庄福BICサイト    ②台北市大同区大稲埕と北門周辺の日本統治時代の建築物             H・27・4・1製作     H・27・4・4更新
 
                            大稲埕地区
 台北の北門から北に広がり、淡水河の流れの右岸にある大稲埕(だいとうてい)地区の地名は(.)この地の開拓を進めた住民が水田の中に空き地を作り、刈り取った稲籾を干した大きな空き地の意である(.)また基隆や艋舺(まんか)から逃れてきた入植者は布や酒などの物資と少数の原住民の平埔族(へいほぞく)人の鹿皮を交換するようになった(.)清国統治時代には楠木から樟脳(しょうのう)が生産され、後に茶葉が台湾の特産品となったが(.)その積出港となったのが大稻埕である(.)この台北市内で萬華地区に次ぐ歴史を誇り、淡水河の水運とともに誕生し(.)積み出しのための倉庫街として発展した(.)艋舺が淡水の川底に土砂が堆積し大型船舶の航行に不便を来たすようになりと貿易の中心地として発展した(.)日本統治時代に入る前から茶葉輸出の基地となっていた(.)また、初代の台北駅は、水運の利便性を考慮して大稲埕の南端に位置した河岸に設けられていた(.)日本統治時代、城内や西門町は内地人(日本本土出身者)の居住者が多く(.)特に城内は官庁建築が集まっていた。これに対し(.)こちらは日本人の居住者は少なく、台湾人居住者が多い場所で、永楽町太平町(.)日新町と呼ばれていました(.)旧太平町は北門から北に伸びる繁華街で現在の延平北路一、二(.)西側の永楽町(現・廸化街一段)がある。淡水河に沿った廸化街一段の(.)迪化街の店舗のほとんどは、清(1616年~1912年)の時代(.)中国南部や台湾で一般的であった長屋式建築に属する(.)その最大の特徴は商いと居住性の二つを考慮し、玄関の間口が狭いのに対し(.)屋敷の中は長く奥深い「うなぎの寝床」である。建物の構造は3階建てが標準です(.)1階の前面が商店、中央が神棚や食堂、従業員の休憩スペース(.)奥には倉庫があります。2階の正面にはオーナー夫妻の部屋、応接室、台所、商品管理室などが、そして3階には客室、子供部屋(.)倉庫が配置されているのが、典型的な間取りとなっています。 通りには150年にわたって(.)大稲埕の信仰の中心だった鎮守・縁結びの主神(.)城隍爺の霞海城隍廟大同区迪化街一段61号)がある。文化活動拠点としては「淡水戯館」、「港町文化講座」(.)「永楽座」などがあり、京劇、話劇、布袋戯、歌仔戯などが上演されていた(.)しかし日本人により建設された城内に地位を取って代わられるようになり(.)開発に取り残された大稲は台湾元来の街並みと生活様式を残した地区となった。今も往時の問屋街の風景が維持され(.)家族団らんに欠かせない菓子類、アワビ(.)フカヒレなどの干物類、漢方の材料を扱う店が立ち並んでいる(.)特に春節の前になると、年末年始の食材の買い出で、ごった返す(.)この場所に行くには、MRT大橋頭一番出口から高架を潜って横断し向えの道を(.)右折して淡水河方面に行くと高架道路から降りる階段が見える手前の(.)廸化街一段の標識のある逆一方通行の道に左折すると賑やかな迪化街一段(旧永楽町)です(.)また、旧・仁安病院の交差点から太平国小に沿って大通りの重慶北路二段の交差点に出ると(.)東向側にネットで人気のある茶問屋「林華泰茶行」がある(.)WiFiでタブレットのGoogleマップを利用すれば便利です(.)
       
 
 

大稲埕公学校・日本統治時代では現在の太平國小、永樂國小は一緒だった 
 
大稲埕公学校運動場


大稲埕台湾人市街・永楽町
 

重要輸出品の米、茶の取引で早朝から夜遅くまで人通りが絶えなかった

永楽町公設市場
 
大正12年(1923)皇太子(後の昭和天皇)行幸の奉迎の門飾り(永楽町通り)
   
城隍廟祭・各町から趣向をこらした巨大な将軍やのぼりなどのパレードがあり
近郊からは見物客が押しよせ数万人の人出で身動きが出来ない程であった。


大稲埕の河岸・大正時代の絵葉書であろうか、コンクリートの堤防壁はまだ無い
 
昭和9年(1934)12月に架けかえられた台北橋
 
大稲埕の河岸・川縁には豪商の屋敷が建ち並んでいる
 
大商店が林立する本島人の永楽町と大稲埕の河岸
             仁安病院                    大同區延平北路二段237號
  柯謙諒医師は帝国大学医科大学院を卒業して数年、研修を重ね大正13年(1924)に仁安病院を設立した(.)当時は総合病院のような役割を果たしていました(.)診療室内の診療項目の看板から小児科や外科(.)腹腔・胸部・泌尿器)、内科、骨科、避妊など。様々な病気の患者さん達をみていたことがわかる(.)当時なかなかなかったという、手術用ライトを備えた手術台や当時の薬棚や瓶(.)ステインレスの道具などがディスプレイされています。また、柯謙諒医師は、病気をなおすだけでなく(.)予防医療にも目を向けて、野菜を多く食べるように指導したそうです(.)今では、台北市大稲埕歴史風貌特定専用区にある、台湾で初めて全棟そのものが(.)そのまま保存されることとなった病院です。市の重要な古跡に指定されており、地域活動の中心として(.)会議室、展覧会場、講演会場として使用されている(.)
 
       (永楽国小と太平国小を挟んだ延平北路二段と涼州街の交差点)
            
 
天井のおしゃれな照明
 
診療室
                大稲埕教会                         甘州街40号
 大稲埕教会は、大正4年(1915)に迪化街で成功を収めた茶商の李春生(りしゅんせい)(アモイ出身)が土地を貢献して建てられました。建築物は故郷のアモイの教会とよく似て建てられており(.)当時キリスト教の教会に従って正門は東(.)聖壇を西に置いた独特の文化的な建築物です、この界隈の信仰の中心の一つになっていた(.)1865年の清朝時代(日本は慶応元年の時代)に李春生はスコットランド籍の貿易商ジョン・ドッド(John Dodd)と台湾へとやって来た(.)台湾の土壌・気候は茶葉の栽培に適しており、茶葉の品質も申し分なく、台湾には茶葉産業発展の潜在的可能性があることに着目し、北台湾で種茶を売り出すことにした(.)1869年にスエズ運河が開通すると、ドッド李春生は大型帆船二艘を借りて、台湾からなんと2131担(約12万9千キログラム()もの烏龍茶をニューヨークへ輸出し大好評を博し(.)価格も一担(茶葉の単位)15元であったものが、一担30元へと跳ね上がった(.)1879年にはいわゆる「五大貿易商」が淡水や大稲埕にやって来て、次々に貿易会社やビルを建てた(.)現在の南港・深坑・新店渓沿岸を含む大稲埕の丘陵地はあらたに植樹された茶の木で溢れ、茶畑は広がり続けた。当時の原住民居住区との境界である「蕃界」まで広がっていたという。李春生は台湾茶葉を全世界へと広め(.)大稲埕の繁栄の歴史を築き、やがて「台湾茶の父」と呼ばれるようになった。李春生が建てたこの教会も老朽化が進み最近建て直されています。前面を昔ながらの教会に(.)後方をビルディングにして、以前の外観を残しながら、土地の有効活用を図っています。台北市政府に指定の古跡です(.)
 . 涼州街と保安街に挟まれた甘州街の路地にある(.)
    
           台北市政府警察局大同分局(旧・台北北警察署)               大同区寧夏路
   昭和8年(1933)、旧台北城北門以北を管轄する警察署として台北北警察署が寧夏路の交差点に建設された(.)3階建のコンクリート製の建物は、流線型を基本として西洋円柱式建築を採用している。また外壁には北投窯廠で製作された褐色レンガが使用され、窓は半円状の設計となっている(.)外壁には明治33年(1900)に撤去された台北城の石材を再利用され、現在、3階部分が増築され、建物内部には当時の拘留所や水牢が残されている(.)
 
                  霞海城隍廟                            迪化街1段61号
   霞海城隍廟は、1821年に福建省泉州府同安から台湾に運ばれてきており、最初は艋舺(現在の萬華)にまつられていました。しかし、1853年に艋舺で「頂下郊拚」という争いが発生し(.)その争いに敗れた同安人によって現在の場所に運ばれてきました。1856年に大稲埕に創建され(.)160年余りの歴史を持ちます(.)大稲埕の港は、台北の貿易を主とした商売の拠点として重要な役割を果たしてきました(.)霞海城隍爺は住民の無事息災と商売繁盛を見守っています(.)ここのメインの神様「城隍爺」は交通安全や仕事運にもご利益があり、城隍爺の奥さん「城隍夫人」は城隍爺とはなんと100歳の歳の差とか(.)家庭円満の神様。浮気なども遠ざけてくれる。よって、結婚をして家庭を持つ人にご利益をもたらしてくれる神様です(.)縁結びのパワースポット「月下老人」は恋愛の神様である、恋愛成就にご利益があることで若者が沢山参拝に訪れる(.)霞海城隍爺の生誕祭「霞海城隍祭」(5月11~13日)(台北市無形文化財(.)のパレードは、毎年大勢の見物客で賑わいます(.)
                    屈臣氏大薬房                       迪化街1段34號
   永楽市場の向こうにある旧・屈臣氏大薬房は、香港から輸入された西洋薬剤の代理店で、台湾最初の西洋薬剤の専売店です。この建物は1917年に建てられ、現在歴史文化財と指定され、迪化街の名物の一つであったが火災により正面だけを残して改修された(.)ちなみに、今、台湾や香港で店舗拡張中の 「ドラッグチェーン屈臣氏」であった。隣りのコンビニが入った建物も立派な装飾あり古跡である(.)
      .旧・錦記茶行(陳天來旧宅)
   淡水河に沿った貴徳街の狭い路地にある錦記茶行の豪邸は、台北商業会を設立した陳天來氏が、大正12年(1923)に建設したこの白亜のお城。淡水河の近くにあるため(.)洪水時の氾濫対策のために道路より階段にして5段ほど高いところに建てられている。バロック建築の特徴である豪華絢爛な装飾がほどこされた建物である(.)台湾初の水洗トイレが導入された。日本統治時代に、日本から皇族や政府要人などが台湾を訪れた際には(.)この錦記茶行が台湾人の模範住宅として、必ず案内されたという(.)
             大稻埕埠頭                              民生西路西側の果て
   昔は淡水河を利用して海上貿易で利用されていた大稻埕埠頭は、今は観光中心に使わられている。ここでは淡水河への遊覧船も乗れるし、自転車専用道も設置してあります。岸部には水難に御利益がある天水宮が鎮座している(.)
      廸化街一段通りのレトロな問屋街の並び

 迪化街の店舗 台湾製赤レンガが使用され洋樓式アーチ型の窓や飾り欄干などヨーロッパの影響である。屋上に「女兒牆」と呼ばれる石造りの額のような飾りがあるのが特徴   バロック式の華麗なスタイルと較べると、直線を重視したシンプルなデザイン。日本統治時代には竹をモチーフにした窓枠が流行。タイルと洗い出し石が建材として使われている。  立体的な彫刻と、曲線を多用した草花のモチーフで豪華で、19世紀後半の迪化街では、豪商が競い合ってこのスタイルの家を建てた
台湾軽便台車・人間が押すことを動力とした軽便鉄道で大正時代の終わりから
昭和初期にかけて本格的に発達し、0.2から長いのは台湾製糖の37Kmもあった。
 
大稻埕の淡水河の川岸付近の民家1950年撮影・現在は高い防潮壁と快速道路が建造されている。

大稻埕の路地・1950年
 
大稻埕の淡水河の川岸付近の民家・1950年
    天主教主教座堂(旧蓬萊町大聖堂)              大同区民生西路245号 
 台湾南部を宣教拠点としていたドミニコ会が宣教師を台北に派遣(.)明治22年(1889)に聖堂が建つ。ドミニコ会士 林茂才師が同地に赴任。大正3年(1914)にゴシック建築のカトリック教・蓬萊天主堂が3年の歳月を経て聖堂が完成する(.)その名を当時の日本統治時代の町名から蓬萊町大聖堂と称した。日本の統治時期における台北市を代表する建築物のひとつである(.)完成後、台北におけるカトリック発展の中心となった(.)大正5年(1916)に ドミニコ会は隣接地に女学校を設置(現在の静修女子中学)校長先生は初代、二代目はスペイン人、三代目、四代目は日本人で小宮元之助校長、鈴木讓三郎校長(.)昭和3年(1928)に現地在住の日本人信徒と台湾人信徒の言語上また習慣上の違いを考慮し(.)台北駅の東に位置する樺山町に日本人専用の教会(現在の華山天主堂)を建設している(.)蓬萊天主堂は終戦前の昭和20年(1945)米軍の空襲で破壊された。戦後はバラック建ての仮聖堂を同地に建設し(.)使用していたが、1961年現在の三角形をした聖母無原罪司教座堂が落成しました(.) 廸化街一段から民生西路を東へ捷運駅方面に歩いて7分(.)

大正3年(1914)の蓬萊天主堂

昭和20年(1945)の米軍の空爆で破壊された天主教堂 ・ 1946年撮影

現在は聖母無原罪司教座堂として再建されている 

大正5年(1916)に ドミニコ会は隣接地に私立静修高等女学校を設立
(右は現在の静修女子中学)
 
 
台湾の統治時代初期の台北の地図とみられる。台北城の城壁もまだ残っており、以前から住む台湾人が多く住む艋舺と大稲埕の市街が目立つ。
鉄道も淡水河近くにあった1代目の台北駅が描かれており、淡水河を渡り、淡水橋停車場に乗り換えて新竹駅方面に行っている。
    台北駅樺山貨物駅
    【1代目駅】、台湾の鉄道は1891年に基隆から台北までの間(.)清国の台湾巡撫(知事)の地位にあった劉銘伝(りゅうめいでん)が国防と産業発展の見地から政府中央を説得して建設された。当初、台北駅は現在の場所ではなく(.)水運の利便性を考慮して西側の淡水河に面していた。日本統治時代が始まる4年前のことである(.)日本統治時代に、およそ全ての区間で勾配緩和や路線の改良付け替え工事が施されスピード化された(.)台湾総督府は鉄道を重視し、基隆と打狗(現在の高雄)を結ぶ縦貫鉄道の建設を熱心に進めていった(.)
 
 
【2代目駅】、明治34年(1901)8月25日に北門の北側に(.)縦貫鉄道の台北の玄関駅としてふさわしい赤煉瓦(あかれんが)の壁面に大理石の白帯をまとった重厚な建物が完成した(.)これは明治の建築王とも呼ばれる辰野金吾の意匠で総督府庁舎(現総統府)などにも見られ(.)日本統治時代の官庁建築では比較的多い様式である(.)その雄姿は台湾を代表する名駅舎として絵はがきなどの題材にもなった(.)駅前広場には初代技師長・長谷川謹介の像が置かれていた(.)

 
【樺山貨物駅】、昭和12年(1937)7月に台北駅の東側には操車場があり(.)そこに隣接して貨物駅が設けられていた樺山貨物駅として供用された(.)1階に事務所、2階には駅長室と会議室があった(.)民国74年(1985)、鉄道線路地下化工事に伴い(.)華山貨物駅は廃止となり、レンガ造りの建物は台湾鉄路管理局の事務所として(.)使用された時期もあった(.)華山公園(国父史蹟記念館の2筋東の林森北路と市民大道の交差点付近に白ペンキで塗られた(.)四角い2階建て貨物駅旧舎が残っている(.)

 【3代目駅】、昭和15年(1940)6月20日に完成した装飾を排し(.)機能性が重視された堅固な鉄筋コンクリートの駅で(.)設計は台湾総督府交通局鉄道部改良課の鉄道建築に台南駅や嘉義駅(かぎえき)の設計にも携わった宇敷赳夫である(.)施工は池田組が担った。

 【4代目駅】、現在の台北駅である。旧駅の東側に
1989年(.)日本暦・平成元年)に地上6階、地下2階の近代化された駅に建替えられた(.)

日本統治開始頃の鉄道と街並みの略図

清国統治時代・淡水河に面していた初代の駅
明治24年(1891)
基隆~新竹間の鉄道が竣工して開業


日本統治明治34年・2代目駅・初代技師長・長谷川謹介の像が見える
 
3代目駅
昭和15年(1940)に建替えられた駅舎だった。
 
2代目台北駅前広場・右の煙はく煙突は駅の北側にあった煙草工場
 
2代目台北駅前には輸入自動車や人力車が見える
 
2代目台北駅前広場
 
現在の台北駅

 今も残る旧・樺山貨物駅事務所 
 
            旧鉄道部廳舎                     大同区延平北路一段2號
 大正8年(1919)竣工で、台湾総督府の森山松之助技師の指導の元、鉄道部の本部ビルとして建設されました(.)この頃、日本の鉄道は英国をお手本としていたため、建物のデザインも19世紀の英国ヴィクトリア様式を採用したとのこと(.)三級古蹟。1980年代まで台湾省鉄路管理局として使用されていた(.)大正8年(1919)に第一期工程を高石組が施行完成、翌年、第二工程を住吉組が施行した(.)現在、台博館鉄道部展示館として改装工事中で建物周囲は防護カバーで見れない。鉄道フアンの観光スポットとなるであろう(.) 北門の交差点北西角 松山新店線・北門歩いて4分(.)
   
      三井物産倉庫?
 建物でまず目を引くのが前面の四本の柱と三つのアーチで作られた「騎楼」(.)「騎楼」とは日差しや雨を避けるため、建物の一階部分を2階より後ろに下がった形にし、軒下のような空間を歩道にしている場所。また、前面上部の特徴ある壁には三井物産のロゴが確認できる(.)第二次世界大戦後はほぼずっと放置されていたということで、内部はさすがに荒れ果てている。台北市文化資産価値プロジェクトチームの李乾朗・審査委員は、「三井物産の投資の証拠だ(.)木材は日本からの輸入品だろう。また、レンガは輸入品でないとしたら、台湾で作られた最も古いものに属するのでは。台北に城壁があった時代に建てられたと思われるが(.)すでに今の忠孝西路に平行に建てられており、日本はその時代にすでに都市計画を作っていたことがわかる。忠孝西路で現存する最も古い建物であることは間違いないだろう」と述べたという(.)
   
             北門   
 
  台北府城(北門、小南門、東門、南門)は台北知事陳星緊が40万元を投じ、明治17年(1884)に完成した(.) 北門は昔、台北が城壁に囲まれていた時代に、最も栄えた街への入り口となっていました(.)明治28年(1895)に日本が進出した当初4万5千人余の台北市(.)人口は、明治41年(1904)には10万人以上になり(.)城門と周りの堀割りは交通の妨げとなり(.)台湾総督府により城壁の大部分が道路・鉄道(.)水道・市街整備の為に撤去された(.)現在の北門は高架道や幹線道路に挟まれ保存されている(.)
  松山新店線・北門歩いて4分(.)

 城壁のあった頃の北門
          台北北門郵局(旧台北郵便局)             中正區忠孝西路1段114號
  明治21年(1888)、台湾巡撫劉銘により設立された郵政総局(大稲珵)が前身(.)日本統治時代、運輸を担う鉄道の重要性が高まり(.)大稲珵から現在の台北駅付近に移転。当初は日本式の木造建築だったが、火事で焼けてしまう(.)その後、昭和5年(1930)、当時には珍しい鉄筋コンクリート3階建ての建築物が建てられた(.)近代折衷主義を取り入れており、壁面の列柱や(.)ロビーの天井部など細部は古典建築の影響を受けている(.)もともと入り口は半円アーチが連なる車寄せがあり、また建物は3階建てであった(.)戦後、車寄せが取り除かれ石造りのシンプルな玄関へと(.)また建増しされ、4階建てになっている。現在も台北郵局として使用されている(.)
 
台北を囲っていた大城壁の北門(.)承恩門)右は昭和5年(1930)に竣工した台北郵便局(.)

         撫台街洋楼(旧高石組本店(.)                中正区延平南路26号 
 この建物が建てられる前年(.)台北は未曾有の暴風雨に見舞われ、家並みの大半が崩壊するという惨事となった(.)これを機に大がかりな都市計画が練られ、町並みは一新された。この建物もその際の整備計画に従って造営された一棟である(.)明治43年(1910)に合資会社「高石組」の本店として台北城内の北門の撫台街1丁目82番戸(.)現・延平南路)に建てられた洋館で、台北駅の西側に位置する(.」)建物の一階部は石組みの半円アーチで日差しや雨を避けるための「騎楼」または「亭仔脚(ていしきゃく)」と呼ばれる台湾式アーケード。石組みが基本で、火災にも耐えうる。二階部は木造となっており(.)屋根は銅葺で、優雅な雰囲気が醸し出されている洋式建築です(.)なお、用いられた石材は(.)台北城の城壁を撤去した際に切り出され転用されたと伝えられている(.)戦時色が色濃くなった昭和15年(1940)には30年続いた高石組を廃業し(.)日本酒「富久娘」輸入販売もしていた酒造業者の佐土原商事(.)佐土原吉雄社長)に社屋を売却している(.)昭和20年(1945)第二次大戦で日本は敗戦した為に台湾の日本人は本国に引揚げ(.)この建物は中華民国政府に接収された。そして長らく警備總部(.)そして国防部の管轄下に置かれていた(.)さらに後には、民間に払い下げられ、漢方医学の診療所となっていた()1997年には台北市から歴史建築として古蹟の指定を受けたが、隣宅の火災によって、建物の木造部分が焼失(.)その後は長らく放置されていた(.)5年間の修復工事が行われ民国98年(2009)(日本暦平成21年(.)には市史跡となり資料館として一般公開された(.)なお、現在、この一帯にはカメラ機材を扱う店が軒を連ねており(.)「台北照相街」(カメラ・ストリート)と呼ばれている。 松山新店線・北門歩いて5分(.) 
 
 

騎楼は商店街の建物に多く採用されている 
 
二階窓と屋根窓

1階を裏に出た場所に階段がある 
 

 1階展示室
2階室
屋根裏の様子
 
明治期の農工銀行前から高石組本店のある旧大和町通りの写真。
 
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              旧台湾鉄道ホテル(空襲で破壊され現在の台北駅前の新光三越の敷地(.)
  明治40年(1907)、縦貫鉄道開通に合わせ(.)台北駅前に3階建て客室数30、プールやテニスコートなどもある台湾鉄道ホテルができた(.)ロビーは45坪程度の広さがあった。その奥には中庭を隔てて大食堂があり(.)ここは250名あまりを収容できる宴会場でもあった(.)立食のスタイルであれば500人の規模でも可能だったという(.)設計は台湾総督府土木局営繕課技師である野村一郎と鉄道部技師の福島克己()施工は大倉組(.)現・大成建設)が請け負った。敷地面積は3069坪、建坪は620坪(.)経営は交通局鉄道部が直接行なっていた。備品や調度品はすべてイギリスから調達され(.)食器類はもちろんのこと、便器や洗面台までもがイギリス製で統一され(.)ワインなども種類が充実していたという。その高級ぶりは広く知られていた(.)ホテルの営業開始日は明治41年(1908)11月1日()宿泊客の第1号として名が記されたのは閑院宮載仁親王だった(.)親王は台中の式典に参列した後、台北に戻ってここに宿泊(.)台湾神社を参拝した後に晩餐会が催されている(.)昭和25年(1945)5月31日午前10時から始まった空襲で建物は被弾し(.)火災により3日間にわたって建物を焼き尽くした(.)現在は旧ホテルの敷地に新光三越ビルが建っている(.)
   
   
 
 ①台北市北部・北投温泉と円山駅周辺       本ページ ③台北駅周辺と東部方面の建築物の旅 
 ④台北市官庁街の日本統治時代の建築物  ⑤台北市西門と萬華区の建築物の旅  ⑥台北市南部中正区と大安区の建築物の旅

        庄福BICサイト  引用文献  大正2年(1913)新高堂書店発行・村崎長昶発行者の「台北写真帳」  東京人的台湾散歩 台湾懐旧 1895-1945 絵はがきが語る50年
                       片倉佳史著「日本統治時代の名建築を歩く」「台北の歴史を歩く」・各建築物・施設の紹介パンフレット・案内板

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