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【味取新町(みとりしんまち)・植木町】熊本県鹿本郡植木町 |
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植木町の北に位置する味取町は豊前街道の門前町・宿町として栄え、細川忠利入国の時、正式の町となっいた。しかし元禄時代には味取町から分かれ南方面に味取新町(植木町)が造られ、豊前街道の参勤交代で薩摩藩、人吉藩の宿舎としても利用され100軒余の旅籠で賑わった町です。ここの豊前街道の味取新町からは西に分伎して三池街道(高瀬街道)が高瀬(玉名市)や三池(大牟田市)方面に延びています。 |
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明治10年の西南戦争では植木の真数寺と西寺は薩軍の拠点となって西寺には薩軍弾薬庫があった。2月22日、向坂で乃木希典(まれすけ)少佐率いる歩兵第十四連隊は薩軍と遭遇し河原林雄大少尉が戦死、連隊旗を薩軍岩切正九郎に奪われた。この時、乃木連隊が撤退し自決しようとした千本桜の地には「乃木大将記念碑」がある。負傷した乃木少佐は南関の臨時野戦病院になった西宗寺に運ばれ、翌日に久留米に後送され、20日ほど入院、再び前線へ戻っていった。 |

乃木希典・少佐当時 |
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田原坂は標高差は僅か80mの一の坂、二の坂、三の坂と頂きまで1.5Kmの木葉川沿いに曲がりくねった山道です。西南戦争は明治10年(1877)、西郷隆盛の率いる鹿児島士族が起こした反政府運動で、日本最後の内戦で官軍6923名、薩軍7186名の戦死者を出しました。明治10年2月、熊本城を包囲した薩摩軍に対し、高瀬に集結した政府軍は救援のため、唯一大砲が運べる田原坂を越え、熊本城をめざして進軍した。田原坂の戦いは同年、3月4日から20日までの17日間に及び、この間の7日間は、みぞれ交じりの、雨又雨の日の中で合計10万の将兵が激闘し、死傷者3万5000名、死者はそれぞれ3000人以上が出しました。結果は物量に勝る政府軍が勝利、破れた薩摩軍は、撤退を重ねることとなり9月24日西郷隆盛らも鹿児島の城山で全滅し終結しました。
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田原坂公園 |
美少年像 |
役戦没者慰霊之碑 |
弾痕跡の土蔵 |
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♪ 雨は降る降る 人馬(じんば)は濡れる
越すに越されぬ 田原坂
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右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱(たづな)
馬上ゆたかな 美少年
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山に屍(しかばね) 川に血流る
肥薩(ひさつ)の天地 秋さびし
田原坂なら 昔が恋し
男同志の 夢の跡
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春は桜よ 秋なら紅葉
夢も田原の 草枕
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夢を褥(しとね)に 夢やいづこ
明けのみ空に 日の御旗(みはた)
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【木葉(このは)】玉東町 |
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植木との境を過ぎると木葉村です。西南戦争で官軍の参謀山県有朋が本営を設けた所です。官軍の病院が置かれたところで、木葉の三開業医が軍医を援けたことで元老院議官の佐野常民(さのつねたみ)や大給恒(おぎゅうわたる)は有栖川親王に許可をもらい博愛社が結成され、木葉の正念寺に救護所を開き、赤十字社の精神に基づき、敵味方の区別なく負傷兵を収容し手当を行いました。したがって、日本の赤十字社は、玉東町木葉でそのスタートを切ったことになります。
街道筋には木の葉猿窯元があり、見猿、言わ猿、聞か猿の3匹猿は「悪いことは見ない、言わない、聞かない」という昔からの戒めがあり、1300年も昔から作られている。
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正念寺 |
正念寺の博愛社発祥地の碑 |
3匹猿 |
木の葉猿窯元(右) |
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【高瀬(たかせ)】玉名市 |
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明治初期以前は橋は無く 菊池川(川幅約100m)を舟で渡り、高瀬側に着岸し、中州を通り、裏川にかかる大小の石橋を通って高瀬の街へ行っていました。玉名温泉はかって立願時温泉と呼ばれ、1300年もの間こんこんと湧き続けて保養地として利用されてきました。
無色透明、ややツルッとしたすべりのよい泉質で、リューマチ、神経痛に効くといわれる弱アルカリのラジウム単純温泉です。 |
豊臣秀吉が九州平定するまでは菊池氏(肥後)、大友氏(豊後)、島津氏(薩摩))、龍造寺(りゅうぞうじ)氏(肥前)などが争う戦乱の時代でした。天正12年(1584)、沖田畷(おきたなわて)の戦いで佐賀の龍造寺隆信は討ちとられ、島津氏は隆信の首を返そうとしましたが、龍造寺氏の重臣鍋島直茂に引取りを拒否され薩摩に持ち帰る途中、龍造寺と島津の境界線であった高瀬川を越えようとしたところ急に重くなり、願行寺(1349年開祖)に葬られ首塚が造られた。龍造寺隆信の墓は、明治4年に成って佐賀市本庄町本庄の高伝寺に会葬された。 |

龍造寺隆信 |
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天正15年4月13日豊臣秀吉の九州征伐の時は高瀬に入り願行寺を宿所にしました。秀吉に降伏した島津義久も上京の途中天正15年6月に願行寺を宿所としている。
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江戸時代には肥後藩の菊池川流域の米の一大集積地でした。高瀬の御蔵から積み出された「高瀬米」は大坂の堂島に運ばれ米相場の基準となる程人気があり、繁栄した町です。裏川の右岸は商家町で、その面影が残っています。荷車が落ちないように片側に車輪用の石溝がある小崎橋など工夫をこらした当時の石橋、石垣や船着場が残っています。現在は裏川一帯は公園に整備され、5月下旬から6月上旬にかけて咲き誇る約66000本の花しょうぶが訪れる人を魅了しています。
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めがね橋 |
車輪用溝のある石橋 |
高瀬蔵(米蔵) |
米蔵内 |
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西南の役では明治10年2月27日薩摩軍・政府軍両軍主力が最初に激突し最大の激戦となり、高瀬の街の家屋が戦火で西半分を焼失した後の3月4日から田原坂で攻防戦が始まりました。 |
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【金山(かなやま)】荒尾市金山 |
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金山原は戦国時代の武将大野一族が佐賀の龍造寺軍により壊滅させられた古戦場跡です。江戸時代には鉄の産地として繁栄し、生産された鉄は有明海から舟で各地に運ばれたでしょう。高塚山には、鉄の輸送船の安全を祈った金毘羅さんがあります。
街道は金山交差点を国道208号から124号線にほぼ沿って北方面に延びる。 |
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【府本(ふもと)】荒尾市府本 |
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戦国時代の天正7年(1579)4月、佐賀の龍造寺隆信は野原(荒尾市長洲町)から侵略し、ここ梅尾城の小代氏降伏させ配下とし天正9年(1581)龍造寺勢の一翼を担った小岱氏は、天正9年(1581)には金山原の大野一族を激戦の上、壊滅させた歴史がある。
江戸時代初期には街道の往来者も増えて、享保元年(1714)府本町は細川藩から、宿場町として許可されました。それを記念する宿町御免の碑が寛保3年(1743)3月に熊野宮境内に建てられている。豪商荒木家の別邸は御茶屋として藩主の休憩所に利用されていました。街道に面して現存する天保2年(1831)6月14日に再建された御成門は御成間の入口につくられた門扉で細川家の九曜紋(くようもん)入りの棟瓦と九曜紋を浮彫りにした板の欄間を有する。御成間は昭和初期に近くの田中春記宅前に再建され利用されている。
島原藩主は参勤交代の時、府本の荒木氏邸で休息の後、三池新町を経て筑後またはここから分伎した長洲往還を通り長洲港に向かわれた。
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【岩本番所】荒尾市上井出 |
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肥後(熊本県)と三池(福岡県)の国境(くにざかい)で、肥後細川藩高瀬奉行所の岩本番所(荒尾市)があり、旅人の通行手形の改め、キリスト教の取り締まり、物産の流出、農民の逃亡などを監視したところである。岩本番所には、内野・桜井の両家が役人をしていました。今も内野家の子孫の方が、そこに住んでいます。石橋が架かる以前は旅人は歩渡りか舟で関川(諏訪川)を渡っていました。明治元年(1868)に、国境はなくなり、番所も廃止され、自由に通行できるようになりました。岩本橋は、「永青文庫」の「町在」の古文書によると幕末の文久3年(1863)に架けられた事が解っている。大牟田檪野(いちの)の石を使用し、石工は皇居の二重橋を築造した、肥後種山(熊本県八代郡東洋村)出身の橋本勘五郎だと推定されている。関川に架けられた石造りの眼鏡橋で欄干の外側には菊の花の紋章が刻まれています。全長32.7m、幅4m(道路3.4m)、高さ7.4mあります。二連のアーチ(めがね橋)の直径は各々12.5m、12.6mあります。この先、街道は番所の塀を左に沿って通るか、現在の県道の県境から竹林道を通ると、三池領の三池街道になります。
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岩本眼鏡橋(熊本県指定文化財) |
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