庄福BICサイト       平成16年11月作製開始
               みやま市の古墳編((みやま市瀬高町・山川町・高田町)‐邪馬台国論争の地

福岡県南部‐邪馬台国論争の地、みやま市(瀬高.山川.高田)の古墳、 
堤の巨石古墳群(瀬高・山門堤)  *弥生時代  卑弥呼の墓?
 山門の堤部落にある古墳群である。一辺100m程の正方形に近い部落で、いわば方墳と言ってよいところである。部落の東を東塚原、西を西塚原と言う。昔の塚の上に部落ができたのである。東塚原に三方囲いの墳2個、西塚原に5,6個がある。石に大きさは2,8m幅1,8m厚さ1,2m位である。昔はこの上に土を盛っていたのであろう。大石の下から金製の腕輪を掘り出したが病気になり恐れて再び埋めたと言う。60年位昔の話であろう。邪馬台国卑弥呼の墓と考える向きもあるが明らかでない。弥生式土器や石棺が出土している。したがってこの古墳は3世紀末から4世紀初にかけてのものと考えられる。

   石橋健一宅東裏

石橋紀雄宅入口
橋本富士雄宅西入口 石橋正弘宅の路地奥地下埋没 稗田豊蔵宅井戸脇 松尾渥美宅西側やぶ
石橋耕一宅東庭 稗田久男宅東壁側 堤公民館南壁側 堤新(あらた)宅東脇
【山川の巨石古墳群】(山川)   
山川地方には邪馬台国式という、特別特殊なる大石墳がある。いずれの地方にもない珍しい形式で縦横1.m長さ3.3m以上という長方形の大石を畳み重ねた大規模大工事の墓で、その数は至極僅かであるが34箇所までもこの山川地方のなかに現存している。これは邪馬台国時代の最高の有力者的首長、あるいは豪族が34人までも居て、地方を固めていたことが窺われる。下欄にその中の4箇所を挙げた。

@岩屋敷古墳(飯尾)
飯尾部落の東端しにて、河野伊兵次の庭前に屋敷神として注連を張りて神石として祀られる石あり。古墳の主霊は地方集落長、あるいは族長、又は豪族といろいろ呼んでいるが頭領の古墳、即ち先祖と仰ぐ人格者の墓とされている。古老は「長者墓」と言いっている。巨石は長さ3m2,5m厚さ90cm以上あり、この北面にも同様の石があったが近年割られている。大石の左右に直角に石を置いた配列は堤古墳と同じ邪馬台国式である。
A古墳の石(お岩さん)
入江長者なる者住せしとの口碑山川字中原入江に巨石を神として堂宇を設けてこれを祀る。この石に触れば祟りをこうむるとの伝説あり。巨石は、二門四面の堂宇をおいてこれを覆い、その岩間より大樹茂り、お堂の屋根を貫く。正月24日例祭を行う。巨石の高さ3.m1.ある。それより西20mの所に民家の庭前にも同じ大きさの巨石あり。石の配列は、まったく堤古墳、および飯尾赤池のものと同一型の邪馬台国式古墳で、迷信的伝説も似たものあり。また佐野に奥堂の大石に月日を刻んだ石窟があったが、その石材良なりし為、近年これを破壊して土木用に仕様せりと言う。
B岩畑古墳(竹井)
竹井の字岩畑と称する畑の中に、一つの大岩石あり。長さ3.m、幅3.m厚さ1.5mこの周辺の青目の切石を敷くかってこの石を割ろうとしてけが人が出て中止となる。また巨石に火の玉が現れ村人は恐れていたと言う。その南方20mにも長さ2.m幅1.m厚さ2.mの巨石があり、百年程前これを産土神、竹飯八幡神社境内に運び霊石として祀られる。今、当社内の記念碑中段助石はこれなり。
C佐野の新池の大岩
池の南方、畑中に、一大岩石あり。高さ3。余、長さ57m、厚約3,ありこれを立石と称す。又その形状よく船に似たるを以って一に船石とも言う。之前代の古墳なるか如し。
D九折(つずら)大塚古墳(山川)*前方後円墳 面上国の王の墓では?
河原内集落の春日神社の北高速道路のすぐ南側で、竹林の茂ったところにある。周溝を持つ町内唯一の前方後円墳で南北径約44m、北側円径28m、南側方形部分1辺15m余り、高さ8m帆立貝形前方後円墳と思われる。昭和54年4月、この古墳から「蓋(きぬがさ)」の破片が発見され、その重要性が見直された。この「蓋(きぬがさ)」とは埴輪の列に、要所要所ひ配した威儀を示す用具として用いられている。「蓋」は、一般の列を示すものでなく、「貴人の列」を示すものである。単なる示威の表示に止まらず、列を作り最も重要な区域を画した。この蓋の出土する古墳は、およそ王侯貴族のものと云われている。面の上古墳、クスワン塚古墳など、それに大塚古墳が近くに散在しているから、面上国の王の墓ではないかと云われている。因みに、この蓋が古墳に出土したのは、全国では11ヶ所で、この大塚古墳のものが、11番目の貴重な存在である。高速道路建設の際は、この古墳が予定線上に存在していたため、学者や識者らの陳情により、南側に道路は迂曲され、この開発から免れた経過があり、この古墳がいかに重要性のある古墳であるかを立証している。
戦後食料増産の為、開墾され大きく変形して往時の面影は殆ど無くなっているが底面だけはそのままの形を残していると考えられる。
(近本著より)
大塚古墳入口 この奥の竹林 大塚古墳 西斜面部
E面の上古墳(山川)破壊予定        *古墳時代前期
旧道(太閣道)と国道443号が交差する地点にあります。洪積期に形成された扇状地の台地上にあり、まわりには20〜30基ぐらいの古墳があったと想定される場所です。これまで三基が確認されており2号墳からは、石棺、人骨、鉄剣、鑑、釧などが発見され、特に人骨の左手に長さ61.8cmの両刃の剣が副えられており、その柄の部分は、貴人しか持つことができない“鹿角装(ろくがくせい)の剣”の特徴があり、身分の高い人の墳墓ではないかといわれています。また1号墳は四匹の獣の形を肉彫りにした、古い時代の銅鏡(直径12cm)が人骨の手の間に伏せてありました。これは“四獣鏡”と呼ばれ、よく知られている“三角縁神獣鏡”よりも古い時代のもので、船山や沖ノ島から出土した鏡と同じ貴重なものです。この古墳は副葬品などから、古墳時代の前期のもので、山門郡のなかでも古いものと考えられます。だが現在1、3号墳は消滅しており唯一、2号だけが跡を残している。現在公園建設の為取り壊しを待っている状況に陥っている。貴重な史跡を整備して古墳公園として保存を望むほかに蛇谷古墳、裏山古墳などがある。   (山川町教育委員会資料参考)
四獣鏡の写真

  調査時の姿

  展示中の四獣鏡
面の上2号墳 この部分が古墳 面の上1号墳跡 公園建設で無残に破壊される
Fクワンス塚古墳(尾野字虎ノ尾) *5世紀の円墳
周濠を持つ県南部では有数の古墳である。直径約60m高さ約4m、周溝をいれると約80mになるという大型の古墳である。野町古墳群の中で最大だけでなく県南部でも有数の古墳と言われている。円筒埴輪の破片出土。周溝の外側に陪塚と考えられる小円墳が3基存在していたが、一基は破壊され、一基は封土が削除され、残る一基も家屋建設のため一部削除されている。5世紀の円墳とみられ盗掘はされていない。
G裏山古墳(大字尾野)*5世紀の円墳
中尾集落の天満宮境内にある。山川町内では唯一、石室の残っている5世紀築造の竪穴式円墳と考えられるが、石室構造のみが唯一の決め手で、他の出土品も無く築造年代が確定できない。江戸中期に天満宮創建時の開口したのではと考えられる。昭和30年代調査され竪穴石室をもつ古墳であること石室は近くで産する緑泥片石の一種を小積みにして使用していて、向きは東西に長く、約2m西壁に鏡石を用いて幅は約0.8m東端は約0.7mであることから遺体は西向きに置かれたのではないかと考えられている。天満宮裏手に三基の古墳がある。この天満宮を中心に中尾地区には六基の古墳が確認されている。主なものは 
葉底古墳(神社裏)****直径約
30m、高さ2m、未盗掘。
玉泉坊塚古墳**直径約
20m、高さ2m。未盗掘。
裏山古墳入口 神社境内左斜面 裏山古墳 葉底古墳(神社すぐ裏)
権現塚 (瀬高・坂田)       *弥生時代   卑弥呼の墓?
坂田にある。周りに堀のある段付円墳で径50m高さ5m、の円墳で周囲を幅11mで深さ1.2mの堀跡が囲んでいる。魏志倭人伝に「女王死するや、大きい塚を作る。径百余歩、殉葬者百余人」とあり江戸時代の儒学者、新井白石が唱える山門説以後、その大きさから邪馬台国女王卑弥呼の墳墓と主張する人もいる。この塚の南の畑から弥生の合わせかめ丹塗りの高さ40cmの大きな高杯、神酒を献じたと思われる小さななどが出土し、堀の北東隅に合わせ石棺があるところを見ると、弥生式遺跡(墓地)の上に造られた古墳であろう。塚の西部の水田からは縄文後期の土器石斧など出土している。また、この古墳は神功皇后が田油津姫征伐の時、官軍戦死者の墓という伝説がある。いずれもまだ確かなことはわからない。
南全景

東側案内板
大塚(瀬高・大草)
大草の大塚の南東、老松宮入口にある。石室の中心部のみ残り、塚上に地蔵尊を祀ってある。昔は雨が降ると、この古墳から血が流れると言われていたが、これ石棺内の朱が流れ出ていただろう。伝説に景行天皇西征の時、葛築目と言う者がいて、朝廷の命に従わないので天皇はこれを征伐した。大塚はその古墳であると。又一説に田油津姫の墓であるとも言う。何女王の塚であるか不明である。大塚を蜘蛛塚とも言う。この墳の南18mばかりの田の中に小墳があった。これも大塚と呼び、もと一緒の前方後円墳であったが道路作りの時、二分されたものと思われる。大正2年春、田の中の小塚を崩して、その上に新道が作られた。昔は女王塚と呼んでいたが、後世になって大塚に改めたと言う。

車塚(瀬高・藤の尾)          *3〜4世紀古墳時代
山門の藤の尾の東北にある。南北約55m、東西27m、高さ3,5mの前方後円墳」で昭和35年頃には周囲に幅3,6mの堀があり、昔は陪塚が左右にあったと聞くがいまはない。享保20年(1735)漢鏡三面が掘り出され、この塚の中央に収められていたが、今は破片すら残っていない。塚の南西部から弥生中期の合わせがめ棺が十数墓出土している。また塚の南東部のたて穴からも弥生末から古墳中期にかかる土器が出土している。周りなどを削り取られ田んぼや公園に使用、堀も埋められ車塚の元の形状を変えている。この古墳は3世紀末から4世紀初めにかけてのものと考えられる。
   

南側全景 東側全景 上空からの車塚 お堂と藤棚
女山小田の古墳(瀬高・女山)
女山小田の西部落の山の手には各所に古墳がある。神籠石内に完全な横穴1個、他はほとんど破壊されている。神籠石付近の山腹中にも多くの古墳があり、この地方が古来より早く開けていたことがわかる。
名木野の門前塚(瀬高・名木野)
.宮地獄(みやじだけ)神社の付近から、玉、剣、曲玉、土器類を発掘され、同所門前塚の山腹には数十の葬穴がならんでいる。部落の南方には、石窟と邪馬台式の13塚があり、その他古墳、葬穴が多数ある。付近の平田から長さ23p、幅3,3p石剣が出土している。
名木野古墳群(瀬高・名木野)     *古墳時代5世紀前半〜7世紀前半
昭和51年山林の畑地造成の際発見された。第T類5号墳石室.9号墳石室竪穴系横口式石室.10号墳石室第U類1号墳石室.4号墳石室.8号墳石室.11号12号墳石室第V類3号.6号.7号墳石室。計13の古墳であった。調査結果は@名木野古墳群は連続する古墳群で5世紀の前半頃に石蓋土拡墓.竪穴系横口式石室が築かれ、その後5世紀後半に横穴式石室ができ6世紀半ば頃から後半にかけてU類.V類の石室を有する少々大きい古墳が築造され、その6世紀から7世紀の始めにかけて、終わっているらしいこと。A同じ丘陵に内部主体.築造年代の違った、いろいろの古墳が次々と築造されて群集していることは古墳の変遷が理解され、その背景となる家族共同体の継続発展性が見られる。B石室内に見られる土器は副葬されたものである。どの古墳からも葬礼用のものと思われる丹や漆を塗った土師脚付堆ふたいがセットで出土している。この地方の一般的な風習であったろう。4.9.10号墳には、それぞれ4〜6体の遺骨がでているのが珍しい。当時の家族構成等が明らかになるであろう。この古墳の東側谷あいにある横穴群との関係と2km離れた大道端遺跡の大集落との関係が今後の課題だ。(昭和54年の瀬高の文化財北部編より)
  古墳群のある山並み
藤の森の古墳(瀬高・広瀬)     *古代信仰の場か
禅院区東北の山裾に藤の森古墳があります。古墳には高さ10m以上も或タブの木や藤に木が茂り、以前はみだりにこの森に入って一枝でも折ると、直ちに天罰があるものとして誰一人踏み入り人はなかった。この古墳の中央部に、身の巾2m以上の立石と臥せ石が一個ずつ他にも数個の石が組まれています。大石は、長さ5.、高さ3.、ある。これは2つの巨石を中心とする古代信仰の磐座いわくらではなかろうと思われます。古来私達は石をあがめるという習わしを受け継いで神苑など自然石の巨石にしめ縄を張って祀ったり陰陽石といった女性の性器(陰)男性の性器(陽)に似た自然石または人石的に彫刻した石で男女の和合、妊娠、性病などの治療を祈願した俗信の対象ともされていた。この藤の森も夜尿症が治るという言い伝えがあり最近は遠近から参拝が多い。雑草が覆い茂ったこの古墳も大正2年秋に公園にして大石にしめ縄を張って尊崇しています。、現在も名残りをとどめている。(藤の木さんと称している)(瀬高の文化財北部編より)
王塚古墳(文広字大塚)農地整備により破壊
鹿児島本線と瀬高町から上坂田に至る旧道との交わる所に踏切がある。その踏切から北西部約50mの水田の中に高さ3m、周囲40m位の円墳があった。墳上に地蔵尊が祀ってあった。地蔵堂の周囲に石を積み重ねてあるが、その中から蛇紋石の石斧くぼみ石石包丁の破片が見つかつている。周囲の水田からも弥生式高杯器台合わせがめ棺磨製の石剣などが出土している。現在、農地整備で破壊され田んぼに、なっている。
在りし日の古墳
山法師塚古墳(金栗)
金栗の南方水田中にあり、高さ2m、直径10m円墳で雑草に被われたままである。付近には取り壊されかかった古墳も一基見られる。
禅院の段付古墳(禅院)          
同所の東北方1小山の頂上にある。頂上に大石がある。そのしたの方は削り落とし四方をやや平面としている。高田町楠田の石人山の段付古墳とよく似ている。
山の内古墳群(女山)
女山の神籠石の史跡の東方に位置する古墳群で横穴古墳である。
女山相撲場古墳群(女山)   *6世紀古墳時代
女山の標高150mの尾根上にある14基の円墳からなり内部主体は横穴石室で構成されている。その中で車道脇の「鶏(にわとり)塚」金の鶏が出土したと伝えられる為この名がある。石室の平面形態は複数であり、前室、後室の部屋をもつ。6世紀の築造である。
   「鶏(にわとり)塚」
女山長谷古墳群(女山)    *古墳時代末期6〜7世紀
6〜7世紀の古墳時代末期のもので、横穴古墳はその頃の庶民の古墳である。朱を使った古墳もある。
*1〜3号墳は土溝古墳で赤土を卵形に掘って、入口を付けない小型墳。
*16号墳は
男女子供1人で、計3人である。男性は人骨から見て伸長1m60位であり屈強な体である。
*20号墳は
男女30才位と、7才位の子供で、頭蓋骨から見て、丸顔で平たく、鼻が低くほほ骨が突き出て、寸の詰まった横ばった顔である。  やはり男性の骨は屈強な男である。
*7号、8号は石積で、石棺とたて穴の中間形式で門柱のような1,4m位の石が立ててあった。
*早iい)道と玄室に段のあるものは、12号と13号
*朱を使った古墳は3号、12号、14号、16号
集落とのつながりは、各吸門のある谷に旧道  跡が最短に造られ」たようである。神籠石列石内部のこの古墳群の南方台地におなじ古墳群がある。1〜33号墳が確認されている。

2号墳
清水山の古墳(本吉清水公園)      *古墳時代後期
清水公園に多くの古墳があるが、明治の頃発掘されたものと思われる。発掘の際、堀出された土器古鏡等は無くなり、その一部が瀬高資料館に保存されている。穴の中に入れる前方後円墳の内部が完全なものがただ1個のこっている。俗にほら穴といっている。古墳時代後期のものである。

   1号墳

   2号墳
成合寺谷1号墳(本吉)     *古墳時代
本吉字成合寺谷の小丘、標高60mの舌縁部にある。砂防ダム建設の進入路掘削に際し発見。外観は壊され不明、内部に横穴式石室をもち顔料による彩色を、前室.後室の周壁、袖石、軒石下面、石屋形天井石(石棚)前縁部と袖石で確認されたが現状で図文として確認できるのは石棚の前縁で赤(ベンガラ).白(白土).緑(石の地肌)の上下の三角文を交互に配して中央の菱形文の幾何学文のパターン化した図文を構成している。石室下半分を全赤色に彩色した上で石棚前縁に幾何学文の図文を施したと考えられる。これは福岡県下には見当たらず、熊本県の菊池川流域にしか存在しない。菊池川流域との関係の強さが目立ち、弥生時代から同一の文化圏であることが想定できる。私の持論、邪馬台国は菊池方面も含むを証明するものともとれる。白の使用や隣接する文様の内部を塗り残す例は筑後川流域の古墳にみられ共通性がある。
本墳の考古学的な独自性の最たるは、やはり、石棚と壁画に求められる。
 
*石屋形風の石棚を設置し、
 *石棚前縁のみに、
 *三角文と菱形文を、
 *白と赤の2色で描く
           壁面装飾確認調査報告書より      
        石棚前縁の写真を解りりやすくする為彩度を上げ表現しました。      

奥壁全景

青のシートの部分
石神山古墳(高田・上楠田)        *5世紀古墳時代
明治44年開墾中発見。上楠田集落の北方、東西にのびる丘陵の先端標高70mに立地する全長26m前方後円墳丸彫り像の石人一体と、大.中.小三基の刳り抜き式舟形石棺が発見、石人は大の石棺の上に南面して立つていたと思われる。三基の石棺を収める石室等の施設はなく直葬と考えられる。この古墳は、数少ない石人を伴う古墳として、極めて重要であるばかりでなく、三石棺の直葬という珍しい類型を示すものとして注目されてる五世紀頃の古墳である。石棺内は朱塗りされており、剣片、刀子片、銅釧、鍍銀銅器等が出土している。石棺の形状は大.中.小の違いのほか、蓋.身に造りだした円形断面の突起の配置にも差がある。蓋の形は頂部に幅の狭い平坦部を設け、四方に流れる斜面と、周囲に平縁を有する。石棺の規模は内寸で、小は長さ106cm、幅35cm。中は長さ164cm、大は長さ210cm、幅幅78cmを測る。
石人は阿蘇溶結凝灰岩を丸彫りしたもので、三角板鋲留式の短甲を着用し、赤色に採色されている。
写実的な造りで、衝角付きかぶとをかぶり、首から頬を守る防具の錏(しころ)、また胴から下の腰部を守る草摺(くさずり)は、7段に分かれている。高さは107cmである。
昭和51年国指定史跡。  高田町の文化財へ


古墳上の展示館

大と中の舟形石棺

小の舟形石棺

現在の石人
東濃施古墳(高田・下楠田)       *6世紀中頃から7世紀はじめ
高田町濃施公園の造成に伴い、発掘調査行った古墳で後室、前室、羨道の複室の横穴石室を持つ古墳時代後期、6世紀から7世紀はじめにかけたの推定24mの大きな円墳であるが、現在は石室のみ残している。副葬品には耳環(耳飾り)や三塁環(太刀の柄頭)などが、出土した。この古墳は大きさや副葬品などから、この地方の権力者の墓だと考えられる。
宮ヶ浦古墳群(高田・下楠田宮ヶ浦391濃施公園) *6世紀中頃から7世紀
高田町濃施公園の造成に伴い、発掘調査行った古墳で後室、前室、羨道の複室の横穴石室を持つ大きな古墳3基と小さな古墳2基から構成する古墳群である。これらは丘陵の尾根筋などの地形を利用して造られた古墳時代後期の6世紀から7世紀の古墳である。副葬品はすべての古墳から耳環(耳飾り)などが出土した。
 

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このページは「瀬高誌」.近本喜續様の「矢部川流域の文化財」、瀬高教育委員会.高田町生涯教育課.山川町教育委員会の資料により製作しました。