庄福BICサイト       H・2017・8・23作成    H・2017・10・17 更新中        福岡県(旧山門郡)みやま市瀬高町女山
 
 
  『魏志倭人伝』に書かれた邪馬台国、卑弥呼。弥生時代後期の2世紀後半(やまと)と呼ばれた日本の様子を官僚の陳寿が実際に倭(日本)に行った人の話を聞き、書いた歴史書によってのみ知ることが出来る2000字あまりの記録です。しかし不明な点も多く、邪馬台国の場所で畿内説と九州、山門説などに江戸時代新井白石(あらいはくせき)本居宣長(もといのりなが) 以来、今日まで論議された。しかし畿内説は北九州からの航海をでなくへの航海としている()命をかけて航海の舵をとる海人が方向を間違えるはずはない。魏志倭人伝が示す邪馬台国の位置は、「水行十日、陸行一月」という日程を除けば()里程・方角はもちろん、帯方郡から邪馬台国までは方角も違うが、記載された距離の12000里(1里≒90mと推測)をあてはめると大和までは届かない(.)また、邪馬台国の以北には役人を置いた海に近い伊都国らしきものは存在しなど、地理に関しても畿内・大和と考えるのは無理で()九州・山門説が『魏志倭人伝』に書かれた方位と地名が当てはまる。九州説の山門=ヤマトという古代からの地名も山門説の大きな根拠として注目され、みやま市瀬高町東部に女山(ぞやま)(女王山)にある古代朝鮮式山城の「女山神籠石(こうごういし)」周辺が卑弥呼に関係した遺跡と推定検証しました()
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   【山門(やまと)の地名の由来】
山門と邪馬台は「ヤマト」として古代からの地名として呼ばれ同一性がある。山門(やまと)という地名を探ってみる。710年に出来た『日本書記』神功記には「轉至山門縣、則誅土蜘蛛田油津媛」とあり、(神功皇后が)山門県に転至ましして、即ち土蜘蛛田油津媛(たぶらつひめ)を誅殺したとある。ほかにもある(.)藤原忠平、紀長谷雄たちが勅命によって、927年(延長5)にまとめあげた延喜式(えんぎしき)という古文書がある()宮中の年中儀式、百官の儀、作法から諸国のことなど記した書に「山門五郷、大江、鷹尾、山門、草壁、大神」となっている(.)草壁が大草に変わったが他の4地名は今も残っている。では山門をヤマトと呼んでいいのだろうか()931年~939年に日本最初の漢和辞典倭名類聚妙(わみょうるいじゅしょう)の中に、つぎの注釈がある。「山門郷 夜万止(やまと)と訓む、草壁 久佐加部(くさかべ)と訓む、大神 於保美和(おおみわ)と訓む、、、、」つまり(.)『日本書記』『延喜式』『倭名類聚妙』の三古文書をつなげば(.)神功皇后のころから、山門の地名はあり、夜万止(やまと)と呼ばれたことになる。つまり卑弥呼から百年位のちの時代()すでに「やまと」と呼ばれていたことになる。山門郡は弥生時代の後期、「やまと」と呼ばれいたのだ()この点でも、邪馬台国は、このあたりにあり山門郡に位置していたことになる()
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漢委奴國王印


みやま市・面の上古墳出土の四獣鏡
 中国の史書に出てくる最初の日本の個人名は、『後漢書東夷伝』には建武中元2年(西暦57年)に倭奴国((やまと)奴国(なこく)?)は後漢へ朝賀し、貢物(こうぶつ)(みつぎもの)を奉じていました。使人は自ら大夫と称した。光武帝から印綬(「漢委奴國王印(かんのわのなのこくおういん)」)(委=倭)を授けられている()この金印は江戸時代天明4年2月23日志賀島(しかのしま)で地元の百姓により巨石の下から出土発見され、現在は国宝に指定され福岡市博物館で保管・展示されている。博多湾はかつて那津(なのつ)と呼ばれていた事から、奴国は福岡市周辺に比定される()のちの魏志倭人伝にも奴国は登場するが同一の国であれば3世紀になっても存在していたことになる()

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 また同書の東夷伝には後漢(ごかん)の第6代皇帝、安帝(あんてい)永初元年西暦107年)、(やまと)の国王、帥升(すいしょう)等、生口(せいこう)百六十人を献じ、請見を願う」とある。倭の面上国王帥升等が後漢に160人の奴隷(どれい)もしくは技術者を献上し請見(せいけん)を願っている(.)この時は金印は授かっていない。この倭国王であったとする(後漢書東夷伝を『翰苑』「蕃夷部」「倭国」の条に引用記事での)(.)『面上国』あるいは(後漢書東夷伝を北宋版『通典』に引用記事での)『面土国』とあるが、推定地に()「卑弥呼の里」に近い福岡県みやま市山川町清水面の上(.)吉野ヶ里遺跡がある佐賀県神埼郡吉野ヶ里町吉田目達原や佐賀県三養基郡米多がある。魏志に出てくる倭国大乱の卑弥呼(ひみこ)よりも約50年以上前のことである。もし、倭の面上国が山川町清水面の上であったら、邪馬台国は(.)その後に引き継いだ国と考えられる()帥升のことは古くから知られていて、鎌倉時代の占部兼方(うらべかねかた)の『釈日本紀』開題には倭面国王とあり、室町時代の一条兼良の『日本書紀纂疏』には倭面上国王とある()
 西暦220年、後漢が滅び、三国時代を迎えた。()()(しょく)の三国に分割され、朝鮮半島の京城(けいじょう)あたりにあった帯方郡という後漢の直轄地は、魏に接収された。よって倭国と後漢の朝貢もに継承された()




 
  中国の西晋時代の歴史家の陳寿(233 - 297)が書いた中国の歴史書『三国志』の中の魏の公式記録が『魏書』である。その魏書の中の第三十巻「烏丸・鮮卑・東夷伝」に書かれている「倭人条」の呼び名です(.)それを略して『魏志倭人伝』と呼ぶ()つまり魏の歴史書にある日本人についての記録である(.)当時の日本には文字がなく、記録された文書は無いとされている。つまり、魏志倭人伝に書かれた白文(注釈などをつけない本文だけの漢文)であり、改行も句読(くとう)点のない二千字の漢字が、邪馬台国の場所や国の様子が解かる大きな手がかりなのである()
   【魏の出先機関、帯方郡について()
 魏志倭人伝の冒頭に登場する帯方郡(たいほうぐん)(ソウル付近)とは後漢末の3世紀の初めに、遼東(りょうとう)から楽浪郡にかけてをほぼ独立して支配していた公孫康(こうそんこう)が、楽浪郡の南を分けて建てた。後漢に代わった魏が公孫康を滅ぼし()238年に楽浪郡・帯方郡を支配した。邪馬台国の女王卑弥呼が帯方郡に使いをよこして魏に朝貢したのは(.)この翌年である。帯方郡は魏の直轄地でした。なお、249年司馬懿(しばい)らがクーデタをおこし、魏の皇族を抑えて首都洛陽を制圧し西晋の成立となっている()。『日本書紀』の神功紀に引用される『晋書』起居註に秦始2年(266年)に、倭の女王の使者が朝貢したとの記述があることから()卑弥呼のあとを継いだ台与の使者と推測されている(.)  

     【魏志倭人伝(行程部分の読み下し文)
倭人は帯方の東南、大海の中に在り。山海に依りて國邑をなす(.)旧百余国。漢の時、朝見する者あり。今、使訳の通ずる所 三十国。 郡より倭に至るには、海岸に循して水行し、韓国を歴て(.)乍は南しあるいは東し、その北岸、狗邪韓国に至る。七千余里。 始めて一海を度る。千余里対馬国に至る()大官を卑狗といい、卑奴母離という。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。 土地は山剣しく、深林多く、道路は禽鹿(きんろく)(こみち)(ごと)し。千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴 す(.) 又南一海をわたる千余里。名づけて瀚海(かんかい)(対馬海流か)という。一大国(壱岐国)に至る。官また卑狗といい、副を卑奴母離という。方、三百里ばか り。 竹木、叢林(そうりん)(やぶやはやし)多く()三千ばかりの家あり。やや田地あり。 田を耕せどなお食足らず()南北に瀚海(日本海?)す。 また一海を渡る千余里末盧国(まつらこく)に至る。四千余戸あり。山海に(はま)いて居る。草木が生茂って行く前に人を見ず(.) 好んで魚鰒(魚やアワビ)を捕うる。水、深浅となく、みな沈没してこれを捕る() 東南に陸行すること五百里伊都国(福岡市西区(旧怡土郡)付近)に到る。官は爾支といい、副は泄謨觚(せもこ)柄榘觚(へここ)という。 千余戸あり。世々王あるもみな女王国に統属す()郡の使いの往来して常に駐る所なり。 東南して奴国(なこく)(福岡市東区・春日市)に至る。官は兒馬觚といい、副は卑奴母離という。2万余戸あり。 東行不弥国(ふみこく)(宇佐町)に至る(.)百里。官を多模といい、副を卑奴母離という。千余の家あり()
 南、投馬国(とうまこく)に至る。水行二十日()官を彌彌といい、副を彌彌那利という。五万余戸ばかりあり。
  南、邪馬台国に至る。女王の郡する所なり。水行十日、陸行一月(.)官に伊支馬あり。 次を彌馬升といい、次は彌馬獲支といい、次は奴佳韃という。7万余戸ばかりあり() 女王国より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、 その余の旁国は遠絶にして詳らかにすることを得べからず。 次に斯馬国あり。次に己百支国あり(.)次に伊邪国あり。次に郡支国あり。次に彌奴国あり。 次に好古都国あり。次に不呼国あり。次に姐奴国あり。次に対蘇国あり()次に蘇奴国あり。 次に呼邑国あり。次に華奴蘇奴国あり。次に鬼国あり()次に為吾国あり。次に鬼奴国あり。 次に邪馬国あり(.)次に躬臣国あり。次に巴利国あり。次に支惟国あり。次に烏奴国あり(.)次に奴国あり。 これ女王に境界の尽くる所なり()その南に狗奴国あり。男子を王となす。その官に狗古智卑狗あり。 女王に属せず。郡より女王国に至ること万二千余里(.)

   【邪馬台国までの行程(.)
     ①-②  【帯方郡(たいほうぐん)から狗奴韓国へ(.)
 (原文) 倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國()
    
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(現代文訳)倭人(わじん)帯方郡(たいほうぐん)の東南の大海の中にあって、山に囲まれ島を連ねて国を造っています。倭国(やまとこく)はかって百余国に分かれ、漢(後漢)王朝の時に朝見する者もありました。()の時代の今、使いが行き来したり言葉を通訳できるのは30国程度です()

 
(原文 從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸 狗邪韓國 七千餘里 
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(現代文訳) 帯方郡(たいほうぐん)から倭国へ行くには、半島の西海岸に沿って航行し、南や東に蛇行しながら進むと、その北岸にある(朝鮮半島南沿岸部にある倭の北岸と理解し狗邪韓国は倭国の勢力範囲だったと解釈する)狗邪韓国(くやかんこく)に着きます。帯方郡から<狗邪韓国までの距離は七千里余りです(.)

 (解説狗邪韓国(くやかんこく)について)  狗邪韓国(くやかんこく)は別名を伽耶(かや)と呼ばれ、「狗邪(くや)」の文字も伽耶を聞き取り充てた文字であると思われる。 魏志倭人伝の底本となった『魏略』には弁韓と辰韓の国々から鉄を産出する。韓〔族〕・(わい)〔族〕・倭〔族〕が、みな鉄を取っている。どの市場の売買でも、みな鉄を用いていて、中国で銭を用いているのと同じである”()とある。当時の古代国家にとって、鉄資源の安定的確保は最大の関心事であったはずだ()そうであれば、倭国も朝鮮半島南部に飛び地のような占有地を有して、恒常的に鉄を入手していたと考えられる(.) また狗邪韓国は、倭の国々に文化を輸出する窓口としてその役割を担っていました狗邪韓国の遺跡からの出土品は()日本でも見られるものが非常に多く出土しております。銅剣、銅矛、銅戈等の青銅器をはじめ、日本と同様に中国鏡や、勾玉も数多く出土しています()日本に青銅器や鉄器が伝わったのはほぼ同じ頃になります。日本では、もたらされたこれらの品を、再度溶かして、新たなものとして作り替えていました(.)弥生時代、海峡を渡って来た彼らの足跡は、支石墓や甕棺の形で北九州をはじめとして、非常に多く遺跡として残されています()532年に新羅に滅ぼされた時、狗邪韓国の人々は日本に渡ってきました。壱岐や、北九州にその痕跡の多くを残しています(.)


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   ②-③  【狗奴韓国(くなかんこく)から対馬国へ】
 
(原文()始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴 
     

 (現代文訳)始めて一海を渡り、千余里で対海国(対馬国)に至る。対馬ー壱岐ー末盧国の海峡横断を一律1000余里としているのは、それぞれが1日航海だったことを示唆するその大官は卑狗(ひこう)といい、副官は卑奴母離(ひどぼり)という。居する所は絶海の孤島で、およそ四百余里四方。土地は、山が険しくて深い林が多く、道路は鳥や鹿の道のようである(.)千余戸の家がある。良田はなく海産物を食べて自活している。船に乗って南や北(九州や韓国)へ行き、商いして米を買い入れている()
 
 
(解説対馬(つしま)について)  対馬については、同じような形と大きさの二つの島が相対していることから「対島」と称していたのではないかと解釈する。『魏使がどこに上陸したのかは不明であるが(.)釜山と対馬の最北端は約50kmであるが、従来の1里=70m~90m説に従えば、これでは千余 里にはならない。倭人伝を信用しきれば、魏使は対馬の東側に上陸したことになる()対馬の弥生遺跡は、南部よりも北部に多く、西海岸の中央部の密度が最も高い。2000年に三根町山辺(やんべ)地区で発見された山辺遺跡(弥生大集落)は(.)それを地で行くような遺跡が出現し、それまで大規模な遺跡の無かった対馬に おいて()こここそ「対馬国」の首都ではないかと騒がれている(.) 主島はかつて1つの島だったが、地峡となっていた部分を寛文12年(1672)明治33年(1900)に海軍により人工的に開削され(.)細長い主島は南北3島に分離された。耕作に適した平地は少なく全体的に山がちで険しいが、下島の方が標高が高い(.)遺跡の状況から魏使は中央部の三根町山辺付近に立ち寄り、距離の短い南回り(30Km)で壱岐を目指したであろう()
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   ③-④   【対馬国から壱岐国へ】
 (原文() 又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴   
 (現代文訳)さらに、南に一海を渡る。千余里。名づけて瀚海(かんかい)という。一大国(壱岐国)に至る。官は、また(対海国と同じく)、卑狗(ひこう)といい、副は卑奴母離(ひどぼりという。およそ三百里四方。竹、木、草むら、林が多い(.)三千ばかりの家がある。いくらかの田地がある。田を耕しても、やはり、住民を養うには足りないので、また(対海国と同じく)、南北に行き、商いして米を買い入れている()
 
 (解説壱岐(いき)について)  原の辻遺跡は平成5年の調査で三重の濠を巡らせた大規模な環濠集落、祭祀建物跡が検出さている。出土物に大陸系の品が多く、中国鏡、戦国式銅剣、貸泉などの中国の銭貨、トンボ玉、鋳造製品、無文土器、三韓系土器、楽浪系の土器などがある()  
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   ④-⑥    【壱岐国から末盧国(まつろこく)へ】
 
(原文) 又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取()
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 (現代文訳 また、一海を渡る。千余里。末盧国(まつろこく)に至る。四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない。魚鰒(魚やアワビ)を捕ることが好きで、水の深浅にかかわらず、みな、水に潜ってこれを取っている(.)

 (解説末盧国について) 一大国こと壱岐の石田郡から末盧国に向かったとある。船は末盧国に至る前に呼子町の加部島付近を通過します。あるいは入港したのかもしれません。その加部島には延喜式名神大社、肥前一の宮の宗像三女神を祀る田嶋坐神社があります()伊都国で統治していた一大率は、津(港)に赴いて、海を渡って中国や朝鮮へ行こうとする倭の使者や、渡来した帯方郡使を臨検したという記述があることから(.)末盧国は川の港(津)のある唐津市の松浦川の河口付近にあったとされている。次の伊都国まで五百里を歩いている(.)
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   ⑤-⑥    【末盧国(まつろこく)から伊都国(いとこく) へ
 (原文() 東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐 
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 (現代文訳 (末盧国から)東南に陸上を五百里行くと伊都国に到着する。官は爾支(にき)といい、副は泄謨觚(せもこ)柄渠觚(へくこ)という。千余戸が有る。代々、王が有り、みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に(とど)まる所である。
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(読みくずし)   女王国より以北には、特に一大率という役職を置いて諸国を検察させている。諸国はこの一大率(おそ)(はばか)ている。伊都国に常駐している。その様子は、まるで中国の地方長官・刺史(しし)のようである。邪馬壱国の王が使者を派遣し()の都や帯方郡、諸韓国に行くとき、及び帯方郡の使者が倭国へやって来たときには(.)いつも一大率が伊都国から港に出向いて調査・確認する()文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない()

 (解説伊都国について) 女王国以北の6国で倭人伝に「皆統属女王国」した王がいたと記するのは伊都国だけである。その王墓とみられる三雲南小路の王墓、伊原鑓溝(いはらやりみぞ)の王墓、平原の王墓がある。こららの王墓だけで副葬された銅鏡は約110面もあり、伊都国の豊かさの一端がわかる()築造年代不明の雷山神籠石は雷山(標高955m)の北中腹、標高400~480 mの山中に築かれた古代山城です。その範囲は東西300m、南北700mほどで(.)現在残る遺構として谷の南北に築かれた水門とそれから東西に延びる列石群を見ることができます(.)糸島市井原916に伊都国歴史博物館があります() 福岡市西区吉武194にある吉武高木遺跡は有力者たちの墓「特定集団墓」や、200基以上の甕棺(かめかん)墓など、貴重な発見が相次いでいる。特に3号木棺墓では、三種の神器をイメージさせる銅鏡、青銅製武器、勾玉(まがたま)が同時に発見されていて、最古の王墓ではないか注目されている(.)現在「やよいの風公園」として整備されていて、園内には「最古の王墓」、「甕棺ロード」、「大型建物」などの展示・解説コーナーが設けられている()
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   ⑥-⑦    伊都国(いとこく)から奴国(なこく)へ】
 (原文(.) 東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
   
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(現代文訳) 伊都国から)東南、奴国に至る。百里。官は兕馬觚(しまこ)といい、副は卑奴母離(ひどぼり)という。二万余戸が有る。

  
(解説奴国(なこく)について) 江戸時代に志賀島で発見された国宝「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印で有名な「奴国」であうが、那珂川と御笠川に挟まれた博多区の那珂遺跡群からは吉野ヶ里遺跡、九州大学筑紫キャンパス内遺跡に次いで3例目となる巴形銅器(ともえがたどうき)の鋳型が出土している。春日市の熊野神社には広形銅矛の鋳型が保存されている(.)熊野神社には「王墓の上石」と呼ばれる平板の石板も残されていたが()これは、明治時代に家を建てるのにじゃまだというの で動かしたところ、下に墳墓があり()中から鏡(前漢鏡?)が30面以上、銅剣・銅鉾・銅戈などの青銅器が8本以上、ガラスの壁 (へき)やガラスの勾玉などが多数出土したと言う(.)これらの副葬品は既に散逸してしまっているが、上石だけは転々と場所を代 え熊野神社に残っていたもの。現在は「奴国の丘歴史公園」内に移転されている(.)春日丘陵の須玖五反田遺跡からはガラス製品の製作工房跡が確認されている。春日市岡本3-57の「須玖岡本(すぐおかもと)遺跡」に「奴国の丘歴史資料館」と「奴国の丘歴史公園がある()  .  
   ⑧-⑨   【奴国(なこく)から不弥国(ふみこく) へ】 
 (原文) 東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘()
    
 
(現代文訳)(奴国から)東に行き不弥国に至る。百里。官は多模(たぼ)といい、副官は卑奴母離(ひどぼり)という。千余りの家がある。
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 (解説不弥国について) 不弥国の比定は難問であるが、糟屋郡宇佐町の説もあるが奴国に近すぎる難点があり、長田夏樹氏のいう「洛陽古音」で「ホ・ム(ホ・ミ)」にあたるという立場に依拠して、「宝満山」の西麓の太宰府市付近を考えている()すなわち、宇美町と太宰府市・筑紫野市にまたがる秀麗な山・宝満山(標高869M)は、ホツミ→ホツマあるいはホミである意見あり(.)また現在の呼称「hou-man」の山がもと「hou-mitu」(あるいは「hou-mit」)の山で、このくらいの転訛は十分ありうるのではないかと思う()太宰府という地名自体は置かれた官署・大宰府に因るものだから、別の地名がもともとあった筈でもあろうと(.)大野城跡は西暦663年に百済(韓国)救援に派遣された日本軍は白村江(はくそんこう)の戦いで唐(中国)・新羅(韓国)の連合軍に敗れ、本土防衛のために665年に築いた山城です()別説では「不弥」=「フメ・フミ」=久留米。中国人は「漢」を「ハン」と発音する。カ行をハ行に発音するから「クルメ」を「フーメ」聞いたのである。しかし方角が東とあり、久留米の方角は南である。
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     比定地  方角  里数(短里1里=70~90m)  実距離  里数累計 国別戸数 
   帯方郡(たいほうぐん)  韓国のソウル付近    ①~⑨まで12000里      
 ② 狗奴韓国(くなかんこく)  韓国の金海市・別名伽耶(かや) 東南  ①~7000余里 750Km   7000余里  記載なし 
 ③  対馬国  対馬    ②~1000余里   80Km   8000余里   1000余戸
 ④ 一支(いき)  壱岐    ③~1000余里   90Km   9000余里   3000余戸
 ⑤ 末盧国(まつろこく)  松浦郡(唐津市)  東南   ④~1000余里   65Km  10000余里   4000余戸
 ⑥ 伊都国(いとこく)  怡土(いと)(糸島市)  東南  ⑤~500余里   30Km  10500余里   1000余戸
 ⑦ 奴国(なこく)    那津(博多湾)(福岡市・春日市) 東南   ⑥~100余里   20Km  10600余里  20000余戸
 ⑧ 不弥国(ふみこく)   糟屋郡宇美町・大宰府市・筑紫野市    ⑦~100余里   50Km  10700余里   1000余戸
 ⑨ 邪馬台国(やまたいこく)  山門郡(みやま市瀬高町)    ⑧~1300余里   60Km  12000余里  連合国を含んで70000余戸
 ⑩  狗奴国(くなこく)  熊本県球磨(くま)   邪馬台国の南      記載なし 
               
 
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      投馬国と邪馬台国の記述への疑問】
  不弥国の記載につづいて『倭人伝』では「南に投馬国(とまこく)に至る。水行二十日。南、邪馬台国に至る。女王の郡する所なり。水行十日、陸行一月」とある。倭人伝のなかでも難解な箇所だが、対馬国から連続的につながり行程・距離、ときには方角や紀行文までが記載されている(.)しかし投馬国と邪馬台国の記述は臨場感もなく距離を示すのも里程で記されないで、水行・陸行の行程日数に変更したことは、利用された資料あるいは情報の種類が異なる()これは卑弥呼が死んだあとに、(266年?晋書より)に女王台与(とよ)(しん)へ遣使した際に、もたらされた新しい情報を錯誤して著者の陳寿が倭人伝の編述に際して挿入したと考えられ()この箇所の知識は倭人からもたらされた情報と推測する() 
 邪馬台国までの記載にはもう一つがある。あとに述べられた狗奴國の記載の次に「
自郡至女王國 萬二千餘里」とあり(.)帯方郡(たいほうぐん)より女王国に至るまで、一万二千余里とあるが、これが本来の帯方郡から邪馬台国までに到る正しい距離の記述とみられる(.)およそ1日=1000里の行程と推測すれば約12~20日位の旅の行程となる()よって不弥国からは計算で南に1300里にあたる筑後平野に邪馬台国が該当する(.)なお「南に水行十日、陸行一月」記載は極端に長距離となり南海の果てとなる記述となり、錯誤してのちに挿入されたとみる()帯方郡と投馬国や邪馬台国間の行程について『魏志倭人伝』を検証、解説してみました(.)

     


邪馬台国から魏の洛陽までの経路
    【帯方郡から投馬国(とまこく)へ】

   (原文)  南至投馬國 水行二十日 
(方角を無視した想定距離)[自郡至]が脱字され(帯方郡)から南、投馬国(とまこく)に至る。水行二十日。ちなみに帯方郡から投馬国までは海上だけで20日かかると思われる距離である(.)
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比定地として日向国都萬(つま)(都萬神社周辺、現西都市妻地区)あるいは投馬国を設馬、殺馬の誤記とする説や薩摩(さつま)(鹿児島県)説があるが。距離が合わない。学者では邪馬台国を山門郡として、「投馬」は、音が三潴(みずま)郡。下妻郡。上妻(こうつま)郡のツマに類似するので、筑後のあたりが妥当だとする人がいるが()これらの郡は筑後国でもあり、山門郡に隣接しており、明治に入り女王の宮殿とされる女山(ぞやま)の北隣は山門郡に編入した地域もあり、近隣し過ぎているので、当サイトでは否定する(.)ここの原文は先述べしたように、信頼できない(.)
 
      邪馬台国(やまたいこく)から洛陽へ】
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(原文) 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 
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(方角を無視した想定距離) 卑弥呼の宮殿から帯方郡さらに大陸の対岸まで海上を十日、(さら)に、ここ(現・東営市)から魏の都の洛陽までは陸上を一ヵ月かかると、思われる距離である(.)
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  卑弥呼の宮殿から帯方郡さらに海上を中国大陸側の町の現・東営市まで十日、更に煙台からは黄河に沿って陸上を王の住む洛陽まで一ヵ月(煙台―洛陽間、約1048Km)の行程と捉える。1日の走行距離は 1048Km÷30日=34Km  時速4Kmで歩いて休憩なしで約8時間かかり倭人伝の陸行一月があてはまる()

 また脱字[朱文字]説では。
(追加文字文() (不弥国から)
南[行千三百里]至邪馬壹國  女王之所都  [因詣献上] 水行十日 陸行一月
 

 (解説) (不弥国から)1300里で邪馬台国に至る。卑弥呼の宮殿より魏都 洛陽に至るには海上10日、陸を1月かかる。) と考えるのが妥当で あるが、いずれにしても水行と陸行の記載記事は削除に価する記事である()
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 不弥国に続く原文よりの(挿入文) 推測地  方角   行程日数 推定距離 
 投馬国(とまこく)  沖縄諸島?    水行二十日  1600Km
 邪馬台国 南方の海     水行十日陸行一月 800Km +約1048Km
         
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     【女王国北側の国々】
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 (原文) 自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡 其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里
 
(現代文訳) 女王国より以北は、その戸数や距離のだいたいのところを記載出来るが、その他のかたわらの国は遠くて情報もなく、詳しく知ることは出来ない。次に斯馬国(しばこく)筑前国志摩郡・糸島市・糸島半島)あり。次に己百支国(しはくしこく)肥前国彼杵郡)あり(.)次に伊邪国(いやこく)肥前国北高来郡伊佐早・諫早市)あり。次に郡支国(ぐきこく)肥前国五島列島)あり。次に彌奴国(みどこく)肥前国西彼杵郡・長崎市)あり。 次に好古都国(こうこつこく)肥前国高来郡・島原半島)あり。次に不呼国(ふうここく)筑後国八女郡。旧上妻郡、下妻郡)あり。次に姐奴国(しゃどこく)神崎郡吉野ヶ里町)あり。次に対蘇国(たいそこく)鳥栖市)あり。次に蘇奴国(そどこく)筑後国三潴郡・久留米市)あり。 次に呼邑国(こいふこく)筑後国八女郡)あり。次に華奴蘇奴国(かどそどこく)豊後国日田郡)あり。次に鬼国(きこく)豊後国久住・九重)あり()次に為吾国(いごこく)豊後国大分郡・大分市)あり。次に鬼奴国(きどこく)豊後国速見郡・別府市)あり。 次に邪馬国(やばこく)大分県中津市。宇佐市)あり次に躬臣国(きゅうしんこく)大分県玖珠郡玖珠町)あり。次に巴利国(はりこく)筑前国杷木郡・朝倉市)あり。次に支惟国きいこく)肥前国基肄(きい)郡・基山町・基肄城付近)あり。次に烏奴国(をどこく)(あり(.)次に奴国(どこく)筑前国那の縣・福岡市)あり。 これ女王に境界の尽くる所なり。その南に狗奴国(くなこく)熊本県球磨(くま))あり。男子を王となす。その官に狗古智卑狗(くこちひく)あり。 女王に属せず。(帯方)郡より女王国に至ること万二千余里(.)  ( )内の比定地は兒玉眞氏「反時計回り連続説」を参照)
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  魏志倭人伝以外の文書になるが、『隋書倭国伝』という、魏志倭人伝より少し後の倭(わ)について書かれた文書にこんなことが書かれている()

有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。

(現代文訳) 阿蘇山が噴火したら人々は異を以って(良くないことが起きる前触れとして?)祈祷をすると書かれている(.)やっぱり、倭(わ)は九州のこととして認識されている()

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      【邪馬台国の南狗奴國(くなこく)
 
(原文) 其南有狗奴國 以男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
   (現代文訳) 女王の南、また狗奴國(くなこく)あり。 男子を以って王と爲す。 其の官を拘右智卑狗(こうちひこ)という。 女王に属さぬなり。
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(解説狗奴国について) (熊襲(くまそ))、つまり熊本県球磨郡(くまぐん)に比定される。女王国と狗奴國との境は熊本の白川(しらかわ)、緑川あたりと推測されている。魏の使者は、当時の日本人に名前を聞いて、同じ発音をす漢字を当てはめていったのだと思われ、拘右智卑狗(こうちひこ)の読み方からクコチヒクと思われる菊池彦とも考えられている。狗奴國は官の拘右智卑狗が外交や軍事の当事者として活躍し、女王国の大夫の難升米が自ら帯方郡をへて魏の都の洛陽(らくよう)まで行ったように、狗奴國からも帯方郡に使者を派遣し、その時の使者が拘右智卑狗であり、それにより帯方郡にまで名が知れれたていたであろう()球磨郡免田町(めんだまち)(現あさぎり町)の6世紀初めの熊襲の豪族の墓とみられる才園(さいぞん)古墳から金メッキ(鍍金)をほどこした平縁の神獣鏡。(直径 11.7cm、厚さ 3mm 青銅鏡(白銅鏡)の背面全体に分厚く鍍金)が出土し中国の鏡の研究者である王士倫氏によると三国志時代(3世紀)に中国の江南地方(()の領域)でつくられたものという。三国志時代(3世紀)に中国の江南地方(呉の領域)でつくられたものという。鍍金鏡は中国でもたいへん貴重なもので、日本では3枚しか出土していない()は中国でもたいへん貴重なもので、日本では3枚しか出土していない。国指定重要文化財になっている(熊本市立博物館が所蔵)(.)

    
【帯方郡から女王国までの距離】
 (原文) 自郡至女王國 萬二千餘里

   (現代文訳) (帯方)郡より女王国に至るまで、万二千余里。
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  (解説) 魏志倭人伝に記載された帯方郡からの方位と各国の距離および女王国まで12000里とあり、不弥国(ふみこく) からは1300里(約90Km・あるいは1時間18分とも推察)となるので南筑後や佐賀平野あたりが該当する()古代からの地名から邪馬台国を筑後国山門郡、現在の福岡県みやま市瀬高町大草女山(ぞやま)(女王山)に比定される(.)
   
   
 
女山(ぞやま)の地は北九州の福岡県南部に位置し、吉野ヶ里遺跡のある背振山脈と中国大陸から渡来した徐福を始め鑑真が航海した有明海が正面に望めます。金色に染まった麦畑一帯では弥生時代の住居遺跡が連なり古代国家を連想できます。(写真は女山神籠石遺跡からの展望) 
  
      【卑弥呼の里の生活】
     (原文) 男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫 夏后少康之子封於會稽 斷髪文身 以避蛟龍之害 今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里 當在會稽東治之東(東治は東冶の転写間違いと考える)
   

 (現代文訳) 男子は大人、子供の区別無く皆体に入れ墨をしている。昔から、この國の使者が中国に詣で来た時、皆自ら大夫と称し ている。夏后(王朝)の少康(五代目の王)の子は、会稽に領地を与えられると、断髪入れ墨を以て蛟竜(こうりゅう)(サメの類)の害を避けたと言うが、今 倭人も、好んで潜水して魚貝類を捕える(.)入れ墨はまた(少康の子と同様に)大魚や水鳥を追い払うためであったが(.)後にはしだいに飾りとなった。諸国の入れ墨はそれぞれ異なって、左にあったり、右にあったり、大きかったり、小さかったり、身分の尊卑によっても違いがある。その(女王国までの)道のりを計算すると、まさに(中国の)会稽(かいけい)から東冶(とうや)にかけての東にある()
 (解説) 帯方郡から倭国に至る里程は、()に対する遠交近攻策(遠きと交わり近きを攻める)のために(魏政府によって)故意に誇張されており、そのため、3世紀当時の中国人に信じられていた「計其道里、当在会稽東冶之東」という()倭国の誤った地理観を故意に利用し、魏王朝のねらいは「倭国は呉の東南方に位置する」という地理観を敵国呉に誤認させるためという見解もある(.)
   
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  卑弥呼の里の生活
 身分制度 大人(たいじん)と下戸(げこ)があり、下戸は道で大人に出会うと、後ずさりして道端に入り、言葉を伝え物事を説明するには、うずくまったり、ひざまずいたりして恭敬の意を表す()
 服装 男は髷(まげ)を露出し、木綿(ゆう、もめんではない)を頭に巻き、幅広い布を結び束ねただけの衣服をまとっている。女は髪を結い上げず、部分的に髷(まげ)を結い、衣服は中央に穴をあけた布に頭をとおして着ている.(貫頭衣)(.)
 住まい 家屋(竪穴住居)があり、父母兄弟で寝室を異にしている。
 食事 冬夏、生菜を食し、食事には竹や木でつくつた高杯(たかつき)を用い、手でつかんで食べている。
 習慣 おとなも子供も、顔や身体に入墨(いれずみ)をしている。
大人たちは妻を4、5人もち、下戸でも妻を2、3人もつ者もいる()
骨を灼(や)いて、吉凶を占う。中国の亀卜(きぼく)と同じように、ひび割れを見て兆候を占う(.)
 税制度 租税や賦税を徴収し、それらを収納するために邸閣(大倉庫)が設けられている。
 交易 国ごとに市が開かれており、大倭(役人)にその監督をさせている。
 法制 法を犯すと、軽い場合はその妻子を国家奴隷とし、重い場合はその家族および一族を根絶する。
 葬法 人が死ぬと10日余、肉を食べず喪主は哭泣し、他人は酒を呑む。棺はあつても槨(かく)はなく、土もりをして塚をつくる。終われば家族は水中で体を清める()
 仕事 馬や虎はいなく男は稲や麻を耕作し、女は織物をする。兵には鉾楯、刀、木弓、弩(いしゆみ)を使用。
 
     【服装について】
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   (原文) 其風俗不淫 男子皆露紒 以木緜招頭 其衣横幅 但結束相連略無縫 婦人被髪屈紒 作衣如單被 穿其中央貫頭衣之
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 (現代文訳) その風俗は淫らではない。 男子は皆裸同然で、 木緜(もめん)を頭にかけ、 衣はひもで結んで縛り縫っていない。 婦人 は髪を束ね、 衣は単被(中国の衣服?)のようで、真ん中の穴をあけ頭から被ってこれを着ている。  (.)
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  (原文) 種禾稻紵麻 蠶桑 緝績出細紵縑緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同 倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室 父母兄弟卧息異處 以朱丹塗其身體 如中國用粉也 食飲用籩豆 手食

 (現代文訳 禾稲 (かとう)( 稲)・紵麻(ちょま)(麻)を種(う)え、 蚕桑(蚕)を育てて糸を紡ぎ、細紵(さいちょ:?)・ケン緜(けんめん: 絹?)を産出している。 この地には牛・馬・虎・豹・羊・(かささぎ) はいない。 兵は矛・楯・木弓を用いている。 木弓は下を短く上を長くし、 竹の矢の先は鉄鏃(てつぞく)だったり骨鏃である。國の様子は、タン耳(たんじ)・ 朱崖 と同じである。 倭の地は温暖、 年中生野菜を食べている。 皆裸足(はだし)である。 住居には部屋があり、 父母 兄弟、寝室 が別である。朱丹をその身体に塗っているのは、 中国で粉を(体に)塗るのと同じである。 食事は器を用い手で食べる()

 (解説) 牛・馬が当時いたことは確かだから伝聞上の問題があろう。
     【葬儀について】

 (原文) 其死 有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飮酒 已葬 舉家詣水中澡浴 以如 練沐 
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 (現代文訳)人の死は、 お棺におさめるが(かく)はなく、 土に埋めて(つか)を作る。 人が死ぬと十余日喪に服す、 喪中の間 肉を食べず、 喪主は哭泣して、 他人は歌い舞い踊って飲酒する。 葬った後は、 家の者は水中で澡浴(もくよく)し、 練 沐(もくれん)(みそぎ)のようにする。
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 (解説) 人の死にあたっては、「有棺無槨」とある。これは棺にはおさめるが槨はない、つまり石室のようなものは無く、封 土作冢、すなわち土を盛って塚をつくるとある。これはあきらかに古墳ではない。韓国の慶州に行くといくつもの土饅 頭(どまんじゅう)のような古墳が街のあちこちに点在しているが、卑弥呼の墓はあるいはあのような土饅頭型に近いものだったかも知 れないが、それにしてもあそこまで大きくはないだろう。庶民の墓が甕棺(かめかん)だったのは、弥生時代の北九州においては常 識で、相当な副葬品をもった豪族でもその(ひつぎ)は甕棺である。鏡や剣や勾玉やガラスの首飾り等々を副葬した 人の墓でも、甕棺に埋葬されている。「女王卑弥呼の墓」というと()我々はすぐに古墳時代の古墳をイメージし、堅固 な石室に収められているに違いないと思いがちだが(.)この時代そんな埋葬のやり方は、当時の文化社会であった北九州 はもとより、畿内にも存在しない。卑弥呼の墓も「径100歩」という語に惑わされているだけで、実際はこじんまり とした土饅頭のような小山だった可能性が高い()
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    【中国への渡航人について】

 
(原文)  其行來渡海詣中國 恆使一人 不梳頭 不去[虫幾]蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人 名之爲持衰 若 行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病 遭暴害 便欲殺之 謂其持衰不謹

 (現代文訳) 海を渡って中国に詣でる時は、 いつも一人の人間が、頭をとかず、蚤虱をとらず、 衣服は汚れたままで、 肉を食べず、 婦人を近づけず 、喪中の人のようにする。 これを名づけて持衰(じさい)と言 う。 もし先行きがよければこの者の行いが善であって 財物を与える。 もし疾病や暴風雨にでも遭えば、すなわちこれを 殺す。その持衰が謹まなかったから、と言うのである() 
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     【産物と占い・飲酒について】

  (原文) 出眞珠 青玉 其山有丹 其木有[木冉] 杼 豫樟 楙櫪 投橿 烏號 楓香 其竹篠[冠竹脚幹] 桃支 有薑 橘、 椒 [冠艸脚襄]荷 不知以爲滋味 有 扁犬旁爾]猴 黒雉 其俗舉事行來 有所云爲 輒灼骨而卜 以占吉凶、 先告所卜 其辭如令龜法 視火[土斥]占兆 其會同坐起 父子男女無別 人性嗜酒 【魏略曰:其俗不知正歳四節 但 計春耕秋收爲年紀】
 
 (現代文訳)(この地では)真珠・青玉を生産する。 山には丹がある。 植物はダン・(ちよ)予樟(よしょう)・ボウ・櫪・ 投・橿(きょう)烏号(うごう)・楓香がある。竹は篠・カン・桃支がある。(きょう)・橘・山椒・茗荷はある が、食べておいしいのを知らない。大猿・黒雉がいる。各行事で心配事があれば、 骨を灼いて占いその吉凶を求める() 先ず占う事柄を口に出して唱える。そのやり方は令亀の法のようで、焼けたヒビの入り具合を見て運勢を占う。会合の 場では父子男女別なし。人々は酒を(たしな)む。(魏略は言う。倭人は四季を知らない。但し、春に耕し秋に収穫 することで年を計算している。(.)
 
 【解説) 真珠は南方産の代表的な産物であり、これまでの出土した例は九州に多い。韓国産は粒が小さいが五島列島や対馬地方の天然真珠は大粒で中国でも評判が良かったので朝貢品に使われており、真珠は日本最古の輸出品のひとつでした(.)中国の「魏志倭人伝」や、「後漢書」にも日本の真珠の記述があり、その歴史がうかがい知れます() 
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     【生活風俗と伊都国において一大率(いちだいそつ)による諸国監視と出入国管理体制】
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   (原文) 見大人所敬、但搏手以當跪拜。其人壽考、或百年、或八九十年。其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不 to[偏女旁戸]忌。不盜竊、少諍訟。其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸。及宗族尊卑各有差序、足相臣服。收租賦、 有邸閣。國國有市、交易有無、使大倭監之。自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中 有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。下戸與大 人相逢道路、逡巡入草;傳辭説事、或蹲或跪、兩手據地、爲之恭敬。對應聲曰噫、比如然諾。衞。
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 (現代文解釈)大人を敬う時のやりかたは、柏手をうって踞(うずくま)り拝む。人の寿命長く、百年、或いは八、九十年である。大 人は皆四人か五人の妻を持ち、下戸も二、三人持っている。婦人は淫行(いんこう)を行わず、嫉妬せず盗みもしないので訴訟は少 ない。法を犯した者は、軽い者はその妻子を没収し、重い者はその一族も皆殺してしまう() 高貴な者も一般の者もそれぞれ身分差がある。臣は主に服従している。租税を徴収し、貯蔵庫(邸閣)がある。国々に は市が立っている。色々な物を交易しており(.)大倭という役人(役所?)がこれを監督している。女王國より北の地方 は、特別に一大率(いちだいそつ)を置いて、諸国を検察させている。諸国では、これを(おそ)れている。常に伊都国にい て統率している。国中に警備の者達がいる。女王が使いを使わして魏の都や帯方郡・諸韓国に朝遣する時()又郡(帯方 郡)の使いが倭國を訪問してきた時、大勢で港に出迎え、文書や贈り物を調べて(女王の所へ)届けさせる(.) 身分が低い者(下戸)が高い人(大人)と道路で出会ったとき、後ずさりして脇によけ蹲(うずくま)ったり、あるい は跪(ひざまず)いて、恭順の意を表す。応対には、噫(あい:はい:おう?)と言う。わかりました、という意味の ようである()
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(画)瀬高ドットコム提供
      魏倭人伝卑弥呼の部分の読み下し文)
 その国は、元々は、男子を王と為していた。居住して七、八十年後、倭国は乱れ互いに攻撃しあって年を経た()そこで、一女子を共に立てて王とした。名は卑弥呼という。鬼道の祀りを行い人々をうまく惑わせた。非常に高齢で、夫はいないが(.)弟がいて国を治めるのを助けている。王となってから、まみえた者はわずかしかいない()侍女千人を用いるが(指示もなく)自律的に侍り、ただ、男子一人がいて()飲食物を運んだり言葉を伝えたりするため、女王の住んでいる所に出入りしている。宮殿や高楼は城柵(じょうさく)が厳重に作られ、常に人がいて、武器を持ち守衛している(.)
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 女王国より以北には、特に一大率という役職を置いて諸国を検察させている。諸国はこの一大率(おそ)(はばか)ている。伊都国に常駐している。その様子は、まるで中国の地方長官・刺史(しし)のようである。邪馬壱国の王が使者を派遣し()の都や帯方郡、諸韓国に行くとき、及び帯方郡の使者が倭国へやって来たときには(.)いつも一大率が伊都国から港に出向いて調査・確認する()文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない()

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 景初2年(238)6月、倭の女王は、大夫の難升米(なんしょうめ)等を派遣して帯方郡に至り、天子にお目通りして献上品をささげたいと求めた。太守の劉夏(りゅうか)は官吏を派遣し、難升米等を引率して送らせ、都(洛陽)に至った()その年の12月、詔書が倭の女王に報いて、こう言う。制詔(せいちょく)(皇帝じきじきの公式の発言)、「親魏倭王卑弥呼。帯方太守(.)劉夏が使者を派遣し、汝の大夫、難升米と次使、都市牛利(つしごり)を送り、汝の献上した男の生口四人、女の生口六人()班布(麻の布)二匹二丈(2反2丈・約4.7m)をささげて到着した。汝の住んでいる所は遠いという表現を越えている。すなわち使者を派遣し(.)貢ぎ献じるのは汝の忠孝のあらわれである。私は汝を、はなはだいとおしく思う。今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を与え()装封して帯方太守に付すことで仮(かり)に授けておく。汝は種族の者を安んじ落ち着かせる、そのことで(私に)孝順(逆らわずよく従う)を為すよう勉めよ(.)汝の使者、難升米牛利は遠くから渡ってきて道中苦労している。今、難升米を以って率善中郎将と為し、牛利率善校尉と為す()銀印青綬を仮し(与え)、引見してねぎらい、下賜品を与えて帰途につかせる。今、絳地交龍錦五匹(.)絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝が献じた貢ぎの見返りとして与える。また、特に汝に紺地句文錦三匹()細班華罽五張、白絹五十匹、八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を下賜し(.)皆、装封して難升米牛利に付す。帰り着いたなら記録して受け取り、ことごとく、汝の国中の人に示し()我が国が汝を、いとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝に好物を下賜(かし)するのである。(.)



親魏倭王」の印(複製)瀬高の希光堂制作
宣和集古印史の印影により制作した印面


  正始元年(240)(帯方郡)太守、弓遵建中校尉梯儁等を派遣し、梯儁等は詔書、印綬(=親魏倭王という地位の認証状印綬)を捧げ持って倭国へ行き、これを倭王に授けた()並びに、詔(=制詔)をもたらし、采物を下賜した。倭王は使に因って上表し、その有り難い詔に感謝の意を表して答えた(.)

その(正始)四年(243)倭王はまた大夫伊聲耆掖邪狗等八人を派遣し、生口倭の錦青の目の細かい絹綿の着物白い布木の握りの付いた短い弓を献上した()掖邪狗等は等しく率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の符号と印綬を授けられた。正始六年(245)、詔して倭の難升米黄色い軍旗を賜い、帯方郡に付して仮に授けた(.)

 正始八年(247)、(弓遵の戦死を受けて)帯方郡太守の王頎(おうき)が着任した。倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を派遣して、帯方郡に至り、戦争状態であることを説明した()(王頎は)塞曹掾史の張政等を派遣し、張政は詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した(.)
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       【卑弥呼と宮廷の様子】

  (原文) 其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、 無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵 嚴設、常有人持兵守衞
     

 
(現代文解釈) この国は元々男性の王がいたが、7~80年の間に倭国は乱れ、数年間争いを繰り返していた。そこで国々は共同で一女 子を王として擁立した。名づけて卑弥呼という。鬼道(呪術?)にたけており、大衆を幻惑している。(能く衆を惑わす)齢はとっているか、夫はおらず、弟がいる(.)(卑弥呼を)佐(たす)けて国を治めている。王となってからは、 その姿を見た者は少なく、婢千人が身の回りの世話をしている()男が一人いて、(卑弥呼の)給仕をし、言葉を取り次 ぐため居処に出入りしている。(ここには)宮室・ 楼観・城柵が設けられていて、常に警備の者が守っている(.)
    
       【女王国の東あるいは南の国】

  (原文) 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東 南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里
   
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 (現代文解釈) 女王国の東へ海を渡る事千余里で、また国がある。皆倭人である。更に侏儒国(しゅじゅこく))がその南にある。この 國は皆身長が三、四尺(90cm~120cm)である。女王国を去る事、四千余里である。またその東南に裸国・黒歯国があるが、船行一 年で到達する()倭の地は、海の中に島として存在しており、地続きだったり島になったりいる。周囲は五千 余里程である(.)
    景初二年(238年)6月の卑弥呼の使い難升米(なしめ)等による帯方郡の朝献】

   (原文) 景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月、詔書報倭女王曰: 「制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹 二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授 汝。其綏撫種人、勉爲孝順。汝來使難升米、牛利渉遠、道路勤勞、今以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印 青綬、引見勞賜遣還。今以絳地交龍錦五匹【臣松之以爲地應爲[糸弟]、漢文帝著sau皂衣謂之戈[糸弟]是也。此字不體、 非魏朝之失、則傳冩者誤也】、絳地suu[扁糸旁芻]粟kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]十張、sen[冠艸脚倩]絳五十匹、紺青五 十匹、答汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀 二口、銅鏡百枚、眞珠、鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米、牛利還到録受。悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜 汝好物也

 (現代文解釈) 景初二年(238)六月(注・魏の景初3年、公孫淵(こうそんえん)が誅せられた後になって、卑弥呼は始めて使いを遣わして朝貢した」よって景初三年(239)が正しいとされている。)に、倭の女王が大夫難升米(なしめ)等を遣わして帯方郡に到来し、天子に詣うでて朝献し たいと要請した。太守劉夏(りゅうか)は、使いを遣わして彼らに随行させ、都に詣でさせた。その年(238年?)の12月、以 下の文書を倭の女王に送った。「親魏倭王卑弥呼に申し伝える(.)帯方郡の太守劉夏は使いを使わし貴方の大夫難升米・ 次使都市牛利を送らせ、貴方の献上した男生口四人・女生口六人・班布(はんぷ)二匹二丈を奉って到着した。 貴方がいる所は遙かに遠いにもかかわらず、使いを派遣して来た。これは貴方の忠孝の表れであり、うれしく思う。今 貴方を親魏倭王としてたたえ、金印紫綬(しじゅ)を授け、封印した後帯方郡の大守に授けさせる。貴方は、それを人 々に示し()人民を服従させなさい。貴方の使者難升米・牛利は、遠い所を渡って来て長旅をしてきた(.)今、難升米を率 善中郎将とし、牛利を率善校尉として、銀印青綬を授け、引見して労をねぎらい(倭へ)帰す事にする。今、絳地(こ うち)、交竜錦五匹〔臣の松之(しょうし)は,絳地は絳テイの誤りと言う。漢の文帝は皀衣(そうい)を()ている、これを弋テイ(よくてい)と言う、これである。この字(テイ)は、魏朝の過ちではなく、おそらく 写した者の誤りであろう()絳地スウ粟ケイ(すうぞくけい:ちぢみ毛織物)十張、茜絳 (せんこう:茜色の紡ぎ)五 十匹、紺青五十匹を以て、汝が献じた贈り物に答える(.)また特に汝に紺地の句文錦三匹、細班華ケイ(さいはんかけい)(模様を細かく斑に表した織物)五張、白絹五十匹、金八両、五尺の刀二口()銅鏡百枚、真珠、鉛丹各々五十斤を授け、 全て装封して難升米牛利に託してある。(彼らが)還ってきたら目録と照らし会わせ、全てを貴方の国中の人に示し て(.)国家(魏)が貴方に好印象(哀れ)をもっている事を知らしめなさい。だから、(魏は)鄭重に貴方に好物を授け るのである」と()
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 (原文) 正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]、 刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔。其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口 倭錦 絳青[糸兼] 緜衣 帛布 丹木、hu[扁犬旁付] 短弓矢 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬

 
(現代文解釈)元始元年(240)に(魏は)太守弓遵、建中校尉梯儁(ていしゅん)等を派遣して、詔書・印綬を捧げ持って、倭 国を訪問し、倭王に拝謁し、ならびに詔を齎(もたら)し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・采物を授けた。倭王は、使に答え て上表し謝意を示した()
その四年(243年)、倭王も使大夫伊声耆掖邪狗等八人を(魏へ)派遣し、生口・倭錦 (わきん)・絳青ケン(こうせいけん)・緜衣(めんい)・帛布・丹・木フ・短弓 矢を献上した。掖邪狗等、率善中 郎将の印綬を授かった(壱拝す)。

 
 (原文) 其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。其 八年、太守王kui[扁斤旁頁]到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣 塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之  

 (現代文解釈)  その六年(245年)、倭の難升米が黄幢 (こうどう)を賜わり、(帯方)郡経 由で仮授した。その八年(247年)、太守王キ官に到着した。倭の女王卑弥呼は、もとから狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみここ) とうまくいってなかった。倭は、載斯烏越(さいしうおつ)等を派遣して帯方郡を訪問し、戦争状態の様子を報告した(.) (魏は、)塞曹掾史(さいそうえんし)張政等を派遣して、詔書・黄幢を齎(もたら)し、難升米に授け、檄文を為 (つ く)って戦いを激励した(告喩す)(.)

 (解説) 正始8年(247)に邪馬台国連合は狗奴国と戦争状態に入り、卑弥呼載斯烏越(さいしうおつ)らを帯方郡に派遣して狗奴国と攻撃しあっている様子を報告し、支援を請うている。太守は塞曹掾史(武官では)の張政らを派遣し、詔書および黄幢(魏帝軍旗)を難升米(なめし)に授けて和平を仲介した(.)
 
   【卑弥呼の死】

 (原文)   卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 [扁犬旁旬]葬者奴婢百餘 人

 (現代文解釈)  卑弥呼は既に死去しており、大きな墓を作る。直径は百余歩、殉葬する奴婢は百余人。

 (解説) 卑弥呼の死亡年は通説では正始9年(248)またはその前後とされている。仮に卑弥呼が184年に20歳で倭王に共立されたとするならば、64年間248-184=64)も在位したことになる(.)20歳で倭王に推戴されたとしても84歳まで生きたことになり、当時としては考えられないほど長寿だったことになる()死亡原因は老衰や卑弥呼の霊力が衰えたため殺されたと推察する()
 卑弥呼の墓は筑後・山門の地の女山の麓に展開する権現塚(ごんげんつか)や堤集落の10ヶ所もある巨石(支石墓)群や神籠石(山城)内の古墳群が点在するが、いまだ考古学的調査が行き届いていない()
    

卑弥呼の墓と思われる権現塚(瀬高町)

    【女王、台與(とよ)の誕生】
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  (原文) 更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定 

 (現代文解釈) あらためて男王を立てるが、国中の人が服従しなかった。たがいに殺しあうことがつづいた。その時に殺された者が千人あまりいた。そこで卑弥呼の宗女「壹與(とよ)」十三歳を立てて王としたところ国中が遂に定まった()
 
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     【晋の都、洛陽へ朝貢】
  (原文) 政等以檄告喩壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千 孔青大句珠二枚異文雜 錦二十匹

 (現代文訳  張政らは檄文を以て壹與告諭(こくゆ)し(言い聞かせ)、壹與は倭の大夫の率善中郎将「掖邪狗」ら二十人を遣わして張政らを送り返してきた。その結果、臺(都洛陽の中央官庁)に(もう)でて、男女の奴隷三十人を献上、白珠五千、孔青大句珠(せいだいくしゅ)二枚、異文雑錦二十匹を貢物とした(.)

 (解説)壹與張政らを、いつ返したかは解からないが、「晋書」武帝紀・泰始2年(266)条に「十一月己卯、倭人来たりて方物を献ず」とあり壹與も魏に数回、晋にも1回以上遣使したとみられる。白珠五千とは真珠5000個のことである。孔青大句珠とは孔の開いた翡翠(ひすい)の大きな勾玉(まがたま)異文雑錦(いもんざつきん)とは異なった、色々な彩色をもつ、まだらな文様の錦の織物とみられる。邪馬台国の女王は魏への貢献品に()3回とも絹類をくわえている。景初三年(239)班布二匹二丈正始四年(243)倭錦・絳青?・緜衣・帛布泰始二年(266)異文雑錦二十匹。この226年の遣使のことは「日本書記」神功紀・分駐にも書かれている(.)
     
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   【渡来人の上陸の地】
卑弥呼の時代より400年程前、山門郡瀬高町の南部、大神(おおが)は有明海に流れる矢部川や飯江川河口である()紀元前3世紀の頃、大陸から海流に乗り有明海からこの河口に住み着き大陸文化をもたらした弥生人の上陸地となる()蛇の目の如く流れる矢部川の畔に稲作を始め、南の山間(高田、山川町)では鉄の生産(タタラ)をはじめた(.)

この地の住んだ渡来人はたどり着いた舟の航海安全に感謝し神々を祀ったのが古代からのお宮が数多く残る大神(おおが)である。人々は山裾の本吉、女山、小田さらに八女、山鹿と広がり住んだ()

これが3世紀時代の女王、卑弥呼の祖先が住む倭(ヤマト)の国始まりである。瀬高町のお宮【南部編】

大神には渡来人が七支刀を持った像を祀ったこうやの宮、鉾楯の杜、釣殿宮、太神宮、宇津良姫社などの古代信仰の跡があり、さらに物部一族の祖先を祀った宇津良姫社、田中の神、もある。物部は3世紀後には東征し大和朝廷の成立に貢献したであろう(.)

また紀元前219年秦の始皇帝は家来の徐福に不老不死の薬を求めさせ、同じく有明海から筑後川河口(佐賀県諸富)に上陸し背振山の山裾(吉野ヶ里)や矢部川上流の山裾(八女市)に2000人の童男、童女、と技術者をたずさえ渡来し()住み着き高度な文化をもたらしている。現在の佐賀平野と筑後平野の山裾の地は邪馬台国の同盟国の発祥の地と見なして良いだろう(.)
   【女王山は卑弥呼の聖地】
瀬高の東山連山の古僧都山の麓に女山があり草場の部落に続く(.)女山は古来「女王山」と呼んでいたと、地元の言い伝えがある。呼び名は「じょうおうやま」がなまった「ぞぉやま」呼び方を引き継いでいる()

この女山に、山を包囲する形で、列石(神籠石)が築かれている。これこそ神籠石の謎である。当HPでも特集しているが築造年代は後の時代にしても、聖域説もあるほどの霊験や景観をなす山である。卑弥呼のことを
魏志倭人伝は「鬼道を事とし、よく衆を惑わす()年すでに長大なるも、夫せい無く」とある。女王山は邪馬台国の聖域で卑弥呼は、この山に籠り国の行く末を占ったシャーマンである(.)「弟有りて治国をたすく」とある女山(女王山)の麓の宮殿で弟は国の政治を司ったであろう。
麓の大草、山門、坂田は遺跡の宝庫である。この地こそ官室.楼観.城柵ある卑弥呼の宮殿跡が眠っていると確信する()

また藤尾、坂田地区では平成15年と16年で九州新幹線建設前の調査が行われ多くの遺跡、出土品が確認されているので結果報告を待ちたい。このように山門郡瀬高町中央部の鹿児島本線から東部山沿いにかけて全部分が広大な住居跡あるいは宮殿跡のある「卑弥呼の里」である
(.)今は広大な農地が広がっているが何処を発掘しても古代遺跡の住居跡などが確認できる。まさに矢部川に沿った邪馬台国の環濠集落の密集地帯である()
   【邪馬台国の文化圏)
さて邪馬台国の範囲を想定する。邪馬台国を山門郡から熊本県菊池郡周辺あたりにかけてあったと確信する()
瀬高町の南東の熊本県菊池郡周辺は遺跡や古墳、合わせ甕棺の出土状況から見ると山門の遺跡と同じ文化圏であることが解る(.)

「魏志倭人伝」には「その南に狗奴国あり。男子を王と為す。、、、女王に属さず。」とあり邪馬台国に敵対する国として狗奴(くな)の名を挙げているが菊池郡あたりが狗奴国を見張る防衛地域とみる(.)

狗奴国とは阿蘇から球磨川に権力を持った熊襲(隼人)であろう。この防衛地域の菊池郡山門郷も邪馬台国の九州説に推測されているが私は山門郡と同一国とみなす。魏志倭人伝
に邪馬台国を「七万余戸ばかり」また「生業としては、海川に魚を捕る。鳥獣もとるを業となす。」とある()食生活は世帯から想定してみると菊池郡の山の幸、山門郡の海の幸と大陸伝来の五穀がが七万余戸(推定30万人)の邪馬台国人食料をまかなっていたである(.)
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   【卑弥呼の墓】
紀元248年頃の邪馬台国と狗奴国の戦乱時に卑弥呼は死んだ(.)
魏志倭人伝
に「卑弥呼以て死す。大いに塚を作る。径は百余歩、徇葬せし者奴婢百余人。」とある()山門郡には多くの塚があるが、女山から程近い田んぼに囲まれた山門の堤部落には、径が200mの小高い塚の上に50戸ほどの民家が移り住んでいる()

ここには謎の巨石をもつ古墳が12基ある。10号墳の巨石は径3m程が埋まり地下4,5mまで掘り下げても石の根に届かないほどの大きさである。この何㌧もある重さの石を神籠石同様どんな手段で持ち込んだか謎の巨石群である(.)

また近年、堤部落人により金環やなど発見されているが病人が絶ゆることなく、掘り起こせば「タタリ」があるとして戻され巨石は代々祀られている。

私はここを邪馬台国式の王家の巨石墓と推測し、卑弥呼もここに眠っていると確信する。隣に接する山川町にも同様の邪馬台国式の大古墳が34箇所ある。卑弥呼らの王に従った最高の有力者的首長、あるいは豪族の大古墳とみられ地方を固めていたことが窺われる()古墳を訪ねて

堤の巨石群はまだ発掘調査が行われていないが昭和40年頃に訪れた松本清張は巨石をドルメン(支石墓群)ではないか書いている。ドルメンとはヨーロッパや韓国の紀元前の遺跡に数多く分布しており、墓あるいは祭事を司る場所と推測されている(.)よって堤の巨石は国の祀りごとをやる神霊的存在を予感させる聖地で王達の霊を慰めたであろう。東に位置する所には東山連山を眺めれる古代からの宮(堤大国玉神)がある()古代から部落の周りには湧き水が出でて小川ではホタルの乱舞が見れる精霊的古里であった(.)
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   【邪馬台国の女王たち】
卑弥呼の死後のことを魏志倭人伝には「さらに男王を立てしも国中服せず。さらに相誅殺せり。また卑弥呼の宗女壱与、年13なるを立てて王と為し、国中遂に定まれり。」とある()

卑弥呼
のあと壱与、-田油津姫、-玖津目、-白熊鷹、たちの女王国が続いたであろう。紀元413年までの倭(やまと)のことは中国の文献に姿を見せない。

その後邪馬台国は北九州を治めさらに東征して大和連合政権の時代を迎える。九州では矢部川上流の八女に本拠地をもつ
磐井が勢力をもち九州を治めていた。西暦527年に、大和政権に不満を持った磐井がふたたび九州王朝をねらったことも(.)この地が国の発祥地で在るがゆえの「磐井の乱」であったかも、この時代建造された女山の神籠石は語らない
()神籠石の謎

  和辻哲郎氏によると栄えていた邪馬台国が征服されたような伝説は存在せず、邪馬台国の名は突如として消え、代わりに大和朝廷が全国統一の勢力 を急に拡大する。ヤマトという名称は九州に起源を持ち、国家を統一した勢力は九州の邪馬台国から来た事を窺わせる(.)弥生時 代の、近畿圏での祭祀に用いられたと思われる銅鐸は、大和朝廷成立後我が国の歴史に一切現れず、代わって九州地方の祭器・ 神器であった銅(ほこ)・銅剣・銅斧などが神話に登場している。剣は、天皇家の三種の神器の一つにまでなっている。もし天皇家が 近畿圏で発生し()邪馬台国から大和朝廷へ発展したのならどうして銅鐸の記憶が人々の頭から消えてしまったのか。 邪馬台国が九州から来て大和朝廷を樹立し日本を統一した、と考えるのが妥当であるという。ほかに畿内勢力に征服されたという説の両説があるが、現在、4世紀の日本を知る史料は無い(.)
 
 参考文献 倭人伝ヲ読みなおす(森浩一) 邪馬台国の滅亡(若井敏明) 邪馬台国と近代日本(千田稔) 古代を考える邪馬台国(平野邦雄)

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