庄福BICサイト     【禁無断転載】          福岡県みやま市山川町立山  H24・12・29製作 
  大字(おおあざ)立山(たちやま)は国道443号の東の丘陵に広がる、屋敷・西潟(にしがた)・赤山・日当川(ひゃてご)の4集落が点在するのどかな山村です( )山川町では川を「ご」と発音します。例えば、日当川(ひあてご)、待居川(まてご)、谷川(たにご)と言います。しかし近頃では日当川は標準語で「ひあたりかわ」と呼ぶ若い人が増えている( )山には黒ヶ谷池・所坂池・赤谷の池・青青(せいせい)の池があり耕地を潤おし飯江川(はえがわ)に流れ込んでいる。二本松・赤山・日当川(ひゃてご)・原町・立山などの古墳群が分布する。黒ヶ谷池の東、蒲池山池に近い黒ヶ谷古墳群からは須恵器(すえき)の横瓶・高杯・杯などが出土して、古代人が住んだ痕跡(こんせき)がありますここの古墳群の数ははっきりした数がつかめていないが数基ある模様です。6世紀後半の横穴式円墳であり、まだ完全に破壊されていない貴重な古墳群です(.)明治22年に立山村は尾野村・原町村と合併して富原村が誕生しました。明治40年には周辺の村と合併して山川村が誕生しました。昭和44年4月の町政施行により山川町となりました(.)
     赤山(あかやま)古墳群    立山 赤山

@赤山横穴古墳は山川農村広場斜面、昭和33年(1958)のがけ崩れで、中学校の学生が発見した。鉄刀1、馬具、(よろい)金具1組、辻金具(金銅地金張り)1組、(くつわ)1、鉄(やじり)14本、須恵器の杯が出土。6世紀後半の横穴古墳でした。調査資料は資料館所蔵(.)
Aその他の古墳で現在確認されたものは6基だが、いずれも未確認・盗掘を受けています。6世紀の円墳と考えられている(.)
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   五輪塔群(平家の塔)  JA山川入口・立山973の1番地
 以前、この付近の葡萄畑に散在していたものを、ここに集めて、地域の人々によって祀られた供養されてきました(.)JA施設建設に伴い平成5年に調査したが、誰の供養塔かは不明。もとは11基以上あったと思われますが、現在はっきりしているものは5基です(.)最も古いものは東端の宝塔(残欠)で鎌倉時代の最後(1310〜1340)頃のもので、その他は室町時代1440年代のもので、何れも天台宗系統の五重塔であることが解りました(.)この五輪塔群には平家の塔という伝承があり《里人がこの地方の合戦に敗れて亡くなった、平家の落ち武者の霊を祀ったものである。》といわれてきました(.)
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     立山(たちやま)天満宮      立山 屋敷 小字次郎四谷   
 立山の産土神である。創建年代は不詳である。奉納鳥居には天明(てんめい)7年丁未」(1787)と刻まれている。文化4年(1807)11月、宮の下より移したと伝えられているが、鳥居の年代が古いので、天満宮移転前に何かの神社があったか、又は宮の下から移したのが天明7年(1787)以前だったとも考えられます(.)祭礼は10月1日。祭礼の前夜に天満宮から現在高速道路下にある、元神(もとかみ)さんに里帰りの神事がある。祭日の前夜、高速道路脇の宮から、山の上に移った天満宮に帰り神事が行われている。「浮立(ふりゅう)」(市指定民族文化財)は風流(ふりゅう)系の民俗芸能で子供や青年たちにより、大名行列を模した「一本足」の風流があった(.)現在は「ドンキャンキャン)の鐘鳴らしの行列のみとなっている。境内には若宮宮も鎮座している(.)
階段上正面  拝殿   忠臣蔵の天井絵 若宮宮 
     立山天満宮の元神様    立山 宮ノ下(高速道路傍)
 文化4年(1807)まで鎮座していた立山の天満宮の元の場所である。立山天満宮の祭日の前夜、ここから山の上に移った天満宮に帰り神事が行われている(.)祭当日に神事が終わって,ここに帰られる(.)    
      観音堂     立山天満宮階段脇
 立山の天満宮の階段下の脇に石像の観音像が祀られている。傍の地蔵堂には6体のお地蔵さんが祀られている(.)  
      天満宮     立山 屋敷  
 立山の産土神である天満宮の南側にも同じく天満宮がある。創建は文化4年(1807)9月。祭日は9月25日であった(.)同じ山の北隣に立山天満宮が移転する少し前から屋敷集落の氏神さんであったであろう(.)現在は屋敷集落の座元7組が交代で宮の祭日には(.)大根・いりこ・酒などを祭壇に捧げて神官により神事が執り行われる(.)平成3年の台風で鳥居が倒れたが、山下コズエさんの寄進により建造された(.)  
  
   西潟の地蔵堂        立山 西潟
 現在は消防小屋の横にあるが昔は反対方向を向いていたという(.)
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    阿弥陀堂・地蔵さん4体    立山 西潟
 西潟の東にあり、古地図の墓地があった場所ではないだろうか(.)地蔵さん4体の1体は享保8年(1723)の建立で、他の2体は明治12年(1879)、もう1体は明治35年(1902)の建立です(.)
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    慈雲山神宮寺 廃寺      立山 西潟
 元は妙心寺派にして、山門郡建竹井村の八幡神社の社寺たり。宝永2年に黄檗宗(おうばくしゅう)となり福厳寺の末寺となる。(柳川藩志)
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    吉祥寺(きちしょうじ) (天端山)    立山1409 赤山(あかやま)
  蜷藩志中卷・第7節山川村分には、「古来禅宗にて二尊寺の末院なる。三池郡倉永村(くらながむら)にありて、黒崎明神の社寺なり元禄15壬午年(1702)住僧、幽谷が譲りを受けて福厳寺(ふくごんじ)の末寺となり現地に移る。」とある(.)第14節三池郡分の第2項に、黒崎の吉祥寺跡末庵の覧に「淳和天皇、天長3丙午年(826)11月17日に領主の三毛師秀の建立なり。後に倉永に移す(.)以後ただ、寺号ありて、堂舎なし。藩主の鑑通公の頃に融国禅師が正行村(三橋町)に移す。その後河原内村(山川町)に移す(.)この寺は往古の本尊は観世音なり。」とある。融国禅師とは幽谷和尚のことであろう(.)

赤山の当寺の3代和尚の桂国 香和尚住職が書いた寛政6年(1794)5月の吉祥禅寺の再建之棟札や他の資料によると、元禄15年(1702)黄檗宗の福厳寺3代悦堂 逸和尚を開山和尚として初代・幽谷 響和尚が山門郡正行村(まさゆきむら)(現・三橋町)で創建する。享保4年(1719)4月幽谷和尚が亡くなり、2代大溪 和尚となる。元文4年(1739)に山門郡河原内村(かわはらうちむら)(現・山川町河原内)に転住する。宝暦7年(1757)10月大溪和尚が亡くなり3代桂国 香和尚となる。天明4年(1784)10月に柳川府山門縣赤山郷(あかやまごう)(現在地)に移転し、4代恵音 説和尚に代わる。天明6年(1786)12月に仏殿が落成。寛政元年(1789)半鐘(はんしょう)が完成し吊るす。寛政6年(1794)には寝室が落成している。大工は江浦村(えのうらむら)平木攵左衛門とある。5代玄門 登和尚。文政7年(1795)10月には6代法山和尚。7代慈門 真和尚(.)天保12年(1841)9月には8代實存 鑑和尚。實存和尚(田中實存)は慶応3年(1867)に焼失した立花家の墓所・雪峰山(せっぽうざん)霊明寺(れいみょうじ)明治3年(1870)に再興し第15代霊明寺の住職を兼務して、明治10年(1877)11月には9代大輪 法和尚。常盤隆忠和尚の代でも霊明寺の住職を兼務していたが、廃藩により収入が途絶えた為に(.)田畑を開墾により広めて行き、村の娘達の助力で自作自農により生活をした隠居寺として続いたという。現在の仏間には中央に本尊の観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)、左に代々の住職の位牌があり、右の厨子には千手観音(.)仏壇の半鐘には「・・・山門郡赤山村天端山吉祥寺干時(
日時寛政元己酉年(1789)晩春吉晨( )の銘がある。机の全面には立花家の定紋・祇園守紋を中心に左右に札祇園守紋がある。吉祥寺は黄檗宗(おうばくしゅう)の寺で、現在は民家の風情であり、仏間には代々の住職の位牌や霊明寺の書状も残っている(.)裏山には歴代の和尚の墓があり、境内(庭)の地蔵尊一体には「文化十参酉六月吉日(1813)と刻まれている(.)
            
       
 吉祥寺 境内の地蔵尊   仏間   寛政元年銘の半鐘 

 

   
札祇園守紋  観世音菩薩  千手観音菩薩
       
寛政6年の吉祥禅寺の再建之棟札の写し    享保9年の黄檗山からの雪峰山霊明寺への書状  明治時代の霊明寺前和尚常盤隆忠宛の黄檗宗の寺名が残る書状
 
   誓蓮庵東光寺     廃寺   立山 赤山
  浄土宗、開祖不詳。寺地山開畑1反7畝15歩とある。(柳川藩志参照)山川町グランドの南にあったが廃寺となり、往時の石造物も無く畑地となっている(.)
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     山王宮           立山 赤山集落 小字桜谷   
  創建年代は不詳だが、赤山には100石持ちの寒田(そうだ)さんと、200石持ちの(おに)さんが堂屋敷に住んでいたと言う。その200石持ちの鬼さんが山王宮を建ててくれたとの伝承がある。現在も9月の(さる)の日に祭礼が行われている。
 
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     寿福寺       赤山集落 小字白石坂
 宝暦8年(1751)11月27日建立された。禅宗、本尊は十一観音菩薩。現在、正面の建物に十一面観音が祀られて、右脇に閻魔堂がある(.)旧藩の寺院帳写(渡辺家資料163)には古跡は観音堂で、寿福寺は柳川の瀬高町(現・京町)の金剛院を觸頭とする数十ヶ所の一つの山伏寺とある。お堂や境内の平たい陰刻が薄れて判別できない大きな板碑に梵字を刻んだものなどが3基がある(.)

観音堂と閻魔堂(右)  十一面観音  閻魔王  板碑3基 
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    成田山金剛寺        立山 赤山
  千葉県成田市にある成田山新勝寺の別院である。昭和28年(1953)に吉開観法によって創建された(.)赤山集落の南山道を案内板に従って上る。下には山川町のグランドがある。遠くには大和町中島のつり橋も見える(.)    
    日当川(ひゃてご)の地蔵堂      立山 日当川
 山川中学校前信号の先、左手に日当川地蔵堂がある。「安政七戌夭 三界萬霊」(安政7年(1778)と刻まれたもの1体・文化9年(1812)のもの2体がまつられている(.)戦国時代の悲しい由来のある地蔵尊だ。天正7年(1579)、肥後領内で一つの領地を巡り隣接する隈府(わいふ)城主赤星氏と隈部(くまべ)氏との争いが起こり肥前の龍造寺隆信と結んだ隈部氏が勝利した。赤星統家(あかほしむねいえ)は長男の新六郎を龍造寺氏のもとに人質に出して和睦(わぼく)した。しかし、その後佐賀の龍造寺のもとに参礼するように再三呼び出すがそれに全く従わない赤星氏に対し最後の使者を送る(.)あいにく赤星統家が留守だったので、使者は安姫を城主の代理として連れ去った(.)そして、龍造寺氏の意にあくまで叛く赤星氏に対しみせしめの為、新六郎と安姫とその従者を日当川で惨殺した(.)この地の里人達は、他国の地で無念の死を遂げた幼い二人の霊を供養するため(.)ここに地蔵尊を祀ったというものだ。(同じ伝承が、近くの飯江川畔の地蔵渡しのお地蔵さん(高田町)にもある(.)
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 参考文献   松尾龍城著「山川町地方の歴史と伝承」 山川ゆずりは風土記20(山川町商工会)山川歴史散歩(山川町歴史研究会編集)・ 旧柳河藩志・ みやま市観光協会祭り写真提供 
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