福岡県みやま市瀬高町(大江校区)   平成18年2月3日更新
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                  大江校区のお宮(神社名クイック)
@「大江天満宮  大江 A観音堂  大江 B若宮神社 有富
C真木天満神社 真木 D地蔵堂  真木 E馬頭観音 真木
F広安天満神社 広安 G妻の神  広安 H大木八幡神社 大木
I宮園天満神社 宮園 J八幡神社 北広田 K松延天満神社 松田東
L上小川八幡神社 吉井 M印天満神社  堀池園  N観音・地蔵堂 上小川
O山下の墓と恵比須さん上小川 P天満宮・稲荷社・屋須多神社上小川 Q稲荷社・天満宮・屋須多神社東町
R恵比須さん 東町・吉井 S地蔵堂・恵比須 吉井 21天満神社 吉井
22天満宮   松田
              
大江校区のお宮】
 大江天満宮(幸若舞の継承地)  大江
わが国の中世芸能として、約700年の伝統に輝く幸若舞は歌舞伎をはじめ、すべての芸能や文学に大きな影響を与え日本芸能史の研究に注目されています。源義家七代の孫直常の孫直詮(幼名、幸若丸)1393年越前国(福井県の朝日町)に生まれ10才にて比叡山で修行した。生まれつき音曲に巧みで、物語に節をつけて歌い幕府のあった京でも評判になり、その舞を幼名の幸若丸から幸若舞と呼ぶようになった。幸若丸の孫弟子の山本四郎左衛門が「大頭舞」で一流を極め、さらに孫弟子の大沢治助幸次へと続くが1582年に筑後の豪族の山下城主の蒲池氏に招かれ西下し、その家臣に舞を伝えた。その後、筑後一円に広がって伝えられ、大江では天明7年(1787)松尾平三郎増墺(ますおう)が系譜、装束、直伝正本をついだ。その後は代々、松尾家を中心として村内に継承してきた。伝わった舞曲は主に軍記物語で「平家物語」「曽我物語」「太平記」等を題材としている42番がある。1722年に書かれた「八島」が一番古く室町時代の言葉を伝えており仏教用語が多い。鎌倉の地のすばらしさを謡う「浜出」や「扇の的(那須与一)」、「夜討曽我」、「日本記」「高館」など八演目が大江で舞われ、国土安穏、五穀豊穣を祈願し奉納されている。昭和51年国の重要無形民族文化財に指定された。
    
@大江天満宮    大江
944年の神名帳に「大江神」があり古代からの宮で天満宮の本来の祭神は大江を流れる川、すなわち水の神様だと思う。982年大江の神が大江天満宮の名称に改められ、祭神が菅原道真になった。拝殿の額には、大宰府神社とあり、古棟木札には、治歴7年(1067)11月、建長7年(1255)12月、天文21年(1552)8月、延享2年(1745)正月、の再建の記載あり。昭和12年11月12日有冨の若宮神社と合祀され水波真命も並祀された。大江天満神社の例祭は12月15日に行われる。正月は直径60cmの大しめ縄が飾られる。太平洋戦前は青年団により直径1m程の大しめ縄であったが現在は座組で製作されている。鳥居の右側には馬頭観音さんと恵比須さんが石の祠に祀ってある。
境内の幸若舞堂有富の元のお宮(若宮神社)の建物を大正2年に移し建てたもので、毎年1月20日に幸若舞が奉納される。
A観音堂       大江
玉泉寺の入口に観音堂と地蔵さんが祀られている。春と秋のお彼岸にはお遍路さんが訪れお参りにこられる。
   
  
B若宮神社(有富のカッパさん) 有富 若宮の由来は【総合編】へ
有冨地区は昔から開けた土地で、今から二千年も前に海人族が渡来し、縄文人(原住民)と交流同化して、新しい渡来文化、技術を教えながら、部族の勢力を拡大してきた土地です。この宮には干珠、満珠の玉を棒持した女神を囲んで19体のカッパさん像が安置されている。カッパ像は腰に布を巻き、一人ひとり色々は品を持ち、各像とも変った表情をした珍しい神像群である。女神は綿津見神(安曇族の祖)の娘、豊玉姫(姉)と玉依姫(妹)で、カッパ像が一門の部族男子を表現したものという。有冨の地区名は安曇のなまった呼び名と言われている。祭神は中央に若宮神、右側に春日神、左に天満神が安置されている。古来この宮一帯は大江神の鎮座する所であったが後に大江、真木、金栗に各々お宮を建てたので有冨のみのお宮だが、元来は元神である。寛政10年旧柳川藩神社帳及びその他には、「有富村若宮神社云々、荒神社(産土神)一反二畝御免地小社春日神社天満神社云々、祭神仁徳天皇例祭九月十八日、社地面積五二九坪ありと云々」とある。明治6年村社に被定。祭神仁徳天皇は森添に無資格社若宮神社としてあったが明治45年合併した。昭和8年天満神社より若宮神社と改称。祭神天児屋根命は、同神社境内に春日神社としてあったが昭和8年合祀された。社殿の梁は、奇神とも思える彫刻で支えられている。これは「カッパ」と言う説もあるが、「力神」とも言われている。例祭は10月25日(宮前)10月15日。
C真木天満神社    真木
菅原道真を祭神とする、創建は不詳。例祭は11月15日に行われる。明治6年村社に被定。境内の一隅には、古くから祀られていた「天神さん」が、昭和9年、内屋敷より遷祀されている。神社の東北に塚がある。10月16日塚さん祭りが行われている。9月の第二日曜日は、子供相撲三十三番が奉納されている。
       
D地蔵堂・観音堂   真木
野田酒造の東側にある地蔵堂で石造の古さから百年以上昔からから信仰されたものだろうか。8月24日に男子小学生により地蔵まつりを行っている。女子小学生は近くの観音堂で観音まつりを行っている。
    地蔵堂
E馬頭観音   真木
真木集落の東部の旧道沿いにある馬頭観音さんである。昭和30年代頃までは田畑の農耕を馬で農具を引かせて行ない。家族同様、大切にしていた。天和3年(1683年)、柳河藩主第3立花鑑虎が設けた馬の放牧場のある山川町お牧山の山頂の馬頭観音にお参りしていたもので、その分霊を祀ったである。
     
F広安天満神社    広安
創建は宝治2年(1248)2月建立。江戸後期、安永4年(1775)に再建された当天満宮の棟木には、一部不明だが願文が書かれている。「奉再建筑後州山門郡本吉荘広安村天満宮宝殿一宇太守従四位下立花左近将監家老」などが残されている。明治6年村社に被定。例祭は10月15日で社殿は権現造りである。
     
G妻の神(さやん神さん) 広安
広安温泉場の西南50m位のこんもりとした森の中に「妻の神」と彫った石碑の祠がある。その神には男性根を奉納してあって、やはり各地区にある「寒(サ)の神」(筑後地区で言う、さやん神さん)のことと思われる。古代から五穀豊穣、家庭円満、子孫繁栄、無病息災を祈祷するために祀られたものである。清水本肪の前にも寒の神で佐与子姫社と書いた祠がある。古代人は人間創造の原動力は男性に限ってある力という観念から男性器像を創り祈願した様であるが、陰陽のバランスこそ家庭円満の基点になるものと思う。平安初期にカナが発明され、神のその字がサの字に見えるために太陽の神をサの神というようになったとも言われています。鳥居の形はサの字の上に屋根を葺(ふ)いた姿である。毎年、氏子の間では暮れの24日、神前にお強飯(こわいい)や酒肴を供えたあと、これを引いてたき火を囲みながら飲み交わす祭りがおこなわれる。
                             
H大木八幡神社  北大木
柳川城主蒲池氏の祖先は、関東下野国宇都宮三郎左衛門尉朝綱である。治承4年(1180)宇治川の合戦のとき、強敵を討ち、その功にて筑後国を拝領した。その子兄弟3人は鎮西に下向した。宇都宮検校弥三郎頼綱は山門郡大木村に在城し、土中に七節ある八幡竹を持参して来て、社殿を建立し、周囲に竹を植えたものと言う。現在でも、社の境内四周に竹林がある。その末裔である大木知光(統光)は柳川藩主、蒲池鎮並の戦死後、筑前に往き、追腹しようとしたが、龍造寺に止められ、遂に、鍋島に仕えることになったと言う。社内に八龍社と天満宮があったが、八幡宮を崇拝し氏神に替えたので、その側に、天満宮を祀ってある。旧藩時代は八幡竹20本を藩に献上していた。四代藩主艦虎が愛育の鷹が無事戻る祈願が叶った礼に奉納した「松の上の鷹」の絵が最近まであった。
    
 子飼(こがい)観音(マリヤ観音)  北大木(大木八幡神社境内入口)
山本越前守秀房の子、山本右京大夫秀保、出羽国から豊後に来て海部、大方の2郡を領し、田崎村に居城し氏を田崎と改める。
田崎民部秀門天正2年(1574)8月島津氏と戦い落城する。その子、保時は大友氏夫人菊子姫にお供をして大木に寄寓する。菊子夫人の墓は瀬高町禅院の建仁寺にあるが、北大木の子養観音様(マリア観音)は、その当時のものであると伝えられている。
    
I宮園天満神社  宮園
創立は明らかでないが建久年間(1190〜1198)とも言う。嘉禄2年(1226享保8年(1723)に再建の記録あり。祭神は菅原道真、である。例祭は10月25日(宮前)10月15日に行われる。境内には社日神社保食神=うけもちのかみ.穀物の神屋須田神社図象女神=みずはめ二五日神田の神様)田の中より遷神、(12月25日祭)の社もある。明治6年村社に被定
    
J北広田八幡神社      北広田
944年の神名帳に「泉澄神」があり当社付近に祭祀されたものと考えられる。「泉澄神」というのは、この地に清水が湧き出る(清水山の副流水)泉があったことから、きたのであろう。そして古代の駅家もこの近くにあったと考えてよいだろう。現在の神社の祭神は仁徳天皇で、創建は不詳である。明治6年村社に被定。社殿は権現造り、敷地202坪。境内には天満神社(菅原道真)、宮地獄神社(商売の神様)、猿田彦大神(道祖神)、社日神(保食神.穀物の神様)、馬頭観音(御牧山馬頭観音の分霊)が祀られている。例祭は10月15日に行われる。
K松延天満神社        松田東
創建は寛弘2年(1005)と伝えられているところからも、その由緒の古さや格式の高さを知ることができる。松田集落の北部にあり、松延城跡の東方「東二の丸」に鎮座している。この社は松延城の守護神として古くから崇拝されてきた。永禄から天正にかけての戦火にかかり、旧記、蔵宝などはほとんど焼失したといわれる。それまでは、余程の大社であったらしい。現在は社宝として、銅鏡1個、短刀2本、掛軸1軸が残っている。銅鏡は直径9.2cm厚さ0.3cmで、「抱き茗莪(みょうが)」の紋所と「信心大施主立花右近将監源朝臣忠茂」の文字が刻まれ2代柳川藩主立花忠茂が奉納したものであろう。掛軸は損傷がひどく、むかし、戦国の武将が神社に寄進した「祈願文」のようである。秀吉の九州平定により天正12年立花宗茂は柳川に入城したが、その年、筑前大宰府の神霊を松延に遷し、天満神社の中興を図った。そして、領主立花宗茂祈願所として、社領15石を寄進した。本殿や楼門は改築されているが、正面の紋所は、立花家の「祇園守」の紋で、歴然と立花宗茂公再封後のものである。そして柳川藩の年中行事では、寺社奉行が11月20日に代参するのが恒例であった。 鎌倉時代以降より民衆的な講が始まり江戸時代には天神信仰が深化し下坂田・松田・大木集落でも天神講社が盛んになる。新年には大宰府天満宮に詣で大麻頒布式(御札を頒布するお祭り)を終え、自宅神棚に大麻札をお供えて信仰していた。近年まで、天神信仰の「飛梅講社」は続いていた。境内には稲荷神社商売の神様.農耕の神様)、森山神社山の神様若宮神社水や馬の神様屋須多神社火の神様)、お瀧神社お産の神様弁財天音楽.弁舌.福徳.知恵.財宝を司る美しい女神井手天神(昭和59年他所より遷祀)がある。
L上小川八幡神社    吉井
上小川、吉井、東町の氏神様である。鳥居のは正八幡創建は不明。祭神は応神天皇武内宿弥住吉大神明治6年村社に被定、昭和11年9月神饌弊帛料供進指定。永井新著「柳川藩史料集」によれば、「鷹尾文書」に見える「正八幡宮」は当社のことである。祭礼は11月1日(現在は10月最後の日曜日)に行われ、社殿は権現造りである。境内には明治10年の記のある鳥居と狛犬があり、この年に神社の改修を行っている。特に社殿の彫刻はすばらしいものである。
M印(いんやく)天満神社  堀池園 
和銅5年(712)道君首名(みちのきみのおびとな)新羅(朝鮮)大使に任命され、帰国後の和銅6年(713)筑後守となって肥後守兼任し農業生産をあげるために尽力した。首名の加賀国(現在の石川県)の祖先が取り組んだ農業政策をまねて、新しい技術を伝え名国司として仰がれた。その功績をたたえる為に道君首名を祀ったともいわれている。
参道左には牛神が鎮座し、堀池園には、現在でも印鑰と言う小字の地名が残っていて、古い時代からのお宮と推測する。印鑰さんと呼んでいるが珍しい名の神さまで、印鑑と錠前を持った財政の神様として、崇敬されている。堀池園の場合、祭神は伊佐奈岐命であるが、その外に、宇多大畝名命宇多阿延姫命大国主命あるいは大臣武内宿弥などが祀られている。
現在の社殿は大正時代に大分県の馬上金山で金脈をあて、大富豪になった成清博愛氏の寄進によるものです。建物は獅子や象や波の中の亀の見事な彫刻で飾られている。その見事な出来映えを見学に来る宮大工も多い。内部天井には痛みがひどいが源平合戦の板絵が張られている。堀池園の印(いんやく)神社は堀池園1333番地に、鎮座していたが天満神社と昭和37年に合併したが国司所在の神社として、由来があるので、天満神社と合祀する上は、社名保存のため、「印天満神社」に改称した。例祭は9月23日の秋分の日に行われ境内で子供相撲が奉納される

印やく神社の「やく」は、「鑰」という難しい字を書きますが、これは「かぎ」を表しています。印やく神社は、その昔この地方を治める国府の印とかぎを祭ったところで、この印やくは国府の倉庫のかぎを意味しており、国の役人がそのつとめを果たすのにもっとも重要なものだったのです。印にゃくと発音する神社もある。この神社は熊本・宮崎・石川にあるが全国的に少ない。福岡県では、山門郡に多く、瀬高町に5社、高田町に1社があるようである。
N観音・地蔵堂 上小川
山下の墓横の小堂には地蔵像3体観音菩薩像彫り込みの石碑2基がある。観音菩薩像彫り込みの石碑は長年の風化で見えなくなっているが片方だけ観音像の線刻を確認できる。いずれもかなり古い年代の建立であろう。8月9日は観音さん祭り8月14日には地蔵祭りを小学生が行っている。春と秋の彼岸の時期には現在も遠方から30人位の方が参拝に訪れる。いつもお花を絶やさず信仰されている。
 
    
O山下家の墓と恵比須さん 上小川
寛文9年6月1日(1669)に亡くなった藤原の公家の血統とされる山下藤兵衛尉を祀る。石碑には「山下元祖霊墓」とあり、明治28年7月再建とあり、旧街道沿いに210坪の敷地あったが、上小川〜大江の新道路建設のために狭くされ現在地に再建されたものと思われる。また上小川の部落に山下性が多いのは、山下藤兵衛尉の屋敷があり、山下家の領地の集落であったと考察できる。上小川の部落だけで9月14日「よど祭り」としてお祭りを行う。
隣にはエビスの祠があり旧街道筋(肥後街道)の繁盛ぶりを思わせる。
             
P天満宮・稲荷社・屋須多神社  上小川
上小川〜大江線の北よりの道路角にお堂があるが神社名が記されていないので、知らない方が多い。お堂の中には3つの石の社が祀ってある。東側の天満宮の祭りは9月25日に行っている。中央の稲荷神社は農耕の神様。本社の京都の伏見稲荷の神が降りた旧暦の2月初めての午(うま)の日(現在は新暦の日)に初午(はつうま)さんの祭事を行っている。この日を蚕や牛、馬の祭日とする風習もあった。全国の稲荷社(稲荷神社)はこの日に祭礼を行う。西側の屋須多神社は火災除けの神様である。12月1日に祭事を行う。8月14日はお堂の前では近くのお地蔵さんの為に小学生が地蔵まつりを行う。参拝者に接待豆をあげ、町内に「地蔵さんに参ってはいよ〜」と勧誘に回っている。
             
Q稲荷社・天満宮・屋須多神社   東町簡易郵便局裏
東町簡易郵便局の南路地を入ると赤い木造の祠の中に右から初午さん(稲荷社)中央に天満宮・左に屋須多さんが祀られている。初午さんは2月初めての午(うま)の日に祭礼を行っている。学問の神様、天満宮は9月、火災除けの神様は屋須多神社は火災の多い12月に祭礼を行う。
   
    
R恵比須さん    東町・吉井
国道443に平行して南側を走る道路が昔の肥後街道である。東町公民館から満福寺までの肥後街道は明確に残っていないが満福寺正面からから東に街道が走り二の丸橋で川沿いにそって南に曲って山川町方面に向っている。東町・吉井に恵比須さんを祀っているのは、明治時代までは商店が建ち並ぶ街道沿いであった事を物語っている。
   
東町  吉井集落入口
S地蔵堂・恵比須さん(左)  吉井
吉井の昔の肥後街道沿いの地蔵堂で旅人の安全を祈るお参りが盛んであったであろう。春と秋のお彼岸にはお遍路さんも訪れ地蔵まつりが行われている。左隣には恵比須さんが祀られ肥後街道の商店の建ち並びを想像させられる。
   
21天満神社        吉井
吉井集落の天満宮で祭礼は9月25日に行われている。シロアリの被害で平成16年に再建され、立派な神社になっている。これも吉井の皆さんが昔から引き継がれた信仰の文化を大切にしている賜物である。
   
22天満宮    松田
松田集落の天満宮である。二の丸橋の傍にある。右側には恵比須さんを祀ってある。この前を通る吉井からの肥後街道はここから南に曲がり山川町方面に向う。
   
 地蔵堂     松田
    
 観音堂     松田
    
瀬高町誌・大江小学校創立百周年記念誌大江小学校の歩みと郷土(S62)、地元郷土史会員資料・現地取材・撮影により製作しました。地元関係者の功績と協力に感謝いたします。  管理者・庄福
   本ホームページ掲載記事の無断掲載はお断りします。

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