
大稲埕公学校・日本統治時代では現在の太平國小、永樂國小は一緒だった |

大稲埕公学校運動場 |

大稲埕台湾人市街・永楽町 |
重要輸出品の米、茶の取引で早朝から夜遅くまで人通りが絶えなかった |

永楽町公設市場 |

大正12年(1923)皇太子(後の昭和天皇)行幸の奉迎の門飾り(永楽町通り) |
 |

城隍廟祭・各町から趣向をこらした巨大な将軍やのぼりなどのパレードがあり
近郊からは見物客が押しよせ数万人の人出で身動きが出来ない程であった。 |

大稲埕の河岸・大正時代の絵葉書であろうか、コンクリートの堤防壁はまだ無い |

昭和9年(1934)12月に架けかえられた台北橋 |

大稲埕の河岸・川縁には豪商の屋敷が建ち並んでいる |

大商店が林立する本島人の永楽町と大稲埕の河岸 |
仁安病院 大同區延平北路二段237號 |
柯謙諒医師は帝国大学医科大学院を卒業して数年、研修を重ね大正13年(1924)に仁安病院を設立した。当時は総合病院のような役割を果たしていました。診療室内の診療項目の看板から小児科や外科(腹腔・胸部・泌尿器)、内科、骨科、避妊など。様々な病気の患者さん達をみていたことがわかる。当時なかなかなかったという、手術用ライトを備えた手術台や当時の薬棚や瓶、ステインレスの道具などがディスプレイされています。また、柯謙諒医師は、病気をなおすだけでなく、予防医療にも目を向けて、野菜を多く食べるように指導したそうです。今では、台北市大稲埕歴史風貌特定専用区にある、台湾で初めて全棟そのものが、そのまま保存されることとなった病院です。市の重要な古跡に指定されており、地域活動の中心として、会議室、展覧会場、講演会場として使用されている。 |

(永楽国小と太平国小を挟んだ延平北路二段と涼州街の交差点) |
 |

天井のおしゃれな照明 |

診療室 |
大稲埕教会 甘州街40号 |
大稲埕教会は、大正4年(1915)に迪化街で成功を収めた茶商の李春生(アモイ出身)が土地を貢献して建てられました。建築物は故郷のアモイの教会とよく似て建てられており、当時キリスト教の教会に従って正門は東、聖壇を西に置いた独特の文化的な建築物です、この界隈の信仰の中心の一つになっていた。1865年の清朝時代(日本は慶応元年の時代)に李春生はスコットランド籍の貿易商ジョン・ドッド(John Dodd)と台湾へとやって来た。台湾の土壌・気候は茶葉の栽培に適しており、茶葉の品質も申し分なく、台湾には茶葉産業発展の潜在的可能性があることに着目し、北台湾で種茶を売り出すことにした。1869年にスエズ運河が開通すると、ドッドと李春生は大型帆船二艘を借りて、台湾からなんと2131担(約12万9千キログラム)もの烏龍茶をニューヨークへ輸出し大好評を博し、価格も一担(茶葉の単位)15元であったものが、一担30元へと跳ね上がった。1879年にはいわゆる「五大貿易商」が淡水や大稲埕にやって来て、次々に貿易会社やビルを建てた。現在の南港・深坑・新店渓沿岸を含む大稲埕の丘陵地はあらたに植樹された茶の木で溢れ、茶畑は広がり続けた。当時の原住民居住区との境界である「蕃界」まで広がっていたという。李春生は台湾茶葉を全世界へと広め、大稲埕の繁栄の歴史を築き、やがて「台湾茶の父」と呼ばれるようになった。李春生が建てたこの教会も老朽化が進み最近建て直されています。前面を昔ながらの教会に、後方をビルディングにして、以前の外観を残しながら、土地の有効活用を図っています。台北市政府に指定の古跡です。
. 涼州街と保安街に挟まれた甘州街の路地にある。 |
 |
 |
台北市政府警察局大同分局(旧・台北北警察署) 大同区寧夏路 |
昭和8年(1933)、旧台北城北門以北を管轄する警察署として台北北警察署が寧夏路の交差点に建設された。3階建のコンクリート製の建物は、流線型を基本として西洋円柱式建築を採用している。また外壁には北投窯廠で製作された褐色レンガが使用され、窓は半円状の設計となっている。外壁には明治33年(1900)に撤去された台北城の石材を再利用され、現在、3階部分が増築され、建物内部には当時の拘留所や水牢が残されている。 |
|
霞海城隍廟 迪化街1段61号 |
|
霞海城隍廟は、1821年に福建省泉州府同安から台湾に運ばれてきており、最初は艋舺(現在の萬華)にまつられていました。しかし、1853年に艋舺で「頂下郊拚」という争いが発生し、その争いに敗れた同安人によって現在の場所に運ばれてきました。1856年に大稲埕に創建され、160年余りの歴史を持ちます。大稲埕の港は、台北の貿易を主とした商売の拠点として重要な役割を果たしてきました。霞海城隍爺は住民の無事息災と商売繁盛を見守っています。ここのメインの神様「城隍爺」は交通安全や仕事運にもご利益があり、城隍爺の奥さん「城隍夫人」は城隍爺とはなんと100歳の歳の差とか、家庭円満の神様。浮気なども遠ざけてくれる。よって、結婚をして家庭を持つ人にご利益をもたらしてくれる神様です。縁結びのパワースポット「月下老人」は恋愛の神様である、恋愛成就にご利益があることで若者が沢山参拝に訪れる。霞海城隍爺の生誕祭「霞海城隍祭」(5月11~13日)(台北市無形文化財)のパレードは、毎年大勢の見物客で賑わいます。 |
|
屈臣氏大薬房 迪化街1段34號 |
|
永楽市場の向こうにある旧・屈臣氏大薬房は、香港から輸入された西洋薬剤の代理店で、台湾最初の西洋薬剤の専売店です。この建物は1917年に建てられ、現在歴史文化財と指定され、迪化街の名物の一つであったが火災により正面だけを残して改修された。ちなみに、今、台湾や香港で店舗拡張中の 「ドラッグチェーン屈臣氏」であった。隣りのコンビニが入った建物も立派な装飾あり古跡である。 |
|
.旧・錦記茶行(陳天來旧宅) |
淡水河に沿った貴徳街の狭い路地にある錦記茶行の豪邸は、台北商業会を設立した陳天來氏が、大正12年(1923)に建設したこの白亜のお城。淡水河の近くにあるため、洪水時の氾濫対策のために道路より階段にして5段ほど高いところに建てられている。バロック建築の特徴である豪華絢爛な装飾がほどこされた建物である。台湾初の水洗トイレが導入された。日本統治時代に、日本から皇族や政府要人などが台湾を訪れた際には、この錦記茶行が台湾人の模範住宅として、必ず案内されたという。 |
|
大稻埕埠頭 民生西路西側の果て |
 |
昔は淡水河を利用して海上貿易で利用されていた大稻埕埠頭は、今は観光中心に使わられている。ここでは淡水河への遊覧船も乗れるし、自転車専用道も設置してあります。岸部には水難に御利益がある天水宮が鎮座している。 |
|
廸化街一段通りのレトロな問屋街の並び |
 |
 |
 |

|
迪化街の店舗 |
台湾製赤レンガが使用され洋樓式アーチ型の窓や飾り欄干などヨーロッパの影響である。屋上に「女兒牆」と呼ばれる石造りの額のような飾りがあるのが特徴 |
バロック式の華麗なスタイルと較べると、直線を重視したシンプルなデザイン。日本統治時代には竹をモチーフにした窓枠が流行。タイルと洗い出し石が建材として使われている。 |
立体的な彫刻と、曲線を多用した草花のモチーフで豪華で、19世紀後半の迪化街では、豪商が競い合ってこのスタイルの家を建てた |
|
台湾軽便台車・人間が押すことを動力とした軽便鉄道で大正時代の終わりから
昭和初期にかけて本格的に発達し、0.2から長いのは台湾製糖の37Kmもあった。 |
大稻埕の淡水河の川岸付近の民家・1950年撮影・現在は高い防潮壁と快速道路が建造されている。
|

大稻埕の路地・1950年
|

大稻埕の淡水河の川岸付近の民家・1950年
|
天主教主教座堂(旧蓬萊町大聖堂) 大同区民生西路245号 |
台湾南部を宣教拠点としていたドミニコ会が宣教師を台北に派遣。明治22年(1889)に聖堂が建つ。ドミニコ会士 林茂才師が同地に赴任。大正3年(1914)にゴシック建築のカトリック教・蓬萊天主堂が3年の歳月を経て聖堂が完成する。その名を当時の日本統治時代の町名から蓬萊町大聖堂と称した。日本の統治時期における台北市を代表する建築物のひとつである。完成後、台北におけるカトリック発展の中心となった。大正5年(1916)に ドミニコ会は隣接地に女学校を設置(現在の静修女子中学)校長先生は初代、二代目はスペイン人、三代目、四代目は日本人で小宮元之助校長、鈴木讓三郎校長。昭和3年(1928)に現地在住の日本人信徒と台湾人信徒の言語上また習慣上の違いを考慮し、台北駅の東に位置する樺山町に日本人専用の教会(現在の華山天主堂)を建設している。蓬萊天主堂は終戦前の昭和20年(1945)米軍の空襲で破壊された。戦後はバラック建ての仮聖堂を同地に建設し、使用していたが、1961年に現在の三角形をした聖母無原罪司教座堂が落成しました。 廸化街一段から民生西路を東へ捷運駅方面に歩いて7分。 |
|

大正3年(1914)の蓬萊天主堂 |

昭和20年(1945)の米軍の空爆で破壊された天主教堂 ・ 1946年撮影 |

現在は聖母無原罪司教座堂として再建されている |

大正5年(1916)に ドミニコ会は隣接地に私立静修高等女学校を設立
(右は現在の静修女子中学) |