚の村山健治氏を訪ね村山氏のはからいで書き物するに静かな瀬高町平田の善光寺という山寺の住職宅2階の借間に身を寄せる。そこは疎開して間借りした人達が終戦で帰宅した空き部屋で家具らしいものもない20畳ぐらいの空間を荒壁で仕切った部屋であった。一雄は一週間に一度は山里から瀬高の繁華街に出向き、工場(こうば)を散策したり商店で安い鰯など買い求めたりして太郎と二人生活をした。こうした生活が半年ほど続く。この間、友人や師から、妻に対する追悼や文学的再起を促す手紙をもらい再起し、「リツ子・その愛」を書き更に名作「真説石川五右衛門」の構想を練ったのもこの時期である。同じく瀬高に疎開していた児童文学者与田準一の仲人で上庄の山下酒造の山田賦令妹ヨソ子さんと再婚する。女優檀ふみ檀一雄の長女である。
昭和25年(1950年)に刊行した『リツ子 その愛』『リツ子 その死』で本格的に文壇に復帰。翌26年(1951年)には『長恨歌』と『真説石川五右衛門』で直木賞を受賞。檀は昭和49年(1974)より博多湾に浮かぶ能古島で生活する。死後、日本文学大賞が決定した「火宅の人」の刊行を最後に、昭和51年1月2日九州大学病院において死去。
本堂下の檀一雄が間借りしていた建物は火災により無くなっているが、当時を偲ぶ「りつ子その愛」の執筆の記念碑が立てられている。

C仏勅寺(福田山)     平田 名木野谷口から徒歩3分
臨済宗・妙心寺派、二尊寺の住職春龍了岱)が開祖。始めは下庄に二尊寺の末寺としてあったが元禄8年(1695)に当地に移った。立花藩のこの地域の堤防土木工事などの政策遂行と仏勅寺創建が軌を一つにし、権力を背景に繁栄したであろう。福田山の額は立花鑑虎の自筆である。一般住宅の構造でお堂、があり普段住人はいない。本尊は地蔵菩薩。山内に朽ちかけた山門観音堂がありすぎし日の栄華を物語っている。開祖の春龍元禄16年(1702)経文3万字を小石に刻み境内に埋めて仏道に精進した。いわゆる一字一石の経塚で、その上に自然石の碑があり、塚の証となっている。
D建仁寺(禅院山 観寿院) 禅院
天台宗延暦寺末派1201年葉上大僧正 開山創立。代々法印大和尚権大僧都となって管内に色衣を許された。寺宝は肥前に持ち去られた。16羅漢画像は僧雪舟の筆と伝えられている。国指定の名勝清水の本防庭園は画聖雪舟の作と伝えられているが、雪舟は明国から帰朝後一時期(1470年頃)建仁寺の寺坊の一隅に滞在し親交のあった二尊寺の和尚と友情をあたためながら仏道精進の修行のかたわら好きな絵筆に親しんだと言われている。寺域には鎌倉時代以降の苔むした墓.石仏.石造物が点々と散在しているが、その中に悲運の武将大友宗麟の嫡男、大友義統(よしむね)の夫人大友菊子高橋招運の妹で立花宗茂の叔母にあたる)の墓(コンスタンティーノ大友義統室ジュスタの墓)もある。(また下庄新町尊寿寺に大友菊子夫人の分骨墓地がある)1593年(文禄2年)5月戦国武将の大友義統豊臣秀吉豊後国を徐封され、一家は離散する。菊子夫人は立花宗茂を頼ってこの地に逃れて1594年この寺で死亡した。墓碑には「尊乗院殿日正妙智大姉之塔也」と刻まれている。
また朽ちかけた仏像、雪舟にまつわる井戸、住い跡があり熊野宮もある。さらに乳幼児の百日咳に効くという経塚池の湧き水に参拝祈願が絶えなかった時期もあった。本堂前には郷土の俳人松尾竹後の句碑もある。唐尾の西入口平田部落の「鳥居元(とりもと)」はこの寺の鳥居の跡と言われ、寺の由来と規模の大きさを物語っている。現在は僧不在の為、部落の檀家が管理、仏事を行っている。



大友菊子の墓

                  
E西教寺          上長田
真宗西派、寛永6年(1629)渡辺祐念は剃髪してこの寺を創立する。祐念は通称、仁兵衛一斉と号し、実名を幸治と言う。幼少より仏法を信じ僧となり西教寺を創める。その後寛永15年(1637)兄、渡辺次郎右衛門幸治は島原の乱にて戦死す。藩主立花忠茂は重症の幸治のもとへ来て、遺児の家督相続を約束する。藩主の命により祐念は還俗して2歳の遺児、伝衛門の後見人となり立派に育てあげた。次の藩主立花鑑虎(隠居後は英山と号す)祐念の人柄と功をたたえ、藤尾に勝満寺を建て初代住職とする。
承応2年(1653)11月に僧永順が中興した。永順蒲池鎮並の親戚である。本寺の梵鐘は寛延3年(1750)の鋳造である。
F伝敬寺(でんきょうじ)(白象山)    下長田
真宗西派。昔は真言宗で浄円寺と称した。寛政8年(1796)公全は西本願寺派に改め、今の寺号に改称した。公全は蒲池鎮並の落したねで亀千代と称し蒲池,13才のとき剃髪した。文政6年(1823)7月また西方寺(さいほうじ )(柳川市)派配下に転派した。浄円寺は昔、上長田の老松神社境内にあった由縁で先代の住職もお宮にお経を上げている( )女山の梅野家が寺総代を勤め往時は相当な寺領を所有していたという。
G浄弘寺(じょうぐうじ) (大寿山)        下長田
真宗西派。慶長14年(1609)下河次郎信成は剃髪して源理と称し、水田に開祖した。正保2年(1645)第3代玄了の時現在地に移る。それより13年後の明暦3年(1657)11月に本堂が建立された。 
H極妙寺(平嶺山)   上坂田
真宗大谷派。万治2年(1659)肥後国の菊池氏の子孫、坂田太郎久増の子供の坂田小右衛門は剃髪して経意と称しこの寺を開祖した。
       
I長楽寺(廃寺)     上坂田
天台宗延暦寺末派。享保18年(1783)下庄談議所の宝聚寺の嶺松法師が開祖。本尊11面観世音菩薩。豪族の坂田一族の祈願所であった。
J長命寺(廃寺)     坂田
臨済宗妙心寺派。正保元年(1644)僧の乾明が開祖。大竹の二尊寺の末寺であった。
K観音堂 山中・ 名木野・ 唐尾
山中の観音堂昭和48年矢部川堤防補強工事のため、部落の若宮宮の前庭に移転供養を営む。
名木野の観音堂は現在無くなっている。
唐尾の観音堂は本尊は観世音菩薩で昔は長久寺の支配所であった。現在無くなっている。
L善通寺            唐尾
真宗大谷派、本尊は阿弥陀仏。往時は禅宗で大塚にあって僧諦空の開祖。享和3年(1803)現在の地に移り真宗になった。文政9年(1826)寺号を願い出、翌年許可された。境内に地蔵堂がある。
M横尾寺    下長田  (廃寺)
天台宗延暦寺末派。奈良時代の弘仁年間(810〜823)伝教大使(最澄)の開基である。盛んだった頃は日吉坊、観音坊、奥の坊など五ヶ寺(僧坊)があり檀家は千有余戸あったと伝えられている。安土桃山時代の天正年間(1573〜1592)に兵火にかかり寺宝、記録一切焼失した。神仏習合の横尾寺は多数の山伏がいて、武士団の言に服しなかったし、また近くにある叡興寺の僧徒と争論し焼打ちにしたのも山伏の仕業で、彼らは横尾寺を修練の拠点にしていた。江戸時代の寛永2年(1625)2月に隆英が中興した。境内山中に彦山大権現(日子神社)があり、寛永9年5月の建立で豊前国彦山の別宮である。毎年2月十五例祭があった。山中に豊前坊地蔵堂延命院もある。立花藩の支援を受け往時は寺領57石余、拝領山は周り30町とあり本尊は釈迦如来で当国33所の霊場であった。横尾寺の山伏達は、春は田植え前に、夏は祖霊祭りの儀式として呪文を唱え無病息災と農作物の豊穣を祈祷して、農村をくまなく歩き回っていた。明治元年の明治政府の神仏分離政策により廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動により廃寺へと追い込まれていった。彦山大権現は明治16年に下長田世話人により日子神社として再建され今日に至る。
           
本郷校区のお寺   表題へ
@九品寺(くほんじ)(満寿山)   本郷
奈良時代の養老4年(720)聖一国師の末孫 洛陽東福寺豊石和尚の草創である。願主 本郷氏、本阿入道の建立とある。本尊の阿弥陀仏は行基の作であったが、火災の為に焼失したとある。本尊は正面中央に釈迦如来、左側に大日如来、右側に達磨大師である。天正の兵乱に大破したのを貞享3年(1686)豊石(ほうせき)和尚が中興した。本郷に末寺、末庵が多くあった。境内の重なる墓は岩神将監田尻惣馬惣助父子岩神将監立花帯刀(たてわき)休木及び夫人清光殿、その他の墓碑がある。
田尻惣馬、惣助父子は藩政時代、矢部川の治水事業に大きな足跡を残した。1695年(元禄8年)北山の千間土居と呼ばれる堤防を造った時、子の惣馬は助手となり完成させた。惣馬は父の指導30年間利水土木に力を注ぎ、矢部川の管理の為、この寺の東隣に居住していた。現在、臨済宗妙心寺派のお寺で、下庄の二尊寺と同じ宗派です。

本堂

田尻惣馬、惣助父子の墓

帯刀家一代と二代目の墓
   
A徳円寺(本誓山)
天正年間(1573〜1591)に豊前の国浪人荒川氏が帰依発心出家して、下妻郡本郷村に来て、僧亮喜と名乗り、開祖建立したといわれている。昭和30年4月より境内に保育園(慈光園)を開設する。真宗大谷派。

     
B定林(じょうりん)寺   廃寺
行基橋の東の沖ノ端川の堤防下にあり、廃寺になった跡に観音堂を祀ってある。お堂の外には弘法大師も祀られお彼岸にはお参りのお遍路さんで賑わう。
C満願寺  D高源寺  E延命寺  F聖酬聚寺  G常心庵 があったが廃寺、由来不詳。
     上庄校区の寺    表題へ
@西念寺(大心山)  上庄
天正3年(1575)真宗東本願寺派の僧浄安(じょうあん)が建立開基した。昔、家伝薬として小児のカンの薬が製造されていた。俗に「西念寺さんのカンの薬」有名であった。
境内に一石有蓋(いちいしゆうがい)の笠塔婆、高さ40cm、正面笠下に浅い室に尊名不詳の二尊並坐(にそんなみざ)を浮き彫りにし、左端に妙金大姉(みょうきんたいし)の銘あり。側面に妙来の立像を線刻してあるが無銘である。これを林操の両親の墓ではと思考する人もいる。傍には烈女、林操(はやしみさお)の墓が並んでいる。(由来は清水寺の千体仏堂で)現在の墓は昭和8年に復元再建されたものである。
(奥)笠塔婆(前)如来の立像   林 操の墓
A金剛勝寺(廃寺) 上庄
養和元年(1081)(平安後期)創立。金剛勝寺の末派で各国に建立されたが、本寺は、筑後国内真言宗の触頭で、密教経義を談論する道場であった。
後年、大覚寺の末派となり、瀬高祇園の別当であった。寺宝に三千仏曼荼羅、弘法大使親筆の6字の名号、金泥法華経7の軸1巻、光明皇后の金泥大品経14の軸などがあったが、遺物に一つとして観喜天像が残っている。現在上庄祇園宮の境内にある堂の本尊となっている。境内に阿呼庵があり、末寺に山門山・青光寺、白毫寺などがあったが今はない。明治5年廃寺となる。末寺だった円鏡寺は現在も祇園宮北側に現存する。

寛政12年(1790)の古図には祇園宮の境内外の北東側にある。
B円鏡寺(普門山)   上庄八坂神社北側
大永3年(1523)に上庄の金剛勝寺(真言宗高野山の末寺)に属し、祇園宮の新宮社の社僧六坊の一つで、寺号を延慶寺と称した。天和3年(1683)に僧鉄門(別号、鉄分・海津出身)によって、黄檗宗(おうばくしゅう)に改宗し、寺号も円鏡寺と改められ柳川の福厳寺の末寺として開祖された。福厳寺の住職の鉄門元禄元年(1688)住職を玄堂禅師に譲り法雲寺(倉永)に退隠し、その年9月に亡くなっている。境内墓地に鉄門禅師の墓がある。 現在の円鏡寺の建物は明治時代に13世の和尚が再建されたものである。お寺入口左手には地蔵像群と境内には創建時代のものと推測する石の延命地蔵と十三仏がある。右手のお堂内には小安観音像と弘法大師像とえん魔像が安置されている。弘法大師像は以前の真言宗・金剛勝寺の遺物であるまいか。
黄檗宗とは禅宗の一つで江戸時代の承応3年(1654)福建省福州の黄檗山萬福寺の住職や多くの弟子や職人が渡来し徳川家綱に寺領10万坪を与えられ京都・宇治に中国の黄檗山萬福寺を模して渡来の職人により明朝様式の禅寺「萬福寺」を創建した。江戸中期までは中国の僧侶により教えを広めていた。従って、朝夕のお勤めをはじめ、儀式作法や法式・梵唄はその中国寺院の伝統が受け継がれておる。
C正覚寺(瀬高山) 上庄
真宗東派、天正年間(秀吉の時代)蒲池鎮並の家臣 島添図書が剃髪して道喜と称して、白鳥村に正覚寺の古跡があったのを再建した。
慶安2年(1649)に四代目の時今の地に移して建立した。初めは浄土宗だったが享和元年(1801)改宗して真勝寺の配下になった。
本堂の東側には、下庄上町の田中酒造「都の月」の酒蔵を移築されている。しかし残念なことに酒蔵の面影はない建築物になっている。
D遠成寺(廃寺)           上庄 
文化4年(1807)遠成により開祖。遠成は正覚寺の弟子となり大音と号していた。正覚寺の本堂の再建、東本願寺への転派に際しては大いに勤功を尽くし、本山より利刀を頂戴し、坊号遠成坊を許され、大品本尊を頂き、正覚寺門前に一寺を開祖した。当年46才の時という。通称門前という名でよばれていた。
E来迎寺(らいこうじ)(正覚山・聖衆院) 上庄
創建は不明だが縁起書には1300年前聖徳太子の時代に創建されたため、聖衆院来迎寺と称えられ、九州では最古で、筑前、筑後肥前、肥後はもとより、越前国まで末寺があったそうで、古くは瀬高寺といっていた。「上ノ庄内道場瀬高来迎寺田下ヶ名」といっていたと記録されている。本堂正面には阿弥陀如来が安置され、脇侍として右側には観音菩薩を、左側には勢至菩薩をまつり、下段には浄土への来迎の菩薩として二十五菩薩がまつられている。
天正年間1573〜1591大友宗麟が九州下向の時、兵火のため、殿堂、僧舎、寺記、焼失した。その時の一部の古文書の残片あり。
天正15年(1587)浮羽郡善導寺の方誉上人(ほうよしょうにん)は、この古跡(こせき)の絶えること当寺を再興され第一世となられた。
第二世誠誉(せいよ)上人は立花宗茂の夫人(吟千代ぎんちよの死去に際し、現地に於いて引導し葬(ほうむ)る。
境内には天正15年(1549)の板碑がある。阿弥陀さんぞん来迎図を線刻している。その右中央に立花宗茂の妹、小田部殿氏女(おだべどのしじょ)俗名松春大姉(ばいがんしょうしゅんたいし)の墓。右に豊後大友氏の屋形城落城の時難を逃れ鷹尾村で疱瘡を患い慶長元年(1596)僅か7才で去った大友義統嫡子大友男也(おとや)の墓があり、無縫塔(むほうとう)台座に「豊州大友當君.月窓照芳大童子」の銘がある。
来迎寺第4世の應誉上人は柳川の人で姓は藤氏であり、蒲池鑑久の孫である。柳川城主立花宗茂の亡き夫人のため、元和7年(1621)柳川に良清寺を創建、第1祖となられた。

また境内には瀬高町女山出身の松尾竹後の歌碑「秋高し思へる今が過ぎてゆく」がある
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   左端小田部殿氏女の板碑、右端大友男也の墓

    

    来迎寺楼門

    本堂
F土居町観音堂
元井泉山・智善院と称した。開祖不詳。柳川藩三代鑑虎(英山公)の代より、藩主の飲料水を献上する。ゆえに米5表を寄附せられる。寺内に観音堂、不動尊、がある。堂内には如意輪観音、左右には不動尊、毘沙門天が祭られている。そばにえん魔堂がある。
G青光寺(山門山青泰院)跡 「住吉宮跡の碑」の後ろを降りる
かって庄の池のほとりにあって大伽藍であったと言われている。寛政5年(1793)社寺帳に高8斗2升5合、畝5畝15歩、寺屋敷が洪水に崩れ、その跡を開き住むとある。畝5畝21歩、高5斗7升、年貢御免寺領とある。延宝8年(1080)延宝9年に農民とトラブルがあったことも記されている。その後文政5年(1822)2月に上庄大火の折に焼失した。

地蔵堂や1.14m程の安山岩の阿弥陀独尊立像を線刻し道金禅門、妙栄禅尼の銘があり、また永禄3年(1560)の年号がある。銘は夫婦のものであろうか。また境内に阿呼庵があったという。地蔵像は昔は庄の池の中程にあり、歯痛を鎮める御利益があると信仰されていたが庄の池の埋め立ての折に当境内に移された。台座正面に新宮寺老隠、裏には享保■■大阿闍梨法院宥■の銘があった。昭和41年の矢部川改修の折に台座は紛失している。当寺は蒲船津村熊野神社・正行村熊野神社・東開の海童神社・上庄浜王宮住吉宮・鷹尾村八幡宮などの社僧を勤めていたという。

昭和41年矢部川改修工事の為、寺地に縮小され現在はお堂があり弘法大使像が安置されている。お堂の周りには石仏が数多く並んでいる。

弘法大使像

石仏群

阿弥陀独尊立像

地蔵像
清楽寺(法正院)  三橋中山(法正院)(この寺の時代は瀬高庄の領内であった)
この寺にはかって鎌倉時代初め、金銅板両界曼荼羅が納められていた。これは密教の寺院で使う法具の一つで、大日如来を中心にした世界を"金剛界"と"胎蔵界"の二つで表すものです。
そのほとんどは、紙や絹布に画かれたものです。一般に、"金剛界"は「知恵」を表わし、"胎蔵界"は「慈悲」を表わしているといわれます。鋳造した銅板(縦27cm×横19cm×厚さ0.5mm)を9枚一組(縦3枚×横3枚)としてつなぎ、像の部分を裏から打ち出して表から彫った上に、さらに鍍金(金メッキ)を施してあります。
この曼荼羅には、次の銘文があります。 "金剛界"「大日本国鎮西筑後国瀬高御庄内清楽寺建久五年六月十三日願主慶弁工師藤原延次  "胎蔵界"「建久五年六月十三日金剛佛子慶弁工師藤原延次」これにより、鎌倉時代の建久5年(1194年)6月13日に、慶弁という人が願主となり瀬高庄の清楽寺に奉納したことが、また、作ったのが藤原延次という人であることがわかります。
瀬高庄の清楽寺とは、現在の三橋町中山地区にある法正院だと考えられています。この曼荼羅は、いつの頃かこの地を離れ、茨城県利根町の徳満寺に納められていました。現在は、東京上野の国立博物館に寄託され、国の重要文化財に指定されています
 清楽寺  境内の仏像群 胎蔵界曼荼羅(徳満寺所蔵東京国立博物館に寄託)本物 
            下庄校区のお寺     表題へ
@宝聚寺台嶺山玉泉院) 下庄談議所
奈良時代の養老年間(717〜723)に高僧行基が諸国巡業の折に訪れ宝聚寺を開基したといわれ天台宗の古い由緒のある寺である。また勅願(ちょくがん)によって行基は奈良東大寺(全国国分寺の本山)の大仏建立の資金集めの為に諸国を巡礼しながら、寺院ならびに談議所を建立した。この時期に、この地に壮大な談議所が新設され、今では「談議所」の地名となって残っている。江戸末期までは僧侶の御説教を御談議と言っていたので、昔は広大な説教所があったであろう。本尊の不動明王行基の作と、また土像の弁才天は弘法大使の作と伝えられている。延暦22年(803)大師入唐の折、天竺国五台山の土で造られたものであると伝えられている。往時は一大伽藍があったが戦国の世に、たびたびの兵乱にあい焼失した。慶長9年(1604)田中吉政より元和7年(1621)竹中妥女正(うねめの しょう)よりの各々の寺領書出の古文書がある。寛永年中(1640〜1644)豪湛が中興開山している。文政5年(1822)の上庄・下庄の大火の際に類焼した。よって遠近に昼は托鉢をし、夜は地行建設に尽力して遂に再建に成功した。時に地下8尺(2,5m)から掘り出された上半身の小型の黄金仏を掘り出し寺の宝物となっている。(瀬高誌参照)
郷土史家の堤伝
(つつみつたえ)氏によると「この寺は永く栄え江戸時代、紺屋一切の権利を与えられ紺屋の総支配をしていた。今日は紺屋はないが、昔は着物すべて手製であったので、糸をつむぎ、それを紺屋で染め、織り上げて着物を作ったのである。したがって各家々に木綿機織りが必ずあって主婦が機を織ってたのである。全くの自給自足の生活であった。その外に油船二隻があり、油の運送の賃金を寺の収入にしたのである。」という。(柳川の民話より)談議所の浜は島原あたりからの海産物の船で賑わい商人の部落として栄えた。寺の北側に矢部川に注ぐ川があり船が入り荷の積み下ろしをしていた。運河を寺前まで引き込み積み出しの便と港の管理、指導、談合を行ってきた寺でもある。寺前の運河に架かる眼鏡橋が本堂の周りの囲いに使用現在残っている。境内裏手には行司、木村久之助の碑がある。護摩供養、観音供養の行事が行われている。江戸期は寺の周りは湿地帯でレンコン畑であったという。

田中吉政の寄進書

眼鏡橋
 
A二尊寺大竹山) 下庄大竹
禅宗の一つ臨済宗妙心寺派の寺で本尊は釈迦如来と阿弥陀如来の二尊体である。境内東側には観音堂がある。古い由緒のある寺で戦国の世に幾度の兵火にあい旧記はない。寺院帳には開基年号不明なれど、往古は天台宗にて七堂伽藍が建ち並んだ寺とある。二尊寺の名の由来は平安末期に二尊仏信仰が盛んなときに名付けられと思考されている。鎌倉末期の延慶(えんきょう)3年(1310)肥後国(現・熊本市野田)川尻の曹洞(そうとう)(禅宗の一つ)の大慈寺(だいじじ)三代目住職の鉄山士安 (てつさん‐しあん)が開基し、大慈寺の末寺となった。二尊寺を開基した鉄山士安(1246‐1336) は日本人名大辞典によると、「鎌倉時代の僧で寛元4年(1246)生まれ。曹洞宗。京都東福寺の南山士雲、肥後(熊本県)大慈寺の寒巌義尹(かんがん‐ぎいん)に学び、義尹の法をつぐ。のちに大慈寺住持をつとめ、延慶3年筑後(福岡県)二尊寺の開山(かいさん)となった。建武(けんむ)3年(1336)2月12日死去。91歳。肥後出身。」とある。禅の説法は庶民の間に浸透し寺勢は一躍上昇をたどった。末寺(まつじ)に松延の大祥寺、大広園の東照寺、朝日の朝日寺、堤の清光寺、平田の仏勅寺、緑町の蓮華寺、金栗の宝塔院、吉岡の長宝寺、下庄の金泥寺、大木の長福寺、坂田の長命寺などがあり、本吉の清水寺でさえ一時は二尊寺の支配をうけた時代もあったことからして、中世では、当地方の大部分は二尊寺の管理下にあったのではあるまいか。
永享7年(1435)に奉納された釣鐘の銘には「大日本国鎮西路筑後州山門郡瀬高下庄大竹山二尊禅寺洪鐘一口」「永享七年乙卯(きのとう、いつぼう)四月廿三日 願主各々衆 大工平朝貞」と記録が残されている。この梵鐘は戦国時代の永正15年(1518)に奪われ、今福原村(高田町今福)の若宮大菩薩の梵鐘となった。その後に肥前(佐賀市蓮池町)の蓮池城主の小田政光が奪い肥前、大堂(佐賀県諸富町)の六社宮(現・大堂(うーどう)神社)の梵鐘となった。この時代に幾度の兵火にあい建物は焼失し寺は衰えたとみられる。
江戸期の元禄元年(1668)に肥後藩の細川家の菩提寺である泰勝寺の性天和尚の弟子の春龍了岳東修和尚)が中興し禅宗の臨済宗の妙心寺末派となる。春龍は元禄13年に九州地方の戦乱を扱った「九州記」18巻を出版している。のちの二尊寺の梵鐘は享保2年(1717)に瀬高上庄の
平井惣兵衛保仭が梵鐘を鋳造して二尊寺鐘楼門に奉納され銘には「享保二丁酉春二月日 前妙心性天叟誌」とあり春龍の師匠である性天の署名がある。肥後の泰勝寺が廃寺後、法縁により二尊寺に性天位牌がもたされている。

鐘楼門


@殺生禁断の石

A門前西側の板碑


黒木鑑隆の墓

本堂
二尊寺入口の石門の西側には徳川綱吉が「生類憐れみの令」を出した翌年に殺生禁断と彫られた石碑@が建立されている。銘に貞享3丙寅年(1686)7月吉日とある。全国の寺で殺生禁断の碑が建てられ、仏教の慈悲の精神に基づいて、動物を採ったり、殺したりすることを禁じ魚屋などは寺に入ることを禁じていた。現在、この碑が残されている寺は少なく歴史的価値がある。
鐘楼門前東方には地蔵堂があり西方には石の板碑がある。笏(しゃく)の形をした高さ146.8cm・幅50cm・厚さ13cmの右の碑は天文10暦辛丑(1541)4月とある。板碑Aには線刻の阿弥陀三尊来迎図を描き、本尊は坐像、来迎印を契び、下部の両脇侍観音勢至
(せいし)の二菩薩は各斜面相対の立像を雲上に刻してある。河野藤左衛門尉越智道継願主鑑白の文字があり、また来迎図の下に逆修碑建立の功徳を頌す碑文が刻してあり、仏師周陽とある。室町時代(1504〜1555)後期に北部肥後から筑後南部にかけて活躍した仏師周陽(周養)の作である。石造工匠で本碑は彼の遺作中、最も優秀なものである。
また左の板碑は天和3年(1683)に住職春龍により二尊寺再興を祈願、伽藍の再興供養が行われたことを記念して建てられたものである。その供養の折、大乗妙典2部と血盆経300巻の石経を納められた事が刻まれている。女人信者が多かったことが窺える。
同所にある石の卵塔(卵形の墓)は矢部川2丁目の中程の黒木八幡屋敷にあった戦国武将、 黒木城(猫尾城)
(黒木町)城主の黒木鑑隆(あきたか)の墓で明治18年国道工事にかかり、鑑隆の墓と供養塔が移されたものです。墓には「黒木城二十一代城主黒木鑑隆の墓」と刻まれている。供養塔の刻字によると鑑隆は永禄8年(1565)大塚村で戦死したことになる。肥前の龍造寺軍が瀬高城(瀬高町上庄)に侵入された時に息子の城主黒木兵庫頭実久(さねひさ)(家永)に僅かな手勢にて援軍として駆けつける途中、鑑隆は龍造寺軍と大竹原において交戦、不運にも戦死したのではなかろうか。(兵庫頭実久は黒木猫尾城に逃走した後であった)古老の話しによると、鑑隆の死骸が大竹川をぶかぶか流れていたのを部落の人々が引上げ、黒木八幡屋敷に葬り大竹の人々により今日まで供養されているという。4月15日の黒木八幡のお祀りは神仏習合(しんぶつしゅうごう)で墓前には御幣が立ち、神酒、米、大根、野菜などが供えられ、二尊寺の和尚と座組の人々によって墓前において読経の供養が行われている。墓前行事のあと座祭の直会(なおらい)で神酒(みき)のおろし物を参加者が分かち飲食する行事がある。黒木家は、二尊寺の古い檀家で、黒木家の墓所には23代匡実(延実)、24代祐実、など代々の墓がある。
B引接寺(いんじょうじ)聖竜山 下庄上町
浄土宗善導寺派。室町時代の文明11年(1479)3月15日に僧深誉(しんよ)喰虎が開基。初めは遍光山と号した。瀬高念仏根源であった。寺は享保17年(1732)12月、14代住職の時に下庄を焼き()くした大火で寺社・寺宝、旧記ことごとく焼失した。その後、中山村に隠居されていた立花帯刀家(たてわきけ)3代の立花茂之(しげゆき)公は子供に家督を譲り所領の中山村に移り住み道印と改号する。引接寺は道印の援助により、寛保元年(1741)に僧一誉即童を中興の祖として再建されたとみられる。また、立花茂之弟で立花本家の養子となり柳川藩5代藩主となった立花貞俶(さだよし)の実母「玉泉院」が6月15日に亡くなり当寺に葬っている。道印立花茂之)は一誉即童に深く帰依(きえ)(信心する)し、次女の玉蘭(ぎょくらん)も漢詩を通じて引接寺を愛し出入していた。女には珍しい漢詩の作家で始めは武宮謙叔に、ついで肥前の僧大潮元皓(げんこう)に詩を学んだ。茂之宝暦4年(1754)1月23日に60歳で世を去り当寺に葬る。法名聖龍院(せいりゅういん)潜與頼阿道印大居士。これにより寺の山号遍光院を茂之の院号により聖龍山(せいりゅうざん)と改められた。延享2年(1745)14代の諦誉元阿上人の時に寺内残らず焼失している(.)宝暦14年(1764)玉蘭(ぎょくらん)は京都の服部南郭に作品の添削をうけ、漢詩集「中山詩稿」を出版した。江戸で出版した時、増上寺(ぞうじょうじ)円海上人の協力があったとされている。江戸の増上寺は引接寺と同じく浄土宗で往来があった。茂之の4男、5男、6男の3名は一誉即童の室に入り出家、弟子となり、その中の1人即瑞(そくしゅう)和尚は当寺16代住職となっている。茂之と正室盛亮院安永(あんえい)5年(1776)丙申4月18日逝)夫妻の墓の後ろには長女の隋信院と帯刀家5代茂親(しげちか)の手によって寛政6年(1794年)3月18日に亡くなった次女の立花玉蘭の墓(碑貞松院殿天誉恵林妙真大姉)が建てられている(.)さらに亡くなって36年後の文政13年(1830)12月、引接寺第22代住職光誉上人の時、碓井木村の3氏によって供養碑(くようひ)が建てられている。
 立花玉蘭とは
江戸時代中期の漢詩人。筑後(福岡県)柳河3代藩主立花鑑虎の兄茂虎の娘。はじめ武宮謙叔に、ついで肥前の僧大潮元皓(げんこう)に詩をまなぶ。また京都の服部南郭に作品の添削をうけ、宝暦14年漢詩集「中山詩稿」を刊行した。寛政6年3月18日死去。(あざな)蘊香。著作はほかに「岩屋懐古詩集(.)(日本人名大辞典より)

明治5年、柳川藩政時代の厳格な城下町に入る柳川城正門の「瀬高御門」が柳川城が消失した後、競売にかけられ引接寺に移築され山門として残っていたが平成16年秋の台風で倒壊の為保存中で貴重な文化財である(.)
本寺入口には地蔵堂閻魔堂・鐘楼の後ろには3観音像がある。本堂・庫裡(こり)・会館は昭和59年10月に新築落慶法要を行っている。墓所南東には歴代上人の墓と立花帯刀家の墓(御霊屋(おたまや))がある。境内には開祖以来お寺と共にある樹齢600年の大楠がある。

明治5年、柳川藩政時代の厳格な城下町に入る柳川城正門の瀬高御門が柳川城が消失した後、競売にかけられ引接寺に移築され山門として残っていたが平成16年秋の台風で倒壊の為保存中で貴重な文化財である。
本寺入口には地蔵堂閻魔堂・鐘楼の後ろには3観音像がある。本堂・庫裡・会館は昭和59年10月に新築落慶法要を行っている。墓所東南には歴代上人と立花帯刀家の墓(御霊屋)がある。境内には開祖以来お寺と共にある樹齢600年の大楠がある。
現在の住職は31代光誉淳堂住職・総代会会長は川原幹雄氏である。(平成18年現在)

立花玉蘭の供養碑
 高さ80cm位
鐘楼と三十三観音 倒壊前の瀬高門 三代立花茂之と夫人の墓
C本浄寺 西延山     下庄上町

寺伝によれば永久年間(1113〜1117)真言宗の祈祷寺寂光寺として建立、下庄八幡神社の裏にあり、うらばると通称される。又人呼んで、ふうらんとう(古卵塔)ともいう。ここのは栗田関白藤原より出でたる石川の墓があり、古く藤原時代からの墓のあったことから、そのように呼ぶ。ちなみに石川氏は旧柳川藩主、蒲池氏の末裔である。現在本堂横の武田氏之墓と呼ばれているのが開基日厚上人以来七代の墓である。これは、明治13年本堂建立の法勲により徳永茂兵衛氏が当時の住職日寿上人に無理に願い譲り受けたものといわれ、その中の一基は石面のお題目を中途より削り自分の墓碑としたという。日蓮宗である。 
D安養寺(あんにょうじ)金岳山 下庄八幡町      
真宗本願寺派、元和年間(1615〜1623)祐仙開基。当初禅宗であり薬師堂があったが龍造氏に焼かれ、1822年(文政5)光徳寺の借庵となり4年後善教寺の借庵となり安養院大流真宗本願寺西派となった。同寺から南150mのところに山法師塚なるものがあって、この塚に触れると祟りがあるとして、住民から敬遠されていた。昭和50年中央公民館建設のため、塚を撤去することになり調査が行われた。調査によると安養寺住職二世および妻と覚しき墓石、弥生時代の住居跡、弥生土器、土師器などが発見された。この塚が寺の境内の一部だったこと、この地域の字名が「安の内」ということから昔、相当大きな規模を誇っていたものと推測される。寺宝に六字名号。薬師十二神将像12体、薬師如来坐像、脇生(きょうしょう)立像2体、半焼失坐像一体がある。

.  本堂    

   
E尊寿寺(そんじゅじ)日正山  下庄新町 
日蓮宗本国寺派、1082年(永保2)金伝寺とよび真言宗であった。1473年興善寺と改称し、法華宗に改めた。後年日正山本浄寺と称した。1595年(文禄4)大友義統(よしむね)の夫人、大友菊子法華教の信者だったので、法華寺のこの寺に葬った。夫人法名尊寿院と称した。菊子立花宗茂の叔母である。1751〜1763年尊寿寺と改称、また一説には尊寿院の霊を納めた時からであると。加藤清正朝鮮征伐の時、朝鮮王子を生捕りした時、その臣塩見家久の功績に報いる為王子の円鏡1面、扇子1本、錦褥の切れ端を与えた。八幡神社の裏の本浄寺は元の寺でその後新町に立花藩の寄進で立花宗茂の叔母、大友菊子の霊を納める尊寿寺と改め建立。1822年(文政5)下庄大火にて全焼、1858年(安政5)本堂妙見堂、山門などを再建。平成11年山門、清正公公堂宝塔尊などを再建する。
本堂右建物玄関には立花藩より賜った御籠が展示してある。
  
本堂 大友義統の夫人、大友菊子の墓 立花藩より賜った御籠
F養安寺(廃寺)   北高柳日吉神社境内
1596〜1614年(慶長年間)創建、浄土宗で来迎寺の末寺であったといわれるがこの寺の開祖当初は真言宗で、開基はさらに古く後世に至って浄土宗に改宗したのではあるまいか。現在は西方の堤防側にあった高柳の氏神日吉神社が、この境内に移転して、養安寺の養子の立て前となった。ところが、今では日吉神社が本体で養安寺は附属施設の感がある。昭和27年に住職も亡くなり無住の小堂となり廃寺となった。堂宇内には観音仏のほか、石仏が安置されている。養安寺を通称おこぼさん(御弘法)という。春、秋の祭礼には護摩たきも行われ、近隣からの参拝人が多く、にぎわいを呈していた。境内には年代は明確でないが、東側に苔むした多くの石仏、二十三夜塔、地蔵仏、十三仏、などがある。弘法大師堂は東中央にあり、堂内に大師像・薬師如来・石仏・阿弥陀仏・脇侍十二神将がある。日吉神社西側には観音堂・魔羅観音・地蔵堂がある。春と秋のお彼岸にはお遍路さんが訪れ参られる。
石仏群 弘法大師堂 十三仏像
G光源寺       下庄田代
西暦1500年(室町後期)の初頭、寺院というより道場として、古くから門信信徒のための求道念仏の堂宇があったことは明らかである()寺号公称をおこなったのは、それより以降で、その開祖は祐閑である。祐閑戸次道雪(.)立花宗茂公に仕え天正15年筑後柳川に赴いた。慶長5年関が原の合戦の後(.)宗茂公柳川を去り、程なく祐閑は浄土真宗に帰依して山門郷の瀬高下庄に庵居した(.)慶長10年に西本願寺より光源寺の寺号を賜り木仏本尊を授与された(.)その後真宗大谷派へ転じて今日に至る。寛永14年(1637)(.)光源寺の二世、十時松吟は長崎に出て浄土真宗の布教活動をなすうちに長崎奉行の馬場三郎左衛門に認められ一寺を建立することになり、瀬高の光源寺を弟に譲り(.)銀屋町に巍巍山光源寺(西本願寺派)を創建した()松吟の著書に長崎で穴吊りの拷問に耐えきれずキリスト教を棄教したイエズ科会司祭クリストファン・フェレイラが澤野忠庵(さわのちゅうあん)の名と妻をあてがわれ、キリシタン目明しとしてキリシタン弾圧に協力した「ころび伴天連(バテレン)澤野忠庵(さわのちゅうあん)(クリストファン・フェレイラ)」が口述した天文書を記述したことで有名である(.)フェレイラは日本人に南蛮医学を伝えた、娘婿の杉本忠恵はフェレイラ門下の医師で、のちに幕医を務めた(.) 
H宝塔院     金栗
鎌倉時代末期、建武元年(1334)鎌倉時代の名僧、鉄山士安(てつさん‐しあん)禅師が開基創建した。大竹の二尊寺の末寺であった。その後世代は幾変遷して周辺部落の寺とともに衰退し廃寺同然となり、僅かに大日堂を残して細々と今日に至った。その後のお堂は大正5年建立されたにであるが、その間風雪に耐えてきたものの、御仏体とともに朽果て、昭和51年に仏像の修理、銅板葺の仏堂の新築がされ金栗部落の人々により信仰されている。(昭和51年二尊寺住職池上無門碑文参照)
I本長寺     下庄緑町
日蓮宗本国寺(京都)の末流。当初、上庄の堤防沿いにあり真言宗の寂光寺の廃寺に元文3年(1738)立花藩の家臣、矢島重知(矢島秀行の3代目)の娘が出家して尼となり「慧照比丘」と称し、本国寺日解僧正を招いて開祖とし、再建した寺である。

この矢島家の祖先は足利尊氏に仕え、近江国野州郡を与えられ矢島郷に居住したことから「矢島」を姓としていた。矢島秀行室町幕府最後の将軍足利義昭の子であり、その妻は公家の菊亭卿の娘であり、後に「恵照院」と称されている。
慶長元年(1596)恵照院は息子(矢島秀行の2代目)矢島重成が立花宗茂に仕える為息子に伴われ柳川に来てこの地で逝去して「恵照院」となったものであろう。矢島重知の娘「慧照比丘」は曽祖母にあたる「恵照院」の菩提を弔う為に開祖したのである。
享保2年(1742)慧照比丘が死去した直後に本山の本国寺の一字をとって今の寺号の本長寺に改め恵照院殿妙成日芳尼が就任した。宝暦元年(1751)に開祖の唯妙院日解が本山から来て住職に就任していた。
宝暦9年(1759)には尼さんの円寿院殿妙応日慶尼が就任。
寛政5年(1793)当時は無住職の寺で「代恵」という留守居の僧侶に守られている。
文化元年(1804)「又玄院日真」から「泰翁院日行」と住職が就任しているが、江戸時代、無住職の時代が何世か続いたものと考えられる。
大正13年(1924)に矢部川堤防拡張工事のため上庄から現在地に移転した本長寺移転前の現在地は大正時代に竹竿を組み合わせた垣とむしろで仕切られたお粗末な芝居小屋があり、当時の瀬高の娯楽の中心地であった。
現在は30世になり村越智研住職が就任し、本長寺開山258年(平成18年現在)になる。堂内の鬼子母神の祈願式典には多くの方を呼び盛大に行われる。
(新藤東洋男氏資料参照)
   
    
J大日寺(廃寺)(湯殿山中央院)元町松尾宮社内 
三宝院派。延宝年間(1673〜1680)の開祖であった。本院は初め大竹の椿原小路にあったが、しばらく無住の時、明和8年(1771)2月13日藩に寺地を差し上げて、大竹村市場町松尾宮内に借庵した。」とある。松尾宮の当主金納実栄氏は朝廷の勅願所である京都の三宝院で得度を受け僧の資格も得ている。昔は松尾宮でとなえる祝詞は仏式で行われていた。当家に残る仏僧諸国行脚に必要な関所手形(縦20cm横5cmの木製黒塗り)の表上部に菊の御紋をあしらい、「三宝院御用」裏は「筑後国中央院」とある。この大日寺中央院の寺紋は菊の御紋が許可されており、高い権威の程がうかがえる。
K崇福寺 (廃寺)  元町
寺院帳によれば、宝暦10年(1760)9月9日寺号御免。明和2年(1765)5月建立。宝聚寺の末寺であったが天明7年(1787)永興寺の末寺となった。現在は寺堂もなくなり民家となっている。境内には石仏群、供養塔も現存している。境内には天満宮の小堂があったが元町の松尾宮の東側に遷宮している。当寺の住僧は代々、立花藩の御免地、御本丸、御花畑の祈祷を勤め、月に2,3回は柳川に出かけていた。藩主御留守城年は二石6斗4升のお倉渡しを受けていた。当地の人々は、ここの寺僧を検校とよび、遺失物、病気などの相談、祈祷を依頼し信者も多かったので、この寺のことを元町では通称「新寺」と呼んでいた。記録にある崇福寺(天台宗延暦寺派、元禄2年、僧行春開祖)に対する呼称であろうか。だが、この古い崇福寺の所在は詳らかでない。
        
L長宝寺     吉岡 (廃寺) 
往時は二尊寺の末寺であった。寺院跡と覚しき地域は、吉岡集落の西方で俗称「アン(庵)」と呼んでいた場所である。民家になり庭先に長さ1.5m巾50cmの自然石が横たわり寺院と関係深い吉岡氏を記念する文字がある。建物の台石も点在し、わずかに寺院の存在したことがしのばれる。
M蓮華寺     緑町  (廃寺)
臨済宗妙心寺派で二尊寺の末寺であった。嘉歴元年(1326)8月僧鉄山が開祖した。堂内には目もくらむばかりの仏像(薬師如来と十二神将)が安置され一部は薬師堂となっている。このお薬師寺さんの周辺の集落を「薬師」と呼んでいた程住民のお寺の対する信仰は厚く、お寺と集落は深い絆によって結ばれていた。現在、建物取り壊しの為仏像は二尊寺に安置されている。
 金厳(きんげん)      北高柳  (廃寺)
高柳の東部一帯、大正時代まで、矢部川堤防添いに十戸余の集落があった地域に金厳寺があったという。創建などまったく不明だが、地元の人は、ここを「きんぎし」と通称呼んでいた。
N寿経寺(無量山)(廃寺)    芳司
文広集落のほぼ中心地点にあり、堂宇はすでに無く廃寺で民家の敷地となっている。寺跡には、石仏と寺を記念する石碑がある。石碑には延宝4年(1676)の年号がある。上町の引接寺の末寺であった。石仏には線香、花がそえられ、民家の守り仏になり厚い尊崇を受けている。
O金泥寺(廃寺)   下庄
往時は二尊寺の末寺であったが、今は薬師堂のみ残っている。
P正楽寺(廃寺)   緑町
上町の引接寺の末寺であったが創建など明確でない。古老の話によると、寺の周囲には大きな堀があったという。現在小字名の正楽寺の地名のみが残り、寺跡を確認するものはない。
 地蔵堂  大竹・ 吉岡・ 芳司 
大竹の二尊寺東側の墓地の一角に石仏2体がある。
吉岡の吉岡川に架かる吉岡橋のたもとにある。
談議所の宝聚寺の門前にあり、昭和26年改修、石仏の地蔵さんが本尊。仏事には宝聚寺の住職が勤めをする。
芳司の東部に「よだれ地蔵さん」があり、今日でも尊信をうけている。橋口の通りにも4ヶ所の地蔵さんがある。
     
         南校区のお寺    表題へ
@龍本寺(洞雲山)   浜田
真宗大谷派。慶長7年(1602)豊後(大分県)の大友の家臣、川上源右衛門の弟仁兵衛が浜田村に移住し、信心あつく剃髪して法名、宗圓と改め念仏三昧に入る。この年は徳川家康が東本願寺を創建し、東西本願寺が分立した年にあたる。寛永元年(1624)上京し、本願寺門主宣如上人より御本仏並びに龍本寺の寺号を賜り、帰郷して同年10月、浜田に開祖する。寺の釣鐘は宝暦4年(1754)の鋳造である。境内には浜田保育園がある。
A野田の薬師堂     浜田
薬師如来の脇侍十二神将あり。地元では十二薬師と呼ばれている。
B泰仙寺(祥雲山)   泰仙
天保2年(1645)矢部川の掘り替えにより、津村と同じく鷹尾村も鷹尾(大和町)と泰仙寺(瀬高町)二分し、泰仙寺にあった鷹尾神社の神幸所を観音堂の傍らに移す。現在の産土神「聖母宮」である。村名は寺院名を村名にしたと思われる。この寺院はもと柳川の龍徳院禅宗の末寺にして祥雲山泰仙寺と号して禅僧代々相続せり。柳河領主家臣西山貞信出家して春山と改名し天保2年真宗大谷派東本願寺末寺に改宗し相続した。明治の初め大風にて倒壊し明治7年本堂を建立し今日に至る。
C実求寺        河内開
 法名誠誉実求随応は明和4年(1765)に亡くなっている。実求浄土宗庵として河内開に開祖した。下庄上町の引接寺の末寺であったが、明治初年真宗西本願寺に転宗する。後年東本願寺に転派する。その後都合により数年間空白ありて、平河唯信法師となり、平川普行が継ぎ現在平川政義師と受けつがれている。実求寺の寺号は、開祖した住職の法名よりとられている。猶、繹尊涅槃図掛軸、寺宝として保存されている。   
D養福寺        長島
長島中小路にほんぞん(本尊)さんというお堂が養福寺跡です。永禄2年(1559)戦国時代肥前竜造寺隆信が本吉清水寺を焼き払った時と同じ頃、焼打ちに合いに、仏像や石仏などは近くの堀に投げ込んでしまったと伝えられている。現在は柳川の七つ家に移つているが現在交流がある。焼失後、付近の住民が木材や藁を持ち寄り小さなお堂を建て守り拝んでいた。南小路、先祖供養由来帳に記載してある。昭和30年頃今の瓦ぶきに改築された。中央に御本尊、右に大日本如来、左に釈迦誕生仏が祀ってある。今残っている小さな釣鐘に大神長島名養福寺、明治13年の銘がある。釣鐘の吊手にはいかめしい武人の顔が外向きに対となってあり、また菊花牡丹の模様が彫られている。8月21日この小路のおにぎえとして舞台がかかり浪花節、夜店が出てにぎやかだった。
             
E妙光寺(東琳山)   下小川  
 古くは天台宗の寺院で長らく廃寺で石の板碑(写真)と五輪塔が残っている。板碑は明治の廃仏毀釈の難にあって、堀川の底に沈められていたものを住職が境内に安置されたものです。高さ94Cm幅60Cm厚さ8Cmの安山岩の切石に上部に阿弥陀如来の梵字、下部に刻銘があり釈文は「真如実相は浄土穢土(災いの世)も差別はない。一如だからどうしても自と他を区別をしょうか。万別一如の大真理を信じて、すでに吾が身は因果應報によってこの土にうまれたわけであるから、推如来の本願を心に念ずるものである」との意味ある。建立は、応仁2年(1468)9月10日とあり、大陽焦之の名が記されている。瀬高町では最も古い年号を持つ板碑である。
当寺の開基は西牟田右京之尉で西牟田城主、親元の次男(大友宗麟の祖父の代)で永正年間1504〜1521竜造寺の進攻により落城。右京之尉は三池の田尻鑑實の厚意により浜田村に住み浄土真宗に帰依し興教寺の僧(願休)になり。1573年(天正元)阿弥陀如来の絵像を採り浜田に妙光寺を開祖する。127年後の元禄13年(1700)には東津留に移転し、103年後の享和3年(1803)に下小川に移転し現在にいたる。天正年間に肥前の竜造寺隆信に寺を破壊され寺宝など奪われた。尊象は3年後返され今に安置する。本堂1810年建立されている。
 板碑
F吉祥寺        下小川
創建は不明だが相当に古いお寺らしく、大乗妙典一石一字の碑立つ。禅宗(臨済宗妙心寺派)二尊寺の末寺。御本尊は弘法大使、住職の亡き今は、寺守りとして、寺を守っておられ、祈祷寺と呼んでいる。畳二枚位の広さの地獄極楽の掛軸二軸保存してある。
         大江校区のお寺     表題へ
@雲照寺  真木
永禄5年(1562)肥後の武人、菊池武次が出家して僧鎮栄と号して開祖した。万治3年(1660)に建立されたと言う(.)入口の楼門は中国のお寺の風格をもつ珍しい建物である(.)真宗大谷派(.)楼門右手には天文年間の造流立の図像板碑があり安山岩に阿弥陀如来三尊の線刻がみられる(.)        

A建徳寺  有富

 慶長元年(1596)善教師が開祖した。一時衰えたが、寛政年間(1789頃)旭城が中興した(.)当時は天台宗で敷地2000uばかり、立花藩から寄進されたと伝えられている(.)明治2年、廃仏毀釈となり、住職不在の空寺となる(.)その後に他の真宗寺に来ていた僧を招く為、宮の杉の木を切り不動尊堂を建立した(.)そして不動尊堂をここに移して、その後正式に真宗寺として発足したとのことである(.)建物は創建以来ののもと言われている(.)(大江小学校の歩みと郷土・古川藤重氏の記より転写(.)
         
B玉琳寺  北大木
    寛文元年(1661)玄道により開基創建された。延宝元年(1673)肥後国和泉守遠藤頼遠の二男、三郎が出家し、今村氏と養子縁組をする(.)剃髪得度し、仏門に入り、筑後国大木村(現在地)に寺を建立した。真宗大谷派(.)
     
C満福寺   吉井
長12年(1607)興専により開祖創建された。第一世興専の実父は太宰少弐経房の嫡男、鍋島平右衛門尉藤原清久の三男、平七郎政房である。初代佐賀藩主、鍋島直茂の叔父にあたるが(.)世の兵乱をいとい、菩提心深く、遁世の志をもっていた。父清久に願いでたが反対され肥前領内を逃れ(.)筑後国椎葉郡鷹尾の山中にかくれた。のちに仏門に入り一宇を建立する。その後、興専は、門徒一同と共に現在の吉井に移ってきた(.)田中吉政の藩主の時代、松延城主上田清左衛門は、これを深く歓迎し、現在の満福寺を建立させた(.)以後、鍋島の性を捨て上田性を名のる。現在家宝として薙刀(なぎなた)一振が保存されているが、これは先の松延城主より寄進されたものである(.)
倒壊前の鐘楼門は九世住職大宣により(.)天明8年(1788)文化7年(1810)にそれぞれ再建されており(.)松延城の大手門と向え合せに建立されたものと伝えられている(.)平成3年の台風で入口の楼門と本堂の銅板屋根が吹き飛び被害を受けた(.)平成4年大改修工事のより瓦屋根に吹き替え風の被害を考慮し高さも低くされた(.)堂内も改修され現在の立派なお堂に変化している。仏殿の敷居も黄金色で輝き(.)彫刻も修復され輝きを戻し、お堂内の広さは目を見張るものがある(.)楼門は2階建で鐘撞き堂があり(.)立派な建物であったが再建に2億の巨額が掛かるため(.)平成7年に平屋の門で再建された。真宗大谷派である。(写真は旧鐘楼門) (.) 
E玉泉寺   大江
本来、禅宗であったが、天明年間(1781)焼失したと言われる。文化年間(1801)山門郡中島村の住人の荒木慶助が出家し(.)教善と号し、改宗して再建した。真宗本願寺派(.)
F浄金寺  堀池園
寛文元年(1661)実円により開祖創建。当初は禅宗であったが、天台宗の鍵係を務めたといわれている。「こうかの木」の枝で刻んだ観音像一体が安置してある(.)200年当たりから各家庭からあぜ豆、小豆、黒豆などをぬきたけ、村の老若男女みんなで観音様に参詣し(.)「やわらごっちん」をいただいて供養をしてきている。真宗本願寺派(.)
G法泉寺(大石山)  北広田
寛永4年(1627)2月26日に僧覚賢が開祖創建した。慶長5年(1600)、関が原の戦いで西軍についた立花宗茂公は(.)柳川城を開城し肥後の玉名に螯居中の身になられたが(.)大庄屋樺島式部(初代松延城主)の嫡男彦左衛門は本郷の壇家とはかり(.)玉名に隠れ住んだ立花宗茂の夫人に、ひそかに物品を送り続けた(.)この事が当時の柳川藩主の田中吉政に知れて(.)慶長7年(1602)7月11日彦左衛門(益義(.)面の坂で処刑され、父の樺島式部少輔(益運)は自宅で切腹した(.)式部の二男の彦右衛門は父と兄の菩提を弔う為に出家して覚賢と号し、宗茂公再封後(.)北広田村大石(現在地)に法泉寺を建立した。真宗本願寺派(.)

D明浄寺   松田
慶長13年(1608)に僧西道法師により開祖創建された。安芸国の住人であり、寛永18年(1641)5月命終する。真宗大谷派(.)
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H大祥寺(霊松山)  松田
元禄14年(1701)大竹の二尊寺の依頼により、鷹尾村の大祥寺(1324年頃の創建)を松延村へ移転したと立花家の記録にある(.)中間不詳であるが、明和8年(1771)久留米梅林寺の和尚が再興して開山祖となり聖観音菩薩の坐像が本尊として祭祀されている(.)臨済宗妙心寺派。境内には寛政3年(1791)建立の法華塔、閻魔堂、大師堂がある(.)樺島家、壇家の主な墓がある。慶長7年(1607)田中吉政藩主の時に(.)関ヶ原の戦いで敗れた立花宗茂は、加藤清正に一時預かりにの身になり高瀬で蟄居(ちっきょ)中の時期から、正室の闇千代(ぎんちよ)も蟄居中肥後の赤腹村の米や金品を隠れて仕送った罪で(.)在力村(現・清水村)の首切坂と合流した付近で松延村の大庄屋樺島式部と嫡男樺島彦左衛門と壇庄屋の嫡男壇七郎兵衛(はりつけ)の刑に処された、慶長七年寅七月十一日、法名は三室幻世居士と心月幻安居士の樺島親子の墓がある( )

 明浄寺
   
  樺島式部の墓
三室幻世居士 
樺島彦左衛門の墓
心月幻安居士 

I東照寺  大広園
園城の一部、本丸、西二の丸跡が東照寺の境内となっている(.)もと臨済宗の禅寺で、宮園城の守護寺であったが、天正年間、龍造寺隆信の兵火にかかり廃寺となっていた(.)現在の東照寺となり面目を新たにし、伝之授社には宮園城主、今村大隅の五輪塔、二代城主瀬兵衛三代城主薩摩(.)四代城主、土佐入道覚盤のそれぞれの逆修碑(生前に仏事を営み立てた碑)が合祀されている(.)

本堂

仁王門
J阿弥陀堂(長福寺 大木山)(廃寺)  北大木
旧大木城内にあり、大木氏の菩提寺として、臨済宗の巨刹であったが、天正8年(1580)肥前の竜造寺隆信に焼かれ、その後再建されなかった(.)当時同寺の墓地に小堂を建立し(.)弥陀・釈迦・観音の三体と宗祖の像を安置し後世に残したものである(.)それを阿弥陀堂と呼んでいる。その西方は寺跡で、俗に寺屋敷と呼んでいる(.)東南は城跡であったという。またその後方に井形墓(いがわばか)三基がある(.)高貴な人の墓といわれているが、あるいは当時を菩提寺とした大木氏の墓であろうか(.)大正13年耕地整理のため、城濠を埋め、竹林、山林を開墾した。本堂はその時、東西約50mにあったのを現在地に移転したものである(.)
K延命寺(徐病山)(廃寺)  松延
町誌には浄土真宗で開祖不明とある。春秋のお彼岸には、札所として、一般の参拝も多い(.)毎年8月24日には、男、女それぞれ子供達によりお地蔵祭りを取り行なっている(.)
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L金台庵(廃庵)  北広田
建立不詳。庵地10歩、浄土宗だった。享和元年(1801)移転して西方寺の末庵となる(.)
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 子飼(こがい)観音(マリア観音)       北大木
マリア観音の申し伝えがある。今でも遠近から参詣が多い。山本越前守秀房の子、山本右京大夫秀保(.)出羽国から豊後に来て海部、大方の2郡を領し(.)田崎村に居城し氏を田崎と改める(.)田崎民部秀門天正2年(1574)8月島津氏と戦い落城する(.)その子、保時は大友氏夫人菊子姫にお供をして大木に寄寓する(.)菊子夫人の墓は瀬高町禅院の建仁寺にあるが(.)北大木の子養観音様(マリア観音)は、その当時のものであると伝えられている(.)
     

仏教の由来 お釈迦さまの教え、仏教はインドからシルクロードを通り中国仏教となり朝鮮に伝わり、我が国に538年百済(くだら)の聖明王から信奉を進められたとある。我が国に渡った仏教を前に奈良の朝廷内部では古来の神々に怒りを招くとして受け入れなかった。
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奈良仏教
そして次の時代、高句麗の高僧慧慈に仏教を習った聖徳太子(574〜622)は仏教を国の教えとして、また文化全般の発展の為に導入。そして718年僧の規制の僧尼令28条が制定、国家の為の仏教として取り締まる。そんな中行基668〜749)は迫害覚悟で民衆宗教の為布教活動しました。
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この時代、瀬高でも本吉の成合寺709年頼源により創建、下庄談議所の宝聚寺717年行基により創建されました。
初め朝鮮から入った仏教は遣隋使の僧達により直接中国仏教を取りいれ、鑑真和上(687〜763)をはじめすぐれた僧が来朝し膨大な経典により仏教の基礎が整えられていきました。
                                          
平安仏教の
二大祖師

平安時代(794〜1192)に移り最澄空海は803年、ともに遣唐使として唐に渡りました。最澄法華、戒律、禅、密教の4つの教えを高僧らから授かり帰朝、比叡山延暦寺を創建し天台宗を開きました。
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本吉山の清水寺は帰朝した翌年806年最澄により創建されています。それとは対照的に空海は、2年余り長安に滞在して真言密教一筋に学問を修得し、インドから中国に伝えられた当時最高の密教の正統をことごとく伝授され帰国しました。数多くの貴重な経典類仏具仏画を持ち帰った空海真言宗を立宗し、真言密教の優位を説き名声を博しました。

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平安時代の信仰 当時の民衆が要望する悪霊の調伏、病気平癒の為の祈祷法や儀礼を備え、音楽や絵画など文化的側面も加味した天台真言の両仏教は魅力に溢れるものであった。奈良時代は薬師如来、観音菩薩、弥勒菩薩など盛んに造像さえましたが、平安時代には観音菩薩に加え地蔵菩薩不動明王の信仰が盛んになります。この時代観音信仰が盛んであつたことは平安から鎌倉にかけて国宝級の観音像が多いことで想像できます。
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神仏の習合化 この時代、山野を駆けめぐり修行する遊行僧の活動が盛んになり山を神として崇める日本古来の山岳宗教の神道と仏教の融合をきたし神社を宿として修験道の山伏として仏教を広めました。清水山の旧参道入口仁王門上の石段登り口鳥居は清水寺が神仏融合の修験道の寺の証です。
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天台宗真言宗のその後 その後の天台宗では唐に留学して密教を学ぶ高僧が相次ぎ天台密教が盛んになり、なかでも円仁794〜864)は密教のほかに五台山の浄土念仏を伝え日本の浄土教の発展に寄与した。清水山の乳母観音円仁により848年創建されています。一方、真言宗は浄土教が盛んになり多くの分派を生んでいきました。
小冊子「ダンマサーラ」参照)  
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福岡県みやま市山川町・高田町のお寺へリンク

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