高田町のお宮とお堂
庄福BICサイト   福岡県みやま市高田町  18・3・88更新
合編
お宮とお堂
水上校区
清水校区
上庄
本郷校区
下庄校区
大江校区
南校区
                  高田町のお宮
①熊野神社 ②天満神社 ③八剣神社
帝神社     海津 ⑤水天宮    海津字海門 ⑥阿蘇神社    海津
⑦竹飯神社  竹飯 ⑧水天宮   渡瀬 ⑨淀姫神社  江浦
 八剣神社 淀姫神社境内  高良社   淀姫神社境内  大日社  淀姫神社境内
 稲荷神社 淀姫神社境内 ⑩お地蔵さん   江浦 ⑪弘法大師
⑫乳観音    垣原  厳島神社(いつくしまじんじゃ) 黒崎  宝満神社    北新開
 九体神社       岩津
  準備中
 高木天神社      高木
 祭神は高皇産霊神である。延喜式筑後神名帳に「元慶二年十三日授筑後国高樹神従五位上。」と古来より高貴な御方を祭祀する神社として崇敬された。神社は高木の前方後円墳の北側中腹にあり、古墳との関係があると思われる。
 森山宮         田尻陣内
  準備中
  八幡神社      今福
  準備中
 熊野神社 (植生国玉神)    上楠田字羽広
大同年間(806~809)の勧請で筑後神名帳に正六位上、植生国玉神であろう。。大同年間は窯業も盛大に行われ、又祭祀なども厳に行われている。良質の粘土で土器を作る人がこの恩恵に感謝して祭祀せる神社である。古代窯業の史跡や権現祭祀の盛んな昔を追憶させる幾多の資料が残っている。
 上楠田天満宮 (栗栖田神)   上楠田
筑後神名帳に正六位上、栗栖田神で、後年三毛郡一円の守護神と仰ぎ、又山野の開拓の神として崇拝された。境内には生茂った楠木の老木がある。栗栖田神は栗栖族の氏神で崇敬の中心である。そばの古墳の参拝所で後年社殿を創建した説がある。清和天皇の貞観元年御勘定、社殿は真に荘厳な構えである。天保4年より3年間庄屋の坂口文作樺島半蔵樺島五兵衛は改築に尽力した。鎌倉鶴岡八幡宮と規格が相似てるところあり。社殿には古い絵馬があり、俳句奉納数十枚ある。往古は三毛北郡の総社格であった。12月25日の祭礼の日の早朝には、400年の歴史を誇る「上楠田しめ縄送り」の神事があり、藤カズラを芯にして作った、直径45センチ長さ6メートルもの大きさの大しめ縄をたずさえ、鐘(かね)や太鼓の祭り囃子(ばやし)とともに地区内を駆け巡り、五穀豊穣、無病息災、家内繁盛を祈願したのちに神社の奉納される。
境内には 樹齢約数百年以上と推定される大藤棚がありは毎年4月の中旬から5月の上旬になると甘い香りを漂わせ、見事な花を咲かせて訪れる人を楽しませている。境内から左に山道を登ると石神山古墳があり発掘された武装石人舟形石棺が安置されている。
 
  しめ縄送り

             大藤棚 石神山古墳
 熊野神社    濃施宮の谷    
天正2年の鎮座である。
 八剣神社     渡瀬
祭神は素佐鳴命。元禄元年の勧請で、京都八坂神社の御分霊を祀る。古来藩主の保護を受けて毎年藩主の武運長久を祈った。神事としては大名の参勤交替にちなんだ若殿様の行列及び大蛇山、花山がある。水天宮も祀られ、祭典には御幸あり、また農具市も開かれた。
 帝(みかど)神社   海津
太神長島部落と下小川部落の西に入りこんだ海津の部落にある。地名が示すようにこの地は有明海の満ち潮が入り込みここも渡来人の上陸した地域である。海津の水天宮の北西50mの田んぼの中にある。帝(みかど)の名がつく古代からの宮でこの地を行幸した天智天皇を祀ったと思考できる宮である。
⑤水天宮     海津字海門
水天宮 梅津は、昔は港として栄えた場所である。。 奈良時代の宝亀9年(777)には、官道の狩路駅の水駅とされたところである。 飯江川と大根川の合流点。常に水害に悩まされてきた。 明治十五年旧2月25日大洪水があり、飯江川の橋梁が流失。全家屋60%が床上浸水。 村会で海津橋流失現場の川の流れを調査するために青年数名を泳がせたら、一名が水死し人柱となった。 そこで、水天宮を勧請し海門の江越川の一小島を拡張して橋に結び社殿を建立し水難の守護神としてお祀りした。  昭和十年代までは、5月5日の祭礼日には道路に数十軒の露天商が並び賑わった。 水天宮横の田の中に舞台を掛け、芝居が5から6日興行された。家々では、祝宴が続いた。水の神さまとして、深く信仰されてきた水天宮では、河童は、福を運ぶ喜ばしい存在と考えられ、筑後地方では水難除けとして、多くの宮に祀られています。脇を流れる堀には、わらで作った大たこ大いか盃、と、竹作りのひさご(徳利)、を笹竹に吊るして川岸から川上にたらすように供えられて祭を盛り立てている。
⑥阿蘇神社     海津
延元2年(1337)多々良浜の合戦に敗れた阿蘇小二郎惟澄これずみが、ようやくたどりついた筑後大木の里で、大木城主壱岐守貞守の手厚いもてなしを受け、暫く滞在して休養をとった。惟澄は城主の誘いもあって、海津古川の木の下郷に阿蘇神社の分霊を奉祀し、子孫代々神社に奉仕して村民の振興を集めた。
下って元和8年(1622)海津北阿蘇田の現在地に移転し、南北海津の氏神として今日に到っている。元禄13年(1700)建立
       
     
⑦八幡神社     竹飯
竹井城の祈願神社としての八幡宮であり戦国時代の田尻氏の寄進の肥前型鳥居であるとされている。祭礼は10月10日に行われ、奉納花火は仕掛花火の稲すり、お城、万穂などは有名で、九州有数の花火生産地ならではのものである。柳川藩主立花宗茂公が朝鮮の役凱旋後、竹飯八幡宮に祈願成就のお礼に煙火を奉納したのが始まりと言われる。
竹飯稚児風流(市指定無形民俗文化財)は頭にシャグマ、和装姿に赤青のタスキがけ、手甲、脚はんわらじがりで太鼓をたたき舞う。五穀豊穣、悪疫退散、稲虫退除の祈願が含まれる。 竹飯の風流は、子どものみで行うところに特色がある。

      
⑧水天宮       渡瀬
祭神は、安徳天皇。護符は、久留米の水天宮から授けられる。 水難に霊験有り。子供が水天宮のお守りを首からぶら下げる。 八剣神社(祇園さん)の傍らにあり、露天や農具市で賑わった。 人々は石段を登り参拝。お守りをもらう。氏子は甘茶を売る。福引きもあった。
 淀姫神社      江浦
祭神は豊玉姫命で海神、豊玉彦神の女で、彦火火出見尊の妃(神功皇后の妹君にあたる淀姫との説ある)・ 底筒男中筒男上筒男筒男三神・ 天児屋根命である。
永禄12年(1560)筑後領守護職の豊後国の大友宗麟の家来の永江方家江浦に居城し、敵の肥前の龍造寺の偵察に行き襲われ河上神社の方面からの兵に助けられ方家帰陣後、肥前の河上神社の御神体を奉載して江浦城の東北の位置に社殿を建立し御神体の與止日女神(淀姫)を祀る神社を御鎮座したとある。天正16年立花宗茂の弟である高橋統増が江浦城に入城した時に、社を現在の地に遷し神殿、拝殿、楼門を新築した。
御祭礼は10月16日で御輿が江浦の全町巡幸され、遷宮されてきた。
       
 八剣神社(祇園神社)     淀姫神社境内
祭神は素戔嗚尊・(すさのおのみこと)である。祇園祭に出来る大蛇山車は、三池町、渡瀬、中島のものと同じ型で旧三池街道筋に見られる独特の型である。祭りは旧暦6月15日であったものを現在は7月第3土曜日と改められた。殿様行列、仁和加、芝居、目玉争奪戦は中止となっている。
二の丸吉原大蛇山車の起源は宝暦年間(1755)と思われる。大太鼓1人、小太鼓1人、鐘1人、四本柱4人、屋根上1人、大蛇がぶり3人、挺子16人、花火1人、松明若干名、後廻り若干名、その他大綱大勢「山車廻し」が行われる。幼児を大蛇にかませれば丈夫に育つとされている。「田中の踊り山車」は花山車に、三味、太鼓の囃子方にあわせ、十数名の美妓、名妓が、流行物から昔物まで、交替で踊って行く。明治末までは三段山車であったが、現在の山車となる。
屋須多神社も合祀されている。1月の「臼(うす)かぶり」神事は火災よけ・悪病退散の祈願とそて始まったもので、家毎に出してある木臼を次々に抱え上げて逆さまにし、体を後ろに反らしつつかぶり投げる。うまく臼を後ろに撥ね飛ばすと観衆の拍手と歓声があがる。町中駆け巡り、水の掛け合い合戦もさかんであったが現在は中絶状態である。 
        
 高良社     淀姫神社境内
祭神は武内宿袮である。
 大日社    淀姫神社境内
祭神は大日如来である。
 稲荷神社    淀姫神社境内
祭神は倉稲魂である。
            淀姫神社境内入口
   調査編集中!                      
 八幡神社         江浦宮の西
 準備中
⑩お地蔵さん      江浦・二の丸吉原
7月9日の地蔵さん祭は小学生の子供たちで行われ「じぞさんにめーてくだはれー」のおらび声で通行人を呼び止める。榎の下から猿田彦さんの横のばんこへ御開帳の地蔵さんは真新し胸掛と袈裟(けさ)姿になり、平木菓子屋のらくがん(米の粉菓子)や西瓜、梨、ブドウが供えられ線香の香りがたちこめる。賽銭を上げて拝んだ参拝者に新聞紙でできた三角袋に詰めた豆菓子と甘茶の接待が出ていた。江浦には他に古町、新町、田中、吉原、前開のお地蔵さんのお堂がある。
    猿田彦さん
⑪寒土神さん       古町北
古町北三叉路に石の祠に祀ってあり、土地の人は寒土神(かどじん)さんとよんでいる。祭神や由来建立も不明であり僅かに残る言い伝えでは、昔、熱病流行の時に祀ったと言う。地元では毎年、秋の吉日にお祭が行われる。
⑫乳観音    垣原
いつ頃から、お祀りしていたものか不明だが、現在のお堂は昭和40年建立で、大きくはないが立派に出来ている。立派な乳房をお持ちで、とても柔和なお像である。御参りすれば乳の病が治るといってお詣りが多い。
 厳島神社(いつくしまじんじゃ)       黒崎開
元禄6年(1693)柳河藩三代藩主立花鑑虎あきとら公(英山)が社殿を創立する。その後広島県の厳島神社を勧請し、現在に至る。
天保12年の刻銘のある石の鳥居を入り、神門をくぐると拝殿の背後に本殿が建っているのが見える。拝殿も本殿も嘉永2年(1849)に建てられたものと伝えられる。
拝殿は桁行三間、梁行二間の入母屋造りである。四手先斗栱
してさきますぐみで支える飛勾
総円柱で造られ、四手先斗栱で支える拝殿は県内でも珍しいものである。
本殿も特色があり屋根を寄せ棟造とし、妻入りとしている。元来、寄せ棟造りは寺院建築に使われており、神社建築では珍しいものである。
 宝満神社       北新開字古賀
建立は定かでないが、四百数十年余の昔、筑前国の竈門宝満神社を勧請し建立したもので、一時荒廃していたが、文禄元年(1592)太閤の命により、柳川藩主立花宗茂公が朝鮮出兵に当たり宝満宮を再建し、武運長久を祈願、文禄3年無事帰還し銘刀を奉納する。
寛永17年(1640)に柳川藩のお抱え能楽師が能の奉納を行い、それ以降毎年続けられるようになったという資料が残されている。また一説では、享保元年(1716)4代藩主鑑仁(あきたか)公が御願成就のために、藩能楽師達により神前に奉納されたのが新開能の発祥と語り継がれている。
明治2年藩籍奉還後は、両新開氏子により継承され、昭和51年喜多流農民能(県指定無形民族文化財)として、例年の大祭には氏子達によって能楽を奉納する歴史と伝統を有する宝満神社である。平成16年老朽化のために、旧神殿、拝殿の設計で改築された。
         
   常磐神社     永治
   準備中

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